フランスから見た一九九九年六月EU議会選挙
その他のタイトル L'election europeenes de juin 1999 au miroir de l'Hexagon
著者 土倉 莞爾
雑誌名 關西大學法學論集
巻 51
号 2‑3
ページ 449‑489
発行年 2001‑09‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/00023566
フ ラ
ン ス
か ら
見 た
一 九
九 九
年 六
月 E
u 議
会 選
挙
二 七 九
本稿は一九九九年六月に行われた
E u
議会選挙を主としてフランスの情勢を中心として分析しようとするものであ
る︒本論に入る前に︑
E u
議会選挙を前にした﹁ヨーロッパ政治の動向﹂を明らかにするためにフランス政治の文脈
( 1 )
からそれまでの経緯と問題点を説明しておきたい︒
E u
議会選挙はフランス政治の中で大統領選挙とか国民議会選挙とは異なった趣を呈している︒しかし︑
政治の一断面を垣間見させてくれるのも事実である︒ジョスパン
J o s p i n
内閣が成立したのは一九九七年であるが︑
その遠因は一九九五年の大統領選挙にある︒この大統領選挙で勝利したのはシラク
C h i r a c
であるが︑彼の勝利した
理由のひとつとしては﹁所得格差の縮小﹂を訴えたところにあった︒しかし︑いったん大統領になると︑選挙民の期
待にもかかわらず︑シラクは首相のジュペ
J u p p
とともに国民に犠牲を説くような方向転換を行う︒ジュペはテク e
ノクラートであり︑彼の政策は専門家にしか理解できないと言われていた︒ヨーロッパ統合にとって大事な通貨統合
土 倉
フランスから見た一九九九年六月
E u
議会選挙
︵ 四 四 九
︶
莞
フ 爾
ラ ン
ス
第五一巻ニ・三号
に参加するためにジュペは緊縮政策を取った︒
(「ニューズウィーク」九七•六・―-)ために失敗が出てくる。
︵ 四 五 〇
︶
マーストリヒト条約が掲げる︑財政赤字を国内総生産の三%に収める
と い う 参 加 基 準 は ︑ Eu 官僚が作ったものである︒それが何時の間にか数字だけが一人歩きをして︑ジュペ内閣は帳
尻を合わせるために、公務員を削減し、社会保障費をカットした(『日本経済新聞』九七•六·五)。そんなやり方は
﹁あまりにも多くのことを︑あまりにも短い期間に行おうとした﹂
フランスの国民議会選挙は五年ごとに行われることになっている︒前回は一九九三年だったから︑次回は一九九八
年にやればよかった︒シラクとしては︑ Eu 統合を目指して︑通貨統合にスムーズに参加するために︑本来ならば国
民議会を解散する必要はなかったのに︑解散を早めて︑国民の信を問うことによって︑通貨統合に有利な条件を作り
一九九七年五月︑国民議会を解散した︒しかし︑それが裏目に出て︑国民議会選挙で惨敗した︒
一九九五年の大統領選挙では︑社会党の人材難から彼が大統領候補となり善戦したが︑今度も受身の
選挙となった︒しかし︑ジョスパンは︑彼の清潔さ︑誠実さのようなものを訴えて︑今度は社会党の圧倒的な勝利を
もたらすことになった︒選挙期間中︑選挙民にとってもっとも重要に見えたのは失業︑社会的保護︑不平等︑教育と
いった社会的懸念材料であった︒経済の近代化に必要な問題︑財政赤字に対する戦い︑ヨーロッパの統合︑世界にお
けるフランスの地位といった問題は訴えても効果のないテーマだった︒そしてこの懸念材料を解決するのは
RPR
や
UDF
ではなくて社会党だと思われた︒選挙民は経済競争だけでなく﹁規制の緩和﹂︑﹁緊縮財政なきヨーロッパ﹂︑
( 2 )
﹁現社会モデルを検討することのない変化﹂を求めたのであり︑それは社会党の政策の中心をなすものだった︒
ただ︑ジョスパンが訴えた政策︑あるいは選挙民がジョスパンに期待したものは何であったかという点は︑かなり ジ
ョ ス
パ ン
は ︑
た か っ た ︒ そ こ で ︑ うまくゆかなかった︒ジュペの言うように 関法 ニ八〇
フ ラ
ン ス
か ら
見 た
一 九
九 九
年 六
月 E
u 議会選挙
ル ペ
ン L e P e
n 現象について言及しておきたい︒
ニ 八
難しい問題である︒すなわち︑シラクが︑公約では社会保障を充実すると言いながら︑大統領に当選した暁には掌を
返すようなことをして︑急に解散をすると言ったりするものだから︑選挙民としては不満が募るわけである︒それが
ジョスパンを勝たせたとも言えた︒したがって︑シラクに﹁待った﹂をかけたジョスパンが首相になって︑大統領と
正反対の方向に行くのではないか︑という心配もあった︒事実︑当時︑日本の新聞の論調は﹁これでヨーロッパ統合
だが︑ジョスパンは︑選挙で言ったことと実行することは別だと割り切った︒また︑ コアビタシオンで︑もう一方
の行政のコアである大統領を尊重した︒ヨーロッパ通貨統合に消極的な共産党閣僚の入閣にしても︑ジョスパン内閣
にとって︑共産党は手ごわい労組を抑えるうえで頼もしい味方である︒﹁九五年十二月︑鉄道労組のストでフランス
全土がマヒしたような事態は︑二度と繰り返したくない﹂という思惑があった︵﹃ニューズウィーク﹄︑九七・六・十
( 3 )
七︶︒結局︑﹁ジョスパンの方法﹂としては︑さまざまな意見を調整して︑正論を述べ︑たえずバランスを取ってゆく
ことにあった︒そして︑共産党︑緑の党︑シューヴェヌマン
C h e v e n e m e n
t の市民民主運動の人たちも入閣させるこ
とによって︑反シラクの﹁多元的左翼﹂を構築する連立内閣とすることにジョスパンの狙いがあった︒ポピュリス
( 4 )
ティックな言葉を操る指導者は権力の座につくと統治理性に戻ってゆく︑という見方もある︒
を 突
破 し
た ︒
一九九七年の国民議会選挙の第一回投票で
F
N は得票率が十五%
フランス本国の得票数では︑
UDF
の三六八万を凌駕して︑
RPR
の 四
0 八万に迫る︑三七七万票を獲
得したことが重要である︒続く︑第二回投票でも
F
N が勢力を維持したことは︑穏健右翼の敗北の大きな要因のひと
つとなり︑自分たちの権力にしがみつく穏健右翼の有力者たちに﹁さしのべられた手﹂によって︑ はきしむのではないか﹂というトーンであったと思われる︒
一九九八年の地方
︵ 四 五 一
︶
第五一巻ニ・三号 選挙で︑極右は路頭に迷った穏健右翼の﹁買い付け﹂︑すなわち乗っ取りに成功しつつあるとまで思わせるにいたっ
た︒破裂とアイデンティティ危機のさなかにある穏健右翼に対し︑
F
N は権力の座につかんばかりの印象をあたえる
( 5 )
ことさえできた︒当時の
RPR
幹事長︑ジャンフランソワ・マンセル
J e
a n
, F r a
m ;
o i
s M a n c e ー
は ﹁
F
N の
支 持
者 は
︑
孤立させずに取り込まなければならない︒治安問題や不法移民問題に︑われわれも対応できるということを示す必要
がある﹂と述べた︒これに対して︑当時︑
多数派になった証拠だ︒草創期と全国政治への参入期を経て︑
F
N は第三段階の成熟期に入った︒今やわれわれには
選 挙
後 ︑
F
N ナンバーニのブルーノ・メグレ
B r u n o M e g r e
t は﹁われわれの考えが︑
一九九七•四・九)。付言すれば、マンセルは一九九八年の地方
( 6 )
F
N の支援を受けてオワーズ
O i
s e
県の県議会議長となり︑
RPR
を 除
さ 名
れ た
︒
けれども
F
N は
分 裂
す る
︒ F
N 党首ルペンが一時は後継者と目されたメグレを切った︒メグレは︑それまで︑穏健
右翼を分断し︑より大きな極右勢力の結集をめざしてきた︒ただメグレは︑新勢力の中心的指導者をルペンとは想定
していなかった︒﹁私は剣を抜き︑ やられる前にブルータスを殺す﹂とルペンは言った︒
反 旗
は ︑
F
N がルペン抜きで選挙を戦えるだけの実力をつけ︑ヴィトロール市での勝利︑
成功︑その後の地域圏議会選挙での勝利で︑
さ れ
︑
︵ ﹃
ニ ュ
ー ズ
ウ ィ
ー ク
﹄
メグレがルペンに取って代わる正統性を確立したという自信があった︒
一九九九年一月二四日︑マリヤーヌ
M a r i g n a n
e 市の体育館に二千名が集まり︑
( 7 )
F
N の分裂は完成される︒
ここで︑前回の一九九四年
E u
議会選挙について︑
結 局
︑
幹部の過半数は自分を支持していると主張した 統治能力がある﹂と豪語した︵﹃ニューズウィーク﹄ 関法
ニ 八
二
︵ 四
五 二
︶
一九九八・十ニ・ニ三︶︒メグレのルペンヘの
ストラスブール党大会での
メグレ派の分裂党大会が開催
フランス政治を切り口として︑若干述べてみたい︒﹁ヨーロッ 一方のメグレは︑党の地方
フ ラ ン ス か ら 見 た 一 九 九 九 年 六 月
E u
議会選挙 いものとなる︒ パは特権者の特権となった﹂とフランスの政治学者ロラン・ケイロル
R o
l a
n d
C a
y r
o ーはのべたことがある︒
マ ー
ス
トリヒト条約批准のフランスの国民投票はそのことを明らかにした︒ただ︑教育の水準によってヨーロッパヘの態度
は形成されるし︑ ヨーロッパ建設に好意的なのは管理者層で労働者層はそうではない︑というのは
E
U 諸国どの国に
( 8 )
も認められる現象である︒九四年
E u
議会選挙は︑社会党のミッテランが大統領で︑
R P
R のバラデュール
B a l l
a ,
d 日が首相であったこと︑また一年後に大統領選挙を控えていたこと︑あるいは一九九二年マーストリヒト条約批准
の国民投票の二年後であることなどがポイントである︒
E u
議会選挙は比例代表制で選出されるから︑いろいろな党
派の出馬が可能である︒しかもそれぞれの党派は候補者リストを提出するが︑誰をリストのトップに掲げるか興味深
面 白 い の は ︑
R P
R と
U D
F といった議会与党が︑この九四年の
E u
議会選挙で統一リストを作ったことである︒
しかも︑その統一リストに︑ジュペとか︑ レオタール
L e
o t
a r
d といった大物政治家は載らない︒もちろん︑ジス
カール
G i
s c
a r
d もシラクも載らない︒ドミニイク・ボーディス
D o
m i
n i
q u
B e
a u
d i
s というトウールーズ市長だったマ
スコミでも名が売れていたキリスト教民主主義者の候補者がリストのトップに立った︒これは︑翌年の大統領選挙を
控えて︑まだ名乗りをあげてはいなかったが︑候補者の一人︑当時の首相バラデュールと︑すでに過去二回大統領選
挙に立候補した経験があり今回も表明済みのシラクとの暗闘が影響していた︒また穏健右翼内部のヨーロッパ統合懐
疑派にも配慮しなければならなかった︒結局︑ボーディスのリストは妥協の産物だった︒大統領選挙には触れない静
かな
E u
議会選挙運動となった︒それでも︑穏健右翼内部からフィリップ・ド・ヴィリエ
P h i l
i p p e
d e
i l V
l i e r
s
の 反
( 9 )
ヨーロッパのリストが出現するのを防ぐことは出来なかった︒右翼多数派︵ボーディスとド・ヴィリエ︶のリストの
ニ 八 三
︵ 四 五 ︱
︱ ‑ ︶
第 五
一 巻
二 ・
︱ 二
号 社会党はミシェル・ロカール
M i
c h
e l
R o
c a
r d
がリストのトップになった︒
る自分の権威と︑国内における社会党の立場の強化に利用しようと考えていた︒
( 1 1 )
党 は
ニ ︱
︱ ‑
% の
得 票
率 で
好 調
だ っ
た ︒
︵ 四 五 四
︶
一 九
九 ︱
︱ 一
年 ︱
︱ ︳
月 の
国 民
議 会
選 挙
に お
け る
︑ R P
R ︑
UDF
をはじめとする穏健右翼の記
た︒つまり︑九三年の国民議会選挙より十五ヵ月後の
E u
議会選挙において
R P
R と UDF は彼らの潜在的力量の八
( 1 0 )
五%しか発揮できなかったということになる︒
ロカールは新しく社会党の指導者に
一九九五年の大統領選挙の希望ある候補者でもあった︒彼は︑
E u
議会選挙を︑社会党におけ
一九九四年三月の県議会選挙で社会
ところで︑この
E u
議会選挙には二十あまりの様々なリストが提出された︒まず︑シラクの
R P
R であるが︑例え
フィリップ・セガン
P h i l
i p p e
S e
g u
i n
とかシャルル・パスクワ
C h a r
l e s
P a
s q
u a
といった人たちはヨーロッパ統
合をそれほど支持しない︒
UDF
から出たド・ヴィリエという反ヨーロッパ統合派の候補者のリストが多数得票する
という結果が生じた︒左翼では︑ベルナール・タピ
B e
r n
a r
d T a p i e
という実業家が︑急進党行動派といったリスト
を作った︒これはミッテランの暗黙の支持によるものであったが︑左翼急進派
( M R G )
では急進主義を裏切るもの
( 1 2 )
として反対も多かったものであった︒結果的には︑与党連合ボーディスのリストが二八名︑社会党ロカールのリスト
が十五名︑ド・ヴィリエのリストが十三名︑タピのリストが十三名当選させたことになった︒
ここで︑この選挙のいくつかの問題点を指摘すれば︑タピが立候補することによって︑ド・ヴィリエや
F
N などの
反ヨーロッパ統合派の人たちよりもタビが多数の票を集めたことによって︑
ギ{︑ ,1
なったばかりであり︑ 録よりはるかに降下していることがわかる︒
ヨーロッパ統合支持者の票が増加したこ 一九九――一年には四四•四%だったが、 一九九四年には三七・九%であっ 得票率の総計を見るならば︑
関 法
ニ 八 四
フ ラ ン ス か ら 見 た 一 九 九 九 年 六 月
E u
議 会
選 挙
議会選挙では二十%以上の得票率をあげた︒
ニ 八 五
一九九四年の
E u
議会選挙で左罠は一二極のブ 一九八九年には二三%だった︒
と で
あ る
︒
一九九四年六月一日のタピ対ルペンのテレビ政治討論はポピュリスト同士のイデオロギー対決として世間
( 1 3 )
の注目を集めた︒タビの勝利は︑左翼の壊滅を救っただけでなく︑親ヨーロッパ派をも救った︒また︑ベルナール・
アンリ・レヴィ
B e r n a r
d , H
e n r i L e v y
という﹁新哲学者たち﹂︿
n o u v e a u x
p h
i l
o s
o p
h e
s ︾の一人がボスニア問題を提起
す る た め に ︑ サラエボ・リストを掲げ︑立候補を宣言した︒ロカールはそれを取り込もうとして︑レヴィは立候補を
取り下げたが︑それがミッテランの逆鱗に触れ︑ミッテランはタビを応援した︒ミッテランに近い社会党の幹部はロ
カールを支持しなくなった︒サラエボ・リストは前大臣のレオン・シュワルツェンベルグ
L e o n
S c
h w
a r
t z
e n
b e
r g
が
継承した︒六月十二日の投票日の一週間前︑ロカールは選挙後の﹁新しい連合﹂を提案した︒しかし︑それは一週間
( 1 5 )
後の選挙での敗北を認めるものであり︑六月十二日の選挙は重要ではないということになる︒ロカールは一九九三年
( 1 6 )
総選挙の際も﹁ビッグ・バン﹂発言を行い失敗したことがある︒事実︑社会党は敗れた︒社会党は一九八四年の
E C
一九九四年
E u
議会選挙におけるロカー
( 1 7 )
ルの目標は︑予想以上の得票率を獲得して︑社会党内の指導者の位置を不動のものにしたいということだった︒結果
は十四・五%だった︒敗北の後︑ ロカールは社会党のリーダーを去ることになった︒
前回の一九八九年
E u
議会選挙から一九九四年の選挙にかけて︑左翼の得票率の増加は︑タビのリストが達成した
おかげだった︒しかし︑タピの躍進は左翼票の分解をも惹き起こした︒
ロックに分解した︒共産党︑シューヴェヌマン派︑極左の極が十ニ・一%︑社会党の極が十四・五%︑タビ支持者の
( 1 8 )
極が十二
・ O
%である︒支持基盤から見ればタピ支持者は急進党の伝統︑プロヴァンス地方の特異性︑社会的抗議の
( 1 9 )
独特な混合である︒
︵ 四 五 五
︶
選 挙
は ︑
フランスにおいて重要な役割を演じている︒ 一九七九年にはシラク派の形成︑ 一九八四年には
F
N の
登 場
︑
第五一巻ニ・三号
散乱の中で苦心の末︑再建を果たそうとする左翼と︑消失しそうな環境保護派に対して︑右翼は︑
一九九三年の国民議会選挙に較べると︑八ポイントも下落している︒すな
わち︑九三年国民議会選挙では五六・八八%であるが︑
にもかかわらず︑右翼は︑左翼におよそ十ポイントの優勢を示している︒すなわち︑四八・四四%対三八・六六%で ある︒しかしながら︑多数派右漢も選挙では三つのブロックに分解する︒すなわち︑ボーディスの
RPR│UDF リ
( 2 0 )
で あ
る ︒
︵二五・五八%︶︑ド・ヴィリエの異端派︵十ニ・三四%︶︑極右ルペン (10• 五二%) 一 九 九 四 年 の E
この選挙では︑女性の立候補者が多かったのも特色であった︒この選挙が国内選挙ではなかったために︑それに対
する政党の抵抗が少なかったことも一因である︒だが︑
あ る が ゆ え に ︑
第 一
に ︑
E u
議会選挙によって︑女性の存在は平凡ではあるが広範で
( 2 1 )
フランス政治における女性の重要性の様変わりを示したことも事実であった︒ジョスパンはそれを見 習って一九九七年の国民議会選挙で女性候補者を多く立候補させ成功したことも忘れてはならない︒結局︑
E u
議会
一九八九年には環境派の出現︑という具合である︒このように見るならば︑ 一九九四年は︑急進党以来の変貌した M
( 2 2 )
R
の現出︑ド・ヴィリエによって組織された穏健右翼異端派の登場と見ることができる︒ G
以上述べたことをふまえて︑今回の一九九九年
E u
議会選挙当時における問題点を︑
括として試みておこう︒ フランス政治の文脈からの総
フランスの政治学者パスカル・ペリノーの言うように︑左右の対立軸を超えて︑今︑どの国の社会にも開
ス ト
一九九四年 Eu
議会選挙では四八•四四%である。この下落
一九九四年では四八•四四%に留まった。 u 議会選挙で︑多数派とはなったが停滞していた︒右翼は︑ 一九八九年の
E
C 議会選挙では四九・一六%であったが︑ 関法
ニ 八 六
︵ 四
五 六
︶
フ ラ
ン ス
か ら
見 た
一 九
九 九
年 六
月 E
u 議会選挙 かれた社会と閉ざされた社会の間の対立が確立されつつある︑という点である︒すでに︑
第二に︑それに関連するが︑
を配分するなど︑
疑いがきっかけであった︵﹃日本経済新聞﹂︑九九・一・一七︶と言われる︒
ニ 八 七
かというと︑そうではない面がある︒簡単に言えば︑非常に北欧的なものと︑イタリア︑
一 九
九 二
年 ︑
マ ー ス ト リ ヒ
ト条約の国民投票の際に現れた賛成と反対の対立は︑左右の対立軸ではまった<捉えられなかった︒ヨーロッパをめ
( 2 3 )
ぐる対立軸は左と右を完全に解体し︑開かれた社会と閉ざされた社会のそれぞれの支持者を正面から対立させた︒た
しかに︑これに大きく関係する
F
N は分裂したが︑この問題は極右だけの問題ではないし︑この観念は政治勢力の問
フランスはヨーロッパになれるか︑という問題がある︒全体的な大問題であるが︑あ
一 九
九 九
年 三
月 十
六 日
︑
E u
の政策を執行する
E u
委員会がサンテール委
員長を含む二十人の
E u
委員の総辞職を決めた︒予算執行に当たって︑親しい企業や知人と特別な契約を結んで利権
一部の委員の情実行為が判明したからであった︵﹃日本経済新聞﹄︑九九・三・一七︶︒これには︑
一 月
十 四
日 ︑
E u
委員会執行部へのけん責動議を採決し︑結果は二九三票対二三二票で否決された背景
がある︒けん責の動議はマリン副委員長︵スペイン︶とクレッソン委員︵元フランス首相︶の監督責任や情実契約の
私見によればこれは象徴的な事件だと思われる︒すなわち︑ヨーロッパ統合が機械的に段階的に順調に進んでゆく
フランス︑スペインのよう
なラテン的なものとの文化的な対立がこれからはどんどん出てくるであろう︒とくに︑
E
U が連邦国家的なものに近
づき︑官僚組織が巨大になってくると︑これからは北欧的なものが前面に出てくるのではないか︒それは︑これから
の E
が福祉国家的なもの︑労働憲章的なものを取り込めぱ取り込むほど︑北欧諸国のかなりの犠牲を伴うものであ U
E u
議 会
が ︑
る側面についてだけ指摘することにする︒ 題だけにとどまらないといえよう︒
︵ 四 五 七
︶
るのが至当であろう︒ アメリカの政治学者スタンレイ・ホフマンによれば︑
も主要な問題の部分的回答にはなりうる﹂と考えているそうである
そういうところがあり︑
化に
E
U が適合してくるかというと︑そうあって欲しくても︑そうはならない︒
E
u に北欧的なものがどんどん入っ
て く
る 時
に ︑
フランスはそれに抵抗できないだろう︑と言わざるをえない︒フランス市民が一国単位で異議申し立て
( 2 4 )
をしても︑はるかに早いスピードで増大するヨーロッパのテクノラシーのなかに飲み込まれ埋没してしまう︑と考え
第三に︑それを裏から言って︑
する可能性はあるのか︑という問題である︒
E
u の存在そのものがヨーロッパ・スタンダードの何よりの証拠である︑
と言ってよいのだが︑もう少し具体的な問題として考えてみたい︒例えば︑選挙制度であるが︑
E
u 議会選挙は各国
とも比例代表制選挙で選ばれている︒それは大枠であって︑詳細は国によって違う︒
E
u 政治をもっと人々に奉仕さ
せ ︑ E
u の共通善を人々に近いものにすることを目指して︑
E
u 政治の潜在力を利用してゆくために︑
E
u 議会選挙
の﹁統一選挙手続き﹂
( U E P )
U n
i f
o r
m E l e c t o r a l P r o c e d u r e
で行うべきである︑そのことは
E
u に対する市民の政
( 2 5 )
治参加とコミュニケーションを高めることになる︑というさらに徹底した意見もある︒ ることは否定できない︒ 第五一巻ニ・三号
るから︑北欧諸国の要求は厳しいものになってくることと関連している︒東欧に
E
U を拡大するにしても︑そのこと
が︑西欧的な
E
u にどれだけメリットがあるのかというと非常に難しい︒従来の
E
U 諸国にかなりの負担が増えてく 関法
︵ 四 五 八
︶
フランス人は﹁誰も
E
U が万能薬とは見ていないが︑それで
フランスとしてはもはや後戻りは出来ない︒しかしながら︑同時に︑自分たちの国民性︑文
ヨーロッパ・スタンダードなるものはあるのか︑また︑それはバージョン・アップ (『日本経済新聞 j 、九七•六•三)。たしかに、 ニ八八
フ ラ
ン ス
か ら
見 た
一 九
九 九
年 六
月 E
u 議
会 選
挙
今後各国内における選挙の制度もそうなるかどうか︑予想は出来ない︒ただ︑
ニ 八 九
フランスの一九九七年国民議会選挙
で ︑ F
u 議会の中に政党システムが確立されているとは言えないが︑各国別の諸政党同士が︑グループ的に結集︑分布され N が十五%の得票率をあげながら︑議席が一というのはおかしいという意見も学者の中から出てきている︒ E
てゆるい政党化が始まっているのも事実である︒﹁政治面で一体化の原動力になりうるのは︑個々の国益の違いを乗
り越えて理念でまとまる政党しかない」とイギリスの政治学者ヒックスは指摘した(『日本経済新聞」、九九•四·
六︶︒緩慢な形であれ︑各国の諸政党の交流は︑諸政党の党風︑党組織に影響を与えてゆくと思われる︒政党と市民
の問題から考えてみると︑例えば︑環境保護政党である緑の党などはかなりコスモポリタンな政党である︒この党の
政策はもともとインター・ナショナルな性格を持っている︒すでにヨーロッパ・スタンダードを実現しつつある政党
の可能性を秘めているといってよい︒また︑
と に
︑
ヨーロッパのデモクラシーは︑議会や政党だけによって担われているの
ではない︒圧力団体・市民運動グループは︑プリュッセルで雨後の筍のように増えている︒そして︑政策セクターご
( 2 6 )
Eu 委員会の担当総局や議会の担当委員会と接触し︑影響力を行使している︒ Eu に代議制民主主義は機能す
る か
に つ
い て
︑ ︑
ヒックスによれば︑次のようになる︒(‑)︑
む何の生来の文化的相違は考えられない︒︵二︶︑
︵ 二
︶ に
は 留
保 し
た い
︒ と
く に
︑ ︵
二 ︶
Eu の市民が︱つの選挙民層として行動することを阻
Eu の政党システムは出現しつつある︒政党の連合は親ー反ヨー
ロッパの間ではなく左右の違いの間に︑イデオロギーの違いからくる政治的家系にそって形成されてきている︒︵三︶︑
これらの政党の連合は︑ Eu 議会内外に︑凝集的な政党グループの枠組みに向けて各国内や Eu 議会の有力な政治家
( 2 7 )
たちを結集させつつある︒政党指導者サミットがその好例である︒私見によれば︑︵三︶はともかくとして︑(‑)︑
については︑ペリノーの見解のほうを私はとりたい︒
︵ 四
五 九
︶
必要とされるかもしれない︒
フ ラ
ン ス
社 会
党 は
︑
第五一巻ニ・三号
第四に︑最後に︑それに関連するが︑ ヨーロッパに社会民主主義は復権したのか︑という問題がある︒﹁企業より
働く者の側に立って︑より高い福祉の水準を目指す﹂という伝統的な西欧社会民主主義の流れをくむ政治勢力が︑ E
U に加わる十五カ国のうち十三カ国で政権を担ったり︑参加したりしている︒苦しい財政︑大量失業の重圧︑国際的
な経済大競争という環境の中で︑﹁社民らしさ﹂はどこまで生きているのか
測がなされている︒ フランスに関して言えば︑﹁選挙における政治勢力としての社会民主主義勢力は復調したが︑イ
( 2 8 )
デオロギーとしての社会民主主義はそうではない﹂という見方もあるが︑私見によれば︑これはすでに述べたような
﹁ジョスパンの方法﹂に関連する︒﹁ジョスパンの方法﹂をここで手短に再論すれば︑それは脱ミッテランであり︑
環境保護やフェミニズムに目配りした︑共産党︑シューヴェヌマン派︑緑の党の連合戦線︵多元的左翼︶ であること
によって︑従来のフランス社会党のやり方を抜け出るものであったことを強調しておきたい︒たしかに︑イギリスの
プレア内閣︑ドイツのシュレーダー内閣らヨーロッパにおける社会民主党政権との連帯と強調をスローガンとして掲
げはするが︑それはあくまで時宜的なものであり︑自らのために有利に利用しているにすぎないと言える︒ただ︑遠
景として︑この時期にヨーロッパに中道左翼政権が期せずして出揃ったことは︑時代の転換点として構造的な分析が
一九八五年︑トゥールーズ大会で市場重視への転換を確認している︒
( 2 9 )
この大会は﹁小さなバードゴーデスベルク﹂と呼ばれていることも付言しておきたい︒
( 1
)
関 西
大 学
法 学
研 究
所 第
二 五
回 シ
ン ポ
ジ ウ
ム ﹁
ヨ ー
ロ ッ
パ 政
治 の
動 向
﹂ ︑
﹃ ノ
モ ス
﹂ ︵
関 西
大 学
法 学
研 究
所 ︶
︑ 第
十 一
号 ︑
二
0
0
0 年
︑ 一
五 一
ー 一
九
0 頁 ︒
( 2
)
P a s c a l P e r r i n e a u C o , l e t t e Y a m a l , ≪ I n t r o d u c t i o n
≫ , i D a n n i e l B o
y e a l . t ( d i r . ) , L e
v o t e s u r p r i s e : L e s e l e c t i o n s l e g i s l a t i v e s e s d
関 法
(『朝日新聞』、九九・ニ•四)という観
二 九
0
( 四 六
0 )
フランスから見た一九九九年六月
E u
議会選挙
二 九
︵ 四 六 一
︶
法 学 論 集
﹂ ︑ 第 五
0 巻第
︱ 一 三 号
︑ 一 九 九 九 年
︑
2 5 a m
i e t 1 j ̀
u i n 1 9 9 7 , r P e s s e s d e S c i e n c e s P o , 1 9 9 8 , p . 1 3 .
( 3
)
拙著﹃現代フランス選挙政治﹄︑ナカニシャ出版︑二 000
年 ︑ 一 三 一 頁
︒
( 4
)
遠藤乾﹁さまよえるヨーロッパ統合﹂﹃世界﹂一九九七年十一月号︑三一五頁︒
( 5
)
シルヴィー・ストリューデル︵土倉莞爾・大久保朝憲訳︶﹁フランスの右翼と左翼﹂﹃関西大学
三 号 ︑ 二 0
0
0 年
︑ 一 八 五 頁 ︒
( 6
)
岩本勲﹁一九九八年フランス地方選挙と右翼諸政党の再編成﹂﹃大阪産業大学論集社会科学編﹄
二 九 四 頁
︒
( 7
)
畑山敏夫﹁世紀末のフランス極右ールペンの見果てぬ夢ー︵三︶﹂﹃佐賀大学経済論集﹄︑第三三巻第二号︑二 000
年 ︑ 三 五
︑ 三 九 頁
︒
( 8
)
P a s c a l P e r r i n e a u e t C o l e t t e Y s m a l , ≪ I n t r o d u c t i o n
≫ , i n P a s c a l P e r r i n e a u e t C o l e t t e Y s m a l ( d i r . ) ,
L e
v o t e e s d D o u z e : L e s
忌
c t i o m e u r o P
̀ e n n e s e d j u i n 9 1 9 4
̀ P
r e s s e s d e l a F o n d a t i o n n a t i o n a l e d e s s c i e n c e s p o l i t i q u e s , 1 9 9 5 , p . 1 5 . ス ト ' "
/ ュ ー デ ル ︑
前 掲 論 文 ︑ 一 七 四 頁 ︒
( 9
)
J o h n G a f f n e y ,
≪ F r a n c e ≫ , i n J u l i e t L o d g e ( e d . ) , T h e 1 9 9 4 E l e c t i o n s t o t h e E u r o p e a n P a r l i a m e n t , P i n t e r , 1 9 9 6 , p 8 5 . . ( 1 0 ) P a s c a l P e r r i n e a u , •L
ぷ lection
e u r o p e e n e a u m i r o i r d e l ' H e x a g o n e ≫ ,
i n P a s c a l P e r r i n e a u
e t C o l e t t e Y s m a l ( d i r . ) ,
L e
v o t e d e s D o u z e , o p . c i t . , p p 2 . 4 0
, 2 4
1 . ( 1 1 ) G a f f n e y , o p . i t . c , p . 8 9 .
( 1 2 )
I b i d . , p . 9 2 . ( 1 3 ) I b i d . , p . 9 6 , p . 1 0 3 . ( 1 4 ) I b i d . , p . 9 3 . ( 1 5 ) I b i d . , p . 9 7 . ( 1 6 )
前 掲 拙 著 ︑ 七 一 頁 ︒
( 1 7 ) I b i d . , p . 9 8 ・ ( 1 8 ) P e r r i n e a u , •L
ぷ lection
e u r o p e e n e a u m i r o i r d e l ' H e x a g o n e ≫ ,
o p .
i t . c
, p .
2 4 4 .
アラン・ギヨマーチによれば︑
関 法
第五一巻ニ・三号
少しの市民しか投票に行かなかった︒第二に︑
二 九
二
一 九
九 九
年 ︑
一 〇
( 1 9 ) I b i d . , p .
2 4 7 .
( 2 0 ) I b i d . , p .
25 0.( 2 1 ) I b i d . , p .
1 0 4 . ( 2 2 ) P a s c a l P e r r i n e a u
e t C o l e t t e
Y s m
a l ,
≪ I n t r o d u c t i o n ≫ ,
0
p .
c i t . , p .
1 7 .
( 2 3 )
パ ス カ ル ・ ペ リ ノ ー ︑ 中 山 洋 平 訳 ﹁ 新 た な 選 挙 力 学 の 研 究 ﹂ ﹃ 国 家 学 会 雑 誌 ﹄ 第 一 ︱ 二 巻 第 七 ・ 八 号 ︑
九 頁
︒ ( 2 4 )
遠 藤
︑ 前
掲 論
文 ︑
同 頁
︒ ( 2 5 ) J u i l l e t L o d g e , ≪ M a k i n g t h e
EP
E l e c t i o n s D i s t i n c t i v e ≫ , i n J u l i e t L o d g e ( e d . ) , T h e
1999
E l e c t i o n s t o t h e E u r o p e a n P a r l i a , m e n t , P a l g r a v e ,
2 00 1,p p
280
.
, 2 81 .
( 2 6 )
遠 藤
︑ 前
掲 論
文 ︑
三 一
六 頁
︒ ( 2 7 ) S i m o n H i x . , T h e P o l i t i c a l S y s t e m o f t h e E u r o p e a n U n i o n , S t . M a r t i n ' s P r e s s ,
1 99 9,p .
18 6.( 2 8 )
森 本 哲 郎 ﹁ 一 九 九 0 年代後半期のフランスにおける選挙・政策・イデオロギー﹂﹃関西大学法学論集﹄第五 0
巻 第
六 号
︑
二 0
0 一
年 ︑
八
0 頁 ︒
( 2 9 )
渡 邊
啓 貴
﹁ ジ
ョ ス
パ ン
仏 社
会 党
政 府
の 政
策 ﹂
﹃ 国
際 問
題 ﹄
第 四
七 一
二 号
︑ 一
九 九
九 年
八 月
︑ 三
六 頁
︒
一九九九年の Eu 議会選挙︵第五回直接選挙︶を理解するためには︑二つの謎を探
求する必要があると言う︒第一に︑かつてないほどに多数のメディアがヨーロッパ議会に関心を向けたのに︑ Eu の
E
U 加盟国の多数の国々で社会主義︑あるいは社会民主主義の政党が
国内政治を支配している︵四つの大国を含んでいる︶ のに︑今回の Eu 議会選挙では︑﹁ヨーロッパ社会党﹂
P a r t y
︵ 四 六 ︱
‑ ︶
フ ラ
ン ス
か ら
見 た
一 九
九 九
年 六
月 E
u 議
会 選
挙
一九九九年の六月十日と十三日の
E u
議会選挙の結果で︑最も顕著な変化は︑二つの大政党グループの位置の逆転
である︒﹁ヨーロッパ社会党﹂
( P
E s
)
は三十議席失った︒反対に︑﹁ヨーロッパ人民党﹂
( E
P P
)
は二十議席増と
( 2 )
なり︑新議会の最大会派となった︒
それぞれ
E u
十五カ国から選出された新議会の政党の力関係は
E u
全体を通して国々によって様々である︒もっと
も重要な変化は︑二︑三の大国に現れた︒皮肉なことであるが︑投票率のもっとも低かったイギリスにおいて︑起き
た変化は一番大きかった︒労働党は六二議席から二九議席に減少した︒保守党は十八議席から三六議席に倍増した︒
結果︑この国の投票結果だけが︑ 自由民主党は二議席から五倍増の十議席となった︒この国で四人に一人のみがいやいや投票した︵投票率︑二四%︶
( 3 )
ヨーロッパ新議会の主要な政党間の変化を引き起こすことになった︒
ドイツでは︑変化は小さいが意味深いものがある︒社会民主党
( S P D )
は七議席︑緑の党は五議席失ったが︑他
( 4 )
方︑キリスト教民主主義政党とその同盟者は六議席増加させ︑元共産党の PDS は六議席獲得した︒
フランスでは︑ベルナール・タピが率いた急進党行動派のリストの消滅は社会党の十五議席からニニ議席への増加 ンドでそれぞれニ︱名と十六名である︒ 第 二 の 局 面 は ︑ 一九九五年九月︑スウェーデンで二二名︑第三の局面は︑
二 九 一 ︱
︱
︵ 四 六 一
一九九六年十月︑オーストリアとフィンラ れまでの前議員は三つの局面で選ばれていた︒第一の局面は︑ 一九九四年六月︑当時の加盟国十ニカ国から五六七名︒
o f E u
r o
p e
a n
o c S
i a l i
s t s
( P
E s
) はその支配的地位をキリスト教民主主義者と保守主義者の﹁ヨーロッパ人民党﹂
( 1 )
E u
r o
p e
a n
P e
o p
l e
s '
P a
r t
y
( E
P P
)
に取って代わられたことである︒
一九九九年の六月十日と十三日のヨーロッパ議会選挙は六二六名の議員が初めて一度に選ばれた選挙であった︒そ
第五一巻ニ・三号
をもたらした︒右翼・中道の政党である
RPR
と
UDF
は別々のリストで競合し︑どちらも七議席失った︒ド・ヴィ
リエとパスクワに率いられた反ヨーロッパ統合のリストは︑右翼・中道の政党の中では︑単一政党で最大となる十三
( 5 )
議 席 を 獲 得 し た ︒
ド イ
ツ ︑
フランス︑イギリスでは諸政党の分布に劇的な変化がおきた︒ドイツでは与党連合の得票率は五ポイント
減少し︑明確な勝利者である
CDu
と CSU
は 四
八 ・
七 %
の 得
票 率
で ︑
一九九四年に較べて十ポイント上昇している︒
( 6 )
元共産党の
PDS
は︑得票率がほとんど六%の上昇して六議席獲得となった︒
道が分裂したので︑力関係の分布を測定することは困難である︒ド・ゴール派︑自由主義者
( D
L と
F o r c D e e m
o ,
c r a t
民主主義派 e
[ U D F
] ︶は敗北した︒すでに分裂していた
F
N からの二つのリストも同様に敗北した︒勝利者は︑
緑の党︑極左の﹁労働者闘争派
1 1
共産主義革命同盟﹂︿
L u t t e O u v r i e
r e , L
i g u e o C
m m
u n
i s
t e
e v R o l u t i o n n a i r e
﹀
I I L o
│ L C
R ︑奇妙な﹁地方連合﹂である﹁狩猟・釣り・自然伝統﹂派︿
C h a s s e , P e c h e , N a t u r e , T r a d i t i o n s
﹀
I I C P N
( 7 )
T である︒これらの政党はすべて五%の敷居を越えて議席を獲得した︒
投票結果における政党間の勢力分布が大きく変わったのはイギリスである︒しかし︑投票率があまりにも低いため
にこの変化をどう解釈するかは困難である︒労働党の得票率は劇的に十五ポイント落ちて二八%となった︒保守党は
九ポイント上昇して三五・八%となった︒緑の党とイギリス独立党
UK I n d e p e n d e n c e P a r
t y は︑それぞれ六・ニ%と
( 8 )
七%の得票率となり議席を獲得した︒
E u
議会選挙を取り巻く状況の中でヨーロッパ化が発展しなかった理由を考えてみよう︒第一の発展の契機はユー フランスでは︑投票率は四六・八%に落ちた︒ 一九九四年には左翼・中道が分裂したが︑ 関法
一九九九年には右翼・中
二 九
四 ︵
四 六
四 ︶
フ ラ
ン ス
か ら
見 た
一 九
九 九
年 六
月 E
u 議
会 選
挙
二 九
五 ︵
四 六
五 ︶
一九九九年初頭の Eu 委員会の危機は︑
一 九
九
ロ十一カ国による交換レートの﹁凍結﹂と一九九九年一月のヨーロッパ中央銀行による通貨管理政策の接収であった︒
しかし︑ラフォンテーヌ
L a f o n t a i n e ドイツ蔵相の辞任はこのような流れを止めてしまった︒第二の発展の契機は一 九九九年五月のヨーロッパ議会により大きな権限を与えるアムステルダム条約の発効である︒しかしながら︑これら
の 制
度 改
革 も
︑
Eu
委員会の考えも︑普通の市民に充分理解されたとは言えない︒第三の発展の契機は中央ならびに
東ヨーロッパヘの
E
U 加盟国の拡大や現存の政策︵とくに農業政策︶ の改革がゆっくりとおそるおそる進んでいるこ
( 9 )
とである︒これは懐疑的な反対意見を押さえて統合実現の潜在的力を発揮させるまでに到っていない︒
し か
も ︑
Eu を取り巻く環境の悪化は次のような面に現れている︒
九年五月の﹁賢人﹂報告と Eu
委員会の全員辞職で頂点に達する︒これに対して
Eu 議会は何の影響力も発揮できな
かった︵ただし︑さきにも述べたし︑後述のように︑別の見解もある︶︒
Eu 委員会は辞職したが︑暫定委員会とし
て実権を握り︑年金を含む自分たちの利益は確保した︒後継委員長は
Eu 首脳会議でロマノ・プローディ
R o
m a
n o
( 1 0 ) P r o d
i に決まったが︑委員長や委員の人選にも
Eu 議会は公的に承認するほかは何もできなかった︒
コソボの動乱も大きい︒コソボ動乱は Eu
議会選挙前の期間を通してメディアの主要な焦点であり︑公衆の関心を
( 1 1 )
引きつけた︒コソボの問題に比較すれば
Eu 議会選挙はいくぶん重要性を持たなかったことは否めない︒
フランスでは︑主要な戦いは左翼と右翼の間で行われたのではなく︑同じ陣営の中で戦いが展開された︒シラクの 中道ー右翼連合はさらに分解した︒以前にはシラクを支持していたパスクワは︑ド・ヴィリエに率いられる反ヨー
ロッパ統合の集団に加わった︒
RPR
と
UDF
は別々のリストを作って互いに競争した︒従来は漠然とした地方の反
動的な政党であった﹁狩猟・釣り・自然伝統﹂派がある程度の信用︑得票︑議席を獲得した︒社会党と緑の党は︑散
第五一巻ニ・三号
文的だったとしても︑異例にも協調を保持して︑それぞれ効果的に選挙運動を行った︒全体として活気のない選挙運
動であったが︑中道│右翼と極右それぞれ内部のかつては同盟者であった同志の激しい衝突が︑時として︑選挙運動
を賑やかにした︒ポスターは短期間に配布され︑討論や公的な大集会はほとんどなかった︒無関心が幅をきかせたこ
( 1 2 )
とを考慮すれば︑投票率は事前に予想されたほど低くはなかった︒
ドイツの選挙運動も低調であった︒
SPD
と緑の党の指導者はほとんど運動しなかった︒多分彼らは︑ドイツが E u 議長国である間のヨーロッパの主導権が︑ドイツの選挙民に︑ドイツ国内の続々とある困難さーとくに︑失業︑
緩慢で大胆さに欠ける諸改革︑そして
SPD
︑緑の党内部にあるそれぞれの分裂ー│を忘れさせると考えたのであろ
う ︒ CDu
と CSu
の指導者たちは︑﹁
SPD
はドイツを統治する能力に欠けるから
E
u 議会で思い通りにさせるわ
けにはゆかない﹂と主張して︑選挙運動の焦点を国内政策の失敗においた︒これらの批判は︑まったく別の理由から
( 1 3 )
ではあったが︑元共産党の
PDS
によって反響されていった︒
一九九九年のヨーロッパ議会選挙を通して市民から統治者へのメッセージは何であるか︑解釈することはきわめて
むずかしい仕事である︒というのは︑選挙結果のもっとも衝撃的な問題点は︑
なっており︑ヨーロッパを横断して明らかに認定できる共通の傾向はないからである︒しかしながら︑投票結果だけ
見 れ
ば ︑
EPP と
PES
という二巨大グループの重要度の低落は︑すでに一九九四年にも認識されていたが︑続いて
いる︒それに比べ︑国家内地域政党や反統合政党を含む小政党への支持は増大してきている︒社会主義者は加盟国十
五カ国のうち十一カ国の政権を保持していて︑ヨーロッパ議会選挙が実施される直前に中道左翼の
E
u 委員長を選出
していたのに︑敗北したことは意義深い︒ただ︑ヨーロッパ議会選挙は︑
E
u の強力だがあいまいな執行府︵選挙前 関法
一九九四年と同じく︑国家ごとに異
二 九
六
︵ 四
六 六
︶
フ ラ ン ス か ら 見 た 一 九 九 九 年 六 月
E u
議 会 選 挙 のプローディ委員長就任に見られる︶ ではなく︑弱い立法府の代表を選んだだけであるから︑﹁第二次的な﹂だけで
( 1 4 )
なく︑﹁無責任な﹂選挙に留まっている︒結局︑選挙民は統治者に対しても批判的であることを示したと言えよう︒
初めてフランスとドイツで投票率は五十%を下回ったことに象徴されるように︑
二 九
七
︵ 四
六 七
︶
一九九九年の
E
議 会 選 挙 は ︑ E u
( 1 5 )
u 議会の市民への妥当性のコミュニケーションの問題が
E
U 諸国の間で悪化していることを示している︒
( 1
)
A l a i n G u y o m a r c h
, •
^ T
h e J u n e
1 9 9 9
E u r o p e a n a P r l i a m e n t E l e c t i o n s ≫ , W e s t E u r o p e a n P o l i t i c s
̀ V o
l . ,
2 3 ,
N o . , 1 ,
200 0,
p .
1 6 1 .
( 2
)
Ib id .,
p . 1 6 2 .
( 3
)
Ib id .,
p p
1 6 2 , .
1 6 3 .
( 4
)
Ib id .,
p . 1 6 3 .
( 5
)
Ib id .
( 6
)
Ib id .,
p p .
1 6 6 ,
1 6 7 .
( 7
)
Ib id .,
p . 1 6 7 .
( 8
)
Ib id .
( 9
)
Ib id .,
p .
1 6 7 ,
1 6 8 ・ ( 1 0 )
Ib id .,
p p
1 6 8 .
, 1
6 9 .
プローディのイタリア国内における政治行動については︑参照︑村上信一郎﹁プローディの失脚・ダ レ ー マ の 挫 折 ・ ﹁ オ リ ー ヴ の 木 ﹂ の 自 殺 ; グ ロ ー バ リ ゼ イ シ ョ ン と ヨ ー ロ ッ パ 統 合 の 下 で の 中 道 左 派 政 権 の ア ポ リ ア ﹂ ﹃ 神 戸
外大論叢﹄第五一巻第七号︑二 000
年 ︑
二 九
ー 四
六 頁
︒ ( 1 1 )
Ib id .,
p . 1 6 9 .
( 1 2 )
Ib id .,
p . 1 7 1 .
( 1 3 )
Ib id .,
p p .
1 7 1 ,
1 7 2 .
( 1 4 )
Ib id .,
p p .
1 7 2
, 1
7 3 .
( 1 5 )
Ib id .,