常光寺と地蔵信仰 : 「常光寺縁起」の分析を中心 に
その他のタイトル Jokoji and the Faith in Jizo : Based on the Analysis of "Jokoji‑engi"
著者 橘 悠太
雑誌名 史泉
巻 120
ページ 4‑22
発行年 2014‑07‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023640
は じ め に 常光 寺は
︑大 阪府 八尾 市に ある 臨済 宗南 禅寺 末の 寺院 であ り︑ 地蔵 信 仰で 有名 な寺 院と して 広く 知ら れて いる
︒ 常光 寺が 所在 した 八尾 地域 は︑ 中世 には 河内 国内 の中 でも 特別 な地
︵!
︶
域 で あっ た
︒鎌 倉 期 には
︑承 久 の 乱を 経 て 北条 得 宗 領 とな っ て おり
︑ 室 町期 の明 応二 年︵ 一四 九三
︶に は︑ 将軍 直轄 軍で あっ た奉 公衆 の領
︵"
︶
地 とな って いた
︒中 世の 八尾 は中 央権 力が 直接 支配 する 地域 であ った
︵#
︶
と され る︒ 一方
︑中 世に おけ る常 光寺 の特 質の ひと つに
︑将 軍足 利義 満の 保護 を 皮切 りと して 代々 河内 国守 護な どの 権力 者か ら庇 護を 受け てい る点 が あ る︒ 河内 国 に お い て 安 堵 状 が 現 存 し て い る 寺 院 は 常 光 寺 を 除 く と
︑中 央権 力と の密 接な 関係 を有 して いた 観心 寺︑ 金剛 寺の みで あっ た
︒従 来の 研究 では
︑こ の常 光寺 の特 質は 寺院 の所 在地 であ った 八尾
︵$
︶
と 関連 づけ られ て理 解さ れて きた
︒確 かに
︑常 光寺 と中 央権 力と の繋 が りを 考え る上 でそ の所 在地 であ った 八尾 の特 質は 注目 され る︒ しか
し
︑常 光寺 と中 央権 力と の関 係に つい て︑ 八尾 地域 との 関連 性か らは 明 確な 論証 が得 られ てい ない
︒ 常光 寺の 創 建は 藤 原 盛 継と 地 蔵 菩薩 像 と の縁 を 出 発 点と し て おり
︑ 現 在に 至る まで 常光 寺と 地蔵 信仰 は不 可分 の関 係に ある
︒常 光寺 と権 力 者と の関 係を 解明 する 手法 のひ とつ とし て︑ 地蔵 信仰 を軸 に考 察を 加 える こと は有 効で ある よう にお もわ れる
︒ 以上 の点 を踏 まえ て本 稿で は︑ 創建 期の 常光 寺と 中央 権力 との 繋が り につ いて 地蔵 信仰 との 関係 より 検討 する
︒特 に︑ 常光 寺の 創建 や地
︵%
︶
蔵 信仰 の由 来が 最も 詳細 に記 され た史 料﹁ 常光 寺縁 起﹂ の分 析を 中心 に 論を すす める
︒な お︑
﹁常 光寺 縁起
﹂写 真︵ 巻頭
・巻 末部 分︶
・ 翻刻 案
︵全 文︶ につ いて 末尾 に掲 げた ので
︑適 宜参 照さ れた い︒ 第一 章 常光 寺の 創建 常光 寺 は 創 建よ り 現 在 に 至 る ま で 地 蔵 信 仰 に よ っ て 支 え ら れ て き た
︒常 光寺 と地 蔵信 仰の 問題 を考 える 上で
︑常 光寺 の創 建に つい て考 察 する こと は必 要不 可欠 な課 題で あろ う︒
︿研 究 ノ ート
常
﹀光 寺 と 地 蔵 信 仰
│
│
﹁ 常光 寺 縁 起﹂ の 分 析を 中 心 に│
│
橘
悠 太
― 4 ―
︵"
︶
常光 寺の 歴史 につ いて 扱っ たも のと して
︑ま ず﹃ 八尾 市史
﹄が あげ ら れ る︒
﹃八 尾 市 史﹄ の 刊行 に よ って 常 光 寺の 歴 史 や 所蔵 す る 文化 財 が 初め て明 らか にな った
︒た だし
︑時 代の 異な る縁 起や 由緒 書の 記述 を 同一 視し て纏 めて いる ため
︑内 容に 不正 確な 部分 が存 在す ると いっ た 問題 点も あっ た︒ その
﹃八 尾市 史﹄ の問 題点 を指 摘し たの が小 谷利
︵#
︶
明 氏の 研究 であ る︒ 小谷 氏は 常光 寺に 残る 縁起 や由 緒書 等を 編年 順に 検 討し
︑常 光寺 創建 に関 わる 史実 がど のよ うに 形成 され てい った のか を 解明 した
︒こ の小 谷氏 の研 究に よっ て︑ 常光 寺研 究の 学術 的水 準は 飛 躍的 に高 まっ たと いえ る︒ 一方 で
︑﹃ 八 尾市 史
﹄や 小 谷 氏の 研 究 等に お い て常 光 寺 創 建の 歴 史 は 必 ずし も 瞭 然 とは な っ てい な い︒
﹃ 大阪 府 八 尾 市 内寺 院 古 文書 調
︵$
︶
査 報 告書
︵目 録
︶﹄ で は︑ 嘉 慶二 年
︵一 三 八八
︶三 月 二 十 四 日 の 年 紀 を もつ 常光 寺蔵 鰐口 に彫 刻さ れて いる
﹁檀 那又 五郎 大夫
﹂と
︑同 じく 常 光寺 に所 蔵さ れて いる 最古 の縁 起﹁ 常光 寺縁 起﹂ 内の 記述 とが 一致 す るこ とで
︑常 光寺 の創 建を 裏付 けて いる
︒こ れま で常 光寺 創建 の歴 史 につ いて 深く 言及 され てこ なか った 要因 とし て︑ 常光 寺創 建の 歴史 が 常光 寺に 所蔵 され てい る史 料
=
内部 史料 でし か説 明で きな いと いう︵%
︶
史 料の 残存 状況 が背 景に あっ た︒ また
︑現 在南 禅寺 派に 属し てい る常 光 寺が 禅宗 寺院 にな った のは 天文 年間
︵一 五三 二〜 一五 五五
︶以 降で あ り︑ 創建 期の 常光 寺が どの よう な宗 派と 関係 して いた のか につ いて
︵&
︶
は 不明 な点 が多 い︒ この よう に当 該期 の寺 院史 料か ら探 し出 す手 掛り が 非常 に少 ない こと も︑ 創建 期の 常光 寺の 歴史 が判 然と しな い要 因の ひ とつ であ ろう
︒そ こで 本章 では
︑常 光寺 創建 期に あた る南 北朝 後期 の 寺外 史料 を用 いて 創建 期に おけ る常 光寺 及び 地蔵 信仰 の様 相を 再検
討 する
︒ 一
︑観 智院 賢宝 と常 光寺 現在
︑京 都 市 南 区九 条 町 にあ る 真 言宗 総 本 山・ 東 寺伽 藍 の 一角 に
︑ 東 寺僧 の杲 宝に よっ て延 文四 年︵ 一三 五九
︶に 創建 され た観 智院 とい
︵'
︶
う 院家 が現 存し てい る︒ 観智 院の 特徴 には 観智 院金 剛蔵 聖教 とよ ばれ る 貴重 な聖 教類 が伝 来さ れて いる こと が挙 げら れる が︑ この 聖教 類の 大 部分 は杲 宝と その 弟子 賢宝 によ って 蓄積 され たも ので ある
︒南 北朝 内 乱で 東寺 は荒 廃し てお り︑ 聖教 類の 散逸 とい う状 況に 危機 感を 募ら
︵(
︶
せ た東 寺僧 らに よっ て聖 教書 写事 業が はじ めら れた
︒そ して
︑そ の事 業 の中 心と して 活躍 した のが 観智 院杲 宝や その 弟子 賢宝 であ った
︒ 常光 寺創 建期 にあ たる 南北 朝後 期に は既 に杲 宝は 入滅 して おり
︑賢 宝 が観 智院 の院 主と なっ てい た︒ 賢宝 も師 杲宝 と同 様に 様々 な寺 院へ 赴 き︑ 精力 的に 聖教 を書 写・ 収集 して いる
︒聖 教の 書写 に必 要な 紙は 当 時貴 重な 資源 であ り︑ 反故 にな った 文書 等の 裏を 料紙 とし て利 用さ れ るこ とが あっ た︒ 現在
︑東 寺や 観智 院に は賢 宝が 書写 した 膨大 な聖 教 類が 伝来 して いる が︑ その 中に 賢宝 が用 いて いた 具注 暦と 自筆 日記
︵)
︶
が 聖 教類 の 紙 背 とし て 残 って い る︒ 次 にあ げ る 史 料は
︑﹃ 相 国 寺結 縁
︵*
︶
潅 頂略 記﹄ の紙 背に 記さ れて いた 賢宝 日記 の至 徳四 年︵ 一三 八七
︶閏 五 月十 日〜 十六 日条 であ る︒ 十 日
廻二
礼 不動 堂一
宿二
高野 西谷 庵室
一
十 一日
壇 上奥 院等 巡礼
卒 塔婆 一基 造立 供養 行レ
之 十 二日
参二
詣 壇上 御新 堂一
退下 新山 宿 粉河 施音 寺巡 礼
!
!
!
!
!
!
十 三日
参二
詣 根来 伝法 院一
廻 礼了
過二
円 融寺
一
到着
八 尾地 蔵堂
― 5 ―
小 木宿 了
!
十 四日
住 吉本 宮参 詣 八尾 地蔵 堂巡 礼了 十 五日
宿二
善 法寺
一
長 老対 面 十 六日
帰二
東 寺一
沐浴 了 この 史料 によ ると
︑賢 宝は 至徳 四年 閏五 月十 日よ り高 野山 へ参 詣し て いた よう であ る︒ 賢宝 の参 詣ル ート は次 の通 りに なる
︒
︻東 寺観 智院
↓高 野山 諸施 設↓
﹁粉 河施 音寺
﹂︵ 粉 河寺
︶↓
﹁根 来伝 法院
﹂︵ 根 来 寺
︶↓
﹁小 木
﹂︵ 和 泉 国 近 木 荘
︶↓
﹁住 吉 宮
﹂︵ 住 吉 大 社︶
↓﹁ 八尾 地 蔵 堂﹂
↓﹁ 善法 寺﹂
︵石 清 水 八 幡 宮 善 法 律 寺︶
↓東 寺観 智院
︼ 史料 から は 東寺 よ り 高 野山 ま で の往 路 は 窺い 知 る こ とは 出 来 ない
︒ 一 方︑ 復路 は 高野 山 よ り 紀ノ 川 沿 いに 粉 河 寺と 根 来 寺 を参 詣 し た後
︑ 高 野山 領近 木荘 で宿 泊し
︑そ のま ま北 上し て住 吉宮 へ参 詣し たも のと お も わ れ る
︒こ こ で 注 目 し た い の は 十 四 日 条 の﹁ 八 尾 地 蔵 堂﹂ で あ る
︒﹁ 常 光寺 縁 起﹂ に よ れば
︑至 徳 二 年︵ 一三 八 五︶ に は 常 光 寺 へ 諸 国 から の参 詣者 が殺 到し
︑翌 年に は常 光寺 の新 地蔵 堂が 建立 され たと
︵"
︶
あ る︒ 参詣 ルー トも 住吉 大社 より 八尾 街道 を通 って
﹁八 尾地 蔵堂
﹂へ 参 詣し
︑そ のま ま東 高野 街道 より 石清 水八 幡宮 へ向 かっ たも のと 考え ら れる
︒以 上の こと から
︑至 徳四 年と いう 時期
・参 詣ル ート の位 置情 報 によ り﹁ 八尾 地蔵 堂﹂ が常 光寺 を指 して いる こと は明 白で あり
︑創 建 期の 常光 寺の 姿が 初め て寺 外の 史料 より 明ら かに なっ た︒ 二
︑円 明院 深誉 と常 光寺 ここ で︑ もう 一点 史料 を取 り上 げた い︒ 建武 元年
︵一 三三 四︶ にお
︵#
︶
こ なわ れた 東寺 五重 塔婆 再興 供養 会の 記録
﹃東 寺塔 供養 記﹄ 下巻 に記 さ れた 奥書 であ る︒ 明 徳三 年壬 申
三 月 十 七日
︑高 野 参 詣︑ 自二
醍 醐 山 円明 院一
立︑ 其日 摂 州 岡本 吉祥 寺下 着︑ 同十 八日
︑天 王寺 東門 村
&
田遮 那院 下着
︑暫 可二
逗留
一
之 由︑ 頻 雖レ
有二
懇望
一
︑廿 一 日高 野 御 影供 結 縁 之 料 参 詣 之 間
︑十 九 日 立
︑河 州 八 尾 地 蔵
・誉 田 八 幡 宮
・太 子 叡 福 寺 御 廟 参
︑其 夜空 也堂
︑廿 日︑ 禿︑ 越二
不動 坂一
︑ 高野 山参 着︑ 西谷 勧修 寺 御 庵 室 寄 宿 元 百 日 参 籠 坊 也
︑︵ 中 略
︶廿 二 日︑ 下二
向 古 瀬一
宿
︑ 廿 三日
︑壺 坂号 南法 花寺
・橘 寺・ 多武 峰・ 長谷 寺等 巡礼 宿︑ 廿四 日
︑釜 口巡 礼︑ 内山 参着
︑奉
レ
謁二
西輪 院僧 正光 賢一
閑談
︑廿 五日
︑ 堅 抑 留 之 間 逗 留
︑本 堂
・灌 頂 堂 等
︑心 閑 拝 見
︑︵ 中 略
︶廿 六 日
︑ 興 福寺
・東 大寺 巡礼 宿︑ 廿七 日還
二
住 醍醐
一
畢︑ 五月 九日
法 印権 大僧 都深 誉 この 史料 を記 した 深誉 は︑ 醍醐 寺の 有力 院家 であ った 報恩 院の 子院 円 明院 を領 し︑ 後七 日御 修法 で聖 天供 を勤 める など 中央 で活 躍し た僧
︵$
︶
で あっ た︒ 観智 院賢 宝と 同じ く高 野参 詣に つい て記 され てお り︑ 至徳 四 年︵ 一 三八 七
︶よ り 五 年後 の 明 徳三 年
︵一 三 九二
︶の 記 録 で あ る
︒ 深 誉の 参詣 ルー トと 南北 朝期 の巡 礼施 設が これ によ り判 明す る︒ 深誉 の 参詣 ルー トは 次の 通り であ る︒
︵%
︶
︻醍 醐寺 円明 院↓
﹁摂 州岡 本吉 祥寺
﹂↓ 四天 王寺
↓﹁ 河州 八尾 地蔵
﹂
・誉 田 八 幡 宮
・叡 福 寺
・空 也 堂
↓﹁ 禿﹂
︵学 文 路︶
↓不 動 坂
↓高 野 山諸 施設
↓奈 良中 部諸 寺社
↓南 都周 辺寺 院↓ 醍醐 寺円 明院
︼ 賢宝 の参 詣ル ート とは 異な り往 路は 四天 王寺 から 河内 の諸 寺社 を経 由 して 高野 山へ 向か って いる
︒こ の史 料で は﹁ 河州 八尾 地蔵
﹂と 記さ
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