第9章 東アジア食料安全保障協力と「食料主権」
序
第1節 問題の所在:「食料主権」と農業問題 1−1 分析枠組みと問題設定
1−2 課題と方法
第2節 東アジア農業の分析と分類 2−1 分析の方法・枠組
2−2 土地・農業生産性と農業問題
(1)土地・農業生産性
(2)経済成長と農業生産性・農業保護
第3節 ASEANレジームと食料安全保障
3−1 ASEAN食料安全保障(ASEANの政策認識)
3−2 東アジア・コメ備蓄制度の成立(政策選好の変容)
第4節 WTO/FTA交渉と農業・食料問題認識への反響(政策選好の相互作用)
4−1 WTOと日本の食料安全保障 4−2 FTAと食料安全保障
総括 認識・期待の分散
序
東アジア初の食料安全保障協力レジームである「東アジア緊急コメ備蓄(EAERR) シス テム」は、通貨変動に備える「東アジア通貨スワップ取極め」をはじめとする地域金融協力 と並び、ASEAN(東南アジア諸国連合)・日中韓(以下、ASEAN+3)の地域枠組みで具 体化した主要な政策プロジェクトのひとつに位置づけられる。この2つの地域協力が発足し た領域は、グローバリズムとの関連で両極に位置する。グローバリゼーションの先頭走者で ある情報通信と金融に対し、食料1は、国境内の属地的要素に規定され、経済のグローバリゼ ーションと相容れない農業生産と表裏一体をなす。こうした特異産業分野で具体化した
EAERR協力の事例検証を通じて、東アジアの機能的な地域協力レジームが統合度を進化さ
せ、地域共同体へ昇華していくのか。前7、8章の分析枠組みとの関連でいえば、ASEAN
+3の機能的協力を媒介にした地域空間の再構築は、認識の連鎖とどのようなかかわりをも っているのかである。具体的には、以下の3つの論点に沿って、議論を展開する。
・EAERRで主導的役割を担う日本とASEANの食料・農業分野の対外政策と、その政 策認識の変動。
・EAERRに反映した日本、ASEAN対外政策(政策意識)の相互作用。
・日本とASEANの対外政策と国際貿易のグローバルレジームであるWTO(世界貿易
機関)農業交渉過程との関係(反響)。
とくに、「農業問題」と「食料問題」の概念を各国の政策認識(問題認識)についての分 析枠組みに援用することにより、ASEAN、日本に確認できる食料安全保障の問題認識の変 容に伴う政策意識(政策選好)の変動を把握し記述・分析する。後述するように、とくに「農 業問題」は政治、経済そして社会の各領域にまたがる問題であり、その問題認識については、
政治・政策の主体や論者によって捉え方が異なり、国際・国内の政治経済の変遷に合わせて 意味内容も変容し農業政策も変化する2。
前章の東アジア金融協力の分析と考察の中でも言及したように、通貨制度・秩序について
1 コメに加えて、小麦・大豆・トウモロコシの飼料用穀物を含めた穀物を総称して「食糧」と呼ぶのが一般 的で、食用農畜産物全般で構成する「食料」と区別する。本章の対象は「食糧」のコメだが、呼称はすべて
「食料」に統一する。
2 「農業問題」の歴史的変遷についての整理・記述については、持田恵三1996.『世界経済』白桃書房、田 代洋一1998.『食料主権:21世紀の農政課題』日本経済評論社を参照。ただし、両者とも資本主義経済に おける階級対立関係の中で、先進国農業の農業を中心に歴史的展開を整理している。
の知識(政策観)・認識(政策モデル/ 問題認識)・意識(政策選好)は各国・主体間で相互 作用しつつも収斂することなく、機能的協力関係が醸成されてきた。知識・意識・認識が日
中ASEAN間で分裂した状態でありながら、グローバルな金融市場にみずから統合を目指す
政策選好によって、「管理された分裂」に向かわせていたといえる。
では、アジアの稲作圏という地理的にも連続した生態環境を象徴する分野で歴史的・文化 的多様性3を内包しながら成立した ASEAN+3地域枠組下で発足したコメ備蓄協力に伏在 する協力促進要因は何か。また、それによってコメ備蓄協力はどのような発展の方向性を示 しているのか。
WTO(世界貿易機関)農業交渉と二国間 FTA(自由貿易協定)交渉が並行して進行する
中で、ASEAN+3地域協力に埋め込まれた日本とASEANの問題認識の変容を分析するこ とにより、問題認識に対応しながら変動する意識(政策選好)を把握する。日本は、食料安 全保障に農業保護の論拠を求めながら、2000 年以降の WTO 農業交渉に臨み、その過程で
ASEAN+3食料安全保障協力が浮上していく。しかし、日本の主張が WTO 農業交渉の中
で後衛に退いてもなお、農業・食料分野のASEAN+3地域協力は、緩やかに深化してきた。
こうした緩慢ながらも対照的な歩みをとる地域協力とWTO農業交渉の推移に照らしながら、
日本・ASEAN の対応を分析することにより、両者の農業・食料についての政策意識の異同 はより鮮明になるであろう。
国際関係論からアプローチした ASEAN+3のコメ備蓄協力の先行研究としては、大庭論 文[2004、2007]4がある。ASEANの食料安全保障について、共通の利益を国際協調の動因と する新制度主義的な視座から、成立過程を詳述している。コメ需給の逼迫する国ではなく世 界最大のコメ輸出国のタイと、構造的なコメ過剰が続く日本が、「食料安全保障」という問題 に対応する中で生まれる共通利益を、いかに認識し、他の東アジア諸国とともに地域利益の 実現のために何故、協力するのか。この先駆的な論考の中では、食料安全保障問題について 認識の収斂する過程は、研究対象の外に置かれている。
3 他産業と異なり生産の単位が、生活の単位でもある家族的経営(独立自営農)であることは世界に共通す る農業の特徴である。一国・地域の農業・農村が多様な歴史・文化的要素を内包し、各国の農業問題とその 認識に投影されていることは、従来指摘されてきたことである。歴史・文化的側面についての分析、考察は 本章の目的から逸脱するとともに筆者の力量を超えているが、問題意識の背景として以上の点に言及してお くと同時に、農業・農村の歴史・文化的側面を物語る次の一節を紹介しておきたい。 「もちろん、各国に は各様の歴史や文化があり、それらによって農業がおかれている状況も一様ではない。しかし、それらの農 業と農民のあり方は、一面では各国固有の歴史や文化によって特徴づけられたものであると同時に、他面で は独自の農業・農民のあり方が、それぞれの国の歴史や文化を強烈に特徴づけてきたという側面があること も、十分に考えられる」(七戸長生 1995.『世界の農民群像: そのバックボーンに学ぶ』農文協、48頁)
4 大庭三枝2004.「東アジアにおける食料安全保障協力」『国際政治』135号24-42頁。― 2007.「東アジア における食料安全保障協力」進藤栄一・豊田隆・鈴木宣弘編『農が拓く東アジア共同体』日本経済評論社、
93-100頁。
本章では、分析枠組みの中で、一義的に「農業問題」・「食料問題」を操作定義することに より、政策主体の問題認識の変動を位置取りするための分類軸を設定し、ASEAN+3の地 域協力の関係と日本・ASEANの政策意識の関わりとその方向性を明らかにしたい。具体的 には、初歩的な農業生産性分析を加え、この分析結果と農業問題認識との整合性に配慮し、
上記の3つの論点に対応する事例研究を踏まえ、国際貿易交渉下での日本の対外政策と地域 共同体を目指すASEANの相互作用と、問題認識・政策認識の収斂状況を分析する。これに より、「認識」「意識」を分析枠組みに据えた、東アジア地域協力の新たな視座を提示すると 同時に、欧州地域統合の契機ともなった共通農業政策への発展可能性について国際関係の視 点から考察を試みる。
なお、通貨危機後に東アジア地域協力が制度化する過程では、中国の政治経済的役割は増 大しつつあるが、本章では考察の主な対象を日本、ASEANに限定した。中国首脳が相次ぎ 食料安全保障認識を表明するのは、経済発展に伴う食料不安説が台頭した1994年11月の鄧 小平・天津視察にまで遡る5。これを境に、「自力更生」「(需給)均衡」「備蓄」を柱に据えた 食料安全保障を強調するが、いずれも、米国からの食料供給の途絶を意識し、主要穀物の小 麦を対象にした安全保障を意図していた。ただし、中国首脳のコメに限定した深い言及は少 なく、EAERRの成立過程においても、日本とタイの調整国としての主導的役割が顕著で、
中国の積極的な関与は現在まで確認できない。このため、本章での中国農業問題の記述・分 析は最小限にとどめることにする。
第 1 節 問題の所在
1−1 分析枠組みと課題の設定
(1) レジーム・制度・協調
「国際関係の特定分野における明示的、暗示的な原理、規範、ルール、意思決定手続きのセットであ り、それを中心としてアクターの期待が収斂していくものである」[Krasner1982: 2]6。
国際レジーム概念では、上記のクラズナー[Krasner]の定義が一般化した80年代、国際政 治経済秩序の分析概念として台頭した国際レジーム・国際制度についての研究では、先進国
5 「江沢民記談糧食」『糧食問題研究』1994年2期。「朱鎔基副総理談糧食」(『糧食問題研究』1994年3期。
曽慶芬 2004.「論鄧小平糧食安全思想」『西南民族大学学報』人文社科版を参照。
6 Krasner, Stephen. 1982.“Structural causes and regime consequence: regimes and intervening variables.” International Organization 36.2:1-22.
間の合理的な行動の結果としての協調の成否に、考察の主眼が置かれていた[Keohane
1984:48]。一方、1975年にレジーム概念を最初に導入したラギー[Ruggie]とクラトチウィ
ル[Kratochwil]は、Krasner の一般化した定義のうち、とくに「期待の収斂」を「レジーム の構成的な基礎」として重視し、次のように言及している。
「国際レジームは社会的諸制度と一般的に定義され、(それらの社会的制度の周辺で)国際的な問題領 域において期待が収斂する。レジームの構成的な基礎として、期待の収斂を強調すれば、レジームに相 互主観的な性質を与えることが不可避となる」[Kratochwil and Ruggie 1986: 764]7。
すなわち、国際レジーム及び制度を巡る「期待」とは、各国が予め合意したルールを遵守 するという予測を意味するのではない。むしろレジームの存在と本質は、国家間の共通理解・
共通知識に基づき、認識が共有されることによってもたらされる相互主観的な意識に依存す るという視点がレジーム論の核心のひとつとなっている。
しかし、国際レジーム論をもとにした実証研究においては、レジームの定義を構成する原 理・規範、さらにルール、手続きという複合的な概念に実態を照応させて、制度を即事的に 特定することが難しく、実証研究の枠組みにする上で、いくつかの問題を内包している。
Krasnerによると、国際レジームは原因(説明変数)と結果(目的変数)を介在する介入変
数(intervening variable)であり、パワーとインタレストを国家の行動に作用する直接の変 数として位置づけ、レジームは国家間の協調を介入決定する。つまり、レジームを変数とみ なして直接、分析の対象とするのではなく、定数に近い変数として位置づけられている。対 外関係に臨む各主体の知識・認識と意識を所与のものとして位置づけ、理論が構成されてい る。また、各国間協調が存続するための条件の解明に、レジーム研究の主眼が置かれ、機能 的協力関係がいかに出来上がり、創出された後の協力関係がいかに変容しどのような志向性 を持つのか、について考察する場合、従来のレジーム論の方法論的枠組みでは対応は難しい。
本章の課題は、東アジア食料安全保障協力について、規範、ルール、意思決定手続きとい う国際レジームの構成概念のそれぞれを、事例の中で確認・検証し、レジーム的特質を解明 することではなく、また、日本政府及び関連組織・団体が描く直線的・段階的な発展シナリ オ8を理論として検証することでもない。東アジアの機能的協力の実態と志向性の解明が目的
7 Kratochiwil, Friedrich and John Gerald Ruggie.1986. “State of the Art on an Art of the State.”
International Organization 40.4,753-775.
8 東アジア機能的協力が深化し共同体に発展する単調なシナリオについては、2003年6月のASEAN拡大 外相会議で、日本の外務省が提出した論点ペーパーの趣旨(外務省2004.「論点ペーパー1:『東アジア・
コミュニティ』について」、英語版: Issue Papers prepared by the Government of Japan. 2004)を参照。
である。具体的には、(ⅰ)各種機能的協力の促進→(ⅱ)地域的規模の制度的取り決め→(ⅲ)
共同体意識―という段階的発展を構想する共同体形成シナリオ9と、実際の地域協力の形成過 程との現時点での乖離状況を、ASEAN+3機能協力の代表事例のひとつである食料安全保 障協力の国際関係論的枠組みを用いた考察によって、明らかにすることである。
本章の目的と課題は換言すれば、東アジア域内各国が、(ⅰ)〜(ⅲ)へと段階的な発展 を遂げ、最終的に共通の政策認識・意識によって担保されて、国際(地域)レジーム・制度 が構築され得るのか、その可能性を事例分析から明らかにすることである。すなわち、現在 の各国の政策意識が、地域統合・共同体形成シナリオの軌道上で収斂しているかどうかにつ いて確認し、現行の機能的協力関係の問題点を浮き彫りにすることでもある。
事実、東アジア共同体構想との関連の政策提言型の研究10では、ASEAN+3の食料安全保 障分野の機能的協力を、EU の共通農業政策モデルへの発展と、地域統合や地域共同体の嚆 矢として位置づけ、将来の課題と展開を構想する論考も少なくない11。こうした共通政策や 政策協調の実際では、EU の例を見るまでもなく、国家レベルの資源・所得の配分の態様を 決定づける。当然のことながら、そのプロセス途上では、経済合理性の検証に限らず、交渉 時点の政治経済的な実態を、世界と地域の構造の一部として把握したうえで、各主体は政策 認識(理論・モデル)を固め、実際の政策へと展開する。その過程では、政策認識と実際の 乖離はつねに生じ、変動するはずである。
本章では、Ruggie、Krasner、Kratochwil、Keohaneらの古典的研究業績ともいえる国際 レジーム論の概念を批判的に援用するとともに構成主義的な視座を取り入れ、政策選好(意 識)が、農業・食料問題についての認識と連鎖しながら変化するのに合わせ、ASEAN+3 地域協力が成立する条件と協力が示す志向性を明らかにする。ASEAN+3の食料安全保障 協力で主導的かつ調整的な役割を担うASEANと日本の相互作用を知識・認識・意識のレベ ルから観察し、認識の収斂する状況と政策選好(意識)の変遷を確認する。東アジアの食料 安全保障協力の成立過程について、国際関係の伝統的な主権概念から派生した曖昧さを残す
「論点ペーパー」では、機能的協力関係を積み上げていき、制度化を図り、将来、地域の共通認識とアイデ ンティティが醸成されていくという展望に言及にしている。このシナリオを受ける形で、調査研究・政策提 言を行っているシンクタンクとして代表的なものに、東アジア共同体評議会(会長・中曽根康弘)がある。
9 上記の論点ペーパーの日本語訳では、「共同体」という訳語を用いずに「コミュニティ」と訳し、原文も小 文字の「c」で始まるcommunityという一般名詞として使用している。米国など東アジア域外国が抱く排 他的地域主義の懸念への配慮と推察できる。本章では、論点ペーパーの配慮はむしろ「共同体」形成への意 識の表れであると逆説的に解釈し、「共同体」の表現を採用した。
10 進藤栄一・豊田隆・鈴木宣弘編著2007.『農が拓く東アジア共同体』日本経済評論社、谷口誠2004.『東 アジア共同体』岩波書店を参照。
11 分野ごとに機能的な制度を構築し、東アジア共同体を「設計」し「つくる」という政策提言型の代表的論 考集としては、進藤栄一、平川均編著2006a.『東アジア共同体を設計する』日本経済評論社を参照。
食料主権と食料・農業問題の認識枠組みを分析の基準に設定して、国際レジーム・制度論の 因果関係では把握できない東アジアの地域形成について考察する。
(2)食料主権と食料安全保障
食料主権(food sovereignty)と食料安全保障(food security)は、いずれも政治、経済、
社会の各要素を併せ持ち、食料の安定確保を目的にする点において類似の概念であり、両者 とも一義的な定義が存在せず、意味内容は政策主体によって変わってくる。
「食料主権」は、個人の人権保障、国家の主権的な権利の双方の範疇に属する曖昧な概念 として定義されてきた。国連人権文化経済委員会の報告書(2002 年)12では、「食料に関す る権利」(the right of food)の尊重について提言しているが、その中では国家の権限との関 わりについては言及がなく、「食料主権」とは性格を違える概念である。
「食料主権」の用語が公式文書に最初に登場するのは、FAO(国連食料農業機関)の1996 年世界食料サミット(World Food Summit)と併催したNGO(非政府機構)の世界フォー ラムが採択した宣言文書である。それによると、以下のように記述されている。
「6.国際法では、食料主権がマクロ経済政策、貿易自由化に優越することを保障されなければならない。
食料は、社会、文化的次元のものであるため、商品で捉えられるものではい。
6.1 いずれの国家も、いかなる報復もなく、適切と考えられる食料供給の水準と栄養の質を達成するた めの食料主権に対する権利を有するべきである。国内、国際市場の力のみで、食料の不安定性を解 決できない。多くの事例で食料主権を浸食、あるいは食料の不安定性を増幅している。ウルグアイ・
ラウンド合意は、順次見直すべきである」(筆者訳)13
この記述の特徴的なことは、「食料主権」を、国境の枠内で輸入国が自給する権利と重ね 合せていることである。行動範囲・主体間の関係において領域性の希薄な非国家主体の代表 格である国際NGOが、食料の確保する権利を基本的人権として認め、国家の主権的権利の 強化を主張している点である。GATT(関税・貿易に関する一般協定)という暫定的協定か
12 国連特別報道官のジグラー[Ziegler]は2002年、国連人権経済社会委員会に提出した報告した中で、「食料 に関する権利」を次ぎのように定義している。「消費者としての人々の文化的伝統と一致する、量的、質的 に適正かつ十分な食料に、直接的もしくは購入によって、規則的、恒久的そして自由にアクセスする権利で ある。肉体的、精神的、そして個人としてまた集団として恐怖から解放された、満ち足りて威厳のある生活 を確保する権利である」。食料の権利を基礎にした食料安全保障は「新しく、より重要な要素」を追加し、
国家はこの権利を尊重し、法的に達成するよう拘束される。すなわち、食料安全保障によって達成すべき目 的要素として「食料に関する権利」を定義している。Ziegler, Jean 2002. Report of the United Nations High Commissioner for Human Rights to the Economic and Social Council. United Nations Commision of Human Rights Fifty eighth session.11.
13 NGO Forum ON FOOD SECURITY. 1996. A Statement by the NGO FORUM to the World Food Summit.<http://www.foodsovereignty.org/new/history.php>(2007年6月21日取得)。
ら、正規の事務局組織と貿易紛争裁定機能を持つ多国間組織として1995年に発足したWTO の協定は、協定署名国の国内法に優先する14。これを国家主権の否定とみなし、農産物保護 政策の例外規定を認めてきたGATT以前の国内法を事実上、優先した状況に復帰すべきとい う主張が、NGO の求める食料主権の拡充の背景に存在する。すなわち、食料主権は、食料 輸入国の生産刺激策や農業保護を、貿易歪曲効果を持つ政策として一律に否定するWTO農 業交渉に対する反論として浮上し、国家と市場(自由貿易)の対抗関係を否定する概念とい える15。
国内自給の拡充を基礎的手段に位置づけると同時に、国家の権限と農産物自給を結びつけ る「食料主権」に対し、もう一方の「食料安全保障」概念は、ⅰ)手段の多様性、ⅱ)緊急 性、についての2点で「食料主権」と本質的に異なる意味を持つ。とくに、「食料安全保障」
の手段は、国内自給に限定せず、「国内自給+安定的輸入+備蓄」の3つの要素で構成する。
つまり、「食料安全保障」は、市場経済との対立ではなく融和を前提に組み立てられた概念で あり、自由貿易の拡大とともに、目的達成の手段も、従来の国家から市場の役割を求める方 向にシフトしてきた。その一方で、国際需給が不安定な食料の供給を自由貿易に過度に依存 することへの警戒から、国内農業保護と自給の主張の論拠となりやすく、実際の政策意識に おいて、国内自給についての国家権限である「食料主権」との概念の差はさらに曖昧になっ てくる。
したがって、食料安全保障の目的要素である「国内自給+安定的輸入+備蓄」のどこに重 心を置くかによって、国家・地域単位で政策観に差異が生じ、各主体の問題認識・政策選好 も変動する。政策観〜政策認識〜政策意識の連鎖も、ASEAN+3の構成メンバー間に差が 生じる。市民社会的な人権概念と、国家安全保障や国民経済の安定を優先した「食料主権」
認識と結びつくこともあり、国ごとに食料安全保障認識も変わってくる。
たとえば、日本の場合、戦後農政の基本的な方向を明確にした 61 年の農業基本法を含め て、農水省及び食料庁の審議会・研究会等の公式資料では、食料安全保障の概念について明 確に言及されることはなかった。2008年10月時点でも、99年に改定し施行した食料・農業・
農村基本法の第二条に「食料安定供給の確保」、第十九条で「不測時における食料安全保障」
がそれぞれ明文化されているのみである16。
14 超国家機関としてのWTOについての整理は、田代 1998. 前掲書13-14頁を参照。
15 農水省担当官のインタビュー(2008年10月7日)によると、国家と市場の関係を対立的ととらえる「食 料主権」については、日本政府の公式文書の中では、概念そのものが確立せず多義的文言であるとの理由か ら、使用していない。
16「第二条
2 国民に対する食料の安定的な供給については、世界の食料の需給および貿易が不安定な要素を有してい
第十九条に「不測時」について、予想される具体的状況の記述説明はないが、速水・神門 の「ありうべき食料危機」17の分類に従えば、(1) 偶発的危機、(2) 循環的危機、(3)政治的危 機、(4)マルサス的危機に大別される。このうち偶発的危機と政治的危機は、明確な区別は難 しく、地域紛争に伴う輸送路の途絶のほか、経済封鎖や穀物禁輸措置も挙げられる。この場 合の「食料安全保障」は、国際政治上の経済的武力(economic force)への対抗措置として の意味を持ち、シャーフェン [Sharfen]が定義した軍事的手段の代替・補完手段の性格を持 つ「経済安全保障」の範疇に含まれる18。それによれば、経済力を武力とみなし、「敵の行動 の変更または利益を奪うための経済的武力の適用」が、経済的武力の適用による「経済安全 保障」であり、カーター政権時に、米国が発動した米国の対ソ連穀物禁輸措置が典型的事例 である19。また偶発的危機では、地域紛争や労働ストに伴う輸送手段・ルートの途絶のほか、
自然災害による食料供給の急激な減少もこれに該当する。
農業生産の豊凶変動に伴う価格急騰などの循環的危機や、世界人口の幾何級数的な増加に よる食料供給不安といったマルサス的危機はいずれも、平時の需給変動と截然と区分するこ とは難しい。このように、食料安全保障が想定する「ありうべき危機」と、平時の需給変動 による供給(輸入と自給)の不安定さとの間の境界が不明瞭であると同時に、国家の政治経 済事情によっても問題認識に差が生じてくる。危機に対するそれぞれの安全保障対応策では、
選択する手段が、平時からの食料安定供給の確保とも関係しており、とくに国内自給率の拡 充に手段を頼ろうとする場合は、通常の農業政策との問題の境界がきわめて不明瞭なものと なる。つまり、前述した食料安全保障手段の「国内自給+安定的輸入+備蓄」という三要素 は渾然一体の政策として講じられ、各国の農業問題・食料問題認識によって選択する手段の
ることにかんがみ、国内の農業政策の増大を図ることを基本とし、これと輸入および備蓄とを適切に組み合 わせて行われなければならない
(中略)
4 国民が最低限度必要とする食料は、凶作、輸入の途絶等の不測の要因により国内における需給が相当期 間著しくひっ迫し、又はひっ迫するおそれがある場合においても、国民生活の安定および国民経済の円滑な 運営に著しい支障を生じないよう、供給の確保が図られなければならない」
「第十九条 国は、第二条第四項に規定する場合において、国民が最低限度必要とする食料の供給を確保す るため必要があると認めるときは、食料の増産、流通の制限その他必要な施策を構ずるものとする」
食料・農業・農村基本法(平成11年法律第106条)(抜粋)
17 速水佑次郎、神門善久 2002.「9. 5 食料供給の安全保障」、『農業経済論 新版』岩波書店、296-308頁
18 Sharfen, John C., The Dismal Battlefield: Mobilizing for Economic Conflict. Annapolis: Naval Institute Press,1995.
19 1970年代の世界的な異常気象、米ソ対立の中で発動された「武力」としての食料の禁輸措置は、いずれ
も米国に手によるものである。ニクソン大統領が1973年、国内の大豆不作による供給不足懸念に対応した 大豆輸出禁輸措置、1975年のソ連・ポーランドへの小麦輸出禁輸措置、1979年のソ連アフガン侵攻を機に 実施した穀物の部分的禁輸阻止、1981年のポーランド戒厳令に対抗した米ソ新穀物協定の交渉延期などが あげられる。世界の食料安全保障と穀物の国際需給に影響を及ぼした米国の措置は、東西冷戦期の「経済的 武力」の行使と性格付けられる。ただし、政治的武器化した米国の食料戦略では、米国の国内需要と市況に 対する国内農業の保護に十分に配慮されており、国内政策が、国際的な食料安全保障の要因となった事例で ある。
構成も変化し、また国家間関係にも左右される。
このように、「食料安全保障」と「食料主権」の実態は明確に区別することが難しく、主 体ごとに意味内容も変容する。とくに、農業・食料問題の実態と「食料安全保障」概念の間 の不明瞭さは、各国間の政策認識の乖離と変動につながっており、本章では農業・食料問題 認識と政策選好を対応させながら、東アジア・コメ備蓄制度を分析する。
1−2 課題と方法:「食料問題」、「農業問題」認識の分類軸
国際貿易交渉が進む中で ASEAN+3の地域協力として始動した EAERR の備蓄対象は、
東アジアで主食としているコメである。戦前戦後を通じて、コメ及び農業を介して東アジア が一体の地域空間を形成した事実を実証するまでには至っていない。むしろ、歴史・文化、
生態系、技術の各面において多様な性格を持ちながら、同時に一体であることを象徴すると いう逆説的な意味を持つ産物がコメでもあった。
たとえば、コメを民族のアイデンティティ(自己認識)の表象としてとらえたものとして 大貫恵美子らの論考がある。中国・朝鮮といった「外地」に対する他者認識の相互作用を通 じて戦前・戦後における日本人の自己認識を歴史人類学の視点から分析している20。それに よると、内地米が外地米に品質の面で優位であるという認識と、日本のナショナリズムが結 びつき、当時のアジア地域主義と同様に、日本と他のアジアとの間にコメを通じた非対称な 認識をもとにした稲作文化圏の階層秩序を形成していた。
飯沼二郎[1967, 1975]21ほか田中耕司[1998, 2006]22、高谷好一[2000]23らの論考は、
東南アジアと日本農業の比較を念頭に、アジアの稲作が基盤とする生態系と技術(農法)に 共通文化を見出そうとした研究である24。第1章で空間論の視座から考察した京都学派の思
20 歴史人類学によるコメとアジアにおける自他認識についての論考としては以下を参照。大貫恵美子1995.
『コメの人類学:日本人の自己認識』岩波書店。山内明美2007.「自己なるコメと他者なるコメ:近代日本 の<稲作ナショナリズム>試論」一橋大学言語社会研究科『言語社会』第2号 391-409頁。両者の論考に 共通する論点は、一方で近代天皇制を西洋の政治制度の対抗概念として再認識する中で、古代から稲作儀礼 を「伝統」として「創造」しながら、他方では外米(朝鮮米、南京米、台湾米)に食料問題の達成を頼る日 本人社会に差別的な「コメ・ナショナリズム」が形成されたという点である。「内にあっての地方」、「外に あっての植民地」という差別的なナショナリズムの断面をとらえ論じており、コメ文化にはナショナリズム が複雑に影響しており、東アジアの共通要素として無批判に受け入れることの問題を示唆している。今日の コメ問題認識およびリージョナリズムに伏在ずる阻害要因としてのナショナリズムの問題に通底する視点 である。
21 飯沼二郎1967.『農業革命論: 近代社會の基盤』未来社。―1975.『日本農業の再発見』日本放送出版協会。
22 田中耕司2006.「生態環境は『東アジア共同体』の共通基盤たりうるのか」早稲田大学21世紀COE現代
アジア学の創生(CAS)編『第五回国際シンポジウム 現代アジア学の挑戦』報告書、160-65頁。
―1998.「水田が支えるアジアの作物生産」竹内和彦・田中学編『岩波講座 地球環境学6 生物資源の持続
的利用』岩波書店、123-50頁。
23 高谷好一 2002.『多文明共存時代の農業』農村漁村文化協会。
24 飯沼 1967. 前掲書の「農業革命論」では、和辻の風土論による類型(乾燥・湿潤)に、「中耕」という概
想的基盤を共有し、文化的な東洋の異質性の根拠を気象的な風土に求めた和辻哲郎の論考25 を戦後、発展的に継承した研究でもあり、西洋文明と農業に対する比較の視座がアジアの独 自性を探求しようとしたものである。
情報・通信技術革新のもとで国境を超えるアジアの農業食品産業の拡大に着目し、東アジ ア共同体の魁として「農業食品共同体」26を提唱する政策提言的な論説もある。これらの多 くは、アジア農業に共通文化の要素は重視せず、「共同体」の基盤を、アジアに共通の食品産 業のための市場の形成と拡大ととらえ、市場を介在した「売るための農業」27に経済共同体 の展望と活路を見出そうとしている。この中で論じられているのは、狭義の農業・食料問題 の視点ではなく、東アジア地域における食品市場ついてである。
こうした戦前戦後を通じて指摘されてきた東アジアの農業と食料を、地域単位の基準とし て位置づけることは困難である。文化・歴史、技術の多様性に加えて、政治・経済発展段階 の差が、現在の国際関係においての日本とASEAN諸国の農業問題認識(政策認識)と政策 選好(政策意識)にも少なからず影響してくるためである。
日本の農政は、農産物自由化交渉の中で、非農業的側面の「多面的機能」を日本独自の問 題認識の論拠に据えて、「多様な農業の共存」を主張することで、農産物を自由貿易の例外と することを強調してきた。後述するように、ウルグアイ・ラウンドの農業合意を受け 2000 年にスタートしたWTO新ラウンド(DDAラウンド)の農業交渉では、農産物を非貿易的関 心事項に位置づけ、多国間交渉に臨む一方で、他方では日本の交渉相手国が日本の農産物自 由化を要請する二国間FTA交渉から距離を置き続けた。しかし、2003年以降の一連のWTO 農業交渉で、日本と従来、共同歩調をとってきた EU(欧州連合)が米国寄りの姿勢に交渉 姿勢を転じ米欧連携が実現すると、WTO 農業交渉の中で日本は孤立する。こうした通商政
念を分類に加え、アジアを「中耕除草農法」地帯という単一の地域としてとらえた。飯沼の理論は、アジア の風土と農業を巨視的かつ俯瞰的にとらえ、同一類型視するものである。批判も少なくない。これに批判的 な論考としては加用信文の下記の著作を参照。加用が、欧州・アジア内部をそれぞれ微視的に観察し、地域 内部の特異性を指摘している。飯沼、加用の研究成果の対照的な視角と主張は、アジアという単位の内部に は、多くの多様性が認められ、東アジア農業問題を一律に規定することの困難さを物語っている。加用信文
1972.「風土と雑草−和辻風土論批判−」『日本農法論』岩波書店。
25 和辻の風土論は、東洋の気象的特徴を「モンスーン」的風土として規定し、乾燥地帯の欧州との気象的風 土の差を、農業労働と雑草との競合の差に対応させている。東洋は、湿潤な気象条件の中で、「日本の農業 労働の核心をなすものは草取りである」のに対し、「ヨーロッパにおいては、ちょうどこの雑草との戦いが、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
不必要、、、
」とした(「」内は、和辻哲郎 1979(1935).『風土−人間学的考察』岩波書店、87頁から抜粋、
傍点は原文に基づく)。風土の差異を農業と地域単位の決定要因とすることに対する批判については、加用 前掲書を参照。
26 進藤栄一2006b.「東アジア経済統合 ―農業を軸に」日本経済新聞2006年10月25日朝刊および 2007.
「序章 フードポリティックスを超えて:東アジア農業食品共同体への道」進藤栄一・豊田隆・鈴木宣弘編
『農が拓く東アジア共同体』日本経済評論社、11-13頁を参照。
27 原洋之助2006.「経済のグローバル化と<売る>ための農業」『at:現代農業論入門』太田出版、38頁を 参照。
策を巡る国際環境の変化と歩調を合わせるように浮上したのが、ASEAN の地域協力を拡張 してできた東アジア食料安全保障レジームのEAERR協力と、それに先立つ「国際備蓄構想」
という食料安全保障の多国間協力であった。いずれも、日本政府が構想の段階から、主導的 に関与し提案したものだが、「農業の多面的機能」という独自概念に基づく日本の食料安全保 障論(政策認識)は、DDA ラウンドで農業保護の支持を獲得するための交渉手段としての 性格を帯びていた。いわば、農業問題の副産物として食料安全保障が浮上するという“農主 食従”の政策選好(政策意識)が観察できる。
農業問題の中に食料安全保障認識が埋め込まれ、農業保護貿易志向を色濃く映す日本の政 策選好に対し、ASEANの食料安全保障についての政策認識は、域内貿易の拡大と表裏一体 に論じられてきた28。東アジア食料安全保障協力の母体となった79年のAERR(ASEAN緊 急コメ備蓄)協力協定に先立ち、ASEANは76年、結成10周年目にして初開催の首脳会議 で「ASEAN協和宣言」(Declaration of ASEAN Concord)29を採択した。その中で、ASEAN 地域協力の基本枠組みが提示され、一次産品とくに食料とエネルギー供給を優先的事項の筆 頭に掲げた。ASEAN 諸国が重化学工業中心の輸入代替工業化政策を目標に、基礎産品の安 定供給と域内貿易制度の確立が喫緊の課題に位置づけられていたためである30。
さらに後述するように、日本、中国、韓国との協力を取り込み 2003 年に試験稼動した
EAERR(東アジア緊急コメ備蓄協力)も、92年に合意したAFTA(ASEAN自由貿易地域)
に沿ったASEANの貿易自由化策と密接不可分の関係にある。改革・開放を強めた中国経済
が沿岸部を中心に躍進し、ベトナムは92年7月に東南アジア友好条約(TAC)に加盟した。
グローバルな次元では米国主導下で APEC(アジア太平洋経済協力会議)の政治機構化
(politicization)31が加速し、東南アジアの冷戦構造を規定してきた政治経済関係が転機を
28 ASEANの域内農産物貿易拡大と、ASEAN農業・食料安全保障協力を表裏一体の政策と位置づけ70年
代ASEANの農業貿易をサーベイした論文としては、Wells, R. J. G. 1980. “Asean Intraregional Trading in Food and Agricultural Crops: the Way Ahead.” Asian Survey 20.6: 661-972。
29 Declaration of ASEAN Concord. Indonesia, 24 February 1976. <http://www.aseansec.org/1216.htm>
(2008年8月10日取得)。
30 ASEAN域内経済協力の背景には、1960年代から各国が個別に対応してきた輸入代替工業化が70年代に、
それまでの軽工業を主とする政策から、資本財を含む重工業諸部門へ移行する段階に達したことがある。そ のために一国市場を超えた大規模な地域市場の形成による規模の経済が必要となっていた。こうした
ASEAN域内ニーズと国連アジア極東経済委員(ECAFE)、国連貿易開発会議(UNCTAD)、FAOが中心
になって作成した国連報告(1972年)の提言に基づき、ASEAN地域協力が始動した経緯がある。食料協 力もこの中に位置づけられる。ASEAN域内経済協力が発足した経緯と政治経済的背景については、以下を 参照。清水一史1998.「第1章 ASEAN域内経済協力の形成」『ASEAN域内経済協力の政治経済学』ミ ネルヴァ書房、23-50頁。黒柳米司 2003. 「第5章 域内協力の進展と限界」『ASEAN35年の軌跡』有信 堂、65-73頁。
31 Sopiee, Noordin. 1997. “Should AEPC Address Security Issue?” in Fred Bergsten ed. Whither APEC?
The Progress to Date and Agenda for the Future. Wasshington DC: Institute for International Economics, 207-210.
迎える。ASEANがこうした転換期の構造変動に対応しながら、AFTAに駆り立てられる動 きに歩調を合わせて、食料安全保障と農産物域内貿易の拡充を目指す「食料・農業・水産物
におけるASEAN協力行動の中期プログラム(1995−99)」がスタートした。この流れの中
で、国際環境の変動に対応した新たな政治経済協力として、ASEANのAERRが東アジア大
のEAERRへと発展していったのである32。
ASEAN+3食料安全保障協力が具体化していく過程で、ASEAN+3諸国農業と多様な問
題認識と政策選好を動態的に把握し、記述分析するための方策として、2つの方法の組み合 わせを採用する。まず、食料問題と農業問題という2つの分析操作概念を設定するとともに、
本章の食料安全保障協力の対象農産物であるコメの問題認識を補助的な分類概念に加えて、
各国の問題認識の位置づけを分類する。その上で、各国農業問題を生産性分析の結果に対応 させる(第 2 節)。この分類を議論の起点に据えて、東アジア食料安全保障協力の展開、日
本とASEANの食料・農業問題の認識の変動について記述分析する(第3節、4節)。
食料問題と農業問題を分別したシュルツ(Schultz T.W.)33 の定義よると、農業生産に 必要な資源(土地・労働・資本)配分を基準に、食料需要>供給(食料不足)となる時、食 料問題(food problem)が生じ、農業生産力増強のために非農業から農業への資源移動を要 する状態になる。その逆の状態、すなわち食料需要<供給(供給過剰)の場合に農業問題
(agricultural problem)が発生し、労働力を中心に農業から非農業への資源移動が継続す る。食料問題の対応として一国単独の食料増産政策、輸入拡大、そして備蓄による食料確保 がある。一方、農業問題では、経済発展に伴い生じた農業と非農業間の所得格差の解消策が 求められる。
Schultz の定義に基づく分類軸を基準に、各国の問題認識を農政の志向(政策選好)に置
き換えて分析する。需給関係に着目したSchultzの定義は、資本主義の構造問題として「農 業面にあらわれる社会問題」34と定義し、農民層分解過程で政治経済社会に発現する諸問題 の分析から問題の根源を探求しようとしたマルクス主義労農派系の農業経済学35の定義とと もに、古典的な議論に属する。とくに、Schultz の定義は、農業問題・食料問題を農産物需 給関係に収斂させており、問題の所在を皮相的なものにすることは否めない。
その後、農業・食料問題の分析枠組みの彫琢が進み、例えば、後述する速水[2001]、速水・
32 Mya,Than. 2001. “Food Security in ASEAN. “ASEAN beyond the regional- crisis: Challenges and Initiatives. Singapore: Institute of Southeast Asian Studies 148-175.
33 Schultz, T.W. 1945. Agriculture in an Unstable Economy. New York: McGraw-Hill Book.
34 大内力 1978.『農業問題』岩波書店、4頁。
35 たとえば、大内 同上書、宇野弘蔵1965.『農業問題序論』青木書店。
神門[2002]36は、農工間生産性格差と、資源配分の農業調整過程から農業問題に接近してい る。そこでは、農業問題の変化を経済発展段階と関連づけ、農工間の生産性格差と、生産物 需要の価格弾力性の違いから、途上国の食料問題と中所得国の相対的貧困問題、先進国の農 業調整問題を同じ分析枠組みとして提示し、精緻かつ長期の国際比較を可能にしている。本 章では、東アジア諸国農政と対外政策の政策選好及びその基底にある各国問題認識の把握を 主たる目的にする。したがって、まずシュルツのより簡明な定義を用いることで、問題認識 を分類するための軸を設定し、農業・食料問題の各国の位置とその認識の変動把握を容易に する。その上で、第2節において、速水・神門の「農業調整問題」に対応した農業生産性の 分析を介して分類内容を精査する。
考察対象のコメ貿易は世界生産量の5%程度と、他の穀物貿易に比して小規模である。し かし、日本を例にとるまでもなく、貿易交渉において政治性を象徴する農産物であるため、
コメに限定した問題認識の分類軸を設定する。
コメ文化は前述したとおり、東アジア地域の数少ない共通項として議論されてきたが、品 種構成でみた場合、短粒種(ジャポニカ米)の日本、韓国、中国と、長粒種(インディカ米)
のASEAN諸国は、品種の異なる産米地域で明確に区分される。本章では、平時の需給変動
とその調整のための地域枠組みを考察対象にするのではなく、供給途絶ないし、それに近い 不測の状態を想定した相互支援的な地域食料安全保障協力を中心課題とする。過去を遡れば、
台湾、朝鮮半島といった旧植民地からの外米調達の途を喪失した第二次世界戦後の日本は、
エジプト米、タイ米を外米として、一定期間輸入した経緯がある。50年代を通じ食料難が続 き、戦後10年を経た56年時点でさえ、タイの黄変米を食用として政府が放出している。生 産量が増大した翌57年の『通商白書 昭和32年』の中でも、国際市況に応じて、こうした 外米を調達していた事実が記録されている。したがって、本章では、各国民のコメ嗜好性や 平時の需給調整的な機能については地域協力の実際についての考察の対象から捨象し、次の 3本の分類(座標)軸を設定する。
(a)「農業問題」・「食料問題」の分類軸Z(食料需給軸)
(b) 「コメ問題」の分類軸X(コメ需給軸)
(c) 「地域協力関係」の分類軸Y(協力・被協力/ 援助・被援助軸)
36 速水佑次郎 2001.『新版 開発経済学: 諸国民の貧困と富』創文社。速水佑次郎、神門善久 2002.『農業経 済論 新版』岩波書店。
これらの分類軸により、農業政策及び食料安全保障についての各国の問題認識を図9−2 のように分類できる。網掛け部分は日本、ASEANそれぞれの政策選好の変動範囲を表した ものである。3つ分類軸を基準にして、日本・ASEAN の問題認識の変動を把握し、その結 果をもとに政策意識(政策選好)の変容について考察する。具体的な論点としては、次の3 点である。
ⅰ)各主体(ASEAN、日本)の農業・食料問題認識と政策選好の変動
ⅱ)ASEAN+3地域協力に対する日本・ASEAN間での問題認識(期待)の収斂
ⅲ)WTO農業交渉と、日本・ASEANの政策選好の連関
ⅰ)、ⅱ)については、ASEAN内の問題認識の収斂と、日本との協力関係に焦点を当てて、
第3節で記述する。その上でさらに第4節で、WTO農業交渉が、日本の対外政策の意識(政 策選好)にいかに影響を及ぼし、ASEAN+3を地域枠組みとした国際レジームとしての
EAERRに投影されていくプロセスについて論じる。これは上記のⅱ)、ⅲ)に沿った記述・
分析である。ASEAN+3地域枠組みの下での緊急コメ備蓄協力が、国際レジーム論の理論 枠組みに沿ったかたちで成立しているならば、図9―1の静態的な農業特性の分類及び同2 の中に表示される日本とASEAN間の食料問題・農業問題認識の位置(座標)は、相互の問 題認識が歩み寄りを見せ相互補完的な位置に移動するか、制度化した地域枠組みを仲介し共 通の期待と政策選好に収斂の跡が確認できるはずである。この問いは、現状から予測すれば 図に示した矢印へ問題認識がシフトするかどうかに簡略化できるだろう。
したがって、日本、ASEANの農業・食料問題認識の座標位置と時系列の変化を記述分析 することにより、ASEAN+3東アジア食料安全保障協力を政策選好の変化を以下の諸点に ついて確認し、上記の問いについて検証を試みることにする。
・日本・ASEAN間の問題認識の乖離が、地域協力が進展後も続いているのか否か。具体 的には、日本の食料安全保障の問題認識は、コメ保護政策を特徴とする「コメ農業問題 型」で固定された状態が続くのか。対して ASEAN 諸国は、「農業問題」と「協力/援 助」の分類軸の間で政策選好が変動しているのか。
・日本と ASEAN の間の「協力・被協力」(「援助・被援助」)の関係は、認識の上でも変
わらずに、むしろその構図を強めているのか否か。
・WTO 交渉下の日本の問題認識は、途上国の支持獲得を目的に「援助」軸に沿ってさら
に援助・協力を強めようとしているのか否か。また、日本・ASEAN 間で農業食料問題 の認識が接近し、収斂しようとしているのか否か。
図9−1 東アジア諸国農業の分類
出典:筆者作成
図9−2 農業・食料問題の認識軸の設定
第2節 東アジア農業の生産性
2−1 生産性の分析枠組み
土地生産性と労働生産性(価格ベース)の相関37は、それぞれの国でどのように時系列に 変化し、東アジア諸国の農業・食料問題に投影されてきたのか。
生産性という概念の狭義の意味は、資本の生産性であり、投下した資本(価値額)に対し、
生産活動をつうじて実現される価値額で表現される。これに対し、農業の生産力を構成する 要因は、労働力、資本、技術という要因が、土地の持つ生産力に大きく依存する。前述した ように、土地を生産手段かつ労働の対象として植物生産が中心の農業では、播種から収穫ま での労働組織が一年を通じて分断され、自然環境に影響を受けやすいという特殊な性格を持 つ。自然とのかかわりが深い特殊な産業であるために、農業の生産力も歴史性を持つ生態基 盤の上で資本・技術と絡み合い、土地と労働という2つの主要な要素も変化しながら農業生 産を規定する。
農業生産の拡大のための農業開発は、経済開発と同様に、「1人当たりの実質所得が拡大 していく過程」38でもあり、単に単位面積当たりの収量を積算した全体の生産量(物量)の 拡大からのみでは捉えられない39。農業の生産力においても、土地生産性、労働生産性のい ずれか一方が他方を代替するのではなく、双方のバランスが問われてくる。つまり農業全体 の成長は、両指標の積として表される40。したがって、本節では、生産性の分析結果から各
37 労働生産性、土地生産性の計算に用いた農業GDP(国内総生産)、農業経済人口の各数値は国際連合食 料機関の農業統計(FAO stat)を用いた。FAOの農業GDPは、「世界銀行国民経済計算データ、OECD国 民経済計算データファイル」に基づいている。ここでの農業の付加価値には、農作物栽培、家畜のほか林業、
漁業、狩猟が含まれ、2000年価格で評価した。農業経済人口の定義は「農業、狩猟、漁業、林業に従事す るか、職を求める人の数」である。
38 原洋之助 2001.『現代アジア経済論』岩波書店、140頁。
39 本章での生産性を価額ベースで試算した理由として、このほかに各国間比較という分析上の目的がある。
生産品種の多い産業、企業では、物的生産性を計算することが難しいので、付加価値生産性が便われるのが 一般的である。例えば、コメの単収(物量ベース)を各国比較する例もあるが、本章では、農業の特殊性に 配慮し、一国の農業生産の変化を把握することを目的にしている。そのため、野菜や家禽など換金性の高い 農産物も含めた農産物全般の生産性を、農業の主要な生産要素である土地と労働それぞれの生産性の推移を 時系列で分析する。また、農産物貿易交渉を念頭においた生産性の比較を目的にしているため、購買力平価 や国内物価を勘案した実質値ではなく、名目値を用いた。各国間の名目値水準(米ドルベース)の高低が、
価格競争力の根拠になるとの発想である。ただし、試算のベースとなる農産物価格は、厳密には農業生産に よって生み出される社会的な価値に対応するものではない。アジア諸国の農業の生産力構造を分析するため には、他の生産要素(資本・技術)の生産性の分析ほか、各国の経済社会状況を勘案しなければならない。
本章ではこうした問題を認識した上で、土地・労働生産性の相関について考察する。農産物価格と生産性を 対応させることの限界については、近藤康雄 1974.『日本農業論(上)』御茶ノ水書房、8頁[註]を参照。
40 生産性の歪みの影響を象徴する事例として、第二次大戦中の動員による農業労働力不足の影響が挙げられ る。満州開発を目的にした分村や戦時体制下の軍需産業部門への動員による農業生産力の低下という事例が 例証するように、「土地不足と資本不足がもつれ合っているところでは、労働力のみが生産力の実質的内容 をなしているものであるから、労働力減少はそれだけ生産力の低下となる必然性を持っている」(近藤同上 書11頁)。
国農業の発展パターンを農業・食料問題に対応させて比較するために、土地・労働生産性の
「S 字型発展パターン」41と「農業調整問題」の2つの対応関係を明らかにした上で分析の 枠組みとして採用する。
農業問題についての各国認識を分類するために導入したSchultzの「食料問題」「農業問題」
という二分法の定義に対し、速水・神門は農業問題を経済発展段階(国民所得)に対応させ、
「低所得国の食料問題」、「中所得の貧困問題」、「高所得国の農業調整問題」という3つの問 題の類型によるモデルを提示している42(図9−3)。このモデルを生産性のS字型発展パタ ーン(図9−4)に照らして各類型の特徴を整理すると、以下の通りになる。
・「低所得国の食料問題」(S 字曲線の「局面 A」)
産業革命期の英国、戦前期の日本が代表であり、産業発展に伴う人口増に対し、食料需要 も増加し、農産物貿易ないし国内農業生産の増強のいずれかが農政の課題に浮上する。
1980年代初頭までの東アジアの途上国は工業化による経済発展を目標に掲げ、旧植民地時 代からの一次産品・工業原料の輸出と宗主国の工業製品市場という国際分業の再構築を目指 し、輸入品を制限し自国工業製品に代替する輸入代替工業化政策を展開した。67 年の
ASEAN結成からASEAN地域協力の始動期が、「低所得国の食料問題」の時期に該当する。
この段階では、自国農産物価格は低価格に抑制されると同時に、政府開発予算は工業に優先 され、農業への資本投入も産業投資に劣後する。
このため、土地生産性は低迷し、農業の生産性は過剰な農業労働力が非農業へシフトする のに合わせて労働生産性が緩やかに上昇する。この段階の農業政策の主要な課題は、工業化 に伴う所得(非農業)と人口の増大に対応する安価な食料供給と労働力の提供であり、結果 的に農民抑圧型43の政策になる。
・「中所得の貧困問題」(S 字曲線の「局面 B」)
工業化の途上で「低所得国」から「高所得国」へ移行する過渡期の段階。Schultz の分類 定義でいう「食料問題」、「農業問題」(農業調整問題)の双方についての政策対応が混在する。
近代的技術を基盤にした大企業と、在来技術の労働集約的な中小企業の「二重構造」が形成 される。二重構造の底辺企業に低賃金労働力を供給する機能と、「低所得国」段階と同様に、
41 「S字型発展パターン」については以下を参照。原 前掲書141-42頁。総合研究開発機構(NIRA)2001.
『食料・農業分野における東アジア諸国の連携に関する研究』36-40頁。山田三郎 1992.『アジア農業発展 の比較研究』東京大学出版会。
42 速水・神門 前掲書 15-26頁。
43 生産性の時系列パターン「食料問題―貧困問題―農業調整問題」は、本章で言及する経済成長と農業保護 水準の関係と対応している。経済成長に合わせて、各国固有の政治的要因も作用し、「農民搾取―農民保護 の転換―農民保護」と推移する(石田章 2001. 『マレーシア農業の政治経済学』日本経済評論社1-3頁)
所得(非農業)と人口の増大に対応する食料供給の機能を担う。農工間の生産性・所得格差 が拡大し、農村の「相対的貧困」への対応が、農政の課題として浮上する。農業から非農業 への労働力移動に伴う「労働生産性」上昇と農業への資本投下による「土地生産性」の上昇 が併進する。
・「高所得の農業調整問題」(S 字曲線「局面 C」)
食料消費は飽和に達し、食料問題から解放される。飽和した食料生産部門と拡大する非農 業部門との間で資源の産業間再配置が、農業政策の課題になる。しかし、農業に投下した固 有の生産要素の再配置は進まず、資源移動は緩やかなものにとどまる。一方で、農業と工業 の間の所得格差に対応した農業保護政策がとられ、他方では、食料需要が飽和するため供給 量の伸びは鈍化するものの、農業からの人口移動に伴う労働生産性の上昇がさらに加速する。
以上の3類型にもとづき、ⅰ)土地生産性と労働生産性の相関(農業発展のパターン)、
ⅱ)実質GDP(国内総生産)成長との農業の生産性の相関を分析(1980−2004年)すると ともに、農業保護指標を試論として考察する。
経済発展と農業問題の転換
低所得 国段階
中所得 国段階
高所得 国段階
優越する 農業問題 主要な 政策目標
食料問題 貧困問題 農業調整問題
低価格での 農産物供給
農家の相対所得 低下の防止
出典:速水・神門2002.『農業経済論』22頁より引用。
図9−3