「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論 一
はじめに
宗教言語ゲーム論は、宗教研究においてウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を応 用し理論化したものである。その担い手は、ウィトゲンシュタイニアン・フィデイス トや星川啓慈である。宗教言語ゲーム論の内容については「本当に、宗教は〈言語ゲ ーム〉ではない、と言えるのか?――〈宗教言語ゲーム論〉再考」 (『大正大学大学院 研究論集』第二八号)に於いて星川と共著で纏めた。宗教言語ゲーム論を簡潔に述べ るなら、宗教言語ゲーム論とは概念相対主義を採用しながら宗教を一つの体系として 捉え言語的構成主義の立場にたつ思想をいう。 本論文では、ウィトゲンシュタイニアン・フィデイストや星川が提唱してきた宗教 言語ゲーム論とは異なる言語ゲーム理解を提示することで、新たな観点の宗教研究の 礎の構築を目指している。これまでの宗教言語ゲーム論は主にキリスト教の宗教概念 と信者の世界像を重ね合わせる議論を展開してきた。しかし、信者のモデルとして対 象とされたキリスト教や新(興)宗教(オウム真理 教 ( 1 ) )の分析には有効であっても日 本の仏教や神道などの伝統宗教の分析には不向きであるという欠点があるように思わ れる。これらの欠点を埋めるべく、本論文では言語ゲーム論の再解釈を図り、これま での言語ゲーム理論とは異なる基盤を提示し新たな分析の可能性を示唆したい。一
「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論
言語ゲーム論は後期ウィトゲンシュタインの哲学を基に誕生したが、研究者によっ て言語ゲームの解釈が異なる。その原因は、ウィトゲンシュタインの哲学が体系的で はないことや、誰も考えたことのない未踏の領域の問題であったがために、理解が難 しく誤解をされる余地が多分にあったからだといえよう。だが、言語ゲームの理論化 は後期ウィトゲンシュタインの解釈ほど多様ではなく、P・ウィンチの解釈である概 念相対主義と同様の見方で落ち着いたといえる。 そこで、筆者はウィンチ以降の後期ウィトゲンシュタイン研究のいくつかの知見を 導入する。したがって、宗教言語ゲーム論とは異なる観点といっても、後期ウィトゲ ンシュタイン研究において斬新な観点というわけではない。その研究はすでに、それ なりの評価を得ているものである。それは、野家啓一の「ウィトゲンシュタインの衝 撃」におけるウィトゲンシュタイン理解や、全く異なる問題意識ではあるがS・クリ プキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』に登場する懐疑論者の問題提起であ る。この両者の議論は別個の議論でありながら共通点がある。両者の議論に共通して いるのは「今」を基点にして「行為」に重きを置いた言語ゲーム論を展開している点 である。かれら以前の言語ゲーム論では時間の問題を意識して正面から論じたことは なかったように思われる。しかし、野家の議論もクリプキの議論もどちらも言語ゲー ム論に「今」と「過去」という構図を導入する。時間軸を言語ゲーム論に用意するこ と で 新 た な 言 語 ゲ ー ム の 一 面 が 浮 か び 上 が る。 こ の 観 点 に つ い て、 野 家 は、 『 確 実 性 の問題』においてウィトゲンシュタインが取りあげるゲーテの一言に集約されている という。ゲーテの『ファウスト』第一部からの引用である。 〈初めに行為ありき〉 (野家訳、 『確実性の問題』四〇二節) これまでの言語ゲーム論は言語ゲームの中に完結した規約性を求めていた。だから こそ、星川の宗教言語ゲーム論では、諸宗教を体系を持った言語ゲームと理解し信者 の行為を言語ゲームに還元する。しかし、野家の理解によれば「言語ゲームは、自己「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論
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宗教研究の理論構築を目指して
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松
野
智
章
大正大学大学院研究論集 第三十六号 完結した規則の体系によって、一元的に支配されているものではない」ということに なる。確かに、ウィトゲンシュタインも言語ゲームが事実の制約を受けていることに 言及している。 言語ゲームの可能性が一群の事実によって制約されている、というのはまさに 自明のことではないか。 (『確実性の問題』六一七節) さ ら に、 野 家 は ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン を 引 用 し な が ら「 〈 文 法 規 則 の 自 律 性 〉 と い う理念がもはや維持しがたいものであることは明ら か ( 2 ) 」であるという。私たちが目に 触れ確認できることは「今」行われている人々の振る舞いをみることである。この観 点で言語ゲームを捉えれば言語ゲーム論が構成主義ではないことは明らかである。だ からといって言語ゲームが実在主義かと言えば、それも違う。確かに、実在する世界 の制約を言語ゲームは受けている。だが、規則の基盤を実在する世界に還元しようと しているのではない。というのも野家もウィトゲンシュタインも「基礎づけ」を行お うとしているわけではないからである。では、何を根拠に求めるのか。その答えは求 めないというものである。ゲーテの「初めに行為ありき」という一文の引用は、 「〈根 源的振舞い〉や〈基礎づけられない信念〉という文脈の中で理解されるべきも の ( 3 ) 」だ という。つまり、 「言語ゲームを基礎づけ、正当化する営みを終わらせようとすれば、 そ の 終 点 は 一 群 の 規 則 で も 言 語 外 の 事 実 で も な く、 〈 わ れ わ れ の 営 む 行 為 〉 に 求 め る ほかはない」ということになるのだ。 ここで野家が引用したウィトゲンシュタインの文を引いておこう。 しかし、 ここでの「根源的な」という言葉は何を言おうとしているのだろうか。 それはまず、この種の振舞いは 前言語的 4 4 4 4 であるということである。すなわち、 そ 4 れは 4 4 一つの言語ゲームの基盤であり、ある思考法の原型なのであって、思考の結 果として生じたものではない、ということである。 (『断片』五四一節) 他人が痛みを感じているのは確実であるとか、彼が痛みを感じているかどうか を疑うとかいうことは、他の人間に対する、自然で本能的な関係の諸様態に属す るものであり、われわれの言語は単にこの振舞いの補助手段であり、延長なので あ る。 わ れ わ れ の 行 う 言 語 ゲ ー ム は 根 源 的 振 舞 い の 延 長 で あ る。 ( な ぜ な ら、 わ れわれの 言語ゲーム 4 4 4 4 4 は振舞いなのだから。 )( 『断片』五四五節) 証拠を基礎づけ、正当化する営みはどこかで終る。――しかし、ある命題が端 的に真として直観されることがその終点なのではない。すなわち言語ゲームの根 柢になっているのはある種の 視覚 4 4 ではなく、われわれの営む 行為 4 4 こそそれなので ある。 (『確実性の問題』二〇四節) 言語ゲームはいわば予見不可能なものであるということを、君は心にとめてお か ね ば な ら な い。 私 の 言 わ ん と す る と こ ろ は こ う で あ る。 そ れ に は 根 拠 が な い。 それは理性的ではない(また非理性的でもない) 。 それはそこにある――われわれの生活と同様に。 (『確実性の問題』五五九節) 筆者自身のウィトゲンシュタイン理解を述べれば、ウィトゲンシュタインの哲学の 結論は「私たちは端的に生活できている」という至極当たり前のことなのであろうと 思う。それ故に、ウィトゲンシュタインの哲学は同じ哲学的な問いを抱える者にとっ ては、非常に意味があるものだが、このような哲学的な問いを抱えない人にとっては 何の価値も見出せない哲学ということにな る ( 4 ) 。しかし、この「端的な生活」は哲学的 に示唆に富み、多くの議論を提供する。ウィトゲンシュタインはいう。 私はすでに、自分が抱懐するあらゆる信念の根底まで達した。だがこの基礎は また家の全体によって支えられている( 『確実性の問題』二四八節) つまり、事実と規則の両方から言語ゲームは支えられているということであり、ど ちらか一方を指して、それが基盤であるとは言えない。実在主義も構成主義も行為を 確認する中で取り出せる理解であり、どちらが正しいというものではない。行為がた だあるだけだということに気づかず、根拠を求め道を見失ってしまうのである。
二
クリプキの懐疑論
ク リ プ キ の 議 論 は、 『 哲 学 探 究 』 の 二 〇 一 節 か ら 始 ま る 規 則 論 と 二 三 六 節 か ら 始 ま る私的言語論に関連があると主張するものであった。というのもクリプキが発表をす る以前は、この両者は無関係だと考えられていたからである。この主張は、一九七六 年 に オ ン タ リ オ の ロ ン ド ン で 開 催 さ れ た「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 会 議( Wittgenstein Conference )」 で 最 初 の 発 表 が な さ れ、 そ の 後、 講 義 や 発 表 を 経 る 中 で 内 容 の 変 形 も あ り な が ら、 一 九 八 二 年 に "Wittgenstein on Rules and Private Language" (『 ウ ィ ト ゲ ンシュタインのパラドックス――規則・私的言語・他人の心』 )としてまとめられた。 「 過 去 二 五 年、 言 語 哲 学 界 の 中 で 最 も 広 く 議 論 さ れ た 著 書 の 内 の 一 冊 で あ る ( 5 ) 」 と 言 わ れ な が ら も、 興 味 深 い の は、 ク リ プ キ の 主 張 に 対 し、 「 ほ と ん ど の ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ 二「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論 イン研究者が、クリプキの解釈はまちがっていると言っ た ( 6 ) 」ことである。しかし、ク リプキの提起した問題は今日でも解決しているわけではない。批判されながらも重要 視され、またその問題が奇抜なこともあり、ウィトゲンシュタインとは別個の議論と して論じられ、クリプキのウィトゲンシュタインという意味からクリプケンシュタイ ン( Kripkenstein ) と い う 造 語 ま で 出 来 た ほ ど で あ る。 仮 に ク リ プ キ の ウ ィ ト ゲ ン シ ュタイン解釈が間違っていたとしても、クリプキの懐疑論は未だ論争中である。 クリプキの懐疑論は、 ウィトゲンシュタインが想定した生徒の話が元になっている。 生徒はいまや――通常の基準によって判断すれば――基数列に通じている。わ れわれは、 いまかれにもうひとつ別の基数列を書き出すことを教え、 たとえば「+ n 」という形の命令に対しては、 0, n, 2n, 3n, 等々の形の数列を書き出すようにさせる。すると、 「+ 1 」という命令を与えれば、 基数列が得られることになる。――われわれが練習をし、一〇〇〇までの数空間 におけるかれの理解力の抜き打ちテストをしたとしよう。 いま、 生徒に一〇〇〇以上のある数列 (たとえば 「+ 2 」) を書きつづけさせる、 ――すると、かれは 1000,1004,1008,1012 と書く。 わ れ わ れ は か れ に 言 う、 「 よ く 見 て ご ら ん、 何 を や っ て い る ん だ!」 と。 ―― か れ に は わ れ わ れ が 理 解 で き な い。 わ れ わ れ は 言 う、 「 つ ま り、 き み は 二 4 を た し ていかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめた の か!」 ―― か れ は 答 え る、 「 え え! で も こ れ で い い ん じ ゃ な い の で す か。 ぼ く は こ う 4 4 し ろ と 言 わ れ た よ う に 思 っ た ん で す。 」 ―― あ る い は、 か れ が 数 列 を 示 し な が ら、 「 で も ぼ く は〔 こ れ ま で 〕 同 じ よ う に や っ て き て い る ん で す!」 と 言 っ た、 と 仮 定 せ よ。 ―― こ の と き、 「 で も き み は …… が わ か ら な い の か 」 と 言 い ――かれに以前の説明や例をくりかえしても、何の役にも立たないだろう。―― われわれは、そのような場合に、ひょっとするとこう言うかも知れない。この人 間は、 ごく自然に、 あの命令を、 われわれの説明にもとづいて、 ちょうど「一〇〇〇 までは常に2を、二〇〇〇までは4を、三〇〇〇までは6を、というふうに加え ていけ」という命令を われわれ 4 4 4 4 が理解するように、理解しているのだ、と。 (『哲 学探究』一八五節) この議論をもとに、クリプキはある懐疑論者の挑戦を想定する。その挑戦とは、過 去 に お い て、 私 た ち が プ ラ ス と 呼 ん で い た も の が「 ク ワ ス( qus )」 か も し れ な い と いうものである。その懐疑論者のクワス算とは、 もし、 x, y ∧ 57 ならば x⊕y = x + y 、そうでなければ x⊕y = 5 と い う も の で あ る ( 7 ) 。 普 通 の 足 し 算 は x + y = z で あ る。 し た が っ て、 68 + 57 = 125 で あ る が、 ク ワ ス 算 で は 68 + 57 = 5 と な る。 ク ワ ス 算 の 条 件 に 当 て は め る と 68 ( x ) も 57 ( y ) も 57 以 上 と な る た め で あ る。 当 然 私 た ち は、 懐 疑 論 者 に 対 し て こ の 解 が 5 と な る の は お か し い と 指 摘 す る だ ろ う。 例 え ば、 足 し 算 の 方 法 と は 数 を 数 え る 仕 方 と 同 じ で あ る と 説 明 す る か も し れ な い。 「 ま ず、 そ こ か ら x 個 の ビ ー 玉 を 数 え て 取 り 出 し 一 つ の 山 を 作 る。 次 に、 y 個 の ビ ー 玉 を 数 え て 取 り 出 し、 も う 一 つ の 山を作る。それら二つの山を一緒にして一つの山となし、その山のビー玉の個数を数 え る。 そ の 結 果 が x + y で あ る ( 8 ) 」 と い う よ う に、 同 様 に 68 + 57 も 一 つ ず つ 数 え て い け ば 125 に な る は ず だ、 と 説 明 す る。 こ れ に 対 し、 懐 疑 論 者 は 反 論 す る。 君 の 言 う「 数 え る( count )」 と い う 言 葉 の 意 味 が 違 っ て い た の だ、 と。 懐 疑 論 者 に と っ て、 「 数 え る( count )」 は「 ク 数 え る( quount )」 を 意 味 し て い た の だ と 主 張 し、 さ ら に、 「 合 計( sum )」 も「 ク 合 計( quum )」 で あ っ た と 言 い 出 す の だ。 な ら ば、 こ の よ う な 説 明 は ど う で あ ろ う か。 足 し 算 と は、 一 つ の 山( x ) と も う 一 つ の 山( y ) を 足 し て、 ま と ま っ た 一 つ の 山( z ) と な っ た も の だ。 こ の 山 は も と の 二 つ の 山 と は「 独 立 」 し て お り、 こ の 独 立 し た 山 を 数 え れ ば い い と い う も の で あ る。 こ の 説 明 も、 「 独 立 ( independent )」 したという言葉が懐疑論者にとっては 「ク独立 ( quindependent )」 で あ っ た と 主 張 さ れ る だ ろ う。 そ し て、 1 つ ず つ「 加 え る( addit ion )」 と い う 意 味 も 懐 疑 論 者 に は「 ク 加 え る( quaddit ion )」 で あ っ た と 答 え ら れ る 可 能 性 も あ る。 こ うした議論は無限に展開されるであろう。仮に、数学者が加法の結合律を主張しても 無意味である。 ( x + y )+ z = x +( y + z ) ( 9 ) と い う 式 も イ コ ー ル の 意 味 が「 等 し い( equal )」 で は な く て「 ク 等 し い( quequal )」 であると反論されてしまうからだ。 また、異なる議論で反論がなされる例も紹介されている。それは足し算を「傾向性 ( disposit ion ) と し て 捉 え る 傾 向 性 論 者 の 主 張 で あ る。 足 し 算 は 規 則 に 則 る と い う 事 よりも、傾向性が解を導きだしているというものである。懐疑論者はおかしな反論の ためのアイデアを捻出したものだと笑う。懐疑論者は言う、それならば足し算におい 三
大正大学大学院研究論集 第三十六号 て桁が動く際に、いつも繰り上げを忘れてしまう生徒がいたとしよう。そのとき、こ の生徒の足し算は繰り上げをしないという傾向性を有しているのであり、この生徒に は繰り上げをしてはならないという結論が待っているからである。 以上のようにいくつかの議論が紹介されるが、やはり、全ての言葉の意味が異なる 意味で使われていたということこそがこの議論の論点である。その結果として、クリ プキは「ウィトゲンシュタインもヒュームも、過去と未来を結ぶある種の 結合 4 4 に関す る疑いに基づいて、 ある懐疑的パラドックスを展開してい る )(( ( 」とし、 「 あらゆる 4 4 4 4 言語が、 そして あらゆる 4 4 4 4 概念構成が、不可能であるという事、そして実際理解不可能であると いう事、を示してしまっ た )(( ( 」と懐疑論者のいう「何らかの語で何らかの事を意味して いる、といった事はあり得な い )(( ( 」という衝撃的な結論を受け入れる。 さて、ウィトゲンシュタインの哲学との絡みでいえば、クリプキの議論は大きな謎 を抱えている。というのもクリプキは『哲学探究』の二〇一節の前半部分のみを取り 出 し て パ ラ ド ッ ク ス の 議 論 を 展 開 し た が、 そ の 節 の 後 半 部 分 で ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は、 そ の パ ラ ド ッ ク ス に 誤 解 が あ る と 述 べ て い る か ら で あ る。 以 下、 二 〇 一 節 と 二〇二節を確認しておこう。 われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないで あろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させる ことができるから、ということであった。その答えは、どのような行動のしかた も規則と一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということ であった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのであろう。 ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に 次ぐ解釈を行なっているという事実のうちに、すでに示されている。あたかもそ れぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、わ れわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、この こ と に よ っ て、 わ れ わ れ は、 〔 規 則 の 〕 解 釈 4 4 で は な く 4 4 、 応 用 の 場 合 場 合 に 応 じ、 わ れ わ れ が「 規 則 に 従 う 」 と 呼 び、 「 規 則 に 叛 く 」 と 呼 ぶ こ と が ら の う ち に お の ずから現われてくるような、規則の把握〔のしかた〕が存在することを示すので ある。 それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生 ず る。 し か し、 規 則 の あ る 表 現 を 別 の あ る 表 現 で お き か え た も の の み を「 解 釈 」 と呼ぶべきであろう。 (『哲学探究』二〇一節) そ れ ゆ え、 〈 規 則 に 従 う 〉 と い う こ と は 一 つ の 実 践 で あ る。 そ し て、 規 則 に 従 っていると信じていることは、規則に従っていることではない。だから、ひとは 規則に〈私的に〉従うことができない。さもなければ、規則に従っていると 信じ 4 4 ている 4 4 4 ことが、 規則に従っていることと同じことになってしまうだろうから。 (『哲 学探究』二〇二節) 以上のようにクリプキがいうパラドックスは、ウィトゲンシュタイン自身が誤解であ るとクリプキが採り上げた個所の直後に打ち消しているのだ。 ほとんどのウィトゲンシュタイン研究者がクリプキの理解は間違っていると述べた と あ る よ う に、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 直 弟 子 で も あ る N・ マ ル カ ム が ク リ プ キ と 一八〇度異なる理解を示している。マルカムは二〇一節と二〇二節の理解として以下 のようにのべる。 ウィトゲンシュタインが、規則に従うという事は 実践 4 4 である、と言うとき、私 が思うに、彼が意味している事は、或る人の行為は、もしそれが彼と同じ訓練を 受 け た 殆 ど 全 て の 人 々 の 振 舞 い に 示 さ れ る 共 通 な 行 為 の 仕 方 と 一 致 し な い な ら ば、規則に従う事は出来ない、という事である。この事は、規則に従うという概 念には、規則に従う人々の 共同体 4 4 4 という概念が含まれている、という事を意味し ている。……人は規則に「私的に」従う事は出来ない、 と言うとき、 私は思うに、 彼が意味している事は、一人の人だけの諸行為では、たとえそれらが私的であろ うと公的であろうと、規則の 意味を固定する 4 4 4 4 4 4 4 事は出来ない、という事であ る )(( ( 。 マルカムの議論は「共同体」という観点を持ち込んで理解する。マルカム自身がウ ィトゲンシュタイニアン・フィデイストの一人と数えられるように、彼の理解は概念 相対主義と同様ともいえる言語ゲーム論を披露している。彼の主張は、これまでの言 語ゲーム理論の特徴を明確に示すものであった。マルカムとクリプキとの対比は、本 論文の主張がウィンチ以降の言語ゲーム理論と異なるものであることを明確にする。 マルカムの批判は、クリプキのウィトゲンシュタインの理解は間違っているという 指摘である。しかし、哲学の問題としてクリプキの解釈はマルカムの解釈より魅力的 である。この懐疑論に関して、クリプキは彼自身の主張として懐疑論を打ち立てたの で は な く、 『 哲 学 探 究 』 の 理 解 と し て 提 起 し た と 断 っ て い る。 一 方 で、 C・ マ ッ ギ ン が指摘するようにクリプキが「その議論を説得的なものと見ていることは明らかであ 四
「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論 る」ので、本論文では「クリプキのウィトゲンシュタイン」を便宜上クリプキの議論 として呼ぶことにしたい。というのもクリプキの懐疑論はウィトゲンシュタインだけ に依る議論ではないからであ る )(( ( 。 クリプキの懐疑論がウィトゲンシュタインの解釈として間違っていることは了解し たとして、クリプキの懐疑論自体の価値は失われていない。しかし、筆者もクリプキ の議論が全て正しかったとは考えていない。 自 然 主 義 の 立 場 か ら 批 判 を し た マ ッ ギ ン を は じ め 多 く の 哲 学 者 が 議 論 を し て い る が、 筆 者 な り に ク リ プ キ の 問 題 を 整 理 す る た め に、 D・ ル イ ス の 批 判 を 紹 介 し た い。 ルイスは、素朴にクリプキの「クワス算を歪んだもの」と捉え、批判を展開する。ル イスによれば、足し算は、規則を変えることなく継続して計算できるのに対し、クワ ス算は途中で規則を変える計算だという。その結果、クワス算はより複雑にならなけ ればならない。 クワス算を意図するためには、より適格な方の意図が適合することに対し数々 の困難を生み出し、そしてそのせいで適格な意図に有利な前提がひっくり返って しまうようなことを、述べたり、考えたりしなければならない。つまり、適合と 適格性の前提に関する諸原理やそれ以外に寛容の原理なども同時に利用して、主 体がクワス算を意図しているのだとする解釈に有利な方向へとバランスを傾ける ような何ごとかを、あなたは行なわなければならな い )(( ( 。 ル イ ス は こ の よ う に 述 べ「 ク ワ ス 算 は、 足 し 算 ほ ど 自 然 で も 適 格 で も な い が ゆ え に、 それを優勢にするための積極的な何かを必要とする。足し算の方は、何もしなくても 勝つことができ る )(( ( 」と結論づける。確かに、クワス算だけでクリプキの懐疑論を考察 するのであれば、一理あるように思える。実際、クリプキの懐疑論で提起されたがク ワス算に私たちが出くわしたという事例はない。しかし、マッギンは指摘する。 懐疑的パラドックスの言うところはこうである。言葉によって何ごとか意味す るということを成り立たせるようないかなる種類の 事実 4 4 も存在しな い )(( ( これは、クワス算を言葉の意味や概念の問題として捉えられなければならないことを 述べている。クワス算はその導入にすぎず、すべての言葉の意味や概念が異なってい るのではないかという疑いが持たれたことが重要なのである。 「数える ( count ) /ク 数 え る( quount )」 、「 合 計( sum ) / ク 合 計( quum )」 、「 独 立( independent ) / ク 独 立( quindependent )」 、「 加 え る( addit ion ) / ク 加 え る( quaddit ion )」 と い う 言 葉の意味や概念の違いである。そのように考えると、ルイスの批判は数学など論理的 な体系をもったものに有効かもしれないが宗教を対象とするならば、クリプキの懐疑 論はルイスの批判を踏まえた上でも妥当性があると思える。 ルイスの適合と不適合を前提とするなら、クリプキの議論の「規則が一致しない可 能性がある」ことから「言葉には意味がない」という結論は導き出すのに飛躍を感じ る。なぜなら、多くの人が規則に適合する中で、中には異なって捉えている人がいた という事態が起こり得ることを指摘しただけだからだ。しかし、クリプキの懐疑論は 本質的には超越論的である。ゆえに、 異なる可能性がある以上、 「言葉には意味がない」 と断定される。だが、これも意味の違いが明確化したときは「異なっている」と判断 がなされるが、異なることが明確化される以前の言葉の意味は「同じ」とも「異なっ ている」とも言えないはずである。 デイヴィドソンはクリプキの議論に対して、両者の違いが明確化する以前、つまり 単なる分岐の可能性だけでは「同じ」または「異なっている」と判断する概念を必要 としないが、 両者が異なっていたときは、 相違を理解するための概念が必要だという。 デイヴィドソンはクリプキの懐疑論が不完全である点を指摘しながらも基本的には正 しいと述べてい る )(( ( 。 クリプキの主張は「今」の行為に集約される。なぜなら、違っていたということが 表面化するのは「今」しかないからである。これは、これまでの言語ゲーム論と全く 異なる観点を提供することになる。
三
デイヴィドソンとクリプキの近似性
クリプキの議論に賛同したデイヴィドソンの議論を簡潔に押さえておきたい。とい うのも、行為に集約された言語ゲーム論には概念枠というものがなく、反相対主義を 標榜するデイヴィドソンの議論との類似性が読み取れるからである。ただ、デイヴィ ドソンのクリプキの評価を踏まえた上でも、明らかにクリプキとデイヴィドソンは目 指す地点が異なっている。クリプキは、誰一人同じ概念を共有していないという懐疑 を打ち出すのに対し、デイヴィドソンは個々人のコミュニケーションの知解可能性を 目指すからである。とはいえ、概念枠を否定し、さらには概念枠そのものである「言 語」すら否定するデイヴィドソンの主張は魅力的である。彼の文は難解であるが、そ 五大正大学大学院研究論集 第三十六号 の骨子は比較的単純であるようにも思える。 デイヴィドソンの概念相対主義に対する批判の骨子は以下のものである。 枠組が異なると言えるための理解可能な基盤は、 何も見出されていない…また、 すべての人類は――少なくとも言語の話し手はすべて――共通の枠組や存在論を 共有している、というすばらしいニュースを公表するのも、同様に間違いであろ う。なぜなら、枠組が異なることを理解可能な形で言いえないとすれば、それら が同一であることもまた理解可能な形では言いえないからであ る )(( ( 。 つまり、異なる概念枠間で互いに理解が不可能であるならば、そもそも何が異なっ ているのかということすら確認できず、また、同じであるとするのなら何を以ってし て同じといえるのか分からないというのである。彼は一つの基盤で括って概念相対主 義を批判しているのではない。共通の概念という考えも同時に放棄している。なぜな ら、共通であるというのは、他者との比較を通して確認できるものであり、その他者 がいない以上、同じであるということも分からないからである。では、なぜ概念相対 主 義 と い う 考 え が 生 れ る の か と い う と、 デ イ ヴ ィ ド ソ ン の 説 明 で は、 「 枠 組 と 実 在 の 二 元 論 の ド ク マ 」 に 原 因 が あ る と い う。 「 解 釈 さ れ て い な い 実 在、 あ ら ゆ る 枠 組 や 科 学の外部にあるなにか、という考えへの依存」が、枠組と実在の二元論のドクマを通 し て、 概 念 の 相 対 性 と 枠 組 と に 相 対 的 な 真 理 を 与 え る こ と に な る。 し た が っ て、 「 こ のドクマを欠けば、この種の相対性も消えさる」という。では、何が残るのか。それ は個々人におけるコミュニケーションである。その実践があるだけだ。 さて、この概念相対主義批判は文化相対主義という問題に収まらず言語の解体へと 射程を広げる。なぜなら、デイヴィドソンは「概念枠は言語と同一視されてよい」と 考えているからである。 言 語 が 、 多 く の 哲 学 者 や 言 語 学 者 が 考 え て き た よ う な も の だ と す れ ば 、 そ の よ う な も の は 存 在 し な い 。 つ ま り 、 学 習 さ れ た り マ ス タ ー さ れ た り 、 あ る い は 生 ま れ つ き 持 っ て い た り す る よ う な も の は な い の で あ る 。 言 語 使 用 者 が 習 得 し 、 現 場 で 適 用 し て い る 明 示 的 に 定 義 さ れ た 共 有 の 構 造 と い う 観 念 は 、 諦 め な く て は な ら な い )(( ( 。 デイヴィドソンは、 言葉の言い間違いという事例を通してこの結論にたどり着いた。 会話の最中の言い間違えも即座に理解し、互いにコミュニケーションすることが可能 なのは、個々人が言語の体系に照らし合わせ、絶えず確認をして会話をしているわけ ではないということである。
四
むすび
以上、三つのベクトルの異なる哲学を概観したが、上記三者の哲学は、問題の設定 は異なっていても問題とされる対象は異なっているわけではない。どれも「今」とい う観点に鍵を置いている。簡単に纏めると、以下のようになる。 一 はじめに行為ありき。その行為は実在にも規則にも還元されない。 二 同じ行為をしていても、異なる規則に従っている可能性がある。 三 異なる概念などない。共通の概念も無い。あるのは個々人のコミュニケーショ ンだけである。 つまり、ウィトゲンシュタイン、クリプキ、デイヴィドソンとそれぞれ問題関心が異 なっていたとしても、どれも「行為」に問題意識が集約されているという点は同じで ある。そして、その「行為」は実在にも言語にも規則にも概念にも還元されないもの である。 以上が、本論文の立場である。この行為論の観点で言語ゲームを捉え、宗教哲学へ の応用を考えるならば、二点のことに議論が集約されるであろう。 一 実在主義と構成主義の主張は成立しえない。私たちは、この両主張を間違って いるとも正しいとも言えない。あるのは 「今」 の行為のみである。したがって、 実在主義または構成主義の立場に立つ哲学は間違っている。 二 「言語」がないのと同様に「宗教」もない。 私たちは「今」の「行為」を通してしか規則を確認できない。この行為には実在す るものが影響を与えていることも言語や概念や規則が影響を与えていることも事実で あるが、実在するものにも言語や概念や規則にも行為の原因は還元できるものではな い。私たちは、 ただ行為(行動または生活)をしているだけである。また、 言語 ・ 概念 ・ 規則は、 行為の後に想起されるものであり、 時系列的に考えて後付けである。しかも、 そこで想起された事実や概念は他者と共有できるものではない。この論点はクリプキ の議論で論証された懐疑である。この場合、自分で規則を確認することもできないの が、 こ の 懐 疑 論 の 破 壊 力 で あ る。 つ ま り、 「 自 分 で 規 則 に 従 っ て い る と 思 っ て い る こ とが、規則にしたがっていることではない」というように、自らの視点でも他人と共 通 だ と 言 う こ と が 出 来 な い。 他 人 の 視 点 で も 同 様 で あ る。 「 暗 闇 の 中 の 跳 躍 」 と 言 わ れ る よ う に、 規 則 が い つ も 一 致 し て い る と 思 え る だ け で あ る。 そ の よ う に 考 え る と、 六「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論 個々人の言語活動は個々人に還元され、共通の「言語」というものは無くなる。デイ ヴィドソンがいうように「言語」が「概念」であるならば、 「キリスト教」や「仏教」 という概念も解体されることになる。なぜなら、 宗教言語ゲーム論が示すように、 「キ リスト教」や「仏教」の体系の基盤が言語であるのであれば、その言語が存在しない 以上、共通の「キリスト教」や「仏教」という概念は成り立たないからである。さら に は、 そ れ ら を 括 る「 宗 教 」 と い う 概 念 も 成 り 立 た な い。 し た が っ て、 「 言 語 」 が な いということは「宗教」もないという結論を導き出す。 「 言 語 」 も「 宗 教 」 も 無 い の に、 ど の よ う に 研 究 を 成 り 立 た せ る の か と い う 疑 問 が 生 じ る の は 当 然 で あ ろ う。 ク リ プ キ や デ イ ヴ ィ ド ソ ン の 議 論 を 踏 ま え る の で あ れ ば、 人々に共通の概念としての「宗教」はない。あるのは、個々人の祈りや振舞いがある だけだ。しかし、共通の「宗教」という概念が成り立たないからといって、個々人が 考える宗教概念まで否定しているわけではない。ただ、宗教に対する概念の一致・不 一致を人が確認できない以上、哲学の議論として共通の概念である「宗教」はないと 言わざるをえない。 で は、 「 宗 教 」 と い う 共 通 の 概 念 は、 人 々 に と っ て 無 意 味 な の か と 問 え ば、 そ ん な ことはない。哲学的事実ではないにしても人々にとって「宗教」概念の有用性は十分 にある。 たとえば、言語に置き換えて考えてみると、デイヴィドソンの言語非実在論が主張 するように彼の哲学的観点では「英語」という言語はない。しかし、多くの日本人が 概 念 上 の「 英 語 」 を 想 定 し「 英 会 話 学 校 」 な ど に 通 っ て「 英 語 」 を 勉 強 す る こ と で、 結 果 と し て、 個 人 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 豊 か に し て い る こ と は 確 か な こ と で あ る。 これは、 「英語」が有るとか無いとか言う次元とは別個の次元で得られる成果である。 あくまでも個人のコミュニケーションを豊かにする仮定のツールが設定されていると いう考えである。なぜなら、宗教や個別の宗教概念も個々人の行為(生活)を豊かに するツールであることは間違いないからである。 付記 一、ウィトゲンシュタインの引用文は、 「ウィトゲンシュタイン全集」 (大修館)のも のを使用した。また、そうでない場合には訳者の氏名を明記した。 註 (1)大石紘一郎『オウム真理教の政治学』朔北社、二〇〇六年、参照のこと。 (2)野家啓一 「ウィトゲンシュタインの衝撃」 (『言語論的転回』 〈岩波講座現代思想4〉 岩波書店、一九九三年、所収) 、一七五頁。 (3)同論文、一七八頁。 (4)それ故に、ラッセルはウィトゲンシュタインが後期に至って、哲学しなくてもよ い哲学を考えていると批判した。ラッセルにとってウィトゲンシュタインのこの ような探究は怠け者を助ける哲学と目に映ったという。清水や永井参考のこと。 (5)Miller , A.,"Kripke's Wittgenstein, Factualism and Meaning" in: D . Whit ing ed. The
Later Wittgenstein on Language, P
alg rav e McMillan, 2010,p.167. (6)飯田隆『クリプキ――ことばは意味をもてるか』 (シリーズ・哲学のエッセンス) NHK出版、二〇〇四年、一〇七頁。 (7)Kripke, S.A.,Wittgenstein on R
ules and Private Language: An Elementary Exposition,
Harvard Univ ersity Press, 1982 , p.9. 『 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の パ ラ ド ッ ク ス ― ―規則・私的言語・他人の心』黒崎宏訳、産業図書、一九八三年、一四頁。 (8)Ibid .,p.15 .同訳書、二八頁。 (9)飯田、前掲書、五九頁。 (10)Kripke,op.cit., p.62. 同訳書、一二三頁。 (11)Ibid .,p.62. 同訳書、一二二頁。 (12)Ibid .,p.55. 同訳書、一〇八頁。 (13)Malcolm, N., Nothing Is Hidden: Wittgenstein's Criticism of His Early Thought, Basil Blackwell, Inc., 1986,p.156. 『 何 も 隠 さ れ て は い な い ―― ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の自己批判』黒崎宏訳、産業図書、一九九一年、二八六~二八七頁。 (14)ク リ プ キ の 議 論 は ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 解 釈 を も と に し て い る が、 同 時 に D・ ヒュームやN・グッドマンの議論にも多くを依っている。クリプキはクワス算だ け で な く、 グ ッ ド マ ン が 提 起 し た グ リ ー ン( green ) が 実 は グ ル ー( grue ) で あ った可能性の話も採り上げている。つまり、帰納法を疑うというヒューム以来の 哲学の延長線上にクリプキを位置づけることができる。クリプキはパラドックス の 解 決 を「 懐 疑 的 解 決 」 と 名 付 け た が、 こ の 命 名 は ヒ ュ ー ム に よ る も の で あ る。 クリプキの議論が、帰納法の懐疑の上に成り立っていることを示すものといえる 七
大正大学大学院研究論集 第三十六号 だろう。 (15)Lew is, D ., "New W ork for a Theory of Univ ersals" in: Australasian Journal of Philosophy, Vol. 61, 1983. 「 普 遍 者 の 理 論 の た め の 新 し い 仕 事 」 柏 端 達 也・ 青 山 拓央 ・ 谷川卓訳、 (『現代形而上学論文集』 〈双書現代哲学2〉柏端達也 ・ 青山拓央 ・ 谷川卓編訳、勁草書房、二〇〇六年、所収) 、二一一頁。 (16)同訳書、二一一頁。 (17)McGinn, C., Wittgenstein on Meaning: An Interpretation and Evaluation, Basil Blackwell, Inc., 1984. 『 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 言 語 論 ―― ク リ プ キ に 抗 し て 』 植木哲也・塚原典央・野矢茂樹訳、勁草書房、一九九〇年、一九六頁。 (18)Davidson, D ,. "Externalisms" in: Kotatko, P., and Pag in, P., and Seg al, G., eds. Interpreting Davidson: Center for the Study of Language and Information - Lecture Notes, CSLI P ublicat ions, 2001,p.4. (19)Davidson, D., "On the Very Idea of a Conceptual Scheme" in: Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford Univ ersity Press, 1984. 「 概 念 枠 と い う 考 え そ の も の について」植木哲也訳、 (『真理と解釈』野本和幸・植木哲也・金子洋之・高橋要 訳、勁草書房、一九九一年、所収) 、二一一頁。 (20)Davidson, D ,."A nice Derangement of Epitaphs" in: The Essential Davidson, Oxford Univ ersity Press, 2006,p.265. 引 用 に 際 し、 森 本 浩 一『 デ イ ヴ ィ ド ソ ン ――〈 言 語 〉 な ん て 存 在 す る の だ ろ う か 』( シ リ ー ズ・ 哲 学 の エ ッ セ ン ス ) N H K 出 版、 二〇〇四年の翻訳箇所を使用した。 八
松野智章氏 学位請求論文要旨 (課程博士) 「「はじめに行為ありき」の言語ゲーム論――宗教研究の理論構築を目指して――」 本論文では言語ゲーム論の再解釈を図り、これまでの宗教言語ゲーム理論とは異な る言語ゲーム理解を提示し、新たな理論構築の可能性を示したい。宗教言語ゲーム論 とは概念相対主義を採用しながら諸宗教を諸宗教が有する独自の宗教言語に基づく体 系だった枠組みとして理解する宗教理論である。つまり、諸宗教は独自の言語活動を 有しているとし、その言語活動の解読を重視したのである。それに対し筆者は、 「今」 なされる「行為」という一点に重きをおき、野家啓一のウィトゲンシュタイン理解や S・A・クリプキの懐疑論の知見を取り入れながら、D・デイヴィドソンがいう反概 念相対主義として言語ゲームを捉え直す。そうすることで、これまで不向きであった 伝統宗教の分析に応用できると考えるからである。 先 に あ げ た 三 者 は、 そ れ ぞ れ 異 な る 問 題 の 系 に あ る よ う に 思 え る が、 「 今 」 と い う 視点を基点に哲学を構築しているということにおいて共通しており、 そこから「行為」 という観点を導入することを可能としている。行為は絶えず「今」行われているもの で、野家によるウィトゲンシュタイン理解の終着点も「はじめに行為ありき」という ものであった。原因が行為を規定するのではなく、行為が原因を規定すると野家は主 張している。これは、行為が規則にも実在にも還元され得ないことを示す。 次に、クリプキの懐疑論を採り上げた。これは、行為と規則の関係に言及するため で あ る。 「 規 則 」 は 宗 教 言 語 ゲ ー ム 論 で も 要 と な る 視 点 で あ る。 ク リ プ キ が 提 起 し た 懐疑論は、言葉による共通の概念の否定であった。私たちは規則を学び言葉を使用す るけれども同じ意味を共有しているとは限らない。この意味の違いが確認できるのは 「行為」に違いが生じた時においてのみである。その確認がなされるまでは、 「暗闇の 中の跳躍」といわれるように、同じ地点に着地していると判断するしかない。なぜな ら、この懐疑は違いが表面化しない限り、あえて問わなければ問題にならないからで ある。クリプキの懐疑論は共同体の規則から個人の規則に重点を移した議論である。 また、クリプキの議論に賛同したデイヴィドソンの哲学も示唆に富む。デイヴィド ソンは明確に個人を基盤として哲学を構築している。 その結論が非言語実在論である。 個々人の言語活動はあっても、その総括としての言語は実在しないという。あくまで も、 あ る の は 個 々 人 が 使 う 言 語 だ け で、 概 念 枠 を 持 っ た「 言 語 」 な ど な い。 し か し、 人はそれで困ることはない。なぜなら、コミュニケーションが不可能になることはな い か ら で あ る。 ク リ プ キ の 懐 疑 論 は、 「 行 為 」 の 違 い が 表 面 化 す る ま で 言 葉 の 意 味 は 「同じ」とも「違う」とも言えないものであった。同じく、 概念枠を否定したデイヴィ ドソンの議論も 「同じ」 とも 「違う」 とも言えないコミュニケーションという 「行為」 があるだけという結論にたどり着くのである。 そして、これら三者の哲学を宗教哲学に応用して出した結論が次の二点である。 一 いわゆる実在主義と構成主義(宗教言語ゲーム論を含む)の主張は成立 しえない。私たちは、この両主張が間違っているとも正しいとも言えない。あ るのは「今」の行為のみである。したがって、実在主義または構成主義の立場 に立つ哲学は間違っている。 二 「言語」がないのと同様に「宗教」もない。 私 た ち は 「 今 」 の 「 行 為 」 を 通 し て し か 規 則 を 確 認 で き な い 。 こ の 行 為 に は 実 在 す る も の が 影 響 を 与 え て い る こ と も 言 語 や 概 念 や 規 則 が 影 響 を 与 え て い る こ と も 事 実 で あ る が 、 実 在 す る も の に も 言 語 や 概 念 や 規 則 に も 行 為 の 原 因 は 還 元 で き る も の で は な い 。 私 た ち は 、 た だ 行 為 ( 行 動 ま た は 生 活 ) を し て い る だ け で あ る 。 ま た 、 言 語 ・ 概 念 ・ 規 則 は 、 行 為 の 後 に 想 起 さ れ る も の で あ り 、 時 系 列 的 に 考 え て 後 付 け で あ る 。 し か も 、 そ こ で 想 起 さ れ た 事 実 や 概 念 は 他 者 と 共 有 で き る も の で は な い 。 そ の よ う に 考 え る と 、 個 々 人 の 言 語 活 動 は 個 々 人 に 還 元 さ れ 、共 通 の「 言 語 」と い う も の は 無 く な る 。「 言 語 」が 「 概 念 」で あ る な ら ば 、「 キ リ ス ト 教 」や「 仏 教 」と い う 概 念 も 解 体 さ れ る 。な ぜ な ら 、宗 教 言 語 ゲ ー ム 論 が 示 す よ う に 、「 キ リ ス ト 教 」 や 「 仏 教 」 の 体 系 の 基 盤 が 言 語 で あ る の で あ れ ば 、 そ の 言 語 が 存 在 し な い 以 上 、 共 通 の 「 キ リ ス ト 教 」 や 「 仏 教 」 と い う 概 念 は 成 り 立 た な い か ら で あ る 。 さ ら に は 、 そ れ ら を 括 る「 宗 教 」と い う 概 念 も 成 り 立 た な い 。 し た が っ て 、「 言 語 」が な い と い う こ と は「 宗 教 」 も な い と い う 結 論 に 導 か れ る 。 し か し 、共 通 の「 宗 教 」と い う 概 念 が 成 り 立 た な い か ら と い っ て 、 個 々 人 が 考 え る 宗 教 概 念 ま で 否 定 し て い る わ け で は な い 。 で は、 「 宗 教 」 と い う 共 通 の 概 念 は、 人 々 に と っ て 無 意 味 な の か と 問 え ば、 そ ん な ことはない。哲学的事実ではないにしても人々にとって「宗教」概念の有用性は十分 にある。なぜなら、宗教や個別の宗教概念も個々人の行為(生活)を豊かにするツー ルであることは間違いないからである。