﹃
龍
施
菩
薩
本
起
経
﹄
の有韻備額と漢訳者について
はじめに
これまで一連の﹁漢語仏典における鵠の研究﹂において、資 料を漢訳仏典・中国撰述経典・浄土教礼讃文に分類したよで、 そこに説かれる備の韻律に注目してきた。そこで本稿において は西普の役一法護訳と怯えられる﹁龍施菩薩本起経﹂ れる掃の韻を調査することによって、関連する諸問題ーすなわ ち各大蔵経における排版の相違・慣の校醸とその通搾状況・訳 者による韻の配騒・長行中に賭されている矯填・長行と掲墳の 一 巻 に 説 か 境界・漢訳者とされる笠法護への嬢義ーなどを解明するもので ( I ) あ る 。 議 臨 施 設 同 時 臨 本 起 緩 同 の 有 胡 出 国 間 緩 と 摘 出 訳 者 に つ い て斉
隆
藤
ー、経の内容と排版の相違
大正蔵経に収載されている京協施菩薩本起経﹂は、その前半 が長行で後半は鵠績をもって排版されている。間本異訳には呉 の支議訳とされる﹃龍施女経﹂ 行であるが、その中身は吋龍施菩薩本起経﹂の掲壊部分の内容 にほほ相応する。本題に入る前に、ひとまず本経の内容を瞥見 しておこう。まず前半の長行では、龍施菩薩が以下のように底 巻があり、こちらはすべて長 らの前生の行状を語る。 昔、叢林で修行する一人の行者(殺遮旬一宮常川w v
g g
五 祢通、または五神通を具えた者)の傍らに一匹の毒蛇がい た。冬になり然、さがいよいよ厳しく、また食料も尽きてし まったので、行者は市中に赴こうとするが、毒蛇は叢林に係数大学総合研究所紀姿第十一一一号 とどまることを懇願する。しかしその願いもむなしく、 いに行者は立ち去ってしまう。毒蛇は、自己の過去世の悪 業によって現在の蛇身を受け、仏法に縁遠いことを怨み、 樹上より身を投じる。死して兜率天に生まれた毒蛇は、行 者の恩に報いるため、再び婆婆に下り行者に向かって稽首 供養し、その功徳の大なることを讃歎して、再び兜率天へ と 上 生 す る 。 この前半の長行部分の下に慣が接続している。その内容とい うのは、長行を復唱するものではなく、一也氏行を引きつぐかたち で展開されているのである。今、それを簡説すると、以下のご と く で あ る 。 兜率天によ生した毒蛇は諸天とともに弥勅にまみえ歓喜札 拝し、弥勅が法を説くとみな無生法忍を得る。毒蛇は天界 の寿がつきたのち、裟婆に下って長者の娘龍施となり、仏 にまみえて菩提心を発こした。それを知った魔は、身を父 親に変えて龍践の心を乱そうとする。父に変作した魔は、 もし身命を惜しまずに行を修めるというならば、楼上から 身を投げてみよと龍施の覚活を試す。龍施が身を投じると、 部座に無生法忍を得て男子に変じた。阿難がその所以を仏 に尋ねると、仏は龍施の過去の行業と未来の証果を説く。 そこで龍施は父母の詳しを得て出家する。仏は龍施と五百 つ の侍従のために法を説き、それぞれが果位を得た。 このように前半の長行から後半の掲額へと移行してからも、 その内容は不断に展開していき、最後の流通分まで慣のままで 経が説き尽くされている。本経のように長行と倍墳の構成をも って漢訳された経典において、流通分にいたってなお倍額形式 で表現されるというのは珍しい事制円である。また通常、筒壊が 説 か れ る 車 前 に は 、 ﹁ 説 掲 一 一 口 口 ・ : ﹂ な ど の よ う な 常 套 の 冠 匂 が あ るはずが、本経にはそれが見あたらない。漢訳経典に常見する いささかしっくりこない思いがする。 体裁と比べるとき、 そこで本経の諾本を対比して排版の栢違を確認してみると、 以下のように各エデイシヨンで異なっていることがわかった。 す な わ ち 、 一 一 様 通 じ て 長 行 の A グループと、後半から掲壊にな っている
B
グループとである。 B A グ グ 大 元 ル 遼 東 ル 正 版i
刻 禅ー寸与一‘二i
蔵 ・ プ ・ プ 南 蔵明 (桂半 洪武南蔵 闘元・ ( ベす が 寺 て 明{額昂 ・ 長 北 金r
t
蔵 蔵 嘉 思 輿 蔵 渓蔵 龍 蔵 砂醸蔵 縮 蔵 高 i麗 麓議 伽 蔵 房 山 同一一経典なので両グループの説稲内容が同じことは一言、つまでも( 2 ) 方の
A
グループは長行で ( 3 ) 終始一貫しており、もう一方のB
グループはその後半を備嘆 と 、 a 宮 、 宇 h u i v , 刀 文章スタイルにおいて、 に仕立てているということなのである。ところが実はそれだけ ではすまない問題がここに臆されているようである。 ここで重要なのは以下の点である。すなわち漢訳者の竺法護 は当初、本経の後半を長行として訳出していたのか(
A
グ ルl
プ)、或いは僑墳として訳出していたのか(
B
グループ)とい うことである。そこで﹁古い資料がオリジナルにより近い可能 性がある﹂という観点から、写本を捜索してはみたももの、残 念ながら印刷大蔵経以前の古写経は見あたらず、敦爆写本も存 在しないので、そこから問題解決の糸口を探ることはできなか ( 4 ) った。したがって現存する版本資料から、なんとしても糸口を みつけなければ砧ならないことになる。そこでB
グループの偶の 脚韻と、経録における漢訳者の扱いの二点に注目したいと思 、 つ ノ 。 なお、高麗瓶(
A
グループ)とそれを底本としたはずの大正 議経(
B
グループ)が排版形態を異にしている謎は、大正蔵経 の草稿に頻伽大蔵経が使用されていたことに起関しているので ( 5 ) あろう c 吋 鮪 腿 総 枠 官 時 臨 本 起 経 ﹂ の 有 胡 問 問 問 府 樹 と 縮 問 訳 者 に つ い て2
テキストの校舗と偶の通押
結 論 か ら 一 言 、 っ と 、 本 経 は も とB
グループのように前半が長行 で後半が掲壊として漢訳されていた経典であったようである。 それは、このたびB
グループの蔵経における掲の脚韻を調査す ることによって判明した結果である。ここではたとえ信頼しう る古写本がなくとも、そのように断言できることを鱗次論証し て ゆ く 。 そもそも中華伝統の詩文に自くばりすると、わずかな例外を 除いて 作品取の匂数は偶数でまとめられるものである。それ は四勾を単位とした偶数匂末で韻をふむことを要求するからで ある。そしてこうした形式は恐らく漢訳経典に影響を与えたの であろう。実際に大蔵経中の掲を調査すると、やはり偶数勾に よって漢訳される偶が圧倒的多数をしめていることがわかる。 ( 6 ) しかし奇数匂の備も若干見、つけられ、この﹁龍施菩薩本起経﹄ の儲も二二五匂の奇数匂からなり、それはどの販本もみな同じ である。以下の論考においては高麗版をはじめとする実見しえ た資料によって確認することにしよう。 本経の偶は 一二五匂あるので、四句をもって一つの押韻単泣 ( 一 一 偶 ) と 考 え れ ば 、 一 一 一 一 一 一 の 押 韻 単 位 ( 一 三 一 一 偶 ) に 三 句 を 余 す ことになる。漢訳経典の儲は四匂或いは八匂の単泣でまとまっ徐敦大学総合研究所紀姿 第十三号 た意味をなしている場合が多いとはいえ、必ずしもそれがすべ てではない。本経の掲も開じで、四匂を基調としながらも、中 には六勾でないとまとまった内容として完結しえないものもあ 方で押韻に関して昔、えば、伝統的文壇の詩文においては、 意味の切れ目と押韻単位との一致というのは、ことに近体詩に る 。 なって以降は厳守されている。また古詩であっても概ね一致し ている。つまり長い詩文(排律)においては内容が漸次展開す るたびにごとに換韻が行われるのである。よって本経の通押情 況を調査するには、どこまでが一まとまりの押韻単位なのかを 吟味すると問持に、 いくつの句の内容が つのまとまりをなし ているかを見極めなければならないわけである。こうした観点 で本経の掲を見ていくと、やはり押韻単位ごとに内容がある麓 疫まとまっており、投韻が行われると内容も逐次進展している ことを確認することができる。すなわち伝統的な中華の詩作品 の格式に準拠させつつ漢訳されているとき
*
2き*
ここに京総施菩薩本起経いの筒(﹁大正蔵﹄ 上中下)を示す。また縮かけした匂は後述することを示し、偶 四 ・ 九 一 一 数勾末の括弧の中には﹁広韻﹂の韻目と、訳者とされる竺法護 が活躍した普代の韻部を示した(平先・先とは、韻自が平声先 韻で韻部が先部という意)。また韻部や通押については腐祖諜 間 の﹁鏡普南北朝韻部之演変﹄(東大留意回公司、台北、 年)などの先学の諸成果を参照ふ記。 九 真 上 ) 皆従諸天入 倶稽苦作礼 見弥勤歓喜 弥勃為説法 天上寿終後 長者須福家 端名目龍施 ︿8 ) 持 仏 来 詣 金 口 時女在洛室 便却上接観 諸根悉寂定 女心却歓喜 当供養仏法 持魔関知之 此女発道意 日下変為父 仏今現在世 菩薩多勤苦 行詣弥勤前 其心悉等平 札 撃 住 一 一 回 来生於世間 作女意甚明 除去諸欲情 層 間 開 放 光 明 見仏功徳正 三十ニ根明 今逮得安寧 便発菩提心 心中為愁思 尽我境界人 呉説懇悩事 功徳甚尊特 羅漢疾易得 ( 平 先 ・ 先 ) ( 平 庚 ・ 庚 ) ( 去 線 ・ 先 ) ( 平 庚 ・ 庚 ) ( 平 山 ・ 先 ) ( 一 平 庚 ・ 炭 ) ( 平 清 ・ 庚 ) ( 平 度 ・ 庚 ) ( 平 庚 ・ 庚 ) ( 平 清 ・ 捷 ) ( 平 庚 ・ 炭 ) ( 平 膏 ・ 庚 ) ( 平 侵 ・ 侵 ) ( 去 志 ・ 之 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 去 志 ・ 之 ) ( 入 徳 ・ 穂 ) ( 入 諒 ・ 徳 ) 一 九 九 六時女時対臼 仏智警虚空 議是以観之 仏徳如区海 九 一 一 良 中 ) 時 魔 謂 女 一 ず 一 口 時 精 従 仮 菩 女 進 接 使 譲 住 無 自 欲 接 機 所 投 得 勤 辺 著 地 仏 苦 我周一切故 便自投楼下 変為男子形 叉手正衣服 今我意甚器 一切皆愚痴 時仏告関難 自投於虚空 不独今棄躯 己吏事万仏 父 一 苔 加 盟 ⋮ 義 理 羅漢如芥子 小選無高士 度人無極臼 汝今何愚癌 得 道 加 盟 ⋮ 有 期 当不惜躯命 乃知女妙英 一 時 得 無 上 正 向 仏 叉 手 一 宮 口 額仏知我誠 此為何等謂 顔仏現大明 汝見此女不 転作男子身 前世亦復爾 精進無耀止 ( 上 止 ・ 之 ) ( 上 止 ・ 之 ) ( 上 止 ・ 之 ) ( 上 止 ・ 之 ) ( 平 之 ・ 之 ) ( 上 之 ・ 之 ) ( 去 狭 ・ 庚 ) ( 平 皮 ・ 庚 ) ( 平 清 ・ 炭 ) ( 平 一 克 ・ 先 ) ( 平 清 ・ 庚 ) ( 平 庚 ・ 庚 ) ( 一 千 庚 ・ 度 ) ( 一 平 先 ・ 先 ) ( 一 千 仙 ・ 先 ) ( 平 捷 ・ 庚 ) ( 平 尤 ・ 侯 ) ( 一 平 真 ・ 真 ) ( 上 紙 ・ 支 ) ( 上 止 ・ 之 ) 内 務 施 設 同 曲 線 本 起 経 同 の 有 鶴 田 同 額 と 漢 訳 者 に つ い て 却後当来世 使当得作仏 在 第 大会 其数難屡練 欝持仏治世 欽金皆自然 於是龍施身 報 其 父 母 一 一 言 父母叩聴之 及八百天神 橋時魔愁毒 龍 施 自 仏 一 言 為 断 十 一 一 海 九 一 頁 下 ︺ 用衆愚痴故 持仏便講法 彼時龍施身 自説過世行 供養知恒沙 口 す 名
B
龍上 度脱諸天人 警之如浮雲 快 楽 加 熱 有 援 饗如切和天 佐立在仏前 聴我作沙門 侍従五百人 皆発無上心 悔根無所棟 願態一切人 除去諸苦辛 五百侍従人 及八百諸天 ( 平 麻 ・ 歌 ) ( 去 諜 ・ 陽 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 文 ・ 真 ) ( 入 駿 ・ 職 ) ( 平 先 ・ 先 ) ( 平 先 ・ 先 ) ( 平 魂 ・ 魂 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 侵 ・ 侵 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 上 暗 ・ 寓 ) ( 平 真 ( 平 先 ・ 先 ) ︹ こ の あ た り 一 匂1
三勾が脱す?) ( 上 絵 ・ 真 ) 得不起法忍 龍住於仏前 求道甚苦勤 ( 平 先 ・ 先 ) ( 平 欣 ・ 真 ) 1i崩 御 持 拡 大 学 総 合 研 究 所 紀 姿 不用己身故 如来之功稽 関時絞遮匂 其毒蛇之控 時五苔玉女 八百諾天子 菩薩所示現 欲歎其功穂 彼龍擁菩薩 無数諸天人 一 切 皆 歓 喜 初 日 為 一 切 人 不可兵説陳 今期是世尊 今是龍施身 今是五百人 北 ハ 志 無 等 倫 猶為有所悶 終無能尽鷲 作師子乳時 皆発無上真 下 し 入 、 、 FA 詰
,
q t み 小 E + n M J 々 t A R n*
- 諒 ・ 第十三号 ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 真 ( 一 平 魂 ・ 魂 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 一 主 諒 ・ 真 ) ( 乎 真 ・ 真 ) ( 乎 仙 ・ 先 ) ( 平 之 ・ 之 ) ( 平 真 ・ 真 ) ( 平 先 ・ 先 ) 明らかに押韻している句は検証する必要がないので、ここで*
は異なる韻部の通押について見ることにしよう。中華の詩文、 とくに本経が漢訳されたとされる晋代に作られた詩文中に、本 経の通押と向じ用例を見出すことができるのである。 まず本経には先部と庚部が押す単位が六箇所あるが、中華の 詩においては普代の用例がわずかに つ ( 張 華 ﹁ 章 懐 皇 后 諒 ﹂ の泉原清の通押)あるだけである。仏政(における湾側としては、 西普ではないが、くだって娩秦鳩摩羅什の﹁大知日度論い巻一七 ( 日 ) (﹁大正蔵﹂二五・一八四下)に見られる。それは庚部の﹁明﹂ ム ノ 、 と先部の﹁眠﹂の通押である。 日日侵註奪人明(乎庚・庚) 眼為大関無所見 以眠覆心無所識 先部と庚部の通押併は非常に少なく、このため詩文の世界では 如是大失安一向限(平先・先) 明らかに失韻となるが、本経に六例も検出されるということは 偶然とは思われない。翻訳という大きな障壁に立ち向かいなが らも、可能なかぎり 定のリズム、すなわち語尾がマ昆・{虫色 にかかわらず、陽声韻のリズムを持続させようとする訳者の苦 惑をここに認められるのである。 ほかにも九 貰中段に支部と之部、先部と魂部、真部と侵 部の通押があり、下段には真部と先部、魂部と真部がそれぞれ 押韻単位としてあげられる。そしてこれらはそれぞれ詩文にお いても少なからず通押例が事在するのであって、まず支部と之 部の通押は三毘で三倒、雨普で十一一一例あり、次の先部と魂部の 通押は両普で三樹あり、真部と侵部の通押は三国で五倒、両晋 では十四例を検出でき、真部と先部は一二国雨普で百慨をこえ、 魂部と真部は一一一国でともに真部であり、普代になって分部する がその通押は十四椀ほどある。このように向時代の詩作品にお いてもこれらの韻部が押していることから、本経の漢訳者にあ つでも上記の韻部は通持するものと判断した上で意関的に措辞 されたと蓄えるのである。一方、明らかに失韻とされるものについては、九一一頁上段 つの失韻、侵部と之部、真部と之部の例があり、中段には 三つの失韻、侯部と真部、歌部と陽部、及び職部と先部がある (下段については後述する)。しかしこれらの失韻現象は、中華 の 詩 と 違 っ て 、 翻 訳 と い う 一 一 百 一 諾 転 換 に お い て は 不 可 避 な 眼 界 で ( 間 以 ) あることを認めねばならないだろう。 十 一 一 一 の 押 韻 単 位 に 対 し でわずか五つの失韻などは、他の漢訳仏政(の存韻偶墳にも見ら れることであって跨題ではない。間関壊全体の六、七割以上が通 押し、失韻が一一一割或いは四割を超えていなければ、それは漢訳 者による自覚的な韻律配躍であったと認めてよいと考えられ る。なぜなら六、七割以上が通押するということは偶然では起 こりえない現象だからである。さらに付言すれば、六十八ある 本経借墳の韻字のうち平戸は五十で、灰声(上声・去声・入声) は合わせて十八でしかない。一平戸字が灰声字の二倍以上多く用 いられているということからしても、本経の漢訳者が意間的に 平声を韻字に用いたということが言えるのである。すなわち脚 韻の配麗は自覚的に行われていたということである。 さて、問題は九一一一良下段の簡についてである。この部分は いささか複雑である。上段と中段の掲は失韻と思われる押韻単 位が五つほどあったが、他は概ね通押していた。しかし下段の 偶数匂末の韻字はすべて韻をふみはずした失韻なのである。下 湾 臨 施 警 護 本 経 経 ﹂ の 有 盟 副 協 調 棋 と 渓 訳 者 に つ い て 段の借はもともと押韻させないままに漢訳されたということな のだろうか。しかし結論から言、っと、やはり漢訳者によって寵 慮が施されていたのである。 それは既述のように本経の鳴が二二五句の奇数勾からなって いることがヒントになっている。漢訳経典における偶が奇数句 で訳されるのは竿見な事例と認めざるをえないことから、或い は本経の慣も本来は偶数匂で構成されていたのではなかろうか と懐疑しつつ、この九 一頁下段の韻を再び調査すると、上に 引用したように実は奇数句において通押していることがわかっ ( 沼 ) たのである。つまりどこかで一勾または一一一匂桂度の脱勾があ吹 本 来 の 掲 を 一 一 一 一 六 勾 、 或 い は 一 四
O
勾ではなかったかと推測す 一 一 一 五 勾 ﹁ 作 礼 於 仏 前 ﹂ か ら 逆 に前方に向かって、奇数勾の持韻単位を調査していくと、九一 るわけである。そこで最終の第 一良中段終わりから下段の初めのあたりにおいて、押韻しなく なることがわかる。つまりそのあたりに一句または一一一匂が欠け てしまっているのではないかという推測が立つのである。そこ に奇数の脱匂を加えることによって、それ以待の各匂が一つ、 或は一一一つだけ繰り下がり、それまでの奇数勾が偶数句となって 再構成されるようになる。このように考えるとき、漢訳者が本 経の慌に対して宮尾一貫して通押させようとしていたことが認 められるわけである。なおこれと陪じように簡に脱匂があるこ ー七崩 御 教 大 学 総 合 研 究 所 明 記 要 第 十 一 一 一 号 とは、中国撰述経典のお M好宝率経﹄(八五・ ( H H ) にも現れていることが判明している。 一 一 一 一 一 一 五 上 中 ) ただし九一一貫下段をそのように構成しなおしたとしても、 なお二簡所の失韻がでてくる。それは宵部と真部、先部と之部 である。このうち先部と之部は明らかに失韻であるが、宵部と 真部については以下の推測がなりたつ。 韻字は 多説大珍宝 五百侍従人 と﹁人﹂であるが、おそらく﹁・:大珍宝﹂はもと 用衆愚癒故 ( 上 時 ・ 宵 ) 時仏使講法 ( 平 真 ・ 真 ) ﹁大宝珍﹂であっただろうと大胆に推定したいのである。 (桔韻)﹂では押さないが、﹁珍(真韻)﹂であれば押韻するから である。﹁宝珍﹂は開きなれない語葉であるが、大蔵経中にそ ( お ) の倒がないわけではない。押韻させるために、﹁珍宝﹂をあえ て﹁宝珍﹂に倒置したのではないだろうか。ところがいつの間 にか常見常毘の﹁珍宝﹂に改められてしまい、現行の大蔵経へ と伝承されたものと思われるのである。 以上をまとめると、本経の押韻は決して四匂を つの単位と して区分されているのではなく、意味の切れ目をもって換韻さ れ、それが押韻単位となっているのである。そしてまたこれら の備の四戸は概ね一平戸を基調としつつ通押させていることも礁 認できた。更に現存する本経の備は二一一五句からなるが、勾末 J¥ の通押慎況からして、おそらくその涼初は偶数句からなるもの で、版本成立以前の書写による倍承の過程において、九一一 一 匂 或 い は 一 一 一 匂 が 脱 し の中段最後から下段の最初のあたりで、 てしまったのではないかと考えるのである。 な お 、 ついでながら付言すると、 A グ ル ー プ ( す べ て 長 一 行 ) のうち、金蔵・高麗蔵・房山遼刻の後半には﹁皆得無所従生﹂ 九 一 上 下 の 二 笛 所 ) 、 ﹁ 前 白 仏 天 中 天 ﹂ ( 九 一 中 ) の よ う に 、 六字勾になっているところがあり、東禅寺版・関元寺版・思渓 議・噴砂蔵・洪武南蔵でも﹁皆得無所従生﹂(九一一上)と六 字句になっている。これらの勾の前後はすべて五字句なので、 こ の 一 一 一 笛 所 、 だ け が 二 字 多 い こ と に な る 。 一 方 鵠 壊 で 排 版 す る B グ ル ー プ は 、 A グループにあったそれらの六字句が﹁皆得無従 生﹂、﹁自仏天中天﹂のごとく他と同じ五字の斉一言句に揃えられ ているのである。このことからも、 A グループは後半部を長行 ( お ) とみなしていたことがわかるのである。
3
、長行中に隠された弱
本経の掲は上述のように た。ところがもう少し丹念に調べてみると、他にも閤簡所のま とまった備と思しきものがあることがわかった。しかもそれら 六勾または一四O
勾であっは長一行の中に穏されていたのである。それら該当欝所の諸版本 は、ともに改行することなく長行としての行どりになっており、 各句は西学づつの句作りになっていることがわかる。西学一句 というだけならば、南北朝期に撰述された漢籍に普遍的に見ら れる題六体にしたがったまでであり、本経の会話部分もやはり 河じようなリズムをもって訳されているように、それは三国両 晋以降の漢訳経典における長行には常見のスタイルであって、 ( ロ ) 読韻の使に供するためであったと推察しうる。ところが長行の 叙述部を西学で断句し、掲の勾式に並び変えてみると、その偶 数句末は両晋の韻部として充分に通押する韻文なのである。そ れは先の五言二二五勾の備が説かれる直前において見られる。 ① 四 一 一 言 十 六 句 、 ② 四 一 百 十 二 句 、 ③ 四 一 言 十 六 匂 、 ④ 四 一 言 二 十 八 句 がそれである。下に該当部分を長行の行どりから、備の行どり に↑転換した上で引用してみよう(九一
O
真 下 j 九 一 一 一 気 上 ) 。*
*
*
道人答日、﹁卿為世帯蛇、衆人所憎。見者欲害、加熱有愛楽。或 於道中、虎・狼・毒虫・護鳥・走獣、共生一口汝身。今実恨恨、無 有巳巴。難有是心、不得自在。顔郷住此、思道念徳、精進自守、 忍諸国厄。若前強健、後年復会。﹂道人悲泣、収涙間去。 毒蛇沸零、不能自止、食見道人、無有極己。便即上樹、遠望 道人。観視若行、祭其所避。道人不現、転復上行。適援不現、 内 総 路 整 陵 本 起 縫 い の 占 有 綴 偽 閣 制 と 淡 訳 者 に つ い て 上尽樹頭、議望道人、 ①遂遠不現 自 費 樽 一 言 失善道人 多犯衆悪 関冥放逸 不奉精進 毒蛇益悲 ﹁ 身 罪 所 致 前世愚穣 接投膿部 傑怠無知 迷乱不止 不値仏世 平 去 王 子 之 至 脂 之 指 脂 ( 去 露 ・ 支 ) ( 平 支 ・ 支 ) ( 上 止 ・ 之 ) ( 去 祭 ・ 祭 ) 其 心 不 一 連 離 正 法 失 大 智 慧 ( 去 霧 ・ 祭 ) 違遠歪明、従苦入苦、離波羅蜜、堕於五道、虫蛾蚤一成、今受 蛇身、,為入所憎。皆是身過、不自他人。天上世間、豪費無常、 ②何況我此 展転生死 爾持毒蛇 身意静然 今此危身 合毒之身 饗 如 車 輪 ﹂ 自説理悪 担還自責 ( 平 真 ・ 真 ) ( 乎 諒 ・ 真 ) ( 入 鐸 ・ 薬 ) ( 入 麦 ・ 薬 ) 不足食帯 不 顔 躯 命 此 無 所 著 ( 入 薬 ・ 薬 ) 使従樹上、自投於下、未及歪地、頭樹蚊問、身絶両分、使郎 命過、生毘術夫、得見光明、時自思惟、使識指命。 告﹁我在世時 奉待選入 ム 身 為 毒 蛇 行正逮部 ( 入 昔 ・ 薬 ) ( 平 麻 ・ 歌 ) ( 平 麻 ・ 歌 ) 九憐 持 拡 大 学 総 合 研 究 所 紀 姿 第 十 一 一 一 号 O 精進不博 設其身命 知命非常 於彼寿終 使於天上 及与天子 散毒蛇上 使 自 説 一 一 言 、 ④﹁今此蛇身 於 我 大 一 淳 精進行法 総其寿命 今故来下 使複行詣 稽首作礼 陵歎功穂 ( 幻 ) 今此道人 行大慈悲 教授一切 本為毒蛇 愛念一切 伏悪心魔 警如土沙 自投機下 来 生 此 処 ﹂ 従諸玉女 各持香華 蟻為毒悪 終不為薄 心無所著 得上為天 欲報其恩 殻遮匂所 供養華香 皆共称誉 無有等侶 無有親疎 令 離 一 一 一 塗 視如赤子 此功諒大 ( 平 歌 ・ 歌 ) 欲報其患 何 時 能 達 ﹂ ( 入 国 旬 ・ 昂 ) ( 平 麻 ・ 歌 ) 適説是己、使還去上兜術天。 ( 上 馬 ・ 歌 ) ネ
*
*
( 去 御 ・ 魚 ) 出 を ま 下 ず る ① 道 は 人 議を 瓦
見 か つ らめ
i主 主 よ 申が に
ら 留 自 まゐ
そ
境 玄i
事止
昌 吉z
等
部 雪
7
t
瓦
¥ た 毒 そ 蛇 れ」さ は ぺ ( 上 諾 ・ 魚 ) ( 乎 麻 ・ 歌 ) 韻をふまない長行をはさんで②の途中までつづく。このような 押韻のあり方はいささか違和感をぬぐえないが、これを偶然の 通押とかたづけることもできそうにない。それは②が完全に通 押しているからである。③は樹上から投身して命を絶ち、すぐ さま兜率天に上生した毒蛇が前散を知り、これを自ら思惟する ( 入 鐸 ・ 薬 ) ( 入 鐸 ・ 薬 ) ( 入 薬 ・ 薬 ) 内容であり、﹁領自説言﹂をはさんでその産後の④は思惟の内 ( 平 先 ・ 先 ) 容を実際に告白する部分である。 ( 平 痕 ・ 魂 ) 通押に関して①と②は何ら問題とならない。③も整っている ( 上 語 ・ 魚 ) が、高麓版と諸版本とで相違するのは第十二勾﹁来生此処﹂の 韻字である。歌部と魚部は一一一居間普を通して押すことから、麗 ( 平 賜 ・ 間 関 ) ( 平 魚 ・ 魚 ) 本 の ではなく、東禅寺瓶など諸本の﹁処﹂、或いは趨域 ( 上 諾 ・ 魚 ) 金蔵の をもって韻字としたいところである。 ( 平 魚 ・ 魚 ) 次の昏は、毒蛇が死して兜率天に上生し、そこで玉女や天子 から散華供養を受けるところで、毒蛇みずからが説きだした叙 述のすべてである。通押としては、第二句﹁難為毒悪﹂の韻字 に相違がみられ、ここは麗本や金蔵の﹁盛山﹂をとって薬部で押 ( 平 模 ・ 魚 ) ( 上 止 ・ 之 ) ( 去 泰 ・ 泰 )す。ついで第八句先部と第十匂魂部は晋で通搾し、以下の十 匂は魚部で押している。なお中途に陽部の﹁香﹂と之部の﹁子﹂ があるが、﹁香﹂については王国に魚部と通押する用例を一つ 見いだせる。また﹁子﹂は上古において之部で
{ z
E
の韻尾を有 するため、中華の詩歌において、 い つ の 時 代 で も 泰 部 主 } ・ ヤ 色 (去声・入声)と通押することはない。よって魚部との通押と な る わ け で あ り 、 そ の 用 例 は 一 一 一 国 で 一 例 、 そ し て 南 青 で 一 一 一 例 が あ る 。 最後は去声の泰部と入声の島部であるが、この爾部は先秦の 韻文中では、それぞれ祭部({ム丘)と丹部({ふさに含まれ その通持例があり、降って西漢で 倒、東漢では七併がある。 一 一 一 盟 に な る と 祭 部 か ら 泰 部 ( 泰 ・ 主 人 ・ 廃 ・ 怪 ・ 介 を 包 括 ) が 分 かれ、その泰部は、両晋にいたるまで陰類主]とともに入類韻 ( 匁 ) 尾小&をも有し、丹部から独立した入芦田勾部( { '
a
一 品 ・ 末 ・ 銭 を包括)と南北朝の中期ごろまで通押する。三関ではニ僻見ら れ、さらに本経が漢訳されたとする荷晋においては四つの通押 例がある。ちなみに西晋の訳出とされる本経の韻字は﹁大﹂と ﹁違﹂であり、この用字の西晋での通押併は、洛陽の紙価を高 か ら し め た こ と で 知 ら れ る 左 思 ( 一 一 五 O ? i 一 二 O 五 ? ) の 一 二 部 賦のうち、競都賦に﹁達・帯・会・大﹂で通押する用例に求め ( お ) る こ と が で き る 。 内 議 施 慈 出 陣 本 起 緩 い の 有 綴 旧 樹 脂 掛 と 論 評 訳 者 に つ い て 定の規則性は認められない としても、①と②はもちろん、③と④の偶数匂米も通押してい ることは事実である。先に示した五一言 以上のごとく、全体にわたって 一 一 一 五 句 の 鵠 と 閉 じ よ う のような常套の冠勾はないが、 の句作りと偶数勾末の通持から、漢訳者によって意罰的に旋律 に、ここでも﹁説掲去 の配騒が施されていることを指摘しうるのであって、決して偶 排除の通押ではありえない現象となっている。 ただしかし、前後の文章の流れからすると、備として漢訳さ れたにしては、あまりにも不十分である。それはひとまとまり になっている文章のすべてが押韻していないからである。そこ で筆者は現在のところ、この文体を以下のように考えている。 六朝の漢籍においては閤六耕儀が締り立てられた文体として主 流をしめていた。これは平灰の配置や対句を用い、ときに押韻 もしているので韻文に近しいのであるが、それはあくまでも散 文におさめられる文体である。本経の長行中に隠されたこれら の韻文にしても、そうした漢籍の影響を認められるのではない だ ろ う か 。 つまり中華の文学における四六体という飾られた散 文が導入され、仏典における四字句という飾られた長行を誕生 させたのではないだろうか。ただし四字句を基調としつつ、韻 をふむが、乎灰配寵のきまりはなく、もちろん対句を用いてい ない。それは漢訳という一一言語転換における限界が横たわってい係数大学総合研究所紀姿第十一一一号 るからであろう。いずれにせよ、これらの要件からして、耕儀 体でもなく、また偶壌でもなく、かつ通常の長行でもないので あって、仏典における特殊な美文体ということになるのであ る 。 以上のごとく、吋龍施菩藤本起経﹂のわずかばかりの文章 (﹁大正議﹄でニ頁分)の中には、中華の散文と韻文の影響を受 けた長行と掲壌があり、そしてその中間には四六スタイルの韻 文も含まれており、これはまさしく中華の文意スタイルの縮図 ともいえるのである。ただし仏の金一言の伝達こそ優先される建 前から、﹁耕﹂すなわち対句を用いるまでの華美な修辞は盟避 されたのである。しかし思字でまとめつつ可能な限りにおいて 通押させようとつとめた訳者の配曜は厳然と存在するのであ る。おそらく大蔵経を丹念に精査すると他にもまだ同様な文体 が存在するのではあるまいか。
4
、
肺
一
一
法
護
訳
出
へ
の
疑
義
﹁ 出 一 一 一 蔵 記 集 い 巻 第 二 に は 西 晋 壮 一 一 法 護 に よ っ て 漢 訳 さ れ た 経 典の一覧が記載されている。総計 五回部あるうち、九十部は 当時現存していた経典であり、﹁右九十部凡二百六巻今並有其 経 ﹂ と さ れ 、 ついで当時すでに散逸していた六四部もリストア ツプされ、﹁右六十四部凡一百一十六巻経今関﹂と記載されて いる。その散逸リストの中に、 龍施本起経 市録に龍施本起と云う 或は龍施女経 一 巻 と 去 、 っ 。 ( 五 五 ・ 九 中 ) と 見 え る 。 後 に 現 存 が 確 認 さ れ 、 吋 壁 代 一 一 一 宝 紀 ﹄ 巻 十 一 一 一 に お い ては大乗銭入蔵目(閤九 一一下)に編入され、現喪にいた るまで役一法護の訳出として伝承されてきているのである。もち ろん現行﹁大正蔵経﹂所収の吋龍施菩藤本起経﹂も竺法護の訳 出とされている。本経後半の備と長行中の美文体は、訳者によ って自覚的に脚韻を踏ませていたに相違ない。それではそのよ うな配患を施した訳者とは、はたして伝承どおり竺法護であっ た の だ ろ う か 。 ( 則 的 ) ところで、役一法護の訳経の特徴について、諾資料を過して確 一 議 記 集 ﹂ 巻 二 一 一 の 緋 一 一 法 護 伝 の 記 載 に よ れ ば、その先祖は丹氏にあったが、佐一法護は敦埠でうまれ、八歳 で出家し外国沙門の笠高麗を蹄としている。漢詩文化菌にあり ながらも商域に接し、域外の人が往来する地に生まれ育ち、そ 認 し て み る と 、 して出家したということは、その後翻訳者としての賓をすでに 負わされていたといってもよいだろう。伝記の﹁終身訳写﹂と はそれを端的に語ったものである。訳した経典のジャンルは轄 広 く 、 ま た そ の 数 量 も 古 訳 時 代 で は 最 多 の 一 五 回 部 一 一 一O
九巻であり(ちなみに鳩摩羅什は一ニ五部ニ九四巻)、しかも大乗仏教 の主要経典が多く、翻訳活動期間も少なくとも四十年以上(二 六六年
1
一 一 一O
八年)におよび、更に伝記には﹁僧徒手数、成く とあり、また竺法乗缶にも 来りて宗奉す﹂(五五・九人上) ﹁ 護 は 援 に 道 関 中 に 被 り 、 立 つ 資 材 殻 蓄 な り い とあるごとく、笠法護教団の規模とその財力をもって訳経と写0
・ 三 悶 七 中 ) 経事業をなしたことなどから、その訳出経典は南北でも広く弘 通 し て い た と 考 え ら れ る 。 組 出 祐 を し て 、 凡そ 百四十九部、孜孜として務むる所、ただ弘通を以て 業と為し、終身訳写して、労なるも稽を告げず。経法の広 く中華に流るる所以は、護の力なり(五五・九八上)。 と言わしめるほど、後世には大きな影響を及ぼしたのである。 また話承遠・選真父子やその他多数の助訳者の協力があり、 ﹁ 山 山 一 一 一 蔵 記 集 ﹄ に あ る 竺 法 護 訳 経 典 の 経 自 ・ 経 序 ・ 伝 記 か ら う かがうことができ、少なくとも寵接間接に訳業にかかわった者 ( お ) は、出家在家を合わせて三十人の名を確認することができる。 これだけ多くの助訳者がいたということは、 いったい完成した 訳文にどれだけ竺法護本人の文章が残されたのかはなはだ焼関 で は あ る 。 さ て 掲 の 漢 訳 に 関 し て で あ る が 、 般 一 一 法 護 の 数 あ る 現 存 訳 経 中 に 、 偶 の 脚 韻 を 配 慮 し て 訳 さ れ た も の は 、 吋 商 品 母 経 同 円 如 来 吋 摘 出 施 設 国 際 本 起 経 ﹂ の 有 銀 出 回 将 棋 と 端 的 訳 者 に つ い て 独 証 自 耕 一 一 一 味 経 ﹂ ま ず 吋 鹿 母 経 ﹄ に つ い て は 麗 本 と 宋 元 明 の 一 一 一 本 で 相 違 が 甚 だ ﹁ 生 経 ﹂ 歪 日 曜 経 ﹄ の 田 部 で あ る 。 しいため、大正議経では雨系統が翻字されている。一二本系のほ うが長く、よって有韻掲績が多く認められる。現今においてど ち ら が 笠 法 護 の 訳 業 に か か る か 不 明 で あ る が 、 経 銭 に よ れ ば 一 一 一 ( お ) 紙或いは関紙であるので、現存の高麗系統であったであろう。 な お 本 経 に は 関 本 異 訳 と し て 、 民 ハ 支 議 の 宮 崎 子 経 同 巻 が あ る 。 ( 幻 ) 詰附元録﹄において両者は﹁文句全開﹂とされているとおり、 名古屋帯の七寺に現存する﹁鹿子経﹄(漢訳者名なし)と、入 蔵されている高麗版系の吋鹿母経﹂はほ法問じである。このた め掲においても、佐一法護が支議訳本の備をそのまま転毘した蓋 然性が高いのである。なおその詳細な考証は別に拙文があるの ( 嶋 崎 ) で 参 照 さ れ た い 。 つ ぎ に ﹁ 如 来 独 証 自 制 一 一 一 味 経 ﹄ の 有 韻 備 壌 に し て も 、 伝 安 世 のそれとの関連性が認められるので、両 高 訳 の ﹁ 自 制 三 味 経 ﹂ 経 の 訳 出 の 先 後 が 開 明 確 に な ら な け れ ば 、 こ れ を 役 一 法 護 の 訳 出 閣 と 断定できないのである。 このように竺法護の訳経においては、有韻の備があるといっ ても、偶然の通搾から既訳の慣を転用した事例まであることか ら 、 総 体 的 に 一 一 お う な ら ば 中 華 の 詩 律 を 意 識 し た 上 で 訳 さ れ た こ とを襲極的に支持することができないのである。帰 陣 品 拡 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 第 十 一 一 一 号 巻 五 ( 一 二 ・ 五 一 ( 一 一 了 八 七 中 下 ) と 室 田 曜 経 ︺ ( お ) 一下)に見える有韻儲墳である。この間経の惜 問題となるのは、 は既訳の経典中に認められないので、性一法護の訳経作業中に訳 出された慣であるに棺違ない。 ﹁生経﹄にはたくさんの掲(八百匂)があるが、有韻掲額は わずかな用併のみであり、他の多数の掲は押韻していない。比 率からすると全体の一割にも満たない。よって漢訳仏典に普遍 的に見られる偶然の通押とも考えられるが、 子が自らの徳を掲によって歌いあげている箇所にまとまって説 一 に は 正 人 の 太 かれていることからすると、おそらく偶擦の押韻ではないだろ うし、さらに他の漢訳仏典出?に開じ損壊が存夜しないことから も、竺法護の訳経グループによって組織的に訳されたものと考 えるのが妥当であろう。 豆 日 曜 経 ﹄ 巻 五 ( 一 一 了 五 一 二 下 ) の偶はそれ以前の訳経中に 同 の文書を見出せないが、巻六(一二・五二一中下) の 問 団 は 排 一 一 大力・康章詳訳﹁修行本起経同や支議訳吋太子瑞応本起経﹄に 見られる備と同じである。また巻七(一一了五二七中下)は明ら かに吋太子瑞応本起経﹄や西晋失訳円長寿王経﹄の掲と連関し ており、また開巻八(一ニ・五一一一回上)の備も、やはり伝支議訳 の吋撰集百隷経﹄巻十、或は吋長寿王経﹄の鵠填を援用したも のに松違ない。問題となる巻五の備であるが、第一掲以外はす 間 ベて陽部と庚部で通押しているので (晋代に陽庚の通押例は多 数ある)、これもまた意図的に漢訳されていると言えよう。 定 木 高 僧 伝 ﹂ 巻 に 、 ﹁ 半 戸 と は 、 ・ : 法 護 ・ 調かに声明音律を解し、中天の縮語典一言を用て、訳す者の如き -奨 締 ・ 義 浄 、 は是なり﹂(五
0
・七二囲上)とあるように、役一法護はインド の声明音韻方面においては充分な知識をそなえていたとされ る。また訳業を手助けし、しかも実名が判明している一二十人も の助訳者の存在も無視できないだろう。これらのことから、 法護は備の訳出にあたって、脚韻を配慮して漢訳させていたこ とを否定することはできないのであるが、大多数の備は押韻し ていないことも事実であり、 と望日曜経﹄に通押する 偶があるとしても、それは一経全体の比率からすれば、わずか な事例にすぎないのである。5
、支謙訳出の可能性
前節で述べたように、緋一一法護が中心となって行われた漢訳事 と豆田躍経﹄のごとく 業で訳出された経典の簡には、 わずかながらも有韻の倍があることは否定しえないことであっ た。したがって本経の婦にしても、その訳者の真偽に対して疑 義をはさむには及ばないようにも思える。しかし以下に述べるように、本経は呉の支議による訳出であった可能性も捻てきれ 上のこ経は岡本間訳の異名なり な い の で あ る 。 吋 彦 諜 録 ﹂ 巻 一 ( 五 五 ・ 一 五 七 中 ) はじめに述べたとおり、京総施菩薩本起経同には呉の支謙訳 龍施女経 巻 晋世竺法護訳 とされる開本異訳の京総施女経同がある。この雨経を経録に求 龍施菩薩本起経一巻 めると以下のごとくである。 一 蔵 記 集 ﹄ 巻 一 一 、 支 議 訳 経 の 条 ( 五 五 ・ 七 上 ) 右ニ経は関本異訳 吋 鶴 市 泰 録 ﹂ 巻 一 ( 同 一 九 二 中 ) 龍施女経一巻 別組斡に毅す所なり 安録になし 龍施女経一巻 紙 普世竺法護訳 宮 山 三 議 記 集 ﹄ 巻 二 、 紳 一 一 法 護 訳 経 ( 関 経 ) の条(関九中) 龍施菩薩本恕経 巻 四 紙 龍施本起経一巻 m 出 録 に 総 施 本 起 と 一 去 、 つ 或 は 議 施 女 経 と 一 去 、 っ 右 一 一 経 は 持 本 異 訳 ﹁ 法 経 録 ﹄ 巻 一 向 八 下 ) 巻三(同三九
O
下 ) 龍施女経一巻 龍施女経一巻 晋世竺法護訳 呉黄武年支謙訳 龍施女経一巻 第 訳 間 総 右呉黄武年 支謙訳 長 一 一 房 録 に 出 づ 龍施菩議本起経一巻 龍施菩薩本超経一巻 t喜 訳 関 担 献 に 務 総 本 経 と 一 去 、 っ 紙 経は向本異訳 右 西 晋 緋 一 一 法 護 訳 長 一 際 録 に お づ ﹁歴代コ一宝紀﹂巻五、支議訳経の条(四九・五七下) 龍施女経一巻 安 時 踏 に 無 し 祐一疋く別録を見よ 前 の 一 一 経 は 本 間 別 訳 な り ﹁ 関 一 万 録 ﹂ 巻 ニ 、 支 議 訳 経 の 条 ( 岡 田 八 八 上 ) 吋 壁 代 一 一 巻 六 、 仕 一 一 法 護 訳 経 の 条 ( 同 六 三 上 ) 龍施女経一巻 初 出 能 施 設 同 開 催 本 起 経 と 田 川 本 祐一五く別録の毅 龍施女経一巻 問 時 踏 に 龍 総 本 起 経 と 一 去 、 つ 第 lli す所なり 安 時 誌 に 怒 し ﹁歴代三宝紀﹂巻二一一、大乗録入蔵自(同一一一下) 吋 間 関 一 克 録 ﹄ 巻 一 寸 役 一 法 護 訳 経 の 条 ( 同 四 九 回 中 ) 龍施菩薩本超経一巻 龍施菩薩本起経一巻 出銭に的関施本経と云い或は蕊施女経と云 龍施女経 巻 つ 第 一 一 出 な り 総施女経と同門本 { 首 円 曲 総 務 警 捜 臨 本 起 経 ﹂ の 有 朗 閥 間 関 績 と 淡 訳 者 に つ い て li係数大学総合研究所紀姿 第 十 一 一 一 号 祐録を見よ 龍施女経一巻 ﹃ 開 一 苅 録 ﹄ 巻 一 九 、 大 乗 入 蔵 録 ( 間 六 八 五 上 ) ゑ託 龍施菩薩本起経一巻 官 民 一 克 録 ﹂ 或いは女の字なし 或 は 龍 施 女 経 と 一 玄 、 っ 或 は 輸 出 線 本 綾 と 一 去 つ 限 定 正 龍施女経一巻 一、支謙訳経の条(同七八五中) 初 lli 拘 悩 仲 総 務 薩 本 柏 崎 経 と 河 本 祐 一 京 く 刷 出 銭 の 熱 戦 す所なり 安 時 蹴 に 綴 ⋮ し 龍施菩薩本語経一巻 吋 貞 一 克 録 ﹄ 巻 一 一 一 、 緋 一 一 法 護 訳 経 の 条 ( 同 七 九 問 時 献 に 総 施 本 経 と 一 去 い 或 は 総 総 経 と 一 五 、 っ 下 ) 第 一 一 お な り 蛸 腿 施 女 怒 と 関 本 俗祐録を 見 よ 龍施女経一巻 巻二九、大衆入蔵録(間一
O
一 二O
上 ) 長正 龍施菩薩本起経一巻*
或いは女の字なし 或 は 箆 施 女 経 と 一 去 、 っ 亦た総施本経と云 つ 関 紙*
*
経録をながめると、その経題は支議訳としてはいずれも﹁龍 施女経﹂として著録されているが、役一法護にあっては﹁龍施本 経﹂﹁龍施女経﹂ ﹁ 龍 施 本 起 経 ﹂ ﹁ 龍 施 菩 薩 本 起 経 ﹂ ﹁龍施経﹂とあるように、かなり錯綜している。よって経題か ム ノ 、 ら一人の漢訳者を比定することは・有効ではないようである。そ 安 静 泰 録 ﹂ (六九五年)に示される写経の紙数を ( 六 六 五 年 ) と こで、唐代に編纂された つ の 根 拠 と す る な ら ば 、 雨録は竺法護訳本の料紙を二紙としており、円大周録﹄は支謙 訳本を四紙としている。これを大正蔵に収められている現行の ﹁龍施菩薩本起経﹄と﹁龍施女経﹄に対して唐代の標準的写経 の体裁にあてはめてみると、前者が四紙本であり、後者が二紙 本で、経録の記載と一致するのである。もしこのように写本の 料紙を判定基準とするならば、現行の竺法護訳﹁龍施菩藤本起 と支議訳﹁龍施女経﹂は、それぞれ漢訳者が逆転すること ( お ) になるわけである。なお雨経はともに一短い経典であり、その訳 語諾棄を検証滞納して漢訳者を判定しようとする試みは決定的 ( 幻 ) ではなく徒労におわった。 壮 一 一 法 護 に よ っ て 漢 訳 さ れ た 経 典 に お け る 簡 は ほ と ん ど が 無 韻 で あ り 、 方で呉の支謙訳経典のそれは、多く通押させて漢訳 されていることは、これまでにも別稿で論述してきたとおりで ある。竺法護訳とも一言われる東晋失訳﹁殻泥謹経﹄、そして現 蔵の竺法護訳﹁鹿母経﹄も、掲の韻と経録の記載からして、実 は支議による訳出であるか、または少なくとも掲額部分のみが ( 認 ) 既訳の支議訳本を踏襲したものであったと考えられるのである。 よって本経も、これだけまとまった閣が通押していることと経録の記載から鑑みて、 応は支謙訳の可能性を立てることがで き る わ け で あ る 。
6
、漢訳者と排版の錯綜ーその理由と時期
i
ここまでは以下の一一点を論じてきた。第 に本経(または本 経の掲)は支議によって訳出されたが、後に竺法護に仮託(ま たは踏襲)されてしまったであろうこと、第二に漢訳者(支譲) は押韻する簡として漢訳していたにもかかわらず、初期の印刷 大 蔵 経 に お い て は 、A
グループのようにすべて宮沢行で排版され てしまったということである。それではこれらの現象をどのよ うに理解したらよいのであろうか。いったい、 いついかなる要 国によって、訳者・排版をめぐってこのような変遷をたどって しまったのだろうか。 まず第一の問題については、以下のようなことが言えるだろ ぅ。前述したように古い経録においては﹁龍施女経﹂と円龍施 菩護本起経﹂の河本異訳に対して、時に経題の錯綜があり、し たがって常に一貫して特定の漢訳者が当てられるということが なかった。これが訳者比定をめぐる判断をゆるがせる大きな要 留であったと思われる。しかし後の詰問元録﹄や なると、支議訳として﹁龍施女経﹄を、性一法護訳として京総施 菩藤本起経﹄を著録するようになる。そして印副大議経中の聖 ﹁ 龍 施 設 官 複 本 起 縫 ﹂ の 有 綴 旧 悩 綴 と 渓 訳 者 に つ い て 政 ︿ は ﹃ 間 一 克 録 ﹄ を 標 準 ? と し て 収 集 編 纂 さ れ る こ と か ら 、 基 本 的 に経典名も漢訳者名も、当然ながら﹁開元銭﹂の記載に準じる ことになるのである。これによって、現在実見しうる各大蔵経 においては、支議訳は吋龍施女経﹄、竺法護訳は吋龍施菩薩本 起経﹂として伝承されてきているということを想定しうるので あ る 。 第二の開題については、その経緯をたどることは容易ではな いが、次のようなことが考えられるのではなかろうか。第一の 時題で述べたように、その漢訳者はおそらく呉の支議であり、 後半は掲によって構成されていた。しかし通常、掲文の直前に ( お ) 置かれる﹁説偶一一三に相当する冠勾がなく、なおかつ長行から 断続的に流れる内容であることから、すくなくとも が編纂されるころまでに、長行の行どりに改変されてしまい、 これが各印刷大蔵経へと継承されてしまった。しかし元販にい たって再び簡の勾式に排版i
問、本来の姿を取り戻すこととな ( お ) ったということである。それは本経の前半における四字句のリ ズムから、後半にいたると一転して五字句のリズムへと、その 文体が大きく変化している事実が、そうさせたと思われる。漢 訳経典においては鶏晋南北朝を通じて四字句こそが長行の標準 的なスタイルであり、それは他でもなく読諦や記官への龍慮で ( お ) ある。一字一音節としての漢語は二学をもって 拍 を う つ の で 、 七係数大学総合研究所紀妥第十三号 偶数勾でまとめあげることは、読諦・暗記することを容易にす る。これは文壊の四六文の勾式と向じことである。ところがこ の長行の閤字一匂のリズムが、後半にいたって突如として五学 一句の句作りに変化し、それが経末までつづく。発声しようと 意念しようと、この突然のリズムの変北を感知しえない漢語を 母語とする者はいないだろう(日本の漢字音で読経しても感知 できる変化である)。少なくとも一字一音節を原則とする漢語 の字音に通じている者であれば必ず旋律からくる違和感に襲わ れ、戸惑うはずである。そして次の瞬間にはそれらが長行では ないことを車感する、だろう。なぜなら中華の文章や漢語仏典に 一貫して五字を一句とする散文または長行は存在しな いからである。このような五字または七字という奇数音節句と いうのは、勾末に一音節分の休昔が発生するために、読諭する 上でなめらかに流れていく散文や長行においては不向きなスタ お い て 、 イルなのである。加えて麓晋南北輯において普遍的に見られる 仏典の偶のスタイルにおいては五学一句の占有率が他を圧倒し ていることが証明してくれる。したがって元版以前のいつの頃 かは不明であるが、長行に典型的な四字匂のリズムから、後半 になって長行リズムではない五字句に移行する違和感から、こ の五字句の文を、慣として排版し寵したものと考えられよう。 繰り返すが一貫して五字句を基調とする長一行は、少なくとも仏 J¥ 教経典においては断じてありえないのである。 ところが興味ぷかいことに、一万版以降ようやく原初形態を復 元しえたにもかかわらず、その編さん者らはその掲が押韻して いることには感知していなかったようである。それは蔀晋の時 代からはるか千年を経過して、時代の推移とともに漢字音すら も変化してしまったことに涼因を求めることができる。それは 九 一 一 良 市 T 段にある、﹁開難乃怖驚﹂または﹁阿難乃驚怖﹂の 句のヴアリアントがこれを雄弁に語っているだろう。 逮得無従生 時難乃怖驚(平庚・庚) 第四勾の﹁向難乃怖驚﹂が第二句の﹁逮得無従生﹂の韻字﹁生﹂ 使自投楼下 ( 平 庚 ・ 庚 ) 変為男子形 と押韻するためには、
A
グループの金蔵・高麗蔵・一房山遼刻に ある﹁:::怖驚﹂でなければならない。しかし東禅寺・関元 -思 渓 ・ 噴 砂 ・ 元 普 寧 蔵 ・ 洪 武 南 蔵 ・ 明 高 蔵 ・ 明 北 瀧 ・ 嘉 悶 胤 ハ 蔵・清龍蔵は、そろって﹁:::驚怖﹂とあるように押韻しない のである o A グループの﹁怖驚﹂は辞書類にとられていない耳 慣れない用語であり、むしろ﹁驚怖﹂のほうが常用の一詩集であ る。しかし韻字﹁怖﹂(﹁切韻﹂で去声暮韻、競普の韻部は魚部) では失韻となってしまう。漢訳者(支議)は押韻させるために 常用の﹁驚怖﹂をあえて倒霞させて耳慣れない﹁怖驚﹂という 詩語を採用しなければならなかったのである。同義の二音節語議であれば韻律の条件のもと、語顕を倒置することは中華の韻 文には常見の修辞である。それは第十人匂自にある﹁士山意用博 でも同じである。句求の は常用語桑では﹁驚博﹂ であるが、押韻させるためにあえて﹁樗驚﹂を採用したまでの ことである。ところが偶壊の排版に組みなおして原初形態を援 した元瓶などの
B
グループであっても、﹁:::驚怖﹂として、 なおも韻字に無頓着であるのは、本経の備が押韻していると感 知しえなかったからに他ならない。そしてまた、B
グループの 編さん者たちは長行の終わりの部分も押韻している勾が含まれ ていることや、本経こそが支謙訳出の経典であったことについ ても知りえなかったのである。 そもそも漢字音が時代の推移とともに演変していくというこ とは、清朝考証学のめざましい躍進にともなって知られるよう ( 幻 ) になった学的成果である。よって説晋の漢字音と元朝における 漢字音では騒然とした臨たりがあることから、貌普に漢訳され た本経掲壌の押韻を、約千年後の元朝に生きた者が感知できる 道理はないのである。校髄しえなかったのは版本大蔵経の編纂 者の賞ではない。時代である。この﹁驚怖﹂と﹁怖驚﹂の校異 はわずか一例にすぎないが、有議出国壌からはこうしたテキスト 校離によって、漢訳の原初形態を後一花することができるという ﹂とにも、本研究の意義があるというものである。 内 総 施 菩 稜 本 起 緩 ﹂ の 有 時 間 同 国 閣 制 と 漢 訳 者 に つ い ておわりに
本経の前半は四字句を基調とした長行として漢訳されてお り、後半は脚韻からして五字句を基調とした渇績であることが 判明した。つまりこうした四字一旬(長行のリズム)から一転 して五字一匂(非長一行のリズム) へ唐突に旋律拍節が変化する ことと、脚韻の状況からして、本経の原初形態はB
グループで あると考えられるのである。また長行においても押韻する西学 勾が散見された。これは掲であったかのようにも思えるが、文 章の流れからして恐らく簡ではなく長行として漢訳されたもの と想定しうる。ただしそれは通常の長行ではなく、韻を押すこ とによって修飾された美文体としての長行であり、仏政(におい てはきわめて特殊にして竿見な事例であるということが言え る そしてまた漢訳者についても再検討してみた。本経は宮山三 蔵記集﹄において、当時関経であった六四部の茜晋竺法護訳経 典の一つにあげられている。よってすぐさま笠法護訳と断定す る こ と に は 、 いささか露錯するものである。そこで掲の通押状 況のみならず、経録に示される料紙の紙数を判定基準に加える ことによって、一二回呉の支謙訳を訳者として想定したのである。 九崩御教大学総合研究所紀要 第十三号 また最後には漢訳者と排版の錯綜についてもふれた。前者は経 録の記載が、後者は漢字音の変化がその原因であったと考えら れたのである。 漢訳仏典のテキストは実に豊富で多彩である。その豊富さも さることながら、確かな伝承が保証される貴重な写本類の残存 も少なくはない。当該テキストの原初形態とその後の展開を同 時に実見することができるのは、さまざまな面で研究を稗益進 展させるものである。本稿では﹁龍施菩薩本起経﹂ の偶墳を 例 と し て 、 一連の﹁漢語仏典における簡の研究﹂の問題点とそ の意義を提起し、問時に簡に対する総合的な調査研究を行う必 要性を提言するものである。 詮 ( l ) 本稿の梗概はすでに﹁漢語仏典における偽の研究
i
竺法談訳 吋龍施菩薩本起経︺の詩律をめぐってi
﹂ ( ﹁ 印 仏 時 制 ﹂ 五 一 一 の 一 、 ニ OO 一 二 年 ) と 題 し て 発 表 し て い る 。 ( 2 ) 東 禅 寺 山 胤 は 宮 内 庁 所 蔵 本 の マ イ ク ロ フ ィ ル ム か ら の 焼 付 け で 、 関 一 冗 ヰ 寸 版 は こ 00 三年二月四日に知窓院議本を認査した。越域 金裁は町中華大蔵経﹂十九巻一一六七頁。思渓版はニ OO 二 年 一 月十五日、中国国家図番館の所蔵本(女六)を調査確認した。 時間砂裁はた木積砂大蔵経﹂十一巻一二六頁。高麗版は吉岡麗版 大蔵経﹄第十一巻ムハ一入賞、なお増上寺所蔵の高麗蔵はニ 00 一 一 一 年 六 月 十 日 に 調 査 済 み 。 一 房 山 石 緩 は 吉 田 加 山 石 経 ﹂ 十 巻 ・ 四 五 O 一頁。積砂歳に恭づいて掬版された洪武南蔵(初刻商議)は 吋 原 版 務 総 洪 武 占 的 蕊 い 五 四 冊 ・ 五 七 O 頁 を そ れ ぞ れ 参 照 し た 。 ( 3 ) 元 販 は 増 上 寺 所 蔵 の 普 寧 寺 本 を 確 認 、 間 開 高 裁 は 立 正 大 学 問 皇 官 館蔵本のマイクロフィルム(吋立正大学問出番銭所蔵明代南裁 目録﹂を参照)、明北蔵は﹁永楽北蔵﹄(第四回櫛五玉二頁)、 嘉 奥 蔵 ( 万 際 競 ・ 方 皿 山 本 ) は 知 恩 院 所 蔵 本 を 確 認 、 議 裁 は 内 部 制 緩 綴 本 乾 隆 大 蔵 経 ﹄ ( 第 三 入 品 山 一 回 一 一 阜 、 縮 刷 大 蔵 経 と 頻 倣 精 舎蔵本はそれぞれ﹁大日本校訂総別大蔵経い(街函七)、認綴伽 大蔵経﹂(一回巻四八一一貝)を確認し、そして﹁大正蔵経﹄は 十 四 巻 九 一 O 頁 で あ る 。 ( 4 ) 版 本 成 立 以 後 の 写 本 と し て 、 感 ︿ 譲 寺 本 ( ﹁ 鼠 ( 塗 寺 一 切 経 調 査 報 告 書 ︺ 一 一 O 頁 ) ・ 七 寺 本 ( ﹁ 目 指 張 史 料 七 寺 一 切 経 目 録 同 四 一 一 覧 ) ・ 石 山 寺 本 ( 吋 石 山 寺 の 研 究 ﹄ 一 切 経 策 、 一 一 二 六 頁 ・ 二 三ニ頁、﹁紹和法宝総何回録﹂一巻九人五支)・名取新宮寺本 ( 町 名 取 新 宮 中 一 寸 一 切 経 d調 査 報 告 書 ﹂ 八 七 賞 に 、 ﹁ 鎌 倉 中 期 、 設 欠 、 三紙﹂とある)・金翻寺本(﹁金関寺一切経の基礎的研究と新 出仏典の研究﹂二九九頁)が現存している。落合俊典教授(国 際仏教学大学院大学)より資料を提供していただいた七寺本と 金副総寺本は備が存在しない系統(高麗版系統)であった。その 他は未見。なお正倉院聖語蔵・法隆寺一切経中に本写本は含ま れ て い な い 。 (5)周知のとおり大正蔵経は高麗版を底本としている。本経もし か り で あ る ( 吋 昭 和 法 宝 総 図 録 ︺ 第 一 巻 二 七 一 一 良 中 ) 。 に も か か わらず雨者の排版形態が相違しているのは、大正裁縫が高麗版 を 底 本 と し 、 宋 思 渓 ・ 一 苅 品 品 目 察 、 及 び 坊 の 方 脱 出 版 ( 万 暦 板 ・ 姦 奥 蔵)を校本としているといっても、実際は一九一一年から上海 で刊行された頻伽大蔵経を草稿とし、これに校呉を書き込んだ上で増上寺関蔵亭(現存する絞蔵の義手に建てられたが、後に 取り壊されて今は収蔵療が建っている)から印刷所(九段坂の 京華社)にまわしているからである。その頻伽裁と大正蔵経所 収の本経との誹版形態はたしかに一致している。崎矧伽裁は大日 本校訂縮刷大蔵経(縮蔵)の復刻であり、その綴裁は増上寺の 潟麗版を底本として宋一冗明の三本で校異を示しているが、縮蔵 の校記・をすべて省いてしまっている頻伽蔵の本文は、実質的に は高麗版そのものの復刻ということになるわけである。しかし 縮蔵は文字の異隠を欄外上部の校記に示すことはしたが、排版 形態までも高麗本に準拠させる作業を窓ったのである。それが 頻伽蔵に、そして大正蔵へと受け継がれたと考えられるのであ る。したがって大正蔵緩所収の本経の排版形態は高麗蔵と相違 してしまったのである。このような本経と似た事例は、支議訳 の芸品印三味綬﹄の渇においても確認できる。 い ず れ に せ よ 、 大 正 蔵 経 は そ の 編 纂 過 程 に お い て 、 官 間 関 総 裁 経 を書写する手閲を省いて頻倣大綴経をもってその版下にしたと い う こ と で あ る 。 ﹁ 増 上 中 一 寸 三 大 蔵 経 目 録 解 説 ﹂ の 編 者 で 増 上 寺 史料一溺纂所の主任研究員であった金山正好氏は、﹁草稿として ﹁頻倣議﹄本が用いられた﹂(問書一五頁、一九八二年)と述べ て い る 。 ま た ﹁ 増 上 寺 一 一 一 大 蔵 経 に つ い て ( 下 ) ﹂ ( 吋 増 上 寺 史 料 集 所 報 ﹄ 十 号 、 一 九 八 四 年 ) 、 ﹁ 大 本 山 増 上 寺 史 ﹄ ( 石 上 善 応 記 、 本 文 綴 三 五 二 一 良 、 増 上 寺 、 一 九 九 九 年 ) も 参 照 。 ( 6 ) 奇数匂からなる渓訳仏典の僑緩は町大正蔵経﹄の一巻から十 七巻までに、わずか十数部の経典にしか見られない。 ( 7 ) 他 に 王 カ ﹁ 南 北 朝 詩 人 用 韻 考 ﹂ ( ﹁ 清 華 学 報 ﹄ 十 一 巻 コ 一 期 、 一 九三六年)や劉翁議翠笠日南北朝詩文殻集与研究(韻集部分)﹂ ( 中 国 投 会 科 学 出 版 社 、 一 一 OO 一 年 ) 。 窓 腿 施 設 同 隊 本 起 経 ﹂ の 有 国 出 偽 領 と 漢 訳 者 に つ い て ( 8 ) ﹁ 持 仏 ・ : ﹂ 、 一 万 版 ・ 間 切 南 裁 は こ こ で 改 行 さ れ て い る 。 ( 9 ) ﹁ 怖 驚 ﹂ 、 金 蔵 ・ 官 同 麗 ・ 一 房 山 は ﹁ 怖 驚 ( 平 庚 ・ 庚 ) ﹂ に 作 り 、 東 禅 寺 ・ 間 一 冗 品 寸 ・ 思 渓 ・ 横 砂 ・ 普 寧 ・ 間 的 商 ・ 明 北 ・ 嘉 奥 ・ 龍 蔵 は﹁驚怖(去暮・魚こに作る。 ( ぬ ) ﹁ 珍 宝 ﹂ 、 お そ ら く ﹁ 宝 珍 ( 平 真 ・ 真 こ の 誤 倒 で あ ろ う 。 (日)拙稿﹁漢詩偽典における掲の研究
i
有韻の偽い(香川孝雄 博士古稀記念論集京四教学浄土学研究﹄所収、永回文日田堂、二 OO 一 年 一 一 一 月 ) に 総 裁 し た ︿ 渓 訳 偽 典 有 韻 偽 額 一 覧 表 ﹀ は そ の 後訂正をいくらか加えた。吋大智度論いにおいても、あと五箆 所ほどに通押が認められることが判明したので追認しておく と、巻第十三(一五六中・一五九上中)、巻十四(一六六上)、 巻 十 七 ( 一 八 一 二 下 1 一人殴上・一人間中下)である。また拙稿 ﹁ 支 議 と 鳩 摩 羅 什 訳 仏 政 ( に お け る 偽 の 詩 律 ﹂ ( ﹁ 仏 教 史 学 研 究 町 四 一 一 一 巻 一 号 、 京 都 、 二 O O 一 年 ) を 参 照 さ れ た い 。 (辺)渓訳仏典における傷の押韻が完盤ではないという事実には、 さまざまな要図が考えられるはずである。例えば語義(忍想山内 容)の伝達をより重視したため、訳者の漢語能力の限界・訳者 の漢語修学地(方点目)の相違・額訳上の技術的な限界・伝承過 程における校訂や誤写などである。これについての詳綴は別稿 を 間 用 意 し て い る 。 ( 日 ) 筆 者 は 一 一 一 勾 の 脱 落 を 怒 定 し て い る 。 写 経 で も 刊 本 で も 、 一 行 の 字 数 を 十 七 字 前 後 と す る な ら ば 、 本 経 の 五 一 吉 田 陶 は 一 行 に 一 二 句 収まると予想される。したがって書写段階で視線議離によって 一行とばして誤写する場合には、必然的に一二匂を脱することに なるからである。これは中国撰述経典の﹁妙好{玉率経﹂の脱匂 についても同様なことが設えるであろう。 (は)拙文﹁漢詩仏典における傷の研究i
中国撰述経典における偽崩御教大学総合研究所紀姿 第 十 一 一 一 号 とその韻律