国民主権論: 法人論へのアプローチ
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(2) が万一の場合に反対意思を表示しうるように代表制度が規制きれる。したがって代表制は今や、フランス革命の時のよう. に、人民は代表者によりて述べられる以外の意思をもちえないとの考えに基かない。人民がちがった意思をもつことが許. きれる。これは選挙団体の意思との必要的一致といわれる意味である。この一致の必要からして、すべての場合に、代表 者は永続的には選挙団体が反対する政策を選挙団体に課しえないこととなる。. 一七八九年の人間の思想において、立法議会は現実において、議会によりてのみしか意思しえない。したがって立法議. 会以前に、立法議会により代表される意思をもたないところの、国民の機関があった。逆に、今日議院内閣制に固有な制. ヤ ヤ ヤ ヤ. 度は、国民は代表者を選ぶのみでなく、なお国民が代表者によりなきれる決定の形成にある影響をおよぼすことをふく む。国会はもはや国民の機関のみでない。国会はある範囲において国民の意思を代理する。. 半代表制において、支配的なのは常に代表制の原則である。公民は選挙権によりてのみ且つ選挙権の範囲においてのみ. 国家意思の形成に影響を与えることが認められる点において代表制の原則が支配的である。半代表制において、人民は選. 挙によって将来の決定または政策の一般的方向のみしか決定しない︵但し特殊現実的な問題に関する論争によって生じた. 解散の結果選挙する場合を除く︶ という差異が生ずる。反対に直接民主制において、人民は必ず各特殊決定の採用につ き、少くとも各法律の確定的採用につき意見を問わるべきである。. 人民の意思は多数の異るエレメントからなり、漢然としていて自分自身で確認きれない。. 選挙制度は特別の意味をおびる。選挙は実際において人民にとりその意思を知らしめる法的手段である。解散を現行公. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 法にとりいれたことは、選挙がもはや指名手続のみでなく、なお選ばれた者の活動に対し、影響を与えるために選挙団体. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. に与えられた手段であることを認めることである。したがって人民は選挙制において国務に関し自己の意見をもちうるζ. とが法的に認められる。人民の意思が考慮きれ、国家的価値を取得する。[,議会が人民の代表者に非ザルハ人民其ノモノ. カ人格ヲ有セザルコトニ徴シテ明カナリ。凡テ代表者ハ其背後二人格者ヲ負フ人格ナキ者ヲ代表スト謂フコトハァリ得ザ. 2布. ”. 耀.
(3) ル議論す.人民全体ハ人格者二斐.故二袋セラレル幕ナシ﹂︵鵡蟻墾どれは今日から考えると誤りである、 二 機関へ代表︶と代理 機関︵代表︶と代理との間には法的に次の主なる区別がある。. ㈱ 代理は一人格が他の人格のために行為するところの二個の異る人格を仮定するが、機関︵代表︶は機関として固有. の人格をもたない。機関において団体と機関と異る二個の人格は存在しない。組織きれた団体の一人格しか存在しない。. 団体の機関は団体と共に唯一の同一人格を形成する。機関という名前の使用は主としてここから生ずる。団体人の機関は. 自然人の機関同様、団体と共に唯一の法的存在のみしか形成しない。これを人体の機関と同一視してはならない。人体の. 機関は人間の意思の受働的道具にすぎない且つ人闘の意思から刺戟をうける。反対に憲法上の機関は団体的に法的意思を 与える。機関は意思し行為する団体自体である。且つこれは次の二個の点においてである。. 機関の存在が、団体の形成と維持の必要条件であるという意味において。機関は団体と一体をなす。. 代理は代理きれる人格を前提する。逆に団体の法人格は機関を前提する。というのはまづ組織きれることが、団体人格. の本質其者であるからである。これがイエリツネクの説である。﹁代理人の背後に、他の人格がある。機関の背後に、な. にもない。﹂デユギ:はこれに反対する。 ﹁国家の機関の背後になにもないとすれば、機関すなわち他の個人にその意思. を課するところの個人のみしかない﹂。イエリネツクは国家人格の不存在を白状するとデユギーはいう。しかしイエリネ. ツクはいう ﹁団体の組織は法的見地において人格の必要条件である且つ機関なければ、 国家の人格は法上全然存在しな. い。﹂イエリネツクはいう﹁国家は機関によりてのみしか存在しえない。思考上国家から機関を分離するならば、少くと. も機関の担い手ヘトレーガー︶とおもわれる国家の人格は存在しないで、法的に虚無しかのこらないであろう。﹂. イエリ不ツクによれば、すべての法人格同様、国家人格も不可分である。だから国家機関は国家の部分として、独立の. 権利の主体としての国家に対立しない。むしろ機関自身、意思する国家人格となる。国家は機関外に法的に存在しない。. 一3一.
(4) ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. ヤ ヤ ヤ し ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 機関なければ﹁法的無﹂である。国家入格と国家機開の全体との同一視は、本来自然法と思弁的︵ヘーゲル︶国家論にお. いて実行きれたところの国家人格と統治者人格との同一視を再び採用し多数の機関への国家権力の配分という修正をと. もなう。これに国家の主体に国民<o詳を人格化するところの、国家人格の社団的性質が対立する。イエリネックによ. り、国家人格は或は国民と、或は機関の全体と同一視きれる。かかる矛盾の理由は一部分、国家入格を国家意思からみ. ちびきだす乙とにある。これは’方、法的に国家共同体の全体意思となる。他ガ、この意思は国家機関を通じてのみ表示. きれる。この見解の自然法的特徴はみのがせない。自然法の国家論はその国家概念において或は国民団体的契機或は官懸. 的契機を強調する︵マツクスゥエーバーの国民国家と宮憲国家︶。結社契約から国民の団体としての国家が発生し、統治. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 契約からして官憲が発生する。官憲によりてはじめて国家が構成される。自然法中にこの二重の同一化を可能ならしめる. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 意思説の存することを銘記すべきである。国家の人格がはじめて発生するところの意思は、国民の総意としての擬制にか. かわらず、統治者の人格中にあたえられる。なおホツブスとプフエンドルフは国家人格を国民団体と同一視すると同時に 統治者と同一視する。. ベルテルミイによれば、国家は現実において、主権の機関たる立法者、行政官、裁判宮たる高官の全体に外ならない。. かれらが権力の全体を行使し、その集中が国家と称きれるものを構成する。これらの権力機関の外に、機関の上に権力自. 体が所属する別の人格は存在しない。国家はこれらの者以外の現実ではない。かつ国家を公法上の人格たらしめるのは擬. 制によぞである.︵蛎伽酷︶. ㈲ 代理は二個の意思を前提し、一の意思が他の意思に代位するが、組織きれた団体において、特に国家において、意思. するために組織された団体其者の意思、単﹃意思のみしかない。むろん代理人は本人の意思を表示するにとどまらない。. そうとすれば代理人は単なるメセンヂャ:にすぎない。代理人が表示するのは代理人の意思である。しかし本人の法律行. 為により又は法律により代理人に与えられた代理権により、代理人の意思は本人の意思の代理である。したがって代理人. 一一4一一.
(5) の意思は本人の意思を前提する。反対に機関により意思し決定するのは、団体、特に国家である。機関が団体の意思を表 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 示するとき、完全独立に表示する。. ギルケによれば団体内に特に国家内に法的組織に先行する現実的自然的団体的意思が存在する。ギルヶはいう﹁団体は. 意思し行為しうる現実の人格である。⋮⋮むろん、個人同様、団体の意思能力および行為能力は法によりてのみ初めて法. 的能力たる性質を取得する。しかしそれは法によりて創造きれない。法が団体の能力を確認するために介入する前に、団. 体の能力が存在するのを法が見出し且つ法的取扱の見地から能力を認め且つ規律するにとどまる﹂かつギルヶはいう、個. 人に対すると同様に団体に対し、法人の始源的基礎は法人が個人と同様に内部的鷺思をもつ事実中にある。内部的意思は. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 外部的行動が生ずる原動力である。したがってこの説によれば機関は団体の意思の創造者と考えられない。ギルケによれ. ヤ ヤ ヤ. ば団体が団体の意思を表示すべき法的機関を団体がうけいれる前に、この意思は団体中にふくまれる。この意思は潜在的. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. に漢然としてのみ団体中に存在することは真実である。機関なければ意思は確定きれず且つ外部に表示されない。したが. ってこの意味において意思を実現するのは機関である。’しかしながら法的機関は結局法上のみならず、なお自然的かつ始. 源的に、団体自体の意思を外部に表示するのみである。ギルケによれば機関はこの内部的団体意思が外部的行為に表現さ れる仲介者にすぎない。. 三国民と国家. ヤ ヤ ヤ . ドイツ歴史学派の<o涛詔蝕曾は民族精神と訳きれるが、<o算誘建需笹巳錨けは国民主権と訳される。歴史学派の民. 族とはなにであるか。民族を共同の考えをもつ一定数の個人に帰するならば、民族について誤った考えをいだくこととな. る。民族は民族を構成する個人の総計ではない。民族の特徴は、個人的に考えられたすべての構成員にもとづかず、また. 結合した全成員にでなく、観念的全体にもとづくことである。この原則の重要な結果は、その構成員の一部または全部の. 変更が、団体の統一または本質に関係しないことである。民族は現在の世代によってのみでなく、また過去および将来の. 一5_.
(6) 世代によ藩惑れる.だから民族は現在を過去と将来にむすびつける︵灘い、コ舞−﹀.だから歴史学派の民族は、フ. ランス憲法の国民主権の国民と同一となる。﹁フランス法の国民は過去幾多の構成員を包含したものであり、また将来の. 幾多の構成員をも包含すべきもので、たんに現在の国民各国人の集合体ではない。約言すれば国民は永続的存在をもつ一. 団体である﹂。だからフランスで国民主権という場合の国民は民族と訳すのが、わが国の読者にわかりいいかもしれない。. 恒藤博士も﹁憲法第一条は天皇が﹃日本国民統合の象徴﹄であると規定しているが、この場合にいわゆる﹃国民﹄はすベ. ての日本人が結合して形成する全体としての集団、すなわち日本民族を指すものと解すべきであるとおもう﹂︵﹁憲法問題﹂. ヤ ヤ ヤ ヤ. 八頁︶。宮次教授も目本国憲法前又の﹁われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならな. いのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係. に立たうとする各国の責務であると信ずる﹂の説明において﹃この項にある︻−国家﹂ならびに﹁自国﹂および﹁他国にお. ける﹁国﹂は、マッカサア草案では需o巳Φとなっているが、後の草案では、2暮一窪となっている。この場合どちらで. も意味は同じだとおもう。マッカーサ草案の前文第一項の冨毬急巳8εR讐一8・名陣誓巴一濤怠o易の墨試8は、. 日本国憲法では﹁国民﹂となっており、℃8巳盆三昌の需o箪⑦もすべて︷、国民﹂となっている。本項の﹁国家﹂が. 量善と訳嚢る姦、篁項の藷罠﹂も藷国家﹂とあってもいいわけであろう﹄︵齪課国憲︶.また﹁呆国. 憲法第一条の﹃日本国民の統合﹄とは、日本国民の統一の意である。 ﹃統合﹄は、ここではき一昌の意である。ここに. 天皇は﹃日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって﹄とをいろいろと区別する学説があるが、いずれもじゅうぶん. な根拠を欠くのみならず、そもそもその両者を区別することにいつたいどういう意味あるいは効果があるのか、すこぶる. 疑わしい。おもうに、日本国というのは、日本国民の統一体にはほかならない。したがって、ここにいう﹁日本国﹄と﹃. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 日本毘の統合ヤは、呆という蟹意味する点篶いては、同じ意緊有すると見るべきである﹂︵灘鋪髄︶.美. 濃部博士も﹁冨o巳Φは通常は人民と訳せられて居るとしても、原文の意義に於いての﹃人民﹄は人民即国家という思想. 一6一.
(7) の根底としての人民であって、被治者として臣隷として個々の人々を意味するものではなく、国家を構成する人類の集団. の全体を指すのである。 ︵中略︶それは国家を構成する所の総ての人々を全体として指称するものに外ならぬのである。. それは必ずしも日本語に於いて﹃国家﹄という語に依って言い表わきれる意義と全然同一ではないにしても、元来旺確に. 本来の意義においての℃8箪Φの語に相当すべき日本語は全く存在しないのであって、国家を構成する総ての人々の団体. は即ち国家に外ならないのであるから、誤解を避くる為には、自分は寧ろ之を国家と訳することを適当と信ずる。﹂. ︿躾騨遡語驕鴫食の︶。 ヤ ヤ ヤ う ヤ. 国民を現に生きている国家構成員の一時的世代︵人民︶と混同してはならない。国家構成員は現代において単一性を形. 成するが、一時的存在にすぎないのに、国家によりて人格化された国民は、永続的性質を有し、時の流れにおける単一性 を形成する。. またフランス公法の実定法体系ことに国民主権の体系から生ずるところの正確な法的意味において、国民量ユ9とい. う言葉は個人の無定形な大衆を意味しないで、不可分の単一体への組織の事実によって、団体が形成されるかぎり、構成. 員の組織きれた団体をきす。団体は法律の世界に、はいる前に社会上単一構造をもっている。. ドイツにおいてひろく唱えられる国家の人格の見方によれば、国家の人格の観念は、人民の国家組織が国民を構成する. 個人と異るのみならず、また国民団体とも異る法的存在を発生せめる効果を有する。むろんこの説において国家は国民な. しには考えられないことは認める。しかし国民は国家を構成する一要素としてのみ国家中にふくまれることを主張する。. 国家は一旦創設されると、国民の人格化でなくして、国家自体のみしか人格化しない。この説によれば、国家の人格化は. 単一的法的存在への成員の人的集中の表現ではない。しかし国家の人格は国民が領土または統一権力と同一権限で、一構. 成要素としてのみしか、介入しない物的組織の所産および表現である。したがって国家はそれ自体、人格である。国家人. 格は完全に国家の構成員の外に、すなはち個人的に考えられた成員の外にのみならず、またその不可分の全体の外に位置. 一7_.
(8) する。この説において、国家は国民以外にその存在と基盤を有する人格として、国民と全然ことなる法的存在として考え られるべきことが主張される。. フランス革命は主権すなわち国家の権力が、国民に存することをのべることにより、国家が主体たる権力および権利は. かならず、国民自体の権利および権力にほかならないとの観念を、フランス法の基礎として黙認した。だから国家は国民. に対立する権利主体ではない。しかし国家の権力が国民に属することをみとめるならば、国家は国民の人格化にほかなら ぬという意味において、国民と国家との同一性をみとめねばならぬ。. イエリネックはフランス法の国民という団体をバラバラにして、国民を現代の国民各個人の集合体として、領土、主権. と並んで国家の要素中に組入れる。国民は類から種に格下げきれる。これは露骨な君主主権がもはや時代にマッチせず、. きりとて国民主権は過激であるとして、国家主権とし、君主の代りに多数の機関へ権力を配分して、統治機構を国家と称. して、営僚国家を完成した。これが帝政ドイツおよび明治憲法におるけ通説であった。日本国憲法において国民主権とな. ったが、その国民の解釈が帝政ドイツ・明治憲法のままであるとすれば、見せかけの国民主権といわれても仕方がない。. ナチスが国民を均質化して統治したが、その素地はそれ以前に備っている。ナシヨナル、コムミユニチイの甲らをのがし で国民を甲らのない蟹とする。. 絶対君主政において君主が国家の機関と称されるが、君主がその機関たる国家は国民と異るもの、国民の外部にあるも. のと考えられる。というのは絶対君主政の理論によれば、国民は領土と同一名義で国家の一要素であるからである。. ジュヴエネルはは権力論でいう﹁フランス立法議会がフランスをして君主制があえてなしえなかった軍事的冒険の渦中. に投ぜじめたときに戦争にほとんど全人民の参加を要求せねばならなかった。 これは前代未聞である。 しかしいかなる. 名義で。評判の悪い国王の名においてであるか、そうではない。国民の名において。千年問一人格への親愛の中心となっ. た愛国心は自然的に一個の人格たる性格と外観とを国民にむすびつける傾向があった。革命の激動と心理的変化を無視す. 一8一.
(9) ることは、思想史をふくむ其後のヨーロッパ史の理解を欠くことである。革命前にフランス人が国王の周囲に結合したと. き、敬愛された首長に協力したのは個人であった。しかし今やフランス人は一個の全体の構成員として国民のうちに結合. する。部分の生命に優越するところの、自己固有の生命をもつ一個の全体のこの全体の観念は、おそらく潜在的であっ. た。しかしこの概念は突然結晶する。王位は転覆きれなかったが、一個の全体・人格たる国民が王位にのぼった。国民は ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ る. 国王のように生活するが、国王よりも大なる利益がある。というのは明白に他者である国王に対して、臣民は必然的に権. 利を留保しようとする。しかるに国民は他者ではない。国民は実在化されたわれわれである。権力の自然的保持者たる国. 民人格が存在するという信念はフランスで流布され、ヨーロッパにひろがった。フランスの軍隊はこの信仰の種子をヨー ロッパ中に播いた。﹂. フランス革命のはじめから、人権および公民権の宣言は、その第三条において、門、全主権の淵源は、必ず国民に存す﹂. という。この条文において主権という言葉が、公権力を意味することは、第三条後段からして疑問の余地がない。という. のは主権が国民に存するという原則から、この条文はただちに次の結果を生ぜしめるからである。﹁いかなる団体も、い. かなる個人も、国民より明示的に出でぎる権力を、行便するをえない﹂。したがって本条の後段からして、主権という言. ヤ ヤ. 葉で、前段の意味するものは権力である。本条は国家におていて、行使されるすべての権力は、排他的に国民に存するこ. と灌意味する。これが国民主権とよばれるものである。また一七九一年の憲法第三章第一条は﹁主権は国民に属する﹂と. いう。この条文における主権という言葉の意味は、次の条文により疑なし。へ,すべての権力は国民のみから生じ、国民は. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. それを委任によってのみ行使しうる。﹂したがって主権を一七九一年の憲法は国家の権力の全体と解する。国民が主権者. といわれるのは、すべてこれらの権力の固有の主体たるかぎりである。ドイッのワイマアル憲法︵一九一九年︶が、 ﹁国. 権は国民から発する﹂︵ここに﹁国権﹂は﹁主権﹂の意味であった︶︵宮沢釈義︶。国家の一切の権力は国民から発する。 ︵註解日本国憲法二九頁︶. 一9_.
(10) 日本国憲法前文第三段中に﹁自国の主権を維持し﹂とあるのは、独立の権力を意味し、憲法前文の第一段に﹁ここに主. 権が国民に存することを宣言し﹂とあり、又第一条﹁主権の存する日本国民﹂とあるのは、国家のすべての権力を意味す. る。美濃部博士は憲法前文に﹁ここに主権が国民に存することを宜言し﹂とあり、又第一条に﹁主権の存する日本国民﹂. とあるを﹁国家の意思を構成する最高の機関意思﹂の意味に用いられるも、美濃部博士はイエリネックと共に、国民を国 家の最高機関と解きれる。. 市村先生は先生が反対せられる法人擬制説を次のように説明きれる。﹁国家の人格は其対外関係に於て存することは之. を否定する能わず。恰かも人が他人に対する関係に於て人格たると同じ。然れども国家内部の関係に於ては多少趣を異に. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. す。人類の内部組織に於ては頭脳が全身を支配す。之と同じく国家も亦其内部の関係に於ては国家の最高機関即ち君主国. に於て謂えば君主が之を支配するものにして従って統治権は国家に在らず君主自身に在り。対内関係に於ては全く国家の. た慰杏憲ん獣都激歌﹂鶉聾。. エスマンによれば﹁主権の主体たる国家は法人にすぎないから、主権が国家の名において自然人により行使されるを要. する。主権は、主権の永続的擬制的名義人と並んで、この主権の自由な行使が宿るところの現実的行動的な名義人をもつ. ことが必要である。これが本来憲法上の主権者である﹂。しかしカレ・ド・マルベルは主権二元主義を認めない。﹁主権. は二面をもつ、しかし内外主権において、二個の異る主権を認めてはならない。いづれも自己以上の権力を認めないと乙. ろの、一個の権力の単一観念に帰する。いづれも国家が国家内において主人たることを認める。外部的主権は外国に対す. る国家の内部的主権の表現に外ならない。逆に内部的主権は外部的主権なければ可能でない。外国に従属する国家は内部. において主権的権力をもたない。むろん主権の観念は外部に対する独立、国家における優越に分解される。これによりて. この観念は二重とおもわれる。しかし結局内部的主権と外部的主権は同一主権の二面にすぎない﹂。わが国の通説はエス マン説である。通説は主権の概念の国家機関への拡張である。. 一10一.
(11) イエリネックはいう﹁人民は朝に生れ夕に死する個人の集合なり、永久体に非ず、国民を主権者と解するは即ち此不統. 一性を知らぎるの愚なり﹂これに対して美濃部博士は﹁法人を以て其の構成員と離れた別個の人格を有するものとする思. 想は、ローマ法学の影響を受けた所謂法人擬制説の思想であって、法人の性質に関する正当なる説明と見るべきものはな. い.﹂︵熱黙鯖例︶.市村先生も﹁個人の生死に拘らず国民は国民とし工の統探ぢ柔久暮続する妻禽料とし. て国家人格説を立つる奮﹂︵黙轟。﹁共和国篶いて国家を統喜る永久の人格嶺るの根拠箋髭人民其のも のを統一体と観念することに存す﹂。. 君主国と共和国との区別は世襲的元首の有無であって、私は日本国憲法の天皇は議院内閣制の元首であると考える。新. 憲法第一条の象徴の意味がハッキリしないといわれる。﹁議院内閣制の元首の比喩的な役割は、議院内閣制の国家自体の. 理想的形式の問題を提出する﹂を手がかりとすれば、象徴H比喩となる。これを法的に謙訳すると比喩旺擬制となる。し. たがって新憲法第一条は天皇は、日本国の体現者でも、日本国民統合の体現者でもなくなったが儀礼的にあたかも日本国. の体現者であり、日本国民統合の体現者であるかのように取扱うという意味である。天皇は主権者でなくなったが、主権. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 者に相当する儀礼的地位を与えられる機関であるという意味である。. 議院内閣制において、象徴の役割をもつ国の首長と、実際的に行政と外交政策を指導する政府の首長との二本建であ. る。反対に大統領制において、大統領はその手中に二個の職務をかねる。私見によれば元首のメルクマールは政治的無答 責である。議院内閣制の元首は﹁君臨するが統治しない。﹂. 宮沢教授は﹁元首というのは国の首長のことで、外にむかって、その国を代表する権能をもつ国家機関をいう﹂といわ. れる。しかしグナイストは﹁国王は外にむかって国を代表する機能を持たなくなった。即ち宣戦、講和、条約は国民代表. の同鰹吉て管めて有効と馨。疹甜攣毒識︶.. わが国は議会主義的君主制︵議院内閣制︶であって国民主権と調和するが、ドイツ帝政時代や明治憲法の立憲君主制は. 一11一.
(12) 国民主権と調和しないとおもう。. イエリネックの法人論を通説は実在説というが擬制説である。イエリネックにしたがうわが国の通説は国家を構成する. 単位的個人の集合と全く別異の存在を国家と考える。主権といわれるこの実在は、それに従属するあわれな個人にとり大. なる比重を占める。国家がすべてであり公民は無である。国家の諸権利、ことに国家利益が間題となるとき、個人のすべ. での権利、すべての保障は消滅する。諸個人の名において個人を代表する者がすべてをなしうると信ぜられる。. 国家を諸個人の代りに、国家の基礎たる現実的要素から離れない人格の代りに、国家を構成する個人の外に、個人の上 に独立生活をするために、国家を個人と別異の新しい人格たらしめる。. したがってイエリネックやベルテルミイの法人擬制説は、公法の関係で、絶対主義説である。法人擬制説は絶対君主灘 が生じた時期に現れた。 ﹁朕は国家である。﹂ ヤ ヤ ヤ. 主権は国王主権でもなく、国民主権でもなく、抽象的国家権力の特性であって、この権力が何人の手にあるかを問わな. いところの、イエリネックの説は、国家生活の過ぎ去った時代の適当な表現であった。立憲君主制は啓蒙絶対主義の変様で. ある。この意味の立憲君主制は英国では知られない。国家は独立の権力として法的に統一された国民であるとトライチユ. ケは定義するが、この定義は英米仏にはあてはまるが、帝政ドイツにあてはまらない。立憲君主制と議院内閣制とをハツ. キリ区別せねばならぬ。立憲君主制から議院内閣制への移行は敗戦か革命を必要とする。国民国家は行為能力ある統一体. ら ヤ ヤ ヤ. への国民の結合となり、タテの結びつきで︵統治的形式で︶なく、ヨコの結びつきの統一体となる。. 一18一.
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