ばっくとぅざぱすと その十五
カネボウの「神様」武藤山治と「成金」鈴木久五郎
元鐘紡社長武藤山治氏胸像 彦根に存在した紡績・繊維企業の大規模な工場が次々と姿を消しているが、今回は彦根・長浜とも関係の 深い鐘淵紡績(鐘紡。現カネボウ)の名経営者・武藤山治と、買占め・成金の元祖・鈴木久五郎(鈴久)との 因縁話を取り上げたい。 武藤山治は現在の岐阜県海津郡に生れ、慶応義塾を卒業後渡米し、帰国後の明治27年鐘紡の新鋭工 場である兵庫工場長に抜擢され、日本的経営の源流ともいうべき家族主義的な鐘紡独自の労務管理を確 立した。 一方日露戦争の戦時景気で仕手株の東株、鐘紡等の買占めで巨万の利益を得た鈴木久五郎(鈴久)は 「成金」(なりきん)という言葉の語源になった新進銀行家である。同族銀行の資金をバックに鐘紡を買占め、 数万株もの大株主となった鈴久は明治40年1月の総会で、株主利益を極大化すべく大幅な増資・増配を専 務の武藤に迫った。武藤は「株主の一時の増資熱など会社百年の計から見て悪である」との信念から断固 拒絶したため、鈴久は株の威力で武藤ら重役陣を追い出した。 このころ「株界に連戦連勝を博し…終に本邦の株式界は全く氏の一手に依りて左右せらる…実に本邦空 前の成金者」と持てはやされ、舞い上がった鈴久は東京湾の羽田沖に40万坪の埋立予定地を購入したり、 東京の下町にある数千坪もの花月華壇という豪華な庭園を買い取って自宅としたり、中国の故事そのまま に『酒池肉林』の豪遊・散財を重ね、紀文そこのけの露骨な成金ぶりを遺憾なく発揮して連日新聞紙面を賑 わせた。 しかしこうした大株主・鈴久の横暴に対抗して、武藤を慕う鐘紡従業員は鈴久アレルギーを起こしてストラ イキに突入した。また武藤を熱烈に支持する大阪の八木与三郎ら有力株主も「鐘紡同志会」を結成、鈴久の ごとき横暴資本家を排除する体制を確立するとともに、従業員に絶大な人気のある武藤を即刻専務に復帰 させた。 やがて後年、鐘紡社長にまで昇進した武藤は実業家の主張を政界に反映させるため、実業同志 会を結成して代議士として特異な政治活動を本格化させた。武藤は昭和五年鐘紡を退社すると時事新報社、 大阪時事新報の経営に参加して政界浄化を主張した。 昭和九年一月から大阪時事新報に「利権の伏魔殿」たる「番町会を暴く」という長期連載記事が始まった。 番長会について、主要メンバーの永野護(山叶商店)は「岩倉具光、後藤(國彦)、僕の3人が、番町の郷(誠之助)さんのところへ、ちょいちょい行って親爺教育をやっていた。どうせ集まるならもっと多く…連れて来て 毎月14日に郷さんの家で会合」するだけだと弁解するが、メンバーには正力松太郎、中野金次郎、河合良 成、伊藤忠兵衛、渋沢正雄らの有名財界人を含んでいた。武藤自身は9年3月凶弾に倒れるが、番町会を 悪名高いニューヨークの利権の巣窟・タマニー・ホール同然の伏魔殿と見做して、「彼等の飽くなき陰謀の一 端は曩には商工会議所を乗取り、近くは帝国人絹の乗取り…」と告発の口火を切った番町会攻撃は、やが て有名な「帝人事件」(結末は全員無罪)へと発展する。 鈴久に鐘紡から追放され、シンパの従業員・株主に呼び戻された自己の体験から、武藤は成金・利権・資 本の横暴など、「鈴久」的な事象に対して体質的に過剰な拒絶反応を示すようになったのであろうか。武藤 の熱烈な崇拝者である八木与三郎は武藤を評して「資本家が横暴なことをするのを極力排斥した人で…所 謂温情主義で、従業員あっての会社だという信念の人だ」と語っている。 ところで現在、産業再生 機構の支援を受けて再建中のカネボウでは、彦根などの国内工場や各事業部門の閉鎖・売却が相次ぎ、カ ネボウの誇ったペンタゴン経営は見る影もなく解体されつつある。かって彦根工場の中央に鎮座して、日夜 従業員の敬愛の対象となっていた武藤山治の胸像(写真)は、鈴久ならぬ産業再生機構から安住の地を追 われ、関係者のご好意により関係史料とともに今回史料館に経済史・経営史の教材として寄贈された。この 武藤の胸像には目下切り売りされつつあるカネボウの姿が一体全体何と映っているのであろうか。 参考文献 『武藤山治全集』、『大和証券百年史』、 小島直記『日本策士伝』ほか (ファイナンス学科 小川 功)