• 検索結果がありません。

東正堂の藤樹後学資料の書写 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "東正堂の藤樹後学資料の書写 利用統計を見る"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東正堂の藤樹後学資料の書写

著者名(日)

吉田 公平

雑誌名

井上円了センター年報

14

ページ

83-107

発行年

2005-09-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002761/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

束正堂の藤樹後学資料の書写

吉田公平

達ミ§ぎせ、 はじめに  東正堂は一八六〇年万延元年三月二四日に東澤潟の嗣子として生まれ、一九三五年昭和]○年八月一日に七六 歳で死去した。  東澤潟は一八三二年天保三年一〇月九日に岩国に生まれ、↓八九 年明治二四年二月二一日に六〇歳で死去し た。  東澤潟は山田方谷・春日潜庵・吉村秋陽・池田草庵・林良斎・楠本端山・楠本碩水・大橋訥庵・草場侃川など と同時代を生きた人である。幕末維新期から明治時代に儒学思想を基軸に活躍した人物たちである。儒学思想の 中でも何を主たる資源にして思索したかによって、陽明学者とか朱子学者などと看板を掛けられることがある。 確かにその看板の色合を純粋に保持しようとして論戦した場面もあったが、国際情勢が変化して国運の危機がさ しせまっているという緊迫感が、党派にたてこもることをもはや許さない。学派の垣根を越えて学益を求めて書 簡を応酬し学談を重ねたのが実情である。学派を固定的にとらえて師弟関係で学統を説明してしまうと、その実 情を捨象してしまいかねない。丹念に事実関係を確認することによって、それぞれの時期に著された著書を読む 83 東tiポの藤樹後学資料のPt’v

(3)

ことができることがある。  東正堂については先に﹁東正堂年譜初稿﹂︵﹃白山中国学﹄通巻=号。平成一六年一二月二五日発行︶を発表し た。そこでは吉本嚢主幹﹃陽明学﹄、東正堂主幹﹃王学雑誌﹄﹃陽明学﹄、石崎東国主幹﹃陽明﹄﹃陽明・王義﹄を素 材にして東正堂の編集・執筆活動、王学会、陽明学会の組織活動などに重点を置いて、年譜を構成した。この作 業を遂行する中で実感したのは、東正堂は父東澤潟の顕彰に実に熱心であったことである。また、その顕彰運動 に、かつての東澤潟の門下生たちが自ら進んで協力している。東正堂は連年、概ね七月の末に東京を出発して故 郷の山口を訪れ、父母の墓前供養をおこなった。この展墓旅行の前後に各地で講演をし、講学活動をおこなっ た。八月末に東京に帰っているので、約一ヶ月間の講学旅行である。それを記録した﹁游踪略記﹂を読むと各地 の同志は東正堂の来訪を待ちわびていた節がみえる。  講学活動というと、それを盛んに行ったのは王陽明の門流であった。王門の二渓と称された王龍渓と羅近渓が 人気講師であった。この講学の熱量が明代後期に膨張して、東林書院グループなどが輩出し、大きな政治思想運 動になったことは周知のことである。人気講師が運動を盛り上げる。東正堂は﹁陽明学会﹂の機関車役兼人気講 師であった。  明治時代後半から昭和初期にかけて、陽明学運動を展開させた立役者が三人いる。吉本裏・東正堂・石崎東国 である。吉本巽は鉄華書院版﹃陽明学﹄を廃刊したおりに、より目的を直接的に訴えるために﹃修養報﹄を発刊 すると宣言した。この﹃修養報﹄の存在をいまだ確認していない。果たして発刊されたのであろうか。この﹃修 養報﹄のことを含めて、鉄華書院版﹃陽明学﹄を廃刊した後の吉本裏の足跡は分からない。  石崎東国は大阪の陽明学会を率いて、学問として﹁陽明学﹂を究明することを拒否し、王陽明・大塩平八郎の 84

(4)

思想を﹁陽明主義﹂として生きることを主張した。東正堂の﹃陽明学﹄と石崎東国の﹃陽明主義﹄は、お互いに 情報交換はしていたが、﹁主義﹂を同じくしないために、はげしく衝突することもあった。この石崎東国も大阪 を拠点に特異な活動を展開するが、活動量は東正堂の方が大きい。石崎東国の場合、王陽明は看板に借りたので あって、主眼は大塩平八郎のラデカルな﹁陽明主義﹂を社会に訴えることにあった。主義者としての熱情はたぎ るばかりである。熱心な追随者が登場する。しかし、運動の進め方をめぐって内紛がおこり、裁判沙汰にまでな り、一応それを乗り切るものの、それが遠因となって、運動は尻すぼみになる。この石崎東国・﹃陽明主義﹄につ いては、⋮機会を改めて考察することにしたい。  東正堂には、﹃王学雑誌﹄﹃陽明学﹄の主幹という顔とは別にもう一つの顔がある。哲学館・東洋大学の教授と いう顔である。 一 哲学館・東洋大学教授としての東正堂  ﹃東洋大学人名録−役員・教職員 戦前編﹄︵東洋大学井上円了記念学術センター。 する東正堂の関連記事の全文は、以下の通りである。 ○〇一四。東敬治。あずま 分類 教員。 在籍年 明治三二ー三八、 身分 哲学館︵大学︶講師、 [ひがし] けいじ︵あずまは誤読。敬治は東正堂の本名︶ 四〇・九−昭和九。 東洋大学講師・教授。 一九九六年三月二〇口︶に記載 85 東1瞠の藤樹後ア資†▲の,豹

(5)

教科目 明治三二、三四−三六年度 漢文。     明治三七年度 漢文︵論語、伝習録︶。     明治四〇ー対象二年度 漢文︵伝習録︶。     大正七−九年度 漢文。     大正一〇年度 伝習録。     大正=二ー昭和三年度 漢文学。     昭和四ー五年度 伝習録︵大学部、専門部︶。     昭和六ー九年度 伝習録︵専門部︶  実に不備な記録である。明治三一年には哲学館に出講しているが、このときにはまだ在職はしていなかったの であろうか。教科目の記載に切れ目があるのは健康上の理由などのために講義しなかったのか。たまたま記録が 残っていないだけなのか。まだ講義課目名もあまりにも簡単にすぎる。この通りだとすると暢気な授業風景を想 像してしまう。役員の項に記載がないことをみると、学校行政には関わらなかったのかもしれない。要するに東 洋大学に残る東正堂に関する記録はこれ以外には、無いので、これ以上の詮索はできない。  ことのついでに述べれば、東正堂自身、自らが奉職した東洋大学について言及した発言を、寡聞にして知らな い。機関誌﹃陽明学﹄の紙面には主幹であったこともあって、饒舌なほどに発言しているのに、東洋大学勤務に 関わる記事を書いてはいない。例外はしばしば東洋大学の学生募集の広告を掲載したことが、東洋大学に関する 唯一の記事である。東正堂の高弟で同じく東洋大学に奉職した生田正庵の場合も変わらない。生田正庵について は、﹁○〇四〇生田格。分類 教員。在籍年 昭和四ー。身分 東洋大学教授。教科目 昭和四年度 漢文学 86

(6)

︵専門部︶﹂と記録するのみである。確かに在籍しましたという証言にはなるが、それ以上のものではない。あ まりにも素っ気ない記録である。この件に関しては、新しい資料を見いだしたときに検討することにする。東洋 大学における教育者・研究者としての足跡は杏として分からないが、結果として東正堂・生田正庵の師弟は東洋 大学に貴重な宝物を残すことになった。 二 藤樹学関係資料の収集と整理  東正堂には生田正庵の外に、もう一人同じく東洋大学に奉職したお弟子さんがいた。柴田甚五郎である。東正 堂・生田正庵の師弟が収集整理した中江藤樹とその門流の基本資料を、ある時期に柴田甚五郎がもらい受けたの か、或いは、市場に出たのを柴田甚五郎が入手したのか、それを直接に証言する資料はない。しかし、中には柴 田甚五郎の所有に帰した経緯を推察することのできる識語があるものもある。柴田甚五郎はその関係資料を一括 して東洋大学に寄贈した。東洋大学に藤樹学関係の貴重書が所蔵されていることは識者の間では知られていたの であろう。それを調査して活字化を試みられたのが、木村光徳氏である。その成果は﹃日本陽明学派の研究−藤 樹学派の思想とその資料ー﹄︵明徳出版社。昭和六一年︶として上梓されている。柴田甚五郎氏が寄贈した藤樹学 関係資料を改めて解題したのが拙稿﹁柴田甚五郎旧蔵日本陽明学関係書について﹂︵井ヒ円了センター年報一〇号︶ である。そのおりは該書の解題ということもあって、その一々の書物を東正堂・生田正庵の師弟が取り扱った経 緯という視点からは叙述していなかった。また、このときに解題した書物のすべてが東正堂・生田正庵師弟が集 書整理したものではない。柴田甚五郎氏自身が購書したものも含まれている。基本的には東正堂・生田正庵の蔵 書印、識語の無いものは、柴田甚五郎氏の蔵書であった可能性が強いが、具体的な識語のないものはいずれとも 87 東」1堂の藤樹後学資料のPt写

(7)

決定しがたいものもある。藤樹後学の資料集を讃解する作業を進める上でも、必要な作業なので、二人の作業過 程を明らかにするという視角に重点を置いて、改めて考察することにしたい。  なお、先の拙稿で考察したもの以外にも、東洋大学図書館には柴田甚五郎が寄贈した図書が数多く所蔵されて いる。直接に藤樹学に関係しないがために考察の対象からはずしたにすぎない。寄贈を受け入れたときに﹁柴田 甚五郎文庫﹂として処理すれば良かったのであるが、今は一般書架の中に配列されている。いつの日か一々を点 検して、﹁柴田甚五郎氏寄贈書目録﹂を作ることができれば幸いである。 三 束正堂・生田正庵の書写  以下に藤樹後学の関係資料を東正堂・生田正庵の師弟が書写したものを、年代順に紹介することにする。 根拠にしたのは筆写本の巻頭・末尾に記された識語である。その全文を附記する。 その 明治四四年八月二八日。東正堂。﹃岡山先生書簡集﹄上中下合冊二二一 五二・T・一ー二∼=三を入手。  ﹁予往年詣藤樹書院。始知藤門下高弟有渕岡山先生。而又有其遺著書簡集也。遂請江州小川氏写取。即此本  是也。但其来歴不表見於世。遷転騰逓。亥家魯魚。盆然満紙。棘眼渋口。殆不可読下。後川村氏獲別本。予  因就共校之。然猶得七八。遺二三。深以為恨焉。頃間又聞井上氏蔵一本。又就校之。於是此本之大義。燦然  可視。将以表章之於世。令藤樹岡山二先生師弟学脈可得而尋求也已。明治四十四年八月念八日。正堂敬治  識﹂ 明治四五年二月。東正堂。﹃樋口覚書東條子十八箇条問記﹄二二一−五二・T・]ー二∼二三を入手し謄写。 88

(8)

 ﹁藤樹先生高弟渕岡山生於会津而居於京都。盛唱其師学於一時。有功斯道者極大 。而其書多不得焉。予嘗  慕岡山之為人。思其書之或将有存会津故家遺筐中者久 。頃日福島県館岡五十嵐哲太郎君寄示一書。題日樋  口覚書。且云此書既博之於家十又]代也。受而閲之。予未知所謂樋口為何人。必是岡山学徒無疑 。館岡距  会津不遠。或其先世頗有嗜斯道者。而此書得之於会津。亦不可知也。書中所載諸子。共似会津之人。後當資  此而有所探訪。因特謄写一本以蔵云。明治四十五年二月。正堂識﹂ 大正四年一二月。東正堂。﹃岡山示教録﹄並びに﹃岡山示教録追加﹄を入手。  ﹁右岡山先生示教録並追加は予が斉藤一馬氏と相識に及んで始て先生に此遺書あるを知りて遂に斉藤氏を介  して会津北郷より取寄所のもの也。此にて先生の学術も亦其大要を察するを得へしと云。大正四年十二月。  正堂識﹂ 大正五年秋。東正堂。﹃二見直養芳簡集﹄︵一二一ー五↓・N・一ー二︶書写。  ﹁予襲得会津並会津外藤門道統譜。知藤門岡山系有二見直養先生其人。既而捜索之鯨得其墓所。事詳吾雑誌  陽明学某号中。墓石上有銘文。因以始見其学問行事之概。乃本書巻首序中所載是也。致知致其不知之良知一  語。此其深造自得之虚。週然非夷之所想也。中野惜我翁賛其像日。聖学乱綜。教授朦朧。直養一呼。藤道二  晰。信 。予初訪其後人求遺文無存也。今幸乃獲之会津北郷。蓋因其編者則会人。文石君之功於是乎大 。  至別録則北川子之労。亦不少焉。可謂善與人同者也。大正五年秋写畢。正堂﹂ 大正五年秋。東正堂。﹃二見直養翁芳簡別録﹄二二一ー五二・T・一ー二∼一三︶を書写。  ﹁予嚢得会津並会津外藤門道統譜。藤門岡系中有二見直養先生其人。既而捜索之鯨得其墓所。事詳吾雑誌陽  明学第九十五号中。墓石上有刻銘。因以始見其学問行事之概。乃本書巻首序中所載是也。致知致其不知之良 89 東正堂の藤樹後学資料の書”・

(9)

 知 語。此其深造自得之庭。週然非夷之所想也。中野惜我翁嘗賛其像日。聖学乱綜。教授朦朧。直養一呼。  藤道二晰。信 。予初訪其後人求遺文無得也。今幸乃獲之会津北郷。蓋因其編者則会人。文石子之功於是乎  大 。至別録則北川子之労亦不少焉。可謂能善與人同者也。大正五年秋写畢書。正堂﹂ 大正九年三月。東正堂。﹃難波木村先生遺言録﹄︵二=ー五二・KK・一−一・一ー二︶を書写。  ﹁大正九年三月。正堂写之﹂ 大正九年三月。東正堂。﹃難波木村先生遺言録﹄︵==ー五二・KK・↓1一1︶を書写。  ﹁大正九年三月。正堂写之﹂ 大正九年三月。東正堂。﹃難波木村先生議論覚書上下﹄二二一ー五二・T・]ー二∼一三︶を書写。  ﹁大正九年三月。正堂写之﹂ 大正九年四月二九日。東正堂。﹃北川親諮翁雑記抄・藤樹岡山二先生以下諸子考﹄︵一二一ー五二・KC・三︶を  書写。  ﹁本書は、予此度会津北郷に至りて、前賢の遺跡を調査する所より、三浦定彦君より家蔵せる北川翁の断燗  せる閾本を示さる。其に就き予は特に其事の斯学に関する一節のみを抄出して一書と成して以て参考の具と  す。大要藤樹岡山二先生より其亜流にある諸子に及ふも、予等の新聞にかかるもの多し。不可不存也。大正  九年四月二十九日夜写畢書。正堂﹂ 大正九年五月一八日。東正堂。﹃藤門像賛﹄二二一ー五二・NH・九︶を書写。  ﹁藤門像賛一巻、会津北郷諸子所傳也。名日藤門。然大機係岡山先生之学統者。而北郷諸賢殊為詳悉賛辞。  問吾未螢則時代風気使然。不足為珍也。以過 。北郷百除年間。一脈相挙。群賢輩出有如此。鳴呼亦盛哉。 90

(10)

 予今争遊其地。請三浦定彦。只及寓黙。不堪欽慕。遂借帰。手親模写以示吾党同好諸子。大正庚申五月十又  八日。書於東京牛門蔵春閣窓下。正堂敬治﹂ 大正九年六月一四日。東正堂。﹃植木是水松本以休両先生示教録﹄二二一ー五二.UZ︶  ﹁大正庚申六月十四日忍腕痛而写畢。正堂老人敬治識﹂ 大正九年六月二八日。東正堂。﹃樋口覚書東條子十八箇条問記﹄祓語。 大正九年六月二八日。東正堂。﹃東條子十八箇条問記﹄二二一ー五二・T・一ー二∼一三︶に賊語を記す。  ﹁正堂曰く。此書三浦常親翁の嘉永七年の序に。方秀岡山子所以問答之書十八箇条とあるは。其延宝七年の  旧蹟に因会津之住東條氏之問記之とあるによるものなれとも。予は今此書を熟玩するに。東條子の岡山子に  問うものに非すして。誰なるか会津方に同東條氏と学問切磋せる辛酉より。東條氏の方に在京岡山子の所に  ありし時に贈書て問ひたるものにして。東條氏の答へなり。其来書を撞起して。答辞を一格下にかきたる。  以て知べし。其延宝旧賊は。蓋し会津東條氏の誰人かの問に因て記して之に答へたるものぞとの意に聞ゆ。  さすれは其漢文に作りて倒置の失あり。此其時代は猶人の深く彼の文字に心を留ず。未熟の致す所にて。時  代風気使然。心学者殊甚し。会津諸子中にも其例鮮からす。但書中の主意條貫を見れは。必らすしも定めて  予の妄言ならさるを知るへきか。大正九年庚申六月二十八日。﹂ 大正九年七月六日。東正堂。﹃北川子示教録﹄二二一ー五二・T・一 二∼一三︶を書写。  ﹁大正九年庚申七月六日写畢。正堂老人﹂ 大正九年八月一七日。生田正庵。﹃難波木村先生議論覚書上下﹄二二一ー五二・T・一−二∼一三︶を書写。  ﹁大正九年八月十七日。正庵写之﹂ 91刺・;iの藤搬拍料曝7’

(11)

大正九年九月一日。生田正庵。﹃諸子文通贈答録﹄︵一二]ー五二・T・一−二∼一三︶を書写。  ﹁○〇九年九月一日写之。正庵﹂︵元号の記載はないが大正のことであろう︶ 大正九年七月六日。東正堂。﹃北川示教録﹄二二一ー五二・KCー四︶を書写。  ﹁大正九年庚申七月六日写畢。正堂老人﹂ 大正一〇年四月。東正堂。﹃北川子文書集︵北川親諮遺書︶﹄二二]ー五九・Kー四︶を書写。  ﹁大正十年辛酉四月写干東京牛門蔵春閣。六十二歳翁正堂。﹂ 大正 ○年四月。東正堂。﹃北川子文書集﹄︵一二一−五二・T・一ー二∼一三︶を書写。  ﹁大正十年辛酉四月写干東京牛門蔵春閣。六十二翁正堂﹂ 大正二年七月四日。生田正庵。﹃東條子十八箇条問記﹄二二↓ー五二・T・一ー二∼一三︶を書写。  ﹁大正十一年七月四日。正庵写﹂。 大正=年七月一四日。生田正庵。﹃北川子示教録﹄︵==ー五二・T・一ー二∼=三を書写。  ﹁大正十一年七月十四日写畢。正庵学人﹂ 大正一 年七月二二日。生田正庵。﹃北川子文書集﹄︵==ー五二・T・一ー二∼=三を書写。  ﹁大正十一年壬戌七月二十二日写干東京目白肇。正庵居士﹂ 大正=年七月二七日。生田正庵。﹃樋口覚書﹄︵=二ー五二・T・一−二∼=二︶を書写。  ﹁大正十一年七月念七日写畢。正庵﹂ 大正=年九月一日。生田正庵。﹃岡山示教録追加﹄を書写。  ﹁大正十一年九月一日夜九時写畢於東京目白墓。正庵学人﹂ 92

(12)

大正一一年九月五日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄二二一 五二・T・一ー二∼一三︶巻一を書写。  ﹁大正十一年九月五日夜写畢。正庵学人﹂。 大正=年九月九日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄︵一二一ー五二・T・一ー二∼一三︶巻二。  ﹁大正十一年九月九日写畢。正庵学人﹂ 大正一一年九月一五日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄二二一ー五二・T・一ー二∼一三︶巻三を書写。  ﹁大正十一年九月十五日夜写畢﹂ 大正一一年九月]九日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄二二一ー五二・T・一ー二∼一三︶巻四を書写。  ﹁大正十一年九月十九日午前十時写畢。正庵学人﹂ 大正一一年九月二一日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄二二一ー五二・T・一−二∼=三巻五を書写。  ﹁大正十 年九月二十一日写畢﹂。 大正一一年九月二三日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄二二一ー五二・T・一ー二∼二三巻六を書写。  ﹁大正十一年九月二十三日夜写畢﹂ 大正一一年九月二六日。生田正庵。﹃岡山示教録﹄二二一−五二・T・一ー二∼一三︶巻七を写畢。  ﹁大正十一年九月二十六日写畢於東京目白墓。正庵﹂。 大正一一年一〇月三日。生田正庵。﹃二見直養芳簡別録﹄二二一ー五二・T・一ー二∼=三を書写。  ﹁大正十一年十月三日。正庵写之﹂ 大正一五年一〇月一四日。生田正庵。﹃岡山先生書簡集﹄上中下合冊二二一ー五二・T・一ー二∼一三︶を書写。  ﹁右岡山書簡集三巻。出干示教録者略之。上巻写了。顧答一人有二文。若省其一文。則或有失聯脈之虞。故 93 東if r〈t/の藤樹後学資料の書写

(13)

中下巻全写。大正十五年十月十四日。正庵中孚﹂  東正堂・生田正庵の識語があるために書写年代の明らかなものは、以上の通りである。識語がありながらも書 写年代が記されていないために年代を決めかねるのがある。  ﹃岡山先生示教録﹄二二一ー五二・FK・一ー一・一 八︶。   ﹁東の図書﹂﹁東敬治印﹂の蔵書印があり、巻首に﹁会津北川親認編集・正堂校読﹂の識語がある。東正堂が   会津地方に調査したおりに入手したのかもしれないが、直接にその年月を明記していない。  ﹃岡山師覚書﹄二二一 五二・FK・四︶   ﹁東敬治印﹂があり、東正堂の蔵書であったことは確かである。巻首に﹁就岡山県図書館所蔵写之。正堂﹂   の識語がある。これも書写年代はわからない。  ﹁東図書印﹂﹁東敬治印﹂﹁東敬治﹂などの蔵書印があるものは、嘗ては東正堂の蔵書であったものである。同 じく﹁正庵図書﹂などの蔵書印があるものは生田正庵の蔵書であった。柴田甚五郎寄贈書は東正堂・生田正庵旧 蔵書を含むが、柴田甚五郎氏が科学研究費を受けて資料調査した際に集書したもの、あるいは古書店から購入し たものがある。 ﹃雑記後編案思録﹄︵柴一二一ー五二・KC・六︶  表紙裏に﹁記。 、此書は余が帝国学士院の研究費を受けて藤樹学を研究する為、 昭和九年夏、会津に到り 94

(14)

 て蒐集したる研究資料なり。一、此書は会津の藤樹学の道統に属する北川恕三先生が雑記後編案思録と題し  て書れ玉ひし古朋の摘要なり。此書数冊あるたる筈なるが、今発見せざるは遺憾なり。目下捜索中なり。昭  和九年二月此書。柴田黙天﹂とある。 ﹃翁問答﹄二二一ーNH︶  巻末の遊び紙に﹁本書は中江藤樹先生の名著にして、先哲の手沢本なり。昭和十四年十月八日。古書展覧会  にて購入せり。柴田黙天﹂の識語がある。村口書店から購入したものについては購入価格も記されている。  柴田甚五郎が直接に購入し入手したものは、柴田蔵書に帰した経緯ということに関しては特に問題はない。東 正堂・生田正庵の蔵書が柴田蔵書に帰した経緯がよく分からない。お二人から寄贈されたのだろうか。そのよう に考えるのが尤も自然な発想なのであろうが、]点、疑念を抱かせる記載がある。東正堂が書写した﹃植木是水 松本以休両先生示教録﹄﹃藤門像賛﹄﹁北川親認翁雑記抄・藤樹岡山二先生以下諸子考﹄には巻末に張り紙がして あり﹁植木是水松本以休両先生示教録一冊。弐円也﹂﹁藤門像賛一冊。正堂自筆、拾五円也・九八﹂﹁北川親蕎翁 雑記抄一冊・弐円也﹂とペン書きされている。柴田甚五郎の書体ではない。東正堂・生田正庵が自分の蔵書に値 段を付けることはない。となると、これらはもともとの所蔵者である東正堂のもとから何らかの理由で古書店に 流れて、それを柴田甚五郎が購入したということであろうか。となると、これら以外のものも、これらと同じよ うに古書店に流れたのを柴田甚五郎氏が購入したのであろうか。或いは張り紙がないのは柴田甚五郎氏が受贈し たのだろうか。疑いを存して置くことにしたい。  関東埼門学関係の貴重書を多数所蔵していた池ヒ幸二朗氏の蔵書が古書界に流れた時に同学の士が購入したと 95 東1騨の藤es後学資料のi9°i

(15)

いう風聞を耳にしたことがある。東正堂は晩年には病に苦しんだ。そのことと蔵書流出が関係するのか否か、知 るよしもない。今となっては閑議論である。いかなる経緯があったにせよ、これらの貴重書が東洋大学に一括し て所蔵されていることを多としたい。  柴田甚五郎寄贈書全体を調査していないので明言はできないのだが、柴田寄贈書の中の貴重書は何と言って も、東正堂・生田正庵師弟が集書して書写した藤樹後学関係のものである。その 々の経緯については今は述べ る紙幅がないことを遺憾とするが、その大要を簡単に述べることにしたい。  調査・蒐集したのは東正堂である。その際に調査先で拝借したものを東正堂が筆写した。その筆写本を東正堂 が校正して朱を入れた。東正堂自身が校訂したものを祖本にして生田正庵が清書した。清書した際に生田正庵も 自らの按語を附しているところがある。生田正庵の清書本が善本ということになるが、文章として不審なところ は、東正堂本に遡ると解明できるところがある。  例えば渕岡山の﹃岡山先生示教録﹄にしても複数の写本があり、その親子関係を明晰に指示できないものもあ る。藤樹後学関係のものは、東正堂が近江の藤樹書院に一部清書して寄贈しているので、それとの関係をも確認 する作業が残されている。  もう一つ。東正堂が主幹した﹃陽明学﹄︵陽明学会︶に藤樹後学関係の資料を連載して紹介している。最初に 活字化したのは東正堂であった。木村光徳先生は二番手ということになるが、木村先生は﹃陽明学﹄掲載のもの を参照されなかった節がある。東正堂・生田正庵の書写体は解読に難渋を極めるものではない。しかし、異体字 が多用されており、音通に仮借している所などがあり、文意を把握しにくい所があるので、藤樹書院所蔵本、 ﹃陽明学﹄所載文を参照することが不可欠の作業であろう。木村先生の翻刻を導きとしながらも、一層の精緻な 96

(16)

原典を公刊することを目指している。煩墳にして難儀な作業が待ちかまえているのだが、同伴者の小山国三さん は丹念に着実にお仕事を進められる方なので、二人三脚でしばらくはこの作業を継続することにしたい。  そのような思いに駆り立てるのは、東洋大学に所蔵されている藤樹後学関係資料が文字通りに貴重だからであ る。一部藤樹書院にあるとはいえ、これだけまとまった形で所蔵されているということは瞠目に値する。それに もまして貴重なのは、藤樹後学関係資料が我々に伝えているメッセージの内容である。そのことについては木村 光徳先生が御著書の中で解析しておられるが、東アジア漢字文化圏の中に投げ込んで改めて解釈すると、近世期 の思想の特色を鮮明にする一つの窓になりそうなのである。この点については、関係資料を活字化する作業を続 ける中で考察することにしたい。 四 東正堂の著書  東正堂の著書については荒木見悟先生が東澤潟の評伝を著したときに︵叢書・日本の思想家﹃吉村秋陽・東澤潟﹄。 吉村秋陽は荒木龍太郎氏、東澤潟は荒木見悟先生の執筆︶、その巻末に紹介されている。ここに紹介されているもの の全てを見ていない。取り敢えず、東洋大学図書館及び家蔵のものを中心に紹介する。将来的には東正堂の書誌 を改めて書き下ろすことにしたい。  叉子。︵配架番号=二一・HK・三﹂︶   線装本。外題は﹁叉子﹂。表紙裏に﹁南浦東敬治著 叉子 門人藤本毅桑原進校字﹂。巻首に﹁? 奇 天   逸﹂。叉子の自題﹁題叉子﹂。本文十五丁。巻末に﹁明治十八年乙 酉夏四月 従 遊生 岡本忠信謹識﹂の   ﹁微﹂。奥付は以下の通り。 97 東正堂の藤樹後学資料の書写

(17)

      明治三十年七月九日印刷       同   年七月廿日発行       著作者 山口県玖珂郡通津村四十一番地 東敬治       発行者兼印刷者 同岩国町四百九十三番地 米谷判蔵       大売捌 大阪市南区心斎橋筋壼丁目 松村九兵衛       同   東京市京橋区南伝馬町壼丁目 吉川半七       同   京都市寺町通六角下ル 山田茂助       定価金十六銭 澤潟先生傳。︵配架番号﹁一二]1五九・HK・四﹂︶  外題は﹁澤潟先生傳﹂巻首の﹁題辞﹂の末に﹁古題辞予明治庚子四月八日始草此傳時所作當時経賜天皇皇后  陛下叡覧今其書本既尽世無知者因又修正其文再印行之而題辞猶存其旧無一所改云。昭和丁卯七月十七日。六  十八翁正堂敬治書﹂という。全八十二頁。  奥付は以下の通り。       明治三十四年五月十八日印刷。       明治三十四年五月二十二日発行。       昭和二年八月五日第二版発行。       定価弐拾銭       著作者 東敬治 98

(18)

      印刷者 東京府下瀧野川町西ケ原七十四番地 大島貞吉       印刷所 東京府下瀧野川町西ケ原七十四番地 三光印刷所       発行所 東京牛込区河田町十二番地 陽明学会       振替口座東京一〇八二一番 電話牛込五九五七番  東敬治は本書を昭和二年十月二五日に東洋大学図書館に寄贈している。 心券。︵配架番号﹁一二]1五九・HK﹂︶  外題は﹁正堂東敬治著 心券全 東京 王学会発行﹂。内題は﹁心券 正堂東敬治著﹂。扉に﹁辱賜天皇皇后  両陛下叡覧﹂。正誤表一枚添付。本文八十九頁。巻末に﹁東氏著書既刊目録。﹃文章訓蒙﹄二巻 澤潟著 発  行所山口県岩国 書隷文照堂。﹃国史臆議﹄二巻 澤潟著 ﹃三楠遺規﹄二巻 澤潟著 発行所東京本所区南  二葉町四番地書隷楠香堂。﹃叉子﹄一巻正堂著発行所山口県岩国書騨文照堂。﹃澤潟傳﹄一巻正堂  著 発行所山口県岩国 書舜日新堂﹂の広告がある。奥付は以下の通り。       明治三十四年七月十二日印刷       明治三十四年七月十七日発行       著者兼発行者 麻布区六本木町四十三番地寄留 東敬治       印刷者 麹町区飯田町二丁目五十番地 大槻民次郎       印刷所 麹町区飯田町二丁目五十番地 同益社       発行所 本郷区元町二丁目十七番地 王学会       大売捌所 本郷区通四丁目五番地 書隷文明堂 99 東正堂の藤樹後学資料の書写

(19)

 本書は柴田甚五郎旧蔵書。表紙裏に﹁本書は恩師東敬治先生より我に寄贈せらしものなり。謹みて厚意を謝  し紀念して保存しおくものなり。大正十四年五月七日 黙天﹂とある。 陽明哲学叉子附問答。︵配架番号﹁一二一ー五九・HK・五﹂︶  外題は﹁正堂敬治著 陽明哲学叉子附問答 明善学舎﹂。﹁叉子﹂は十七頁。﹁又叉子問答﹂九十一頁。巻頭  に﹁明治三十六年癸卯十二月 門人大塚豊撰﹂の﹁叉子問答序﹂がある。奥付は以下の通り。       明治三十七年五月六日印刷

      同年五月八日発行

      同 三十九年八月十日再版       同 四十一年五月廿八日三版       正価金六拾銭郵税四銭社員一割引       編集者 東京市四谷区右京町廿四番地 東敬治       印刷者兼発行者 同麹町区山元町三丁目壼番地 高橋信定       発行所 同麹町右京区廿四番地 明善学舎       印刷所 同麹町区山元町三丁目壼番地 麹町活版所       一手販売所 東京市日本橋通壼丁目十八番地大倉書店       特電話本局七八一電話本局七八四電話本局一五一三  束敬治は本書を明治四十二年二月に哲学館に寄贈している。 伝習録講義︵配架番号=二五・五・OS・二ー一∼三ロ﹂︶ 100

(20)

  見開きは﹁陸軍大将男爵長谷川好道序 正堂東敬治講述 伝習録講義 東京松山堂発行﹂。﹁明治三十八年十   月 陸軍大将男爵長谷川好道撰﹂の﹁序﹂。﹁明治三十八年乙巳陽復月 後学東敬治識﹂の﹁自序﹂。内題は   ﹁伝習録講義 正堂東敬治講義 門人大塚豊筆記﹂。第一編三五六頁。第二編三五六頁。第三編三八七頁。   奥付は以下の通り。       明治四十年五月十五日印刷       明治四十年五月二十日発行       上製正価金九拾銭 並製正価金八拾銭 和製正価金八拾五銭       著者 東敬治       発行者 藤井利八 東京市京橋区南伝馬町一丁目十八番地       印刷者 高塚慶次 東京市京橋区弓町二十四番地       印刷所 三協印刷株式会社 東京市京橋区弓町二十四番地       大販売所︵東京堂書店外四店︶       発見元︵松山堂本店二支店︶       発売書舜︵全国四十五店︶  この﹃伝習録講義﹄はロングセラーの書であった。内容を充実し装丁を新たにして出版された。その経緯の全 容については未調査なので機会をあらためて報告したい。  困記。困記続録。︵配架番号﹁一二一ー五九・HK・二ー↓∼三﹂︶   線装本。外題﹁困記上﹂巻一二三。見開き﹁正堂東敬治著 困記 蔵春閣蔵版﹂。巻首に﹁大正癸亥六月 101 東正堂の藤樹後学資料の書写

(21)

青淵渋沢榮一識﹂の﹁困記正続二録序﹂。この序の最後に柴田黙天の﹁大正拾二年八月拾八日 東正堂先生 紀念 柴田黙天﹂の墨書がある。次に﹁明治三十一年十月 正堂東敬治識於東京僑居﹂の﹁困記自序﹂があ る。本文二十九丁。﹁困記下﹂巻四五六七。本文三十二丁。巻七の巻末に井上哲次郎、杉浦重剛、副島種臣、 大塚豊、の識語がある。最後に﹁明治戊戌陽復之月 慢蓄南部保謹践﹂の﹁困記蹟﹂がある。﹁困記続録﹂ 一巻。見開きに﹁正堂東敬治著 困記続録 蔵春閣蔵版﹂とある。巻首に﹁大正辛酉年五月 正庵生田中孚 謹識﹂の﹁困記続録序﹂がある。本文三十二丁。巻末に高瀬武次郎、山田準、斉藤一馬、奥宮正治の識語が ある。その後に﹁鯖洲 野村允中子執﹂の﹁困記続録祓﹂がある。最後に﹁大正十二年七月 正堂識﹂の ﹁附記困記関係諸氏﹂があり、頭注・識語に掲載された諸氏︵楠本碩水・並木栗水・谷口藍田・副島種臣・渋沢 榮一・井上哲次郎・杉浦重剛・菊池晋・高瀬武次郎・山田準・奥宮正治・斉藤一馬・岡本忠信・南部保・曽田文行・ 生田正庵・大塚豊・野村允中・大村義全・頼方・八巻翠竹・龍口了信・生出察・硲俊聡・田中稲城・門司敬亮・武内 順次・川岡東一・白銀若水・川村明卿・川中有終・中山雷響・柴田甚五郎・原田九兵衛・原田久吉・金子政次郎・小 川豊三・細沼強・桑原進・前島縣次郎・藤田正二・宮島榮一の四十二人︶の紹介を東正堂自身がしている。東正堂 の交友関係を正堂自身が記録したものである。奥付は以下の通り。      大正十二年七月三十日印刷      大正十二年八月五日発行︵定価金五圓︶      著者兼発行人 東京市牛込区河田町十二番地 東敬治      印刷人 東京府下瀧野川町西ヶ原七十四番地 大島貞吉      印刷所 東京府下瀧野川町西ヶ原七十四番地 三光印刷所 102

(22)

      発行所 東京市牛込区河田町十二番地 陽明学会 困記・困記続録︵配架番号三二一ーHK・二ー一ロ∼三ロ﹂︶  上記の東正堂が大正十三年十月一日に東洋大学に寄贈したものである。 陽明学要義。︵配架番号﹁一二五・五・HK﹂︶  見開き﹁正堂東敬治著 陽明学要義 東京照文堂蔵版﹂。巻首に﹁明治四十三年十二月  の﹁序﹂。奥付は以下の通り。       明治四十四年一月十日印刷       明治四十四年二月十五日発行 定価金九拾銭 著作者 発行者 印刷者 印刷所 発分元  巻末の一葉に﹁陽明学会創立趣意書。 陽明学要義備考。上中下三巻一冊。        明治四十四年一月十日印刷        明治四十四年二月十五日発行        大正元年十二月二十日再版発行 正堂東敬治撰井書﹂ 東敬治 東京市本郷区弓町]丁目四番地 宮城伊兵衛 東京市京橋区宗十郎町十五番地 中島丑之助 東京市京橋区宗十郎町十五番地 合資会社東京国文社 東京市本郷区弓町↓丁目電話下谷三四四↓番 照文堂 振替口座七六七四番        陽明学会会則。評議員。﹂が掲載公示されている。      全百八十三頁。奥付は以下の通り。 103東正堂の藤樹後学資料の書写

(23)

      大正十三年七月十五日三版発行       昭和二年七月三十日四版発行  改訂定価金弐圓五拾銭       著作兼発行者 東京市牛込区河田町十二番地 東敬治       印刷者 東京府下瀧野川町西ヶ原七十四番地 大島貞吉       印刷所 東京府下瀧野川町西ヶ原七十四番地 三光印刷所       発行所 東京市牛込区河田町十二番地 振替口座東京一〇八二一番 電話牛込五九五七番 陽明       学会  最後の一葉の裏に﹁陽明学会発行書目﹂の広告があり、次の四書が掲載されている。正堂自身が自著及び自己 の編纂を如何に位置づけていたかが如実に示されているので、広告文の全文を紹介することにする。  正堂東敬治著。困記正続共三拐。純日本式製本。   甲種定価五圓 乙種割引三圓 外送料拾弐銭   本書は正堂が心血を注ぎ凡三十年間を貫きたるの鹸に成るものにして彷彿として佐藤一歳の言志録を偲ばる   る所のものなり已に一斎の先例に倣ひ伊勢太廟にも奉納せしものは是なり故に世の陽明王氏の学風を察する   には必ずや一読の値あるべし  正堂著。陽明哲学叉子附問答。定価六拾銭 外郵税四銭  本書は古へ一箇叉子なる人物あるかの如くにして其実は之を仮りて以て闇に陽明学に於ける一種特別の妙理を  発するものにして其叉子と名けたるより已に意義の存するありそは問答を読めて何人も了解するを得べし  正堂編纂。澤潟先生全集二冊。凡紙数二千頁。定価五圓五十銭。送料二十四銭。 104

(24)

 澤潟先生は近世陽明学の泰斗にして正堂学問の根元も亦此に見るものあるべし 蔵春閣詩存稿二冊。定価参圓五十銭 割引二圓五十銭  本書は正堂が平生詩集中より若干を抄出するものにして論学もあり時世の感想もありて興味多し猶後に幼年  稿をも附して正堂が幼時十一歳より其六十七歳に至る迄の詩の都べてより抄出したる事になるを以て亦以て  正堂平生の詩史にも當るを得べし 蔵春閣詩存稿 上下二巻。  上巻の外題は﹁蔵春閣詩存稿上﹂。内題は﹁蔵春閣詩存稿上巻﹂。見開きに﹁正堂東敬治著 蔵春閣詩存稿  東氏蔵版﹂。巻首に﹁大正十四年十二月 西肥岡直養謹撰﹂の﹁蔵春閣記﹂がある。上巻の本文四十六丁。  下巻の外題は﹁蔵春閣詩存稿下﹂。内題は﹁蔵春閣詩存稿下巻﹂。下巻の本文は四十九丁。次に﹁蔵春閣詩存  稿附録﹂として﹁幼年詩文稿﹂を収める。本文九丁。巻末に﹁大正十五年四月 正庵生田中孚吉卿﹂の  ﹁践﹂を収める。最後に東正堂自身の﹁蔵春閣詩存稿関係諸氏﹂を収める。東正堂はその冒頭で次のように  いう。﹁所謂関係者。謂撰序蹟者並投資助印費者。此其人。学問業務。錐有各異。要之。凡皆世之有意於我  者也。因悉列記其氏名字号於左。順次以五十音。丙寅四月正堂書﹂。列記されたのは﹁赤穴子敬・荒川侃・朝  枝裕・生田正庵・依知川敦・内山茂・江木翼・岡直養・岡田亀太郎・小川淵・奥村又雄・河田清堅・桑原進・  近藤慶一・白銀若水・柴田甚五郎・須内季吉・武内順次・龍口了信・千葉三吉・長田新・西治興・林景敏・  長谷井光・東乙彦・広瀬素行・古井時幾・藤田俊・副島成行・北條和楽・前橋佐蔵・村田鉄・門司敬亮.山  田準・山本章・安村任・横田恭・横道復生﹂の三十八人。 105 東正堂の藤樹後学資料の書写

(25)

 東正堂の自著ではないが、正堂が出版を実現することに情熱を傾けたのは、父東澤潟の全集である。これを出 版にまでこぎ着けるまでの経緯についても、東正堂は述べているが、そのことについても機会を改めて報告する ことにしたい。今はその結果として刊行された﹃澤潟全集﹄を紹介することにしたい。  澤潟全集。上下二巻。上巻の巻首に田結庄千里の﹁明治二十四年二月四日即辛卯立春也 七十七翁 田結荘邦 光﹂の自筆の﹁序﹂。上下巻全一八七八頁。奥付は以下の通り。        大正八年七月十七日印刷        大正八年七月二十日発行 編輯者 発行者 発行者 印刷者 印刷所 発行所  東正堂はこの﹃澤潟全集﹄ には至っていないが、  澤潟先生全集拾遺。   柴田甚五郎旧蔵書。  澤潟会 右代表者 東敬治  東京市芝区日蔭町一ノ一 川岡東一  山口県吉敷郡山口町 白銀市太郎  東京市牛込町榎町七 渡辺八太郎  東京市牛込町榎町七 日清印刷株式会社  東京市芝区日蔭町 ノ一 川岡事務所  山口県吉敷郡山口町   白銀日新堂    上下二巻を刊行した後も東澤潟の遺著を収集整理した。その全体像を紹介するまで その中の一つが東洋大学図書館に収められているので紹介することにしたい。 ︵配架番号コニ一ー五九・HM・二﹂︶  柴田甚五郎が寄贈したものの一つ。書写は東正堂。もと東正堂の蔵書。﹁東京市瀧野川 106

(26)

  区上中里町一七二 柴田甚五郎﹂の長方印。﹁東之図書﹂の方印。﹁寄贈昭和 年 月 日 柴田甚五郎教   授﹂の長方印。﹁東洋大学図書館﹂の長方印。詩︵三百四十五題︶。語録︵十八條︶。随筆︵十條︶。日記︵文久   四年︶。論著︵十七︶を収録する。東正堂が主管した﹃陽明学﹄にも東澤潟の遺著遺文遺詩が掲載されている   ので、それらと重複するのか否か。﹃澤潟先生全集拾遺﹄をめぐる作業も難儀を究めそうである。  東澤潟・東正堂の父子の文業を年次別に整理したうえで、時運とからまりながら開陳された哲学思想を解析す ることにしたい。本稿はあくまでもその基礎作業の一端である。 107 劇1堂の藤樹後学資料の書写

参照

関連したドキュメント

をき計測磁については 約機やぞの後の梅線道燦ω @J III 祭賞設けて、滋問の使用!窓織象件後紛えているをのもあ~.正し〈誕lÉをされていない官能筏

排出量取引セミナー に出展したことのある クレジットの販売・仲介を 行っている事業者の情報

排出量取引セミナー に出展したことのある クレジットの販売・仲介を 行っている事業者の情報

○事業者 今回のアセスの図書の中で、現況並みに風環境を抑えるということを目標に、ま ずは、 この 80 番の青山の、国道 246 号沿いの風環境を

使用済自動車に搭載されているエアコンディショナーに冷媒としてフロン類が含まれている かどうかを確認する次の体制を記入してください。 (1又は2に○印をつけてください。 )

 貿易統計は、我が国の輸出入貨物に関する貿易取引を正確に表すデータとして、品目別・地域(国)別に数量・金額等を集計して作成しています。こ

1ヵ国(A国)で生産・製造が完結している ように見えるが、材料の材料・・・と遡って

  NACCS を利用している事業者が 49%、 netNACCS と併用している事業者が 35%おり、 NACCS の利用者は 84%に達している。netNACCS の利用者は netNACCS