空蝉の詩 死せる言葉と命ある言葉―プラトン『パ
イドロス』篇―
著者
田島 孝
著者別名
Takashi TAJIMA
雑誌名
白山哲学
号
48
ページ
1-29
発行年
2014-02-28
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006407/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaプラトンの﹃パイドロス﹄篇は、数多いプラトンの対話篇の中でも特別な作品である。﹃パイドロス﹄がプラトン ︵1︶ の最初の作品であるという説をディオゲネス・ラエルティオスが紹介している理由も分からないわけではない。何故 特別なのか。そのわけは、自らの作品である﹃パイドロス﹄の構造自体について、プラトン自身が言及し、どのよう に書いているのか、また、どのように創作をなすべきかを語っているからである。勿論、プラトンが﹃パイドロス﹄ について、直接的に自らの作品として明示的に語っているわけではない。リュシアスの弁論を含めて、その弁論と対 比して語られたソクラテスの第一弁論、第二弁論の構造と意味を、ソクラテスの口を通して、明確に語っているから である。即ち、﹃パイドロス﹄という作品はプラトン自身がその作品に注釈をつけるという希有な作品なのである。 ︵2︶ そうした意味で他に類を見ない。その一端を傍証する、プラトン自身の言葉からこの考察を始めよう。 話しというものは、すべてどのような話しでも、ちょうど一つの生きもののように、それ自身で独立に自分の一 つの身体を持ったものとして組みたてられていなければならない。したがって、頭がかけていてもいけないし、足 うた
空蝉の詩
死せる言葉と命ある言葉lプラトン﹃パイドロス﹂篇I
田島孝
1良きポイエーシス︵創作︶の基準を語るこの言葉に従い、プラトンがどのように自らの著作を構想し、それを現実 のものとなしているか、その真の姿を﹃パイドロス﹄のうちに見たいと思う。 ところで、こうした、プラトンの自負心の表れとも言いうる、言うならば、﹁生命体としての言葉﹂とも呼ぶこと のできる有機的な構造を持つ作品という観点から﹃パイドロス﹄を一読すると、その有機的な統一性という言葉とは 裏腹に、一体何が一番の主題なのか分かりにくい印象を与えないわけではない。それには幾つかの理由がある。一つ には、論じられる主題がエロース、美、哲学、学芸、弁論術、人間の魂の瞼え、神々と真存在、恋人たち、などと多 岐にわたり、どれが中心主題なのか俄には決め難いからである。また、冒頭の例外的な導入部分、即ち、イリソス川 の畔の情景や、途中の蝉の神話や、結語部分に登場するイソクラテスヘの言及などが、どのような文脈で語られ、全 体としてどのような有機的な結びつきを形成しているのか容易には明らかではないからである。 そこで先ず、全体の、言わば、四肢に当たる各部分をハックフォースの分節化に従い分けてみたい。その際に、ハッ クフォースの分節化のみに従うのではなく、その各節の間の関係を示すような、私が考えるディレクトリ構造に置き かえて、表示してみようと思う。 が欠けていてもいけない。ちゃんと真ん中も端もあって、それがお互いどうし、また全体との関係において、ぴっ2 ︵3︶ たりと適合して書かれていなければならないのだ。p念の藤沢令夫訳、以下日本語訳は原則、藤沢訳を引用するが、 部分的に筆者訳もある。︶
Ⅳソクラテスの第一弁論︵呂弓︲隠詩︶畠弓︲田野
V第一弁論結論呂斧︲隠匡
Ⅵ歌い直しへ匿国︲匿活
Ⅶソクラテスの第二弁論向おの︲蹟弓︶匿詩︲隠評 Ⅱリュシアスの弁論︵呂宕︲圏弓︶ Ⅲリュシアス弁論の批判 I導入部イリソス川の畔Ⅷ魂の不死
Ⅸ魂の神話
X真存在の認識
Ⅲ転生と魂の翼の回復 1.全体の傭職 PいつのI旧い心の PいいnIP四劃す PP司四lPいつの 恒心mnIP吟か四 恒心③四l回心可の 回心可の1回心的の 国吟の①1回吟CQ 胃国営○・口の︽○局首の○づくの局の四庫○国.昌彦のの、のヨ.の○国芹彦のず四局民○屍庁宜の 胃︸︺の一﹄、 目彦ののものの、ゴ○昂P﹃の国、 n国陣Qのロヨ○︷P目の園の↓の①もの①n戸の○Q異の、尉胃己屋、のQざ可の呉庁ゴの 庁写のご]のゴ員目印の承 の○Q翼ののすの咽ロ、三mmもののn戸シQの配。三○口○匡○ぐの ①○n門四斤の、、○口巳巨Qののゴ尉卸禺巽のものの、ゴ. 胃邑庁の邑一巨旦の、﹄の四Q一コ、守○い○n局四庁のm−mRの、四コ.︽四茸○国 の○の禺四庁の印すの、胃一の宜尉の①、○ヨロのものの、三・目ゴ周の①弄司で①の○局・目ぐ肖口の 自己四・口のめい 目写の胃巨冒己○尋巴津国○局の○巨冒 ]富国岸ゴ○昂庁彦の、○匡昌.目丘の、ゴ四国○斤の①同四国・茸く○ず○局の①の.目丘の も吋○の①の四○国○昂の○二﹂の 目壷のの○口﹄一いく肘一○目○へ角屋の画の冒豈叩岸の吊四臣四口・一口、四国二画茸○口 宛国国の四局目画威○国四口Q画国巴匡すの禺四武○邑○︷庁ゴのの○巨一.弓彦の でず︼○m○でずの局一のも働く﹄庁、の 3XVIXVI Ⅷ弁論術とデイアレクティヶー︵呂豈︲ご等︶ 凧類似と差違の知
肌三弁論の比較
Ⅲ弁論術の技法
川ペリクレス弁舌の背景 川真なる弁論と過れる弁論 蝉の神話 著述への予備考察 X V I X V M V 川 刈 凧 V 美そのものの想起 地上での美との遭遇 恋する人の種類 恋と愛し返し 第二弁論の結語語られた言葉と書かれた言葉弓寺︲弓等
P吟CQ由、つQ﹃ず①の○ロ一一の周の、巳庁g5邑○︽︺Qの巴因の画巨芹顎 P、つの︲P、回nF○ぐの四の庁可の局の、禺○ご昌邑、○︽庁ゴのの○信尾のご己口中 呂浮︲鵠胃目言ぐ四国○口のq寛の○四○ぐ田 口、四nlPmか⑦弓毒のの一厘亘屋、凹陣○ロ○昂﹄匡降.F○ぐの四コQの○一厘国︽の門﹄○ぐの 円、富山、割ず昌彦ののものの、写nopn戸己の具吟で国旦閂さ局F﹃の固の囚己旦勺ゴ四のQ冒嗣 P、割ずlPmmの勺忌の︸胃。﹄国四同国の○国巴・の局四陣○国○︽ので①のn面ぐく国威国m Pmmの心、CQ固詳の邑巨・の、目ゴの尉邑旦弄彦○品︽ずのQn回Q四m PmCの1個③胃四 Pひ骨四1円か心の Pか心すI脚かかず PoonIPoCn 回かCnI博司画ず 門司回ご︲P割心す 昂阜己の芹○国の四国Q天国○ごく一のQmの 宍日○で皇のQ函の○局儲のの①ロヨゥ毎国、の、四ヨQQ芦距の門のヨ、のの ロ圃庁Q片目の雪○口四の①×巨宜誌・旨も昂、の呂邑的の冠の①、す①の 目學]の庁の、ゴロ﹄P匡の○昂の×尉嘩己的門壷の芹○局月 甸冨さの○も固く閏旦儲三のざ国n勺の国巳のの↑、Qの茸さシ自画×四m○国の 弓彦の芹禺巨の国己の︽丘○・○︷門ゴの芹○国の、岸のQ罵画、匡岸国四国・岸の 育一、威画の四廓○口 目ゴのの匡もの国○国苛昌○︷庁ご①のも○穴の国ごく○局Q・戸島﹃芹五○m弄宜の芦国ぐ臼詳目○邑 ○︽ぐく国威目、 4このように見るとこの対話篇は大きな意味では前半と後半に分けることができる。その前半に序があり、後半の末 尾に結語がある。そして、前半と後半のほぼ中程に﹁蝉の神話﹂が置かれている。よく知られているように導入部で はプラトンの著作には珍しい真夏のイリソス川の畔の情景が精細に語られている。次いで、前半の核心部分をなすの はリュシアスの弁論と、それに続くソクラテスの第一弁論、第二弁論である。後半を支配する主題は弁論術と哲学あ るいは哲学の方法としてのデイアレクティヶー︵対話法︶との対比と、書かれた言葉と語られた言葉との対比である。 それらが終わり、ソクラテスのパイドロスに対する呼びかけの後で、ソクラテスはイソクラテスヘ、パイドロスはリュ シアスヘそれぞれ語るべきものを心のうちにもち、二人は別れるという形で終わることになる。 大まかに言うならば、﹃パイドロス﹄という対話篇はこのような構成をもつ。その前半と後半ではある意味では大 きな違いがあると言うことができる。前半を構成するのは三つの具体的な弁論であり、後半は、哲学と弁論術との対 比を前提として、如何に文を作るべきか、語るべきか、という問題に集中する。後半部分のこのような対比を導く切 掛けとなるのが、一般に幕間と解釈されている﹁蝉の神話﹂︵呂許︲囲ま︶部分であることは間違い無い。ハックフォー スはこの部分を幕間と呼び、その意図を三つとしている。即ち、︵1︶魅惑的な蝉の小神話により読者の心に一時的 な息抜きを与えること、︵2︶ソクラテスによる、パイドロスと自らへの怠け心への警告の形を取りつつ、読者に対 凧 Ⅵ リュシァスとイソクラテスヘの言葉弓等︲弓評言のmの鍔のの8毎msの四国・房○Q鼻のの ︵ローマ数字による分節化と対応するステファヌス版頁数はハックフォースによるが、 日本語の標題と分節化はハックフォースのそれと同じではない。︶ 5
ハックフォースはこの箇所で注目すべき次のような注をつけている。ゞ再三侭閏ご匡巽言茸冨目算彦○津意n片四sの ︵6︶ 四口三宮ご冑再三、ごく三目8日のの巨閏言○目呂巴○空の、胃の吾の○国々の邑言の毎日垣]国冒ご牙の旦国鼻○・・↓もし、この指摘が 正しいとすると︵そして後述するが、それを示唆する言葉がこの箇所には含まれている︶、プラトンはここで今まで にない神話を、小さいにしろ、自ら創作し、それをこの対話篇の中で意図的に使用していることになる。もし、そう であるなら、プラトンが作品の善し悪しの基準として、先の箇所で語る、部分と全体との統一性という観点から、こ の神話に特別の役割と意味を込めて書き加えていると考えなければならない。その意味は、この﹃パイドロス﹄とい う作品の解読の鍵となる可能性を持っている。プラトンはそのために敢えて、蝉の神話を創作したと見なければなら ない。先に触れたように、蝉の詩は﹃パイドロス﹄解読の鍵なのである。従って、詳細にこの部分を考察しなければ ならない。 ︵4︶ する注意喚起、︵3︶神的な助力を要請することにより前途にある課題の重要性と困難を示唆すること、である。ハッ クフォースのこのコメントには、プラトンが﹁蝉の神話﹂の導入により、何を語ろうとしているのか、その真意に対 する十全な考察は見られない。三国閂言日浦○国や困閏ぐの﹃旨昌のや⑦罰・由・悪胃皀も十分にこの箇所の意味について考 ︵戸、︶ え、プラトンの真意を汲み取っているようには見えない。私はこの﹁蝉の神話﹂が﹃パイドロス﹄という対話篇を解 読するために、プラトンが我々に与える鍵だと理解している。蝉とは何か、先ず明らかにすることから、考察を始め ﹄1−、可ノ○ 2.1上述のように、﹁蝉の詩﹂は﹃パイドロス﹄篇の丁度中程、言うなれば、前半と後半の分水嶺をなす部分 2.﹃パイドロス﹄の﹁蝉の詩﹂ 6
で語られている。この小神話導入の真意を明らかにするためには、そこで語られる言葉を全体として取り上げなけれ ばならない。なぜなら、この箇所の一文一文が微妙なニュアンスをもつ表現で貫かれており、それらの一部を抽出し 論じることを許さない密度の文章になっているからである。ゆえに、少し長くなるが、蝉の神話の少し前からテキス トを引用しなければならない。それは著述の善し悪しを決める基準の吟味の必要性を語る部分である。 気がするl暑いⅡ盛りのならいとて、僕達の頭の上では、蝉たちが、︵bll︶うたったり、︵Cl1︶お互いに話 ソクラテス率それならば、ものを書く場合の上手下手というのは、どのようなやり方をさして言うのだろうか。 lパィドロスよ、この問題について、ぼくたちは、リュシアスなり、さらにほかの誰でもいい、いやしくもかっ て何か書いたことのある人、あるいは何か書こうとする人を、吟味してみる必要があるかね?それは政治的な文章 であれ、個人的な書き物であれ、また、詩人として韻文を書くのでもいいし、しろうとの資格で散文を書くのでも りますまい、︵al2︶肉体的な快楽のほとんどすべては、そういう性質をもっていて、この特徴のゆえに正当にも し合ったりしているけれども、彼らはそうしながら、上からぼくたちのほうを見まもっているのだ、とね。だから、7 さい、よもや、苦しみが先立つのでなければたのしみを感じることすらできないような、あの快楽のためではあ いを求めるのでなかったら、極限すれば人はそもそも何を目的に生きていくことができるというのでしょう。じっ よいのだがロ パイドロス ︵a︲3︶奴隷的な快楽と呼ばれているのですけれども。 ソクラテス卵とにかく、こうして見たところ、暇はたしかにあるようだし、同時にまた、ぼくにはどうもこんな 必要があるかですって?いや、それなら一体、︵all︶こういった問題を研究する楽しみに生きが
えることだろうから。けれども、彼らがもし反対に、︵Cl2︶ぼくたちが談論をとりかわしながら、ちょうどセイ 彼らはぼくたちを廟笑することだろう。これはきっと、奴隷たちか何かが、自分たちのところへひと休みしにやつ をし、心が獺いままに、︵bl2︶彼らのうた声にうっとりと魅せられているのを見るならば、当然のことながら、 もしあの蝉たちが、ぼくたち二人も多くの人々と同じように、 ものう 気がするのですが。 くれることだろう。 パイドロス”な, でそれと気がつく間もなく死んで行ってしまった。その後、蝉たちの種族が生まれたのは、この人々からであって、 彼らはムッサたちから、つぎのような贈りものを受け取って来たのだ。すなわち、彼ら蝉たちの種族は、この世に 生をうけると、何一つ身を養う糧を必要とせずに、生まれたすぐその時から死んで行くその日まで、この世に住む 中のある人々は、たのしさに我を忘れるあまり、食べることも飲むことも忘れてただうたいつづけ、そして、自分 ソクラテス”それ和 いう話しがあるのだ。 lむかし、あの函 間だったのだ。とこ︸ ならば、きっと彼らは感心して、人間どもに与えるようにと神々から授かっている贈りものを、ぼくたちに与えて レンたちのそばを無事に船で通り抜けるように、彼らのそばにいながらそのうた声に魅惑されないでいるのを見る てきて、泉のそばで羊たちのように惰眠をむさぼりながら、おひるどきを過ごしているのだろうと、こう彼らは考 あの蝉たちは人間だった。 なんですかいったい、彼らがもっているその︵d︶贈りものというのは?どうも私は初耳のような ところが、 それはどうも、 ︵f︶ムッサたちが生まれてこの世に歌というものがあらわれるや、当時の人間たちの ︵e︶ムッサの徒ともあろう者が、こんなことに初耳だとは困ったものだね。こう ムッサの女神たちがまだ生まれない前の時代に生きていた人間どもの仲 このおひるどき、談論をとりかわさないで居ねむり8
2.2一般に幕間とされているこの蝉の神話部分は、先に触れたようにプラトンの完全に独創的な神話であるとさ れている。冒頭に引用したように、プラトンが著作というものは、その全体と部分とが完全な有機体を構成すべきで あると言う以上、そして、プラトン自身による創作である蝉の神話をここで導入する以上、それには然るべき理由が あると考えなければならない。対話篇を前半の三つの演説と後半の弁論術と哲学的対話の考察からなると考えるなら ば、その中間に位置する蝉の神話は単なる幕間ではなく、言わば、二つの部分の橋渡しをする要の役割を演じている としなければならない。その役割はどのような意味を担うことによってなのであろうか。何度も言うように、この解 人間どもの中の誰が、どのムッサの女神を敬っているかを、報告することになったのである。かくして彼らは、ま ずテルプシコラには、合唱と舞踏の中にあってこの女神に尊敬をささげた人々のことを報告して、そういう人々を、 いっそうこの女神に愛されるようにしてやり、エラトには恋に生きながら、この女神を崇敬した人々のことを告げ、 またそのほかのムッサたちにもこのように、それぞれの女神にささげられる尊敬の種類にしたがって報告をもたら て、その送るうた声は、最も美妙なのである。l こういうわけで、いろいろとたくさんの事情があるのだから、ぼくたちは、このおひるどきを過ごすにあたって、 何ごとかを話していなければならない。惰眠をむさぼっているわけにはいかないのだ。︵呂詮#閉塞、藤沢令夫訳、 傍線と記号は筆者︶ の二人の女神こそは、ムッサたちの中でもとりわけ、天界のことと、神と人間の物語とをつかさどる女神たちであっ のいとなみのうちに生を送り、この二人の女神の音楽に尊敬をささげる人々のことを報告するのだが、まことにこ す。︵9︶ところで、もっとも年長の女神であるカリオペと、それにつづくウラニァとには、知を愛し求める哲学 9
傍線︵Cl2︶部分で、ソクラテスが﹁蝉の我々に対する贈りもの﹂と語ることに対して、傍線︵d︶の部分でパ イドロスは、﹁贈りものというのは?どうも私は初耳のような気がするのですが﹂と語る。このようにパイドロスが この神話を知らないと言うと、傍線︵e︶の部分で、ソクラテスは﹁ムッサの徒ともあろう者が、こんなことに初耳 だとは困ったものだね﹂とパイドロスに対して、皮肉を言う。訳は﹁困ったものだ﹂となっているが、原文は﹁それ を聞いたことがないということは、学芸好きの人には相応しくない︵皀罵く9.魚。、二me三名○ごqoく島くgPRgく RO5員eく員三六○○く里く昌.呂写巴というものである。 パィドロスがリュシァスの弁論に魅せられて暗記する様は、対話篇の導入部のまさに原点である。また、﹃饗宴﹄ ではパィドロスはエロースに関する言論の生みの親とも一言われている。含饗宴﹄ご国や巴その言論好きのパイドロ スが、ムーサの出現により、その誕生の起源となった蝉そのものの人間への贈りものについて知らないというのはパ イドロスに相応しくない、と言うのである。しかし、蝉の神話がプラトン自身の作り出した話であるならば、パイド ロスがそれを知らないのは当然で、初耳というのも極自然な言葉である。それにも拘わらず、ソクラテスはこのよう り上げて解読を試みようと思う。 明が﹃パイドロス﹄篇解読の鍵となるといっても言い過ぎではないのである。 ところで、この幕間にはプラトンという人の文学的感覚がよく表れている。この部分だけで一つの完結した作品と 一言ってもよい趣と構造を持っている。この部分全体を引用した所以である。その真意さえ明らかになれば、何よりも この幕間の構造自体の意味が明確であるがゆえに、この幕間が対話篇全体に占める役割も明確である。実際、プラト ンはそう書いている。全体を整合的に理解するために、その要素・部分の意味を明確にすることとしよう。 そのために、解読の幾つかの手掛かりをプラトン自身がこの部分の中に埋め込んでいる。そのヒントを一つ一つ取 10
前の節のパイドロスの言葉、傍線︵a︶の﹁こういった問題を研究する楽しみに生きがいを求めるのでなかったら、 ここでは大切であろう。 メネー、あるはテルプ、 身は烏、墓碑によく刻一 話する人間への贈りものを知らないのである。 それに酔い痴れる蝉ではあっても、ソクラテスに始まる対話の意味を未だ知らず、それ故ムーサから預かっている対 たったり、︵Cl1︶お互いに話し合ったりしている、ということである。彼は、言わば、リュシアスの弁論をうたい、 分の身の上を知らないとは、何ということか、という皮肉である。蝉には二つの事柄が帰せられている。︵bll︶う とりつかれたパイドロス自身を象徴し、意味することが分かるのである。従って、蝉そのものであるパイドロスが自 に皮肉を言うのである。この皮肉は何を意味するのであろうか。論理的にその構造を見れば、蝉は名実共にムーサに 蝉あるいは蝉の歌声は、セイレンの歌声に瞼えられている。セイレンは神話上の怪物である。上半身は女性、下半 身は烏、墓碑によく刻まれ死者を瞑府に送るとされる。セイレンはまた、2,3,4人との説があり、ムーサのメルボ メネー、あるはテルプシコラあるいはステロペーとアケローオス河神の子とされる。ムーサの子供であるという点が 極限すれば人はそもそも何を目的に生きていくことができるというのでしょう﹂というパイドロスの言葉に対応して いる。即ち、肉体の快楽ではなく、ムーサの快楽、即ち、言葉の快楽こそ生き甲斐だというパイドロスの言葉と呼応 している。この一言葉は世俗的な喜びを軽蔑する文化人︵あるいは通俗哲学者︶の趣を帯びている。しかしながら、パ ムーサが生まれる前は、蝉は、もともとは人間であった。ムーサが生まれたが故に、ムーサのもたらした言葉の喜 びに酔い痴れて白らの生を忘れたのである。蝉はここではセイレンと類比的で、その象徴として語られている。蝉と なるべき人は、ムーサの誕生によりもたらされた言葉の楽しみ故にムーサの虜になり、寝食を忘れて死んでいった そうした人間をムーサは哀れみ、蝉に変えたというのである。この神話が語る蝉の誕生の由来は、実は、蝉の神話の ll
イドロスが奴隷的とさげすむ肉体の快楽に対比され、生き甲斐とされる言葉の快楽は、実は、蝉に変えられた人の快 楽に、ソクラテスによって職えられているのである。即ち、ここではパイドロスは蝉に、パイドロスの生は蝉の生に 置きかえられているのである。ムーサの徒を自負するパイドロスの﹁生きる喜び﹂とされる言葉の吟味、言葉の快楽 は、リュシァスの弁論に歓喜する快楽であり、蝉に変えられた人の傍い夢にも等しい快楽なのである。そうした快楽 が生き甲斐だというパイドロスに、自らの生を知らない蝉だとソクラテスは言っているのである。プラトンがここで 創りだした蝉の神話の意味に気付くことのない﹃パイドロス﹄研究とは何であろうか。 蝉は、我々が、多くの人たちのように暑い真昼にその声を聰き精神の怠惰故に︵g喜曼貫く目Ra目く○sの庖詔&︲と 眠りこけているか、即ち、羊のようにその泉に近づき奴隷のように︵パイドロスが肉体的快楽を奴隷的と職えたこと に対して、パイドロスのような真偽を離れた弁論術への偏愛こそ奴隷的との示唆であろう︶眠っているのか、あるい は、精神e具くOgを呼び覚まして対話・ディアレゲスタイをしているかを注視している。我々が︵弁論術と対比 された︶ディアレクティケーとしての対話をしているそのときには満足して、神々からの人間への贈り物を贈ってく れることであろう、とソクラテスは語るのである。そこには真のムーサの世界が広がり真のムーサの徒への贈りもの がある、とプラトンは言うのである これに対して、パイドロスはその贈り物は何か、と聞く。未だ聞いたことがないと言う。lこの言葉の意味は、 おそらく未だ哲学の味を知らない。哲学の楽しみを知らないことを示唆している。パイドロスは蝉の生を生きている のであって、未だ哲学の生、対話による生の吟味、即ち、真なる言葉の世界で初めて可能となるムーサからの贈りも の、真の快楽を知らないのである。 ソクラテスは従って先に触れたように、ムーサの徒でありながら、そのような話を聴いたことがないというのは学 12
蝉は死して、彼の地に帰り、ムーサにこの地の誰がどのムーサを尊重しているかを報告する。ムーサは九人とされ ている。︵テルプシコラはダンス・音楽、他のムーサの信奉者にはそれぞれの贈り物が︶ムーサの最年長者カリオペ と次のウラニアには哲学をした人への贈り物が与えられる。これら二人のムーサは天と神的な言葉、人間的な言葉に ついて、最も美しいうた声を発するのである。 これらのムーサは、ソクラテスの第二の弁論、﹁歌い直し﹂の中に登場する人々が、自ら選び従う十一の神々に対 応した意味を担っている、と考えられる。それぞれの人がそれぞれの資質に従い、自らの生を導く神を選択し、言葉 を紡ぐのである。そして、その言葉に相応しい生を送るのである。現在パイドロスが生きながら、空蝉の生を生きて いるように。後に語られるアドニスの園はこれに対応するのであろう。また、この生の比瞼は﹁命ある言葉﹂という 後半に登場するこの﹃パイドロス﹄篇の核心的主張にも関わるであろう。 ︾可ノ○ 芸の徒に相応しくない、と皮肉を言うのである。 ここで蝉の由来をどの様に語っているか、再度確認しよう。嘗てムーサが生まれる前は、蝉は人であった。ムーサ が生まれ、詩が生まれたのでその快楽に我を忘れ、食事も忘れ気付かずに死んでいったのである。ムーサはこれを哀 れみ蝉に代えた。この故に、蝉は生まれるや食べ物を取らず、歌い続けて死ぬのである。この有様をプラトンは﹁死 に逝くことに気付かず︵六皇室貝きく月焉ご目言負くRRR胃○片︶﹂という表現を使っている。エロースの真理から遠きリュ シアスの弁論に喜びを見出すパイドロスの生は、生きながら死んでいるに等しいということを意味しているのである 2.3このように蝉の神話はムーサ、あるいは、言葉に関わる人のあり方に二通りあることを示唆するために導入田
されている。そして、セイレンの歌に酔い痴れて命を失う人と、その歌の呪文に魅惑されることなく対話を通じて、 真理を求める人との対比がなされることになる。それが、次の言葉で始まる。 そして、すぐにソクラテスは﹁よく語る人は、話すこと︵がら︶を知らなければならない﹂と付け加える。この言 葉を聞くとパイドロスは、すぐに聴いた話として、﹁弁論家になろうとする人は本当に正しいことを理解している必 要はない、人々に正しいと思われることを知っている必要がある﹂という考え方を述べる。︵誤言︶このパイドロス の言葉は二つの点で注目に値する。ソクラテスは﹁よく語る﹂ことのために必要な条件を端的に述べている。これに 対して、パイドロスは﹁弁論家になろうとする人は﹂と言いかえ、﹁よく語る﹂ことの意味を﹁弁論家になること﹂ と同義と理解している。即ち、﹁よく語る﹂ということと﹁弁論家として語る﹂こととは同じことだ、と考えている のである。そして、弁論家が知るべきことは真に正しいことではなく、大衆に正しいと思われていることだ、という のである。この主張には更に次のような注目すべき点がある。弁論家が大衆を説得する場合に、何を説得するのか、 という問題である。ここでパイドロスが語る弁論の構造は、次のことを示している。説得に必要な条件は、大衆が既 に抱いている正義に関する考え方についての知である。弁論家の仕事が、もしそうであるなら、弁論家は何も説得す る必要がない。既に大衆が抱いている見解をそのまま復唱すればよいのである。大衆扇動家の弁舌はそうした構造を さあそれでは、いまぼくたちが提出していた考察の課題。すなわち、どのようにすれば上手に話しをしたり、上 手に文を作ったり、することができるのであるか、また、どのようにすればその反対になるのか、これを考察しな ︵7︶ ければならない。同昭の︶ 14
次に前半で語られる三つの弁論は何を意図したものであるのか、その論述の意図を探ることとしよう。ところでこ の三つの弁論の構造についてはソクラテス︵プラトン︶白身の分析がある。プラトンがどの様に構想しているのかを 知ることのできる恰好の手掛かりとなる。 先にパイドロスは﹁よく語る﹂ことは﹁弁論術により語る﹂ことだと考えていることは指摘した。同時に彼は、弁 持つ言葉との違いがある。 べきことを知らない弁論家と語られることの真偽を見分けることのできない大衆の間の話なのか、一人の人と一人の る。それは弁論術と哲学的デイアレクティケーとの対比である。それは既にここまでで明らかになったように、語る これ以降の後半の議論では、前節の﹁美しく語る﹂か﹁醜く語る﹂かという二つの言葉の対比が為されることにな を説き加えて、説得する例がその具体例なのである。p巴の︲忠ご か知らない大衆に対して、その限りではこの条件を満たす鱸馬を馬と称して、荷役や騎馬による戦場でのその有用性 加えて語るに過ぎない。このあとで登場する、馬を知らない弁論家が同じように、馬は大きな耳を持つということし い弁論家が同じように当の事柄を知らない大衆に対して、既に結論が出ている事柄をくり返しもっともらしい理由を もつ。大衆は新たに何も学ぶことはないのである。弁論家も新しいことを何も語らないのである。当の事柄を知らな 人との間で成立する探求の対話なのか、という言葉の使用の形式に関わっている。そこに世にある言葉の姿と生命を こうして後半の論述は、プラトンの自らの作品へのコメントとも言うべき前半部の三つの弁論の分析と、そこで明 らかにされた弁論術とデイアレクティケーとの差違の詳述とパイドロスヘの呼びかけの言葉に移ることになる。 3.三つの弁論の分析 l5
論家は真に正しいことではなく、大衆が正しいと考えることを知ることが肝要だ、とも言った。これに対してソクラ テスは、弁論家が、知らない人たちに艫馬を馬として推奨する例を挙げた。真実を知らずに大衆のドクサをかり集め る人が演じる言論の術は滑稽で、実は術知ではない、とパイドロスの考えを否定する。nsの︶。このように弁論術が 術知であることが否定されたことに対して、パイドロスはその議論が抽象的で具体性に欠けると語る。盾so︶術知 の有無が、即ち、真実に触れた言論と見せかけの言論、即ち、蝉となった人が喜ぶ言論の間にどの様な違いがあるの か、リュシアスの弁論とソクラテスの弁論を具体例として検証することになる。ソクラテスはその場面で﹁ちょうど またあの二つの話しはlどうやらこれは何かの偶然のしからしめるところとみえるが、l真実を知っているもの が言葉の中でたわむれながら、どのようにして聞く者たちを欺くことができるかということの一種の範例を示しなが ︵8︶ ら語られたのだものれ﹂︵藤沢訳︶、即ち、﹁真を知りつつ戯れに、聴衆を言論の中で誤り導くことの具体例を一対の 弁論は幸運にも持っているように見える﹂と語る。︵思浮︲eそして、具体的に前半で語られた三つの弁論の考察に すすむことになる。 3.1リュシアスの弁論の分析 ソクラテスはパイドロスにリュシアスの弁論の冒頭を改めて読むように命じる。 ﹁ぼくに関する事柄については、君は承知しているし、また、このことが実現したならば、それはぼくたちの身 のためになることだという、ぼくの考えも君に話した。さて、ぼくは君を恋している者ではないが、しかし、ぼく の願いが、そのためにしりぞけられるということは、あってはならぬとぼくは思う。・・・﹂p望巴 16
ソクラテスはここまで読ませて、パイドロスが先を読むのを遮って、この冒頭の言葉について、次のようにその欠 点を指摘する。即ち、リュシアスの冒頭の言葉は、恋する人が、彼が恋する少年に対して話しを終えたときに語るで あろう、そのような言葉である、と。︵思宙︶この指摘はこの対話篇前半部の三つの弁論の要であるのみならず、対 話篇全体の構想に基づく重要な言葉である。リュシアスの弁論にパイドロスが心酔した理由は、﹁恋している人に対 してよりも、恋していない人に身を任せるべきだ﹂というその論理の巧妙さにある。﹁私がただ恋していないという 理由で拒絶されるべきではない﹂というのである。この冒頭の論理をソクラテスは一刀両断に断罪する。この言葉は 恋する人が最後に語るはずの一言葉である、というのである。これは何を意味しているのであろうか。リュシアスの弁 論の背後には、それを語る人が意識しているか否かは別として、隠された前提がある、との指摘である。即ち、リュ シアスの弁論を語るその人自身は、本当は恋しているのだ、という指摘である。そうした事実なしに冒頭のような要 求を人はなしえない、という事実を指摘しているのである。それ故に、リュシァスの弁論の趣旨にしたがった、即ち、 形の上では﹁恋していない人に身を任せるべきである﹂という趣旨に沿ったソクラテスの第一弁論は、弁論を語り始 める前に、弁論自体に先立って、その状況設定を明確に語っている。即ち、嘗て多くのひとに恋された美しい少年が いた。その少年を恋する人の中に狡滑な人物がおり、恋していることを隠して、彼は少年に恋していないと説得した 上で、恋する人よりも恋していない人に身を任せるべきであるという説得を試みた、という状況の説明である。そう した状況の中で、恋する人が狡滑に語る口説の言葉なのである。これら二つの弁論の状況設定が意味することは次の 事実である即ち、リュシアスの弁論は、実は恋しているのに、自分が恋していることすら気付かずにいる人の話な のである。それはパイドロスが真実の言論の意味を知らずに、言論を恋している、そこに生きることの意味があると 17
言っている事実、そうした人に類比的である。即ち、蝉に職えられる人に類比的である。したがって、リュシァスの 弁論を語るものは恋・エロースについて何も知らずに恋しているのである。それはまた、馬を知らずに鱸馬を馬とし て推奨する弁論家とも類比的である。ソクラテスの第一弁論はエロースの本義を知るものが、即ち、哲学とエロース による神的狂気が両立するのみならず、不可避であることを知るものが、リュシアス弁論の本質的構造を別扶したう えで、その場合にどのような弁論が可能かという模擬的な実演なのである。 それ故にソクラテスは、リュシアスの弁論を批判するに際して、冒頭と結語が逆さまだと指摘するのに先立ち、リュ シアスはエロースを定義したであろうか、その定義に従い、全体として整合的な弁論を展開したであろうか、とパイ ︵9︶ ドロスに問いただすのである。p$の︶即ち、リュシアスはエロースの何たるかを意識的に明確にした上で、その自 覚に基づき弁論を展開すると同時に、恋する人として自己の望みを語っているのだろうか、という問いかけをしてい るのである。それ故に、この場面で先に引用した﹁どのような弁論でも生命を持つもののようにその部分が有機的に 構成されていなければならない﹂伺詮、︶と語るのである。そして、リュシァスの弁論の構造をプリィギァのミダス 王の墓に彫られた碑文に瞼えることになる。即ち、その碑文のどの行をとっても始めにすることもできるし、末尾に することもできる、そのようにリュシアスの弁論は思いつくまま無原則に、言わば、大胆に自暴自棄のように書かれ ている、というのである。このミダス王の碑文については、プラトンのこの箇所が最も古い出典であると言われてい ︵、︶ る。リュシアスの弁論をミダス王の墓の碑文に瞼えるこの言葉もまた興味深い。﹁ここに眠るはミダス王﹂と語るの もまた、同じように生命なき青銅の少女像である。手を触れるもの全て、生命なきものに変えたミダス王と共に生命 なき少女の銅像が、通りがかりの生命ある旅人に語りかけるというこの光景は何を意味するのであろうか。 18
3.2ソクラテスの一一つの弁論 ソクラテスは、リュシアスの弁論について、人が模倣することに注意しさえすれ碗、学ぶことは多々あるとその検 討を締めくくる。向詮の︶ここで話しを転じて、彼自身の二つの弁論の対比を自ら行う。最初の弁論と第二の歌い直 しが矛盾するのは、それぞれのエロースの定義が矛盾することに起因する、と語る。最初の弁論は恋していない人に 身を任せるべきだと主張し、歌い直しは恋する人に身を任せるべきだと主張する。対立するこの二つの主張は共にエ ロースを狂気と捉える点では共通であるが、一方はその狂気が人間的疾病に由来するとなすのに対して、歌い直しは エロースを神に由来する神的狂気となすのである。即ち、神的狂気とは、慣れ親しんだ人間的慣習からの完全な解放 なのである。n$巴ここでは更に神的狂気の四種が語られる。神託・予言はアポロン、秘儀はデュオニソス、詩人 ︵吃︶ はムーサ、最高の狂気はエロースとアフロディテに起因する。ここではムーサに付き随う詩人は三番目とされている。 同じような神的狂気の三分類は隠活︲隠評でも語られている。そして、そこでは第四の狂気としてエロースが登場す る。しかしながらその後の隈、烏上では、知を求める人、美を求める人、ムーサの徒、恋する人︵エラステース︶は 同じ人とされている。ここでは、先の三番目とされた詩人も哲学者と同じ人とされている。この違いは何を意味する のであろうか。おそらく、後の箇所隠詮P上では、四つが、即ち、知を求める人、美を求める人、ムーサの徒、恋す る人が同じ一人のひとであることが大切であった。その点が歌い直しの弁論の原点である。しかし幕間の蝉の神話で は、ムーサに付き随うものが、必ずしも、知を求め、美を求めるとは限らないことが示された。即ち、ムーサの徒も 二種であり、パイドロスのように自称ムーサの徒として弁論術に向かうものと、真のムーサの徒として、哲学に向か うものとの間には避け難い断絶があるのである。その違いがここでは強調されていると考えることができる。そうし た意味での第三番目の狂気としてのムーサは、哲学以前の模倣としての詩作・ポイエーシスを指すものと考えられる。 19
︵旧︶ リュシアスの弁論を模倣しようと懸命になるパイドロスやその同類を戒める所以である。 ここでソクラテスは、自らの二つの弁論の対比を試みる。そして、その主眼点である、恋していない人に身を任せ るべきという主張から、恋する人にこそ身を任せるべきという主張への転換は何に起因するか、という問題を論じ始 める。そして、それは弁論の中で暗示された一対の方法であると語る。即ち、総合︵qごく負くe三、淫鄙︶と分割言員6mq肩、 ︵M︶ 思静︲思富︶の手続きである。前者は両方の弁論の原点である狂気︵3169く矧骨宮〆く旦居、。︵后︵芝○目、冨芝gとし ︵喝︶ てのエロースの定義を可能ならしめ、後者は同じエロースのもとに二種の狂気があることを明らかにした。即ち、左 腕と右腕はともに腕ではあるが、左腕に職えられた左の︵できの悪い世俗的︶恋と右腕に瞼えられた右の︵神的な狂 気による︶恋である。向田の︲忠言︶ソクラテスは、彼の最初の弁論はエロースを左側のものとした結果、非難するこ とになったのであると言うのである。p念&︲④もちろんこの比瞼は、ソクラテスの第二弁論で比瞼的に語られた魂 の象徴的神話に登場する左の馬と右の馬に関連するのであろう。 このようにソクラテスはリュシアスの弁論と彼自身による二つの弁論の構造を分析する。ここで、ソクラテスがど のように三つの弁論に自ら注釈をつけているか、確認しよう。リュシアスの弁論は、実は恋しているにも拘わらず、 そのこと自体を自ら理解することのない、それ故エロースの本質を理解することのない人の説得ということになる。 そこで描かれているエロース像は、世間的な正気に対比された世間的狂気としての恋である。その正気と狂気の対比 がランダムに繰り広げられる。ソクラテスによる、リュシアス弁論の無秩序な構成に対する批判は先に見たとおりで ある。これに対して、ソクラテスの第一弁論は、同じ趣旨である﹁恋していない人に身を任せるべき﹂だと語るのだが、 原則を語ることにより、より整合的な構成を持っている。即ち、エロースの定義を最初に行うのである。我々の中に は我々を支配するものが二つあるという。一つは快楽を求める生得的欲望王ピテュミア︶、もう一つは最善を求め 20
る︵自己の外から︶獲得されたドクサ︵判断︶である。向署弓︲巴エロース︵恋︶は欲望の一種であり、快楽へのこ の生得的な欲望こそエロースの本質であると定める。それ故、恋することなしに美しいもの︵少年︶を欲求しうると 言うのである。nご詮︲巴しかし、この言葉は、第一弁論の大前提である、美しい人を恋している︵がそれを隠して︶、 ということに反した言葉である。欺いて狡滑に口説を弄するという所以である。従って、第一弁論もこの言葉を語る 人は、美しい人を恋している、という大前提に依存している。リュシアスの弁論を語るものも、既に明らかにされた ように、恋する人が最後に語る言葉で口説を始めていると指摘されたように、自ら自覚することなしに、実は恋して いるのである。こうして、リュシアスとソクラテスの第一弁論はともに﹁恋する﹂という事実が原点となっているこ とが明らかにされている。そのことをプラトンは指摘しようとしている。ただ両弁論ともに、エロースを世俗的な意 味で狂気と位置づけ、退けるべきものとして定めた上で、つまり、そのようにしかエロースの本義を理解していない が故に、恋していない人に身を任せるべきことを説得するのである。リュシアスの弁論は意識的な自覚なしに︵定義 なしに︶、言わば、社会的通念あるいは大衆のドクサとしてのエロース観に基づいて、ソクラテスの第一弁論は誤っ たエロース観あるいは知者風似而非定義に基づいて。 これに反して、ソクラテスの第二弁論、歌い直しは、エロースが狂気であることを正面から認める。しかし、リュ シアスとソクラテスの第一弁論が共に前提としたエロース観、即ち、世俗的狂気観を真っ向から否定し、エロースに よる狂気を神的狂気となし、世俗的狂気、世俗的正気をともに超越する人間に可能な最上の狂気であることを主張す る。それのみならず、予言者や秘儀を知る人、今までの詩人の狂気を超えて、知と美と愛の新たな世界を開示する真 のポイエーシスであることを主張する。プラトンがプラトンである所以はこの新たな発見と、声高らかなその宣言に よるのである。第二弁論の中で天球の外の真存在について語る箇所で、プラトンは今までの詩人はこのことを語るこ 21
ここで初めて﹃パイドロス﹄篇全体の構想を垣間見ることが許されるように思う。冒頭のソクラテスの言葉を思い 起こそう。 ︵焔︶ とがなかったと明言する。この言葉はプラトンの哲学発見の自負心を表している。この発見こそが人間にとって﹁知躯 の探求と、美の追求と、真の詩作と、哲学とが同こたり得るという哲学そのものの原点なのである。 この言葉は、日常の挨拶としてごく普通のものである。しかし、﹃パイドロ竺篇全体を理解した今は、特別な意 ︵Ⅳ︶ 味を持つもののように思われる。パイドロスはソクラテスに会う前に、リュシアスの弁論に心酔し、模倣して暗記し、 それを、ソクラテスを稽古台に実演しようと試みる。従って、﹁何処から﹂という言葉が空間的場所を意味するので はなく、こころの住み家、精神の居場所を意味すると理解するなら、それはまさにパイドロスの精神の所在を問う言 葉である。そして、﹁何処へ﹂という問いも今後のパイドロスの精神が歩むべき行き先を問う言葉である。そのこと をソクラテスの第二弁論が終わった時に語るエロースヘの呼びかけの言葉に確認しよう。 先ほどの話しの中で、パイドロスと私とが、何かお耳にさわるようなことを口にいたしましたとすれば、なにと ぞ、そのとがは、あの話の父親であるリュシアスにあるものとおぼし召きれて、彼があのような種類の話をするこ いずこ いずこ ﹁親しきパイドロスよ、何処へ、また、何処から﹂︵掲忍︶ 4.弁論術と哲学l死せる言葉と命ある言葉I
〆 シふくm2目、六PFq具員く。@○のOGの。臼 I 明らかに、パイドロスが弁論術と哲学との間を揺れ動いていることを示唆している。そして、リュシアスがその兄 弟のポレマルコスがすでに哲学に転向した、そのように弁論術から哲学に向かえば、リュシアスに心酔するパイドロ スも跨跨うことなく哲学に今後の生を捧げるであろう、と言うのである。即ち﹃パイドロス﹄冒頭の﹁何処へ、そし て、何処から﹂という言葉はこのことを指している。 これ以降は、生きるに値する言葉とは何か、その言葉に値する真の喜びとは何か、を語るのである。以降の議論は 触れない。基本的には、真夏のイリソス川の畔の我を忘れた一時の空蝉の蝉時雨と﹁命をある言葉﹂との対比であり、 後者をソクラテスは﹁それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分を守るだけの力をもち、他方、 語るべき人には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ﹂と語る。これに対してパイドロ スは﹁あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言 葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうが﹂と答える。 画p、3○,五自邸。5月ユ禧二のごC口e胃昌理﹁。﹁○.定員く①gく○く月○の各戸浸争。ごく負月○の禧啓国定つく員戸叶負ご﹃8、心.5月ユ五Eく廓 叩へ ︾、 eシ胃.目○く目odmsoROnン。言○くシ御く、属nsく目貝六厘一峰迄号ご〆○く、○戸︶○く、くC貝直直、く○の、ぶ︹戸二○く員くロン砕く○月○宮六負冨届 、 とを一切やめるように、おとりはからいください。そして、彼の兄ポレマルコスが、すでに哲学のほうに心を向け ておりますのと同じように、彼をこの愛知のいとなみのほうへ向かわせてくださいませ。そういたしますれば、リュ シアスを慕っているこのパイドロスもまた、もはや今のように、二つの道の間に立ってためらうことなく、ただ一 途にエロースをめざし、哲学的な談論に親しむことに、その生を捧げることでございましょうから。︵鵠弓︶ 23
そうあることを願うことになる。 ﹃パイドロこの最後は、ソクラテスがパイドロスにはこの対話篇で語られた話をリュシァスに伝えるように促し、 パイドロスからは、ソクラテスに対して、ソクラテスは親しいイソクラテスにどうするつもりか、と問いかけられる、 という形でおわる。ソクラテスはイソクラテスの資質が哲学に相応しいことを示唆し︵おそらくリュシアスと比べて︶、 ︵脚司①四m1画﹃か四℃︶ 何についてであれ、書かれた言葉のなかには多くの気晴らしがあるのが不可避であると考え、韻文であれ、散文 であれ真の真剣さに値するものとして書かれたものは未だなく、吟遊詩人が、吟味や訓育なしに説得のために語 るように、語られたものもそれと同じと考え、実際、それらのうちの最善のロゴスでさえそれを知るものの想起の 縁となるのだと考える人、だが、正義と美と善についての教えの言葉、学びのために語られる言葉のなかに、そし て、それらについて、真実、心のなかに書かれた言葉にのみ、明白で完全で、真剣さに値するものがあると考える 人lそして、次のような言葉が自分の、言わば、真正な正嫡であると言われるべきであると考える人、即ち、第 一にその言葉が、もし自分のうちにそれが在ることを発見する場合は、次に、その言葉の子孫や兄弟が同時に他の 人の他の心のうちでそれに相応しく生え育ったときにも、それを正嫡と考え、そして、それ以外の言葉には別れを 告げる人、Iそういう人こそ、おそらくパイドロスよ、私と君が、君と私がそうなるよう願う類の人なのであ るp弓&︲弓等と。 こうしてプラトンは﹁書かれた言葉﹂について次のように加える。 24
補遺 何故最後にイソクラテスヘの言及があるのか、理解しがたい面がある。それを理解するために哲学という言葉の使 用例を調べた。以下のような結果が出た。弓の園の口いの四の禺弓○aの①胃gを用いた。︶勿論プラトンが描くソクラテ スは常に﹁知を愛し求める︵哲学こという言葉を語る。しかし、哲学という言葉を、ソクラテスが日常的に使った という歴史的報告はあるのであろうか。哲学はプラトンのこの語の使用例に見られるように、ある弁論術と哲学との 緊張関係の中から生まれたものかも知れない。 25
の○n局四芹のの e三○qoe員e三○qo骨宮の関連語の使用頻度は以下の通りである。 e三○qoe員 9三○Qoemご シ凰卑三里$
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吟司つ︲四℃@国、 26註 ︵6︶内因シn六国○詞弓国、○つn房で﹄昂 ︵5︶ぐく.西目ゴ○gもめ○弓、︽﹃ゴ①胃︽一の①回moQのごく三のずき一ざ弓、﹃の日冒Q切芸の用四Q国呉牙①い、のロ①曼旦号①&巴○m匡①、葛三一①岸さ貝邑の四.四目国一 首四コの昼○国坤○目昏①冒胃言n国耳昌①O罰胃、①ngagn3胃&胃○匡扇印8厨冨関す昌碑皀官①胃巴叩包⑦○津胃、⑦名①一・、ご尽型ミミミ吻旦 型ミ。七・認、門の冒冒訂Qa匿○己ら園︵シgo尋のいめ︶・ 困閏ぐミペ昌烏、ゞ号①G8烏印さご白自a○.叩四mウ○吾四弓四目日mgQ囚呂日巨盲叩.邑房Q8g↓叩の三ゼヨ、言四m茸且三○弓堅々も。﹃耳皇巴尉 田自、﹄冒的、ぐくづ月ぎめ三四ウーのQgn四・四︵○すの四mい○Q四芹のQぐ三庁ご宅○の茸と四コ旦夛畠匡の①の.勺一四︽○︻。回天の、︽ゴの9,画。画一の、彦胃も﹄ヨ的一再弓○四,○局二ず胃一四載○己○品四国酌ご己、 ●● 四国Q、○.くの吋留自酌庁ゴ①冨洋の門画風一ぐ再旦吋のも門のいの。陣ヨ、庁ゴの。圃一の只旨巴一ヨム匡胃と庁ゴ凹弄のon禺四扇印一m回す○巨芹︽○両巨自の写︵四,@画苧P︶・勤氏の︷匡穴の庁ゴのの胃の国の 切○ロ、︵思@ず己、牙①n月四Q四一m、冨号目、扇8頁茸四目缶ミ冨一①no自黒一日目品四ご○富国巳の8ヶ①oぐの月○日の・・・型ミ。、型ミミミい︵の画冒胃匡、①ご国冒 ︵1︶ディオゲネス・ラエルティオス、﹁ギリシア哲学者列伝﹄P路. ︵2︶﹃パィドロ竺篇の著作としての特異性に的確なコメントが次の論文の序にある。巨崗団匡﹃三の鼻、雪、言豊ミミ︾侭国吻ミミ型員房 弔寒色ミミ的冨冒因汽、so記四目冒○之吻園ご﹄シ弓國圏く目堤筐三口三﹃○口函雷四く、画[F○の○串唱閏氏ぐ巳・Pで胸四m ︵3︶函・Z・弓三国の訳は次の通り。のくのごaの8日の①日匡碑意○晶四ヨNa、罠の巴言長冨冒酌昌号画き号○国蔚○ミヨ、四目ゴミ①局の、ゅ○四m目旦 詐○すの可①四Q庁いい。︻命○○塵①叩の、ウ巨斤斤○ゴ画くの回寓国営QQ庁四目Qロ己①円冒すの門、、no園ヨも○mの旦卦づ血ヰーヨ函吋の匿威。。︽○の四nす○庁ゴの吋画。Q︵○庁ゴの寺ぐず○一の.可包ロの. 函・Z・弓皇閏.PogQ四閨8−巨言画昌︶ ︵4︶詞国シn穴由○丙弓国、閏崖員︶一の電堵臣ご記[団、早四ロ叩ご訂Q一三牙四目冒茸。Q匡鼻5国、やロの.︽●国go彦閉冒吻①門訂Q四号目匡昌の︻盲・の四再互いもg員. 岸ゴ四の、目の一厘mmの昇岸彦吋の①Q尉唾国、匡尉ゴ四ず︸ので匡門も○叩の、﹀節門碑、芹○も吋○ぐ目・の四︽のロヨも○門四局﹃同国四×包戴○コ○吊斤萱の局の四Qの︻一mヨヨーヨQすぎ閂。①四コい○︷回向ゴ四門門口﹄国、 ● 屋洋一の民冒﹃芹ゴ︸の①nOpQ一弐斤○四でも①巴、巨邑Q⑦Rn○ぐ①局○︷四ぐく四国乱。、ケとの。n吋画斤のの︽○勺ずゆ①Q禺匡の回。Q壷計ロョの①一︷四,四]。碑訂Nゞ︲寓目一コQの9コののの、昂○局四吋の。のぞく巴 ︵○﹃8昌冒匡四己、の︶○津言扁且関|、四号貝一○.菌ョ旦雪一己薑8言98蔚穿の一日も自国国8画ごQg犀、巳ごo津言国昊号①且すぐ名涌四言温さ局 切○自、一ト○匹。岸寺Rつめ 勺禺①いめ、Pつ﹄]︶で.﹄割、 Q一く一ヨめい亘でも○尋・弓 ︵○﹃no国庫冒匡画冒、の︶ いかひいo トョ、ミ長ご誉Q8s②︵己電︶の著者○.”・田界国昌はこの箇所について︵その書名にも拘わらず︶纒まった形でコメントを書いて 27
︵Ⅳ︶プラトン対話篇の冒頭語が持つ意味を論じた示唆的で興味深い論考が巨詞冒閉皇の鼻の上掲著作︵g・愚、壱・9m山思、国風葛Oam︶の 中にある。彼は卑○巳烏のこの問題へのコメントを紹介しながら、﹃国家﹂、﹁饗宴﹂、﹁メノン﹂、﹁ティマイオス﹂等々の冒頭語の対話 ︵岨︶國閏ぐこ嵐浄昌の、弓・鼻も.﹄程. ︵Ⅱ︶模倣に対するプラトンの徹底的な批判は、﹁国家﹄皿巻118章の詩人批判にその本質的分析がある。 ︵岨︶勿論、その真意は余すところ無く﹃饗宴﹂で語られている。拙論、﹁美の学問としての哲学Iプラトンのプロトレプティコス・ロ ゴスー﹂亀白山哲学﹂“号、2009年3月︶を参照されたい。 ︵B︶神的狂気の三種と第四の哲学の狂気との根本的区別については、三・国団匡崗昌①鼻が同趣旨で的確に論じている。また﹃パイドロス﹂ 全体、とりわけソクラテスの第二弁論の解釈についても魂の三部分説との関連で首肯しうる解釈を提示している。しかし、蝉の神話 部分への言及はない。g・鼻.ぐ○局もつ臆甲隠か. ︵M︶ソクラテスは自らを分割と総合を恋する人だという。弓。言eく旦恥言曼、貝言R鳥8口q且幻ee昌尽、、§ぐ宮BRqmeく丙員一 目くミe亘eく、ざRoざ骨me嚴煮2a、尻員巨獣EI印 ︵巧︶従って総合と分割という方法は通常考えられがちな、類と種に分ける方法ではない。多様な事象の背後にある、根本的なエロース という事実の発見と、そのエロースに見られる、基本的には神的エロースと世俗的エロースの区分であり、その内部での差違に基づ くさらなる区別である。それは没価値的な自然的種的な区別ではない。 ︵略︶ハックフォース訳、S・鼻.認.︽舎旦昏鼻巨四8房君国Q芸の言画くの自切。○コのgo員の胃芹匡﹃宮9m言、浦菌戸冒四四sQロ○国①号呈の旨、 ︵7︶ざの、葛巴、芸のの弓両︵弓の冒○宮叩巴さ目且日ご冒叩︽ご○ミミ四m吾の国四日吊○街○s四コ・ず己ぞ8医長四国・弓昌冒函唖のo弓①胃①さ冒邑胃 言さ牙鼻胸囲の.ハックフォース訳、g・鼻も.旨@. ︵8︶この双数で表現される二つの弁論が何を指すか、議論がある。おそらくこの言葉のあとで、ソクラテスがその弁論の原因を土地の 神霊に帰している所から判断すると、ソクラテスの第一弁論を示唆しているものと考えられる。もう一つはリュシアスの弁論である。 ︵9︶これに先立ち万人がその言語の使用において一致する言葉と、万人が同じ言葉を使いながら、その意味内容の一致がない言葉の差 違を指摘しているのは重要である。︵駅浮︶エロースは勿論その意味を知っている人と知らない人との違いがその生き方において明確 ハツケ ニミ○陣彦啓君・ゞ になる言葉なのである。 ︵P圭司の︶ 28
篇全体の構想との有機的な結びつきを明快な形で論じている。とりわけ、﹃国家﹄篇冒頭の言葉についての解釈はプラトンの著作をど いずこ の様に読むべきか、初学者のみならず、研究者にとっても導きの糸となっている。残念ながら﹃パイドロ竺篇のこの冒頭語﹁何処 いずこ へ、また、何処から﹂という言葉の﹃パイドロス﹂における意味についての考察はない。なお、彼が取り上げてはいるが、詳論は避 けている﹁メノと冒頭語の詳細な分析と対話篇全体の問題との内的な関連については、拙論を参照されたい。﹁プラトン﹃メノ皇 篇冒頭文の意味﹂﹁白山哲学﹄岬号。 29