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足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立(Ⅴ)東京押出しと足尾鉱毒事件 利用統計を見る

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と足尾鉱毒事件

著者

松浦 茂樹

著者別名

Sigeki MATSUURA

雑誌名

国際地域学研究

10

ページ

85-113

発行年

2007-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003718/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立(Ⅴ)

東京押出しと足尾鉱毒事件

浦 茂 樹

1.はじめに

足尾鉱毒問題にとって 鉱毒被害民の東京押出し(大挙上京請願運動)は特に重要なできごとであ る。行動を開始した日は、第一回は明治30年(1897)3月 2日、第二回は同年 3月24日、第三回は31 年 9 月26日、そして第四回が33年 2月13日であり、この時、利根川 いの川俣で警官隊と大規模に 衝突した川俣事件が発生した。 東京押出しは、明治29年 9 月の渡良瀬川大出水により、鉱毒被害がそれ以前より一層大規模かつ 深刻に発生したことに起因して行われた。これに対し政府は、30年 3月24日、内閣直属として足尾 銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)を設置し収拾を図った。 第一次鉱毒調査会は、内閣に 7回の決議を上申し、明治30年12月27日に解散となったが、この上 申に基づき同年 5月27日、鉱業人・古河市兵衛に37項目にわたる鉱毒予防命令が発せられた。古河 は同年11月22日、この命令に基づく予防工事について東京鉱山監督署の竣功認可を受けた。また鉱 毒調査会では、足尾鉱毒被害地の地租の免税が決議され、政府は現地調査に入り実行された。 このように、第一回東京押出しが決行された明治30年 3月 2日から四回目の33年 2月13日の間に、 鉱毒問題は大きな動きがあった。ではこの展開の中で鉱毒被害民は、何を具体的に求めて押出し、 つまり請願運動を行ったのだろうか。足尾鉱毒問題の本質を える上で、この問題は極めて重要と える。

2.室田忠七日記 に見る東京押出しの目的

鉱毒被害地における請願運動の根拠地は、渡良瀬川左岸・群馬県邑楽郡渡瀬村下早川田の飛地に ある雲竜寺である(図 1)。ここに明治29年10月、請願事務所が設立された。その事務所は 、「両県 鉱毒事務所」、「両毛被害集会所」、「鉱毒停止請願事務所」、「足尾銅山鉱業停止請願事務所」、「両県 連合会協議会事務所」、「栃木群馬茨城埼玉四県連合足尾鉱業停止同盟事務所」などと呼称された。 一方、東京にも事務所が30年 2月27日設立され、3月 7日には芝口三丁目の旅館・信濃屋に移るが、 その名称は「足尾鉱業停止請願同盟事務所」である。

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これらの名称には、すべてではないが鉱業停止が掲げられている。明治29年の大出水直後は、鉱 業停止がその運動の前面にあったことは間違いない。29年11月29日、栃木県安蘇・足利両郡、群馬 県邑楽郡の三郡10ヶ町村の有志が集まり次のような精神的誓約が わされたというが 、その目的 は「足尾銅山の鉱業を停止することは勿論、之に附帯の諸請願を貫徹せしむる事」となっている。 足尾銅山鉱業停止が中心であった。 「本日出席の我々は精神的誓約を為し、各請願提出の町村を監督し、不正不義の行衛(為)を 弾劾し、互に其責任を重じ、群馬栃木両県の目的たる足尾銅山の鉱業を停止することは勿論、 之に附帯の諸請願を貫徹せしむる事に従事すべきこと。但し爾今加入之村々及一ヶ人たりとも、 其精神を見届け上は加入を許すこと。 右本日決議候上は、互に其体面に傷けざるを制約せしもの也。 二十九年十一月二十九日」 また明治29年11月、栃木・群馬両県三郡 9ヶ村の鉱毒被害民が、農商務大臣宛に足尾銅山鉱業停止 請願書を提出している 。その最後に、「仰ぎ願くは以上の事実と理由とを審察し足尾銅山の鉱業を 停止し、人民多数の権利 益を保護せられんことを」と述べた。29年11月当時、鉱業停止が大きな 課題であったのである。 図1 明治 30年前後の渡良瀬川下流部概略図(作成:渡辺千恵)

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被害民が「鉱業停止請願運動推進貫徹規約」・「両県連合会則」をつくり、「停止請願及附帯ノ諸請 願貫徹」のための正式な組織体が結成されたのは、明治29年12月21日である。この組織が中心となっ て東京押出しが決行される。その運動を背景としながら、政府により、第一次鉱毒調査会が設置さ れたのは、30年 3月24日である。 この時までの請願運動の具体的な動きについて、東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田 郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌でみていこう。 2.1 明治30年3月から同年5月までの請願運動の動向 明治30年 3月 2日 「足尾銅山鉱業停止請願ヲ貫徹スル為メ上京ス」 3月 3日 「貴衆両院議長ノ官宅ヲ訪問」、「農商務省ニ出頭シ前ノ事情ヲ大臣ニ向テ陳情セントス」 貴衆両院議長および農商務大臣に陳情しようとしたが、結局は面会できなかった。 3月18日 「足尾銅山鉱業停止事務所栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県ノ四県ノ事務所ヲ芝口三丁目信農屋 ニ置ク」 3月19日 「東京府下各新聞社ヲ訪問ス」 3月20日 計10名の衆議院議員を訪問。 3月21日 計 5名の衆議院議員を訪問。 3月22日 「農商務省ニ至リ大臣ニ面会ヲ求メタレトモ、大臣議会ニ出タリトテ面会カ出来ス」 3月24日 「夜十二時、村内一同下早川田雲竜寺前堤防ニ集合シ、夫ヨリ東京木 町農商務省至リ停止ノ確 答ヲ得ントテ出デ警官ノ説兪(論力)ニテ止ル者アリ。川俣ノ橋ヲ渡リ上京セシ者千人余リ」 3月29日 「内務省ニ一同訪問ス、法正局長面会ス。埼玉県岩槻ニテ、巡査カ被害人民長嶋与八外二名ニキ ズツケタルコト陳ブ」 「大蔵省ニ至リ大蔵次官ニ面会、鉱毒ノ為メ地租ノ免租ヲ陳ブ」 4月 3日∼4日 内務省衛生局長・後藤新平他が、被害地検 に来、それを現地に案内する。 4月 7日 鉱毒調査委員・渡辺渡他が、被害地巡視に来る。

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4月11日∼14日 内務大臣他が、被害地巡視に来る。 4月11日 内務省土木局長・古市 威が被害地検 に来る(内務大臣と一緒に回ったことも えられる)。 4月20日 衆議院副議長・島田三郎が、被害地検 に来る。 4月27日 「大蔵省出頭シ地租ノ免租・減租ノ願書奉差シ、且ツ大臣ニ面会ヲ求ムレトモ大臣ハ出省ナキト テ面会ヲ得ス。依テ主税局長目賀田種太郎君面会シ、被害地調書ヲ鉱毒調査ニ参 ノ為メ持参 ス。 依テ又陸軍省ニ出頭シ鉱毒被害ノ為メ壮丁充 出来ス、従テ教育ヲ授クルコトモ出来サルコト ヲ陳情セ(ン)トスレトモ大臣出省ナシ。 陸軍梅地少佐ニ面会シ右ノ事情ヲ陳テ退省ス」 4月28日 農商務省に出頭し「早川秘書官面会シ鉱毒被害調書ヲ出シテ、鉱毒調査会ニ回サレンコト乞フ。 早川君承知シテ吾々ニ預リ書ヲ渡」す。 4月30日 「農商務省ニ訪問シ、山林輪伐ハ政□ニ依ルモ政府ハ議会ニ於テ水源涵養ニ関係アル故ニ深山輪 伐ハ中止シタルト云フニ、昨年ハ足尾銅山辺ニテ非常乱伐セシハ如何ノ理由、山林局長ニ向テ 質問ス。 山林局長高橋琢也君答テ曰ク 既ニ政府深山乱伐中止シタリ、昨年切り取りシ(ハ)二十六年払ヒ下タル樹木ナリト答フ」 5月 1日 「農商務省ニ出頭シ大臣ニ面会ヲ求メルモ、大臣ハ出省ナキニヨリ秘書官ニ面会シ早ク調査会処 アランコトヲ願フ。又農務局長藤田四郎君ニ面会シ、被害地検 ニ出頭アランコトヲ願フ。局 長曰ク、最早本官ハ担当ノ技師ヲ出シテ調査セシメタレハ検 至サストモ事情ハ明カニ知レリ ト答フ」 5月 4日 「(内務)省ニ出省シ後藤衛生局長ニ面会シ、調査会ノ結果ヲ尋ヌ。又土木局長長古市君ニ面会シ 又調査会ノ結果ヲ尋ヌ。午後三時退省ス」 5月16日 現地の早川田雲龍寺事務所で宮内省への出願について協議する。 5月25日 「(内務省に)出頭シ、被害地ノ土地改復ノコト陳情セントスレトモ、大臣ハ出省ナキトテ中村次 官ニ面会ヲ求レトモ、次官モ多忙ニテ面会ヲ得ズ。依テ木内書記官ニ面会シ右ノコトヲ陳情ス」

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5月27日 「(農商務省に出頭シ)大石次官ニ面会シ停止ノ処 ヲ請求セントセシ処、相反シテ次官ヨリ鉱山 主古河ニ対スル命令書且ツ政府ノ処 ヲ惣代等ニ報道セリ。依テ惣代ハ次官ニ向テ、今日ハ鉱 業停止ノ陳情ニ出省セシ処、此ノ如キコトニハ被害地人民ト能ク相談スべシトテ退省セリ」 その後再び農商務省に出頭して 「農商務属磯辺館親愛君ニ面会シ、先ニ大石次官ガ古河ニ対スル命令書ノ中ニ鉱毒被害地ノ改復 ノ文字アルヤ否ヲ尋ネシ処、命令書中ニハ此如キコト無シト言フニ付一同退省セリ」 このように第一次鉱毒調査会の設置まで、被害民の請願先は鉱業所管の農商務省が中心で、銅業 停止がその内容であった。被害民が鉱毒調査会委員の名を知ったのは室田日記によると、3月28日の 読売新聞である。 第一次鉱毒調査会が設置された後、その委員である後藤新平、渡辺渡、古市 威が現地視察にやっ てきた。被害民は、彼らに期待をかけ、被害状況を熱心に説明したことは間違いないだろう。その 前に内務省局長であった後藤・古市には内務省で面会し、調査会の結果を尋ねている。また内務大 臣も 4日間、現地調査を行い被害地を見たり堤防破壊カ所を視察している。 被害民の運動は、鉱業停止を要求の中心におき、農商務省への陳情等を行っていたのであるが、 それとともに地租の免租・減租・被害地回復の陳情を行っている。また洪水と関係の深い足尾山地 の乱伐についての中止を要求している。 5月27日、鉱山主・古河に対して東京鉱山監督署から37項目の予防命令が出されたが、その内容を 被害民は農商務省で知った。鉱業停止ではないこと、また鉱業側による鉱毒被害地の回復がないこ とに強い衝撃を受けたことが推測される。なお 5月27日、大蔵大臣は客年洪水のため鉱毒害を被っ 図2 渡良瀬平地中流部の改修前概況図

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た土地に対し、地租条例20条を適用し災害地としての免租の検討を税務官 に訓令している。 2.2 明治30年6月から同年12月までの請願運動の動向 鉱業主・古河による約100万円を費した予防工事が、政府からの竣功指定期間内に終わり、東京鉱 山監督署から竣功認可を受けたのは、明治30年11月21日である。そして鉱毒調査会が解散となった のは、同年12月27日である。次に、この時までの被害民の運動をみていこう。 明治30年 7月22日 鉱毒地復旧請願書の町長調印を足利町役場でもらう。郡役所に行ったが、郡長は宇都宮に行っ て留守。 7月24日 梁田、御厨、山辺の各村役場を訪問し鉱毒被害地復旧請願書への各村長の調印をもらう(足利・ 安蘇・下都賀郡の各被害地の町村長の調印も、他の運動家が 8月 3日までに得る)。 8月 5日 宇都宮に行って県知事に面会し「復旧添書ヲ願へシ処、早速承知シテ是添書セリ」、この添書を もって上京した。一方、群馬県知事からの添書はこの日までにもらえず。 8月 6日 請願書をもって大蔵省に出頭し大臣に面会を求めたが、不在のこともあり、結局は目賀田主税 局々長に請願書を渡す。また陸軍省・農商務省・内務省・内閣調査員・神鞭知常(鉱毒調査会 委員長)にも請願書を渡す。 8月 9 日 内務省に出頭し、「県治属官高橋氏面会シテ復旧ノコト陳情」、内閣法制局でも神鞭知常氏に面 会して、復旧のことを陳情した。 8月10日 農商務省に出頭し、鉱毒被害土地復旧請願陳情のため次官に面会を求めたが会えず。 8月11日 農商務省に出頭し、鉱山での予防工事視察に行くことについて鉱山局長の証明書をもらおうと する(「農商務省出頭シ、鉱毒口デ工事視察ニ参ルニ付キ鉱山局長ノ証明ヲ貰ウニ付キ出頭」)。 10月 2日 足利税務署で宅地税猶予願を述べたが、署長は「宅地ハ素ヨリ収獲ノ有ベキモノアラズ」から 宅地は猶予しないと答える。 10月 7日 再び足利税務署に行って、宅地税について群馬県は猶予したのに栃木県はなぜ猶予しないのか と理由を問うたが、署長は認めず。 10月 8日 県庁で宅地税について問うた結果、「被害地関係地 ハ宅地ナリトモ徴収ヲ中止スルトノコト決

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シ、地方税務署通告セリ」との返事をもらう。 10月17日 早川田雲龍寺事務所において、四県共同で被害地の「財産救済快復ノ請願書」を町村長の調印 を得て提出することを決める。 10月20日 「請願書」の草案をもって足利郡内の役場を回る。 以上のように、5月27日の鉱山主・古河への37項目の予防命令が発せられた後、被害民は鉱山停止 を前面に揚げてはいない。前面に揚げられたのは鉱毒地の復旧であり、宅地税(耕地は既に免租・ 減租にするとの方針で大蔵省は調査に入いっている)の免税であった。 2.3 明治31年1月から同年8月までの請願運動の動向 次に第三回目の押し出しの因となった明治31年 9 月洪水以前の状況をみていこう。 31年 1月12日 「特別免租処 請願書奉呈運動トシテ梁田村長・御厨村長・筑波村長ノ調印ヲ得」る。 3月27日 特別免訴処 の件について上京する。 3月28日 神鞭知常の自宅を訪問する。 3月29日 農商務省に「巡視願書」を提出する。 群馬県邑楽郡全町村長は大蔵省に出頭し、地租条例による免訴処 について帝国議会で特別立 法が成立するまで 期願を提出する。 3月30日 逓信省・内務省・大蔵省に出頭し、「被害地巡視願書」を提出する。 4月11日 免訴処 期願書の提出のため、各村長に調印をもらいに巡回する。 4月30日 政府は、被害地に対して普通条例より免訴処 すると発表。 5月24日∼26日 東京にて貴・衆両院議員への働きかけを行う。訪問した代議士は衆議員 3名、貴族院議員16名 である。この中に貴族院議員を兼ねている内務省土木局長・古市 威 も含まれている。 5月27日 貴族院へ、「被民救済・被害地土地 復・河身改良・堤防増築・損害賠償」の請願書を議員子爵・ 谷干城の紹介で提出する。

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5月28日 23人の衆議院議員の紹介で、衆議院に「被害地救済請願」を提出。この衆議員の中に鉱毒調査 会の委員であった肥塚龍も含まれている。 7月27日 栃木県庁に出頭し、「二十九年度県税地租割戻」について第一課長に陳情する。 7月29日 内務省に出頭し、「堤防増築・河身改良至急実行願」、「二十九年度県税還附」の陳情および「地 方自治体ノ破レタル件」を述べる。また大蔵省に出頭し、「二ヶ年ノ免租継年期願ノタメ添田次 官・主説局長目賀田種太郎ニ面会引取リタリ」。 8月13日 足利郡役所に出頭、郡長に「自治体ノ破レタル件」につき陳情。 8月19日 久野村役場に出頭し「村治上ノ件」ついて協議。 8月25日 「村税補助請願書」をもって足利郡役所に出頭、郡長に面会して事情を話す。その請願書の内 容は概ね次のようなことであり、内務・大蔵大臣への陳情を えていた。「免租処 が行われた 結果、地租税は負担減租となったが納税額に基づいて与えられていた選挙権を失い、自治の機 関がなくなった。また村税として課すことのできるのは戸別割のみとなったが、これすら鉱毒 被害のため 弱となった村民にとって負担に堪え難きものである。一村維持・自治体破滅を免 がれるため、従来の地価割・反別割として徴収せられていた歳入額を土地回復するまで国庫補 助を仰ぐ」。 このようにこの時期の運動は、当初、特別免租が中心に置かれていた。それは地租条例による普 通免租を行うと選挙権を失ってしまい、選挙に基づいて行われていた自治行政が破壊されるため だった。それを防ぐために地租額が減じることのない特別免租を請願したのであるが、しかし普通 一般の免租となってしまった。それ以降、「地方自治体ノ破レタル件」も請願の課題となったのであ る。また内務省へは渡良瀬川堤防の増築、河身改良の改修事業の要望も行っている。この他、被害 民救済、被害地土地回復、損害賠償を要求しており、鉱業停止は運動の前面には出てきていない。 2.4 明治31年9月から同年12月までの請願運動の動向 次に第三回東京押出しが決行された明治31年 9 月出水から31年末の状況をみていこう。 明治31年 9 月11日 雲竜寺事務所で「村税補助願」の陳情書提出のための協議、及び「九月六日ノ洪水ニテ予防工 事ノ破壊ニ付キ視察トシテ銅山ニ上ルコト」を決める。 9 月13日

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農商務省に出頭したが、大臣・次官がいなかったため面会できず。大蔵省・内務省に出頭し、 「洪水ニ付鉱毒浸入シタルニヨリ検 被下タシト(ノ)件ニ付陳情」する。 9 月14日 農商務省で参事官に面会し、「被害地検 願」について陳情する。 9 月15日 大蔵省に出頭して参事官に面会し、「被害地検 願」および「免訴継年期限」の陳情、内務省に 出頭し「自治破滅ニ付村税補助」を陳情する。 9 月19日 雲竜寺事務所で「三日大洪水ニ付キ足尾銅山除害工事既チ沈殿池破壊セシニ付」き、今後の方 針について協議し、「堤防増築・救助窮済・自治破減ノ三件ニ付キ大運動スルコトニ決シタリ」。 9 月20日 久野村役場で「自治破減ノ件」につき協議する。 9 月21日 雲竜寺事務所で山田友二郎、須永金三郎、野口春蔵より「銅山視察ニ登山セシ報告アリ」。 9 月23日 「渡良瀬川堤防増築ノ請願書並ニ自治破滅ニ付、村税国庫補助請願」提出のため、地方庁の添 書を得る行動に移る。久野村長の調印、足利郡長の添書を得る。 9 月24日 佐野郡長の添書を得る。栃木県庁に出頭して課長に面会し、知事の添書を願うが得られず。 9 月25日 県知事の添書を得る。 9 月26日 第三次東京押出しを決行。雲竜寺事務所境内に集合して出発する。 「九月三日ヨリ七日 ニ大風雨ニテ沈殿池ハ破壊シ、鉱毒甚シク流沈セシニヨリ被害民一同ハ大 ニ撃抗シ是ヨリ一同上京シ、ヲソレ多クモ陛下御膝下ニテ衷訴セントノコトニテ、当日午後一 時ヲ期シ一同出発セリ」 9 月29日 田中正造の説得により、多数の請願者の中から選ばれた 代50名が前日、信濃屋に宿泊。この 日、代表 4名が内務省に行き大臣に面会を求めたが果たせず。内務省の説明は「地方庁ヲ経由 シテ参ルべシト。若シ多数ガ出省シテ強テ面会ヲ求ムルトモ地方庁ヲ経由(セ)ザレバ断ジテ 面会セズ」とのことであった。 農商務省にも 7名が出頭して大臣に面会を求めたが、「明日十二時ニ面会ヲ許ス」との回答を得 る。 9 月30日 農商務省に全員で出頭したが、閣議があって出省しないとのことで大臣に面会できず。また明

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日の面会者は代表 5、6名との言に激高、農商務省に夜中12時まで居続ける。 10月 1日 農商務省に大臣の面会を求めていったが、大臣病気のため出省せず。少人数で大臣宅へ行くよ うにとの指示がある。しかし結局は官邸で全員が農商務大臣と面会する。農商務大臣は、次の ように被害地民に対して理解あることを述べた。 「皆様ノ話シニ就テハ我レモ又内務大臣モ過日洪水ノトキ非常ニ心配シ、銅山ニハ技手ヲ派遣シ 夫々鉱毒ノ流失セシメザル様注意シ居ル。又被害地へハ技手ヲ派出夫レ々皆調査シテ居ル故ニ、 本省ニテモ夫レ々此ノ件ニ付調査シテ居ルワケデ(ア)ル。諸君ガ斯ク多数上京スルニハ余程 困難スルニ相違ナク、実ニ憫然ノ次第デアル。故ニ此ノ際、諸君ノ願意ノ内取ルベキ者ハ採用 シ、用ヒラレザル者ハ用ヒズト言フ方ガ諸君ノタメ利益デアルカラ、現政府モ尽セル限リハ尽 スツモリテアル故ニ、諸君モ順序ヲ誤ルべ可ラズ。諸君ガ順序ヲ誤ラズシテ地方長官ノ手続ヲ 経テ惣代 ニテ事情ヲ具申シタラバ、諸君ノ主旨モ貫徹スルニアロウ。若シ順序ヲ蹄ミテ而シ テ諸君ノ願意ガ徹底セザルトキハ、本大臣職ヲ退テモ速ニ採用スベシ。本大臣ハ勿論、内務大 臣モ採用スルデアロウ。若シ諸君ガ順序ヲ蹄ミテ願意ガ徹底セザルトキ、本大臣ガ職ヲ退テ諸 君ニ謝スベシ。若シ又諸君ノ願意スルトシテモ、国会ノ協参ヲ経ナケレバナラヌ故ニ、諸君モ 宣シク議員ヲ運動スベシト言フ」 10月 7日 足利郡役所に出頭し郡長に面会して、「農商務・内務両大臣ガ地方庁ヲ経由セザレバ如何ナル事 情アリトモ面会セザルトノコトニ付、郡長ヨリ知事ニ向テ被害地人民ノ窮困ノ事情具申シ被下 タシトノ件」を述べる。郡長は、県庁に行く時一緒に行くことを約束した。 10月12日 栃木県知事、鉱毒被害を視察し被害民の案内により堤防を見る。 10月16日 雲竜寺事務所で「被害民救済願・自治破壊ニ付救済願・堤防増築願ノ件ニ付県知事参 書類ヲ 出スコト」を決議する。 10月19日 久野村鉱毒事務所で「鉱毒地免租継年期願ノ件」で協議する。 11月 4日 「村税県税戸数割徴収猶予願ノ件、其他吾妻村新堤防改築ノ件ニ付、故障ヲ申シ立ツルコトニ 決」する。 11月 5日 雲竜寺事務所で「吾妻村・植野村・界村三ヶ村新堤防工事ノ件ニ付、久野・筑波・梁田・多々 良・渡瀬・大島ハ新堤工事ニ故障ヲ言フ」。 11月 8日 雲竜寺事務所で「再請願書中堤防増築ノ件ニ付」について協議する。

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11月12日 東京の鉱毒事務所より室田宛に書面が届く。そこには堤防築造について、吾妻・植野・界と久 野の間で利害対立を る動きがあることが次のように述べられている。また1500万円の渡良瀬 川改修大計画が図られていることが述べられている。 「四方八方ヨリノ通信ニ依レバ驚入候。果シテ其ノ事実ノ真偽ハ知ラザレトモ、近頃マタ加害者 ノ間牒(諜)村々ニ出没、堤防新設ニ付回シ吾妻・植野・界・久野ノ間ヲ離間シ、夫レガタメ 一般被害民ハ非常熱心ナルニモ関カワラズ、堂々タル有名ノ有志ニシテ瞞着セラレ、二十九年 以来堤防請願ノ貫徹シテ漸ク茲ニ至リ一千五百万円大事業トナリ。素人ニテハ到底 ラザル大 経画ナルニ、各々字々ニ割拠シテ眼小豆ノ如ク亦タ近眼ニシテ一寸先ハ真暗ニシテ愚論ヲ唱フ ルハ、一般ノ利害ヲ省リミズ政府ノ事業及ヒ外村々ノ妨害ヲ為スモノナリ」 12月 8日 久野村鉱毒事務所で足利郡役所と「村治上ニ就」て協議する。 12月29日∼30日 貴族院に「鉱毒事件ニ付附託セラレシ」26名の特別委員への訪問運動を行う。 明治31年 9 月出水で、鉱毒被害地では洪水氾濫があり、再び鉱毒被害が拡がった。この洪水は29 年洪水に比べると規模は小さいが、西谷田村などで破堤した。また足尾銅山の予防工事で設置され た沈殿池が破壊したとの認識を持ち、被害地住民運動は再び「東京押出し」に向けて活発化していっ た。 ただ、この沈殿地の破壊とはいかなるものだったのかはっきりしない。被害地側は野口春蔵他 2名 を現地視察に派遣し、その報告を受けているが、その具体的内容は明らかでない。また県等の行政 文書にも、この破壊について記述されているものは見当たらない。 さて明治31年 9 月19日に「東京押出し」等の「大運動」をすることが決まるが、その要求内容は 当日の日記によると「堤防増築・救助窮済・自治破滅」の三つであった。堤防増築とは、渡良瀬川 堤防の増築であり、自治破滅とは、それを防ぐための村税国庫補助である。ここには鉱業停止は掲 げられていない。また破壊したという沈殿池への対処も述べられていない。 このことから沈殿池の破壊とは、それほど規模の大きいものではなかったかもしれない。因みに この沈殿池破壊について、31年11月に足尾銅山を視察した下都賀郡赤麻村村長、谷中村助役、部屋 村書記他 6人の報告によると 、「小瀧第一号の沈殿池は、本年大洪水にて全く破壊し、今猶 工事 中なれども該池に沈殿せし毒土は悉く流出せしを認めたり」と述べている。つまり破壊したのは、 三つある沈殿池の中で最も小さい小瀧第一号沈殿池である。 県知事の添書も得て明治31年 9 月26日に開始された「東京押出し」であるが、その請願の具体的 内容は次のことと思われる 。 「 1.憲法保護請願の事 1.鉱毒被害地土地 復願の事

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1.本年再度の流毒による被害実況見 願の事 1.免租継年期願の事 1.渡良瀬川河身改良及河床浚渫 堤防改増築実行再促願の事 1.鉱毒の衛生上に及ぼす事実再調査願の事 1.被害激甚に附 窮乏村民へ刻下の衣食救助願の事 憲法保護の請願書に記載之通り 1.被害窮民は 窮困甚しく到底司法裁判を起して鉱業主より損害賠償を得るの力なきによ り、憲法上相当の保護により損害金救済下附再促願の事 明治三十一年九月 鉱毒被害民一同 」 「土地回復・救助窮済・堤防増築・自治破減」を中心に、31年 9 月洪水による鉱毒被害の現地調 査なども要求している。だが鉱山停止は揚げられていない。 また先述した下都賀郡赤府村村長、谷中助役等による31年11月の「足尾銅山視察報告書」では、 鉱業による予防工事を「予防工事旧来の経験に徴するも、将来、其の功を全うするや否や頗る疑問 とする処なり。仮に功を奏するものとするも、数年来渡良瀬川床及び 岸耕地に沈殿堆層せる処の 毒土砂を除去するにあらざれば、到底被害は免れざるものと思料す」と述べた後、次のように根本 的対策として毒土除去・土地回復とともに渡良瀬川河川改修を主張するのである。 「之れをして無害ならしめんには、堤防増築、河身改良及び毒土除去、土地は 復進んでは利根 の河身改良を施し、渡良瀬合流を 潟せしめされば、吾人、豈、居住するを得んや。故に吾人の覚 悟とするは飽 此れを政府に請求して、其の実践を求むるは急務中の尤も急務とせざる可からざる 処なり」 第三次押出しの後、地道な運動が続いていく。その要求内容は「被害民救済、自治破壊、堤防増 築」が中心であるが、築堤計画が具体化するにつれて渡良瀬川右岸と左岸との間の地域対立が表面 化していった。室田の住む久野村は渡良瀬川右岸に位置するが、対岸との間で恐らく渡良瀬川左岸 の霞堤締め切りをめぐり、利害の衝突が表面化していったのである。渡良瀬川改修計画については 後述するが、国により計画が立案されつつあった。 2.5 明治32年1月から同年8月までの請願運動の動向 次に第四回押し出しに到る経線についてみていこう。 明治32年 1月 2日∼ 7日 貴族院議員と衆議院議員を訪問する。勝海舟宅には、参 のため被害地植物藁灰を持参して訪 問する。 1月26日 内閣大臣・内務次官の自宅を訪問するが会えず。内務省で「被害ニ対ス処 並ニ大臣閣下ニ検

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ヲ願」う。 1月27日 神鞭知常を訪問するが会えず。 1月28日 内務省、農商務省に出頭する。 1月31日 安蘇郡々長に栃木県新任知事の被害地視察を願う。 2月 2日 栃木県知事、被害地視察に来る。 3月13日 田中正造他12人の衆議院議員が被害地視察に来る。農商務大臣、被害地検 に現地に来る。 4月 1日 雲竜寺事務所で、今後の方針について協議。 4月11日 「鉱毒被害激甚地人民救助ノ請願書」提出のため、足利郡役所に出頭する。郡長は岡登堰の件 で大間々に出張のため不在 。 この 4月11日の日記によると、被害民の請願が貴族院で採択すべきものと議決され、貴族院議長 から内閣 理大臣に送付されている。帝国議会への請願活動の結果と えてよいが、それらの請願 は以下のようである。 ○足尾銅山鉱毒被害ニ関スルノ件 群馬県山田郡毛里田村江原民吉他18名から提出。要求内容は、町村自治体破壊の救治、被 害地免訴年限の継続、被害民 権の存続(明治32年 3月 6日付)。 ○足尾銅山鉱毒ニ関スル件 栃木県下都賀郡谷中村茂呂近助他 8名から提出。要求内容は、憲法の保護、被害土地回復、 河身浚渫、堤防改築新設、衛生調査・救助・町村費補助(明治32年12月付)。 ○鉱毒被害地町村救治ノ件 群馬県邑楽郡大島村磯幸次郎他342名から提出。要求内容は、被害町村に対する適当の法律 を制定し、人民の権利を保ち、町村員への国庫補助による町村自治機関の整備(明治32年 12月付)。 ○足尾鉱山鉱毒ニ関スルノ件 栃木県足利郡久野村稲村与市他141名から提出。要求内容は、特別保護法の設置による自治 体の保護(明治32年 1月付)。 ○鉱毒被害地堤 増築ノ件

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埼玉県北埼玉郡川辺村井田兵吉他1458名が提出。要求内容は、渡良瀬川堤防の増築(明治 32年 2月付)。 ○鉱毒被害地町村自治体救治ノ件 埼玉県北埼玉郡川辺村井田兵吉他1458名が提出。要求内容は、被害地住民の救済(明治32 年 2月付)。 ○足尾銅山鉱毒被害地人民救護ノ件 栃木県安蘇郡植野村谷元八他 4名が提出。要求内容は、被害地住民の救護。 4月18日 足利人郡役所で、郡長に「被害激甚地ノ窮民救助願書」の提出について陳情する。 5月 4日∼ 5日 足尾銅山予防工事、山村植林の現地視察を行う。 5月14日 雲竜寺事務所で、今後の方針について相談する。 5月17日 雲竜寺事務所で、損害賠償について地方裁判所に出訴すること、吾妻村下羽田の 1町歩を被害 激甚地に指定すること、各村ごとに鉱業側と談判を行わないことを決定する。 5月22日 農商務省に出頭し「足尾銅山鉱毒御処 要求」として次のことを陳情する。 「 1.今ヨリ必ズ鉱毒ヲ汎濫放流セシメザルコト 1.渡良瀬川水源ニ関スル山林樹木ノ禁伐ヲ要求スルコト 1.河身破壊ヲ復旧シ両岸ノ崩落ヲ 止シ河底ノ埋没ヲ防ギ、且ツ堤 ヲ増築シ其ノ 岸ノ 毒土ヲ除却スルコト 1.従来ノ納租地ノ損害ニ対スル救助ヲ乞フコト 1.被害激甚地ノ流離転廃及 苦毒食ヲ為ス場合ノ窮民ヲ救助スルコト 1.被害村々税欠額ノ補助ヲ乞ヒ普通小学及村務ヲ頽廃セシメサルコト 1.人命ヲ保護シ異例ノ死亡者ヲ増加セシメザルコト 右ノ各項ニ対シ処 之無キニ於テハ銅山ノ鉱業ヲ停止スベシ」 5月23日 内務省に出頭し大臣に面会を求めたが、不在のため面会できず。職員に陳情書を提出しょうと したところ、「陳情書捧呈至シケレバ、内務省ニテハ惣テ書類ハ地方庁ヲ経由セザレバ受理セザ ルコトニ決定シケ(レ)バ受理セズ」との返答に、「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚キ退省セリ」。 大蔵省に出頭して陳情書を提出する。 5月24日 農商務省に出頭して、「処 ノ実行」を陳情する。

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6月16日 内務省に出頭し「町村破壊ノ件」で陳情、地方局長・土地局長に面会する。 7月 1日 内務省に出頭し、衛生局長に面会して鉱毒被害について述べた後、土木局に対し「河身全面ノ 改修工事」を申し込むよう陳情する。 7月 3日 内務省に出頭し、地方局長に面会して「村税欠額国庫補助願書却下」について質す。大蔵省に 出頭し次官に面接して、「堤防増築工事ノ予算ヲ本年度ノ予算組込セラレタキ旨陳情」する。 7月 4日 農商務省に出頭し、「堤防河身復旧工事ノ予算ヲ本年 ニ組込マレタキ旨陳情」する。 7月 5日 内務・大蔵・農商務省に損害表を配布する。 7月24日 「免租 生ニ付キ免租ノ辞令アリタリ」 8月 4日 (久野)村事務所で村行政について協議し、次の 2件を決議する。 「鉱毒費賦課方 免租積算額ニ課ス」 「高等科設置ノ件 高等科ヲ置クコト」 8月 5日 足利税務署に出頭し、久保田の新荒地免租について陳情する。 このように、明治32年 6月までは、鉱毒被害状況の説明あるいは現地視察を願い、被害の救済を 中心に請願運動を展開している。その背景の一つには免租、減租の要求があったと思われる。第二 回目の荒地免租処 は32年 7月に行われた。 当時の要求は、5月22日∼23日に関係省に提出された「足尾銅山鉱毒御処 要求」に現れている。 それは、・鉱毒を氾濫、放流させないこと、・渡良瀬川水源の樹木の禁伐、・渡良瀬川の改築、堤防増 築、・ 岸に堆積した銅 の除去、・損害補償、・窮民救済などであり、これらの要求に対して何ら処 が行われない時は鉱山の鉱業停止を求めている。 なお 5月23日に内務省に出頭した時、地方庁を経由して請願書をあげてこなかったら、つまり直 接的な請願は受理しないと決定したと聞いて、「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚キ退省セリ」と感想を 述べている。他省と比べて地方行政そして警察行政を管轄する内務省の強 な対応が目につく。ま た 7月 1日以降、被害民の請願内容は、渡良瀬川全面改修を前面に出していく。それは、国による 測量が終わり改修計画案が策定されたとの認識に基づいてである。これについては、後述する。

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2.6 明治32年9月から33年2月までの請願運動の動向 明治32年 9 月 1日 県庁に出頭し、河身全面大復旧工事請願書の添書をもらう。 9 月 2日 内務省に出頭し、土木局長に面会して「河身浚渫大復旧工事実行願書」を提出して陳情したと ころ、「局長ハ至テ冷淡ナルアイサツナリ、一同怒テ引取レリ」。 9 月 4日 内務省に出頭し、土木局・衛生局・地方局に請願に対する処 の実行を請求する。その後、内 閣 理大臣に面会を求めたが面会できず。 9 月 5日 農商務省に出頭し、農務局長に面会する。内務大臣に面会を求めたが面会できず。 9 月 7日 雲竜寺事務所で「被害民死活−途ニ関スル最後ノ方針ヲ協議スルタメ大集会」を開く。 9 月12日 各村から「全権ヲ有スル委員」が雲竜寺事務所で会合し、次のことを決定する。 「最後之運動方法ニ就キ大運動必用ヲ見留メ就テハ各村参謀長選任シ、二十日 ニ死亡調査表及 上京スル人名等記シ、事務所ニ集会スルコト」 10月 4日 栃木県庁に出頭し、明治29年洪水後から30年、31年、32年に渡良瀬川治水にどれほど費やした かの調査を行おうとしたが、知事の許可がなかったら張簿は見せられないとして出来ず。 10月21日 雲竜寺事務所で、「河身大改復実行ノ請願ヲナスコト・衛生保護ノ件・免租継年期願ノ三件」を 決議する。内務大臣宛の「町村会決議之要領書」を次のように定める。 「足尾銅山鉱毒事変ニ付、明治三十年 方内閣調査会ノ結果中、渡良瀬川河身大破壊ノ一ヶ条ハ 即チ同内閣ノ閣議ヲ経テ当局内務大臣伯爵樺山資紀ノ時、測量調査結了セシモノニモ関ワラズ、 河身全面ノ改復改造等ノ大工事ノ遷遠ニ付、 岸ノ惨状旧日ニ数倍シ、生命ヲ刻ミ多クノ人畜 ヲ スニ至レリ。此レガ工事実行ノ急迫ナルニ付、催促請願ノ儀村会ノ決議ニ依リ請願仕候也」 10月22日 4名の郡会議員を訪問し、「河身改良ノ実行」について郡会の決議を経て郡会より請願すること を要請する。 10月30日 「河身堤防改築請願・衛生保護・村費欠額補助請願ヲ各村共村会ノ決議ヲ経テ請願セリ」こと を決め、行動に移る。 10月31日 栃木県庁に出頭し、知事に面会し請願書に対する添書を要求したところ、知事の了解を得る。

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11月10日 雲竜寺事務所で報告会を兼ね、今後の方針について協議する。 11月20日 雲竜寺事務所で、会計上の件及び今後の運動方針について協議する。 33年 1月16日 久野役場に出頭し、「宅地免訴ノ件」について協議する。 1月22日 請願書調印のため久野役場に出頭する。 1月26日 吾妻村役場で村長と、「上京青年組織ノ件」につき相談する。 2月 8日 内閣 理大臣に請願書を提出しようとしたが、不在のためできず。衆議院に出頭し請願書を提 出する。 2月 9 日 内閣・農商務省・内務・大蔵・法制局・文部・陸軍の各省に請願書を提出する。 警官隊と激しく衝突し、大量の検挙者を出した川俣事件が発生したのは、明治33年 2月13日であ る。この事件の前の室田忠七の日記は、2月11日で経わっている。その最後に「大運動ノ計画アルタ メ憲兵警官 4名計警戒セリ」となっていて、暗雲を漂わせる表現となっている。川俣事件では100余 名が逮補され、51名が起訴されることとなった。室田に検挙され、それ以降、長期の勾留となった。 この著名な川俣事件を生じさせた第四回東京押出しの請願要求は、明治32年10月21日の雲竜寺事 務所での決議にみるように、渡良瀬川大改修・衛生保護・免租継年期願の三つであった。三番目の 免租継年期願は10月30日の「各村共村会ノ決議」からみると、「村費欠額補助請願」に変わっている が、いずれも渡良瀬川大改修あるいは渡良瀬川堤防改築請願が最初に取り上げられている。 また明治32年 7月以降の請願運動みていくと、渡良瀬川全面改修が前面に出ていくことがよく かる。7月に入いると、大蔵省・農商務省に渡良瀬川堤防増築工事の予算を本年度の予算に組み込ん でくれとの陳情を行っている。 それに先立ち32年 6月、足尾銅山鉱業停止請願事務所・足尾鉱毒処 請願事務所から「群馬、栃 木、埼玉、茨城四県被害地ヨリ主務大臣ニ提供シタル者」として、「渡良瀬川河身大回復諸工事実行 ノ請願書」が提出された。その中で「明治三十年鉱毒調査会ヲ開カレ閣議ヲ以テ設計セラレタル測 量ニ基カレ、至急此ノ大施設ヲ実行スルニアラザレバ、已往ノ惨状ヲ回復セサルノミナラス目下ノ 危急如何トモスベカラズ」と主張している 。 河川改修は内務省の管轄である。知事から河川改修の請願書に対する添書を手に入れ、内務省に 働きかけを行っている。ところが 9 月 2日に面会した土木局長の応対は「至テ冷淡ナルアイサツナ リ、一同怒テ引取レリ」の結果となった。これ以降、被害地住民は、4回目の東京押出しに向けて動

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き出すのである。 9 月 7日には、「最後ノ方針ヲ協議スルタメ大集会」が開かれ、同月12日には「全権ヲ有スル委員」 が会合して「最後之運動方法ニ就キ大運動必用ヲ見留メ」と、第四回東京押出しの方針を決定して いる。その具体的請願内容について、9 月29日の『万朝報』が「鉱毒被害民の決議」として次のよう に報道している。 「栃木群馬埼玉三県鉱毒被害民の委員等ハ此程群馬県鉱毒事務所に会合し下の決議を為し、今 回ハ死を決して目的を達せんとする趣を声言し居れり。 1.渡良瀬川河身改良即ち大復旧工事施設費予算編入のこと 1.鉱毒による被害人民生命救助の事 1.途中は野宿の心得にて食料及び天幕を用意する事 1.行進中は凡て指揮者の命に従ふ事 1.警察に行進を差止めらるヽときは何事たりとも其場所に止まる事 1.警察官に拘引せらるヽもの有るときは之れを奪ひ返す事 1.一致団結して運動するを差止めらるヽときは各道を異にして上京する事」 要求項目は渡良瀬川改修事業への予算要求と救済救助の 2点である。その中でも最初に取り上げ られているのが渡良瀬川改修事業の着工であり、これが最も重要な要求内容であることが かる。 では渡良瀬川改修事業とは具体的にどのような内容なのか。10月21日に決められた内務大臣宛の 「町村会決議之要領書」によると、明治30年 方内閣調査会(第一次鉱毒調査会)で渡良瀬川河身 大破壊(大改修)が決議され、その後、樺山資紀が内務大臣の時に測量調査が完了したにも関われ ず、着工していないとして、この工事の早急な着工を求めたのである。 また室田日記に、明治32年 8月31日「報知新聞」に掲裁された「鉱毒被害民の 議」の記事が記 載されている。この記事は、「河身大破壊の復旧は、人命を未来に保護し又田宅を保護するの要旨を 含有するものなれば、三十年内閣計画の通り大至急施設実行あらんことを重ねて奉請願候以上」、つ まり既に策定された渡良瀬川改修事業の早急な着工を求めていると結んでいる。では第一次鉱毒調 査会で決議され測量・調査も完了し既に策定されている計画とは、どのようなものなのだろうか。 当時の国家による治水事業の進渉状況からみて、渡良瀬川改修事業の可能性はあったのだろうか。 あるいは被害民は何の根拠のもとに請願運動を展開したのだろうか。章を改めてみていこう。 また渡良瀬川治水を える場合、重要なのは、近世以来の歴 的経緯の中心形成された地域間の 強い利害対立の存在である。それは31年11月 5日、12日の日記にみるように鉱毒反対運動内部でも 発生していた。

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3.明治30年代初頭における近代河川改修事業

明治33年 2月13日に決行され川俣事件として著名な第 4回東京押出しの主要な要求は、渡良瀬川 改修であることをみてきた。被害民はその渡良瀬川改修について測量が終わり既に計画が完了して いると認識していた。その計画案の実行を迫ったのであるが、ここでは当時の日本の近代河川改修 の経緯についてみ、被害民のこの要求を近代改修 の中で えてみよう。 3.1 明治29年3月の河川法の成立 明治10年代から20年代初めにかけて、大河川では直轄による低水工事が進められていた(表 1)。 低水工事は、主に河身修築(低水路整備)と土砂流出防止工事よりなるが、低水路の整備はまた洪 水の疎通をよくすることである。修築工事により河道を整備して洪水の疎通をよくした後、高水工 事である築堤工事を行うというのが政府の基本方針であった。 表1 国直轄による修築工事の実施状況 河川名 費 用 工 事 期 間 淀 川 修築費 1874(明治 7)∼1888(明治21)年度 修築工修繕費 1889(明治22)∼1898(明治31)年度 利 根 川 修築費 1875(明治 8)∼1899(明治32)年度 信 濃 川 修築費 1876(明治 9 )∼1888(明治38)年度 河口修築費 1896(明治29)∼1903(明治36)年度 木 曾 川 修築費 1877(明治10)∼1912(大正元)年度 修築工速成費 1903(明治36)∼1905(明治38)年度 北 上 川 修築費 1880(明治13)∼1901(明治34)年度 修築工修繕費 1901(明治34)∼1902(明治35)年度 阿賀野川 修築費 1882(明治15)∼1904(明治37)年度 筑 後 川 修築費 1882(明治15)∼1898(明治31)年度 最 上 川 修築費 1882(明治15)∼1903(明治36)年度 吉 野 川 修築費 1882(明治15)∼1904(明治37)年度 大 井 川 修築費 1882(明治15)∼1902(明治35)年度 富 士 川 修築費 1883(明治16)∼1894(明治27)年度 修築工修繕費 1895(明治28)∼1898(明治31)年度 追加修築費 1896(明治29)∼1897(明治30)年度 庄 川 修築費 1883(明治16)∼1899(明治32)年度 阿武隈川 修築費 1883(明治16)∼1902(明治35)年度 天 竜 川 修築費 1884(明治17)∼1894(明治27)年度 修築工修繕費 1895(明治28)∼1899(明治32)年度 追加修築費 1896(明治29)∼1898(明治31)年度 (内務省土木局『第七回治水事業ニ関スル統計書』,1931.3から作成) しかし水害の多発、特に明治18年(1885)に全国的な大水害があったことから高水工事の要望が 高まり、20年になると利根川・信濃川・筑後川・木曽川など新たな計画の下に河川事業が着手され た。事業内容は、河身修築は国が行い、築堤工事は府県の負担で行うものであった。特に、木曽川

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下流では、木曽川・揖 川・長良川の三川 離を伴う大規模な改修事業に着工した。 明治23年(1890)、帝国議会が開設されると、国庫による堤防修築など、治水を求める請願が全国 から行われた。第一回帝国議会に寄せられた請願数は142件に及び、地租軽減・地価修正の438件に 次いで多く、全請願数1,056件の 1割以上であった。議員からは治水工事の促進を求める 議が度々 行われ、政府直轄による治水の要望が熱心に展開されたのである。 この結果、明治29年(1896)年度から修築工事が既に完了していた淀川・筑後川で、政府直轄に より高水工事に着手することとなった。河川事業がこの新しい段階に入るにあたり、工事に先立ち 河川管理、費用負担などを規定した制度として、29年 3月、66条からなる河川法が成立したのであ る。 河川法の内容を簡単にみると、河川法が適用される河川は、主務大臣が「 共ノ利害ニ重大ノ関 係アリ」(第一条)と認定した河川で、主務大臣は、その河川名を区間、時期とともに官報に告示す る。さらに、適用河川の支川や派川が地方行政庁より認定され、「特別ノ規程ヲ設ケタル場合ヲ除ク ノ外」これらの支川・派川には河川法が適用される(第四条)。これは、本川である適用河川の管理 を完全に行うためには、そこに流入する支川、そこから流出していく派川を併せて管理しなければ ならないからである。なお、河川法の適用されない河川や水流等に対しては、準用河川の制度があ る。 適用された河川の管理主体は地方行政庁であり、「河川ハ地方行政庁ニ於テ其ノ管内ニ係ル部 ヲ 管理スベシ」(第六条)と定められた。また、工事の施工・維持の原則的主体も地方行政庁であり、 「地方行政庁ハ河川ニ関スル工事ヲ施行シ其ノ維持ヲナスノ義務アルモノトス」(第七条)と規定さ れている。 このように、河川工事・維持の第一次的責任は、府県知事にあるとされたが、第八条に特例の場 合として、①工事の影響が他府県にまで及ぶようなもの、②工事が物理的に困難で高度の技術を必 要とするもの、③地方財政の負担能力を超えるような多額の工事費を必要とするもの、④河川工事 が一定の全体計画の下に施工される必要があり、一つの府県単位で工事を施工すると不 衡が生じ て全体計画が達成されないおそれがあるときには、主務大臣による直轄工事で行われることが定め られていた。 ここに国直轄による洪水防禦工事への参画が法律で規定されたのである。これこそが、旧河川法 制定の最大の眼目であった。これらの河川の改良工事等の管理費用の負担についてみると、管理一 般については、「河川ニ関スル費用ハ府県ノ負担トス」(第二十四条)と、府県による負担が原則で あることを規定している。その上で、第六条の但書「但シ他府県ノ利益ヲ保全スル為必要ト認ムル トキハ主務大臣ニ於テ代テ之ヲ管理シ又ハ其ノ維持修繕ヲナスコトヲ得」により、国が管理ないし 維持修繕を行う場合は、「国庫ニ於テ其ノ費用ノ全部若ハ其ノ一部ヲ負担スルコトヲ得」と、国庫に よる支出について定めている。 改良工事に対する国庫補助については、「河川ノ改良工事ニ要スル予算費用ニシテ其ノ府県内ノ地 租額十 ノ一ヲ超過スルトキハ、其ノ超過額ノ三 ノ二以内ヲ国庫ヨリ補助スルコトヲ得。但シ地

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租額ヲ超過スル部 ニ付テハ其ノ超過額ノ四 ノ三以内ヲ補助スルコトヲ得」(第二十六条)と、府 県内の地租額を基準にして国による補助を規定している。直轄工事の場合も、府県はこの第二十六 条の規定に基づいて負担額が定められ、府県は受益者負担として直轄工事費の一部を負担するもの とされた。 明治29年度のこの河川法の成立は、特に同年 4月に着工された淀川改修と密接な関係があった。 洪水防御を目的とする淀川改修期成運動は、18年の大水害後から本格的に始まった。改修期成同盟 が結成されて、24年に代表 4名が大阪・京都府下の請願書をもって上京し、淀川改修の請願を熱心 に行った。この運動の結果、地元支出により測量が行われることになったが、改修期成運動はこの 後も続けられ、24年、大阪府会で淀川改修が 議され、翌25年には淀川治水対策同盟会が 的なも のとして設立された。この同盟会により請願、 白が行われたが、27∼28年の日清戦争のため運動 は一時停止した。 日清戦争後、再び淀川改修運動は熱心に推進される。当時の第二次伊藤博文内閣は議会での優位 政党の力を借りることとなり、自由党と提携したが、自由党はまた党勢拡張に汲々とし、大阪での 自由党勢力が弱かった。このため、淀川 岸の代議土、府会議員、町村長、水利委員らがこぞって 自由党に入党すれば、自由党の党議によって淀川改修工事を実施できると え、淀川改修工事を自 由党の政策に加えるよう説いたのであった。 伊藤は、財源について大蔵大臣に意見を求めたところ、大蔵大臣は次の敵国としてロシア戦に備 えるため軍備拡張が優先課題であって他の政策に対しての財源はなく、緊急止むを得ないものを対 象とした追加予算にも淀川改修事業はなじまないと強く反対した。しかし地元代議士の根強い運動 により、「治水ニ関スル 議案」が明治29年 2月27日帝国議会で可決された。これが、河川法成立の 直接的な推進力となったのである。29年度から淀川そして筑後川で河川法による河川改修が着工さ れたが、淀川の当初予算額約909万円、筑後川は約40万円であった。 3.2 明治32年度帝国議会での治水要求 明治32年度になって33年度予算に対し、新たな河川改修着手を求める強い要求が帝国議会で展開 された。第14回通常議会は32年11月22日開会となったが、12月 8日付で佐々木正蔵他13名の提出者、 また賛成者156名からなる次のような「治水ニ関スル 議案」が提出された 。提出者・提案者は合 計170名を越え、議会定数の過半数以上であった。 「我カ国治水ノ事タル国家経営上緊要ナルハ、言ヲ俟タサルナリ。近来、水害頻ニ到リ 々数 年間ニ国庫ニ民産ニ損害ヲ蒙ルコト、其ノ数幾億圓ナルヲ知ラス。故ニ議会開設以来、衆議院 ハ第二回、第四回、第六回、第九回及第十三回議会ニ於テ、国家経営上須 モ忽諸ニ付スヘカ ラサル河川改修ノ 議ヲ為セリ。政府ニ於テモ茲ニ見ル所アリテ、明治二十年以来土木費定額 ヲ一箇年百五十万円トシ、其ノ内八十五万円ヲ河川改修費ト内定セラレタリ。加之二十五年十 二月一日、第四回議会ニ於ケル 理大臣及大蔵大臣ノ施政方針演説中、治水事業ヲ今一歩進メ

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テ既定年額ノ外、一百万円ヲ増加スルノ計画ヲ為シタリト明ニ陳述セラレタリ。当時、国庫ノ 歳出入 額ハ凡ソ八千万円ニシテ斯ノ如シ。又戦後経営ノ第一年乃チ明治二十九年度ハ金二百 三十九万六千円、三十年度ニ金五百六十三万四千三百四十三円、三十一年度ニ金三百六十七万 七千七百五十五円、三十二年度ニ金二百二十九万六千四十三円ヲ支出シ、此ノ四箇年間ノ平 額ハ約金三百五十万円トナレリ。之レ未タ治水事業費ノ定額トハ云フヘカラサルモ、年々其ノ 額三百万円以上タリ。然ルニ三十三年度ノ予算案ヲ関スルニ既定継続費ニ止メ、 々一百三十 余万円ニ減縮セラレタリ。此ノ方針ニ依レハ、四五年ノ後ハ改修費ハ全滅スルニ至ルヘシ。異 竟一定ノ定額ナキノ致ス所、国家ノ為歎スヘキノ至ナラスヤ、是本院ノ黙止スル能ハス。屡ヽ 議ヲ為シタル所以ナリ。請フ其ノ主旨ヲ採納セラレ、改修工事費ニ年額三百万円乃至四百万 円ノ定額ヲ以テシ、河川法ヲ普及セシメ順次根本的改良工事ヲ速成シ、目下調査設計ノ整 セ リト聞ク所ノ利根川全部、九頭龍川、庄川、神通川ノ改修工事費ノ追加予算案ヲ今回ノ議会ニ 発案セラレ、尚一日モ看過スヘカラサル高梁川、 伊川、吉野川、阿賀野川外数川ノ設計ヲ急 ニシ、其ノ計画ノ成ルニ従ヒ順次実行セラレムコトヲ右 議ス」 この 議を整理すると次のようになる。 治水は国家経営上、実に緊要な課題であり、衆議院では開設以来、5回も河川改修の 議行い、政 府も重要として国庫支出の増額を行ってきた。日清戦争後の戦後経営でも明治29年度は約240万円、 30年度約563万円等、29年度から32年度の 4ヶ年の平 額は約350万円となっていた。とこるが33年の 予算案は既定の継続費に止め、 か約130万円となっている。これでは河川改修費はやがて全滅して しまう。毎年改修費に300万円から400万円を定額として予算化する必要がある。このため新たに河 川法に基づいて順次、改修工事を進めていく必要があるが、既に調査設計が終了していると聞く利 根川全部、九頭竜川、庄川、神通川の改修工事費を追加予算案に組み込むこと、また高梁川、 伊 川、吉野川、阿賀野川他 数河川の設計を急いで行い、計画ができ次第、順次実行すること。 なお当初、政府予算案で前年に比べて河川改修費が大幅に減らされた背景には、膨大な海陸軍の 臨時拡張費、あるいはそのために増額した地租額を 5年後には元に戻さねばならないなどの厳しい 財政事業があった。 このような議員からの 議であるが、内務省の意向もある程度、踏まえてのものだった。明治32 年11月30日の衆議院予算委員会で内務省政府委員は次のように述べている 。 「実ハ此河川ノ改修ハ、段々必要ニ迫テ居ルノデアルノデアリマス。既ニ福井ノ九頭龍、富山 県ノ庄川トカ、或ハ利根川是等ハ近々調査ノ結果、計画モスッカリ出来テ居リマスシ、着手シ ナケレバナラヌ必要ハモウ十 必要ガアリマスノデ、ゼヒ着手シナケレバナラヌノデアリマス。 然ルニ財政上ニ関シマシテ尚色ゝ調査中デゴザイマシテ、果シテ提出スルコトガ出来ルカ出来 マセヌカ、目下尚大蔵省ニ於テ調査中デアリマス」 「調査ハ段々進ムト、是非ヤラナケレバナラヌコトニナッテ居リマス。唯大蔵省ノ繰合ガ附ク

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カ附カヌカト云フ場合デアリマス。ソレデ水害ノ補助ノ方ヲ改メマシテ、是 ヨリ非常ニ辛ク ナッテ、従テ富山ノ庄川或ハ福井ノ九頭龍、其他ハ何トカ改修シマセヌト、本年ノ水害デモ多 額ノ県債ヲ起サナケレバナラヌ。此災害ガ度々アッテハ、到底県ハ堪エ切ラヌト云フコトニナ ルダラウト思ヒマス。ソレ等ノ点ニ至りマシテモ、改修ガ出来ルダケ改修シテヤラナケレバナ ラヌト へテ居リマス」 要するに、調査設計が完了していた河川改修は、できるだけすみやかに着工するというのが内務 省の意向であった。渡良瀬川改修の議論は全く出てこないが、議員からの 議案では「利根川全部」 の中に含まれている可能性もある。 一方、渡良瀬川 岸の被害民は、明治32年 7月には渡良瀬川では測量は行われ設計は完了してい たと認識していた。33年度から設計が既になっている河川に新たに着工したい、との内務省の意向、 またその動きについて鉱毒被害民は東京事務所を根拠地とした活動等を通じて把握していたと え て間違いないだろう。被害民は渡良瀬川改修着手に強い期待をもったとみるのが当然だろう。32年 7月には内務省・大蔵省・農商務省に陳情し、9 月には渡良瀬川河川改修を最大の目的に「東京押出 し」を決定していったのである。32年11月22日から帝国議会は開会され、治水の議論は活発に行わ れていた。この状況下、鉱毒被害民は、国直轄による渡良瀬川改修を求め議会閉会の10日前、大示 威運動を開始したのである。 結果として、明治33年度から新たに河川改修に着工したのは利根川第一期(事業費 額約600万 円)、庄川(事業予算額約292万円)、九頭竜川(事業費 額178万円)であった。3河川合わせての 事業費は約1070万円である。庄川・九頭竜川は、当初は国費を わず県費を先行的に 用した。一 方、調査・設計が終了していたと認識していた神通川であるが、庄川と同じ富山県にあることもあっ て着工とはならなかった。 利根川治水計画は内務省技師・近藤仙太郎によって策定されたが、近藤は、明治27年に群馬県沼 の上から河口・銚子に至る区域で 工費3637万円からなる改修計画を策定していた。だが、当時の 国家歳入約8800万円にくらべて過大であり、この計画は着手されなかった。しかし29年に大出水が あり、近藤は約2000万円の計画の策定を命じられ、2233万円からなる計画を策定しこれが実行され た。この計画は国家予算規模の制約のため全川で行うものではなく、改修区域のうち計画より河積 の狭い箇所、湾曲している箇所であって緊急に改修を必要とするか、近いうちに改修を必要とする 箇所を重点として工事するものであった。この計画の中に渡良瀬川改修は含まれていなかった。政 府は約2200万円のこの利根川改修計画を一度に予算化できず、3期に けて下流部のみを 6ヶ年継続 事業として予算化したのである。 後、渡良瀬川改修について内務省は、「当時石黒第一区土木監督署長ヲシテ其ノ計画ヲ立テシメシ コトアリ。然ルニ其結果工費金壱千弐百万円ノ巨額ヲ要スルヲ以テ遂ニ其施工ヲ見ルニ至ラス」と 述べている 。明治32年当時、1200万円からなる改修計画は策定されていたことは間違いないだろ う。しかし、この額は他の河川と比べても巨額である。その巨額さから実行には結びつかなかった

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と判断される。なおこの計画は、遊水池を新たに設置するものではなく当時の渡良瀬川河道の拡幅 が中心であったと えられる。

4.栃木県・群馬県改修事業への対応

では、地域を代表する地方行政体である栃木県、群馬県は明治30年代初頭、利根川・渡良瀬川改 修にどのように関わっていったのか簡単にみていこう。 4.1 栃木県 明治30年12月28日、内務大臣宛の「足尾鉱山鉱毒事件ニ関スル 議書」が栃木県会で 議された。 その中で、同年、第一鉱毒調査会の審議そして政府の命令に基づき鉱業側によって築造された沈殿 池が氷結して沈殿の効果が生じていないことに対する方策とともに、国費による築堤工事を請求し た。その内容は、次のとおりである 。 「本県下足尾鉱山鉱毒事件ニ関シテハ、政府已ニ除害予防ノ命令ヲ発シ沈殿池等ヲ築造シ其工 事ヲ竣リシト難トモ、今ヤ寒天ニ際シ永結ノ処アリ。又渡良瀬川 岸ニ於テハ、国庫費用ノ築 提ヲ請ハントシテ従来已ニ本県会ヨリ 議スル所アリシモ、今ニ於テ政府ハ何等ノ処置ヲ為サ ス。故ニ沈殿池等ニ対シテハ、予メ凍氷期ニ於テ尚ホ能ク沈殿ノ効ヲ奏スル方法ヲ講シ、又渡 良瀬川 岸ノ築提ハ之レカ起工ヲ速カナラシメテ、以テ 岸細民ノ困弊ヲ救ハンコトヲ」 翌明治31年12月20日、栃木県会で内務大臣宛の「利根川河身改良ニ付 議書」と「渡良瀬川改修 工事及堤 拡築ニ付 議書」が 議された。前者の利根川についての 議では、利根川洪水の疎通 のため栗橋下流の赤堀川・権現堂川呑口の沈床工事の撤去、江戸川呑口の棒出し(石堤)の徹去、 赤堀川の狭少なる区域の拡幅及び高州の浚渫を要求した。一方、直接、県下を流れる渡良瀬川に対 しては、鉱毒対策と関連して次のように河川改修、堤防拡築を要求した 。 「本県下渡良瀬川ニ於ケル治水工事ハ、他ノ諸川ト違ヒ特殊ナル事情ノ存スルアツテ鉱毒ノ害 之ニ附随セリ。政府茲ニ見ルトコロアリ、足尾銅山工業主ニ対シ日ヲ期シテ命ヲ伝へ除害工事 ヲ為サシム。然トリ雖モ、之カ毒害ヲ受クル 岸ノ土地ニ対シテ河川ノ改修、堤 ノ拡築ヲ為 サスンハ何ノ益スルトコロナシ。彼除害工事ハ、河川ノ改築ト相待テ始メテ功ヲ奏スルコトヲ 知ル。聞カ如クンハ、政府ハ既ニ技師ヲ派遣シテ実地河川ノ測量ニ従事セシムルコト二回ナリ ト。然ルニ未タ其工事ハ着手セラレス。 岸人民ノ嘆声ハ日ニ益々甚シク、民ノ疾苦生産ノ萎 靡国帑ノ損害之ヲ救フノ策、一日ヲ怠レハ数年ニ癒へサルノ瘡痍ヲ重ヌルニ至ル。閣下乞フ、 直チニ此済民策ヲ決行シテ至急何 ノ 議ヲ垂レンコトヲ」

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このように渡良瀬川河川改修は、他の河川と異なる特殊な事情がある。それは鉱毒対策からの必 要性であり、鉱業側による対策と合わせて河川改修を行わねば成功しない。政府は、既に技師を派 遣して実地測量を 2回行ったと開いているとして、早急な工事着手を要求したのである。 栃木県会において鉱毒被害との関連での河川改修の必要性の主張は、被害民と同様であったと認 識してよかろう。 4.2 群馬県 明治30年12月13日、群馬県会は足尾鉱毒に関連して二つの 議を行った 。一つは、次のように森 林の伐裁の禁止とともに、鉱山側による砂防工事の施工、堤防工事に対して堤外地の土砂 用の禁 止、また損害が発生した場合、鉱業主古河市兵衛による補助の要求であった。 「 1.水源涵養ノ為メ足尾鉱山附近森林ノ代採ヲ禁ズルコト。 1.渡良瀬川及小支流 岸森林ノ伐採ヲ禁ズルコト。 1.渡良瀬川及小支流 岸ニ沙防法第八條ニ依リ沙防工事ヲ施スコトヲ鉱主ニ命ズルコト。 1.渡良瀬川堤防工事ニ堤外地ノ土砂ヲ 用セザルコト。之レニ因テ生ズル損害ハ鉱主古河 市兵衛ニ命ジ補助セシムルコト。」 もう一つの 議では、渡良瀬川堤防工事・浚渫工事の一部を河川法に基づいて古河市兵衛にさら に負担させることを要求した。これ以外には鉱毒被害地の原状回復、鉱毒対策のために鉱業側によっ て設置された沈殿池の氷結問題であり、凍結期間における鉱業停止を要求した。 議の内容は以下 のとおりである。 「 1.栃木県上都賀郡足尾鉱山ニ対シ、鉱毒除害ノ方法ハ政府ニ於テ其処 行為ヲ施シタリト 雖モ、沈殿地ハ凍氷期ニ際シ今ヤ其ノ用ヲ為サズ。是レニ対シ、政府ハ適当ナル方法ヲ 施スコトヲ望ム。若シ其ノ方法ヲ施ス能ハザルニ於テハ、凍氷期間ハ所営ノ選鉱停止ア ランコトヲ求ム。 1.渡良瀬川 岸ノ被害地ニ対シテハ、其ノ被害地ヲ原状ニ復セシメンコトヲ望ム。 1.渡良瀬川堤防修築及浚渫工事費ノ一部ヲ、河川法第三十一條ニ依リ鉱主古河市兵衛ニ負 担セシムルコトヲ望ム。」 鉱業主・古河へ河川法に基づき、改修事業費の負担を要求したことは非常に興味深い。 翌明治31年12月23日、群馬県会は利根川渡良瀬川の堤防増築と渡良瀬川河身改良費用の全額国庫 支出を 議した。この提案説明で足尾鉱毒は渡良瀬川のみでなく、利根川にも流出していると主張 し、両川への国庫支弁を要求したのである。 また翌明治32年12月 5日、「利根川治水工事国庫支弁」が 議された。その内容は「政府ニ於テハ

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本県ニ関シ已ニ精密ナル調査ヲ逐ゲ予算ヲ編成シ、国費ヲ以テ事業ノ施行ヲ計画セラレ居ルヤニ聞 ケリ。希クハ其計画ヲシテ速ニ施行セラレ、県民ノ困厄ヲ救済セラレ度」というものである。帝国 議会での利根川改修事業着工の議論に呼応して行われたものと思われる。因みに、茨城県会は32年 12月14日に「治水意見書」を、埼玉県会は同年11月29日に「利根川改修速成ヲ請ウ意見書」をそれ ぞれ内務大臣に提出していた。

5.まとめ

明治30年 3月 2日から33年 2月13日にかけて鉱毒被害民により実行された「東京押出し(大挙上 京請願運動)」について、その請願目的を中心に論じてきた。この間、30年 3月24日、政府により第 一次鉱毒調査会が設置され、同年 5月27日には鉱業側に37項目にわたる予防命令が発せられ、鉱業 側は約104万円からなる対策工事を行った。その竣功は同年11月22日であるが、これ以降、鉱毒被害 の因となっている廃鉱は新たには発生しないというのが政府の見解となった。 明治30年 3月に東京押出しは 2回決行されたが、二回目は鉱毒調査会設置と同日に行われた。政 府の動きをにらんで行われたのだろう。この 2回とも、「鉱業停止」が請願目的であった。鉱毒調査 会設置以降をみると、被害民は農商務省・内務省・大蔵省を中心に働きかけていったが、その要求 は、地租の免租・減租、被害地回復、さらに足尾山地の乱伐の禁止であった。5月27日に行われた予 防命令に、鉱業主・古河に対し鉱業停止・鉱業側による鉱毒被害地回復の措置がないことに強い失 望を感じたことは間違いないだろう。 この後、被害民の請願要求から鉱業停止が前面に出てくることはなく、被害地復旧、免租などの 被害地救済が中心となった。また鉱山での予防対策工事視察を行おうとした。この工事の終了後、 やがて河身改修・堤防増築などの河川改修が要求されるようになった。また免租により選挙権が失 われないよう特別免租を要求した。しかし普通一般の免租となり、地方自治の確保が重要な要求項 目となっていく。 第三回東京押出しが、明治31年 9 月26日に決行された。そのきっかけは、9 月初めの洪水により予 防工事で行われた沈殿地破壊の報に基づいてであった。その具体的要求の主なるものは、被害民救 済・堤防増築・自治破壊の救済であった。鉱業停止は主張されていない。そして次第に渡良瀬川改 修の要望が前面に出ることとなる。しかし渡良瀬川改修計画が具体化していくと、渡良瀬川左岸・ 右岸の間の歴 的な地域対立の懸念が、被害民の鉱毒反対運動内部でも生じていく 。 政府に対しての請願は続く。また被害民の請願が帝国議会で採択されている。明治31年前半の要 求は、5月22∼23日に関係者に提出した「足尾銅山鉱毒御処 要求」に現れている。それは、・鉱毒 を氾濫、放流させないこと、・渡良瀬川水源の樹木の禁伐、・渡良瀬川の改築、堤防増築、・ 岸に堆 積した銅 の除去、・損害補償、・窮民救済などであり、これらの要求に対して何ら処 が行われな い時は鉱山の鉱業停止を求めたのである。 なお興味深いことは、地方行政・警察行政を管轄する内務省が被害民の陳情に対して強 な態度

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