• 検索結果がありません。

運動としての一般教育の基本点をどう抑えるか--附「共同研究科目」中間総括---香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "運動としての一般教育の基本点をどう抑えるか--附「共同研究科目」中間総括---香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

運動としての→投教育の基本点をどう抑えるか

一附「共同研究科目.」中間総括−

山 内 重 幸

は じ め に 一般教育の問題は大学間題の一部である。しかも、ややムード的薇表現をゆるして もらうなら,大学の暗い谷間,その底辺をなサ問題である。そ・のことは予算,制度. 人員配置敢ど多くの両で裏づけられる。したがって.この間題は大学間遊金体のなか で解決されるわけだが,逆にまた,相対的に自立した−−・般教育の改善なしには,大学 間題の改革もあゎえなぃ。底辺からの改革の孜い改革は改革の名に催いしないからで ある。そして,それは内外の矛盾をどのようにして運動の起動力に転化するかの問題 である。 1:哩念それ自体が内包する運動性 一・般教育は,香川大学一般教育計画要項試案(以下「■試案」という)が随所に力を こめて述べているように.固定した制度ではなくて生きた連動でなければならない。 理念そのものが教育課程論的にも教育体制論的にも本来そういう性格を内包している のである。制度はもとよ少出発点ではあるが,長期にわたる合理的,合目的的な連動の 結果,限りなく接近サるであろうところの理念の現実態としての「制度」ではない。 その道動過程は.たとえて1ハうならば.へ−・グル哲学における「理念.」がその否定態 たる「自然」から弁証法的運動によって自己内に前進即遼帰していく.かの広大で力 動的な精神哲学の領域(過程)にも比せられよう。このばあい,「自然」にあたるも のが既定の制度である。・一般教育は運動ではあるが.始めもなければ終わりもないえ たいの知れぬ運動ではをく,−・定の路線を生動する発展過程敢のである。このことは, −1−

(2)

学生個々の認識と人格の形成発展,すなわち教育課程についても,大学の社会的使命 に対応する研究教育体制の発展につぃても,同様にいえることである。 制度的理念としての狭義の一一般教育は.自然一 社会.人文の3分野にわたる陶冶. つ1ま一り教授論的側■面と.それを踏■まえた人間形成,つま少訓練論的側面とを,いちお う統一・的に誘っている。後の側面の教育課程化の志向の弱いのは一つの欠陥(なぜな ら施設。予算等のうらづけが孜いので)ではあるが.1それはいま措くとして,3分野 の認識を媒介にした人間形成とレ)う教育課程を運動論的視点から若干組みかえると, つぎのようにいえよう。 第一・に.「 ̄自然」分野については,自然にはたらく法則的傾向に対する認識をテコに. 無知のままでは人間に対し破壊的に作用サるこの力を,逆に人間主体の自然に対する 統制力にかえ,人間の自由と解放に役立てること。 第二に,「社会_j分野については.社食すなわち第二の自然の法則的頃向に対サる認 識をテコに.無知の■ま・までは盲目的にほたらく社会力を,人間主体の統制に服する合 目的的な刀にかえ,人間の自由と解放に役立てること。 第三に.「人文.」分野については,自然力と社会力とを,認識をテコとして統制集中 サる人間の,人間的ヒューマニズムをその中身の重みを載せきってさらに追求し前進 させ.人間の自由と解放を拡大するに役立てること。 この組みかえが認められるとしても,ここに物化されて1ハる「理念」はさしあた少 きわめて抽象的である。だから.この制度によ少かかるだけで授業の日程表が組、まれ た極端なばあいを想定すると,これでも「理念」どお少という判断も成立しようし, 「形骸」だけという判断も成れ立とう。其理は具体的であるという。たんなる抽象 の次元では背反サる判断が同時に出てくる可能性がある。この矛盾をカベと見れば極 端を−・般教育否定論にもつをがるが.・それに真剣にとり組めば矛盾こ、そが遊動の実践 的展開の起動力ともなろう。

2 起動困たる矛盾の錯綜とその基本

一般教育は内外のさまさづの矛盾に直面している。外圧の最大のものは「試案」の 指摘サるとお少中教審路線である。放侵すれば,たんに外圧としてのみならず同時に 内圧に転化し.内部から一般教育を解体するおそれがある。「まず毅然としてこれに立 ちむかうことが無条件的な前提と食らゎば浸ら凌い。それなしには一般教育の運動も ー2劇 し

(3)

ヘチマもないのである。卵を外から踏みつぶしたのではふ化も育すうもあったもので は潅いのとおなじである。 つぎに一・般教育自体に内在する矛盾とはなにか。そ・れらは枚挙にいと・まのないほど ある。たとえば、各分野相互間にも.学科目相互間にも,授業料目相互間にも,相当 者個々の間にも.学問研究の分化傾向と統合の必要性の問にも,専門とのある種の緊 張関係にも.認識と人間形成の間にも.教師と学生との間にも,学生相互間にも.・そ の他いくらでも指摘できる。しかも,・それらの矛盾は相互にからみあい,つながりあ っている。「試案」はこそれらの結節ともいうべき重要な環をとりあげ.そ・の改善の方 法を講じ.あるいは課題を提起し七いる。その一つ一つにとり組んでいかねばなら薇 h。矛盾は難関であ少.放置すれば運働をおしとどめ.硬化・さ・せ,ついには全体を形 骸化tさせるかそれはあるけれども,同時に統一・の側面をもっているからこそ矛盾とし て現われるのだから,・それは緊張をはらむ動的統一一・の可能性を示サもの,したが・「て. その内的つ凌がりによって全体を生動させる要因ともなりうるもの■である。だから, 具体的な個別の諸問題(矛盾)とのキメこまかい取少くみは.重要だけれども,しかし. それだけでは不十分である。・そ・れらの諸矛盾の根底にあ・つて,・それら夜・買いているよ うな基本的薇矛盾.それはなにかということ,これは個別諸問題にかとらず重要であ る。レ、な∴それこ・そが問題の核心をなすのである。私隠それを.現代社会の基本的薇 矛盾.すなわち生産の社会性と所有の私的形態との矛盾の大学への反映として抑えた いと思う。このこと軋 大学や一般教育の矛盾を社会の一・般的矛盾に解消しようとい うのではなくて.それどころか逆に社会の−・般的矛盾を大学のなかで然るべき視野の もとに具体的にとらえる必要のあること.したがって大学ヤー般教育関係内部での自 律的な道教の合目的的敢組織化につとめるとともに.・それが国民的夜道勒路線につな がるという展望をもたねばならないことを.主張したいためである。こうした確認の もとにおいてのみ・一・般教育の遊動は「象牙の塔」のなかの/j\放であることをやめて, きびしい国民的課題の前にひきすえられるのではをいだろうか。 この基本的を矛盾は大学なぃし一般教育関係内部にぉいてどう現われているか。ま ず.研究が普遍的な生産活動であり,人間への加工としての教育が広義の生産活動で あることはいうまでも充ぃれ その生産情動は今日どういう側面からとらえてみても 社会的.集団的.組織的であるという点において,自余の生産活動と変るところはな い。しかるに,所有ないし所有の意識は個人主義的,排他的,非組織的である。大学 −3−

(4)

内匠私的所布はない。しかし,所靖の意識はさまさ■まに屈折しながら(ときには当人 、さえ意識しない形で)研究室にも教室にも研究教育楕動にも忍びこむ。1それが√ 集団 的.組織的な研究教育括勒と鋭く対立し,矛盾し,ときにはその生産的な活動を内側 から掘りくずしてしまう。研究教育を生命とする大学にとってこれは、まさに死満の問 題である。かえりみれば,「大学の自治=教授会の自治」(一定の歴史的役割はあっ たのだが)の考えのなかにも.パターナリズムのなかにも,一種の官僚的な管理姿勢 の孜かにも,多かれ少かれこの意識ば潜在してぃた。これが昂じると.研究教育.ぃ な学問さえ私物祝され 教育組織は私人の慣れあい集団に■まで形骸化・され.研究室は 私的密室とされ.教師や学生の人格は独尊主義化ないし自閉化1され.とどのつま少学 園ば挙げて生き腐れと孜る射それがある。少し極端な場合を想定して述べたまでで実 態では孜いにせよ 研究教育の仕事と.時々のうちに忍びこむ所有の意識とは.本質 的にそ・ういう傾向をふくみうるほどに.鋭く対立・するのである。これは社会の基本的 矛盾の反映であるから大学内の、さまざまな葛藤の板〔こをなしているばか少か.教師 や学生の人格のうち‘まで蓼透しでそれを二つに引垂裂ぃているともいえる。すこしリ ゴリスティッシュな言い方をすると.この葛藤から完全に清められているものは教師 であれ学生であれ細れ一人いない,とさえいえるかも知れない。それぞけ拓こうした 問題を提起すること自体.両刃の剣として跳ねかえって来る苦痛の多いことではある が,しかしけ・つして単に道徳主義や精神主義の次元の問題では浸く.研究教育という 使命が不可抗的につきつけている問題なのである。これを見すえての取少組みの課題 は避けられぬ課題,使命そのものから来るのっぴき怒らぬ課題といえる。この数年と くに烈しく揺れ動いた大学間題の基底には常にこの間題があ〔たとみてよい。解決は 困難である。いっきょに完全な解決があると考える浸ら,・そ・れは恐らく幻想であろう。 だが.人は解決できる問題をのみみずからに課題として提起するといわれる。解決の 物質的.精神的条件は完熟しているばかカか.基本的夜布石・さえすでに打たれてぃる のだ。布石とは怒にか?本学のみならず全国の多くの大学において確認されている原 則.すなわち教。職0学三者が対等の大学自治の担い手であるという原則である。国 民的課題を展望する運動論的視点からとえたとき,この原則の確認は大学にとって数 千の同盟軍を得たにひとしい心強h確認である。かりそめにもこれを.516 当時の 異常な現象形態に眼をうばわれて,非合理的な力におされてのやむを碍なぃ承認であ った】とぃう£うに後ろ向きに理解してはなる■まレ㍉この確認は激動を媒介にした大 −4− \

(5)

学の自覚の深化というべきである。学生が本来たんに教育の客体でしか凌い存在であ る怒らば.これを民主的夜主権者に育てるなどということは,お釈迦さ・までもできな い相談薇のだ。数千の学生が研究教育の主体者として.貴任ある自治の麺早手として 立ち現われてきたことは.,教師の展望を大きく切少ひらき.教師のこころを躍らせる ことである。共同の研究教育の主体者であるゆえ.学生はま売時に教師に対する厳し い批判者ともなるであろう。われわれはその批判を歓迎する。研究教育は共同の社会 的.集団的,組織的な事業であってけっして私物化されては浸ら潅いのだけれども, 先述の事情で教師も学生もこの誤りに陥る危険から解放されてはいない。相互批判の 自由はこの危険からの脱出をはるかに容易にしてくれる。批判はもとよ少批判のため にあるのでは孜く.共同者のあいだに断絶や不信が生じたとき,断絶の底にある共通 の普遍の真理を探りあて,不信の底から一致の信頼を据ゎ出すためである。古典的な 例だが,カントの批判主義というのも・ま1さにそ・うした精神をあらわしたものであった。 批判(Kritik)を回避することは断絶や不信の危機(Kr1sis)を放置することに 浸る。相互批判は共同の目的達成のためにこ・そ必要をのである。 こう見て来ると,大学ヤー・般教育の危機とな少かねない基本的夜矛眉を.退っぴき 浸らぬ課題と受けとめる大学人の取少くみによ.り.逆に運動のバネに転化し,そして その運動を国民的課題を展望する前進路線にのせる見とおしが拓けるように思われる。 課題解決の条件があれ ある程度布石も打たれていても.次の一歩一歩がな封激動を はらみうる点は,名人上手の囲碁の場合と変わるまい。「∵試案」の指摘するような諸 問題を当面の結節環としてねば一り強く追求しなければなら潅い。とくに−・般教育の場 合.・その教育効果が三分野を循眉して本稿−−・・節の組みかえ理念の方向に帰向するよう に,担当教員組織において.意図的にと少組tまれることがのぞまれるわけである。 る 附 「共同研究科目」について 本年度はじめて実施された「共同研究科目」は.学生の要望解触発され,担当予定 教師と学生代表とのあいだで長時間にわたる数回の討議を経,おおまかな見とおしを 得て.「試案」の「要領」(P32)にしたがって出発した.。しかし,計画,準備と もに不十分のまま発足したので.始めのうちは担当者をも含めて.期待と不安が入力 ’まじっていたことば事実である。まだ後期レポートも出ておらザー試験後も珪どとに 集って作成中−,最終総括もできないので.これを報告書とするには時期がはやすぎ −5−

(6)

る0けれども.発足以来担当教師と学生代表とによって構成される運営委員会をほぼ 毎週授業の後あるいは前日に開き,授業の点検.反省.総括.展開方向等について意 思統一・を行ってきたので.私案ではあるが中間報告程度のことはできると考える。 (1)中間総括私案 はじめ怨当者自身も感じ,また.よカよせ承わった教官方のど意見からも察せ られる不安ないし疑問のおもなものは,次のようにまとめられるかと思う。 (7)教師と学生とのあいだの異同研究という発想,および・その現実的可能性舵凌 いサる疑問。 (イ)年間(学期)授業計画が予め立てにくいことから来る運営上の困難をどうサ るかという疑問。 (ウ)本年は層学の授業科目として認めることにな・・つた.が.担当教師が適当かどう かという疑問(懇請した学生側からはもちろんこの疑問の出る余地はなかった )。 (エ)以上の総結果として.授業が乱雑に流れ,内容についても大学にふさわしい レベルを維持できるかどうかという疑問。 以下.この各墳について.授業での経験および運営委員会の集約によカつつ.中間 所見を述べてど批判をえたいと思う。 (■ア)について。「共同研究」というのをオリジナルな学的研究の意味にとると. きわめて特殊な場合を除き,−−・般には成立しがたいであろう。しかし.これを一 般教育における授業料目の一形態として教育次元でとえる浸らば,十分に成立し うるし.むしろ一つの発見でさえあったというのが,しへまのところの卒直宏所感 である。なお.これについては後でもうー度触れたい。 (イ)について。昇一に,出発前の討議でテ・−マを検討し限定した。「現代思想と 学生一学生生活をどう生きるか−」と。なお,過去2年にわたカ「大学論.」(無 単位)を開講した経験の蓄積もあるので.このテー・マならおおよその見透しはつ けられるのである。第二に,運営委員会で.受講者個人に購入させる共通資料. 大学側から配布する共通資料.提示する参考資料等をきめ,ある程度系統性を考 慮した。第三に.前期は6月に入■つてからであるが.クラス討議.全体討議を媒 介に個人うトーマを設定し.期末に個人レポー・トあるいはクラス。レポートを提出 するよう指導した。こうした進め方によって.(イ)に伏在する問題は形態払変わる −6′−

(7)

がほぼ解決したと思う。 (ウ)について。(イ)のよう把テーマを限定したので疑問の余地は痘くなった。こ のテーマから予想され∴また事実予想どおり展開零れたものは,現代の広義の 思想との連関における,学問論.大学論.学生論.インテリゲンチャ論,民主 主義論等であって,すべて大学数師の基礎資格ともレ、うべきものにかかわるも のばかカであれ しかも全教師がこの2一・一3年真剣に検討しあって来た.ものば かカである。大学教師の共通のフィロソフィー・といえるものである。 (エ)について。 すべ少出しのころ若干のとまどいはあったけれども.運営が軌 道に載ってからは不安は解消した。内容のレベルについて.運営委員会はほぼ よいと確認しているけれども.と.れは見る基準によってちがぃがありうる。討 議内容は学生のちからに見合うものゆえ,講義にくらべて低いことはぃうまで も食いが.学生が共通にあるいは個人的に当った資料の水準はけっして低くは 妾レ㍉ レポート(前期)を答案と比べる怒ら遜色はない。さら匠学生の学習愚 についてみるなら.ほぼ確実に所定の最低基準量を上まわっていると判断でき る。総じ可エ)の疑問は尊実において解消したと考えている。 夜お以上のほかに.学生の側には「■この授業ほど苦労して取少くんだ授業は サくない」という声の多いこと.教師の側には「−やゎがいがあった」という充 足感とともk負担が大きかったとの突感もあることを附言して.今後の改尊を 期待したい。 (2)若干の省察と展望 本授業は顔当者に多くの反省と示唆を与えるものであった。教育の面匿おいて とくにその感が狭い。思えば従来.大学においては教育や授業にたいする関心と 研究とがあま力も低すぎた。研究と教育とが一体であるという当然の原則が,か えっで一つの落し穴となって,両者の緊張をふくむ力動的統一・という点への配慮 が欠ける結果になったのでは二凌いかと考えられる。それで研究が進んでいれば・ま だしもで.・それはいずれ教育へも跳ねかえって来るであろうが.もしそれが前節 でみた研究教育の私物化傾向によるものがあるとすれば.問題はまサます重大で ある。ともあれ,授業研究については初中等教育にくらべ大きく立ちおくれてい ることは歴然としている。授業が面白く薇ぃという声,改善の要求隠 それな少 に謙虚に受けとめて分析し反省してみる必要がある。研究の結果を短絡的にぶっ −7−

(8)

つけるのではなく.せた学生のうわべの要求にまどわされザ.学生自身さえも気 づか浸かったような決部の要求とかみあう形把,これを再構成していくよう濠教 育次元での工夫と研究は,今後組織自勺.集団的に行われてよいことである。個人 の自主性に期待する,というキレイととは明白にその限界を露呈しているのだか ら。 本授業は多くの反省を与えたにせよ,わずか1年の経験(しかも全代表での総 括は■まだできていない)では,・それが提起サる問題性や傾向性を・さえ明か把サる のは困難である。気づいた問題を主賓凌碩にしぼり,反省をこめて提起したい。 (ア)学生の位置づけ 本節前項の(ア)にかかわる問題である。この授業において,学生は「試案一項領 一.」の制限はあるにせよ研究教育の主体,教師と共同の研究者として位置づけ られている。このことはぃうまでも薇く,学生が被教育者であるとレ、う側面を もつことをい−ささかも否定サるものではをい。むしろ,研究教育り主体なればこ‥そ教 師が誤ったときそれを受け入れることを拒否し.ともに泉理系実に接近する道 を拓きうるところの.少っば壕複数育着たることができるということを含意す る。■また.教師につレゝてぃうをらば.学生と異つた役割を担う自己の責務を「 共同研究」の名にぉいて学生と同じ平板な次元に引きおろすことを,意味しな いことももちろんである。初。中等教育の現場からは.教師が.児童生徒をた んに教育の客体とみていた立場から教育の主体とみをす立場に移ると,教育の 場政一・変して活気と意欲に充ちてくる.という感動的な実践が数多く報告され. 研究者からも確認されている。大学匿おいても.演習のばあいをど事実上そう 扱われてきた・し.また自余の授業にお・レゞても主勧的にはそうで挙ろう。だが, 事実問題や尊意からそ■う扱うということと.原則的に確認し目的意識的に扱う ということとは.同一ではをい。本授業にお小て.そ・れを確認し学生の自主性. 共同性.責任性に期待したことは.意欲を引き出すうえ佐きわめて肩益であ〔た。 その結果は,近く提出される学生の共同二個人レポートが示すであろう。 516 の確認が.その役割のちがいのもっとも端的に現われる授業において どのように生かされるかは今後の課題である。息のながい運動論的観点で実践 的に詰めていくほかない。共同の研究主体者とあらためて位置づけた授業形態 もその一つではあるが,そ・の成果と糾誉しきものをせっかちに取カあげて,無 ・−8・−

(9)

批判的に−・般化するのは危険である。「共同研究科目」がとりうる具体的孜授 業形態軋 本年度実施したものより多様で豊富たゎうると思われるが.・それは 何か,必然的宏成果は宏にか.そのための条件はどう改巻雲れるべきれ 一般 化できる要素は敢にか.限界はどこにあるか−こういった諸問題は経験と反 省を重ねて追求すべき課題である (イ)指導のあ.り方 教師は指導の職能的薇責任主体である。指導に「注入」,「命令」の側面の あることは否定でき凌い。だが,教師の指導は第一・に,官僚機構における.上司 の権力的凌いわゆる「指導」とは本質的に異敢.り,真理と其実以外の何ものに も依拠してはならない。しかも,緊急特別の場合を除き,通則として相手に対 する説得力をもたねばをらぬ。教師はノ常に英理を代表サる充どということは不 可能だし,また代表しえても相手の力量や要求に見合う説得力をもつとは限ら 凌い。だから指導は必ず相手の拒否の自由を前提とサる。しかもなお貿徹して ゆくよう薇才旨導こそはんものであろう。指導は.・その過程において「指導戸被 指導」の相互転化を媒介にしつつ,自己を貫徹するのである。第二に指導は徹 底を求める。一人残らず理解させるというのが指導の理想でぉろう。だが.被 指導者の主体的,客観的条件の相異に阻まれて,そ・の理想は実現し凌いのが通 例である。・その通例をたんに通例として放置したのでは共同研究科目は成立し ないかあるいはこく限られたものとなる。したがって教師から発した指導が. 学生の間にも「指導さ破指導」の関係を含みつつ,蓼透してゆく過程が見とお され 組織せられねば孜らなレ㍉そして.この点におぃてもわれわれは初。中 等教育の実践と理論のなかに.学ぶべき多くの財宝を見出すのである。 共同研究科目の実施は.われわれを平素見すとしやすいこの間鼠一言でい って,指導のもつ弁証法的構造の問題匿つき当たらせた。これをさらに実践的. 理論的に追求するのはやはり一つの課題である。 (ウ)共 同 化 「現数育体制のもとで軋授業は『できる子貝と『でき薇い子』の区別をつ く少,それを差別と分裂に追いこみ,学級にさまざまな対立を・持ちこむ。教師 は科学的な認識を基盤にして統−・を回復する手だてを絶えず講じなければなら 孜レ㍉」岬初。中等学校教師の現場からの告発の声であれ せめてもの良心 −9−

(10)

的薇対応の姿勢である。統・−・ある学習集団形成の問題は切実な課題と浸ってい る。ところで大学はどうか。明確夜間題意識にtさえなっ・でいをい。基本的に学 級がないこと,カリキュ・ラムがはっき少していないこと,単位制と自由選択制 とのた.てまえ等が.この間題を遮蔽しているからであろう。しかし.困った問 題は考えなけれぼすむ,といったような訳にはいか薇い。中身のある共同化−ケ 学習集団・→研究集団−とレ、う要求と必要は特に重視、されねばならなぃ。それ が明確な意識にの憺ら凌いところに病根の深さがうかがえる。教師にとっても 学生にとっても生きがいであるべきはずの授業の場において.体制から自然発 生的に出てくる疎外と分断が進行するのを放置しておけば,おそ・かれ早かれ, 出てくる結果はほぼ推察できる。虚しさ,・そして一層βのラデイカリズムへの暴 走,他の−・部の三無主義への沈毅。授業という教。学の接点.真理を導火線と し放電現象の起こる当の場,大学の・一つの中心・Wそこでの共同化の問題は, たとえ学級が浸くても.自由選択であろうとも.意識的に執拗に追求されるべ き問題である。ここでの追求と建設をゆるがせにしたま●まま・で.大学自治へ・の 学生参加の形態を,対立的か共同的れ と原則論的に論じあって見ても成果は 少いと思う。(こういったからとて大学問題を授業問題にワイ小化しようとい うのではない。) 共同研究科目の実施は学生をこの共同化.集団化の問題につきあたらせたこ とはたしかである。共同の援助。批判0激励によって,一\人ひとりが研究意欲 を維持し発展させ成果を挙げえたという感激を味わうことが■できたら,・それは ささやかな・一歩に過ぎ宏かったとしても,大切にする値うちは十分あると思う。 これが含む可能性をさらに追求し現実化する必要がある。 (エ)人間形成への並行作用 およそ教育とは.系統的認識を与えるという教授論的側面と人格形成とぃう 訓練論的側面とを統一・したいとなみである。大学における一般教育も,訓練論 的側面を抽象的ながら.その理念のうちにはっきカと謳いこんでいる。・それを 教育課程のうちにどう織りこんでゆくかの問題には.まったく触れられていな いし,また事実.安易に触れることを許さない実情もある。当面,この側面は 学生の自治に委ねるべきである。しかし.教授論的側面から,これに即して行 なわれる教育活動が.訓練論的側面に及ぼす並行作用を無視することはでき夜 ・−iリー

(11)

いし.せた教育が意図的情動である以上無視すべきではない。両者は相互に惨 透しあうのだから.無視サれば教授論的側面自体を弱化首せることにもなろう。 本節の(■ア)(イ)(ウ)の各項で多かれ少かれす■で匠見て来たように,共同研究科目は そ・の内容の点もさることながら.授業の形態にお小ても,この側面につき当た らせる。すなわち,全体討議.クラス討議.班討議等を通じて,共同的。個人 的研究を進めてゆく必要から相互批判...自主的な相互管理.規律を民主的に生 み出さざる各得ない。それが.全学生集団にどういう影響を及ぼしてゆくかは. いまのところ予測の限カでは孜いが.経験を横み,これが量的質的に発展すれ ばほほ好ましい見とおしが.立てられると思う○(1971225) −」1−

参照

関連したドキュメント

tiSOneと共にcOrtisODeを検出したことは,恰も 血漿中に少なくともこの場合COTtisOIleの即行

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

遮音壁の色については工夫する余地 があると思うが、一般的な工業製品

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが