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研究紀要 第18号 (分割版 その3)

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(1)

Ш 各

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13

永吉 台遺 跡群遠寺原地 区

14

磯 花遺 跡

15

愛宕 前遺跡 1・

6

内野第2遺跡

2

高岡大山遺跡

3

織幡妙見堂 Π遺跡 4・

5

真行寺廃寺跡

7

飯 田町南向野遺跡 8・

16

井戸向遺跡

10 9

作畑遺 跡

10

大綱 山田台No 6遺跡

H

宇津志野窯跡

12

柳台遺跡

17

飯仲金堀遺跡

18

日井屋敷跡遺跡

仔〒

=‐

H

第 114図 鉄鉢形 土器5・ 托

(2)

1

仏器・瓦塔・墨書土器 一般 に、丸底 の ものか ら、

8世

紀前半 に尖底 に変化 し、 その後 に再度丸底形態 になる とされ る。正倉院 等の寺院 に見 られ る金銅・ 銀製 0漆塗 り製 を主体 とす る鉄鉢形 の形態 の ものについては、奈良時代 の もの は一般 に口径1に対 して高 さは0.658な い し0.677で あ り、平安時代 の ものは0.644で あるとい う結果が公表9 されている。奈良時代 の もの に比べ る と平安時代 の もの は高 さが低 く、肩部 の張 りが強 い とい う。 房総地域 については前述 の ように

8世

紀第3四半期 か ら

9世

紀後半 まで見 られ るが、尖底 と丸底 の もの についてはいずれ も

8世

紀第3四半期か ら認 め られ る。平底 の形態 は

9世

紀初頭前後か らであ り、年代的 に出現が遅れ るようである。 なお、須恵器 の鉄鉢 については、宇津志野窯跡か ら出上が見 られ、房総地域 で も

9世

紀 中葉 までは生産 されていた ことが判明 している。 また、68個体 の鉄鉢形土器 の うち、須恵器が15個体 、土師器 が51個体、不明が2個体 であ り、土師器が 圧倒的 に多 い ことが房総地域 の鉄鉢 の特徴 と言 える。 これ を上記 の形態別 に見 てい くと、尖底形態 は須恵 器が9個体、土師器が9個体、不明が1個体 であ り、丸底形態 は須恵器が3個体、土師器 が13個体 である。 一方、平底形態 は、14個体 すべてが土師器 で占め られてい る。 これ については本来 の鉄鉢 は尖底・ 丸底 の ものが一般的であ り、平底 の鉄鉢 は異形 であるので、須恵器 には存在 しないのであろうとも受 け取れそ う である。平底 の鉄鉢が果た してすべて鉄鉢 としての用途 を もた されていたか は不明であ り、中 には鉄鉢 の 分類 か ら外れ る ものが存在す る可能性 も残 され る。 しか しなが ら、土師器 の平底形態の ものすべてが怪 し いわ けではな く、角田台遺跡出土 (第113図

2)の

もの には胴部外面 に「千仏」の墨書が なされてお り、明 らか に仏教 に関連 す るものであることが分か る。 白幡前遺跡 出上の もの (第113図

7)に

は胴部外面 に「佛

Jの

墨書がな されてお り、 しか も同一 の竪穴住 居跡 内か ら須恵器蓋 に「佛」 と墨書がなされた ものや瓦塔片が出土 している。 中林遺跡 の鉄鉢 について は (第113図 3・ 405)、 竪穴住居跡出上の ものであるが、香炉蓋が共伴 し、柳 台遺跡 (第113図

9)で

も同 一 の竪穴住居跡か ら浄瓶又 は水瓶 と考 え られ る遺物 (第104図16)が出土 してい る。織幡妙見堂 Ⅱ遺跡 (第 113図

6)か

らは竪穴住居跡 か ら丸底 の土師器 の鉄鉢 (第111図

12)が

共伴 してお り、 これ らか ら類推 す る 限 り仏具 として機能 していた ことは確実であ ろう。 また、第110図 12の鹿穴遺跡 出上の須恵器 の鉄鉢 は、底部 中央外面が涙滴状 の尖底 となっている。この よ うな形態 は房総地域 で も1例のみであ り、注 目され る。涙滴状 の底部形状 は金属製 の鉄鉢 で も管見で は認 め られなか った。 しか しなが ら、正倉院の奈良三彩・二彩・緑釉陶器 の鉄鉢 の中に類似10するの ものが認 め られ る。奈良三彩 (第115図

1)の

鉄鉢 の底部形態 については、器形 自体 は通常 の尖底 であるが、表面 に彩 色 された釉薬が焼成 によ り溶 け、それが底部 中央外面 に溜 ま り、涙滴状 に固 まった ものである。すなわ ち、 正倉院宝物磁鉢 ││ltF Iヽ i 2 緑釉鉢 〔磁鉢乙第十一号〕 三彩鉢 〔磁鉢丙第四号〕 第 115図

(3)

-141-Ⅲ 各 自然 の作用でで きた産物 と捉 えられ る ものである。 鹿穴遺跡 の遺物 について も

8世

紀第3四半期 の所産 であ り、奈良三彩 とほぼ同時期 の もの と考 えられ、 この奈良三彩の出来上が りの形状 を模倣 した可能性 も否定 はで きないであろう。従来か ら、鉄鉢形土器 は 金属器 の鉄鉢 の模倣 であ り、他の器物か らの模倣の可能性 は低 い と考 えられて きたが、三彩陶器等の写 し も存在 す る可能性 を考 えた方が良いのか もしれない。 なお、鉄鉢 とセ ッ トになる托(鉢支)については、大網山田台遺跡

NO.3遺

跡 の銅製托が知 られ るほかに、

3遺

跡 か ら奈良三彩の托 が検 出 されている。奈良三彩の托 (第114図 16∼18)は最大径 が7 cm前後 の もので 小形 である。 さらに托 の類例 としては、未発表資料 なが ら土師器 の ものが1点認 め られ る。鉄鉢 を供養具 として使用す る場合 には、托 (鉢支

)を

用 い るのが通常 であった とされ るが、鉄鉢 と比較 してわずかな量 である。 これは、托の大半が木製であったか らであろうか。 ちなみに、鉄鉢 については正倉院には黒漆塗 りの木製や乾漆製の ものが残 されてお り、古代 において も 木製の鉄鉢が ある程度普及 していた可能性 は比定で きない。 しか しなが ら、『塩嚢抄』11)によれ ば「鉢 は鉄 鉢 なるべ し、木鉢 は外道 の鉢 な り」 とあ り、本来 は木製の鉄鉢 を使用 してはな らない ことになってお り、 その点か ら考 えれ ば木製鉢の普及 については一考 を要す るであろう。 墨書・ 線刻・ ヘ ラ書 き文字 今 回の仏教関連 の墨書土器等で最 も出土遺跡数が多い文字 は「寺」であ り、83遺跡 を数 える。 ほかに「仏」 「佛」「釈迦」「僧」「尼」「ササ (菩薩)」「法印」「三費」「大般若」等があ り、上総国分僧寺等の国分寺関 連遺跡か らは「講院」「院」「四院」「金光」「法」「卍」等の仏教関連 の施設や「経典」等の題 と考 えられ る ものが出土 してい る。 「寺」の文字のほか に出土が多いのは「佛」であ り、「仏」又 は「佛」が出土 した遺跡 は38遺跡 を数 える。 「寺」 と「佛」又 は「仏」が同一遺跡で重複 して出土 した例 は22遺跡であ り、「仏」・「佛」の文字 と「寺」 の両者及 び どち らかが出土 した遺跡 を合計す ると97遺跡 に達す る。 この「寺」の墨書 についてはどの ように評価すべ きであろうか。「寺」の墨書が出土 したか らといってす べてが寺院 と直結す るものでない ことは もちろんである。例 えば人名等1幼に も見 られ ることか らもそれは明 らかであろう。 しか しなが ら、「寺」の墨書が出土 した遺跡で、仏教関連 の器物0墨書土器や遺構 が出土 し ている遺跡 は、51遺跡 を数 える。 この数値か ら考 える限 り、ある程度何 らかの形で寺院 と結 びついた遺物 であることを物語 るものであろう。 また、「寺」の墨書土器 しか仏教関連の ものが見 られない残 りの32遺跡 の中で も、寺の名前が読 み とれ る遺跡 は

7遺

跡 に達す る上 に、「寺」の墨書が複数出土 してい る遺跡 も多い。 この ように見て くる と、時代や共伴 を度外視 した遺跡毎 とい う大 きな観点か らみた場合 という但 し書 きは 付 くものの、「寺」の墨書土器 出土遺跡 は何 らかの形で付近 に寺又 は僧侶が存在 した と評価すべ きもの と考 えた方が無難 であろう。 「寺」銘墨書土器等で寺の名称 と考 えられ るものは、六拾部遺跡「 白井寺」、長熊廃寺跡「高里寺」、将 門鹿 島台遺跡「福 ヵ寺」、野毛平植出遺跡「手寺」、大袋台畑遺跡「赤界 (男

)寺

」・「赤寺・埼寺」、 白幡前 遺跡「大寺」、久野高野遺跡「桑田寺」、萩 ノ原遺跡「塔寺」、南麦台遺跡「殿寺」、真行寺廃寺跡「武射寺」・ 「大寺」、西寺原遺跡「西寺」、遠寺原遺跡「土寺」◆「山寺」、名木廃寺跡 「度寺」、海神台西遺跡「琴寺」、 山口 (Loc20)遺跡「忠寺」、広遺跡「坂津 ヵ寺」、北海道遺跡「勝光寺」、平木遺跡「 □弘寺」、下総国分尼

(4)

1

仏器・瓦塔・墨書土器 寺跡「尼寺」、下総 国分僧寺「造寺」・「尼寺」・「東寺」、多田 日向遺跡「三綱寺」・「多理草寺」・「多料草寺」・ 「観音寺」、南河原坂窯跡群 「堺寺」、内野台遺跡 「祥寺」、鐘 つ き堂遺跡 「釈迦寺」・「 □祥寺」、草刈遺跡 「草苅於寺不」、宮台遺跡「大福 ヵ寺」、郷部・加良部遺跡 (Loc15)「 忍保寺」・「大寺」・「新寺」、大井東山 遺跡「新生寺」、上総 国分僧寺「金寺」・「光寺」「法花寺」、上総 国分尼寺跡「法花寺」、結城廃寺跡「大寺」・ 「法成寺 □」、鳴神 山遺跡 「波 田寺」・「播寺」、久野遺跡「赤穂寺」、一夜山遺跡群「赤穂寺」・「阿光寺」、 宮本台遺跡群「秋寺」、岡田山遺跡「前寺 □」、山田・宝馬古墳群「小金 山寺」・「小金寺」、文六第

6遺

跡「砂 田東寺」・「祥寺」、滝東台遺跡「三井寺」であ り、39遺跡 を数 える。 寺 の名称 は、吉祥旬、郡名・ 地名、佛・ 菩薩 の名称 や経典 由来 と考 えられ る もの、僧侶 の職名、東西南 北 の方位・ 大小等 の大 きさ、塔等の寺院建物・ 造営 に関す る もの、 その他不明 に分類 で きる。 郡名・ 地名例 「 白井寺」「高里寺」「桑 田寺」「武射寺」「坂津寺 ?」「堺寺」「草苅於寺不」「波 田寺」・「播寺」「小金山 寺」・「小金寺」「砂田東寺」・「三井寺」・「多理草寺」・「多料草寺」・「赤界 (男

)寺

」・「赤 (埼

)寺

」「赤穂 寺」・「阿光寺」 吉祥句例 「祥寺」「 □祥寺」「大福寺 P」 佛・ 菩薩の名称 や経典 由来例 「釈迦寺」「観音寺」「金寺」「光寺」「法花寺」「法成寺」 塔等 の寺院建物・ 造営 に関す る例 「塔寺」「造寺」 東西南北 の方位・ 大小等 の大 きさ例 「大寺」「西寺」「東寺」 僧 呂・ 僧侶 の職名 「尼寺」「三綱寺」 その他 の不明例 「殿寺」0「土寺」・「山寺」「度寺?」「琴寺」「忠寺」「勝光寺 ?」「 □弘寺」「忍保寺」「新寺」「新生寺」「秋 寺」「前寺 □」「手寺」 地名 と考 え られ る ものの出土が最 も多 く、 その うち郡名 と考 え られ るもの は真行寺廃寺跡 出土の「武射 寺」の墨書土器1点のみである。地名 の場合、同音 を別 な文字で表 した と考 え られ る遺物 も見 られ、一夜 山遺跡 の「赤穂寺」 と「阿光寺」、多田 日向遺跡「多理草寺」 と「多料草寺」、鳴神 山遺跡「波 田寺」 と「播 寺」が ある。 また、地名 の中には「砂 田東寺」の ように方位 を入れ る もの も存在 す る。 この ことか ら、方 位 と寺 の組 み合わせの ものは、その前 に本来 の寺 の名前が付 く可能性 もあることが窺 える。これ は、「山寺」 について も「小金 山寺」例 か ら同様 な ことが言 えるだ ろう。 同一 の遺跡 であるのに もかかわ らず、い くつかの異 なった寺 の名前 を有 す る遺跡が見 られ る。多田 日向 遺跡 は「三綱寺」0「多理草寺」・「多料草寺」。「観音寺」の寺名が見 られ る。 これ は どの ように解釈すべ き であろうか。多理草 は地名、三綱 は僧侶 の役職名、 そ して観音 と3つの異 なった名称 で呼称 されてお り、 これ を同一の寺 と考 えるか、別々 に分かれた堂毎の名称 であるか判断がつかない。 『日本霊異記』等では「山寺」 と称 された寺や「堂」の記載が見 られ るが、房総地域か らも「山寺」の

-143-―

(5)

Ⅲ 各 1∼

3

大袋台畑遺跡

4

草刈遺跡

5

長熊廃寺跡 6∼

8

真行寺廃寺跡

9

将門鹿島台遺跡 10∼

16

山田宝馬古墳群

17

飯仲金堀遺跡

18

六拾部遺跡

19

宮台遺跡 20∼

22

伊地山藤之台遺跡

23

南河原坂窯跡群

ヽИ

瘤ヂ

015

第 116図 墨 書土器 1 ‐

(6)

1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器 1∼

8

山 口遺 跡

9

野毛平植 出遺 跡

10

磯 花遺跡 11・ 12・

15

文 六遺 跡 13・

14

囲護 台遺 跡 16∼

22

永吉 台遺跡群 遠寺 原地 区 23・

24

東郷 台遺 跡

25

作 畑遺 跡

26

油井古塚 原遺跡 27∼

29

高 岡大 山遺 跡 [け

綽L

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第 117図

-145-―

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(7)

払調

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1∼

28

萩 ノ原遺跡 29。

30

久能高野遺跡

│ ` `日rマ r │`ヽ_…″ “ク25 1,:li: 28

(8)

1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器

6

北海 道遺 跡

7

永吉 台遺跡群 西寺 原地 区

8

内野 台遺 跡

9010

白幡前遺 跡

11

取香和 田戸遺 跡 12・

13

井戸 向遺跡

16

峯崎遺跡

17

岡田山遺跡 18∼

21

郷部 。加良部遺跡

22

尾井戸遺跡

23

仲 ノ台遺跡 24・

25

大井東山遺跡

26

巣根遺跡

27

南麦台遺跡

4咄

鰤 2 人

012

5 第 119図 墨 書土器 4

-147-ヽ 塁

(9)

Ⅲ 各

ー (ヘラ書 き

) 19

11ヨ

:0 (7::]'28 第 120図 墨書土器5

1∼

4

下総 国分寺 5∼

7

下総 国分尼寺跡

8

岩戸広台遺跡 9。

10

大崎 台遺跡 11・

26

宮本 台遺 跡群

12

千草 山遺跡

13

砂 田 中台遺跡

14

海神 台西遺跡

15

平木遺跡

16

角 田台遺跡

17

北 大堀遺 跡

18

高津新 山遺 跡

19

愛宕 前遺跡

20

大椎第2遺跡 21・

22

南大広遺跡

23

大畑遺 跡群

24

江原台遺跡

25

林遺 跡

27

郷部・ 堀尾遺跡

28

若宮八 幡遺跡

29

大太 良内遺跡

30031

幡 山・ 山谷遺 跡

576

31 筆 29

(10)

1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器 1・

9

伊 地 山藤 之台遺 跡

2

角 田台遺跡

3

柳 台遺 跡

4

鳴神 山遺 跡 5・

6

自幡前遺 跡

7

砂 田 中台遺 跡

8

真行寺廃寺跡

10

大野第7遺跡

11

尾上藤 木遺 跡 12∼

14

萩 ノ原遺跡

15

山 口遺 跡 16・

17

永 吉台遺 跡群 西寺 原地 区

18

東郷 台遺跡

19

南広遺 跡

20

高 岡大 山遺 跡

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第121図 墨書土器6 ● 20

-149-人 18

(11)

Ⅲ 各 `

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暉議

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1

中鹿 子第2遺跡

2016

織 幡妙 見堂 Ⅱ遺跡

3

北 大堀遺跡 4∼7。

23

砂 田中台遺跡

8

滝 東台遺跡

9

土持 台遺跡

10

井戸 向遺跡

H

庄 作遺跡 12・

21

下総 国分尼寺跡

13

西 大野第1遺跡

14

中内原遺跡

15

幡 山・ 山谷遺跡

17

天神 台遺跡

18

永吉 台遺跡群西寺原地 区 19・

20

北海道遺 跡

22

萩 ノ原遺 跡 24∼

26

下総 国分寺

27

作畑遺 跡

28

南子安 金井崎遺 跡 一

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13

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二 一 一 第 122図 墨書土器 7

(12)

1

仏器・瓦塔・墨書土器 墨書土器 が 出土 す る こ とは注 目され る。 また、逆 に「堂 」 の出土例 は検 出す る こ とがで きなか った。 この山寺 については『日本霊異記』10の例 で は僧侶 の修行 の場所 として建立 された ようであ り、国家又 は 特定 の貴族・豪族や村落 との関係 はほ とん ど見 られ ない10と の指摘 がある。堂 については、村落 との関係が 深 く、里名や村名 を堂 の名 とす る ものが多 く、在住 の専門僧侶 がいない可能性が強 い とい う。 房総地域 の「寺」の実態 は後節で も触れているように大部分 の遺構 が小規模 な建物 であ り、『日本霊異記』 にい う堂程度 の ものである。しか しなが ら、本地域 で は、「堂」の文字資料 は現在 までの ところ検 出 されず、 「寺」の出土遺跡が83遺跡 を数 える。 この ような現象 は「寺」 と名付 けることに執着 させ るなにかがあっ た ことも連想 させ るが、『日本霊異記』に描 かれた畿 内地域 の様相 との対比 だけでは語れない ものがあるの であろうか。 いずれ に して も墨書土器が これだ け出土 している地域 に「堂」の文字が見 られない とい うこ とに も驚か され るのである。 仏教関連 の墨書土器 で最 も遡 るものは、大袋台畑遺跡 「赤界 (男

)寺

」・「赤 (埼

)寺

」 と草刈遺跡 「草 苅於寺不」である。両者 とも

8世

紀前半代 と考 えられ るが、周囲 には仏教関連 の遺構 は存在せず、遺物 の みの出上である。 これ らの墨書土器 と遺構 が共 に出土す るようになるのは

8世

紀第3四半期 か らであ り、 鉄鉢 な どが出土す る時期 とほぼ重 な る。 なお、 この ような寺銘墨書土器等で文献 に記載 された寺 と合致す る もの も存在 し、注 目され る。結城廃 寺跡 か ら検 出 された丸瓦 にヘ ラ書 きで「法成寺 □」 と記載 された ものがある。『将門記』10に将門の部下が 「結城郡法成寺」付近 で、敵 の攻撃 を事前 に察知 した との記事 があるが、結城郡 内で大規模 な寺院 は結城 廃寺跡以外考 え られず、 ここか ら法成寺 のヘ ラ書 きの瓦が出土 した ことによ り、本来 の寺院の名称が明 ら か となったのである。 瓦塔 瓦塔 の出土遺跡 は40遺跡 を数 える。 この数字 は関東圏で は、上野 0北武蔵地域 と比較す る と少 な く、他 の諸地域 と比較 す る と多 い。ただ し、北武蔵 の例 は須恵器生産 の活発 を物語 り、52遺跡中10遺跡10が須恵器 窯跡か らの出土 である。房総 では現在 までの ところ、窯業遺跡 か らの出土例 は認 め られない。 本地域 で は、40遺跡 中、25遺跡 で仏教関連遺物・ 遺構が同一遺跡 内か ら検 出 されている。瓦塔 は、他 の 遺物 と比較 してその存在が 目立 つため、表採 も多 く見 られ る

(4遺

)の

で、実際 は大部分の遺跡 で何 ら かの形で遺物が伴 う可能性 が考 えられ る。 瓦塔 については、還元炎 と酸化炎の ものが見 られ るが、還元炎の ものについては、須恵器窯 で焼成 され てい る と考 え られ る。酸化炎の ものについて も須恵器窯 で焼成 された可能性 が強 いが、土師器 の焼成土坑 と同様 な円形土坑1ので焼成 された例 も他地域 で は見 られ るので、どち らとも言 えないのが実態で ある。瓦塔 の中には赤色 の彩色 を施 された ものや赤色 と白色彩色 を施 した もの (第126図 1・

204・

7)が

見 られ る。 瓦塔 のみで はな く瓦金堂 も出土 してお り、両者の出現 の時期 は他 の器物 と同様 に

8世

紀後半代 であ り、瓦 塔 の最盛期 は

9世

紀代 である。 なお、関東地域 にお ける瓦塔 の最古 の出土時期 は、

8世

紀前半である。 仏像・ 小金銅仏等 仏像・ 小金銅仏 について は、本県で はあ ま り出土が見 られ ない上 に、大部分 の ものが表土 か らの出土で あ り、共伴遺物 がな く、明確 に時期決定がで きる ものに乏 しい。

(13)

-151-趾

暉」請

8

第123図 瓦 塔 1

Ш Ⅲ 各 1∼ 3のみ

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1∼

3

西方 4∼

10

谷津遺跡

(14)

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1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器 朧 ′ も

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6 第 124図 瓦塔2 --153-―

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(15)

Ⅲ 各 論

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5

六拾部遺跡 第 125図 瓦塔 3

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(16)

1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器

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26 (13, 22

N項

1∼

37

白幡前遺 跡 i

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129

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(17)

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10

白幡前遺跡 第 127図 瓦塔 5

(18)

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噂 20 第128図 瓦 塔 6

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1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器

(19)

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1∼

4

東郷台遺跡

10∼

16

長熊廃寺跡 5∼

9

真行寺廃寺跡

17∼

23

木下別所廃寺跡 魃 鰺 匁 .:

q26

宝珠院

26

下総 国分 尼寺 跡 竜 角寺 ヽ 25

司 22 _颯 穆

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第 129図 瓦塔7 Ⅲ 各 論

(20)

1

仏器・ 瓦塔・ 墨書土器 ギ 1・ 2

1

村上 込 の内遺跡

2

井戸 向遺跡

3

中台遺跡

4

郷 部・ 加 良部遺跡

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圃電

2 5∼

10

庄作遺跡 11・

12

永吉台遺跡群遠寺原遺跡 13・

14

上大城遺跡 16∼

18

小谷遺跡

19

谷津遺跡

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8

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ト 錮

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乙 仏

第130図 瓦塔8 ―-159-一

(21)

HI 各 最 も古い例 としては関峯崎横穴群 の

3号

横穴棺床 出土 の押出一光三尊仏 (第131図 1)10や成東町出土 の 観音菩薩立像191が挙 げ られ る。

7世

紀後半 と考 えられ る。また、駄 ノ塚西古墳石室西壁 の線刻の如来座像(第 131図 5)2のも古 い可能性 が考 え られ る。奈良時代 と考 えられ るものは、結城廃寺跡の博仏・塑像21)、 大栄 町稲荷 山出上の十一面観音菩薩立像

2体

221とが挙 げ られ る。 平安時代 と考 えられ る もの は比較的多 く、列記する と、栄町北辺田の菩薩立像(表採)2o、 高津新 山遺跡 の如来座像 (表土出土)、 栄町龍角寺 の如来座像 (地表下50cm)2o、 井戸 向遺跡 の宝冠如来座像 (竪穴住居 跡 出土)2o、 木下別所廃寺跡 の菩薩立像20、 名木廃寺跡 の菩薩立像 (表採)2o、 坂志 岡・尼 ヶ谷遺跡 の観音 菩薩立像 (表土 出土)2つ、市川市下総 国分寺付近 の塚 出土 の誕生釈迦仏立像28)、 峯崎遺 跡 の螺髪 (第131図

4)(竪

穴住居跡)2o、 田向城跡 の宝冠如来座像(土坑)2の、織幡妙見堂遺跡 の仏像 の後背部分(第131図 3)30 が ある。時期不明の もの としては、上総国分尼寺跡の螺髪や市原市国分僧寺北辺部の如来座像2のが見 られ る。 以上 の ように、小金銅仏等の出土 は菩薩像 と如来像の出土が多い ことが分か る。 仏像 と小金銅仏 については、像高が10cm以下の もの

9像

、10cm∼ 15cmの もの

2像

、20cm以 上 の ものが2 像 であ り、小型 の仏像が多い。 その他の仏教関連遺物 上記 の出土頻度が高い遺物 のほか に も仏 教遺物 と考 えられ る もの を ここで触れ るこ とにす る。 第132図 6は、温石 と考 えられ る遺物 であ る。温石 は、焼 いた石 を布 に包んで病気等 の際 に体 を暖 める医療用具である。当時の 医療 の状況か ら判断 して、僧侶 が使用 して いた可能性が強い ものである。 ほかに自幡 前遺跡31).永吉台遺跡群西寺原地 区・北 アラ ク遺跡3のか ら出土 してお り、すべて蛇紋岩製 である。 第132図 7∼14は鉄製 の風 鐸 の部 品 で あ り、

708は

風招 であ り、9は鐸身,10∼14 は釣金具等である。 この風鐸 と同形態で同 寸 に近 い もの に、正倉院宝物 の中に見 られ る金銅鎮鐸3め (第131図

)が

挙 げ られ る。 こ れ は、憧幡餃具であ り、鐸身側面 に「東大 寺枚幡鎮鐸 天平勝宝九歳五月二 日」 とあ り、幡 に付属す る鐸であ ることが分か る。 また、図示 していないが、花瓶 と考 えら れ る遺物が、上総 国分尼寺跡 と中内原遺跡 か ら出土 している。 〔南倉164〕 第131図 正倉院宝物金銅鎮鐸第1号 l = M 国 1 出 H O

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(22)

/ 1 t 、 ノ       >

1

関峯崎横穴群

2

井戸 向遺跡

3

織 幡妙見堂遺 跡

4

峯崎遺 跡

5

駄 ノ塚 西 古墳

6

藤 葉遺 跡 7∼

14

萩 ノ原遺 跡 ===●

8- 8

第 132図 その他 の仏教 関連遺物

1

仏器 。瓦塔・ 墨書土器

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4 11 A 餞 V 3 1 , 0   ﹁ [

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(23)

Ⅲ 各

3

墨 書 土 器 「神 」 との 対 比 古代 の寺院 を考 えるには、 その対局 にある もう一 つの信仰 である神道・ 神社 について も考慮 しなけれ ば な らないであろう。今回 は紙面 の都合 もあるので、特 に「神

J関

連 の墨書土器 を出土 した遺跡 についての み触れ、 それ と仏教 との繋が りを見てい くことにす る。 「神」関連 の墨書土器 が出土 した遺跡 は、現在 までに28遺跡 を数 える。出土遺跡 は長勝寺脇館跡 「□命 替神奉」、馬橋鷲尾余遺跡 「神奉」、北大堀遺跡「神屋J、 庄作遺跡 「丈部真次 □ (召力

)代

国神奉」「罪 ム 国玉神奉」「上総 □秋人歳神奉進」「竃神J、 吉原三王遺跡 「神□」、南借 当遺跡 「奉玉泉 神奉」、郷部・堀 尾

(Loc16)遺

跡「神奉」、高岡大 山遺跡 「神」「神屋」、城次郎丸遺跡「神奉」、入谷遺跡「神」、権現後遺 跡「神」、鳴神 山遺跡「□神」「國玉神上奉丈部鳥万 呂」「大國玉罪 力」、東野遺跡「國玉J、 神 田台遺跡「神 宮」「毛神」、庚塚遺跡「神奉」、小座ふ ち き遺跡「石神」、 白幡前遺跡「ネ申万 ヵ」、双賀辺 田No l遺 跡「ネ申主」、 油作第2遺跡 「大神」、多田 日向遺跡 「大神」「ネ申部」、寺台遺跡 「神宮」、池尻遺跡 「神主」、谷窪0上楽遺 跡「神奉」、須和 田遺跡「神」、ム コアラク遺跡 「 □神 申如林為南無界秋」、別 当地遺跡「神 山」、境堀遺跡 「神J、 新橋 高松遺跡「神」が挙 げ られ る。「神」の一文字 が多い ことは無論 であるが、「神奉」も多 く存在 す る。

8世

紀後半 には「神」 の墨書土器が見 られ、

9世

紀前半か ら中葉 にか けて多 く認 め られ るようになる。 現在 までの ところ、「神」の墨書土器 は、下総地域 のみの出土 であ り、上総・安房地域 か ら出土 しない こと は注 目され る。 この28遺跡 とい う「神」関連 の墨書土器出土遺跡数 は、「寺」「仏

Jの

墨書土器が出上 した99遺跡 と比較 す る と3割弱の数値 で、少 ない もの となっている。 また、注 目され るのは、「神」等 の墨書土器 が出土す る 遺跡 の うち12遺跡 に何 らかの仏教関連遺物が認 め られ る ことである。 この ように多 くの遺跡 か ら神道関係 と仏教関係 の遺物 が混在 して見 られ る とい う点 はどの ように評価 した ら良いのであろうか。神仏混合の風 習が広が った とす る根拠 とな り得 るか は評価 の分かれ る ところであろう。 ただ し、「神」の墨書土器 と仏教関連遺物が同一の竪穴住居跡か ら出土 した例 は現在 までの ところ見 られ ず、 この点か ら考 える と、峻別 されていた可能性が強 いので はなか ろうか。

4

仏 教 関 連 遺 物 の 出 土 遺 跡 の 頻 度 につ い て 今 回、浄瓶・水瓶、香炉・香炉蓋、鉄鉢、瓦塔、墨書土器等の文字資料 の中で「寺」「仏」・「佛」 を主な 仏教関連遺物 として認定 し、分析 を行 って きたが、 これ らのすべての遺物 と何 らかの遺構 を検 出 した遺跡 は、真行寺廃寺跡 のみで ある。 この ことは、前述 した ように本格寺院 については上総国分寺尼寺 を除 き、 部分発掘 のみであることに起 因す るとも考 え られ る。 なお、瓦窯跡 を除いた仏教関連遺跡204遺跡(線刻画 古墳2、 仏教関連遺物 を出土 した窯跡

3遺

跡 を含 む。

)の

うち、遺跡 の半数以上 の114遺跡で1種類 のみの 遺物 で はな く、仏教関連 の遺構又 は他 の仏教関連遺物が出土 している。 この204遺跡のほか、瓦窯跡 を含 めると223遺跡 となる。 この数値 はどのように評価 してよいのだろう。 今回、作成 した地図 には総計 で730遺跡以上 の点 を落 とした。 これ は、上記仏教関連遺跡・瓦窯跡・瓦出土

(24)

1

仏器・瓦塔・墨書土器 地 と、発掘調査がな された奈良・ 平安時代 の集落跡 の合計 であ る。 発掘調査がな された奈良・ 平安時代 の集落跡 に関 しては、千葉県教育委員会 の千葉県埋蔵文化財発掘調 査抄報や各郡市文化財 セ ンターの年報等か ら抜 き出 した ものである。地図上 に落 とす際 には遺跡が各地点 に分 かれている ものに関 しては、1遺跡 とした。古 い文献 には遺跡 の位置が記 されていない ものが若干存 在 し、点 を落 とせ ない ものがあった。 また、遺跡が桐密 な区域 に関 しては見づ らいため ドッ トの数 を減 ら した ところ も存在 す るので、実際の遺跡数 はこれ よ りも増加す る。ただ し、い くら増加 して も1,000遺跡 を 超 えることはない と考 え られ る。 この数字か ら仏教関連遺跡 の割合 を単純 に割 り出す と

20%を

超 えること になる。 また試 みに、奈良・平安時代 の遺物 が分布 している遺跡数 を千葉県分布地図上か ら拾 うと、4,366遺 跡 と なった。 この数字 か らで も仏教関連遺跡 は全体の

4.7%前

後 になる。4,366遺 跡 とい う数字 は発掘 されてい ない遺跡 を含 んだ ものであ り、 これで も1/20程度 の数値 になるとい うことは、かな りの頻度で仏教関連遺 跡が見 られ る とい うことにな る。 そ して、 これ らの仏教関連遺物の出土遺跡 を概観す ると、本格的寺院か らの出土 は少数であ り、いわゆ る村落 内寺院及 び明確 な仏教遺構 を伴わない遺跡が大半である。 その意味ではある程度、房総地域 におい て も官寺や郡寺級の寺院のみではな く、仏教が一般民衆 にまで受容 されていた ことを物語 る数値であろう。 以上、仏教関連遺物 について検討 を行 って きたが、その出現時期 については

8世

紀後半代 に集 中す るこ とが分かった。 また、

8世

紀第3四半期 まで遡 る と考 えられ る遺物 も多 く認 め られ る。従来 か ら考 え られ て きた

8世

紀末 とい う時期 よ りも遡 ることは確実 となった。 また、

8世

紀末 に創建 と考 えられていた小食 土廃寺跡 をは じめ とす るい くつかの瓦葺寺院跡が

8世

紀第3四半期 まで遡 る可能性が明 らか とな り、 この 時期 に何 らかの画期があった ことが考 え られ る。 また、仏教関連遺物が最 も多 く出土す る時期 は、

9世

紀前半か ら中葉である。10世紀 に至 る と出土量 は 格段 に落 ちてお り、 この時期 にさらに変容 す る もの と考 えられ る。 註 1)「軍 防令第一七」『令義解』巻第五 国史大系本 吉川弘文館

2)宮

内庁正倉院事務所

1986

『正倉院年報』第

8号

3)阪

田宗彦

1992

「正倉院宝物 の塔銃形合子」『仏教芸術』200号 毎 日新聞社

4)渡

辺 一 ほか

1992

「柳原遺跡

A地

区」塔椀形香炉蓋 『鳩 山窯跡群発掘調査報告書第

4冊

―工 人集落編 (2)―』 鳩 山町教育委員会

5)弗

若多羅、鳩摩羅什共訳 『十誦律』第五六 後秦時代 『大正新修大蔵経』二三内

6)雨

宮龍太郎

1983「

古代村落 と仏教 ―磁鉢 をめ ぐる人々 ―」『研究連絡誌』第

2号

(財

)千葉県文化 財 セ ンター

7)奈

良国立文化財研究所

1978

『飛鳥・ 藤原宮発掘調査報告 Ⅱ 藤原宮西方官衛地域 の調査』

8)渡

辺 一 ほか

1990

『鳩 山窯跡群発掘調査報告書第

2冊

一窯跡編 ―』 鳩 山町教育委員会

9)中

野正樹

1976

「供養具」『新版仏教考古学講座 第5巻 仏具』 雄 山閣出版株式会社

10)吉

田恵二氏 の御教示 による。 正倉院事務所

1971

『正倉院の陶器』 日本経済新聞社 ―-163-―

(25)

Ⅲ 各 論 11)「二五 比丘 ノ六物 卜云ハ何 ソ」 『培嚢抄』巻第十一 文安

3年

『日本古典全集 塩嚢抄』 1936 日本古典全集刊行會

12)大

費二年の御野 (美濃

)国

戸籍 に「寺」「寺賣」の名前が見 える。 竹 内理三

1963

『寧楽遺文』上巻 東京堂 出版

13)1975

『日本霊異記』

(日

本古典文学全集

6)

小学館

14)直

木孝次郎

1960「

霊異記 に見 える「堂」について」『績 日本紀研究』第7巻第12号 績 日本紀研究 会 15)『将門記』『日本思想大系 古代政治社会思想』 16)池田敏宏

1995「

瓦塔屋蓋部表現手法の検討 ―埼玉県児玉町堂平遺跡採集瓦塔 をめ ぐって一」『土曜 考古』第19号

17)埼

玉県鳩 山町鳩 山窯跡群 柳原遺跡

A地

区か ら

9世

紀初頭 か ら

9世

紀前半 の瓦塔・ 瓦堂 を焼成 した と考 えられ る円形 の焼成土尻が検 出 されてい る。 渡辺 一他

1991

『鳩 山窯跡群発掘調査報告書第

3冊

―工人集落編 ―』 鳩 山町教育委員会 18)原田享二他

1988「

関峯崎横穴群

3号

横穴」『佐原市 内遺跡群発掘調査概報 Ⅱ』 佐原市教育委員会

19)麻

生脩平

1987

「 山形・ 円福寺 の銅造観音菩薩立像 とその兄弟仏」『仏教芸術』175号 毎 日新聞社 20)杉山晋作

1996「

駄 ノ塚西古墳 の調査」『国立歴史民俗博物館研究報告第65集』 国立歴史民俗博物 館

21)斉

藤伸明

1989

『結城廃寺第1次発掘調査概報』 結城市教育委員会 斉藤伸明

1991

『結城廃寺第3次発掘調査概報』 結城市教育委員会

22)平

野元二郎

1972

「千葉県上代仏教文化史資料録」 『千葉県の歴史』第

3号

千葉県

23)埼

玉県立博物館

1993

『特別展図録甦 る光彩 ―関東の出土金銅仏』

24)林

- 1982

「古代東国の小金銅仏 一出土仏 を中心 に一」 『歴史手帳』10巻 10号 名著 出版

25)藤

岡孝司

1988

『八千代市井戸向遺跡 ―萱田地 区埋蔵文化財調査報告書Ⅳ』(財)千葉 県文化財 セ ン ター

26)埼

玉県立博物館

1982

『古代東国の甍 ―仏教文化の夜明 けをさ ぐる』

27)稲

見英輔

1993

「坂志 岡・尼 ヶ谷遺跡」『平成

4年

度芝山町内遺跡発掘調査報告書 小池麻生遺跡・ 坂志岡・ 尼 ヶ谷遺跡』 芝 山町教育委員会

28)奈

良国立文化財研究所飛鳥資料館

1978

『古代 の誕生仏』

29)松

田政基 ほか

1996

『峯崎遺跡』 結城市

30)小

見川町埋蔵文化財調査会

1989

『織幡地 区遺跡群発掘調査報告書』

31)大

野康男

1991

『八千代市 白幡前遺跡』

(財

)千葉 県文化財 セ ンター 32)阪田正

- 1996「

古代房総 の民衆 と仏教文化」『坂詰秀一先生還暦記念 考古学 の諸相』坂詰秀一先 生還暦記念会

33)宮

内庁正倉院事務所

1993

『正倉院年報』第15号 追記 挿図中の土器 で、大 きさの記載 のない ものについて は縮尺1/4である。

(26)

寺院 と仏堂・付属施設

今 回の紀要 は重要遺跡確認調査 と同種 の遺跡 の調査成果 をあわせて検討 し、 これ まで明 らかになった古 代仏教遺跡 の実態 を整理 しようとい うものである。重要遺跡確認調査で は、真行寺廃寺跡や九十九坊廃寺 跡 な ど複数の基壇建物跡 で伽藍が構成 された寺院跡 ばか りでな く、長熊廃寺跡や小食土廃寺跡 な どいわ ゆ る一堂伽藍 の寺院や、名木廃寺跡 の ように仏堂 と竪穴住居跡群 が近接 した寺院跡 も対象 とした。 こうした 多様 な規模 と内容 の寺院跡 の存在 を明 らか にす る とともに、伽藍周辺 の寺地 の解明 について も一定 の成果 を上 げた。寺院 は塔や金堂 といった仏や法の空間 (仏地

)ば

か りでな く、講堂や僧坊 な どの僧 の空間 (僧 地

)や

、寺 の 日常生活 を運営す るための空間が ある。 さらに これ らを取 りま くように寺領や、檀越 の邸宅 をは じめ とす る集落が寺辺 の空間 を形成 している。 古代寺院の空間 について、山路直充氏 や須 田勉氏 をは じめ とす る関東の国分寺研究で は、 いわ ゆる七堂 伽藍 と呼 ばれ る南大門か ら区画 された仏地 と僧地 を「伽藍地」、 そ して中心伽藍以外 の寺 の運営 を支 え日常 業務 に関わ る場 を「付属院地」に分 け、両者 を合わせた寺 の敷地全体 を「寺院地」、 さらにその まわ りを取 り囲む寺 田や山川沼沢 を「寺地」と捉 えてい る1)。 ただ し、 この際「付属院地」の性格 づ けが多少問題 とな る。坂詰秀一氏 は講堂・僧坊 な どを「僧地」 と捉 え、大衆院以下 の補助空間 を「俗地」 と捉 えているの。上 原真人氏 は、寺域外 を「俗地」 と捉 え、大衆院以下 の寺域 内の施設 を僧侶が共 同生活 し宗教活動 を行 うた めの補助空間 として「僧地」に含 めている3ゝ 寺院地周辺 を含 めた空間で寺院 を考 えてい く上 で は、上原氏 の ように寺域外 を「俗地」 として捉 える必要があ る。ただ し、講堂や僧坊等 と運営施設が配置上 区分 され ている事例 を扱 う上 で、両者 を「僧地」 として一括 す るのは実態 を把握す る上で問題が生 じる。 そ こで、 これ らを区別す る必要上、講堂や僧坊 な どの僧 の空間 を「僧地」、僧侶が宗教活動 を行 うための補助空間 と して付属院地 を「属地」 と便宜的 に区別 してみたい。 こうした基本的な空間構成 の中に多様 な在地寺院の 実態 をあてはめてみたい。 まず仏堂 を中心 とした仏地 と伽藍地 について触れた上で、 その周辺遺構 のあ り 方 を整理 してみたい。

1

国 分 寺・ 初 期 寺 院 の 仏 堂・ 仏 地 ・ 伽 藍 地 上総 国分寺 で は塔 を囲み、金堂・ 中門へ と取 り付 く回廊 か らなる金堂院 と、講堂 な どの僧地 を合わせた 伽藍地 を区画す る築地・ 塀 と南大門・ 西門が確認 されてい る。上総 国分尼寺跡で は金堂に取 り付 く回廊 と 中門か らなる金堂院 と、 その北方の講堂・ 経楼・ 鐘楼・ 尼坊等 を合わせた伽藍地 を囲む築地と東門 と西門 が確認 されてい る。 この ように上総 国分寺 と尼寺跡 で は基壇建物等 によつて整備 された、 自己完結 した空 間 としての金堂院 と伽藍地 のあ り方が窺 える。 下総国分尼寺跡 で は溝 と塀跡で区画 された金堂 と講堂 と、掘立柱 の中門 と南大門が確認 されている。 そ してその北方で も溝 で区画 された掘立柱 の尼坊が確認 されている。 区画 された伽藍地のあ り方が窺 える。 下総国分寺 で は金堂 と塔、講堂 と、 その北方か ら掘立柱 の僧坊が発見 されている。僧坊 を区画する溝 と塀 跡が確認 され、尼寺跡 同様 区画 された伽藍地 と想定 されている。 この ように発掘調査が進 んでいる上総 と 下総 の国分寺 で は基壇建物跡等で整備 された仏堂 と、 自己完結 した伽藍地 のあ り方が窺 える。なお、安房

(27)

-165-HI 各 論

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El僧

□ 竪穴住居跡 \ 仏堂・ 付属施 設模 式 図 1

上総国分尼寺跡 (政所院) ︵ ﹂ [百 f] ︵ ・一 一 一一 一 .一 .一一 一 ・一 ・一 ・ 一一 一 .一 .一一 F II︲ 一 ﹂ ︱ ﹂ 第 133図 「

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││ │ │ │

結城廃寺跡

(28)

2

寺院 と仏堂・ 付属施設 ヽ ヽ │ │ │ │ ヽ イTIF T,::=■ TIヽ

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真行寺廃寺跡 θ 0 ∂ / 、 ︲ ノ t 、 / に 、 一 一 一 一 一 一 〓 一 一 ヽ \ ︲ / 1 ︲ ヽ           / / / / ︲ ,

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1仏

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理場謙群 麟:鬱副 鍛 治工 房跡 キ、

/ El僧

地 第134図 仏堂・ 付属施設模式図2 龍角寺 ―-167-― □ 竪穴住居跡群 11::::::::::::) ti」ジノ │ [11■ │ 1 1

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│ │ │ `こ:ユ :ユ│'ニ ニ =ノ │ │ │ [:ll l / /       ヽ ヽ 、 , ′ / / ︲ ︲ ︲ / / / t ヽ、                               / (1/1.500) 50m

(29)

Ⅲ 各 国分寺 は基壇建物跡 の金堂が確認 されているが、他 の建物跡や区画施設等 は確認 されていない。 下総国の初期寺院では、結城廃寺跡 の発掘調査が進 んでお り、伽藍地等の全体的な様子が窺 える。結城 廃寺跡 では金堂 と塔 を囲んで、中門 と講堂 に取 り付 く回廊 が確認 されている。 その北方では基壇建物跡 の 僧坊 と掘立柱建物跡

2棟

と竪穴住居跡1軒が発見 された。 そ して これ らを大 き く区画する大溝が確認 され た。 この大清 は現段階で は寺域 区画溝 と捉 えられ、伽藍地の区画 との関係 は不明である。大清周辺か ら大 溝外 にか けて竪穴住居跡が多 く発見 されたのに対 して、伽藍近辺で は僧坊北方の平安時代後期の1軒のほ か は竪穴住居跡 は発見 されてお らず、基壇建物跡等で整備 された伽藍地 は建物構成の上で周辺 と区分 され ている。 このほか、龍角寺で金堂 と塔 の基壇建物跡が、木下別所廃寺跡で金堂 と塔 と講堂 に1ヒ定 され る基 壇建物跡が確認 された。木下別所廃寺跡 では、伽藍 か ら外れた北 0東・ 西の トレンチで竪穴住居跡や掘立 柱跡が確認 された。 また、龍角寺 では金堂 の南約

65mに

礎石建物跡 の門跡が あ り、南大門の可能性が指摘 されている。 また、塔北方か らは瓦塔や瓦 とともに掘立柱建物跡が発見 された。 これ ら南大門か ら塔北方 建物跡 を含 めた伽藍地か らは竪穴住居跡等 は発見 されていない。 上総国の九十九坊廃寺跡 で は塔 と講堂 の基壇建物跡 と、講堂の西倶1から複数の掘立柱建物跡が まとまっ て確認 された。講堂や塔 の軸線 とほぼ同一で、位置関係か ら伽藍 を構成する仏堂等の可能性が高い。真行 寺廃寺跡 では金堂 と講堂 の基壇建物跡 と、金堂 の南 で掘立柱建物跡が発見 されてい る。報告書 では

2棟

の 掘立柱建物跡 に復原 されているが、

1棟

の掘立柱建物跡への復原の可能性 も指摘 されている。金堂のほぼ 南 に位置 し、

1棟

の掘立柱建物跡 の復原で は中央 の柱間が東西 の柱間 よ りも広 い点か ら、中門 に想定す る ことも可能である。 また、金堂の北東か ら三間四面の掘立柱建物跡が、講堂北側か ら掘立柱跡が確認 され た。 この ように、南北基壇周辺か ら掘立柱建物跡がやや集中 して確認 され、中門や僧坊等 と想定 され る。 それ に対 して、伽藍地か ら外れ る と奈良・ 平安時代 の竪穴住居跡が多 く確認 された。 これ までに初期寺院では国分寺で見 られた伽藍地の区画施設 は明確 に発見 されていない。ただ し、伽藍 地 内 は基壇建物 な どによって構成 され、広 い空間 に周辺 と一線 を画 した占地が窺 える。 また、伽藍地 の区 画施設 の可能性 がある遺構 も複数検 出 されてい る。龍 角寺 の伽藍北 方か ら部分的 に東西溝が確認 された。 この付近 は台地の くびれ部分 に当たっている。 なお、南大門付近 も東西か ら谷津が深 く入 りこむ台地の く びれ部分 に当た っている。龍角寺では地形 を生か した伽藍地の占地の可能性がある。木下別所廃寺跡では 講堂 の西約

9mと

15m付

近 で南北溝が2条発見 された。時期 を決定す る遺物 がな く、寺院跡 に伴 うか不明 とされている。ただ し、溝 の西側 か ら掘立柱跡が発見 され、伽藍 と掘立柱建物跡群 を区分 した施設の可能 性 も考 え られ る。真行寺廃寺跡で は中門の東約

32m地

点で南北溝1条が、 また金堂 の西約

33m地

点で は南 北方向の掘立柱列が確認 された。掘立柱列 は複数の時期 の重複が認 め られ、先行 す る柱列 は座標北 か ら3 度西 に偏 し、時期 が新 しい柱列が同 じ く7度西 に偏 している。 これ らは金堂基壇が同 じ く2度ない し3度 西 に偏 し、講堂基壇 が6度西 に傾 く傾 向 とほぼ共通 してお り、寺院関連施設 と捉 えられている。。これ らは 伽藍地 の区画施設 の可能性 があ る。断片的で はあるが こうした伽藍 区画施設 と周辺か ら区別 された建物構 成 と区分 された建物配置か ら、国分寺 同様 に これ ら初期寺院 の伽藍地 も自己完結 した空間 として機能 して いた可能性が高い。

(30)

2

寺院 と仏堂・ 付属施設

2

そ の 他 の 寺 院 の 仏 堂・ 仏 地 次 に国分寺 と初期寺院以外 の寺院の仏堂・ 仏地 について検討 してみたい。上総 国分寺創建期瓦等 を出土 す る小食土廃寺跡 で は基壇建物跡 の金堂 の四囲か ら満が発見 された。 この溝 内か らは このほか に、東側か ら掘立柱跡が

2基

まとまって検 出 された。 山田台廃寺跡 の憧竿支柱跡 のあ り方 と類似 してい る。なお、溝 の外側 の東 と北 か ら溝 に沿 った掘立柱建物跡が、西か ら竪穴住居跡が発見 された。 この溝 は仏堂 を区画す る施設 であ り、仏地 は自己完結 した空間 と捉 えられ る。 大塚前遺跡 では下総国分寺系瓦 を甍棟 に葺 いた と想定 され る三間四面 の掘立柱 の仏堂が発見 された。 こ のほか、方二間の総柱構造 の掘立柱建物跡1棟と竪穴住居跡1棟が並立 して発見 されたが、竃 を備 えた竪 穴住居跡 は仏堂か ら離れてい る。 また、仏堂 は掘立柱建物跡 なが ら、建物規模 と構造か ら周辺建物 と区別 されている。 この大塚前遺跡 と類似 した遺跡 に針 ヶ谷遺跡がある。標高130mの丘陵頂部 に南北 に三間四面 の掘立柱建 物跡、竪穴住居跡、側柱建物跡

4棟

が ほぼ並立 して発見 された。明確 な仏具の出土 は不明なが ら、一般集 落 と異 なる立地や建物構成 と配置、大塚前遺跡 との類似性 か ら寺院跡 の可能性が高い。西 に面 した三間四 面建物跡が仏堂 で、 その前面 の空閑が前庭 として機能 した と考 えられ る。仏堂 が他の建物跡か ら離れ、周 辺 と区分 されている。 東郷台遺跡 で は台地南端 か ら仏堂が発見 された。仏堂 は四間四面 の掘立柱建物跡 で、後 で坪地業の礎石 建物跡 に、 さらにその後 四間片庇 の坪地業 の礎石建物跡 に建 て替 えられている。 なお、 この南 には方二間 の掘立柱建物跡

2棟

が東西 に並立 してい る。仏堂 を中心 とした これ ら建物群 は、北方の竪穴住居跡群等か ら離れてお り、仏地が周辺 と区分 されている。 山田台廃寺 で は四間四面 と四間 ×二間の掘立柱建物跡か らなる双堂形式 の仏堂が発見 された。四間四面 建物跡 は後 に身舎部分が坪地業 の礎石建物跡 に建 て替 え られている。 この仏堂の東約10mと約

15m離

れて 憧竿支柱跡 と想定 され るピッ ト群が

2箇

所発見 された。 そ して、 これ らを取 りま くように掘立柱建物跡 と 竪穴住居跡が発見 された。密集 した建物跡群 の中にあって、仏堂か ら瞳竿支柱跡 にかけてやや広い空間が 認 め られ る。 萩 ノ原遺跡 で は基壇建物跡

2基

と二間四面 の掘立柱建物跡 の仏堂、 そ して簡易な瓦塔基壇跡が遺跡の南 側 か ら3か所 にまとまって発見 された。基壇建物跡

2基

は同規模 で一間四面の建物跡 に復原 されてい る。 これ ら仏堂が併存 した ものか、時期変遷があるものか不明である。二間四面堂

02号

基壇 と1号基壇 の間 に、1軒の建替 え と捉 えられ る竪穴住居跡が認 め られ るものの、 その他の竪穴住居跡 は仏堂の北側 と西側 にまとまってお り、仏堂 と竪穴住居跡の配置 に区分の傾向が認 め られ る。 内野台遺跡 で は、仏堂 と考 えられ る四間四面南孫庇 の掘立柱建物跡 と四間 ×三間北庇 と四間 ×二間の掘 立柱か らな る双堂が発見 された。両仏堂 は北側の柱筋 をほぼ揃 え、軒先 を接する建物跡 と想定 され る。 こ れ らの東 と北か らやや散在 ぎみに竪穴住居跡 と掘立柱建物跡が発見 されているが、 これ らと仏堂 との間 に は配置上 の区分が認 め られ る。 永吉台遺跡群遠寺原地 区で は台地 の東西 に建物跡群 が分布 しているが、東側 の建物群 か ら仏堂が発見 さ れた。三間四面 の掘立柱建物跡 で、建替 えが1度確認 で きる。密集 した東側建物群 の中にあって、仏堂 は やや広 い空間 に占地 してい る。仏堂 と重複 ない し近接す る32号・ 47号竪穴住居跡 は

9世

紀末以降の寺院衰

(31)

-169-Ⅲ 各 論

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内野台遺跡 0   □ / / │ 小食土廃寺跡

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第135図 仏堂・ 付属施設模式図3 / ノ / / / L」

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(32)

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寺院 と仏堂・付属施設 /

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/ / 第136図 仏堂・ 付属施設模式図4

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]白 永吉台遺跡群遠寺原地区 //´ 郷部 。加良部遺跡

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(33)

Ⅲ 各 退期以降の ものであ る。 郷部遺跡 で は台地 の北西 と南東 に建物跡群が分布す るが、 その南東建物群 の中心 か ら二 つの掘立柱建物 跡群が発見 された。 その うちの南西 の掘立柱群 か ら双堂形式 の仏堂が発見 された。密集 した掘立柱群 の中 にあって、仏堂周辺 はやや広 い空間が認 め られ る。 山口遺跡で は集 中す る建物群 の中心か ら掘立柱建物跡群 が、周辺か ら竪穴住居跡群 が発見 された。なお、 掘立柱群 中の011号・ 024号竪穴住居跡 は

8世

紀後半 で、寺院整備期以前の もの と捉 えられ る。 この掘立柱 群 か ら三間四面 の仏堂 と、双堂形式の仏堂 と、五間二面 の仏堂が並立 して発見 された。竪穴住居跡群 と仏 堂 を中心 とした掘立柱建物群 には配置上 の区分がある。 以上、小食土廃寺跡 で は仏堂周辺か ら区画施設が発見 され、仏堂が周辺か ら区分 され、仏地が 自己完結 した空間 と認 め られた。 また、仏堂周辺 に区画施設が認 め られない多 くの事例 で も、建物構成 の配置上、 仏堂が周辺か ら区分 され、 また建物構造 と規模 の上 で仏堂が周辺建物 と区別 されていた点が窺 えた。 なお、国分寺 と初期寺院以外 の これ らの寺院では、桁行二間∼四間の四面庇建物跡や一間四面建物跡、 双堂 な ど多様 な構造 の仏堂が認 め られた。最 も多 く認 め られ る桁行三間∼ 四間の四面庇建物跡 は寺院建築 として伝わ った もので、この時期 の寺院の金堂等の一般 的な構造 である5)。

_間

四面堂 は奈良時代 か ら平安 時代初期 の ものは現存せず、文献上 の存在 もほ とん ど確認 されていない。ただ し、 この時期 の記録 は官 の 大寺 にほぼ限定す る事情 による もので、平安 中期以降 になる と文献上多 くの存在が確認 され、一般的な仏 堂 である。構造的 に も母屋 と庇 の構成 を とる仏堂建築 の中で最 も基本的 な構造 であ り、小 さな寺院で一早 く取 り入れ られた仏堂 と捉 えられ るの。また、二つの建築 を前後 に並べ る双堂 は、小 さな寺院や大寺院の付 属建築 で は奈良時代前期 か らその存在 が確認 され、平安初期以降、大寺院の中心建築 に も多 く見 られ る建 築形式であるの。ただ し、建築上 は正堂 と礼堂が別棟 の もの と、正堂 の屋根 を前へ葺 き下 ろした前庇 を礼堂 とした一体 の もの とが あるの。山田台廃寺跡 については正堂 の前面 に雨落 ち溝 もし くは区画溝が認 め られな い点か ら、笹生衛氏 は正堂 と礼堂が1棟の建物 に近 い構造 と捉 えてい る9)。 ただ し、山口遺跡 の事例 で は正 堂 と礼堂 の間隔がやや広 く、間 口が合 わない点か ら、別棟 の建物跡 と想定すべ きであろう。 この ように仏 堂 と捉 えて きた遺構 は、建築史上 において同時期 の仏堂 の一般的 な構造 である。

3

国 分 寺・ 初 期 寺 院 の 伽 藍 地 周 辺 の 規 則 的 な建 物 群 次 に伽藍地周辺 の建物群 と、寺院地 の区画施設 について検討 してみたい。 上総 国分寺で は溝 で区画 された南北490m、 東西約325m、 変形 した二 つの長方形が重 なった形 をした寺 院地が明 らか になっている。寺院地 内の伽藍北方 は溝 で

3ブ

ロックに分 けられている。中央 ブロックでは 官衛的配置 の掘立柱建物跡が発見 された。 ここか らは墨書土器 「東院」が多数出土 し、官衛的建物配置 か ら「政所院」 と想定 されている。西側 ブロ ックか らは墨書土器 「厨」が出土 し、 その南 の僧坊等 との位置 関係等か ら「厨院」と想定 されている。東側 プロ ックか らは大型 の銅溶解炉が発見 され、「修理院」と想定 されてい る。 上総 国分尼寺跡 で は溝で区画 された南北約372m、 東西約

285mの

長方形 を呈 した寺院地 が明 らか になっ ている。寺院地 の北東部分 か らコの字形配置 の掘立柱建物跡が発見 され、僧寺 の「東院」同様 に「政所院」 と想定 されてい る。 また、 この建物群 の東側 か らは鍛冶遺構や鋳銅遺構 とともに竪穴住居跡が多 く検出 さ

(34)

2

寺院と仏堂・付属施設 れ、「修理院」と想定 されてい る。このほか、寺院地 の北西部分や南西部分 か らは建物跡が確認 されず、「薗 院」や「花苑院」 として使 われた と想定 されてい る。 下総国分寺 で も北辺

21lm以

上、西辺

201m以

上 の寺域清が確認 されてい る。寺院地 内の北西部分 で竪穴 住居跡 と鍛冶工房跡や墨書土器 「造」 な どが発見 され、営繕施設や下働 きの人々が住 んでいた区域 と想定 されている。 また、伽藍地 の北方で は掘立柱建物跡が

7棟

集 中 して発見 され、出土 した「講院」の墨書土 器 か ら講院 の可能性 が指摘 されてい る。 下総国分尼寺跡 で も北辺

324m以

上、東辺303m、 南辺

53m以

上 の寺域溝が確認 されてい る。寺院地 内の 北西で鍛冶遺物が竪穴住居跡か ら発見 され、僧寺 同様 に営繕施設 の存在が推演Iされてい る。 また、 その南 か ら発見 された掘立柱建物跡

5棟

は倉庫機能 を有 した屋 と想定 されている。 この ように国分寺か らは寺院地 を区画す る溝 と、寺院地内か ら特徴のある建物跡群、特定の機能 を示す 墨書土器 な どが出上 し、区画 された寺院地 内は機能 ごとに付属施設が分立 していた と想定 されてい る。特 に上総国分寺 で は建物群 を区画す る溝が発見 され、それぞれが「院」等 として独立 していた と想定 されて いる。なお、上総国分寺 の東側 では荒久遺跡が、上総国分尼寺跡の北側では坊作遺跡が、下総国分寺 と尼 寺跡 の北側 で は国分遺跡が、寺院地 にほぼ接 して発見 されてい る。 これ らの遺跡 か らは仏教遺物や国分寺 の機構 を示 す墨書土器 な ども多 く発見 されてお り、国分寺の機能 を支 えた寺辺の集落 と想定 されている。 次 に初期寺院 の伽藍周辺 について検討 してみたい。結城廃寺跡で は溝 による区画が伽藍 の東 。南・ 西で 発見 され、東西170m、 南北

260m以

上 の古代 の寺院 区画が確認 されている。 この区画内か らは伽藍地 の建 物跡群 のほか に、南東部 か ら竪穴住居跡群 な どが発見 された。 なお、区画外 の北東か らも竪穴住居跡 とと もに掘立柱建物跡が発見 され、区画外 に寺院地 が拡が る可能性 もある。 なお、「東院」の墨書土器 も出土 し てい る。 九十九坊廃寺跡 の伽藍北側 では2か所 で掘立柱跡が発見 されたが、竪穴住居跡等 は発見 されていない。 一方、伽藍の西側で南北溝が1条確認 され、その西側 か ら掘立柱群 と竪穴住居跡群 が発見 された1の。北 に掘 立柱群が、南 に鍛冶工房跡 を含 む竪穴住居跡群 が ま とま り、 それぞれ複数の建替 えが認 め られ る。掘立柱 建物跡群 は中央 に南北棟 が東西約3列、南北約2列配置 され、北側 に総柱構造 と方三間 と東西棟 の一群が 認 め られ る。 さらに南西 と南東 にやや離れた小規模 な南北棟群が認 め られ る。 この ように掘立柱建物跡群 も複数のブロ ックが認 め られ、異 なる性格 の建物跡 で構成 されている。僧名 と考 えられ る「弘安」 の墨書 土器 も出土 してお り、寺院地 内の付属施設の可能性が高い。 二 日市場廃寺跡では大量で多種の瓦や朱付 き瓦や香炉蓋形土器が出土 し、未発掘の瓦分布の中心部分が 伽藍地 と想定 され る。遺構 としては瓦分布範囲のほぼ東限 と西限でそれぞれ南北溝が発見 された。東溝 の 西側 では掘立柱群 が発見 されたのに対 して、東溝 の東側 で は建物跡等 は発見 されていない。 この東溝が寺 院地 の東 を区画す る施設 の可能性 が ある。掘立柱建物群 は東西棟 が南北 に2列認 め られ、 これ らは想定伽 藍地 の東側 に隣接 し、東溝 に規制 されてい る。総柱構造 の掘立柱建物跡が含 まれ、 さ らに掘立柱群 は北側 に続 く状況で、九十九坊廃寺跡伽藍西側 の建物群 と類似 している。 真行寺廃寺跡 で は寺院地 の区画 は不明であるが、中門 よ り南 は緩斜面であ り、北側 には谷津が入 り込 み、 地形上、寺域 の限界が認 め られ る。伽藍 の東溝 の東側 で は鍛冶工房跡 を含 む竪穴住居跡群 と多 くの仏具 と 掘立柱跡が見 つか ってお り、九十九坊廃寺跡伽藍西側 の建物群 と類似 している。 木下別所廃寺跡 の伽藍西側 で も掘立柱跡が、伽藍北側 と東側 か らは竪穴住居跡群 と転用硯 や畿 内産土師 ―-173-―

参照

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