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ドキュメント内 研究紀要 第18号 (分割版 その3) (ページ 32-46)

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永吉台遺跡群遠寺原地区

//´   郷部 。加良部遺跡

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退期以降の ものであ る。

郷部遺跡 で は台地 の北西 と南東 に建物跡群が分布す るが、 その南東建物群 の中心 か ら二 つの掘立柱建物 跡群が発見 された。 その うちの南西 の掘立柱群 か ら双堂形式 の仏堂が発見 された。密集 した掘立柱群 の中

にあって、仏堂周辺 はやや広 い空間が認 め られ る。

山口遺跡で は集 中す る建物群 の中心か ら掘立柱建物跡群 が、周辺か ら竪穴住居跡群 が発見 された。なお、

掘立柱群 中の011号・ 024号竪穴住居跡 は8世紀後半 で、寺院整備期以前の もの と捉 えられ る。 この掘立柱 群 か ら三間四面 の仏堂 と、双堂形式の仏堂 と、五間二面 の仏堂が並立 して発見 された。竪穴住居跡群 と仏 堂 を中心 とした掘立柱建物群 には配置上 の区分がある。

以上、小食土廃寺跡 で は仏堂周辺か ら区画施設が発見 され、仏堂が周辺か ら区分 され、仏地が 自己完結 した空間 と認 め られた。 また、仏堂周辺 に区画施設が認 め られない多 くの事例 で も、建物構成 の配置上、

仏堂が周辺か ら区分 され、 また建物構造 と規模 の上 で仏堂が周辺建物 と区別 されていた点が窺 えた。

なお、国分寺 と初期寺院以外 の これ らの寺院では、桁行二間〜四間の四面庇建物跡や一間四面建物跡、

双堂 な ど多様 な構造 の仏堂が認 め られた。最 も多 く認 め られ る桁行三間〜 四間の四面庇建物跡 は寺院建築 として伝わ った もので、この時期 の寺院の金堂等の一般 的な構造 である5)。 ̲間四面堂 は奈良時代 か ら平安 時代初期 の ものは現存せず、文献上 の存在 もほ とん ど確認 されていない。ただ し、 この時期 の記録 は官 の 大寺 にほぼ限定す る事情 による もので、平安 中期以降 になる と文献上多 くの存在が確認 され、一般的な仏 堂 である。構造的 に も母屋 と庇 の構成 を とる仏堂建築 の中で最 も基本的 な構造 であ り、小 さな寺院で一早 く取 り入れ られた仏堂 と捉 えられ るの。また、二つの建築 を前後 に並べ る双堂 は、小 さな寺院や大寺院の付 属建築 で は奈良時代前期 か らその存在 が確認 され、平安初期以降、大寺院の中心建築 に も多 く見 られ る建 築形式であるの。ただ し、建築上 は正堂 と礼堂が別棟 の もの と、正堂 の屋根 を前へ葺 き下 ろした前庇 を礼堂 とした一体 の もの とが あるの。山田台廃寺跡 については正堂 の前面 に雨落 ち溝 もし くは区画溝が認 め られな い点か ら、笹生衛氏 は正堂 と礼堂が1棟の建物 に近 い構造 と捉 えてい る9)。 ただ し、山口遺跡 の事例 で は正 堂 と礼堂 の間隔がやや広 く、間 口が合 わない点か ら、別棟 の建物跡 と想定すべ きであろう。 この ように仏 堂 と捉 えて きた遺構 は、建築史上 において同時期 の仏堂 の一般的 な構造 である。

国 分 寺・ 初 期 寺 院 の 伽 藍 地 周 辺 の 規 則 的 な建 物 群

次 に伽藍地周辺 の建物群 と、寺院地 の区画施設 について検討 してみたい。

上総 国分寺で は溝 で区画 された南北490m、 東西約325m、 変形 した二 つの長方形が重 なった形 をした寺 院地が明 らか になっている。寺院地 内の伽藍北方 は溝 で3ブロックに分 けられている。中央 ブロックでは 官衛的配置 の掘立柱建物跡が発見 された。 ここか らは墨書土器 「東院」が多数出土 し、官衛的建物配置 か ら「政所院」 と想定 されている。西側 ブロ ックか らは墨書土器 「厨」が出土 し、 その南 の僧坊等 との位置 関係等か ら「厨院」と想定 されている。東側 プロ ックか らは大型 の銅溶解炉が発見 され、「修理院」と想定 されてい る。

上総 国分尼寺跡 で は溝で区画 された南北約372m、 東西約285mの長方形 を呈 した寺院地 が明 らか になっ ている。寺院地 の北東部分 か らコの字形配置 の掘立柱建物跡が発見 され、僧寺 の「東院」同様 に「政所院」

と想定 されてい る。 また、 この建物群 の東側 か らは鍛冶遺構や鋳銅遺構 とともに竪穴住居跡が多 く検出 さ

2 寺院と仏堂・付属施設

れ、「修理院」と想定 されてい る。このほか、寺院地 の北西部分や南西部分 か らは建物跡が確認 されず、「薗 院」や「花苑院」 として使 われた と想定 されてい る。

下総国分寺 で も北辺21lm以上、西辺201m以上 の寺域清が確認 されてい る。寺院地 内の北西部分 で竪穴 住居跡 と鍛冶工房跡や墨書土器 「造」 な どが発見 され、営繕施設や下働 きの人々が住 んでいた区域 と想定 されている。 また、伽藍地 の北方で は掘立柱建物跡が7棟集 中 して発見 され、出土 した「講院」の墨書土 器 か ら講院 の可能性 が指摘 されてい る。

下総国分尼寺跡 で も北辺324m以上、東辺303m、 南辺53m以上 の寺域溝が確認 されてい る。寺院地 内の 北西で鍛冶遺物が竪穴住居跡か ら発見 され、僧寺 同様 に営繕施設 の存在が推演Iされてい る。 また、 その南 か ら発見 された掘立柱建物跡5棟は倉庫機能 を有 した屋 と想定 されている。

この ように国分寺か らは寺院地 を区画す る溝 と、寺院地内か ら特徴のある建物跡群、特定の機能 を示す 墨書土器 な どが出上 し、区画 された寺院地 内は機能 ごとに付属施設が分立 していた と想定 されてい る。特 に上総国分寺 で は建物群 を区画す る溝が発見 され、それぞれが「院」等 として独立 していた と想定 されて いる。なお、上総国分寺 の東側 では荒久遺跡が、上総国分尼寺跡の北側では坊作遺跡が、下総国分寺 と尼 寺跡 の北側 で は国分遺跡が、寺院地 にほぼ接 して発見 されてい る。 これ らの遺跡 か らは仏教遺物や国分寺 の機構 を示 す墨書土器 な ども多 く発見 されてお り、国分寺の機能 を支 えた寺辺の集落 と想定 されている。

次 に初期寺院 の伽藍周辺 について検討 してみたい。結城廃寺跡で は溝 による区画が伽藍 の東 。南・ 西で 発見 され、東西170m、 南北260m以上 の古代 の寺院 区画が確認 されている。 この区画内か らは伽藍地 の建 物跡群 のほか に、南東部 か ら竪穴住居跡群 な どが発見 された。 なお、区画外 の北東か らも竪穴住居跡 とと

もに掘立柱建物跡が発見 され、区画外 に寺院地 が拡が る可能性 もある。 なお、「東院」の墨書土器 も出土 し てい る。

九十九坊廃寺跡 の伽藍北側 では2か所 で掘立柱跡が発見 されたが、竪穴住居跡等 は発見 されていない。

一方、伽藍の西側で南北溝が1条確認 され、その西側 か ら掘立柱群 と竪穴住居跡群 が発見 された1の。北 に掘 立柱群が、南 に鍛冶工房跡 を含 む竪穴住居跡群 が ま とま り、 それぞれ複数の建替 えが認 め られ る。掘立柱 建物跡群 は中央 に南北棟 が東西約3列、南北約2列配置 され、北側 に総柱構造 と方三間 と東西棟 の一群が 認 め られ る。 さらに南西 と南東 にやや離れた小規模 な南北棟群が認 め られ る。 この ように掘立柱建物跡群 も複数のブロ ックが認 め られ、異 なる性格 の建物跡 で構成 されている。僧名 と考 えられ る「弘安」 の墨書 土器 も出土 してお り、寺院地 内の付属施設の可能性が高い。

二 日市場廃寺跡では大量で多種の瓦や朱付 き瓦や香炉蓋形土器が出土 し、未発掘の瓦分布の中心部分が 伽藍地 と想定 され る。遺構 としては瓦分布範囲のほぼ東限 と西限でそれぞれ南北溝が発見 された。東溝 の 西側 では掘立柱群 が発見 されたのに対 して、東溝 の東側 で は建物跡等 は発見 されていない。 この東溝が寺 院地 の東 を区画す る施設 の可能性 が ある。掘立柱建物群 は東西棟 が南北 に2列認 め られ、 これ らは想定伽 藍地 の東側 に隣接 し、東溝 に規制 されてい る。総柱構造 の掘立柱建物跡が含 まれ、 さ らに掘立柱群 は北側

に続 く状況で、九十九坊廃寺跡伽藍西側 の建物群 と類似 している。

真行寺廃寺跡 で は寺院地 の区画 は不明であるが、中門 よ り南 は緩斜面であ り、北側 には谷津が入 り込 み、

地形上、寺域 の限界が認 め られ る。伽藍 の東溝 の東側 で は鍛冶工房跡 を含 む竪穴住居跡群 と多 くの仏具 と 掘立柱跡が見 つか ってお り、九十九坊廃寺跡伽藍西側 の建物群 と類似 している。

木下別所廃寺跡 の伽藍西側 で も掘立柱跡が、伽藍北側 と東側 か らは竪穴住居跡群 と転用硯 や畿 内産土師

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器 な どが発見 された。伽藍 の南か らは竪穴住居跡が発見 されず、伽藍の他の三辺か ら建物構成が異なる建 物跡が発見 された。

龍角寺 は南大門 と伽藍北側 の東西溝 の位置関係 か ら、台地 の くびれ部分 を利用 した伽藍地の占地が想像 され る。 なお、南大門 より南の台地では多 くの竪穴住居跡が発見 されているが、特徴的な建物跡 な どは未 確認 で、古墳時代後半か ら続 く一般集落 の様相 が強 い11ゝ 伽藍 の西側 は緩斜面 で、東側 は狭 い台地端部 であ る。一方伽藍北側 は、東西150m、 南北200mほどのやや広 い台地が広が ってお り、 この西側斜面 に龍角寺 所用瓦 を焼成 した龍角寺瓦窯跡群 と五斗蒔瓦窯跡が発見 されている。 また、 この台地 の北側 には東か ら入 り込 む谷津 を挟 んで天福遺跡が位置 している1の。天福遺跡 も龍角寺 との関連が窺 えるものの一般集落 の様相 がある。伽藍北方の台地上 は未調査 なが ら、瓦工房跡 とともに寺院付属施設が存在 した可能性が高い。

以上、初期寺院 の伽藍地周辺 で も、特徴的な建物群や遺構 の内容 を分 ける区画溝 な どが複数認 め られた。

断片的で はあるが、伽藍地周辺 に溝 な どによる区画施設や地形的境界 が存在 し、寺院地 ない し寺院地 内の 区画の存在が想定 され る。 また、伽藍周辺 に特徴的 な建物群が存在 し、寺院 の付属施設 としての機能が窺 える。ただ、九十九坊廃寺跡 の伽藍西側等で は複数 の建物群が集中 した状況が窺 え、国分寺で見 られた機 能分化 した建物跡群が独立 しているあ り方 とは様相 を異 に してい る。

そ の 他 の 寺 院 の 仏 堂 周 辺 の 規 則 的 な建 物 群

次 に国分寺 と初期寺院以外 の寺院 について仏堂周辺 の規則 的な建物群 について検討 してみたい。

小食土廃寺跡 では仏堂 を区画す る溝 の東側 と北側 か ら掘立柱建物跡が、西側 か らは竪穴住居跡 が仏具 と ともに発見 された。 それぞれ溝 に沿 ってお り、建物構成 による配置の規則性 も認 め られ る。 このほか、北 側 の掘立柱建物跡付近か らは、製鉄関連 の遺構 も発見 されている。これ らは三方 を谷津 に囲 まれた60m〜70

m四方の狭 い台地上 にあ り、広 い台地 との接続部分か らは遺構 が未発見で、寺院地 として完結 している。

白幡前遺跡か らは四囲 を溝 で区画 された遺構群 が発見 された。約35m四方の小規模 な区画で、北西の三 間四面 の仏堂、北側 の掘立柱建物跡群9棟及 び南側 の竪穴住居跡群9軒で区画内 は構成 されてい る。仏堂 前面 には空閑地が あ り、前庭 として機能 した ことが窺 える。 区画内の建物跡 には大 き く3つの軸線が ある が、 これ は三辺 の溝 に規制 された ものである。建物構成 による配置の規則性が窺 え、掘立柱建物跡 には仏 堂 と柱筋 を揃 える もの もあ る。複数発見 された瓦塔 は区画内の北側 か ら発見 され、掘立柱建物跡 の中に瓦 塔 を納 めた建物が あった と想定 され る。 また、鉄鉢形土器 や浄瓶 な どの仏具 も竪穴住居跡 か ら発見 されて お り、 これ らも仏堂 に伴 う施設 と考 えられ る。 なお、区画外か らも広範囲に仏具 は出土 してるが、区画施 設 との間 に規則性 は認 め られず、遺跡全体 でのあ り方 と差異 はない。刀ヽ規模 で はあるが区画施設 内が寺院 地 として機能 し、周辺遺構 は寺院 と深 く関わ った寺辺 の集落 と位置づ け られ る。

この ように寺院地が明確 な事例 において、仏堂が周辺か ら区分 された小食土廃寺跡 と、仏堂 と付属施設 が一 つの区画 に配置 された 白幡前遺跡の二つのあ り方が認 め られた。後者 も区画内の建物構成 による配置 の区分が認 め られ る。 これ らは、寺院地 内で仏堂、掘立柱建物跡及 び竪穴住居跡がセ ッ トとして機能 して お り、 こうしたあ り方 は周辺遺跡か ら独立 した大塚前遺跡や針ケ谷遺跡等で も認 め られ る。大塚前遺跡で は仏堂 の東西か ら、並立す る方二間の総柱構造 の掘立柱建物跡 1棟と竪穴住居跡1棟が発見 された。掘立 柱建物跡 は僧坊 ない し倉庫的機能が、東 の竪穴住居跡 は厨 としての機能 が想定 され る。針 ヶ谷遺跡 では西

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