• 検索結果がありません。

6434 人 が 亡 くなり 多 くの 人 の 暮 らしが 揺 らいだ 阪 神 淡 路 大 震 災 から 1 月 17 日 で 15 年 がたちます 関 西 やその 周 囲 に 住 む 私 たちにとって 忘 れることのできない 災 害 です 会 員 のみなさんの 寄 稿 を 特 集 します 震 災

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "6434 人 が 亡 くなり 多 くの 人 の 暮 らしが 揺 らいだ 阪 神 淡 路 大 震 災 から 1 月 17 日 で 15 年 がたちます 関 西 やその 周 囲 に 住 む 私 たちにとって 忘 れることのできない 災 害 です 会 員 のみなさんの 寄 稿 を 特 集 します 震 災"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

毎月1回 10 日発行

 

「本物」について考える機会が増えました。飢餓、貧困、人種差別や戦争など

の社会問題の改善を歌で訴えてきたマイケル・ジャクソン

(実は私、無類の

ファンです)も

「本物」だったと思います。残念ながら晩年の彼についてはゴ

シップばかりが飛び交い、本当の姿というのは見えにくかったのではないで

しょうか。喜劇の王様、チャールズ・チャップリンを思い出します。

「モダン・タ

イムス」や

「独裁者」を作ったチャップリンもまた、ゴシップやマッカーシズム

の犠牲となり、アメリカを追い出されました。しかし2人は自身の影響力を理

解し、世間の評判など気にせず、信念を貫く作品を残しました。今でも彼らの

作品は地球上のどこかで歌われ、上映されています。そして、世の中を変えて

いく静かなうねりを作っているのだろうと信じています。

 さて、政治家としての鳩山さんは果たして

「本物」なのでしょうか。2010

年にはその答えが見つかるでしょう。

朝日新聞大阪本社 1879年(明治12年)創刊

朝日 21 関西スクエア

会報

関西からのメッセージ集団

Asahi Kansai Square21

2010.1

(2)

 6434 人が亡くなり、多くの人の暮らしが揺らいだ阪神・淡路大震災から、

1 月 17 日で 15 年がたちます。関西やその周囲に住む私たちにとって、忘

れることのできない災害です。会員のみなさんの寄稿を特集します。

震災とキリスト像とベトナム人

神田 裕

 

カトリック司祭、たかとりコミュニティセンター代表 震災で焼失した長田のまちの片隅に教会がある。カト リックたかとり教会だ。焼け残った奇跡のキリスト像で話題 になった。何が奇跡かと言うと、キリスト像が火を止めたと いうのである。まさかそんなことはない。 キリスト像は1992年にベトナムから船に乗ってやってき た。いわばボートピープルだ。不審物の疑いがあると1カ月 ほどは港から出してもらえなかった。やっとのことでたかと り教会にやってきた。 たかとり教会に最初のベトナム人家族がやって来たのは 1980年のことだった。ベトナム脱出を何度も失敗し投獄さ れ、やっとのことで日本に、そしてたかとり教会にやってき た。ちょうど15年たった1995年1月17日早朝、大きな揺れ に揺り起こされ、気が付いたら潰れた家もろとも外に放り出 された。貧しい家に住んでいたから自分の家だけが突然潰 れたと思い、その瞬間子どもたちはとても恥ずかしかった。 幸い家族みんなの命は助かった。 当時たかとり教会のベトナム人たちは信徒全体(約650 人)の三分の一程になっていた。みんな家や職は失ったも のの命だけは助かった。被災者はみんな、学校の校舎や 公園のテントで生活をした。ベトナム人たちももちろん同じ だった。ただ言葉や文化や習慣の違いで別の苦労もあった。 そんな彼らと共に歩もうと、全国から多くのボランティア の人たちが駆けつけてくれた。言葉のハンディや文化や習 慣の違いを一緒に担ってくれた。教会の中に救援基地がで き、震災復興や新しいまちづくりに力を尽くしてくれた。震 災情報の通訳、翻訳、そして電波を使っての多言語情報伝 達FM放送局へと発展していった。地域のお祭りでもベトナ ム料理が食べられるようになり文化も少しずつだが浸透し てきた。 救援活動からまちづくりへとの思いを持って、2000年に たかとり救援基地はNPO法人格を取得し、たかとりコミュ ニティセンターとなった。2007年5月には教会建物もよう やく再建され、その中にNPOセンターやFM放送局も共存 している。多文化なまちづくりの新たなスタートが始まって いる。 つい先日、たかとり教会で一人のベトナム人女性が帰天 した。くも膜下出血での突然死だった。子どもたちのために 働き続けたのに、小学生の末っ子を含め4人の子どもたち を残して神様の元へと行ってしまった。彼女が小学生の時、 ボートピープルとして親に連れられ命からがらこの日本に やってきた。神様に守られて命があることに感謝した。そ れから15年目に震災にあった。家は潰れたが、やはり神様 に守られて命があることに感謝した。それから15年。神様は 「ご苦労さん、もういいよ」と言って彼女を身元にお呼びに なった。まだ若いのに何故に「もういいよ」なのかは私には 理解できない。 たかとり周辺のまちづくりにとっては色んな意味でベト ナム人たちの存在はとても大きい。彼らを取り巻く人々の 力がこの地震の後のまちを支えてきたと言っても過言では ない。 彼らがたか とりに住み始 めてちょうど 30年たち、震 災 を 挟 ん で ちょうど折り 返 し 地 点 に 差 し か か っ た。これ から は2世、3世た ち が 新 し い 時代を創って 行ってくれる のだろう。 キリスト像 が 奇 跡 を 起 こしたと騒が れた。そんな ことはないと 自ら否定した。 しかし1 5 年 たった今、も し問われるこ とがあったとすれば、きっと言うだろう。キリスト像は奇跡 を起こしたと。30年前に船に乗って私たちのところにやっ てきたベトナム人たちは、本人たちの意識のせぬところで、 たかとり、そして神戸のまちづくりの大切な要素になって いる。 キリスト像の台座にはベトナム語、韓国語、日本語で聖 書の言葉が刻まれている。「互いに愛し合いなさい」と。お 互いを大切にし合って関わるならば、きっと奇跡は起こる のだと確信している。 2010年1月17日。私たちは震災から15年を迎える。 (かんだ・ひろし) 焼け残ったキリスト像の前で開かれた追悼集会 (2009年1月17日)

(3)

襟を正して向き合おう!

~阪神・淡路大震災から 15 年~

村井 雅清

 

被災地 NGO 恊働センター代表 阪神・淡路大震災から15年を迎えるにあたって、私たち はあらためて二つのことに、襟を正して向きあわなければ ならないと思う。一つは言うまでもなく6434人以上の尊い いのちに対してである。あらためて亡くなられた方々のご 冥福をお祈りしたい。もう一つは、ボランティア元年という 言葉が生まれたほど 注目されたあの時の ボランティアの振る 舞いに対してである。 ここでは、私はNGO という立場に関連し て後者のボランティ アの振る舞いに触れ てみたい。あの時の ボランティアの勢い は、フランスのル・モ ンド紙も絶賛したほ ど、多くの若者が集まった。統計によると2カ月で100万人 が集まった。しかし、私が思うにはボランティア元年という 言葉が生まれたのは、この100万人という数の多さではな いと指摘しておきたい。当時の朝日新聞(1995/4/17)に は-ボランティア7割『初めて』-という見出しの記事が出 たように、初心者ボランティアが60万人から70万人もい たという。そのうち更に20代の若者がまた6割を占めてい たようだ。つまり、これまでは災害救援といえば、専門性を 持った者たちが担う活動だったのが、ごく普通の、しかも初 心者ボランティアが担ったということを指して、ボランティ ア元年と評したのではないかと私は指摘したい。 彼ら彼女らが被災地に駆けつけた最初の動機は「何も できないかもしれないけど、でも何か役に立つかも知れな い」という軽いノリだったかもしれない。しかし、その後一 人ひとりの被災者と出会う中で決意をし、「大事なことは自 分で決める」ことの大切さを教えてくれた。こうして初心者 ボランティアは、被災地において尊いいのちに向き合いな がら、だからこそ「もう一つのいのちを救おう」という決心を し、「最後の一人までを救う」ための活動に東奔西走してき た。最初は不安と隣り合わせの中で日々を過ごしていたの が、やがて勇気を振り絞って被災者に寄り添い、逆にボラ ンティアの大切さを気づかされ、「人間一人で生きていけ ない」ということを教えられる。被災者との関係で、またボラ ンティア同士で「困ったときはお互い様」を再認識し、支え あいの本質に迫り、多彩な活動を展開し続けてきた。震災 後ある大学教授が、「文化とは人間が人間らしく生きる営 み」と解説してくれ、それまで文化とは最も縁遠いところに 位置していたと思われる私には、目から鱗状態になったこ とを思い出す。あの時のボランティアが被災地で文化を築 いたといっても過言ではないと思う。 ではどのような活動を行ってきたのか。軽いノリであった かも知れないが、自らの判断で被災地に駆けつけ、それこ そ最初の1日から2日は瓦礫の下に埋もれた被災者の救出 活動に関わった者もいただろう。そしてその後は炊き出し や水の配給というライフラインの提供、避難所での生活支 援、介護・看護、避難所からの仮設住宅への引っ越し、簡易 風呂の設置、病院への送迎、話し相手、洗濯ボランティアな ど、実に多彩な活動が展開された。こうしたボランティア活 動がなければ被災者は随分不自由な避難暮らしを強いら れたのだろうと推測すると、ほんとに当時のボランティアに は頭が下がる。 こうした活動が評価され、その後非営利特定活動促進法 (通称NPO法)が施行され、日本の社会は「もう一つの公 共」を求めて大きく舵を切ったのである。この時の初心者 ボランティアは特に大上段に構えることなく、ただ淡々と目 の前の被災者のニーズに対応しただけなのだろう。そうし た身の回りの身近なところで価値観を変えて行ったことが、 社会を変えることにつながったのではないか。 「いま」政権交代を果たした鳩山政権は友愛にもとづく 支えあいの社会の必要性を強調しているが、私たちは15 年前に阪神・淡路大震災を通して、すでに経験ずみであり、 今さら何を言っているのだろうかと首を傾げたくなる。15 年前は、誰かに指示されて支えあったのではない。一人ひ とりの判断で行動するという「主権在民」の姿が存在して いた。そこには被災地ならではの文化があった。 先述したように、人 として生きていく上で 大切なことを教えてく れたあの時のボラン ティアの行動は、これ からの日本の社会の あり方に対する貴重な メッセージでもあると いうことを、15年経っ た「いま」あらためて強 く思うだけに、襟を正 して向き合わなけれ ばと、感謝の念を込めて誓いたい。ボランティアが残した 財産は、「多様性の意義」であろう。最後に亡くなられた加 藤周一さんが遺された言葉を紹介しておきたい。 -これがいいことだというのが一つあって、それにみん なが賛同すべきだという考え方をやめるように努力するこ とが、集団としても大切だと思います。 (むらい・まさきよ) 風が運んだ救援隊 風が運んだ救援隊

(4)

震災を語り継ぐこと/

TeLL-Netと被災地交流

小林 郁雄

 

人と防災未来センター上級研究員、神戸山手大学教授 2010年1月で阪神・淡路大震災15年目になる。10年一 昔というから、すでに一昔半である。震災後大きく減少した 被災地人口は2001年には回復し、現在そのまま増加傾向 にある。被災市街地整備事業も新長田駅北の区画整理、駅 南の再開発事業を除いて、すべての地区ですでに完了し ている。震災復興は15年を経過して終わったのか?といわ れれば、終わったというのが冷静な回答であろう。 では、震災からの復興が終わって、神戸は、被災市民 は、何をしているのか?我々が今果たすべきことは何なの か?・・・震災を語り継ぐことである。 阪神・淡路大震災(1995年、死者6434人)は、日本では 第2次世界大戦後、伊勢湾台風災害(1959年、死者5091 人)以降35年ぶりの死者1000人を超える大規模自然災 害であった。その後の14年間にも多くの震災・水害などは あったが、その被災状況は比べるまでもない飛び抜けた巨 大災害であった。そのため多方面にわたる詳細な記録や多 くの教訓は数え切れないほど発表されている。そうした記 録・提言・教訓によって、直後の緊急対応・応急処置、災後 の復旧・復興について多くの学んできたことを各地に伝え るべく、被災地を中心に発信されてきた。 しかし15年経て、最も重要なことは、何を伝えるかでは なく、「どのように」伝えるかが問題であることに、思い至っ たのである。記録ではなく記憶を、教訓ではなく文化として、 広く世界の隅々まで、長く時代を超えて伝承し、災害からの 活きた教訓を語り継いでいくことこそが防災・減災に大切 だ、ということである。 その最も凝縮した活動が、人と防災未来センター(DRI) で事務局をつとめるTeLL-Net(Telling Live Lessons Network:http://tellnet.jp/)である。TeLL-Netは、国や地 域を越えて大災害を語り継ぎ、これからの自然災害に備 え、被災者を少しでも減らすことへの貢献を目的とする国 際ネットワークである。日本の多くの自然災害被災地や世 界各地の災害に遭遇した国から、阪神・淡路大震災10周 年を祈念して神戸に参集し、「国際防災・人道支援フォー ラム2005」を開催し、「被災者の視点から『大災害を語り継 ぐ』ことは、これからの災害で被災者を少しでも減らすこと につながっていく」と提言した。その後、各国との連絡を続 け、2006年1月20日に再び神戸に集まって設立総会を開 き「世界災害語り継ぎネットワーク TeLL-Net」を発足さ せ、発足記念フォーラムでは、10カ国11団体・個人が参加 し、インドネシアやイラン、新潟や神戸など、地震や津波で 大きな被害を受けた経験をもつ地域での防災や災害語り 継ぎ活動への取り組み経験を共有した。 被災地交流、それも被災市民レベルでの草の根交流もま た、語り継ぎの大きな流れをつくっていく。 1999年9月の台湾921地震からの復興では、阪神大震 災の市民まちづくり復興を手本に、社区営造活動がその中 心となった。それは、2004年10月の新潟・中越大震災の 中山間集落復興に受け継がれ、さらに2008年5月の中国 四川・汶川地震復興につながっていこうとしている。こうし た被災地市民まちづくり交流の最も象徴的な出来事として、 神戸・長田の鷹取救援基地で10年間地元まちづくりを支え てきた鷹取ペーパードームが、台湾最激震地・埔里の桃米 生態村での紙教堂再生であろう。 2005年8月ニューオリンズを襲った超大型ハリケーン・ カトリーナ災害と神戸の被災地交流もまた、語り継ぎ活動 を軸に積み重ねられている。2006年10月トーマス・ニュー オリンズ市議会議長はじめ8人の神戸訪問で、震災復興 における市民まちづくり活動に感動し、2007年9月にはル イジアナ州立博物館でのシンポジウム「阪神大震災とハリ ケーン・カトリーナ」に招待され、神戸から「震災語り継ぎひ まわり団」を結成して語り部による「語り継ぎしていかねば ならない震災の体験・復興への取り組み」がニューオリン ズ市民に語られた。 さらに、2008年10月には、復興の交流だけにとどまらず、 共通の伝統的文化である「神戸とニューオリンズのジャズ 交流」が鷹取・六甲道地区などで行われた。2009年10月 にも再びNOCCA(ニューオリンズ・クリエイティブ・アート 学校)から2人の若手プレイヤーを招き、さらに来年4月に は、神戸の若手ジャズメン登竜門であるネクストジャズコン テスト優勝者などをニューオリンズに派遣するなど、ジャズ 交流は続いていく。 阪神・淡路大震災で生まれたTeLL-Net(世界災害語り 継ぎネットワーク)は、神戸を核に、世界各地の自然災害 被災地をつないで、「災害語り継ぎ活動」を今後も展開し ていく。 (こばやし・いくお) 神戸とニューオリンズの若手ジャズメンによる交流 (2008 年・たかとり教会中庭)

(5)

15 年前の被災地から

坂口 智美

 

フリーアナウンサー 1995年10月、私は神戸の街を歩き始めた。正確には、阪 神・淡路大震災の被災地である神戸を中心に毎日歩いた。 オーディションによってラジオ大阪の放送記者となった私 の番組は「神戸・瀬戸内レポート」。地域の情報を月曜日か ら金曜日まで、毎日5分間、神戸元町の関西支社から生放 送で電波に乗せるのである。それから丸3年、2000人を超 える人々にインタビューし、編集、レポートした777本の番 組は、今では私の宝物となっている。 赴任したのは、震災から10カ月がたっていた。ライフライ ンは整い、街は復興に向けて、慌ただしく動き始めていた。 どこにいっても、工事の音が響き、埃っぽかったのを覚えて いる。学生時代、おしゃれでハイカラな街と憧れていた神戸 はすっかり姿を変えていた。そして町には、取材するメディ アがたくさんいた。報道とは一味違った番組を、という局の 意向もあり、私は、前向きで人々が希望の持てる情報を送ろ うと努力した。地域の季節行事の復活、花便り、イベントを 通して、今現在の被災地を聴取者に知らせたかった。復興 する、ということは、人々の日常が戻ってくることと考えたの である。四季折々の祭り、神社仏閣の再建、町並みの再現な ど、町と人が日常を取り戻す様子をラジオの電波で伝えた。 震災から1年が過ぎた頃、1月17日前後以外は、ほとん どメディアの姿を見なくなった。仮設住宅も、電車から見え るブルーシートも少なくなったが、まだ残っていた。被災の 激しかった地域では、マンション1階のつぶれたままの駐 車場も、住居跡にやかんと小さな靴が土から見えていた場 所もあったのである。明らかに復興の速度はそれぞれ違う と、現場で教えられた。 「あなたは神戸のメッセンジャーだね」。インタビューで 自分の立場をあらためて実感したり、思いがけない事実を 知ることもあった。倒壊した高速道路は、ゆっくり、スロー モーションを見ているかのように倒れてきた、とか。震災か らふた月程は、三宮界隈の夜間は一人で歩ける環境では なかった、とか。震災は人の命と町並みだけではなく、人々 の仕事や団欒、思い出、良心までも奪ったのである。一方、 震災が残してくれたものは、人々の優しさ、思いやり、絆、仲 間。全国からだけでなく海外からもボランティアが駆け付 けた。住民の結びつきが深まった地域も増えた。 震災後に企画され、観光都市神戸の季節の風物詩と定 着しているものが三つある。震災の年から始まった年末の 「神戸ルミナリエ」、2年後の春には通りに花びらを敷きつ める花絵「インフィオラータ」、そして10年後の2月には「六 甲山氷の祭典」。どれも、傷ついた神戸の街を美しく彩りた いという、人々の想いがこもっていて存続されている。 阪神・淡路大震災か ら15年を迎える。フラ ワーロードに面する東 遊園地の一角に「希望 の 灯あ かり」モニュメント がある。この灯りは、被 災した10市10町をめ ぐって運ばれた種火と 47都道府県から寄せ られた種火を一つにした灯りで、常に灯っている。あの大 震災を決して忘れないために。 (さかぐち・ともみ) 毎年 1 月、各地に分灯される「希望の灯り」

「安全・安心なまちづくり」をめざして

成瀬 千枝子

 

(財)ひょうご震災記念 21 世紀研究機構・研究調査本部主任研究員 2009年4月から(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構に 着任し、はや半年以上が過ぎました。大阪から神戸へ毎日通 う生活となり、兵庫県の各地を訪れるなかで実感したのは、 阪神・淡路大震災の記憶が今も人々のくらしの中に生き続け ているということです。公的な場面のみならず、なにげない 日常の会話からも、兵庫の人々にとってあの震災は決して遠 い過去の出来事ではないということが伝わってくるのです。 ひょうご震災記念21世紀研究機構(理事長:貝原俊民・前 兵庫県知事)は、阪神・淡路大震災の復興過程の総括検証 を通して、実践的な政策提言をおこなう総合的シンクタンク として2006年4月、設立されました。「研究調査本部」、「人と 防災未来センター」、「こころのケアセンター」、「学術交流セ ンター」の4セクションに分かれ、震災の経験から21世紀文 明社会の目標として再認識された「安全・安心なまちづくり」 と「共生社会の実現」という基本課題を中心として、さまざま な地域課題や政策課題について幅広い視点から高度な政 策提言を行っています。また、震災の教訓の発信や震災、防 災に関する資料の収集をはじめ、国内外の研究機関との知 的交流、人材育成などの諸事業を展開しています。 今年度、「研究調査本部」で行われている研究テーマは 14本。私は「親学び応援施策のあり方」、「青少年の生き方 を支える『家族の絆』の構築戦略」を担当しています。被災 者の命を救ったのは、まず家族、地域の人々であったこと を踏まえ、家族ライフスタイルの変化に着目しつつ、家族 を支える仕組みづくり、家庭の力を高める方策および新し い家族のあり方について調査・研究を進めています。 「研究調査本部」安全安心なまちづくり政策研究群では、 阪神・淡路大震災15周年に向けてのとりくみとして、「ひょ うご安全安心白書」の作成プロジェクトを開始しました。震 災の経験と学びを次世代に残すとともに、安全安心社会を 実現するための指針となる白書にすべく、活発に議論して います。また、人と防災未来センターでは、企画展「UDぼう さいプロジェクト ユニバーサル防災宣言!」を開催中です (2010年1月11日まで)。ユニバーサルデザインの観点か ら、防災・減災対策の今を見つめ、これからのあり方を共に 考え合うことを目指しています。 (なるせ・ちえこ)

(6)

1月9日からフォーラム

「阪神・淡路大震災がこの国に遺したもの」開催

宮原 浩二郎

 

関西学院大学社会学部教授 震災から15年。神戸をはじめ各地で様々な催しが行わ れますが、その一つに、関西学院大学災害復興制度研究所 (以下、関学復興研)のフォーラム「阪神・淡路大震災がこ の国に遺したもの~人間復興の旗は立てられたのか~」が あります。「人間復興」を旗印に出発した研究所の5年間を ふり返るとともに、震災15年の被災地と日本社会の歩みを ふり返るためのフォーラムです。末尾に概要。 私事にわたりますが、関学で災害復興に貢献できる研究 機関をつくろうという話が持ち上がったのは、2003年秋の ことでした。当時、朝日新聞記者から関学広報室長に転身 された古森勲氏が熱心に説いて回り、副学長をしていた私 が担当することになりました。個人的な被災体験と社会学 の震災研究以外は何もわからなかった私に、やはり朝日新 聞編集委員だった山中茂樹氏が、災害復興問題の深刻さ、 幅広さ、そして奥深さを実感させてくれました。平松一夫学 長(当時)をはじめ学内の全面的サポートのもと、山中氏を 主任研究員・教授として迎え、関学復興研は発足しました。 当初の所長は私が務めましたが、その後しばらくして、この 分野の第一人者である室崎益輝教授を新たに所長として 迎え入れることができました。 スタッフも予算も少ない、本当に小さな研究所ではあり ますが、地元の神戸・阪神間はもとより、宮城・栗駒、新潟、 能登、鳥取・日野、三宅島など全国の被災地ときめ細かく連 携し、国や自治体の「復興制度」を中心に様々な調査研究 活動を展開してきました。また、災害復興に関心をもつ研 究者と被災地のNPO・NGO関係者や行政実務家を橋渡し する「日本災害復興学会」の立上げと運営にも尽力してき ました。当初は5年間で打切りになる可能性もあったので すが、学内外の理解を得て、関学復興研は第二期の5年間 に向かって新たな歩みを始めることになりました。 阪神・淡路大震災の研究と言うと、「いつまでやっている のか」という声もあります。私自身、15年前であれば、そう 言っていたかもしれません。ただ、震災を体験し、その後の 地域を見聞きし、また、全国各地の被災地の状況に身近に ふれるようになると、おのずから考えも変わります。三宅島 や玄海島に調査に行ったときを思い出しますが、どんなに 小さな地域であれ、宝物のような小社会がいたるところに 息づいている。そのことに、あらためて深い感銘をおぼえま す。震災15年を迎える今、「災害研究はいつまでも、どこま でも、やる価値がある」という思いを新たにしています。 (みやはら・こうじろう) ◆1月9日(土)=神戸国際会館9階大会場。10時開会▽特 別講演 作家高村薫▽震災15年の総括 室崎益輝・災 害復興制度研究所長▽復興コンサート オペラ歌手飯田 美奈子▽13時:インタビュー 長島忠美・災害ボランティ ア議員連盟会長、市村浩一郎・同副会長▽パネル討論   魚住由紀・MBSラジオ「ネットワーク1・17」パーソナリ ティー、貝原俊民・ひょうご震災記念21世紀研究機構理事 長、木村拓郎・日本災害復興学会復興支援委員長、外岡秀 俊・朝日新聞編集委員、コーディネーター室崎益輝 ◆10日(日)=関西学院会館光の間14時:被災地交流集会 ◆11日(月)=関西学院大学西宮上ケ原キャンパスB号館 101~104号教室10時:研究報告・分科会 【参加方法】住所・氏名・連絡先・傍聴希望日を明記して 〒662-8501 西宮市上ケ原一番町1-155 関西学院大学 災害復興制度研究所へ郵便かFAX(0798-54-6997)、ま たは研究所ホームページ(http://www.fukkou.net/)から お申し込みください。無料。11日は申込み不要。申し込み 時点で受付終了の場合、ご連絡いたします。参加証は発行 しません。 1月13日から23日までJR住吉駅東のコープこうべ生活 文化センター1階展示室で「阪神・淡路大震災メモリアル展 ⅩⅢ」がある。期間中に「たった一つのあたたかさ」と題した 私の作品も玄関ホールで展示してもらえることになった。 私は神戸市東灘区沖の「六甲アイランドCITY」に、草創 期に入居した。未曽有の大震災にあっても、六甲アイラン ドでの死者はゼロだった。しかし、ライフラインが遮断され、 六甲ライナーのレールと湾岸道路は落ち、六甲大橋は通行 制限されるなど交通面でも被害にあった。私は中学校PTA、 自治会の設立などにかかわっていたこともあって、六甲ア イランド災害対策本部で責任者として対策に当たった。最 初の3日間が戦いだったが、街は混乱もなく落ち着きを取 り戻した。六甲アイランドのディベロッパー・積水ハウスを はじめ、コープこうべ、カネテツデリカフーズなど島内企業 の支援と住民組織の団結があったからに他ならない。 その後、拙筆屋万次郎として拙い言葉をつくり、拙い筆 で書くようになった。震災15年を迎え、あの時に多くの人か らいただいた「あたたかい心」に感謝して、「たった一つ」を テーマに言葉をつくった。今回の展示12作のうち三つを紹 介したい。 「一杯の水の重さに感謝して 運んでくれた苦労を思う」 救援物資を積んだ積水ハウスのトラックがガス爆発の 恐れがある通行不能の国道2号を決死の覚悟で通り、住民 が避難していたカナディアンアカデミーに着くと同時にお にぎりや水のペットボトルなどを配布していただいた。この 時の水のありがたさは今も忘れない。

「たった一つのあたたかさ」

北浦 浩

 

拙筆屋万次郎

(7)

「多文化の国日本」へのアプローチ

『日本文化の多様性―稲作以前を再考する―』

の出版に当たって

佐々木 高明

 

国立民族学博物館名誉教授 日本文化は単一・同質の文化ではない。それは起源を異 にし、特色の異なるいくつもの文化から成る多重な構造を もち、多様な特色をもつものである。そのことを、今回出版 した『日本文化の多様性-稲作以前を再考する-』(小学 館、2200円+税)の中で、私は稲作が伝来する以前から伝 承されてきた非稲作文化の伝統を再考する作業のなかか ら明らかにしようと試みた。 実は、1971年に『稲作以前』を著 し、水田稲作農耕とその文化が伝 来する以前に、日本列島には別種 の農耕が存在したことを指摘して 以来、『縄文文化と日本人』(1986)、 『日本史誕生』(1991)、『日本文化 の基層を探る』(1993)をへて『日本 文化の多重構造』(1997)に至る一 連の著作の中で、私は日本列島には北からの道、南からの 道を経由して、さまざまな文化が伝わってきたことを明ら かにしてきた。著作の中だけでなく、講演会やシンポジウ ムその他の機会を利用して、これらのいくつもの文化が列 島の自然に適応しながら堆積し、相互に融合する過程の中 から日本文化が形成されてきたこと、したがって、日本文化 は単一・同質のものではなく、いくつもの文化が複合した 多重な構造をもつことを強く主張してきた。その事実は、研 究者など一部の人びとには共通の認識としてよく受け入れ られ、すでにある種の合意が形成されたと思われる。 ところが、政治家を含め一般的には、日本文化が、このよ うに多様なルーツをもつ複合的なものだということはよく 理解されていないようである。1980年代に時の首相が「日 本は単一民族の国家だ」と国会で発言して物議を醸したこ とがあるし、その後も同様の誤った発言を繰り返す政治家 が幾人もいる。明治以後につくり出された画一的な近代国 民文化に囲い込まれ、そうした国民文化にもとづくナショナ ル・アイデンティティーに親近感をもつ人たちにとって、日 本文化は一つのものであり、日本の国民は単一の民族だと いう思い込みは、本当に根深いもののようである。 では、このような誤解がなぜ解消されないのか。誤解す る側も悪いが、やはり説明するわれわれの側が十分では なかったことが反省される。その原因の一つは、従来の説 明が歴史的考察に偏り過ぎたためではないかと思われる。 そこで本書では、先史時代以来の歴史的な考察のほかに、 地域的・空間的な視点からの分析を重視し、近世・近代の 日本列島における文化の地域差に注目することにした。そ の結果、伝統的な日本文化の東・西比較論にはじまり、山と 森が生み出だした非稲作文化や南西諸島を経由した南か らの文化、北東アジアの諸民族文化に結びつく北からの文 化などの具体的な特色を描き出すことに努めた。 とくに、そうした多様な日本文化の形成に当たっては、水 田稲作という単一の生業に収斂し、比較的同質な文化を 生み出す稲作文化と生業と生活様式の多様性を示す非稲 作文化との対比が重要で、そこでは畑作文化の果たした役 割の大きいことに注目した。さらに日本列島の北の文化を 代表するアイヌ文化のもつ意義の小さくないことを改めて 強調するとともに、現代のアイヌの人たちの直面する先住 民権などをめぐる民族問題の解決にも広い国民的な理解 の必要なことを指摘した。 このような分析を通じ、日本文化は異なった歴史的系譜 と特色を有するいくつもの文化により構成された一種の 複合体であり、そうした多様な文化を基礎に成立した日本 国は、まさに「多文化の国」という特質を有することが明ら かになった。この「日本は多文化国家である」という認識は、 現代に生きる我われ日本人にとってきわめて重要な自己 認識である。いわゆるグローバリゼーションが急激に進行 する現代は、国家の枠組みを越して政治や経済や文化な ど、さまざまな流れが文字通りボーダレスに私たちに直接 及ぶ時代である。ということは、我われ自身が日本をとり巻 く多様な世界と直接関係し合うようになり、さまざまな異文 化と接触し交流し合う時代になったということである。 このときに当たって、「多文化国家日本」というナショナ ル・アイデンティティーを確認し、それを我われが共有する ことは、日本の国家や国民が、多様な異文化の世界とわだ かまりなく交流し合い、それによって日本文化をより豊か にすることが期待できるのである。いずれにしても、日本文 化の有する多様性とそれを受け入れて展開してきた日本 人の豊かな感性の中に、日本文化の新たな可能性が見出 せるものと、私は考えている。本書がそのための一助ともな れば幸いである。 (ささき・こうめい) 「一葉にがんばってねとひらがなの言葉をみつけた救援 の箱」 六甲アイランド災害対策本部には、日を追って全国から救 援物資が届いた。その中の一つを開けてみると下着やら靴下 などが詰め込まれてあり、「がんばってね」と書かれたひらが なの手紙が一葉入っていた。その時は思わず涙がこぼれた。 「一枚の干物を焼いて食べた時 塩の香りは涙の味か」 昨年亡くなった父親が厳寒の中、大阪から原付きバイク で駆けつけてくれた。私はその時ようやく眠りについた頃 だった。父は「起こさなくてもいい」と言って、食料品などを 置いていってくれた。その中の干物を食べた時、その塩味 に親の心のあたたかさを感じた。 言葉も書も稚拙だが、皆さんの心に伝わることができた らと願っている。 (きたうら・ひろし)

(8)

農業への回帰は期待できるか

中田 博

 

京都産業大学大学院院長 時々、足元でパリパリと薄氷の割れる音がします。歩を後 に引きながらイ草の小さな苗株を水田に植えていきます。 12月ともなれば、瀬戸内の温暖な気候といえども、気温は かなり下がります。ほとんど晴天の日であるせいか、放射冷 却のため、朝の温度が零下になることは珍しくありません。 安定した天候となる梅雨明けを待って、小学生である私の 首ぐらいまで伸びたイ草を刈り取ります。束ねたものを田 んぼの中に掘った堀の中で泥水のように見える染色液の 中につけます。水分をいっぱいに含み、いやが上にも重く なったイ草を田んぼや道端で広げ乾かします。雨にぬれる と商品価値がなくなることから、夕立のときは、ダッシュの 連続です。およそ50年前の記憶ながら、いまだに麻痺する ような冷たさの中の田植えと猛暑での刈り入れが残像にあ ります。稲作による収入はほとんどないに等しい農家の貴 重な現金収入になることから、過酷な労働にも拘らずこの 地方では多く見られた光景でした。 一方、当時、この地方で新産業都市に指定された水島臨 海工業地帯は、全国の優等生として、目覚しい発展をとげ、 多くの農民と土地を吸収していきました。今では、かつて、 全国一であったイ草の栽培を、ほとんど見ることはなくなり ました。すべての若者が、農業以外の職業で生計をたてよ うと思っても何の不思議もなく、現実に故郷の村は、超高 齢社会の限界村になってしまいました。村を捨てたかつて の若者の1人として、最も自責の念にかられることは、水田 はかろうじて残っているものの、畑はすべて荒地となり里 山に通じる道も原野と化してしまったことです。 日本の高度経済成長は、一次産業従事者の他産業への 転出に支えられていたといっても過言ではないかもしれま せん。そもそも、高度成長という視点には、農業はものの数 に入ってなく、バランスのとれた産業構成という視点は完 全に無視されていたのでしょう。また、現在でもその意識構 造は残っており、最近、時給の最低賃金が話題になってい ましたが、農業従事者の最低賃金が同じ労働者として同じ レベルで話題になることはありません。食料には困らない だろうという最低ラインのセイフティーがあると思ってい るのでしょう。皮肉にも社会全体のそれには、考えが及ば ないのでしょうか。 日本の食料自給率が示す数値は、国の形態として破綻 をきたしていると言っても過言ではないでしょう。大手銀行 や大企業の破綻は、自覚症状の大きさから、すぐに公的資 金が使われます。更なる食料自給率の低下は、10年、20年 と年月を経て、癌が密かに体をむしばんでいくように、痛 みを覚えた時には致命的であります。社会的破綻という意 味では、はるかに企業のそれよりも影響は大きいはずです。 農業にはなぜ有効な公的手段がとられないのでしょうか。 大規模農業化や戸別補償という施策がいわれていますが、 一面的な見方であり、食料自給率の上昇や環境保護を含 めた農地の保全と確保という目的に見合う規模と持続性 を持つ方策とは言えません。大規模農業の育成は、平野部 では可能ですが、山間部や棚田では難しいでしょう。環境 保全では、むしろ後者の方が重要であり、棚田や山間部の 農地の確保には、よりきめの細かい施策が必要です。戸別 の補償という小手先の施策は、非建設的で展望のないも のです。 「あすの農業を考える座談会」(朝日新聞10月4日)の意 見でも、それぞれの専門分野での問題点の認識は正しい と思われますが、そのゴールに至るまでの道筋は何ら示さ れていないし、この種のオピニオンリーダーの間で真に現 場の実情が理解されているようには思えません。ゴールは 何かと言えば、農業労働者が安定して生活をするだけの 収入を得ることに尽きるということであります。このように 結論すると、農業収入の視点のみから論じられ、農業従事 者の自立できるラインでカットされる政策がとられること が予想されますが、それは取りも直さず多くの山間部の田 畑や棚田などがカットされ、原野と化すことを意味します。 従来、農作業自体が棚田や山間部の田畑あるいはその周 辺地帯を守り、環境保全そのものでした。スイスでは山か ら風化した小石や岩石が山麓の牧草地に落ちてきますが、 その除去は牧草地の確保という目的の他に、スイスの美し い景観をまもるために公的な義務となっていると聞きます。 最近、農産物の直売方式が話題となっていますが、これ は販売までにかかるコストを出来るだけ生産者に上乗せ するというものでありましょうが、これを組織的に行なうに は、例えば、大手スーパーなどに委ねる方法はないのであ りましょうか。その場合、農業従事者も社員となり、生産高 に対する歩合制も含まれるが、他産業従事者に比して、見 劣りしない賃金が保証されるようにすればよいのではない でしょうか。もちろん、農産物の逆ざや、農業生産の不安定 性に対する補償と環境保全に対するコストは、企業に対し 公的に補償されなければなりません。個々の作物の保証よ りは簡便であり、かつその安定性から農業への志向をより 高めると思われます。様々な問題を含みますが、少なくとも 一定の収入を保証するというゴールに至るアプローチを 明示できなければ、いずれも机上の空論となるでしょう。一 次産業従事者から他産業に転出し、日本の高度成長を支 え、そしてその使命を終えつつある多くの人々が、現状で は、残念ながら、都会で育った2、3世に農業への回帰を説 得する材料はほとんどありません。また、地方に残った親、 兄弟もその使命を終えようとしていますが、後を継ぐ人が いないのです。 (なかだ・ひろし)

(9)

天神橋筋商店連合会が、

メセナアワード大賞「千客万来賞」を受賞

天神橋筋商店連合会会長の土居年樹さんから (社)企業メセナ協議会(福地茂雄理事長)が選んだ2009 年度メセナアワード大賞の中で私ども、天神橋筋商店連合 会が「千客万来賞」を受賞いたしました。 メセナ賞とは企業メセナ協議会が企業によるメセナ(芸 術文化支援)活動の推進を目的として1990年2月に発足 した顕彰事業の1つです。 この事業のメセナアワードは全国の企業・企業財団等が 行ったメセナ活動を自薦・他薦で募り特に優れた活動をメ セナ大賞・文化庁長官大賞として表彰するものであります。 私共、天神橋筋商店連合会は百数十件の応募の中「千客 万来賞」を受賞することができました。 去る11月27日(金)。東京都港区のスパイラルホールに おいて贈呈式が行われ、トロフィー・表彰状等を授与され ました。その際、私は次のようなスピーチをいたしました。 1)商店街が文化貢献で認められたのは異例のことである。 2)今、日本列島が「文明に駆逐され文化が崩壊している」 時代。 3)街(商店街)が衰退し中心市街地が崩壊することは安全・ 安心が壊れていることだ。そして日本の歴史の崩壊である。 4)私は街あきんどの使命とする「街に惚れ・店に惚れ・人 に惚れる」を信念として35年間天神橋筋の活性化に努め てきた。 5)その間、「商店街の馬鹿者」と言われながら天満の街が 持っている文化再生が天神橋筋の活性化に繋がるとの思 いで数々のアイデアを生み出しその実践に努めてきた。 6)その集大成が70年ぶりに復活した上方落語の定席「天 満天神繁昌亭」の完成である。 7)この実績は大阪の観光に寄与し商店街の復活が目ざま しく落語の復権にも役立った。3年目を迎え未だ入場数が 落ちず「オチのない落語」も珍しい。 8)これからも民主導型の街を発展させていきたい。 これを機に、引き続き全国の商店街の復権を目指して アイデアを駆使し社会貢献に寄与したいと考えております。 今後ともよろしくお願い申し上げます。

母校のふれあいゼミナールで、愛車 i Q

のデザイン戦略のお話を聞きました

河内木綿研究家の酒野晶子さんから 11月14日、母校の大阪市立工芸高等学校「ふれあいゼ ミナール」が開かれました。2008年のグッドデザイン大賞 を受賞したトヨタのマイクロプレミアムカーiQ。そのデザイ ン開発に携わった同校及びデザイン研究所出身のデザイ ナー、デザインモデラー3氏と、特別ゲストのiQ開発責任者 の方を迎え、モノづくりの心と技の核心にふれようという催 しでした。参加者は在校生・学校関係者・PTA・卒業生そし て受験予定らしい中学生と保護者の方の姿もありました。 基調講演はiQ開発総責任者の中嶋裕樹氏、デザイン トークセッションには、卒業生のエクステリア担当熊井弥 彦氏、カラーデザイン担当の田中彰氏、立体造形担当の原 田宏宣氏が参加され、映像を使いながらの興味深いお話 でした。その後講師のみなさんと在校生・PTAによるふれ あいトークと盛りだくさんでした。 実は、この車は今春より私の愛車となり、93才の老母の 病院送迎などに活躍しています。初めて見て気に入り私の 家に来たもので、母もお気に入りです。小さくて個性的なデ ザインなので、かなり目立ちます。安全祈願のときも通りか かった人たちがのぞき込み、病院の駐車場でも老夫婦が のぞき込まれていました。 新車が世に出るまでには多くの方々が関わられていま すが、その中に3人もの卒業生の方々が含まれていたこと も驚きでした。そして、自分が気に入っているモノが世に出 るまでのさまざまな苦労や試みなどをお伺いできることは、 ほんとうに稀なことです。開発途中のデザイン画や関係資 料なども拝見でき、ほんとうに貴重な時間でした。縁があっ てわが家に来たiQをたいせつに乗り続けようと改めて感じ ました。

紅葉の神峰山寺に遊ぶ

水彩画家でエッセイストの熱田親憙さんから 私が絵画グループ「写生の会」を主管して13 年になる。屋外の風景をスケッチするのを主眼に置いてい るだけに、写生地を探すのは結構苦労するものである。今 回は紅・黄葉する自然の息吹を描きたくて、大阪府高槻市 郊外の「神か峰ぶ山さ ん じ寺」に遊んだ。 8世紀に天皇の皇子が当寺の住職となって、比叡山と並 んで仏教聖地として栄えたようだ。奥の院の方から修験者 の行者が、今にも出て来そうな深山の雰囲気をもっている。 雨上がりの澄んだ空気に包まれた常緑樹の緑に交じっ て映える紅・黄葉は美しい。反射光よりステンドグラスの ように透過光の色彩の方がいい。これは自然が作った天 然 ア ー ト で あ ると 思 うと、急に絵筆が 動かなくなってし まった。でも桜の 木が真っ赤に色づ いた葉を落として いくのを見ると、絵 筆はスケッチ画の 仕 上 げ に 入って いった。 紅葉の神峰山寺境内

(10)

「デジタル環境下における文学と図

書館」テーマに、1月にセミナー開催

夙川学院短期大学・准教授の湯浅俊彦さんから 日本ペンクラブ・追手門学院共催セミナー「デジタル環 境下における文学と図書館」が2010年1月24日(日)に開 催されることになりました。 グーグルによる書籍全文検索サービス「ブック検索」著 作権訴訟和解案について当初は米国でのことだと誰もが 考えていたのですが、この和解案が米国外で出版された書 籍にも適用されることが明らかになったために、日本の著 作権者や出版社にとってはまさに「黒船来航」のような事件 となりました。一方、国立国会図書館では所蔵資料をデジ タル化するとともに、電子出版物を納本制度に組み入れる 新しい枠組み作りを検討しています。 本セミナーではこのようなデジタル化とネットワーク化 を特徴とする大きな時代の変化の中で、文学と図書館の 関係について改めて整理し、文学作品の自由な流通と長 期的保存をめざす今後の道筋について文学者、図書館関 係者、学校関係者はもとより、メディアに関心のある方や本 が好きな多くの人々に呼びかけ、共に討論したいと考えて います。 要項は次の通りです。多くの方々のご参加をお待ちして います。 第1部 講演 「文学にとって図書館とはなにか」(吉岡忍氏・ 作家、日本ペンクラブ理事) 「国立国会図書館資料のデジタル化はなにを変 えるか―図書館・文学・書物」(中井万知子氏・国立国会図 書館関西館長) 第2部 討論 「デジタル環境下における文学と図書館」 パネリスト:吉岡忍氏、中井万知子氏、 篠原健氏(追手門学院大学・経営学研究科長、総合情報教 育センター長)、中西秀彦氏(中西印刷専務取締役、日本ペ ンクラブ言論表現委員会委員、大谷大学非常勤講師) 司会:湯浅俊彦(夙川学院短期大学、日本ペンクラブ言論 表現委員会副委員長) 主催:社団法人日本ペンクラブ・学校法人追手門学院 日時:2010年1月24日(日)13:30開場 14:00開演 17:00終了 会場:大阪市中央区大手前1-3-20 追手門学院大阪城 スクエア(定員400人) 参加費:500円(当日受付で徴収します) 申し込み方法:FAX、またはホームページから。 問い合わせ先:学校法人追手門学院大手前センター 〒540-0008大阪市中央区大手前1-3-20 TEL 06-6942-2788 FAX 06-6942-2744   http://www.otemon-osakajo.jp/outline/index.html

地域づくりフォーラム

~あなたと見つけたい 地域のチカラ~

淡お う み海ネットワークセンター(淡海文化振興財団) 常務理事・事務局長の浅野令子さんから 「地域づくり」を映像、地域サロン、地域ブランドを切り口 に、それぞれの地域にあるチカラや資源を見つけ、輝かせ、 まちをもりあげ、人々をつなぐヒントをともに考えるフォー ラムを開催します。会場では、地域づくりにつながる市民 活動に取り組む団体・NPO、ボランティアグループなどの パネル展示もあります。交流が広がる機会にしていただけ ます。みなさまのご参加をお待ちしております。 【日時】2010年1月31日(日)11:00~17:00 【場所】大津市におの浜1丁目の県民交流センター(ピアザ 淡海)大会議室・3階 【定員】150人 【参加費】500円 【地域づくりフォーラムスケジュール】 11:00~ 開会・あいさつ 11:15~ 基調講演「地域にあるチカラを見つける」(仮) 宮崎文化本舗 石田達也さん 12:00~ 昼休み 13:00~ 分科会 「地域と人をむすぶ 映像のチカラ」 「地域と人をむすぶ 地域サロンのチカラ」 「地域と人をむすぶ 地域ブランドのチカラ」 「地域と人をむすぶ NPOのチカラ」 15:00~ 各分科会報告 15:30~ パネル展交流会 ★プレイベント★ 「地域と人をむすぶ 映像のチカラ」での紹介作品を上 映します。ぜひご覧ください。 日程:2010年1月30日(土) 「ほんがら」 10:00~11:40 「ブラジルから来たおじいちゃん」 13:30~14:30 鑑賞料:500円(2本割引 700円) 【ほんがら】 各地で祭りなど伝統行事の存続が危ぶまれるなか、積極 的に地域とかかわり、映像とカメラのちからを借りて、老人 たちの地域に対する「誇り」を若い世代に伝え、地域住民が 自ら伝統継承・地域再生の道を拓いていくための後押しと して機能するドキュメンタリー映画づくりを試みた作品です。 【ブラジルから来たおじいちゃん】 日本人移民とデカセギのブラジル人。国境を越えて生き る人々の真実に迫るドキュメンタリー。戦前、不況まっただ 中の日本から単身ブラジルに渡って73年。10回も職業を 変え、諦めずに努力したおじいちゃん。毎年日本にやってき てデカセギに来ているブラジル人を訪ね歩く。おじいちゃ んの人生からあふれる希望と勇気の映画です。 ●お申し込み方法:ご参加者氏名、連絡先を淡海ネット ワークセンターまでご連絡ください。詳細はホームページ をご覧ください。 淡海ネットワークセンター((財)淡海文化振興財団) 〒520-0801大津市におの浜1-1-20ピアザ淡海2F TEL:077-524-8440 FAX:077-524-8442 E-mail:office@ohmi-net.com URL:http://www.ohmi-net.com/

(11)

朝日21関西スクエアの2009年度第4回懇談会を11月 16日、大阪府東大阪市で開きました。企画運営委員の大西 正ま さ と も曹・関西大教授の案内で、独自の製品を生み出す東大 阪の中小企業2社を見学しました=写真。 自動車部品メー カ ー「 フ セ ラシ 」 ( 嶋 田 守 社 長 )で は、ハイブリッド車 の電池部品などの 製造ラインを見学。 田中良太郎常務は 自動車メーカーが海外生産を加速させていることを課題 に挙げ、「電気自動車向け部品など、これから伸びるところ でカバーしたい」と話しました。 くさびの原理を使う緩み止めナットで知られる「ハード ロック工業」では、若林克彦社長がさまざまなアイデア商 品の開発過程を明かし、「思いついたらすぐにスケッチし て、いいものはその日のうちに試作する。スピードこそ命」 と語りました。 見学後は、表面処理加工の「ユニックス」の苗村昭夫社 長、環境にやさしい洗剤をつくる「アドバンス」の安川昭雄 会長、東大阪市モノづくり支援室の古井幸久さんらも交え て、産学や地域間の連携の大切さなどを論議。大西教授は 「どんなモノができるのか」ではなく、今後は「どんなコト ができるのか」が勝負だとして「新しい市場に出ていくには 『こんなことができる』という付加価値の高いモノづくりに 転換しなくてはならない」と述べました。(詳しくは11月17 日の朝刊に掲載しました)

東大阪の中小企業を見学/

大西・関大教授の案内でスクエア懇談会

アカデミー賞に輝いた映画「おくりびと」誕生のきっかけ となった『納棺夫日記』の著者、青木新門氏を基調講演者 に招いての朝日・大学パートナーズシンポジウム「愛する 人の送り方・送られ方」(関西学院大学、朝日新聞社共催) が11月15日、兵庫県西宮市の関西学院大で開かれ、約 650人が熱心に耳を傾けました。 青木さんは「いのちのバトンタッチ」と題して講演。「おく りびと」の発案者で主演をつとめた本木雅弘さんとの長年 の交流の裏話や、「納棺夫」として生きる決意を固めるまで の波乱に満ちた人生をユーモアを交えて話しました。(納 棺夫であることが)「親族の恥」と罵倒され、憎みに憎んで いたおじから、亡くなる直前、涙と共に「ありがとう」と手を 握られ、その時「済みません」と大泣きに謝った自らの過去 を述べ、死の瞬間に立ち会うことの大切さを指摘。死を忌 避し、死との直面を避ける現代社会のありように疑問を投 げかけました。 続いてパネル討論=写真=があり、在宅医として緩和ケ アに取り組む山崎章郎さん▽夫をホスピスで見送った体験 を持つ、聖心女子大 准教授の河辺貴子 さん▽浄土宗僧侶 で、大学講師として 医学生の死生観教 育に携わる戸松義 晴さん▽自ら難病の ため死に直面した経 験のある関西学院大准教授の藤井美和さんが出席。死と向 かい合う人にどう寄り添っていくか、また別れのあとの悲し みをどう受け止めていけばいいのか―などについて、パネ リストそれぞれの体験を振り返りつつ、意見を交わしました。 河辺さんが、がんで亡くした夫の最期の日々を語り、好き だったというさだまさしさんの曲「奇跡」が流れると、涙をぬ ぐう姿が会場のあちこちに見られました。 コーディネーターは朝日新聞文化グループの磯村健太 郎記者が務めました。(詳しくは11月22日朝刊に掲載しま した)

愛する人の送り方・送られ方/

青木新門さん招き関学大とのシンポに約650人

活 動 報 告

新著『虎の目にも涙』

(技報堂出版)

を刊行しました

上方文化評論家の福井栄一さんから 平成22年の干支「寅」にちなみ、 古今東西の著名人44人と虎が織り 成す珍談・奇譚を集め、『虎の目に も涙』(技報堂出版、1600円+税) として刊行致しました。登場する のは、フーテンの寅さん、加藤清正、 神農さん、タイガーマスク、左甚五 郎、円山応挙、由比正雪、怪盗ルパ ンなど、多士済済です。ここで、皆さ んの「虎」知識をチェック! 1.禅僧・一休は、小僧時代から才気煥発。天下 の将軍・足利義満を頓知でやりこめることもしば しばでした。一度でいいから、一休をぎゃふんと 言わせたい義満は、ある日、一休を屋敷へ呼び出し、屏風の 絵の中の虎を指さすと、「この虎を捕らえてみよ」と迫りまし た。さて、この時、一休は、どうしたでしょうか? 2.世界中で、子どもから大人まで幅広いファンに愛読さ れている、モーリス・ルブランの小説「怪盗ルパン」シリー ズ。いつも官憲に追われる側のルパンですが、『虎の牙』と いう作品の中では、自身にかけられた連続殺人の嫌疑を晴 らすために、真犯人を追いかける側に。さて、この『虎の牙』 というタイトルの由来は? 答えは、いずれも拙著の中に!ぜひご購読下さい!

(12)

事 務 局 か ら 「朝日新聞のビルが大きくなるで! 中之島から未来へ、 朝日新聞」。小学生漫才「まえだまえだ」のテレビCMをご存 知ですか? いま、朝日新聞社が大阪市北区で進めている 再開発「中之島プロジェクト」のCMです。ぴんと来なくても 「フェスティバルホールの建て替え」というと、大阪の方は みんな「ああ、あれね」とうなずいてくださる。なにせ、ホー ル来場者は50年間で約4000万人という知名度大阪一の ホールでしたから。新しくできるビルの名前も「中之島フェ スティバルタワー」に決めました。 ホールのあった新朝日ビルは1958年の竣工時、大阪の 立派なランドマークでした。高さ45メートルは大阪一。アン テナ棟のてっぺんまでは103メートル。これは1956年に完 成した通天閣の避雷針を含めた高さと同じですから、「大 阪で一番高い」を意識したんでしょう。朝日新聞大阪本社 の隣接地に、放送局(朝日放送スタジオ)、コンサートホール (フェスティバルホールなど)、オフィスビル、ホテル(大阪 グランドホテル)まで、最先端の都市機能を集中させ、屋上 でヘリコプターが離着陸した。戦後わずか13年で出現した 未来都市に、浪速っ子もびっくりしたに違いありません。 2012年秋竣工予定の新ビルも話題満載です。高さは 200mで、航空法の制限で大阪一にはなりませんが、中之 島一。地中86メートルまで杭を打ち込み、ゴムの免震層を 備えることで、日本屈指の耐震性を備えました。ここまでの 耐震性がある超高層ビルは、日本では東京に2本だけ。大 阪一です。南北を川にはさまれた地形 を生かし、河川水を利用する空調シ ステムを導入して、同様のビルに比べ CO2を4割も削減します。国交省の「省 CO2推進モデル事業」にも選ばれました。高層と低層をつな ぐスカイロビーは木々と草花で緑化します。広い廊下やトイ レなど充実した身障者対応設計で、大阪では初めてバリア フリー法の適用を受けます。ビル内には託児所も設けます。 でも注目はやはりフェスティバルホールでしょう。ホール のお別れに当たって、世界の音楽家たちから多くの言葉が 寄せられました。「環境的にも音楽的品質にしても、最も印 象深い、最高のホール」(モーリス・アンドレ=トランペット 奏者)「クリアでやわらかな音が隅々までよく響き、しっくり 馴染む」(辻久子=バイオリニスト)「お客様との距離が近 くとても親密な雰囲気」(ペーター・シュライヤー=宮廷歌 手・指揮者)。折に触れ「神様が造ったホール」と絶賛してく ださった歌手のさだまさしさんも「聴衆からの拍手が夕立 のように降り注ぐ」と表現してくださいました。(朝日新聞社 など発行、『永遠の響き~フェスティバルホールの半世紀 ~』より抜粋) 高い評価はありがたいのですが、ホール建設に当たる人 間にはその分プレッシャーです。杮落としは2013年。日本 を代表する音響技術者たちと苦心を重ねつつ、「神様」の 降臨を祈る日々が続きます。 (いとう・ひろあき) ▽あけましておめでとうございます。1年前、この 欄に「変化」「変革」のことばが飛び交っています と書きました。2009年は政権交代があり、事業 仕分けも話題を集めました。新型インフルエンザの猛威と いう、ありがたくない出来事も経験しました。新しい年はど んな変化が起きるでしょうか。関西スクエアはキトラ古墳な ど関西が誇る歴史文化遺産や、核兵器のない世界への取 り組みに注目し、クローズアップしていきます。もちろん、旬 の話題も紙面で追いかけます。景気のいい話ばかりとはい かないのが実情ですが、冬季五輪やサッカーのW杯など 楽しみなイベントも待ち受けています。引き続き、会員の みなさまのご指導、ご協力をお願いいたします。 (小西) ▽先日コンビニに入ると、お弁当についていた「289円」の 値札が目にとまりました。お米はコシヒカリ、塩鮭も唐揚げ もなかなか立派なものでした。「セーター1000円」「ジーン ズ600円」……。ほかにも信じられないような安い価格で 売られる衣料品も目立つようになりました。何度かクリーニ ングに出すより、これでは買い替えた方が安上がりでしょう。 懐事情の寒い昨今、物の値段が下がるのはとても有り難い 話ですが、売る方にとってほとんど儲けにならない商品も 増えているのではないでしょうか。謹賀新年。あまり無理せ ず、多くの人が再び豊かさを実感できる年になってほしい ですね。本年もよろしくお願いいたします。 (堀篭) ▽関西スクエア事務局でお世話になって丸一年が経ちま した。昨年はシンポジウムを通じてたくさんの人々と出会う ことができ、また、様々な経験をさせて頂き、とても充実し た一年を送ることができました。今年も更なるステップアッ プを目指していきたいと思います。さて、今年は冬季オリン ピックやサッカーW杯といった大きな大会が相次いで開催 され、スポーツ観戦が大好きな私(とくにサッカー)にとっ てはこの上なく楽しみな一年です。W杯といえば2006年の ドイツ大会後に渡英した際、W杯に懸ける各国の友人たち の熱い想いに驚いたことが懐かしく思い出されます。当時 の日本代表には大変がっかりさせられましたが、懲りずに 応援しようと思います。今大会ではもう少し活躍してくれた らいいなあ・・・なんて淡い期待を抱いています。 (園)

神様が造ったホール、ふたたび

伊藤 裕章 

(大阪中之島新ビル建設室長) 朝日21関西スクエア 会報 No.120 ●スタッフ 小西良昭、冨永芳孝、堀篭俊材、深松真司、相江智也、 上島誠司、浅野稔、中林真由美、園真規子 ●事務局 〒530-8211 大阪市北区中之島3-2-4 朝日新聞大阪本社内 TEL 06-6231-0131(内線5048) FAX 06-6443-4431 E-mail square.k@asahi.com(PDF会報の希望はこちらへ) URL http://www.asahi.com/kansaisq/

参照

関連したドキュメント

ことで商店の経営は何とか維持されていた。つ まり、飯塚地区の中心商店街に本格的な冬の時 代が訪れるのは、石炭六法が失効し、大店法が

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

専門は社会地理学。都市の多様性に関心 があり、阪神間をフィールドに、海外や国内の

父親が入会されることも多くなっています。月に 1 回の頻度で、交流会を SEED テラスに

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

夜真っ暗な中、電気をつけて夜遅くまで かけて片付けた。その時思ったのが、全 体的にボランティアの数がこの震災の規

東日本大震災において被災された会員の皆様に対しては、昨年に引き続き、当会の独自の支

私たちは、2014 年 9 月の総会で選出された役員として、この 1 年間精一杯務めてまいり