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「あの時代」に想いをはせて-証言者達からのメッセージ-:5.石田先生から受け継いだもの

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Academic year: 2021

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(1)小. 特. 集. • • 「. あ. の. 時. 代. 」. に. 想. い. を. は. せ. て. • •. 石田先生から受け継いだもの. 5. 慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科. 砂原 秀樹 慶應義塾大学環境情報学部. 村井 純  石田先生が亡くなられて 3 カ月近く経つわけだが,い. のことを思い出したので,ちょっとさかのぼってその時. まだに先生がふと後ろから現れて「何をしているの?」. のことを記してみたいと思う.当然,石田先生がその主. 「これ,面白いね」と声をかけてくださるような気がして. 役であったことは言うまでもない.. 仕方がない.先生が逝かれてしまったことは,それぐら.  日本に UNIX が初めて入ってきたのは,1976 年に石. い僕 (砂原)にとって,まだ実感のない 「現実」 である.. 田先生がベル研究所からお戻りになられたときのことだ.  僕が最初に石田先生のお名前を認識するようになった. ったそうである.先生は 1975 年に研究員としてベル研. のは,まだ先生が僕にとって雲の上の存在だった時代. 究所に行かれ,そこで UNIX に触れられ,そのすばら. である.小学校の高学年のときにコンピュータに出会. しさに惚れ込まれたとお聞きしている.そして,それを. い,いろいろとのめり込んでいった自分にとって,石. 日本に帰っても使いたいと思われ,帰国の際に UNIX. ☆1. 田先生は「マイコン」. ☆2. や 「パソコン」 の大先生であっ. の入ったテープを持ち帰られたということである.しか. た.高校時代,あるいは大学学部時代に書籍や雑誌の記. し,当時東大ではそのテープを読むことができず,筑. 事を見ては,当時の僕にとっては手に触れることすらほ. 波大学の板野先生のところへ行き,そこで PDP-11 の. とんど叶わないパソコンに囲まれている石田先生を想像. ディスクにインストールしたものが日本で最初に動い. し,あこがれていたのである.それら石田先生の記事の. た UNIX だったそうである.実は,この東大でテープ. 中で UNIX の存在を知り,パソコンじゃなくてこれか. を読むことができず筑波大学でインストールをしたこと. らは UNIX なんだと思い,大学 3 年のときに石田先生. が,その後の日本の UNIX コミュニティを形成する上. が翻訳された K&R の 「プログラミング言語 C」 を買った. で重要だったということは,今回の村井から聞き出した. のを記憶している.実は今だから言えるが,大学 3 年. 重要な話題の 1 つである.と同時に,石田先生の人柄. のときには C 言語を使う環境も手元にはなく,あまり. をあらわした一件であったとも考えている.石田先生は,. ちゃんと理解できなかったというのが本当のところであ. 東大だけで UNIX を使うことはせず,筑波大学の板野. る.それからしばらくして,学内の複数の PDP-11(正. 先生の周辺,そしてちょうどその頃筑波大学から慶應義. 確には LSI-11/23)に 7th Edition の UNIX がインスト. 塾大学に移られる斎藤信男先生とその関係で声をかけら. ールされ,実験等で触れたのが最初の UNIX 体験であ. れた村井らをまきこみ,UNIX のソースコードを読む. った.4 年になって相磯・所研究室に配属され,その春. 勉強会を開催されたのだそうである.これにより,広く. の研究室研修ではじめてそこで本格的に UNIX と C を. UNIX のすばらしさが伝わるとともに,日本に UNIX. 学んだのである.このとき指導してくれたのが当時博士. コミュニティの核をお作りになられたのである.実は当. 課程の学生であった村井であり,村井とのつきあいはそ. 時の UNIX は 6th Edition であり,まだライセンス等の. れ以来になる.. 権利も明確でなく,今のオープンソースのような扱いで.  先日,村井が日本に UNIX が初めて入ってきた瞬間. あった.そのために,こうして広く知恵を共有すること ができたわけである.その後,7th Edition となりベル. ☆1. マイクロプロセッサ略してマイコンが当時の小型コンピュータの呼 び方であった.1976 年に登場した TK-80 はその代表格. ☆2 パーソナルコンピュータという言葉が使われるようになるのは, 1979 年に登場した PC-8001 であったと記憶している.これを略し て「パソコン」と呼ぶようにしたのは石田先生ではないかと記憶して おり,今回いろいろと確認してみたのだが,確証は得られなかった.. 研究所のライセンスが必要となったことから,ソースコ ードを誰もが簡単に見ることができなくなったが,教育 機関へは非常に安い価格でライセンスが提供されたため, 東京大学,慶應義塾大学,東京工業大学,筑波大学等 情報処理 Vol.50 No.7 July 2009. 657.

(2) 小. 特. 集. • • 「. あ. の. 時. 代. 」. に. 想. い. を. は. せ. て. • •. でライセンスが取得され,UNIX が広がっていったの. 石田先生がいらっしゃらなかったら JUNET が大きく. である.実は,UNIX のライセンスを取得した日付は. なることもなかったし,ひいては今の日本のインターネ. ☆3. ,僕は UNIX の第 1. ットコミュニティはできあがっていなかったかもしれな. 号は慶應なんだと思っていたのだが,今回の件で,やっ. いと後から知り,先生の温かさを感じたものである.僕. ぱり石田先生が第 1 号だったのだと認識を新たにした. ら若造は自分の力でなんでも自由にやっていると思って. のであった.. いたのだが,実は石田先生に守られて遊んでいたとい.  その後,先生は東京大学大型計算機センターの副シ. うことになる.ちなみに,JUNET という名前も石田先. ステムとして VAX-11/780 を 1980 年に導入し,BSD. 生が名付けの親である.先生は,大学間ネットワークで. UNIX を大型計算機センターでも使えるようにされた. これも,UNIX の魅力を多くの人々に伝える先生の活. 使おうと「JUNET(Japan University Network)」という 名前を暖めておられたそうなのであるが,大型計算機セ. 動の一環だったのだと思う.このようなことから,先生. ンター同士を結ぶネットワークでは,電子メールを使う. 慶應義塾大学が一番早かったため. は DEC のユーザ会である DECUS の UNIX 部会の部. ことができず電子メールが使えるようなネットワークが. 会長となられ,ユーザコミュニティを広げていく.しか. 登場するまでしまっておこうと思われたのだそうである.. し,やがて UNIX が動く環境が DEC のコンピュータ. ネットワークは人と人のつながりであり,その人同士が. だけでなくなってきたため 1983 年に独立し日本 UNIX. コミュニケーションを支える電子メールはネットワーク. ユーザ会(jus)の設立に至った.その際も,先生のご尽. の重要な基本機能だと石田先生は考えておられた.した. 力と人脈が重要であったことは言うまでもない.. がって,それができなければ先生の理想のネットワーク.  このように,日本での UNIX の普及とコミュニティ. でなかったわけである.そういう意味で,先生の思いの. の形成には,石田先生の人柄と優しさが不可欠であった. こもった名前をいただいた JUNET は,先生の思いを. ことがご理解いただけると思う.そして,ここで作られ. 育てながら現在のインターネットへと成長していくこと. たコミュニティがやがて日本でのインターネットに関す. になる.. る活動を盛り上げていくことになる..  思えば僕は,今ちょうど「じゃあ村井君,東大をつな.  1984 年 8 月にそれまで慶應で僕と一緒に仕事してい. ごう」とおっしゃられたときの先生の年齢になったこと. た村井が東京工業大学に就職する.このときに,ファイ. に最近気づいた.これは先生がずっとなさってきた, 「面. ルをやりとりしたり,さまざまな連絡をしたりするため. 白い」ことを探求する努力を続けるとともに,次の世代. に慶應と東工大の VAX 同士を接続してしまおうという. が 「面白い」 ことをやっているときにそのガーディアンに. ことをやってしまったのが 9 月であった.面白かった. ならなければいけない年齢に到達したことを意味してい. ので,村井も僕もあちこちでこの話をして自慢したりし. る.先生のように,優しくそしてかっこよくそれができ. ていたわけであるが,やがてある日村井が 「石田先生が,. るとは思っていないが,微力ながらそうしたことができ. 『2 つがつながっただけではネットワークとは言わない. ればと考えている.. のだよ.3 つ以上にならないとだめだよ』っていうから.  先生が遺されたものは,大切であると同時に重いもの. 東大をつなぐことにした」と言うので,東大の VAX も. であるが,これを受け継ぎ次へ伝えていく仕事は,先生. 接続してしまう.1984 年 10 月のことであった.これ. に守られてここまで進んできた我々に課された宿題であ. が JUNET のはじまりである.僕は長い間「石田先生は. ると考えている.この,先生にいただいた宿題をきっち. 自分も参加したいのだけど,つないでよとは言いにくい. りこなす誓いを先生への感謝とし,先生のご冥福を心か. ものだから,そんな風に言ったんだ」と勝手に思ってい. らお祈りするものである.. たのだが,実はこの裏には深い意味があったことをずい. (平成 21 年 5 月 28 日受付). ぶん後になって知った.実は,この時期村井は JUNET にいろんな組織を参加させようと奔走していたのであ. 砂原 秀樹(正会員) [email protected]. るが,「東京大学がやっていないものは研究じゃないで.  慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授.1984 年から JUNET,1988 年から WIDE プロジェクトを通じて,日本におけるイン ターネットの構築とその研究に従事.2005 年よりインターネットを通 じて環境情報を共有する Live E! Project を開始.. しょ.そんな実験には参加できないよ」と言われ困って いたのだそうである.そんな話を聞きつけた石田先生が, 「じゃあ村井君,東大をつなごう」 とおっしゃられたので ある.村井も,そうした裏の事情を僕ら若い連中に知ら せないでおこうと思い前述のように言ったのだと思うが, ☆3. 658. 昔,UNIX の ラ イ セ ン ス 事 業 を 行 っ て い た USL Pacific(UNIX System Laboratories, Pacific)に筆者が確認したことがある.. 情報処理 Vol.50 No.7 July 2009. 村井 純(正会員) [email protected]  慶應義塾大学環境情報学部教授.1984 年国内のインターネットの祖 となった日本の大学間ネットワーク「JUNET」を設立.1988 年インタ ーネットに関する研究プロジェクト「WIDE プロジェクト」を設立し, 今日までその代表として指導にあたる.本会フェロー..

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