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デュルケームにおける「科学的合理主義」(II) : 社会化された心身二元論

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(1)Title. デュルケームにおける「科学的合理主義」(II) : 社会化された心身二元 論. Author(s). 登石, 文夫. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 30(1): 15-25. Issue Date. 1979-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4424. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . デュ ルケームにお ける 「科学的合理主義」 〔1 1〕 -- 社会化された心身二元論 --. 登. 石. 文. 目. 次. 夫. 序 ルソ ーか ら・ の 出発. 「社会形而上学」 へ. 人間性とアノミー. 結語にかえて. 序 近代的な失廿性の原理をデカルトの第一原理に集約させるなら, それは (1) 自律的な個人の存在. (2) 客観的世界の機械論的認識をもたらした. また社会へ適用された場合には (1) 原子論的社 会観(2) 自然主義的社会認識へと展開した, しかし, 19世紀末は, もはやこれらの両原理に対し て楽観的でありうる時代ではなかっ た,デュ ルケームはこの時代の反合理主義,反科学主義的風潮に 抗して, 合理主義に固執しつつ, ヒューマニ ズムの理想の実現と社会的連帯の回復と科学的認識と を相互不可欠なものとする立場から 「科学的合理主義」 を設定した, その人間論の前提から, その 性格を考察してみたい, 1, ル ソ ー か ら の 出 発. デュ ルケームに 対するルソーの影響は根源的な部分に関するものであり とりわけ「人間性」に関 , して, 「自然人」 と 「社会人」 との概念的区分から決定的な示唆を与えられた. ルソーの影響は, 社 会学と教育学の両面において, 非常に大き いものがある. もっ とも, 自然人と社会人とを区分する ルソーの方法は, 同時代のモンテスキュ ーのような実証的方法とは無縁であっ て, それは, 「条件的 1 } すなわち 明断判明な観念の獲得によっ て 実在物の再構成を企図するデカルト的合理主 推論」 , , , 義によるものと見なした, 実在の中に因果法則を求めるデュ ルケームの実証主義の立場とは異っ て はいるが, 理性の力能に対する確信をルソーと共有しようとする点で, この両者は固く 結合したの である, このように, ルソーに対して, カントを湖行的に経由して, 合理主義者と見なすのは, 新 ) カ ン ト 派 の ル ソ ー 解 釈 に み ら れ る, 2. 人間性の把握に関して, ルソーから示唆されたのは, それは動物的自然状態の上に社会的な精神 的要素が重ねられ, 両者の調和 が維持されるべき である, という見解に集約されるであろう. ルソー の 「自然状態」 について, 「たんによく考えられたように感傷主義者の夢想の産物でも, 黄金時代へ の古くからある哲学的再興でもないのである. それは方法の一手順なのである, それは, 未開社会 15.

(3) . 登. 石. 文. 夫. の人間の現実の姿についての過度に楽天的な表象によるのでは なく, われわれの心理的構成の基本 3 ) と述 べ デカルトの「第一原理」に 属性は何 であるかを決定しよ うとする欲求によるものである」 , 対応する浄化された知識としての人間の純粋型をなすものと理解した. 自然人は, 現実の人間から 社会性を取り払い, 社会化以前の人間の自然 で純粋な 「心理的構成」 を示す, とはいえ, 没価値的 分析用具 である 「理念型」 以上の意味をもっ ており, それは, より高度の段階へ発展させるべき人 間の論理的出発点 であること, また, この純粋型は決して歪めてはならない基準としての意味をも ち続ける. デュ ルケーム自身の用語でいえば, 「正常性」 の判断基準をなすものである. このように, ルソーもまた他の自然法思想家達のように,「自然が個人で終るものとすると, 個人 を超越するものはすべて人為的なもの」” という伝統的な見解を採用 している. しかし他の多くの 自然法の思想家達が, 自然人の特質の中に社 会形成の原理を求める通常のやり方を採用せずに, ル ソーは社会状態へ移行する芽を全く持たない自 然人を想定し, なおかつ社会状態へ, 社会人への変 移の過程の「条件的推論」 を遂行したの であっ た. デュ ルケームは, この巧妙な論理に驚嘆しつつ, まさにここにルソーの矛盾の根源を見いだし,同時に発展した社 会学的洞察を見いだすのであっ た, ルソーの自然人 (動物と同様, 自然的, 感覚的欲求をもち, その欲求は習慣化され, わずかな自然 感情をもち, 一 自己愛, 憐潤 一, 純粋な感覚に拠る観念や知識のみをもち, 進歩も後退もない状態) は社会性の芽はもっ ていず, その状態 で完全自足状態をなしていると仮定している. だが, こうし た自然状態の均衡が崩壊に追い込まれた場 合, 社会的共同生活を余儀なく成り 立たせる要因を, 内 的に求めるの ではなく, 自然の変異などの外的要因に求め, それが, 潜在的なままであっ た人間の 社会性を触発し, 社会人 (音節のある言語の使用, 概念による抽象的思考と推論の能力, 道徳性な ど, 精神文化の獲得を特徴とする状態) が出現する, ここに, デュ ルケームがルソーに共鳴する諸 点が存在する. 第一に, 人間は自己の内部には自己を統制する装置や力を持ち合わせず, それは外 的規制によっ てのみ, 外的環境との調和を通してのみ可能 であるという見解である, たしかに, ル ソーの自然人は, 分散孤立して本能による生活を営ん ではいるが, そこには, 自然の物理的規制と 人間の欲求との調和が成立している. もちろん, デュ ルケームの 「起源」 の究明は経験的方法によ るの であるから, 自然人の概念は採用しないが, これを, 社会的環境と人間との調和の理論へと受 け継 ぐの である, 第二に, 人間の潜在的な失止性や感性は, 外的環境の変化により直ちに顕在化し, しかも, 両者の調和が破られるなら, 人間の欲求は無制約に肥大し混乱に陥るという見解である. この見解は 『分業論』 そして 『自殺論』 で論じられた アノミー状態下の人間の姿である. 次の, ル } 「一度 ソーからの引用を含んだ文章と同様の記述は, これら二書に繰り返し認めることができる5 . 自然の境界が破 られると, 道をはずした自然を抑えるものは何 一 つない. 情念は次から次へと生ま れ, 失廿性を刺激する. 失廿性は情念に新しい対象を与え, この対象カヂ情念をかき立て, 昂進させる, 情念は満足を得たことにより, さらに一層要求を強化する.『過剰 が渇望を目覚めさせる. 人は手に } い れ れ ば いれ る ほ ど, 一 層 多く の も の を望 む』 (ヌ ー シ ャ テ ル 草 稿)」6 .. ルソーは, こうして, 人間は自然状態を脱出すると同時に社会的には不平等と戦争状態を結果し, 際限のない欲望に駆りたてられ, まさに不幸に陥ることに なる, しかしまた, この状態は人間が獲 得した ・能力によっ て, 合理的に克服することも可能なのである, すなわち, 万人の 「一般意志」 に づ もと く 合理的に正統な法と道徳の創出によっ てである. 一般意志は自然環境と自然人との均衡関 係と同様の関係を, 社会と個人との間に打ち立てるものである. それは, 諸個人の特殊意志が排除 され, 一般的, 非人格的な性格と化し, けっ きょ く自然と同様の性格と力となるからである. 個人 は自らの自 己統制 のためには, 個 人を超越する規制力 を必要 とするという考え方において デュ ル ケームはルソーと一致した. この意味は, 社会的状況によっ て刺激され無規制化した情 念は, 社会 16.

(4) . 1〕 デュルケームにおける 「科学的合理主義」〔1. 規範として確立された精神的規制によっ てのみ抑制することができるということである, さらに, デ ュ ル ケー ム は, ル ソ ー が 人 間 の 自 由 を 功 利 的 原 理 に 求 め る の で は なく, 自 然 人 が 自 由 であ っ た の. は自然の必毅や性=法則性に順 応することによっ てであっ たと同様, 社会人の場合も外在的な規範に 従うことによっ てのみ自 由を得るという見解を受け入れた, もちろん, 一般意志の下での自由は自 然人の自由とは異っ て, 権利と義務の観念を生む,「それらがもっ ぱら個人にとっ ての利 益と考えら れるのではなく, 個人をこえた諸利益に関係づけられるからである, 諸個人の上位にある集合的存 在が, 各人の自由を決定し, 同時にそれを聖なるものとし, それによっ て各人の自 由に新しい本性 を与えるの である, それから以後は, 各人の自由はわれわれの 各々が自由にすることのできるエネ ルギーの 量に基づくのではなく, 各人が一般意志を尊重す べき義務, 基本的な約束に由来する義務 7 ) 道徳性におけ に基づくのである. 各人の自由が権利になるのは, こうした次第によるのである」 . る個人の良心と義務の優先は, ルソーからカントへ影響し, カントの実践理性の理論が生れたが, フランスの新カント派を通してデュ ルケームヘ再び還 流した. かくして, 合理的に正統な社会的規 範の下では, 諸個人は社会規範を通して自己統制的に自由を実現することができ, そして社会的連 帯を保持することが可能であるという確信を深めたのであっ た. こ のよ う に, ル ソー の 中 に デ ュ ル ケ ー ム は, そ の 社 会 学 的 見 解 の 主 要 な 部 分 を 見 い だ し た と い っ. てよいほどである, しかし, ルソーに対する批判は, 先の自然人め仮定から生じるところの本質的 に原子論的な性格に対してなされる, ルソーには個人主義と社会主義(政治的意味を含まぬ)の両原 ) 本質的に前者 が優位し ここから すべての論理に矛盾がつきまとうことに なっ た 理が存在し8 , , , , 社会は自然に基礎をもたぬ人為的な存在であると同時に, 本来組織体として存在する, ルソーにお ) いては,「理性的存在としての社会」と「有機的存在としての社会」という対立が存在するのである9 , しか し, こ の 対 立 に お い て さ え, デ ュ ル ケ ー ム に と っ て は, H. ス ペ ン サ ー の 功 利 主 義 的 な 有 機 体. 説を凌駕しているの である, ルソーは 「社会的領域を純然たる個人的事実に比べて異質な事実の世 界であると明確に理解している, それは, 純然たる心理的世界に加わる新しい世界なのである. こ うした考え方は, 人間は人間に対して漠とした共感を抱き, 仲間とサー ヴィ スを交換することが大 きな利益だと感じていると見て, 社会を自然の中に根拠づけたと考えているスペンサーなどの最近 の理論家の考え方より, はるかにすぐれている. こう した意識はなるほど個人間に一時的な接触を 保証できる であろう, しかし, この間 歌的 で表面的な接近は, ルソーの言葉によると 『全体を構成 o } する諸部分の結びつき』 が欠けていることから, こう した接近は社会 ではない」l , 不安定なものであ 一般意志の概念もまた, そこに社会学的な原理を見いだすことはできないほど る. それは, 本質的に原子論的であり, 諸個人の算術平均的な意志にささえられており, けっ きょ く現実の諸個人を超越して, いわば宙に漂うような存在にすぎないものである. 一般意志は 「具体 的に自己を実 現することなく普遍者の世界の中だけしか動けない, このよう な考え方は, ルソーが ・ 人間の現実に 二つの極しか認めなかっ たことから生ずるのである. 二つの極とは, 社会生活の主体 であり客体である抽象的一般的な個人と, あらゆる集合生活の敵対者 である具体的経験的な個人で ある. ある意味で, この二つの極は相互に反発しあっ ている, しかし, 抽象的一般的個人は, 具体 的経験的な個人がなければ, たんに論理的存在にすぎないのである」=) , 一般意志に対応するデュ ル ケームの 「集合意識・表象」 は, 集合体の所産として自然物と同様に扱いうるものである. 要する に, デュ ルケームによるこの問題の解決は, 一般意志の形成を個人から切り離すこと, すなわち, 集合意識・表象は個人に外的に形成され, 逆に個人を規定する, 諸個人は, 社会的な精神に規定さ れることによって, 普遍的な心的部分を形成する. 人間性を, 社会化された精神部分と, 特殊的意 志の源泉である生理的本能的な欲求部 分との二重的構成として把握することである. 17.

(5) . 登 石. 文. 夫. 人間性に関する, このようなルソーの修正的継承は, 教育論の場合にも同様であり, 『エミール』 2 ) ルソーの教育論の批判的継承の要点は 教育の目的は社会的人間を形 の解釈にも一貫している1 , . 成することにあるということ である, 社会化の洗礼を受けていない子供は, まず何よりも自然人と して育てられなければならないというルソーの主張の前提に, 自然環境の下 で形成された自然人こ そ人間性の純粋型 であるという,ルソー的な合理主義によっ て規定された自然人の概念がある,デュ ルケームは, 自然による子供の教育は, 人間 (教育者) による教育の範型をなすものと解釈したの 1 である, 教育者は社会的次元における自然の役害 1を果さなければならない. 子供は自然から, 自然 必然性の中に自ら従い, 調和を実現することを学び, この体験は社会環境への適 応に生かされる, 社会の自然物と同様の非人格的, 自然必然的な強制的性格を意識し, 権威に対する正しい意識を発 達させることになる. すなわち, このような教育は, 一方的な既成の道徳的権威の押しつけ, 言語 の単なる訓練, 無益な知識の詰込み主義とは根本的に異るものである, それは理性と感性の力能を 高めるものであり, 人格的な窓意と命令に盲目的になること, またアナーキーとエ ゴイ ズムへの志 向とは, 全く方向を逆にする教育 であり, これこそ近代社会にふさわしい合理主義的な教育にほか な ら な い の であ る.. デュ ルケームはルソーの社会人において, 理性三優位の下 での理性と感性との合体化した, すなわ ), 理性 が感性を触発し, 主導する人間性を見たの であ ち, 受動的な自然感情を有する自然人と異i る. その理性は社会という非人格的な普遍的な実在の所産 である限り で合理的なの である.. / ! 1) Momβ 8 Sq と f e ” 〆 尺α‘ s s e ”” emsde 如s鑑あわg . 小関 藤 一 郎, 川 喜 多喬 訳 『モ ン テ ス キュ ー と ル ,ヱ953 , か 霞zばs. ソー』 法政大学出版局, 1 975年, 80頁. i t Cas 2) Cf s r er s Pだめ′ z s smz r gm 迄の〆鑑傘 r r g s 尺o . . , Ems , Dq ,1932 ′ ! ‘ 1 8 9 4 1 (訳 9 9 年) 7 inf o〃” smede/!尺o z r s s e ”〃 . , ,. (訳, 1974年). t Der the and Rober a , La. 3) 小関, i H喜多訳, 前掲書, 82頁. 4) 同, 97頁 1893 5) De 毎 ダルなめれ d ′ !! ′〃〃扇Zs oα賜, . 田 原音和 訳 『社 会 分 業論』 青 木書 店, 1971年, 243- 6 頁, 264- 5 頁, Les ′ ! 〆 1 8 9 7 『 96 8年 203~5頁 など z rc e , . 宮島喬訳 自殺論』 中央公論社 1. ,. ,. ,. ,. 6) 小関, 川喜多訳, 前掲書, 94頁. 7) 同, 115- 9 頁.. 8) 同, 99頁 9) 同, 98頁 10 ) 同, 96- 7 頁. 11) 同, 146 頁, ! Z ′ Lukes 125 36 12 ) Cf i ? e D”液/ 彫海z sZ舵 ”〃d w鯖な ‐ . . . . ,S ,E’ ,ん′ , Harperand Row,New York ,1972 ,pp. 2, 人 間 性 と ア ノ ミ ー. デュ ルケームの社会学の人間論的基礎 である, いわば社会化された心身 二元論 は, 実証的社会現 象の研究の展開を通して, またとりわけ心理学との対 応を通して, その位置をいかに確固たるもの としたの であろうか, 実証的方法の典型的な適用 である 『自殺論』 においても, 「人間は二重の存在 1 3 } という前 であるといわれる, それは物理的人間の上に社会的人間が重ねられているからである」 提をおいている. ケトレーの 「平均人」 の理論に対して, 統計的規則性を普遍的な社会的事実の表 18.

(6) . デュルケームにおける 「科学的合理主義」 〔1 1〕. 現として把えなおし, 自殺率の増減を社会的規範の弛緩の度合いと見なおすところの実証研究にお いても, 抽象的に設定された前提をおいた. そして, 人間行為の社会的規定性を明確にしようとす る場合,自 ら幾度も批判の対象としたにもかかわらず, それによっ て動揺さえ見受けられるのは「心 理学的立場」 であっ た, 序文において. 社会現象を個人に固有な心理的性向に還元する心理学的な立場に対して,「この観 点からすれば, たとえば婚姻, 家族, 宗教などの現象の本質はすべて, 父性愛, 老心, 性的欲求, いわゆる宗教的本能のうちにあることになり, それらの制 度はこうした個人的欲求に対応 したもの 4 1 ) これに対して社 会現象は固有の実在と原理をもつ現象であり 超個人的心理現象 とみなされる」 , . を対象とする 「社会心理学」 の領域であるという基本的な観点を据える. しかし, 個人の心理状態 は社会的要因の作用のみによっ て決定されるとは考えていない. 続く序論 では,「私の意図するとこ ろも, 個々の自殺の発生にかかわるすべての条件をできるだけ完然に網羅することではなく, もっ ぱら, 社会的自殺率とよばれているところの限られた事実のもとづいている条件を究明することに つきる, …それらは, 心理学者の関心をひきこそすれ, 社会学者の関心をひくものではな い. 社会 学者が研究するのは, 個々 ばらばらの個人の上に ではなく集団の上に影響をおよぼしうるような諸 1 5 ) と述べている 人間性は 「物理的-社会的 二重構成」 という前提に反して 個別 原因なのだ」 , , , , 的人間は社会的原因の全面的な支配下にあるのではなく, 非社会的な, 社会組織や集団と関わりの ない原因の作用もあることになり, 社会化されない個人の自我の存在を認め ざるをえないかのよう である.. 第一編では, 「非社会的諸要因」 が検討され, それらは 「身体的, 心理的傾向」 および 「気候, 気 温などの物理的環境」 であり, 前者で取りあげられたのは, 人種による差異, 遺伝的影響, 精神障 害など, もっ ぱら身体に根 ざす諸要因 であり, これらも心理学の領域に属するものとされている, さらに第三編においては, タル ドの心理学的社会学, すなわち, 社会意識は個人意識の総和 であ り, 両者ともに経験的に知りうる, という主張に対する反論として, 経験的には把握困難な自我の 特性について論じている, リ ボーの実験心理学の成果を念頭におきながら,「心理的生活というもの は, 直接的な観察によっ て知ることができる どころか, むしろ内奥の感情もおよばない, また外部 世界を研究する科学が用いている方法にも似た間接的で複雑な方法によっ てようやく 少しずつ接近 6 } と述べ 実験心理学の領域としての個人心理を暗に認 でき る よ う な, 深 い 内 面性 を も っ て い る」1 ,. めているの である. それは個人の無意識的な部分, そして慎重な科学的方法によっ て到達されるよ うな心の最深部分 である, この領域もまた個別科学の対象となるべき固有の事実をなしているとい うべきである. こうして, 一 方では個人心理の内奥に向っ ての究明を要する個人意識の領域と, 他 方では (間接) 実験によりながら, 個人に外在的な集合体の内奥に発生源を求めなければならない 社会意識の領域が別個に存在することになる, このように デュ ルケームは人間性の二重的構成の仮 定を廃棄せ ざるをえない方向へ向っ てきたかに見える, 自我は, 有機的, 個人心理的, 社会的の三 つの 次 元 で考 え ら れう る の であ る,. 複合的な構成体である事物 への 分析と総合との相互適用によっ て, 現象に 多層, 多元的区分と限 定を設定し, 各層に対し, 他に還元しえない特殊性を認めて、 それぞれを対象領域とする個別科学 が存在すると主張するフランス新カント派的認識論の 前提からは, 人間性も多数の次元に区分され て不自然ではない, もちろんデュ ルケームの真の意図は社会学の対象領域を明確に規定することで 1 7 }(1 898 ) で改めて詳しく論じられたが, その前年における 『自殺 あった. 「個人表象と集合表象」 論』 では, 社会学的領域と他の領域との階統的区分を次のように論じている,「今日では, 自我とい うものが自我をもたない多くの意識から できあがっ ていること, その原初的な意識のそれぞれがま 19.

(7) . 登. 石. 文. 夫. た意識のない 生命単位の所産 であること, そLてそれぞれの生命単位自体も, 同じく生命のない分 子 の 結 合 に もと づ い て い る こ と は, す でに 周 知 の こ と と な っ て い る, し た が っ て, 心 理 学 者 や 生 物. 学者が正統にも, その研究しようと している現象を, それがす ぐ下位の諸要素の結合に根 ざしてい るという 理由だけ で十分に根拠があるとみなしている以上, 社会学もこれと同じであっ てよいの で 1 8 } このように 下位の要素の集合が質的に 独立した, もはや下位の要素に還 元不可 はなかろうか」 , . 能な事実を 生み, そこに別 個の科学が成立するという考え方は, すでにA. コントの諸科学の段階 的階統的総合の理論にあっ たが, デュ ルケームはフランス新カント派の哲学者達から直接的影響を 受けた, デュ ルケームの師, E, ブートルーから 「全体は部分の総和より大きい」 という命題を受 け継いだ, また, S, ルヌー ヴイ エの 「関係」 概念, すなわち, 事物の固有性を 「融合」 あるいは 9 ) 「機能」 に求める考え方を受け継いでいることは間違いないように思われる1 , 確かに, デュ ルケームは個人的個性や自我の存在を否定してはいないが, 個別的自我の次元と社 会的自我の次元との相互関係に関する積極的な理論展開は存在しない. 両者の区分は概念的には可 能 ではあっ ても, 現実の個人の意識や行為においては両者は混同していて, 境界線をもっ て区分す ることは困難 である. 統計は個人差を相殺して, 社会的次元における現象を 浮彫りにするという主 張は一定の有効性をもっ ているが, それによっ て, 個性の領域は区別され, 対立するものとして 社 会学的視野からは排除されてしまう. デュ ルケームの著作全般を通しての, 心理学と社会学との区別に関しては, 次のようなルークス 0 } (1) それらの対象の相異 (「個人の心」「個人意識の諸状態」 - 「集合意 の要約は妥当であろう2 . 理として, (2)「有機-心理 識」) . そして, 両者固有の説明原理の相異, すなわち心理学的説明原 的」 要因と名 づけた人種, 遺伝などの生得的, 前社会的諸要因,(3) 諸個人それぞれに特殊な非社 会的な諸要因,(4) 人間の本能的傾向, 人間に共通する基本性向. こう した心理学に関する 多義性 のすべては 『自殺論』 においても登場しているが, おそらく デュ ルケームにとっ てこの多義性は大 きな問題 ではなかっ たであろう.『分業論』 では, 分業の発達による近代社会の進展に伴っ て, 個人 の意識の中に占める集合意識の量と質は稀薄化し, 弱化し, その分を個人意識が占めるようになっ たと論じた. その結果が現実の, いわば 「心理学的個人」 の出現となっ たのである. ここには 二つ の社会的原因が作用 している. 第一に, 旧社会規範と価値の喪失, そして第 二に, それに代っ て功 利主義思想をはじめとする社会的連帯に逆行する社会的(虚偽)意識が人々を支配した, こう して, 個人の意識の状態は社会意識の状態によっ て大部分が規定される, それ故, 身体と社会との中間領 域をなす個人心理の領域をあいまいにしたまま, 次第にこれを狭める方向へむかっ ていき, 究極的 には社会的な要素によっ てほぼ完全に満たされるという 立場を貫ぬこうとする.「社会は, 個人のほ とんどの部分を形成するの であり, またその部分を思いどおりに仕立てあげる, それ故, 社会は必 2 1 } と述べるにいたる 現実 要とする素材を, いわば社会自身の手によっ て用意することになる…」 , . の心理学的人間は社 会的状態と無関係ではありえないし,本来社会学的人間に置き替えられね ばなら ないの であり, 心理学こそ発展を遂げて社会的人間の解明の手段に なるべき であるというのがデュ ル ケー ム の 本 意 で あ っ た で あ ろ う.. 「物理的-社会的, 二重構成」 としての人間性の仮定は, したがっ て二つの意味を有しているこ とが明らか である, 第一は, 現実の人間精神のあり方は, その大部分が社会的状態に規定されてい る. 第二に, それこそが, 本来あるべき人間性 であるという, 人間性の理想状態を物語るものであ る,『自殺論』 以後は, 第二の立場をいっ そう鮮明にしながら, 対応して社 会的理想の社会学理論の 展 開 へ と 進 ん で いく こ と に な っ た.. 20.

(8) . デュ ルケームにおける 「科学的合理主義」〔1 1〕. )王. 1 3 ) 前掲 『自殺論』 61頁, ,1 14) 同, 56 頁, ) 同, 72- 3 頁. 15 16) 同, 280 頁, t “1 idue iv l l Repr i 17 )t tr esent t i es l ese l i a onsind epr ent t at onsc o e c ve s 9 43 . 山田吉彦訳『社会学と哲学』創元社,1 , 898 年, 3-75 頁.. 18 ) 前掲 『自殺論』 , 291頁. 1 9 ) ルヌーヴィ エに関しては, 九鬼周造 『現代フランス哲学講義』 岩波書店, 19 57年, 1 7 2一8 5頁. 樟潟久敬 『フ. ラ ン ス 哲学 研究』勤 草 書房,1960 年,75一86 頁, 参照 デュ ルケー ム と ルヌ ー ヴィ エ の 関係 に 関 して は H.A1 t r pe , , , Ei ! k i疑お D潜熱そげ’ z 〃”〃d′ ssocああgy,R.& Rり New Yor 28 i t ‐ .24 ,54-8 ,1936 ,pp .c ,S.Lukes ,op →pp , な ど参照. i 20) S t p 6-9 p .Lukes .c .1 ,op , ラカブラは『自殺論』における心理学の語の多義性について詳しく論じている D.LaCapr ‘ ) / zmzdP ′ 雇わsのんeる Co l IUn i a ”液ね愛川,s鋭ゴo 〃上 o s rne g/ v e ss ,β“” .Pr .PP .148冊9 ,London . ,1972. ,. 21 ) 前掲 『自殺論』 , 295頁.. 3, 「社会形而上学」 ヘ デュ ルケームの 「科学的合理主義」 においては, 道徳や宗教な どの精神の諸現象に対し それが , 科学の原理と対立す るものとして排除してしまう の ではなく 科学の対象に据えることによっ て , , その合理的な性格を明らかにする 如こ大きな焦点を置く ことになった 精神の世界と実証科学の世 . 界との両立と和解を意図する新カント派の問題意識に基本的に規定されていたといえよう それは , 従来は形而上学的問題とされて,実証科学原理とは全く 異質な原理の下で論じられてきた諸問題に , 社会学的な解決を与 えること であっ た. すなわち, 精神的諸現象を社会化することによっ て実在化 し, 神, 人格, カテ ゴリー等々の社会学的説明と判断を与える ことであっ た そして この過程 で , , , 人間性の二元論的把握は不可欠の前提 となり, デュ ルケームによっ て積極的に主張さ れるように な っ た の であ る,. 2 2 )(1 「道徳的事実 の決定」 906 ) において, 道徳を 「判別」 , すなわち概念分析を行い, その後に 道徳の社会的必然性の説明, その社会的 「起源と機能」 を論じた 道徳現象を判別し規定す る デュ , ルケームの論述は, 全く道徳哲学そのもの である, 道徳とは, 第一に行為規定へ従う強制的性質 , すなわち義務 の意識であり, これはカントの道徳論の採用に ほかならない 第二に カントの道徳 , . 論は不十分であるとして,「歓びと望ましさ」の感情がこれに融合 していなければ完全な道徳性は実 現しないと主張した. 歓びと望ましさの感情は, あの 「善」 の観念である 功利主義道徳を排して . 2 3 ) を克 カントを採用 し, 「義務の感情を理性と感性との基本的差 異に由来させるカ ント派の仮定」 服して, 善の観念を導入するという点 では, カントの現象学を受け継 ぐ同時代 の ドイツ現象学的倫 理学派と同様 である. さらに デュ ルケームは, 善の観念を媒介として道徳と宗教 とを結合させる 聖なる存在は 「侵し , えないタ ブー化された存在 である」 と同時に 「善き 存在, 愛せられ, 求められる存在である」 宗教 , と道徳とは本来一体化 していたの であり, 歴史の進展に伴っ て, 前者から後者へと重心を移行させ たのである. ところ で道徳は理性と感性の統合 であり,「両者とも同じ目的 を有するのであれば 感 , 2 4 } として とりわけ宗教においては 「最高善」 の観念が支配的で 性が理性に従属する必要 はない」 , あっ たが, 近代的な個人主義道徳 では義務か欲望を優先させた それらは論理的に正しくないと論 , 21.

(9) . 登. 石. 文. 夫. じたが, 明らかにカン ト的に理性と形式規 律を優先させつつ, 価値感情と宗教性を積極的に肯定し たの である. 近代的道徳観念と非合理な宗教的感情を容認したうえ で,「宗教の聖的性質は宗教を批 判 の外においた が, 道徳の聖的性質は 道徳を批判 の外に立たせ なけれ ばならないもの では ない」 2 5 )として それを社 会学的説明と (価値) 判断の対象外に置かない このことは, 近代の合理的道 . , 徳思想において, 現代社会の真の道徳的理想が反映されているという見解に通じる. そして, 近代 における道徳性にも不可避的に非合理性=聖的性格が生じざるをえないことの容 認である. 道徳的事実の社会学的説明とは, デュ ルケームにおいては形而上学的な道徳概念をすべて社会化 し, 客観的な社会現象として取り扱うことである. カントの物自体を社会的事実の中に 設置して, 2 6 }の 経験的把握の範囲内に 入れる.「私は神の中に変形され, 象徴的に考えられた社会しかみない」 であり, 神が実在するとは 社会が実在することの表現であり, 神の権威は社会の集合力の個人か らの超越性 であり, 義務とは社会的強制 であり, 善とは社会への愛着と無関係 ではありえない. 個 人の社会化を 前提として, 人格的相互尊重の精神, 個人の良心, 人類愛, 自己愛等が成立する, 人 間性は社会が形成するのであり, それは文化を内面化することである, すなわち 「社会はある意味 2 7 } およ び「我々を真実に人間存在とするもの で我々自身 であり, 我々自身の 一番よい部分である」 , 2) は, 思想, 感情, 信仰, 行為の規律の-全体即ち我々 が文化と呼ぶものから摂取したもの である」8 , 普遍化へ 志向性によ て感覚的諸欲を統制する人間性の 化し その精神的 と言いきる. 文化を内面 っ , と 向 っ て き た,. もちろん, 社会の理想である道徳は, 社会体制と社会構造にもと づいて形成され, その変化に伴っ て変るところの歴史的客観的性格をもっ ている. 近代社会においては, 個人的道徳 (個人的人格の 2 9 ) さらに 社 尊厳と自律性を理想とする道徳) こそ が「社会が理解する理想的人間の典型 である」 , . 会の変動期に明らかになるように, 強力 で活発な社会的精神の形成を「個人の間に交えられる作用, 反作用から全く新しい心的生活が遊離され, それは我々 が孤立して生活していては思いもつかない 3 0 ) と述べたが.諸個人の相互作用を通した生成と消滅の動的関係的性 格 世界に我々の意識を運ぶ」 , を指摘しているの ではなく超越的な性 格を指摘したのである.『宗教生活の原初形態』 では, 道徳性 の 「聖」 的普遍的性格が追求され, 人間性の二元的構成の普遍性 が追求されていった. 宗教の,(従, っ て社会の) 原初的形態とみなすトーテミ ズムの研究の目 的は, 第一に, 社会的連帯 の超歴史的原理を追究することであり,第二に,同時にその現代的な形態を明らかにすることであっ た と い え よ う.. .個別意識には還元されえ 宗教的観念は, デュ ルケームよると, 社会によっ て入念に仕上げられ, i ぬ, su lg r ene sな実在 であるところの観念体系, すなわち集合表象である, その内容は, 社会に共 通な思考のカテ ゴリー や宇宙観などの認識的なもの, およ び価値と規範, 道徳的なものの両方を含 ん でいる. 従っ てそれは, 自然と社会, それと人間との関係の すべてを表象するのであるから, 現 実の社会生活のすべての反映という ことができる. だがそれは, 現実の直接の反映 ではなく, 理想 化された現実 であり, 従っ て観念的にのみ存在しうる世界であり, シンボル化され, 神話として ド ラマ化された世界でもある. 神は, 事物や人物にシンボル化され, 実体化された社会の理想である 1 ) デュ ルケームの 「社会」 の概念は決して一義的に規定される ものではないが, 集 ともいえよう3 , 合的生活を成立させ維持させるのは, 宗教的, 道徳的な精神生活において であるという意味で, 神 と社会とは同一視された. 社会の現実を相対的に遊離した理想の規 定とその強制的力能, これこそ 社会の本質部分 であり, 社会学的考察の焦点をなすように なっ た. しかし反面, 人間の生活は社会 的規制を受けない部分を不可欠にもたねばならないから, 社会生活は, 理想に生きる精神生活の領 .域と, 日常生活の領域に二分されなければならないの であり, それぞれに対して, 「聖」 と 「俗」 と 22.

(10) . デュ ルケームにおける 「科学的合理主義」〔1 1〕. 2 ) いう超歴史的な概念を用いたのである3 , デュ ルケームは, 近代的な 「人格」 の観念は, 現代社会の道徳的理想 すなわち現代の聖の領域 , を満たすものと主張するの であるが, それは, 人格の観念こそが近代社会 が共通に受け入れうる理 念であり, 社会連帯の中心観念となりうるからである しかも, 人格に対応する観念の原始的形態 . をトーテミズム以来の諸宗教の中に求めるのである, 『原初形態』 第8章 で, 「霊魂」 観念の人格的 3 } 霊魂の観念は 宗教と同様 にあらゆ 性格, と同時に非人格的な, 両面的な性格を指摘 している3 , . る社会に普遍的に存在してきた, それは, 第一に, 個人の精神性の宗教的表現であり 個別的な 人 , 格を成り立たせる. しかし第二に, それは社会的起源をもっ ており, トーテム原理の個別化 個人 , におけるその 「化身」 である, このことは, 霊魂が個人の肉体に宿っ ているとともに 出入り自由 , なもの, 不滅なものと信 じられてきた事実が物語るという 宗教的観念は超個人的な実在とはいえ , , それは諸個人に分有されなけれ ば存在しない,「もし, 個人の意識 がそのうちにトーテム的原理を感 じなかっ たならば, トーテム的原理なるものは存在しな いだろう 個人の意識こそ この原理を事 , . 物の中におくもの である. したがっ て, トーテム的原理は必然的に 個人の意識のうちに分割さ れ , , 4 } それは個別化され 分配されなけ ればならない. これらの断片のおのおのが一つの霊魂 である」3 . た と は いえ, 集 合 的 トー テ ム の 一 つ の 断 片 に す ぎ な い も の であ っ て 個 別 化 さ れ る こ と に よ っ て , ,. ある程度の個性化は不可避 ではあるが, わずかな差異を生じるだけである 霊魂の観念は 時空を . , こえた集合性を維持し, 種と個と神とを連結させる媒介である 人格性とは トーテミズムから今 . , 日ま で, 普遍的な社会の原理を個人が強固に内在化した結果生じる ものである . このように, デュ ルケームは, トーテミズム以来の霊魂観念の存在を, 近代的な人間観 である心 身二元論と同一視 した. 人間性の二元的構成に関しては, 人類の始めから意識さ れたの であり そ , れは社会生活の普遍的原理を示 しているのである. 社会そのものである聖的領域は諸個人に分け与 えられて, 各個人の内部に聖的領域を形成するの である かく して デュ ルケームにとっ て人間は , , 永久に全く二律背反的構成 を運命づけられることになっ たのである 「俗が聖に対するように 一方 . , が他方に対する明分された二部分からわれわれが形成さ れていることは きわめて確かな事 実 であ , る, また, ある意味 では, われわれのうちに神的なものがある, ともいいうるの である というの , は, 社会, この聖なるあらゆるものの唯一の源泉は, われわれを外部から動かし わずかの間感化 , 3 5 } するにとどまらない, 社会はわれわ れの内部に永続的なかたち で自己を確立するの である」 . デュ ルケームは, すでに 『分業論』 において, 近代社会における個 人主義は 「共同の信仰」 とし , 6 ) 個人主義は 社会の産物 であり 共同の信仰 である限り 近 ての 「個人崇拝」 であると論じた3 , , , , 代社会の集合表象にほかな らない. それはまた, 社会発展の帰 結であっ て それ自体 異常性を示 , , すものではない. 問題は, 身体的に個別的な個 人の崇拝をもたらすか, または 普遍的な人格 の崇 , 拝へ向うかであり, 前者ならアナーキー とエ ゴイ ズムをもたらし, 後者なら, 社会連帯の原理によっ て正統化される. 近代における 異常な意識傾向は二つの面で展開された 第一に 人間性を一元的 , , に理解しようとする思想傾向であり, 第二に, 原子論的な思想傾向 である , 一元的な人間把握の場合, 経験論的な一元論と 「絶対的観念論」 の一元論との二方向に展開さ れ 3 7 }(1 た, 「人間性の二元論とその社会的条 件」 915 ) では, 両一元論への批判がなされている. 要約 的には, 前者は 「い かに, 劣者が優者になりうるかを, すなわち, いかにして感覚が変化せぬまま , 概念に対する尊厳にまで高められるのかを説明したことがない」 , そして後者は「いかにして, 優者 が劣者になりう るか, いかに感覚がそうなるよう に, 概念が衰え退化するかを説明する場合に 同 , 3 8 ) これらの問題の解決は 社会的起源を有する概念を優位させ 人間性を相 様の困難に直面する」 , , , 対立する二つの構成要素によっ て成立すると把え ることである , 23.

(11) . 登. 石. 文. 夫. 第二の, 近代の人格概念の原子論的, 非社会的規定性 であるが, それにもかかわらず, 人格の普 遍的特質を把えるにいたっ た思想こそが, 近代社会にふさわしい理想を秘めた集合表象にほかなら ない. すなわち, 『原初形態』 の第 八章, 霊魂観念の解釈に 続いて, ライ プニッツのモナ ドは 「何に もまして, 人格的な自律的な存在だからである, しかも, それにもかかわらず, …すべてのモナ ド の内容は同一 である, 事実, すべてが唯一かつ同一の 対象, 世界を表明する意識なのである. しか も, 世界そのものが表象の 一体系にす ぎないから, おのおのの特殊意識は, 要するに, 普遍的意識 3 9 ) またカントの人格の概念も同様 であり, 人格性の基礎条件 である「理性に即 の反映に す ぎない」 , して行動する能力」 における 「理性とは, われわれの中 でも非人格的なものである, というのは, 理性とは, わが理性 ではなく, 人間の理性一般だから である. 理性とは普遍的な形式に従っ て考え るため, 特殊的, 偶然的, 個人的なもののかなたに高揚する精神の力能である. …感覚や肉体, つ 4 0 } ま り, 個 別 化 す る す べ て の も の は, こ れ に 反 し て, 人 格 の 対 立 者 であ る, と カ ン ト は み な し た」 .. このように, デュ ルケームは, ライ プニッツやカントの抽 象的な人格性の概念の, 普遍性と共通性, そして強制的, 非人格的な規定性の中に霊魂観念と同様の現代の聖的性 格をみるの である. 近代の 神は超越的な姿を現わさ ないが, トーテムのかけらが氏族の成員に霊魂として分与されたように, 人格の相互普遍性の理想の中に生き続けている. 近代人は自己の中の相対立する二元性の相互分離の故に苦痛 を増大させてきたの であり, こうし た体験から生じた虚偽意識であるところの, 人間性を身体性に, また逆に観念性にのみ還 元させる 一元論と, 原子論的社会観は, それが近代の理 念として普及するほ ど人間の苦痛を増大させてしま 4 1 う. その反面 「劣等社会の未開な祭典 のみが, 生々とし, 喜びにあふれた自信を起させている」 ) ように思われるの であっ た. デュ ルケームは, 人間性を永遠に対立する 二律背反として把えたので あり, そうある限り, 人類の歴史の進行の過程において, 両者の葛藤からのがれることができない であろう, そして両者の対 立の合理的な調停は社会によっ てのみ可能 である.「われわれが例証して きた対立は, 一方 では, 感覚と感覚的欲望 であり, 他方, 矢止性と道徳的生活 である, そして, つま り, 情念とエ ゴイスティ ッ クな傾向は, われわれの個人的体質から導かれ, 他方、 われわれの合理 的活動は -- それが理論的であれ実践的であれ -- 社会的原因にもとづいていることは明らかで 2 ) あ る」 4 .. デュ ルケームの人間性の 二元論は, 初期, 後期を通して 一貫して主張されたが, 後期の社会の「超 3 ) 社会と人間性の精神部分との超 精神性」 の強調, いわば 「社会形而上学」 的傾向にともなっ て4 , 越的かつ聖的性 格が強調されるにいたっ た, )王 ” BSFP V1 1906 1 i l i 1頁, 7一14 t mora t t 22) ”La De ermi na on dufa . 山田吉彦訳, 前掲書, 7 , , , 23) 同 訳, 101 頁, 24) 同, 102 頁. 25) 同, 109 頁 26) 同, 117 頁. 27) , 28) 同, 123 頁, 29) 同, 1 27- 8 頁. 30) 同, 134 頁, 975年, 1 31) Cf orme s 〆虜川砂 幽かセ sde 函 ジセ だ/省海郷e sF ,1912 , 古野4青人訳『宗教生活の原初形態』岩波書店,1 .Le 一49 頁. -22 頁, 下, 323一 上、 4〇3- 32) 同 訳, 下, P, 333 f,. ) 同, 下, 9 -71 頁. 33 24.

(12) . デュ ルケームにおけ る 「科学的合理主義」〔1 1〕 ) 同, 下, 26- 7 頁. 34. 3 5 ) 同, 下, 53頁, 3 6 ) 前掲 『社会分業論』 67頁, ,1. t ’Sc Le dua l i inee i i tur i副eg ient ia 37 )t ts t smedel ana ehuma escond onssoc .306一21 . ,XV,1914 ,PP. id 213 38 )lb , , ,P.. 39 ) ) 前掲 『原初形態』 下, 67頁. , 40 im,op i t 41) Durkhe .c . . ,1914 ,P,213 b id 42)l . , ,P.219. 4 ) デュ ルケームが初期から後期になるにしたがい, 形而上学的な問題を中心的課題とするようになっ たことの適 3 l lwor k 切 な 指摘 は,E. Wa d Un iv ’★輝彦zリ 加川”か の可;照雄ご t ぞ r r va ess sachus et s ,D” .Pr , Ha .62f .参 , Mas ,1972 ,P 昭. 結語にかえて デュ ルケームは次第に, 合理主義的近代的精神を近代の正常な集合表象 すなわち近代社会の理 , 想とみなす立場を明確にしてきた. さらに, 近代的な合理主義思想を 社会連帯の普遍的原理とし , て根拠づけるため, 人類の原初的な精神 とみなしたトーテミ ズムの中にその起源を求めると いう方 向を辿っ てきたの であっ た, すなわち, 近代的合理主義思想の認識原理と道徳原理に共通する普遍 的原理をトー テ ズムに見い だそうと したの であっ た しか しこのことは 近代的 原理の 枠の中 , , で原初的な精神を把 握すること, すなわち, トーテミズムの近代的解釈にほかならないであろう”) 。 「近代哲学の主流は, 理性的精神を聖化することによっ て 身体と非理性的なもの (かならずしも , 4 5 ) とすれば デュ ルケームは社会的レヴ ルでこの傾向 を 反理性的なものではない) を疎外した」 ェ , 結果せ ざるをえないであろう. 従っ て, 人間性の二元的構成の仮定 への固執は 非精神的要因と人 , 間の身体に関わるあらゆる要素が無視さ れることになり, 少くとも次のような可能性を阻害するこ とになっ た.(1) アノミー論においては, 近代社会における欲求の昂進と倫理規範との ヘーゲル , が 『法哲学』 で展開したような, 弁証法的相互関係の把握 (2) 形態学的要因と集合表 象との相互 . 関係の把握.(3) 経済的要因に対す る正統な評価 このことによっ て デュ ルケームの社会学の展 , , 6 } 開において, 初期と後期との間に論理的な矛盾を生じさせることになっ たのである4 )王. 4 ) レヴィ =ストロースは, デュルケームがルソーの中に自然人と社会人との分離を見いだしたのに対し その移 4 , 行の論理を見いだし, 人間性の二元論的見解を廃棄した. さらに, 未開人の精神と近代人の精神とに共通な無意 識な構造を見いだし,それはまた,分離された自然と文化とを結合させようとするものである 人類学からのデュ , ルケ ー ム 克 服 に 対 し て, 心 理学か らの ピア ジ ェ に よ る 試み に も同 様の こ と が指 摘 できる が こ れ らに 関 しては , ,. 別の機会に論じたい, 45 ) 市川浩 『精神としての身体』 勤草書房, 1 975年, 22 5頁, 46 ) デュルケームの人間性の二元論/ ↑に関 する 批判 的検 討に 関 しては,D.LaCapr f p彰火 0 i 7 ′ 芦 2 odz t a .c .pp .281f ,op , ,あ l lwork る いは E. Wa t ,op i .pp .67一70 ,参照,. (1979年 3月 20日). (本学助教授・釧路分校). 25.

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