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経済的社会構成体と唯物史観

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Academic year: 2021

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(1)Title. 経済的社会構成体と唯物史観. Author(s). 小松, 淑郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 27(1): 1-11. Issue Date. 1976-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4405. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 小松淑郎:経済的社会構成体と唯物史観. 経済的社会構成体と唯物史観. 小. 松. 淑. 郎. 経済的社会構成体と唯物史観 -- 土台・上部構造統一説批判 --. 唯物史観の基本概念たる経済的社会構成体, これをめ ぐっ て, 土台説と土台・上部構造統 一説と の対立があることははやくから知られているが, 最近, ふたたび国 内的にも国際的にも 「再検討の 潮流」 に乗っ て論議されているよう である。 これらの論議のうち, 問題点の明確な提示で筆者の興味を唆ったのは,「シンポジウム・ 史的唯物 4) と不破哲三 「社会構成体論争と史的唯物論」(前衛 論の現代的課題」(季刊・ 現代と思想NO. 1 5) とである。 前者における, 島田豊氏の 「ドイツ・イ デオロギー」 のみ ごとな整理と犬丸 NO.38 義一氏の統一説からの卒 直な意見聞陳, 後者における, 不破氏の土台説にたいする方法論的レベ ル に まで迫る批判, これらはい ずれも論議のより本質的な展開を要請しているように 思われる. 小稿は, 統一説批判の立場から, マルクス, エン ゲルスの原意を探ることによっ て, 論議にささ やか でも貢献することを期して執筆された。 けだし批判も発展も原意の確 定なしにおこなわれると き は 空 論 に 終 る だろ う か ら であ る。 し た が っ て 行 論 は, な る べ く マ ル ク ス, エ ン ゲ ル ス の 古 典 を し. てみずから語らしめるという方法によった。 しばしば引用されるレーニン「人民の友とは何か」は, 「マルクスは, 経済的社会構成体という 概念を所与の生産関係の総体として確定し, そう した諸構 成体の発展がひとつの自然 史的な過程であることによ っ て, はじめて社会学を科学的な基礎のうえ にすえた」 という説明を除けば, 二様の解釈が成り立つよう な表現からなっ ているの で利用しない ) こ と に す る(1 .. 工. 「経済学批判 o 序言」 における社会 周知のように経済的社会構成体の概念は 「経済学批判・序言」’の 「定式」 のなかに中心的な位置 を占めている. したがっ て 「定式」 の解釈がこの概念の理解にまず必要なことになる. 小稿は, こ れを 「ドイツ・イ デオロギー」(これは頻繁に引用するの で, D・1の記号 で表わす) その他を用い てマルクス, エンゲルスの原意の再現という方法 でおこなう, なお, 「定式」 の段落的な区切り方そ のものもこの解釈の重要な一環である. 1.. 「私の (法哲学) 研究の到達した結果は, 法的関係も国家形態も, それ自身から理解されうるもの でもなければ, いわゆる人間精神の普遍的発展から理解されうるも のでもなく, むしろ物質的な生 活関係, その総体をヘーゲルが18世紀の英仏人の先例 にならっ て 『市民社会』 の名 で総括している ところの諸関係, に根 ざしているという こと, そして市民社会の解剖学は経済学に求められるもの.

(3) . 小松淑郎:経済的社会構成体と唯物史観 2 ) であ る こ と, こ れ であ る」〈 .. ここには, 唯物史観の, すなわち歴史の唯物論的把握の成立史が述べられている. そもそも, マ ルクスがかかる 結論を獲得するにいたった研究の動機は, フランス社会主義そのものを判断するこ と であっ た。 そして 「歴史の現実的土台」 を無視する観念論は何ものをも解決しないというのがそ の結論であっ た。 唯物史観の成立過程は科学的社会主義の成立過程 でもあっ た。 したがっ て 「定式」 前文のこの部分でもっ とも重要な論点は, 法や国家には土台があり, それは 「市民社会」 とよばれる 「物質的生活関係の総体」 であるということ である。「物質的生活」 につい てはマルクスはつぎのようにいう.「人間の歴史の最初の前提はもちろん生きた人間的諸個人の存在 である. それゆえ最初に確認すべき事態は, これら諸個人の身体的組織およ びそれによ っ て与えら れているかれらのそれ以外の自然への関係 である. ……人間はかれらの物質的生活そのものを生産 する. …… (生活手段を生産する) 生産のこの様式は, それが諸個人の肉体的存在の再生産 である という側面からだけ考察さるべき ではない. それはむしろ, 既にこれら諸個人の活動の一定の仕方, . ない」(D・1, 合同新書 かなら. かれらの生活をあらわす一定の仕方, かれらの一 定の生活様式にじ ま 30~31 頁) .. 人間も生物である以上, 自然とのあいだに物質代謝を営まなければならぬが, かれはそれを人間 に独自な形態 で, つまり物質的生活手段の生産という形態 でおこなうのである.「労働は第一に人間 と自然との物質代謝を彼自身の行為によっ て媒介し規制する過程 である」(資本論1, 全集234頁) . そしてこの生産の一定の様式が人間の現実的生活の一定の様式なのである. しかし事態はこれで終 らない.「この生産は, 人口の増加によっ ては じめて出現する. 人口の増加はそれ自身また諸個人相 互の交通を前提している. この交通の形態が, こん どは生産によ っ て規定されている」(D・1, 31 頁) . つまり, 「生産において人間は,.自然にたはたらきかけるばかり でなくて, また相互にはたら きかける. ……生産するためにかれらは相互に 一定の連関を受容し, これらの社会的連関の内部 で のみ, 自然に対するはたらきかけがおこなわれ, 生産がおこなわれる」(賃労働と資本, 国民文庫36 頁) . したがっ て 「生活の生産は, かならず直ちに 二重の関係として, 一面 では自然的関係 として, 他面 では社会的関係としてあらわれる」(D・1, 58頁) の である. そして 「この社会的生産関係は …・その総体において, 社会的関係すなわち社会とよばれるもの を, しかも一定の歴史的発展段階における社会を, 独特の別箇の性質をもつ社会を形成する」(賃労 働と資本, 37頁) . 第二の論点は, この前文の 「社会」 は 「市民社会」 であるということ, その上に 一定の法的関係 と国家をもち, 経済学によりて解剖される であろうところの社 会 であるということ である.そこ で, かかる対象の研究において成立した唯物史観は, 人類 史一般に どの程度妥当性をもつのかという問 題が発生する. これは 「市民社会」 の全歴 史に占める位置にかかる. すなわち, 個別的・独自的歴 史であるりながら, どの程度に普遍的歴史をあらわしうるかにかかるの である. ひきつ づく マルク スの研究は, 「ブルジョ ア社会は, 最も発展した最も多様な歴史的な生産組織 である. それゆえ, ブ ルジョア社会の諸関係を表現する範噂は, またブルジョ ア社会の編成の理解は, 同時に, すべての 滅亡 した社会形態の編制と生産関係の認識を可能にするの である」(経済学批判序説, 国民文庫301 頁) という 結論を得させた, いまや唯物史観の 「一般的定式」 化が可能になるの である, 2.. 「人間は, かれらの生活の社会的生産において, 特定の, 必然的な, かれらの意志から自立した諸 2.

(4) . 小松 淑 郎: 経 済 的 社 会構 成 体 と 唯 物 史観. 3 ) 関係を, かれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応すると ころの, 生産諸関係を受容する{ . この生産関係の総体が, その社会の経済的構造を, その上にひとつの法律的・政治的な上部構造 が 4 )一定の社会的意 識形態 してまた,その社会の経済的構造には( たつところの現実的土台を形成し,そ、 が対応する」 . ここには, 生産力, 生産関係, 法的・政治的上部構造, 社会的意識形態の四つの契機があら われ て い る が, そ れは ま だ, 「対 応 す る」(ent sprechen) と い う 相 互 関 係 で し か 叙 述 さ れ て い な い. そ れ. ら相互の ダイナミ ッ クスはつぎの段落にゆずられている.たとえば社会は, 生産関係の総体として, 経済的構造として, 形式そのものとして, 生産力と区別された 質料的形式として (内容的形式とし て ではなく) , 説明されている. それはみずから過程し, みずからの形式を生み出してゆく主体的実 体, すな -わち, 矛盾物の統一としての現実的存在, 具体的社会 ではない. 形式としての社会, 社会 の形式的側面である. 第二に, ここにいう社会的意識形態とは, 意識一般および社会的意識一般とおなじも のではない . イ デオロギーとは, 「世界から解放されて, 理論, 神学, 哲学, 道徳等」(D・1, 6 2頁) の独自的 諸形態をもった自立的意識,「それだけで独立に発展し自己自身の法則のみに従う自立した実在的な ものにみえる」(フォイエルバッハ論, 国民文庫71頁) 意識であり, 「直接的な意識」 , 「現実的実践 の 意 識」 (D ・ 1) と は ち が っ た も の であ る, こ の 区 別 を マ ル ク ス は つ ぎ の よ う に 述 べ る. 「観 念,. 表象, 意識の生産はず まず第一に, 直接に人間の物質的活動と物 質的交通という現実生活の言語に あみこまれている。 人間の表象作用, 思考, 精神的交通は, ここ ではまだ物質的活動態度の直接的 流出物である. ある民族の政治, 法, 道徳, 宗教, 形而上学等の言語のうちにあらわれる精神的生 産についても同じことがいえる. 人間がかれらの表象, 観念等々の生産者 である. しかし, その場 合の人間とは, かれらの生産力とそれに対応する交通の一定の発展によっ て, かれらの最も広い交 5 )(D・1 40頁) 通形態ま で条件づけられているところの, 現実的な, 活動している人間 である」( , . 第三に, 以上からして, この社会は, 自立的な意識形態をともなうような特定の段階のそれであ る, 分業と私的所有の成立によっ て実在的共同体は崩壊し, 社会は, 分業によっ て相互に依存しあ う孤立的個人の一定の関連のうちにのみ実存するしかない, いまや個人的利益と共同的・社会的利 益とは分裂対立するに至り, 後者は国家として 「社会の外に, 社会とならんで」(D・1, 165頁) 自立する. 国家として自立した社会は, 幻想のうえでのみ共同体 であっ て, 現実には支配階級の利 6 ) このような社会の最高は近 代的市民社 益を共同的・社会的利益の名のもとに布告するのである{ 。 会である。 唯物史観の 「一般的定式」 がなにゆえに, かかる疎外的社会を土台として語られるの で あろうか. それはこの社会がその疎外態にかかわらず最高の歴史段階をあらわす からである。 ブ ル ジョ ア社会はすべての滅亡した社会形態の破片や要素 で築かれたの であり, その疎外態の故にそれ 以前の諸関係はしばしば萎縮し歪曲されて含まれているにもかかわらず古代その他の経済への鍵を 提供するの である. 普遍は直接に普遍として 存在せず, 具体的普遍としての発達した個物のなかに しか存在しない。 われわれはこれの分析により普遍を認識するの である. 最後に, したがっ て四つの契機は社会の契機として ではなく, 社会をその中に含む人間の 全歴史 の構造的契機として登場していることが明らかになる。 マルクスによれば, 歴史とは, 個々の世代 による連続的な生産力の継承過程,しかも各世代に独自な形態による継承過程にほかならない(D・ 工, 74 頁, ア ネ ン コ フ 宛 書 簡, 1846・12・28) が, そ れは, こ れ ら 四 契 機 相 互 の ダイ ナ ミ ッ ク ス の. なかに実現するの である↓. 3.

(5) . 小松淑郎:経済的社会構成体と唯物史観. 3.. 「物質的生活の生産様式が, 社会的, 政治的, 精神的生活過程一般 を条件 づける. 人間の意識がか れらの存在を規定するの ではなくて,逆にかれらの社会的存在がかれらの 意識を規定するの である. 社会の物質的生産力はその発展のある段階で, それらがそれま でそのなか で運動してきた既存の生 産関係と, あるいはそれの法律的表現 でしかない 所有関係と矛盾するにいたる. これらの諸関係は 生産力の発展形式からこれらの桂格に転化する. そのとき社会革命の時代なる ものがはじまる. 経 済的基盤の変化とともに, 巨大な上部構造全体が, あるいは徐々にあるいは急激に変革される」 . この段落の切 り方が通常の解説書と異なることに読者は す ぐ気づかれた であろう. これは, 筆者 の 「生産様式」 概念の理解にもとずくの である. この概念については, いまのところ, 労働過程様 式説と生産力・生産関係統 一説との対立があるが, 対立する何れもが唯物論的・弁証法的な理解を 欠 い て い る よ う に 思 わ れ る.. 筆者は, 「生産様式」 とは, 具体的過程としての生産過程であると考える. およそ過程すなわち運 7 ( 動 )とは, 物質の存在形式に他ならず, 抽象的には諸契機として, 具体的には諸契機と形式との統一 としてあらわれるもの である. 生産過程は, 本源的には具体的有用物の生産過程 であり, その契機 は生産諸手段と生産的労働 である. ところが現実には, 生産的労働はひとつの協働=社会的労働と しておこなわれるから, 生産の諸契機はそれ自身の自然的形式とともに社 会的形式をもうけとら ざ るをえない. 具体的生産過程すなわち生産様式とは, この二重規定をうけとっ た諸契機の総体 (的 過程) である. したがっ て, 生産様式は, 生産の諸契機の自然的過程と社 会的過程との統一過程でもある. ここ では, 前者は統一過程の素材的内容となり後者はそ れの社会的形式となる. 両者は, 統一過程の対 立的に依存しあう 二属性 である.しかしこの対立的依存は内的なもの であっ て外的なもの ではない. 相互惨透, 相互移転の関係にある. 資本制的生産過程を例にとればそれはつ ぎのようにあらわれる. まず, 自然的過程 である協 業的形態が, 社会的過程 である剰 余価値生産の形態になる. 協 業におい て, 社会的・平均的労働が現実化し, 一定量以上の剰余価値が生産される. 協 業における指揮機能 が剰余労働強制の支配機能に転 化し, 協業に独自な社会的生産力 が資本の生産力に転化する. 他方, 社会的過程 である貨幣資本の生産手段と労働力への転態と相対的剰 余価値の生産とが自然的過程で ある協業の実現形態となる. 資本の集積と高 度化とが協業の生産力を生み出す. このように対 立物の統一は, たんなる両者間の交互作用にあるの ではなく交互渉透にある. 統一 過程たる生産様式 では, 生産物が生産されると同時に, その生産物が社 会的形式の素材的担い手と して生産され, したがっ て社 会的形式そのものが生産物どおしの関係として生産される. 生産の自 然的形態と社会的形態との対立と統 一, 物質的生活手段の生産と社 会的生産関係の生産との統一, これこそ 「生産様式」 にほか ならない. したがっ てまた, 生産様式は内的対立を外的対立として措 定するひとつの過程体=運動体である.「生産様式」 =労働様式説は形而 上学的観念論であるが,内的 8 ) 対立と外的対立の区別なしの統一説は無概念的思考 である( . 生産様式概念の内包は以上で尽きるもの ではない. これまでは直接的 生産過程の 様式であっ た。 生産過程はそれじしん で運動を継続 できるものではない. 流通・分配・消費の諸過程によ っ て媒介 されねばならぬ. この関係は, つ ぎのように述 べられる. すなわち 「それらはひとつの総体の構成 部分をなしており, ひとつの統一体のなか での区別を なしている. 生産は対立的に規定された生産 としての自己自身を 包括しており, また他の諸契機をも包括している. 過程はたえず繰り返し生産 4.

(6) . 小松 淑郎: 経 済 的 社 会 構 成 体 と 唯 物 史観. からはじまる. 交換や消費が包括的なもの でないことは自明 である. 生産物の分配もやは りそう で ある. しかし生産要因の分配としては分配それじしん生産の-契機 である。 したがっ て一定の生産 は一定の消費・分配・交換を規定し, これら諸契機相互の一定の関係を規定する」(経済学批判・序 説, 国民文庫2 92頁) . 生産過程は再生産過程となることによっ て自己自身およ び流通・分配・消費の諸過程をそのうち に 包括するひとつの統 一体に転化するの である. したがっ て, 生産様式も再生産様式として, 包括 的な総体としてあらわされねばならぬ. そうすれば, 直接的な生産様式は, この統一体, この普遍 的総体としての生産様式となら ぶ, 具体的普遍, 普遍的総体を規定する具体物としてあらわれる . この段落の「物質的生活の生産様式」とはまさにこのような包括的統一体をさす ものと思われる , かかる生産様式を楯杯として展開されるこの段落は 全生活過程に対する生産 様式の規定性 革命 , , による社会の転覆と上部構造 の廃棄を, 生産力, 生産関係, 意識およ び意識の産物 の三契機の相互制 約, 相互矛盾によっ て説明している ここ では さきの段落のよう に歴史をそのモメントの静態的 . , 関係 で把えるの ではなくて, ひとつの動態的過程と してあらわすの である その積粁が これまで . , 述べた動態的な, 主体的な包括体としての生産様式なの である 諸個人はここ では 運動するこ の . , 統一体の 人格的定在としてあらわされ,諸個人の在り方はこの運動体の形態によっ てあらわされる . 社会的意識形態は, この統一体の運動 が諸個人の脳髄に 反映して形成されたものであり そのなか , で諸個人とこの統 一体との関係が 「カメラ・オブスキュ ラのなかでのよう に逆立ち してみえるとし たら, そうした現象はかれらの歴史的生活過程から発生するのである」(D・1 40~41頁) , したがっ てまた,「意識の全形態と全産物とは, これら観念論的たわごとを生 み出した現実的な社 会的関係の実践的転覆によっ てのみ融解されうるの である - 批判 ではなく革命が 」(D・工, 82 .. 頁) 4.. 「このような変革の考察にあたっ ては, 経済的生産条件におこる物質的な, 自然科学的忠実さ で確 認 できる変革と, 人間がこの衝突を意識し, かつそれを闘っ てけりをつける場所である法律的, 政 治的, 宗教的, 芸術的, 哲学的, つまりイ デオロギー的諸形態とを, つねに区別しなければならな い. ある個人が何 であるかを, かれが自任していることから判断しないように, このような変革期 なるものを変革期の意識から判 断できない. むしろこの意識を物質的な生活の矛盾から, 社会的生 9 } 産力と生産関係とのあ いだに現存する衝突から説明しなければならない」( , この段落は, 変革期の唯物論的把握の方法と, それを例にした歴史の唯物論的叙述の方法一般の 説明 である. ここの要点の第一は, 経済的条件におこる変化は, 客観的データにあらわされ, それ . イ デオロ ギー的 の分析と綜合という自然科学の方法で認識できるもの であるということ。 第二は, 形態は変革の説明基準にはならないが, 変革はそこにおいてこそ 「けりをつけられる」 ものである と い う こ と であ る.. 国家として自立した幻想上の擬似共同社会は, 生産力の自然成長的な緩慢な発展による旧い生産 関係の残存状態が続くとき, 新しい生産関係に敵対する旧い生産関係の伝統的支持力となる. した がっ て, 旧生産関係の転覆つまり全変革の決着は, この支持力の打倒なく しては不可能 であり, こ の打倒は革命なく しては不可能なの である. (D・1, 14 8~9頁) -- 革命的独裁必然論。 この説明には, 経済的条件とそのイ デオロ ギー的形態とのあいだの相互関係, 相互作用について 5.

(7) . 小松淑郎:経済的社会構成体と唯物史観. の深刻な弁証法的な認識が横たわっ ているように 思われる. 変革は, 土台においても 上部構造にお いてもたたかわれるが,後者におけるそれは 土台の反映でありながらそれなりに独自的形態をもち, 決着に決定的役割を演ずるのである. 土台と上部構造との統 一 (?) や歴史の時代区分を論ずると き, 意識的に考慮せねばならぬ問題点である. 5.. 「社会構成体なるものは, それが許容しうる限界ま で全生産力が発展 しきるま では決して没落する ものでなく, そして新しいより高度な生産関係なるものは, その物質的な存在条件が旧い社会じし んのふところ で膳化しきる ま では決して登場するものではない. だから, 人類はつねにかれらが解 決しうる問題のみを自 分に提起するの である, けだし, より詳しくみるならば, 問題そのものがそ の解決の物質的条件が既に内在するかあるいは 少くとも生成しつつあるところ でのみ発生する, と 1 0 ) 大 づか みに いっ て ア ジ ア 的 古 代 的 封 建 的 近 代 る か ら であ る( いう こ と が つ ねに 見 出 さ れ. , , , , .. ブルジョ ア的な生産様式を経済的社会構成体の発展段階的諸時代と してあげることができる. ブル ジョア的生産関係は社会的生産過程の最後の敵対的形態 である. …・しかし ブルジョ ア社会のふと ころ で発展する 生産力は同時にこの敵対の解決のための物質的条件をつくり出す. だから, この社 会構成体をもっ て人類の社会の前史は終る」 . ここ では,「社会構成体」 があらわれ, 独自の内部矛盾すなわち生産力と生産関係との対立と統 一 によっ て, 生成発展死滅する歴史的生産様式として 説明されている. 注意すべきは, イ デオロギー についての言及が ないこと である. これは, 社会構成体なるものの 歴史は, イ デオロ ギーにおいて 反映さ れ, またそれによ っ て媒介されるもの でありながら も, それ自体として, 自己完結的なひと つのシステムをなしていることの証明 であろう. 定式冒頭において, いずれも 「対応」 と表現され た四契機の関係は, かくして, 前二者と後二者の, それぞれの内 部的関係とにわかれる. 前二者内 部の 「対 応」 は対立的統一と相互惨透 であり, 前二者と後二者との 「対応」 は外部的な相互作用 で あ る こ と が わ か る.. つ ぎはアジア的生産様式について. 筆者は, マルクスのこのときま での研究の 進行を考慮し, や フアミリ シユタム はり 「フオ ルメン」 によっ て解釈する. それによれば, この社会は, 家父長制大家族→部族→部族 連合という 共同体組織からなり私有はま だあらわれていない. しかし部族共同体内に剰 余労働の可 能性が成立し, 部族連合 ‐ ひとつの統一体をなし, 特殊的諸部族共同体に対してひ とつの特殊的普 トリブート 遍として並ぶ - の人格的定在としての専制君主に貢 納としてささ げられる.資本論 ではこれを「貢 納受領国家」 とよ び, 諸個人と専制君主の関係は 「政治的従属関係」(剰余価値学説史) , 「総体的奴 隷制」(フォ ルメン) と考えられている. このばあい, 国家は諸個人どおしの社会的関係が自立した 擬似共同体 ではなく、 共同体連合としてやはりひとつの現実的 共同体 であり, したがっ てまた生産 様式 である. かかる共同体は, 「最も粗野な国家形態」(反デュ ーリン グ) であると同時に, 原始的 1 1 ) かく して四つの 生産様式の世界史的配列は 共 共同体社会の最も発達 した最新の形態でも ある{ , . の並立する生産様式 ) (変形された共同体 ) 私有と共同体 同体的生産様式 (その最高の形態 , , 私有 の制覇と共同体の消滅(幻想的 共同体自立) にもと ずく生産様式の系列, または, 共同体, 奴隷制, 農奴制, 資本制をそれぞれ支配的ウクラー ドと ,する諸生産様式の系列をあらわしているということ 1 2 ) に な る( ,. 最後に 「敵対的生産関係のなかでの 生産力の発達」 について. この敵対はもちろん第一に諸個人 ものではない. そもそも階級分裂なるものは私有と分業 の階級への分裂を指すが, それにと どまる. 6.

(8) . 小松 淑即 : 経 済的 社 会構 成 体と 唯 物 史観. との自然成長的な発展の結果でしかない, 人間がこのような社会に住み, その活動が不自由に分割 されているかぎり, かれの本来的活動の関係も力も, かれにとっ て疎遠な, 対立的なものになり , かれがそれらを支配するかわりに, それらがかれを支配する 支配階級はこの疎外された関係と力 . と の 人格 化と して 支 配階 級なの である 私有の廃止と生産の共産主義的統制が この疎外を根絶 . , でき る の であ る が, こ こ では じ め て, 諸 個 人 は 階 級 と して では なく 個 人 と し て 社 会 に は い る 個 人 ,. は分業へ固定的に緊縛されるのではなく, 自由な発達と活動とを保 障される 生産力の敵対的発展 。 こそこのような抽象的個人の創出 を準備する. それは一方での, 協 業と共同体的所有の物質的条件 の創出の準備に対応している.. 1 1 。 土台= 上部構造統一 説の検討. 不破論文は, 社会構成体とは, マルクス, エンゲルスがブルジョ ア的非歴史的社会観に対置した 「一定の歴史的発展段階にある社会」 を指す概念であり したがっ て 「社会全体を包括する唯物論 , 的な概念」 であると定義する. これには問題はない しかし氏はここからすすん で「包括的な社会」 。 だから上部構造をも含むはずだという議論を展開する もちろん, いくつかの論拠となるらしい引 . 用もあるが, それらはいずれも 「含む」 という積極的表現をしていない それどころか 「社会は生 . , 産関係の総体」 といっ ている。 自分の引用文に背かれた氏は宣言する 「直接的には (こういう) 言 , い方をしているが, この文意が物質的生産関係の強調にあることは明瞭 である」 と しかし 氏に , . とっ て残念であるが, マルクスの直接的表現はすべてこのとおり である 筆者は寡聞にして「社会」 。 を上部構造を 「含む」 ものとした マルクスの言葉を知らない . 直接的表現がなければ解釈によらねばなら ぬ 氏は 「さま ざまな社会構成体の 存在条件がひとつ . ひとつ探求されなけれ ばならぬの であっ て, その上 でこれらの条件に照応する政治的等々の見方を これらの条件から導びき出すよう に試みなければならない」 というエンゲルスの書簡をつぎのよう に解釈する. すなわち, 「エンゲルスはこの引用文 で, 社会構成体の 『存在諸条件』 つまり経済的土 台とそれに照応する 『政治的 …・の見方』 を問題にしているが, これは社会構成体を経済的土台と 同一視したらまっ たく意味を失う 文章 で(ある) 」 . しかしこの解釈は正しくない。「存在条件」 とは 存在するものに外的なものではない。 社会構成体をなりたたせる契機すなわち生産力の一定水準 と 生産 関係の一定形態がその存在条件 である 氏の主張からすれ ば 経済的土台と上部構造とがそれ , . であろう. ところが氏は土台のみをそれだという。 これは存在条件とは外的な条件だと いうの でな ければ成立しな い, とすれば, 経 済的土台は社会構成体に含まれな いという奇妙なことになっ てし ま う。. マルクスは明確な土台=社会説 である.「私的所有が共同体から解放さ れることによ っ て,国家は, 市民社会の外に, 市民社会とならん でたつ独自な存在となっ た」(D・1 165頁) 「生産と交通と , . から直接に展開さ れる社会的組織体は, いつの時代にも国家およ びその他の観念論的上部構造の土 台をなす」(D・1, 16 3頁) 。 社会構成体の土 台ご上部構造統一説は, 社会は人間によっ てつくられるが 人間は意識的存在 で , あるから, つくられる社会は当然に意識を含むはずだと いう前提に無意識的に立っ ているよう であ る。 不破氏も, 社会構成体を社会 であると証明すれば統一説もなりたつかのように筆をすすめてい る. しかし, これは証明されるま でもなく直接的表現をいく らでももっ ているの である 統一説の . 誤まりの原因は, 第一に直接的・実践 的意識と自立した社会的意識形態との混同 第二に通俗的な , 7.

(9) . 小松淑郎:経済的社会構成体と唯 {物史観. 3 1 ) 社会概念への安易な依拠, 第三にマルクスの表現の窓 意的な黙殺, である( 2.. ここ では, 不破論文の 「若干の補足的な問題点」 に, 統一説からいつも出される問題を加えて検 討する. 順序は不破論文とちょう ど逆になっ ている. (1) 唯物史観か唯物社会観か. 不破氏が, 生産関係の総体を社会有機体とみなすことができない理由は, 自由な商品交換制度に たつ資本主義でも, 国家の経済活動は社会の経済的運動の重要な契機を なしているから, 政治・軍 事組織を生産様式の不可 欠の特徴としている封建社会や中央集権的専制国家を基礎とする古アジア 社会 では, 国家ぬきの社会構成体を考えるこ とは できないということ である. ここには, 氏のマルクス的国家概念への無理解が端的に 表現されている. 「国家の形態 での ブル ジョ ア社会の総括」 の意味は, 共同体が分裂して, 社会が諸個人の関連の なかに しか存在しなくな ると, 個人的利益に対立する 一般的・社会的 (実は階級的) 利益を実現するために擬似共同体とし ての国家が成立するということ である. 共同体の存在するところ, 社会が直接に政治性を帯 び本来 的な国家発生の可能性はないし, また特権的な共同体連合と して発生したとしても, 生産力の未発 達 な時代 であるから経済の強大な制約をうけ ざるをえず,自立的活動の余地は極めて狭いの である. 8頁) (ユ ダヤ人問題, 国民文庫309頁およ びフォ イエルバッハ論6 . 氏の見解は, 近代は経済で説 明 できるが, 中世・古代は政治で説明すべき であるという 通俗的主張に通ずるように思われる. 何度も述べたよう に 土台と上部構造とは相互に作用 しあうが対立物の統一としては存在していな い. 実在する統一体は生産様式としての社会 でしか ない. しからば, この 「社会」 と上部構造の運 動 を 総 括 して マ ル ク ス, エ ン ゲ ル ス は な ん と よ ぶ か. か れ ら は そ れ を 「歴 史」 と よ ん で い る. 不 破. 氏の引用される 「この歴史観の 基本は云々」(D・1) の個 所では市民社会は 「全歴史の基礎」 と表 ・ 現されている筈 である. そ してこの基礎からイ デオロ ギー的形態の成立を跡づけると 「おのずから (それ故にまたこれらさま ざまな側面の交互作用も)明らかにされる」 事柄もそれの全体性において・ i と い う の であ る. こ の d esa cheが歴史を指すことは, 少し注意する だけ でわかるは ず である. 唯物 史観とは, 歴史の唯物論的把握 であっ て, 社会のそれ, つまり唯物社会観で はない. (2) イ デオロ ギー的形態に歴史過程はない. 統一説が上部構造も 「自然史的過程」 をもつ から土台と統一 できるというときの論拠はエンゲル スの 「力の平行四辺形」 論 である. このばあい,「自然史的」 とは 「内的・一般的法則に支配される」 ことだという解 釈が前提され, そして, 多様な方向と形態とをもっ た個別意志と行動が結局はそれ らと異っ た合成結果に総括されるという意味において, 上部構造には 「無意識的な自然を支配して いるのと全く類似の状態がもたらされる」 とされるの である. これは, エンゲルスの説明を非常に表面的に しか読んでいないものである. かれの真意は, 歴史 の科学的把握においては, 表面上の偶然すなわち個人的意 志を捨象して大きな人間集団すなわち諸 階級の意志をとらえ, そしてそれにおいて現われている歴史の究極的な推進力 を結局は社会の経済 的運動としてとらえることが唯 一の道 であることを示すにあっ た. 大事なことは, 結果が合成力 で あるということ ではなくて, 個別的力も合成力も結局は経済的条件によっ て制約されているという こと である. 結果が合成 であるという だけ では, 必然性は少しも証明されない. また, 法則に支配 されるという だけ では, 必然性は証明されても, 自然性は証明されない. 物質的生産力に条件 づけ 8.

(10) . 小松ま 殻郎:経済的社会構成体と唯 {物史観. られてはじめて自然必然性となる. 物 質的生産力の必然的発展とその世代的継承が歴史を自然必 然 的な発展過程たらしめるの である. しかしこれは その反映性を 媒介として 上部構造に自然史的 , , 性格を与えることにはならない. 生産力 は生産関係を変化せしめ 生産関係の変化が上部 構造に反 , 映するのみ である.その 反 映はイ デオ ロ ギー材料による独自的模像 であり 土台から自立した形態 , をとる, 上部構造は自立的過程をもたぬが また自然史的な過程の直接的反 映でもな い。 ,. (3) 社会構成体と時代区分 犬丸義一氏は, 社会から政 治を追い出すと時代区分が成りたたないといわれる そして 市民革 . , 命= ブルジョ ア権力の成立, 産業革 命=資本制的 経済構造の成立 というシェ ーマを示される こ , . れは, 氏の統一説は氏の経済史理解の不足から生 じたもの であることを表わしている , イ ギリス経済史 では, 張漢裕氏 の研究いらい 市民革命後の社会構造 は マニュ 資本を独自 的形 , , 態とする 資本制的なものとするのが通説である この時代の重 商主義は 革命以前の絶 対主義的な . , いし前期的重商主義と異なり, 資本制社会の共同利益 をすなわちマニュ 資本の利益を実現する議会 重商主義ないし固有の重商主義 である 農民層のブルジョ ア的分解 は完成期には いり 残存する小 , , 経営は小商品生産者として資 .本関係の擬制をうけ, 貴族も ブルジョア地主 である. マルクスも既に D・1で, おそらく方法論上の要請から であろう が イ ギリス経済史を17世紀半以前と以 後に区分 , し, 以前は国庫財政の必要からの重商主義 以後は マニュ 保護のため の重商主義としている (D・ , . 1, 121~122 頁). ピューリタニ ズムのための革命は, 実は マニュ 資本の 封建的な 貴族特権 ギル ド特権 独占 , , , , 特権に対する革命であったのである これら特権の総括である絶 対主義を打倒しなく ては 旧生産 . , 関係は依然として維持され, 新生産関係の社 会的制覇は望 むべくもな い まさしく革命は歴 史の分 . 水嶺を形成する, しかしこれは 「社会史」 のそれ ではない 「社会史の 諸時代は 地球史のそれと同 . , じく, 抽象的で厳密な限 界線によ っ ては区分されな い」(資本論1 全集48 6頁 ) のである. , (注) 1 ( ) もっとも筆者は二様の解釈はなりたたないと考える レーニンのこの問題についての基本的立場は つぎの表現 . で明瞭である, すなわち,「社会的存在と社会的意識は同一でない それは存在一般と意識一般が同一 でないのと . 全く同様である. 人々が交通にはいるにあたって 意識ある存在者として交通にはいると いうことか らは社会的 , 意識が社会的存在と同一であるということは決して帰結されない ……社会的意識は社会的 存在を反映する. - , ここにマルクスの学説が成立する. 反映は反映されるものの近似的に正確な模像でありうる だがこ こで同一性 . を語ることは不合理である (「唯物論と経験批判論」 国民文庫45 3~4頁)「同一性」 は弁証法的により正確にい , えば 「統一性」 である, ( 2 ) 訳文はかはり筆者流である なお複数をあらわす 「諸」 は誤解を招くところ以外は省いた . . i ( 3 ) このe ngehenの訳には, はいりこむ, とりむすぶ, 受容する の三つがある 四格で受けられる他動詞的用 法 , , としてのこの語は,「意識を通過しない で形成される諸関係」 を 生産諸力の世代的継承性のゆえに , , うけとらざ るをえないという事実をあらわしていると思われるので 最後の 「受容する」 をとる (高橋,安東・河 南, 「経 , , 済学批判・序言」 邦訳の再検討, 甲南大学 「経済学学生論集」 2-1参照) なお この語は 生産関 係に必ず使 , . , われているようである, たとえば,「特定の様式 で生産的に活動する特定の諸個人が 特定の社会的 .政治的関係 , をアインゲーエンする」(D・1,3 9頁) , また,「総じて生産がおこなわれるためにはそれら(生産の諸要因) が 結合されねばならぬ. この結合の仕方・様式の特殊性によって社会構造のさ ま ざまな経 済的諸時代が区別さ れ る. ・ ・ ・・こうしてよせ集められた人的・物的な商品形成者たちが相共にアインゲーエンする現実的過程たる生産 過程は, それ自身資本の - 機能-- 資本制的生産過程となる」(資本論1 1 9頁) ,4 . さらに,「資本制的生産過程は それに先行する全ての生産過程がそうであるように 一定の物質的諸条件のもとでおこなわれるの であるが , ,こ れらの諸条件はまた同時に諸個人が自分たちの生活の再生産過程でアインゲーエンする一定の社会的関係 の担い 手でもある. それらの条件もこれらの関係も 一方 では資本制的生産過程の前提 であり 他方では , この過程の結 , 果であり所産である. それらは, この生産過程 で生産され再生産される」(資本論1 1 110 49頁) 既に引用した 「賃 . 9.

(11) . ~:経済的社会構成体と唯物史観 小松淑劃 労働と資本」 も同じ. 土台か構 l e rは, 二格であるから受けるものは女性名詞 である. したがって上部構造ではなく, ch ( 4 ) この und we 物をと 比職概念よりは実 ったわけで 造かどちらかである. 一般の訳は前者にしている が, 筆者は後者をとった. ある. 人間は は じめは, ( 5 ) イ デオ ロ ギー の 発 生 史的 説明 は D ・ 1,60~2 頁に あ る. そ れに よ れ ば大 略つ ぎのよう である.. (群棲意識) 自然についての純粋に動物的な意識 (自然宗教) と, 社会のうちで生きていることへの自覚の端緒 人口増加によっ 基盤たる およびその 増大 諸要求の 生産力の発展 れらは すぎない しかしそ , , とをもっているに , . 現われ て発展する. 他方これとならんで分業が自然成長的に発展し, 遂には物質的労働と精神的労働との分割が ができるよう 思いこむこと ように実際に る. この瞬間から, 意識は現実的実践の意識から離れて別物であるかの になる, 意識は現実世界から解放されてイ デオロギーの形成にうつる. 自然 なお, アニミズムをイ デオロギーの一つに数える論者 (たとえば犬丸氏) があるが, これは粗野な段階の であるが ズ なるとこれまた別 ムと トーテミ 形態ではない . て社会的意識 - であ っ 認識 - 霊魂は自然法則か .. ( 6 ) エ ン ゲ ル スは か か る 自 立 の ない社 会 であ る 氏族制 度 に つ い て, 「共 同 の事 項 は い ま よ り は る. かに 多い. に も かか. う !」 と い っ て い わらず現代の広汎かつ複雑な行政機構の形跡さえも必要とならない. なんと驚くべき制度だろ 7~8頁) る (家族, 私有財産, 国家の起源, 岩波文庫12 は ( )「われわれは プロツェ ス (プロセ) という語を経済的運動の意味につかっています. ムー ヴマンと訳すかまた 7 1 ) ・ 8 6 9 ・ 1 0 8 宛書簡1 ルグ夫妻 ラフ ァ これに似た語に訳すべきです」(マルクスの うに思 8 ) 労働様式説の誤まりは, 生産様式をすぐれて具体的なものとして理解しないところから発足しているよ ( 一といったあ 係との統 生産力と生産関 生産様式は 「 しばしば 氏はいう ある芝原拓目 の代表者で , われる. この説 . な論理にしたが いまいな広い概念として理解されているが, かかるあいまいさは科学の敵である. 資本論の厳密 係や生産物の 生産手段の所有関 それ自体は うと, 生産様式とは労働過程の技術的,社会的条件そのものであり, 」(所有と生 範噂である 内容規定をなす 会的結合の 分配関係を捨象したところの労働過程(生産力)の技術的・社 産様式の歴史理論, 23頁) 「それ自体」 あきらかに氏は 「生産様式それ自体」 をもって 「生産様式」 と同一視している. 論理的にいえば, うな抽象は とは具体物をそれの諸属性に分析し, そのうちの一般性を以てその物を表わした抽象である. このよ 論である 一視するのは観念 , マルクス 具体物の独自性を明らかにするために必要ではあるが, それを具体物と同 続きで めの論理上の手 再生産するた も, それ自体としての生産様式を分析しているが, それは具体物を観念的に 生産過 資本の 生産過程は ) では資本の 「 ( 労働過程 たとえば , あって, 具体物と混同するようなことはなかった, け現われ 的規定性でだ た形では素材 働と区別され 資本は労 て現われ とし 程として現われずに生産過程そのもの , 面よりすれば, 単純な生産過程として考察されてきた. だがこの過程は, る」 , また 「資本はこれま でその素材の 3頁) 形態規定性の面からみれば自己増殖過程である」 .(経済学批判要綱22 一側面として述べられている みられるように,「生産過程そのもの」や 「単純な生産過程」 は資本の生産過程の れである (小松) - と とはまさにこ 「 」 - それ自体 のである. そればかりか明瞭に 「すべての生産の一般的条件 て現実の歴史的生産段 あ これによ て っ もないので っ , いわれるものは, このような抽象的契機以外のなにもので 典拠となって 芝原氏の主張の なお ある としているので ) 6頁 7 ・序説2 , . 階は決して把握されない」(経済学批判 なっ 氏の引用は逆に 」 である もの り生産様式その 社会的条件つま 技術的および 「 労働過程の . いる資本論の文は ている. 観念論的理解と不正確な引用をもって 「資本論の厳密な論理」 とは困ったものである. 説明したヘーゲ 最後に, 本質論レベルでの質科=形式の関係と現象論レベルでの内容=形式の関係との区別を 形式に無 有においては その定 無形式ではないけれども , ルの論理学を紹介して参考にしたい.「質料は潜在的には 外的なもので たいして 形式は内容に なく 式なものでは 内容は無形 反し , 関心なものとしてあらわれる. これに , 1頁) あると同時に, 内容は形式を自分自身のうちにもっている」(小論理学, 岩波文庫6 従来の社会の個々 他方でのたんに 一定の生産力 , 9 )「全体的転覆のこうした物質的条件, すなわち, 一方での既成 ( ている総体的活 生産の基盤とな て その生活の っ の条件に対してのみでなく, 従来の生活の生産そのものに対し , 4頁 ) 3 ~ 8 8 D・1 成 た条件 」( とい 衆の形 っ 動に対して反逆する革命的大 , た I D ( )「ある国のうちに衝突がひきおこされるための条件として, この (生産力と交通形態との) 矛盾が, この国じ - 国 いの内部で極限に達している必要はない.,国際的交通の拡大によってひきおこされる工業的によ )発達した諸 」 十分できる 出すことが な矛盾をうみ . との競争が, 相対的におくれた工業しかもたない国のうちにもおなじよう (D ・ 工, 130 頁). 論の発展」(歴 QD 熊野聡「『反デューリン グ論』 から 『家族・私有財産および国家の起源』 へのエンゲルスの国家 二重のものに求め 支配という を共同利益と階級 ゲルスは国家の起源 「 反デ のエン ば 」 ) によれ , 史評論NO. 252 成 ているが,「家族」 では, 共同利益の実現機関としての国家は認めていない. 東洋の専制君主, アジア的国家形 10.

(12) . 小松 淑郎: 経 済 的 社 会構 成 体 と 唯 物 史観. は 「氏族制度のなかにいれ, 社会秩序としての氏族制度が無力となったとき国家があらわれた」 としている 変 . 更の理 由 はモ ル ガン であ る. 「最 も 粗 野 な 形 態」 の 国 家は 否 定さ れ た の であ る 。. q 2 ) この四つの生産様式を階級関係ぬきの商品論次元の社会とする平田清明氏の見解は,「商品論次元」なる論理的 分析レベルの範噂を, つまり具体的な生産様式のひとつの抽象的側面を, 実体化して生産様式とした観念論であ る. 生産様式=労働様式説と同根である. Q 3 ) なお, 不破論文には幾つかの問題が感ぜられる. その一は, 唯物史観成立時の思想状況の過度の単純化, その 二は, 「ブリ ュ メ ー ル 18 日」 の 「主題」 が 「社会構成体の交代と政治的英雄たちの消長」 だという解釈 その三 , は,「史的唯物論が何よりもまず階級闘争の理論である」 という理解, その四は, 唯物史観を経済的社会構成体を 研究する歴史学とする主張である. 二についてはマルクス自身が序文で 「平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を 演ずることをえせしめた状勢と事例とをフランスの階級闘争がどんな風につくり出していったか」 であるとして いるし, 三についてはこれまたかれじしんがワイデマイヤ宛書簡で,「私が新しくやったこと」 は, 階級の存在を 生産の特定の歴史段階だけに結びつけたこと, プロレタリアートの独裁は必然的 であること, この独裁は無階級 社会への過渡をなすこと, であるといっている. 四は, 世界史と世界史の研究とに関する一般的理解たる唯物史 観の窓意的な限定であり, このように狭小化すれば, 対象の内容を拡大して一般性をとり返すしかなくなるのは 当然である. (本 学助 教授 ・ 札 幌 分校). 11.

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