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写本『随筆集』と刊本『閑暇』がホッブズの著者ではないことの証明

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Academic year: 2021

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(1)Title. 写本『随筆集』と刊本『閑暇』がホッブズの著者ではないことの証明. Author(s). 清末, 尊大. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 42(2): 35-41. Issue Date. 1992-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4516. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 2巻 第2号 北海道教育大学紀要 (第1部B) 第4 i i i l lof Hokkaido Univers ty ofEducat t Jouma on(Sec onI B) Vo .2 .42 , No. 平成 4年2月 February ,1992. 写本 『随筆集』 と刊本 『閑暇』 が ホ ッ ブズ の 著作ではないことの証明. 清. 未. 尊. 大. イ ギリ ス の ダー ビ ー シ ャ ー 州 チ ャ ツ ワ ー ス に あ る, キ ャ ヴ ェ ン ディ シ ュ 家 の 本 家 た る デ ヴ ォ ン シ. ャ一家の城の図書館に, 『随筆集』という表題の, 4折判78頁の写本がある.この写本は紋章を押し た革で製本され,ウィ リアム o キ ャ ヴ ェ ン デ ィ シ ュ (W‐ Cavendi )が 父 親 の デ ヴ ォ ン シ ャ ー 伯 sshe (My Lord)に 宛 て た 手 紙 が 献 辞 の よ う に つ い て お り,元々 は ホ ッ ブ ズ 文 書 に は 入 っ て い な か っ た も の だ が,今 日 で はホ ッ ブズ 文 書 の 番 号 が つ け ら れ て い る(Chat 3)。 正 確 な 表 th Hobbes Ms swor s ,D‐. 題と目次はこうである. 『随筆集. 1倣慢, 2野心, 3虚飾, 4悪口, 5我意, 6主人と召使, 7出. Essayes l of Arrogance 2 0f Ambi 費, 8 訪 問, 9 死, 10 歴 史 書 を 読 む こ と ion 3 0f t M [ Af f fD i 0 i fS f f 4 0 l i l 1 0 t t t t 5 6 t ds 0 fE 7 ec a on as ers an 1 ant erac on e ‐w s xpences 8 0f Vi i ions 9 ofDeathlo ofRead ingeof Hi i tat s stor es 』 こ の 写 本 に 最 初 に 注 目 した の が, 1930 年 .. 代初めにホッ ブズ研究のためにここを訪れた著名な政治思想史学者レオoシュ トラウス( 899‐197 1 3 ) であり, 彼はその図書館員フランシス o ト ン プ ソ ン と と も に そ の 写 本 研 究 に あ た っ た。 シュ トラウスがその写本に注目したのはこう考えたからである. ホッ ブズの政治学は自然科学に 基づいていない, そればかりかむしろその逆で,16 29年以後自然科学の研究に集中するのも政治学 に対する関心からである。 ならば, ホッ ブズの政治学は, その方法は別にして, その内容は自然科 学に集中する1 629年以前に形成されていなければならない. ならば, ホッ ブズの思想の理解には初 期ホッ ブズの研究が決定的に重要である. ところが, 初期ホッ ブズの研究にはトゥキディ デスの翻 訳の序文とアリストテレスの 『弁論術』 の2つの抜粋訳を除けば, ダービシャー州のピーク地方 の 奇観を称えた詩や「第1原理に関する小論」 , それに自伝, 伝記, 数通の手紙と役 に立つ資料がほと ん どな い. そ こ で シ ュ トラ ウ ス は 初 期 ホ ッ ブ ズ の 研 究 に 役 立 つ 資 料 を チ ャ ツ ワ ー ス に 探 し に 行 き ,. 先の写本を発見し, ホッ ブズの直筆だと判断し, 初期ホッ ブズの決定的な証拠を手に入れたと信じ た.. そこで出版しようとケンブリッ ジ大学出版部に持ち込み, 出版されようとした時, 運良く評議員 一人が の その写本を一部として含む本が筆者不明の 『閑暇』 という表題で1620年にロンドンで出版 者 エ ドワ ー ドo ブラウントによっ て出版されていることに気付いた 正確な表題と目次はこうであ . る. 『閑暇, 観察集と論説集. 観察集 1倣慢, 2野心, 3虚飾, 4悪口, 5我意, 6主人と召使, 7出費, 8訪問, 9死, 1 0田園生活, 11宗教, 12歴史書を読むこと.論説 集 1 タキ ト ゥ ス の初 ロ Horae Subsec i 歩, 2 ーマ, 3へつ ら い批判, 4 法 律 ions and Di vae scourses . , observat obse ions 1 of AnoganCe 2 0f Ambi ion 3 0f Af f ion 4 0f Det t I▽at ion 5 0f ectat ract Se l f 1 6 0f M[ l tersand Servant i ions 9 of Death lo ofa ‐wi tat as s 7 0fExpences 8 0f Vi s Country L f i l igion 12 0f Reading History- Discourses I Upon the Beginn ing of e ll of Re Taci tus 2・o fRome 3 Against F1attery 4 0fLawes )と も 言 い 換 え 』 観 察 集 は 随 筆 集(Essayes . 35.

(3) . 清 末 尊 大 1 ) ら才して い る( .. シュ トラウスは写本と刊本の関係 を, 分量の少ない写本 が先で, 草稿であり,′写本を増補 したの 『 が刊本であると考え, 両者の幾つ かのテーマ〔写本で4 づ, 刊本で5つ〕がベーコンの第2版の 随 想集 Essays』(1612 年)か ら と ら れ て い る こ と か ら,1612 年 か ら 20年までの 間に書かれた と断定し た.そして, 著者は, 名目上, ホッ ブズがその家庭教師兼執事であった2代目 デヴォ ンシャー伯ウィ 628 ) だが, 実質上ホッ ブズだと断定した. その際, 奇妙な 1 591一1 リアム・キャ ヴェ ンディ シュ ( ことに, シュ トラウスは写本, 刊本ともそう断定しながら, 当然宗教論や 法律論が入っている刊本 2 ) の方が重要なはずだが, 写本の方を重視し, 刊本の方は無視した{ . トンプソンは写本に押してある紋章 を紋章院に照会 した所, 4代 目デヴォ ンシャ ー伯ウィ リ ア ) の も の で あ る と す る 回 答 を 得, 遅 す ぎて シ ュ トラ ウ ス 説 に 1641 一 1707 ム・キ ャ ヴ ェ ン デ ィ シ ュ ( 合わないので当惑した そこで前にずらす努力をし 初代 ヂヴォ ンシャー伯ウィ リアム o キ ャ ヴ ェ. .. ,. ン デ ィ シ ュ (1552 一 1626) の 妻 の 紋 章 が 入 っ て い る の で 初 代 デ ヴ ォ ン シ ャ ー 伯 の も の で は な く, ま. た2代目デヴォ ンシャー伯の紋章とは文言が違うので2代 目デヴォ ンシャー伯のものでもないが, 3代 目 デ ヴ ォ ン シ ャ ー 伯 ウ ィ リ ア ム・キ ャ ヴ ェ ン デ ィ シ ュ (1617 一 84) の 可 能 性 が あ る と し, 初 代. が死ぬ162 6年から2代目が死ぬ1628年の間に書 かれた可能性を示 唆した. また, 刊本の著者とし ては出版者のエ ドワード・ ブラウント, 初代 デヴォ ンシャ ー伯の若死に した息子の ギルバート・キ ャ ヴ ェ ン デ ィ シ ュ, チ ャ ン ドス 卿 グ レイ ・ ブリ ッ ジ ズ な どの 名 前 が 上 げ ら れ て い る こ と が 解 っ た.. しかし結論は混乱のはてにシュ トラウス説に合わせ, 実質上の著者 はホ ッ ブズで, 名目上の著者 が 最初ギルバート.キャ ヴェ ンディ シュ で, その死後弟の2代 目デヴォ ンシャー伯に移ったブ と結論 3 ) づ けた( . シ ュ トラ ウ ス, ト ン プソ ン の 後 を う け て そ の 写 本 を 研 究 す る の が フ リ ー ドリ ッ ヒ ・ 0 ・ ウ ォ ル フ. 4 ) その写本とホッ ブズのもの と思われる別の写本との専門 969年に写本を出版した{ であり, 彼は1 . 家による筆 跡鑑定, 後のホッ ブズの著作との親近性を付け加えたが, 彼も基本的にシュ トラウス 説 そのままで, 名目上の著者 が2代目デヴォ ンシャ ー伯で, 実質上の著者 がホ ッ ブズだと結論づけ 6 ) 今日ではこの 説が通説で, 5 ) 早稲田大学の 藤原保信教授も1974年に同じ説を発表している{ た( 。 . 刊本はホッ ブズの著作の項 かの写本と ブラリーのカタログでも 大英博物館の プリティ シュ ・ライ , 目 に 入 れ ら れて い る. そ れ に 対 して, 1978 年 に 通 説 に 重 大 な 疑 問 を 呈 した の が, チ ャ ツ ワ ー ス に あ る デ ヴ ォ ン シ ャ 一 家. の17世紀の蔵書目録 を調べた ジェイム ズ・10ハミルトンである. 彼は証明はでき ないとしな がら も, 次の3点で疑問を呈した. 第1に, 写本の筆跡がホッ ブズの筆跡ではないと判断できること. 第2に, 写本が刊本のコ ピーにすぎないと思えること. 写本の献辞に 「多くの人 がこの種の仕 事を 街学趣味と非難している」 とあるのは刊本がそう非難されていたこと, 従っ て写本より前に刊本が あっ たことを示しているの ではないか。 また, 写本の 「歴史書を読むこ と」 に刊本の 重要な最初の 3頁分 がないのは, 刊本に書き加えられたのではなく, 写本がコ ピーしなかったことを示すのでは な い か. 第 3 に, 1659 年 頃 デ ヴ ォ ン シ ャ 一 家 の 従 者 で ホ ッ ブ ズ の 秘 書 の ジ ェ イ ム ズ・ウ ェ ル ド ン が. 『閑暇』 が 「キャ ヴェ ンディ シュ卿」 の著作とされている が, 16 20年代末に 作成した 蔵書目録では. 『 ブズが著者名を知らず ホ ホッ ブズが作成した蔵書目録では 閑暇』 が著者名なしに入れられ, ッ , 7 ) 「キ ャ ヴ ェ ン デ ィ シ ュ 卿」 に 帰 す 考 え も な い こ と( 。. 第1点と第3点も重要な指摘だが, 通説を否定するには第2点を証明しなけれ ばならず, ハミル トンは残念ながらその証明 ができていない. 我々 は独自にこの問題を検討しなけれ ばならない.. 36.

(4) . 写本 『随筆集』 と刊本 『閑暇』 がホッブズの著作ではないことの証明. ) は大変な大器晩成型の思想家であり, 1640年に最初の著作 『法の原理』 ホ ッ ブズ ( 1 588一1679 588年 を書いた時でも既に50歳を越えていた.ホッ ブズの伝記を書くとすれ ば,第1部の形成期に1 29年までの42年を当てねばならず, からトゥキディ デスのペロポネソス戦史の翻訳 を出版する16 古代ギリシァoローマを研究し,特に古代ギリシァoローマの歴史書から政治的教訓を学 びとろうと して い た ヒ ュ ーマ ニ ス ト の 時 期 で あ る.シ ュ ト ラ ウ ス は 初 期 ホ ッ ブ ズ の 資 料 が 少 な い こ と を ぼや い た が,今 日 で は も っ と 少 な く,シ ュ トラ ウ ス が 使 っ た も の も 使 え な い.ア リ ス ト テ レス の 『弁 論 術』 の. 2つの抜粋訳の1つ がホッ ブズのものではないことが証明され, 「第1原理に関する小論」の著者を 8 } そ こ で 写 本 『随 筆 集』 む しろ どう い う わ け ホ ッ ブズ と す る こ と に も 重 大 な 疑 問 が 呈 さ れ て い る( , .. かシュ トラウスの伝統 が無視してきた刊本 『閑暇』 , 特にその宗教論や法律論の重要性が増すわけ でラ 私自身そう考えてその研究にとりかかった. しかし, 残念ながら, ここで写本 『随筆集』 と刊 本 『閑暇』 がホッ ブズの著作ではないことを証明しなければならない. 先ず, 写本を刊本と比較し, 写本が刊本の抜粋コ ピーであることを証明しよう. 写本は刊本の観 察集あるいは随筆集の 「1倣慢」 から 「9死」 までと 「12歴史書を読むこと」 に対応し, その3 分の2の分量であり, 比較して最初に受ける印象からして写本が刊本の抜粋コ ピー であるというこ とである. 献辞のような手紙における街学趣味批判と対応して, 写本には刊本の古代ギリシァ o ロ ーマの著作家からの引用は一切 ない. 段落, 句読点, 言葉はかなり違い, 飛んだ箇所にはつなぎの 3頁の第2, 第3 言葉が入っ ているが, 基本的に写本のすべてが刊本にある. 唯一の例外は写本16 段落だけである(写本の頁数はウォルフによっ て出版された本の頁数で示す) . 写本が刊本からほと んど完全に再現できることは, 写本が刊本の抜粋コピーだという印象を強く与える. また, 写本は 148頁1 4行目 mustmust コピーに特有の誤り が多い. 重複の誤りが多く( , 158 頁 8 行 目 causesof f ha ha ) 1行目t tt t causeso , 158 頁2 ,. hen [ hem] 誤りも多く ( 1 t 50頁34行目 50頁2行目t aket ,1. i l lkindes l l ]...ina ] whi t[man]that mos ch sery [mi ser es , ,159 頁 9 行 目 mi ,154 頁 20 行 目the[a lat ion [narrat ion].”they wr i ], 163 頁 21-22 行 目 re te), 誤 160頁27行目 none ofthi these s[ i i 1 56頁21 行 目 not りを刊本で正すことができる. 刊本の誤りの訂正( on])や 刊 本 で は 正 誤 on[mot 表で正されているのと同じ誤り( 1 2行目he[ h )もある 写本の誤りを刊本で訂正でき 52頁1 ] t ey ,写 . 本が刊本の誤りを訂正したり,同じ誤りを繰り返 していることは,写本が刊本の抜粋コ ピーだという. 印象を決定的にする. 更に, 写本が刊本の抜粋コピーであることを証明するのが, 写本にある刊本の写し誤りである. 写本1 53頁2 0一21行目の文章は主語が欠落していること以外は刊本と同じであり,刊本を写す際に 主語を写し忘れたのである( Suchservantsas → Sucha )。 写本154頁2行目の文章は小文字で始 s i ま っ て お り,こ れ は 刊 本 の コ ロ ン を ピ リ オ ド に 変 え た が た め に 起 こ っ て い る( the f r st →. the :. 「 f i ) t r s . 写本165頁8行目の 彼ら」 は, 刊本の複数形の詩人達を単数形に変えたことを忘れ, 刊本 の ま ま 写 した こ と に よ る( the Poets--‐they → the Poet‐-- they). 以 上 で 写 本 が刊 本 の 抜 粋 コ ピ ー で あ る こ と を 証 明 した.. 次に, 写本についている献辞のような手紙を検討し, 写本の性格を決定しよう. その手紙の署名. 者 ウ ィ リ ア ム o キャ ヴェ ンディ シュ はウォ ルフが 「下手な筆跡」 と呼ぶ幼稚な字でサイ ンの箇所だ. けを書いており,まだあまり字が書けず,mos tを mo sと幼稚語で書いても父親も家庭教師も変に思 わない年齢であり, 5, 6歳であろう. また, その手紙は献辞ではなく, 単なる父親のデヴ ォ ン シ ャ ー伯宛の手紙である (MyLord で あ っ て, To myLord で は な い) 。ウ ィ リ ア ム 少 年 の 家 庭 教 師 が この抜粋コピーを作り,教育用のテキストとして使い,勉学の対象を父親の伯爵に報告する手紙をつ け,少年が署名 したのであろう.何故写本が抜粋なのかもこれから明らかとなる.刊本では子供の教 37.

(5) . 清 未 尊 大. 育のテキストには長過 ぎたからである. 最後に,写本の署名者ウィ リアム・キャ ヴェ ンディ シュ が具体 的に誰でラいつ 頃作成されたのかを 決定しよう.この問題は先入観 なしに正確に事実だけを見,全体を見渡しながら決定されなけれ ばな らない.先入観さえなけれ ば答 えは簡単である.それは4代目デヴォ ンシャ ー伯ウィ リアム・キャ ヴ )であり,1 646年頃のことである.写本の紋章を4代目 デヴォ ンシャー伯 1 641一1707 ェ ンディ シュ( のもの だと認定した紋章院の判定だけからもそれは明らかだっ たのである。 写本が作成されたのは 46年頃で 20年より後で, 4代目 デヴォ ンシャ ー伯が5, 6歳の頃, 従っ て16 6 刊本が出版される1 659年頃には,写本 をテキス トに勉強 した だけの ある.そして,ウェ ルドンが蔵書目録を作成 した1 「キャ ヴェ ンディ シュ卿」が写本の著者 更に刊本の著者とデヴォ ンシャ一家の従者の間で誇張され , 620年代末に蔵書目録を作成 した際には刊本を著者不明としたのも, ていたのである.ホッ ブズが1 まだ写本が作成されて おらず,デヴォ ンシャ 一家の者に結 びつける 糸ができていなかったからであ る.. 20年に著者名なしに出版された 『閑暇』 という本の抜粋コピーにす 以上で,写本 『随筆集』 は16 ぎず,1 6 46年頃に4代目 デヴォ ンシャー伯の教育用のテキスト として作成されたことを証明 した. 従っ て÷ 写本 『随筆集』 は刊本 『閑暇』 の草稿ではありえ ず, 刊本 『閑暇』 の著者を デヴォ ンシャ 620年 一家の者に結 びつける 糸は切れる. ホッ ブズはデヴォ ンシャ一家の図書館員も兼ねており,1 頃にロンドンに行き, 『閑暇』 という本を図書館に買い求めただけで,あるいは読んだかもしれない が, 『閑暇』 の著者でもなけれ ば,その抜粋コ ピーたる 『随筆集』 の作成にも関係しなかった. 彼は 2代目と3代目デヴォ ンシャー伯の家庭教師であっ たが, 4代目デヴォ ンシャ ー伯の家庭教師では 9 )-、 1646年頃にはパリに亡 なく--4代目デヴォ ンシャ ー伯の家庭教師の件で相談は受けているが{ 命し,デヴォ ンシャ 一家に仕えてもいなかった.よっ て,写本 『随筆集』 と刊本 『閑暇』 がホッ ブズの 著作ではないことが証明された.. 38.

(6) チャールズ ヘンリー (若死). チャールズ 1 ( 6 7 1没). ( 雷麹器 指 令. 7リー・ノ O Oメフ ぐトラー. ウィリアム 4代目デヴォン シャー伯爵, 初代公爵 1 6 ( 4 1一1 7 0 7 ). ヤールズ. 美 誓 ( 言 誓 然 科 学 ) 幸. o o口パート・ リッチ 2代目ウオー リック伯爵. アン. ジョン { 1 6 1 8没). 節キャサリン・オグル. フランシス. チャールズ マンスフィ 一ルド子爵 1 6 { 2 7?‐5 9 ). ヘンリー 2代目ニュー キャッスル公爵 ( 1 6 3 1?-9 1 ). mマーガレット・ルーカス. のエリザベス・バセット スタッフオードシャーのウ、 ィリアム・バセットの娘 ノ. ジェイン. アラベラ 1 ( 5 7 5一1 6 1 5 ). エリザベス. G矧と宿りユー ). 餌ギルバート タルポツト. メアリー. 傷も犠交易z の ) 為 巽. 閃チテールズ・ スチュアート 5代目レノツクス 伯爵. エリザベス. 』 ジョージ.タルポツト 6代目シュリューズペリー伯爵 1 ( 5 9 0没). ウィリアム ニューキャッスル伯爵, 侯爵, 公爵 ( 1 5 9 2‐1 6 7 6 ). ( 禦 ぎ』ラ. チャールズ. アン ( 1 7 0 3没) のチャールズ・リッチ 2代目ウオーリツクf猷 の息子 ノ. ジェイムズ (夫折). 仰クリスチアーナ・ブルース. ウィリアム 2代目デヴォン シャー伯爵 1 ( 5 9 1一1 6 2 8 ). 』エリザベス・ボウトン. mアン・ケイリー. ウィリアム ハードウィック男爵 初代デヴォンシャー伯爵 ( 1 5 5 2一1 6 2 6 ). 泌エリザベス,ノ ・mドゥイック. (罰三階磁露ド 6 世 ) ,. サー・ウィリアム・キャヴェンディシュ. S端帯. o oエリザベス・セシル し 1 6 8 9没 、 . 2代目ソールズベリ一伯 ウィリアム・セシルの娘/. ウィリアム 3代目デヴォン シャー伯爵 ( 1 6 1 7一8 4 ). ギルバート (若死). (ず議員シュリューズペリー ). 閃グレイス・タルボツト. ヘンリー ( 1 5 5 0?-1 6 ) 1 6. キ ャ ヴェンディ シュ家系図. 輔掛 『 諏樹海』 〜運勢 『 囲溺』物汁 巽対ぐれ 〜S則蕊.

(7) . 清 未 尊 大. )王. ( 1 ) HoraeSubsecivae,London,1620,Tothe Reader . .A2v ,A3 ,pp ii i i ×i IPh i l cago P i i t . osophyofHobbes ‐ 添谷・谷・飯島 ‐ ,1936,1984,pp ca ( 2 ) LeoStrauss ,U‐ofChi ,ThePol 『 i頁 i 9 0年 訳 ホッブズの政治学』 みすず書房, 19 ,x ,x . ’ t Wi t l f ens chaf ss i f n: F i s Thompsons , mi r en Franc ( 3 ) Aus‐den Katalogentwt ‐ 0. Wo ,.Hobbes neue ,i ’Es 133‐4 tgar t Hobbes sayes . , SS, ,1969 ,Stut 詳 7 i S S 1 3 5 6 f ( ) Wr t 4 o c ol , , つ , , p l f i t { 5 ) Wo ‐ ‐C りSSユー 31 ,op. 23 ‐3 2頁. ( 6 ) 藤原保信 『近代政治哲学の形成』 早稲田大学出版会,1974年,3 l lofthe Hi osoPhy to理 of Phi braWJouma s dthe Hardwi ck Li l ton , ) JamesJ ( 7 . Hami , Hobbegs Study an . 445‐53 ) 16( 1978 pp . ‐ ,. 『 ( 8 ) 佐藤正志, 歴史における真理と修辞-初期ホッブズにおける方法の問題一, 渋谷編 啓蒙政治思想の形成』 成文 堂, 1984 年, 67 頁; 佐々木力, リヴァイアサン, あるいは機械論的自然像の政治哲学 (上) ,思想787 (1990年1 279 1961 New York chard land 1500‐1700 in Eng i i d R h p ;Ri l L t o r c ‐ l bu ca n e o , 月), 72‐3頁. Wi , rS. Howel g , , ,. 1988 i t PP veson Thomas Hobbes in spec . sand A.Ryaned Tuck tes , :G. Roger , ,OXford . ,Per , ,Hobbesand Descar 17‐8 .. それに代って初期ホッブズの研究にとって重要なのが, ウォルフもチャツワースの図書館にあることを指摘して. 569 )。 E・G・ ジ ャ コ ビによ れ ば,そ れ はホ ッ ブズ i S. 204 Anm. l f t いる 初期 のイ タ リ ア語 の 手紙 である(Wo ‐ .c ,op ,. 5年)の際に知合ったヴェネツィアのフルジェンツィオ・ミ 16 10一1 と2代目デヴォンシャ「伯が第 1回大陸旅行( 5通あり,ホ ッ ブズが 8年まで7 )が2代 目 デ ヴ ォ ンシ ャ ー伯 に宛 てた 手紙 で,1615 年 か ら2 カ ンツ ィ オ(1570 一 1654 Hobbesi Jour ‐ n Europe , P l h i h i i i S d F Tb e und tu en zur osop by ed. E‐G‐ s ‐ 7 J n n e 5 7 6 5 i 4 ( 1 9 4 ) a c o l of European Stud es ; p p ‐ na , , . , , ヴ ェ ネ ツィ ア の ミカ )。 205 A‐ 197 A. 176 A. SS. 149 A. 1975 Stut t tgar t l l l Gese t s ehr e im 17Jahrhunder , schaf , , , , ,. 英訳して おり,ガブリ エ リ という 人 に よる 研究 も既 に ある,と言う(E.G.Jacoby,Thomas. 23 )の弟子で,教皇の政治への介入とイエズス会に反対する修道士であり,手紙 1 5 5 2一16 ンツィオはパオロ・サルピ( 1564- は専 ら ヨ ー ロ ッ パ の 国 際 政 治 を め ぐる 情 報 交 換 を や っ て い る よ う だ‐し か し,ミ カ ン ツ ィ オ は ガ リ レ オ(. 6 26 )の称賛者にして自身ガリレオの 61一1 15 )の親友である師匠同様,哲学や自然科学に関心をもち,ベーコン( 16 42 親友であり,国際政治のことだけではなく,哲学や自然科学の話もしたであろう‐ホッブズが死の直前のベーコンに 仕えたのも,主人の2代目デヴォ ンシャー伯の承認がなければできないことで,ミカンツィオの依頼によるかもしれ. l ton op ‐ , な い.(ホ ッ ブズ はベ ーコ ンの 著 作 の ほ とん どす べ て を デ ヴ ォ ンシ ャ 一家 の 図書 館 に買 い求 め て いる. Hami ・ 2 年 は1 5 9 ガ リ レ オ は ずだ て いた と を知 レオ の こ らガリ 時か 陸旅 行の っ )また,ホ ッ ブズ は第 1 回大 i 449‐50 tりpp . c - -. 1 0年には望遠鏡によ 9年に望遠鏡を発明してヴェネツィ アの総督に献呈し,翌16 60 以来パドヴァ大学教授であり,1 命 大公国首席数学官に任 し 『 トスカナ ンを巻き起こ セーシ を出版してセン ある 星界の報告 ョ る天体観測の成果で , 』 611年の 『屈折光 され,フィ レンツェに凱旋して去ったばかりであった. (ホッブズは 『星界の報告』 とケプラーが1 i r gopacchi ,Una 《 学』で公表したケプラー宛のガリレオの手紙をデヴォンシャ一家の図書館に買い求めている‐Ar )ホ ッ ブズ 1968 ) 36 21( th,Acme iChat l rArchi IMSE2de swor P vi od iThomasHobbes:1 . . i Bi bl , e》 d , otecaldeal 念せ リ めイタ ア行きを断 継承戦争のた ントヴ ァ 2 9‐30年)の際にはスペイ ンとフランスのマ 16 は第2回大陸旅行(. ), i 7(1950 ISoc ty e esand Recordsofthe Roya ter t sofThomas Hobbes ざるをえず(G.R , ,Not ‐de Beer ,Some Le 『 既に オに会えたが 執筆中のガリレ 新科学対話 て 6 3 5年末に始め ) の1 行( 4一3 6年 1 6 3 』 ) , 1 9 5‐ 2 06 pp . ,第3回大陸旅 第1回大陸旅行の時からガリレオのことを知っていたはずだ‐ 0年に渡ったフランスが反宗教改革に魅せら ホッブズの第1回大陸旅行に関して, もう1つ重要 な点は, 彼が161 れた狂信者ラヴァイヤックによるアンリ4世の暗殺によって震饗しており, フランスではこれからイギリスを襲う 宗教戦争時代の政治思想が既に出揃っていたということである. 武力抵抗権論, 制限君主政論を展開するユグノー ボダン, と過激派カトリックのモナルコマキ (暴君放伐論者) , 不可分の立法主権論による絶対君主政論を展開する 『 木鐸社, ボダンと危機の時代のフランス ジ ン・ ( 拙著 ポリチーク派 』 ャ 王権神授説による絶対君主政論を展開する ブズが注目したの 特にホ 求めている 一家の図書館に買い ッ ンシ ブズはこうした著作をデヴォ ホ ャ 9 0年参照) 1 9 ‐ , ッ )であり,彼はボダンのラテン語版の 『国家論』 を書き込みをしながら読み,『法の原理』 で引用 がボダン( 1 5 31一96 求め 『 するだけでなく,『歴史方法論』 や 『国家論の弁護』 ,果ては 魔女論』 までもデヴォンシャ一家の図書館に買い i 34 )。 ホ ッ ブズ は初 期 に大 陸の 思 想 家,特 に ボ ダ ンの 影 響 を 受 i t 450 451 i c l t て いる(Hami ton op. p c ;Pacch pp ‐ . . . , . , , ,op. 40.

(8) . 写本 『随筆集』 と刊本 『閑暇』 がホッ ブズの著作ではないことの証明 けてお り,その 点 を解 明 しな け れ ばな ら な い‐ i i 57 8; t Jacobyed ‐ i i 壱re es n ) Let terofHobbesto S ( 9 ‐C - ・ ・1646一n: E-G・ ,OP ,SS‐ ・Sorb ,F‐T6nn .Germa ,St ,40ct 【 i i i i St 12 M ted i l of Devonsh s Bi ckl ey n :Franc n ay 1648,c Le re t t er of Hobbesto the 3rd Ear , The .Germa , , 8 ‐ 9 9 1 5 l L d 1 1 i h F i Cave d l s am y 1 ‐ . , ,pp , on on (本 学 教授 ・旭川 分 校). 41.

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注1) 本は再版にあたって新たに写本を参照してはいないが、

Frauwallner [1937:287] は下す( Kataoka (forthcoming1) 参照).本質において両者に意見の相違は ないと言うのである( Frauwallner [1937:280, n.1]

本事業を進める中で、

本稿筆頭著者の市川が前年度に引き続き JATIS2014-15の担当教員となったのは、前年度日本