特集論文
観光のつながりの社会学
―もう一つの大衆観光について
Sociology of Travel Connections:
On Alternative Mass Tourism
高岡 文章
Fumiaki TAKAOKA
立教大学 観光学部 准教授
Associate Professor, College of Tourism, Rikkyo University
キーワード:もう一つの大衆観光、観光のつながり、個人化、対面性
Keywords : alternative mass tourism, travel connection, individualization, face-to-face relationship I. はじめに II. 大衆観光批判を越えて 1. 大衆観光ともう一つの観光 2. もう一つの大衆観光 III. つながりの社会学 1. 個人化とつながり 2. 対面性とつながり IV. 観光とつながり 1. 観光における個人化とつながり 2. 観光における対面性とつながり 3. デジタル時代の観光のつながり V. おわりに 要約: 観光研究は、近代以前の旅やポストモダン以降のもう一つの観光を善きものとして、対照的に近代の大衆観光を悪しきもの として扱ってきた。その結果、私たちは大衆観光の真相を十全に分析し損ねてきた。こんにちにおいて、観光の大半は団体旅 行ではなく個人旅行の形態をとる。だからといってそれは社会から孤立しておこなわれているわけでもない。観光者はひとり (alone)でありつつ、なんらかの社会性に編み込まれている(together)。観光におけるこのようなaloneとtogetherはどのよう に関係しているのだろう。現代的な状況における観光の社会性や大衆性とはいかなるものだろうか。本稿は「観光のつながり」 の社会学的研究をとおし、大衆観光/もう一つの観光の二項対立を越えて「もう一つの大衆観光」の探究を試みたい。 Abstract:
Tourism studies has generally considered premodern travel and postmodern alternative tourism as good and modern mass tourism as bad. By doing so, tourism studies has failed to analyze mass tourism in depth. Today, most people travel without tour guides; nevertheless, this form of travel is not isolated from sociality. Although tourists may be alone, they are socially organized. How can we consider being alone or being together in tourism? What comprises the sociality and collectiveness of contemporary tourism? Through the sociological research of travel connections, this paper attempts to understand alternative mass tourism beyond the binary opposition of mass tourism versus alternative tourism.
I. はじめに 誰かと旅をしているときにふと感じる孤独。ひとりで 旅をしながらみつける誰かとのつながり。ひとりじゃな いのにひとり。ひとりなのにひとりじゃない。私たちは 誰と旅しているのだろうか。旅のなかで、どのように他 者とかかわり、つながっているのだろう。 本稿は、「観光のつながり」について社会学的に検討す ることを目的とする。ここでいうつながり(connection) は、社会性(sociality)、集合性(collectiveness)、共在 (co-presence)、共有(share)、親密性(intimacy)、紐帯(tie)、 連帯(solidarity)、絆(link/bond)、近接意識(togetherness)、 関係性(relationship)、相互行為(interaction)などを幅 広く意味している。 さらに、つながりは物理的に現前する他者との関係性 (共在)とともに、現前しない他者との関係性(共在感覚) をも指し示している。昨日この神社で自分と同じように 絵馬に願いを託した見知らぬ誰か。ペンネームしか知ら ないけれど旅の道標となる情報をガイドブックに投稿し ている他人。「見えないけれど仲間がいるのね」1)。こん にちにおいて、デジタルデバイスをつうじて観光のつな がりはさらに複雑化している。海外の空港に到着したら 真っ先に探すのはWi-Fi接続だろう。つながればもう安 心だ。家族や友人とつながり、見えない誰かとつながる。 旅先で出会った人とも、Facebookの「友達」になるだろ う。その後、一生会うことがないのだとしても。 観光研究は、パッケージツアーや修学旅行などの団体 旅行(みんなで行く観光)と、そうではない個人旅行(私 /私たちだけの観光)とを個別に扱ってきた。そこでは、 定型的な団体旅行と、それへのアンチテーゼとしての個 性的な個人旅行という区分が前提とされている。このよ うな二項対立は、現代の観光形態の大部分を個人旅行が 占めているという事実をみえづらくし、個人旅行におけ る社会性の分析を鈍らせてきた。また、観光研究は観光 における社会性を考察する際、物理的に現前する他者と のつながり(共在)を主たる前提としてきた。その結果、 現前しない他者とのつながり(共在感覚)はこれまで十 分に問題化されてはこなかった。 団体旅行か個人旅行かを問わず、観光者はつながって いる。対面的かどうかにかかわらず、観光者はつながっ ている。「観光のつながり」の社会学はいかに可能か。 それは、社会学や観光研究における蓄積とどのように対 話しうるだろうか。つながり、個人化、対面性、デジタ ルデバイスを手がかりとして考察したい。 Ⅱ章では、大衆観光からもう一つの観光までの歴史的 展開と学説史をたどる。そこでは、観光研究が近代観光 と大衆観光と団体旅行とを同一視するあまり、大衆観光 の実態を十分に分析してこなかったことが明らかにされ る2)。Ⅲ章では、つながりをめぐる社会学的探究の系譜 を検討する。そこでは、社会関係の個人化や対面的な人 間関係を手がかりとして後期近代社会におけるつながり の新たな局面が解明される。Ⅳ章では、社会学と観光研 究の既存研究をふまえ、観光のつながりのこんにち的な 様態を考察する。つながりの分析をとおして、大衆観光 のもう一つの姿が明るみにでるだろう。 II. 大衆観光批判を越えて 1. 大衆観光ともう一つの観光 そもそも大衆観光はいつどこではじまったのだろう か。そして、それはどのような特徴をもつと考えられて きたのだろう。まずは大衆観光の起源からはじめよう。 アメリカの歴史家D. ブーアスティンは『幻影の時代』 において、「疑似イベント」概念をもとに戦後アメリカ 社会を批判的に分析した(Boorstin, 1962/1964 星野・ 後藤訳)。「旅行者から観光客へ」と題された第3章が人 文学的なアプローチによる観光研究の嚆矢であることに は多くの研究者が同意するだろう。ブーアスティンは 19世紀半ばのヨーロッパやアメリカにおける旅の変化 を「旅行者の没落、観光客の台頭」と表現し、そこに近 代観光=大衆観光の誕生をみた。19世紀後半に鉄道や汽 船などの交通網が発展すると、旅行にともなう不便と危 険は急速に減少した。交通機関に投資した資金を回収す るために「今や大勢の人が楽しみのために旅行するよう 勧誘」(Boorstin, 1962/1964 星野・後藤訳, p. 98)され、 旅の民主化が進んだ。 J. アーリも大衆観光は19世紀後半に北イングラン ドの工業都市の裏町で発生したと述べている(Urry, 1990/1995 加太訳)。かつての旅行は一部のエリートに 限定されていたが、19世紀における産業化の進展が大規 模な労働者階級を生みだし、鉄道による大衆観光が組織 化され構造化された。 他方、安村克己は19世紀における観光の動向をアーリ のように「大衆観光の誕生」としてとらえることに慎重 な姿勢を示している(安村, 2011a)。なぜなら大衆観光 とは「1960年代の日米欧諸国に観光客が『爆発的』に 出現した歴史的現象」(安村, 2011a, p. 21)を指し、「大 きな塊」をイメージさせる大衆がパッケージツアーで大
挙して観光地を訪れたのは1960年代以降のことだった からである。 大衆観光の起源についてブーアスティンやアーリは 19世紀半ばのイギリスとし、安村は1960年代以降の日 米欧諸国としている。見解がわかれているのは、前者が 観光の大衆化という質的変化に注目するのに対し、後者 がその量的側面を重視することに起因している。いずれ にしても両者は近代化の進展とともに旅/観光が変容し たという認識を共有している。産業社会や大衆社会のも とで旅が産業化/商品化され、大衆観光が誕生する。観 光研究はこの大衆観光こそを分析の対象としてきた。 安村は「1960年代初頭の初期マス・ツーリズムでは 観光経験の少ない大衆が、パッケージツアーで観光地へ と大挙して訪れた」(安村, 2011a, p. 20)と指摘している。 ここには、大衆観光のステレオタイプ的なイメージが端 的に描写されている。大衆観光とはつまり団体旅行とい うわけだ。 近代社会が生みだした大衆観光にはただちに厳しい批 判が寄せられることになった。19世紀イギリスの批評家 J. ラスキンは鉄道旅行が「人間を一人の旅行者から一箇 の生ける荷物に變へてしまふ」(Ruskin, 1880/1991 高 橋訳, p. 180)とし、観光者の主体性や能動性の欠落を 批判した。P. ブレンドンによれば、トーマス・クック社 のスイスツアーに参加したあるジャーナリストはツアー 客を「餌をもらうためにぞろぞろつながって歩く飼い犬 の列」(Brendon, 1991/1995 石井訳, p. 147)と糾弾し た。ブーアスティンは観光者の体験には真実味が欠けて おり、彼らが消費しているのは観光者のためにお膳立て された「疑似イベント」にすぎないと批判した(Boorstin, 1962/1964 星野・後藤訳)。J. ボードリヤールは余暇が 労働からの解放や自由ではなく、強制と拘束のシステム に絡めとられていると指摘し、そのような状況を「余暇 の疎外」と呼んだ(Baudrillard, 1970/1995 今村・塚原 訳)。さらに、大衆観光は観光地の社会に多大な経済効 果をもたらす半面、地域の自然環境や文化的環境をおお いに損ねる可能性があることが厳しく問題視されてき た。 1980年代以降、大衆観光への批判や反省にもとづい て、大衆観光とは異なる新しい観光のあり方が模索/実 践されてきた。これらは「もう一つの観光(alternative tourism)」と呼ばれ、団体中心から個人中心へ、大規模 から小規模、発地型から着地型、男性中心から女性中心、 環境破壊型から環境配慮型、視覚中心から体験型・交流 型・学習型などといった変化に特徴づけられる。その具 体例としてエコツーリズムや、グリーンツーリズム、ヘ リテージツーリズム、ボランティアツーリズムなどが挙 げられる。 これらの新しい観光の動向は、地域の自然・歴史・文 化資源の持続性に配慮した「持続可能な観光(sustainable tourism)」とも呼ばれ、持続可能な開発の「数少ない実 践事例のひとつ」(安村, 2011b, p. 26)として称揚され ている。他方、そこには重大な問題点も潜んでいる。よ く指摘されるように、もう一つの観光はある面では大衆 観光への批判や反省として登場したにもかかわらず、し だいに大衆観光に飲み込まれていく。山下晋司は、マ レーシア・サバ州でのエコツーリズムが、その人気ゆえ に大衆観光化するというアイロニーを描いている(山 下, 2009)。旅行会社は、途上国でのボランティアツアー や農漁村での宿泊体験をつぎつぎと商品化/修学旅行化 していく。かつては学生や若者の貧乏旅行であったバッ クパッカーは、こんにちでは商品性の色濃いフラッシュ パッカーとしてカジュアル化している。大衆観光も、も う一つの観光も、結局は大衆観光なのだ。 本稿の文脈においてさらに重要なのは、もう一つの観 光が大衆観光とは異なるものとして自らを規定するあま り、大衆観光を固定的なものとして逆照射してきたこと であろう。個性的で個人的な特徴を標榜するもう一つの 観光によって、画一的で大規模な大衆観光というイメー ジが形づくられた。大衆観光とは社員旅行や修学旅行や 団体旅行であり、「みんなで行く観光」というわけだ。 そして、人文学的な観光研究はこのような大衆観光こそ を批判の対象としてきた。 大衆観光ともう一つの観光を対置し、近代的で俗悪で 環境破壊的な前者を批判しながら、ポストモダンに対応 し、理念的で環境配慮的な後者を推進するというのが観 光研究における古典的図式でありつづけてきた。しかし このような二項対立は、大衆観光を一面的にとらえる誤 謬に力を貸すことになった。「悪しき大衆観光」はもは や用済みであり、その内実が深く分析されることはしば しば二の次にされてきた。ここで、近代観光=大衆観光 =団体旅行のあいだの等号に疑問を差しはさもう。そし て問うてみる。そもそも大衆観光とは何だろうか。それ はどのような性質をもっているのだろう。 2. もう一つの大衆観光 中島みゆきの1986年の名曲『あたいの夏休み』には「個 人旅行の大衆性」が社会学的に切り取られている。
短パンをはいた付け焼刃レディたちが 腕を組んでチンピラにぶらさがって歩く ここは別荘地 盛り場じゃないのよと レースのカーテンの陰 ささやく声 お金貯めて三日泊まるのが夏休み 週刊誌読んでやって来れば 数珠つなぎ さめたスープ 放り投げるように 飲まされて 二段ベッドでも あたいの夏休み3) 待ち望んだ夏休み。「あたい」はひとりで別荘地にやっ て来る。おそらくは軽井沢あたりだろうか。都会からわ ざわざやって来た避暑地では「あたい」と同じような「付 け焼刃レディたち」が待ち構えていて、同じ雑誌を読み、 同じ店に行列をなす。同じようなものを食べ、同じ宿に 押し込められて十把ひとからげに眠る。ひとりで来たは ずなのに、ひとりじゃない。「あたい」と同じような「ひ とりぼっち」が集まる「みんなぼっち」の観光。「みん なで行く観光」から「みんなが行く観光」へ。個々が自 分の意志でばらばらにおこなう旅は、しかしこれでもか といわんばかりの大衆性に彩られている。本稿ではこの ように必ずしも団体旅行の形態をとらない大衆観光を 「もう一つの大衆観光(alternative mass tourism)」と名
づけておこう。 確かに1960年代初頭の初期マス・ツーリズムにおい ては、大衆観光は団体旅行という形態で実践されていた。 しかし、1970年からはじまるディスカバー・ジャパン・ キャンペーンでは「個人的で個性的な旅」が喧伝され、 商品化された。金沢や飛騨高山や萩などの古い町並みは、 『アンアン』や『ノンノ』などの雑誌を片手に最新のファッ ションをまとった若い女性であふれかえった。自動車保 有台数の飛躍的増加によってマイカー旅行は拡大の一途 をたどり、『地球の歩き方』などのガイドブックは個人 による海外旅行を後押ししてきた。かつては旅行の主 目的を占めた慰安旅行は大阪万博が開催された1970年 を機に減少している(財団法人日本交通公社編, 2004)。 紋切型の団体旅行から、個人や小グループでの旅行への シフトという地盤変化は1970年代においてすでに明確 に見てとることができる。 最新のデータも確認しておこう。京都観光総合調査 によれば、2016年度の京都への旅行客の単位は1人が 31.6%、2人が40.4%、3-9人が25.0%、10人以上が3.0% であり、圧倒的に個人旅行が多い(京都市, 2017)。JTB 総合研究所の調査によれば、日本人の海外旅行の形態は 航空券のみ予約・購入が8.9%、航空券やホテルを別々 に予約・購入が35.0%、スケルトンツアー(送迎なし) が17.0%、スケルトンツアー(送迎あり)が17.2%、 現地ガイド付きツアーが10.6%、添乗員付きツアーが 8.3%、団体旅行その他が3.1%となっており、団体旅行 はいまや極めて限られたニッチな旅行体験とすらいうこ とができる(JTB総合研究所, 2018)。 もはや添乗員の旗を目印にぞろぞろと群れをなして歩 くような戯画的なツアー客はごく一部にすぎない。ほと んどの旅は個人旅行である。しかし重要なのは、このよ うな個人旅行がばらばらに(alone)おこなわれている のではなく、さまざまな形でつながっている(together) という事態である。「あたいの夏休み」は「あたいだけ の夏休み」にはなりえず、そこにあるのは自分と同じよ うな「あたい」にあふれた「あたいだらけの夏休み」な のだ。 大衆観光が飛躍的に発展するいっぽう、大衆観光への 批判として、もう一つの観光が展開してきた。しかし大 衆観光の論理は、商品化という形でもう一つの観光を飲 み込んでいく。大衆観光も、もう一つの観光も、結局は 大衆観光だった。また、大衆観光は実態としては個人旅 行の形態をとって実践されている。となると、重要なの はもはや大衆観光ともう一つの観光とのあいだの境界線 ではない。団体であろうと、個人であろうと、観光者は 大量に/定型的に観光地を訪れる。個人旅行も団体旅行 と同様に社会の産物なのである。では、こんにちの大衆 観光の社会性とはいかなるものだろうか。もう一つの大 衆観光(alternative mass tourism)の探究へと視座の転 回を試みたい。
M. クラングらによれば、従来の観光研究は大衆観光 の本質をたいてい見誤ってきた(Crang, 2018; Obrador, Crang, & Travlou, 2009)。L. ターナーとJ. アッシュの「野 蛮人としての大衆観光客」という見立てに引きずられ、 大衆観光は真剣に検討する価値のないものとみなされつ づけてきた。旅というロマンティックな概念にしがみつ くことによって、従来の観光研究が大衆観光の活力や創 造性を等閑視してきたことをクラングらは批判する。大 衆観光は現代のもっとも際立った文化現象であり、そこ には西欧社会における日常性の中心的な特質があるのだ という。 山口誠は、アーリが伝統的なイギリス社会学の系譜を 受け継ぎながら労働者階級/大衆観光/集合的まなざ しをワンセットとみなし、それと中産階級/個人旅行/ ロマン主義的まなざしとを対置してきたことを批判する (山口, 2017)。山口は『観光のまなざし』第3版におけるJ.
ラースンの貢献を「ラースン・インパクト」と呼んでい る。アーリの単著である初版においては「集合的まなざ し」の「集合的」は「大衆的」とほぼ同義であったが、 ラースンとの共著である第3版では労働者階級や大衆観 光に限定されない「観光の集合性/集合的観光」が問題 化されているという。観光スポットの前で同じような ポーズで同じような写真を撮る観光者が「大衆観光のバ スツアー客か、それともロマン主義的な個人旅行のバッ クパッカーか」は「重大な差異をもたらさない」(山口, 2017, p. 118)。重要なのは、団体であろうと個人であろ うと、彼ら観光者のまなざしやパフォーマンスが特有の 社会性/集合性を帯びていることなのだ。 人文学的な観光研究は大衆観光批判を重ねてきたが、 大衆観光「研究」はどれほどなされてきたであろうか。 初期の大衆観光は団体旅行でもあった。しかし1970年 代以降、大衆観光の個人旅行化が進展してきた。2000 年代以降はデジタル技術の発展により観光はさらに動態 化している。「行為/現象としての観光」はダイナミッ クに変容してきたにもかかわらず、「研究対象としての 観光」は静態的なままに据え置かれてきたのではないだ ろうか。観光者はみんながまったく同じ行動をとるわけ ではなく、かといって無限の多様性にひらかれているわ けでもない。 観光の現代的位相を問うにあたり、大衆観光という手 あかのつきすぎた概念に頼るのはもはや得策ではない。 ここでは大衆観光を問うかわりに、観光の大衆性を問う てみよう。観光という行為/現象にはどのような社会性 /集合性/大衆性があるのだろうか。 本稿では、観光における「社会的なもの」を考える手 がかりとして、「観光のつながり」を取りあげたい。団 体旅行であろうと個人旅行であろうと観光者はつながっ ている。対面的であろうとなかろうと彼らはつながって いる。個々(alone)でありながら、彼らは同じ空気を吸っ ている(together)。このようなalone/togetherに着目す ることで、観光における社会性/集合性/大衆性の一端 を明らかにしてみよう。 III. つながりの社会学 1. 個人化とつながり そもそも社会学はこれまで、人と人とのつながりをど のようにとらえてきたのだろう。ここでは観光のつなが りの社会学を探究する前に、まずはつながりの社会学に ついて概観しておく。本節では社会関係の個人化を手が かりに、次節では対面性を軸に議論を進めよう。 かつてイギリスの首相を務めたM. サッチャーは「社会 などというものはない。あるのは個人とその家族だけだ」 と述べて、従来の社会主義的な政策からの転換を主導し た。サッチャーにとって社会(国家)とは、原子化され た個人と家族の単なる集合体であった。確かに「社会な どというもの」は目に見えて実在してはいない。では社 会はほんとうに存在しないのだろうか。もし社会が存在 するとしたら、それはどのようなものなのだろう。この ような目に見えない社会という謎を明らかにすることこ そ、社会学の根本問題でありつづけてきた。 よく知られるようにF. テンニースは近代化の進展に ともなう人間関係の変容を「ゲマインシャフトから ゲゼルシャフトへ」という概念でとらえた(Tönnies, 1887/1957 杉之原訳)。近代以前の社会では、場所や伝 統や信仰に紐づいた人間関係が強固に維持されていた。 テンニースは、このような「信頼にみちた親密な水いら ずの共同生活」をゲマインシャフトと呼んだ。ところが 近代化が進むにつれて、人間関係は機械的なものへと変 容していく。人びとは貨幣や契約をとおしてつながり、 「それぞれ一人ぼっちであって、自分以外のすべての人々 に対しては緊張関係にある」。このような状態を彼はゲ ゼルシャフトと呼んだ。ゲマインシャフトからゲゼル シャフトへ、本質意志から選択意志への移行として近代 化をとらえるこのような認識枠組は、社会学における古 典的な図式として受け継がれてきた。 U. ベックは、後期近代における社会関係の変容を「個 人化」概念によってとらえた(Beck, 1986/1998 東・伊 藤訳)。近代化にともない伝統や場所とのつながりは徐々 に解体される。伝統や場所から「脱埋め込み化」された 社会関係は、階級や近代家族という近代の装置に「再埋 め込み化」される。ただし、個人が近代的組織とのあい だに取り結ぶ関係性を単に契約的/機械的なものとして のみ理解することはできない。なぜなら多くの場合、人 びとは自身が所属する国家や会社、家族を簡単に選択し たり変更したりすることはできないし、そこに所属して いるという事実がときには彼らのアイデンティティを支 えもするからである。ところが後期近代社会にあっては、 このような近代の装置すらも問い直しの対象となる。階 級や家族、学校、企業、国家とのつながりだけでは、も はや人びとのアイデンティティを十分に充足させること ができなくなっている。つながりはますます一時的、個 人的、匿名的、流動的なものとなっている。ベックが「個 人化の過程」と呼ぶ事態である。
田所承己はつながりをめぐる社会学的考察のなかで、 後期近代におけるつながり/コミュニティの変容につい て整理している(田所, 2014)。近年では個人化した「私」 からなる人間関係のネットワークが支配的である。この ような「ネットワーク化された個人主義」の具体例とし て、田所は趣味を媒介としたコミュニティを挙げ、それ らは血縁・地縁・社縁のいずれからも自律した「趣味縁」 であるとする。 吉原直樹は同質性や近隣に特徴づけられた従来のコ ミュニティと対比して、物理的な近接性/隣接性に回収 されないつながりを「新しい近隣」あるいは「コミュニ ティ・オン・ザ・ムーブ」と呼んでいる(吉原, 2018)。アー リによれば、これまでコミュニティとしてとらえられて きたものは、移動性や情報化の高まりによって、近年で はネットワーク概念によって再構成されている(Urry, 2007/2015 吉原・伊藤訳)。 富田英典によれば、このような流動的な関係性を支え ているのが情報メディアである(富田, 2009)。富田は ダイヤルQ2やポケットベル、携帯電話やコンピュータな どの媒体をとおした匿名的ではあるが親密な他者関係を インティメイト・ストレンジャーと名づけた。従来の常 識的な観点からすれば、匿名性と親密性は相反する性質 であった。ところが1980年代以降のメディア状況にあっ て、見知らぬ他者と親密な関係を築くコミュニケーショ ンが可能になっているという。 辻泉はカラオケにおけるコミュニケーションについ て、興味深い議論を展開している(辻, 2013)。一方に は狭義のカラオケ・コミュニケーションがあり、それは カラオケボックスの同じ部屋に共在する人同士の、カラ オケを媒介としたコミュニケーションである。他方に広 義のカラオケ・コミュニケーションがある。趣向が多様 化し、わずらわしい付き合いを避けるため、ひとりでカ ラオケに行く人も増えている。しかしひとりでカラオケ に行くからといって、そこにコミュニケーションが存在 しないわけではない。ひとりで(alone)カラオケに行 く人が「ひとりカラオケなう」とtwitterでつぶやくとき、 そこには見知らぬ誰かとのつながり(together)が企ま れている。 1995年の阪神・淡路大震災以降、日本では社会問題 の解決に際してNPO・NGOやボランティア組織などが果 たす役割に注目が集まり、新しい公共性をめぐる議論が さかんにおこなわれてきた。これまで、社会的なもの/ 公的なものは国家が独占してきた。ところが、国家はも はや社会的なものを一手に引き受けるだけの資源や余裕 をもちあわせてはいない。公的なもの/社会的なものの 再定義が迫られ、「社会などというもの」はますます見 えづらくなっている。2011年の東日本大震災以降、つ ながりや絆という言葉が注目されてきた。社会的なもの の安定性が揺らぎ、家族や職場が流動化し、グローバル 化や情報化が加速度的に進展するなかで、社会関係も解 体/再定位されている。 2. 対面性とつながり つづいて、つながりにおける対面性に着目しよう。 社会学は群衆と大衆を明確に区別する。群衆は「空間 的に近接し集合行動を行う」のに対して大衆は「空間的 に散在し間接的に接触するにすぎない」(見田・栗原・ 田中, 1994, p. 576)。大衆と大衆は互いに見えない場所 にいながら、互いの存在を意識している(「見えないけ れど仲間がいるのね」)。このような状況をここでは共在 感覚と呼んでおこう。行為や社会関係が特定の場所から 「脱埋め込み化」されている近代社会においてはじめて 私たちは「空間的に散在」している他者ともつながるこ とができる。対面性を前提としない大衆は、きわめて近 代的な特質をもった存在であるといえよう。 「空間的に散在」している大衆を相互につなぎあわせ ているのは場所とメディアである。J. ハバーマスは『公 共性の構造転換』のなかで、17世紀のイギリスを端緒 としてヨーロッパ各国において市民的公共圏や公論が 形成される過程を詳細に明らかにしている(Habermas, 1990[1962]/1994 細谷・山田訳)。都市の喫茶店やサ ロンや会食クラブでは、そこに集った市民たちが小説や オペラ、絵画、音楽などの文化的商品について論議する 習慣が成熟していく。これが文芸的公共性である。文芸 をめぐる会話や論議はやがて批評として組織化され、芸 術批評が手書きの通信や雑誌、新聞といったメディアへ と浸透していく。場所にもとづいていた言論空間が、や がてメディアによって媒介された空間へと拡張するの だ。そこで議論される内容は、文芸的なものから次第に 政治的なものへと移行していく。それが政治的公共性で ある。「すでに17世紀の70年代に、政府は喫茶店での論 議がひきおこす危険に対抗する布告を出す必要に迫られ ていた」(Habermas, 1990[1962]/1994 細谷・山田訳, p. 88)。喫茶店などの場所や、新聞や雑誌といったメディ アが国民感情や公論を醸成していく。人びとは公的な事 柄を論議する公衆として社会に参加し、公権力を監視し たのだった。 B. アンダーソンは『想像の共同体』において、近
代国民国家の前提となる国民を「イメージとして心に 描かれた想像の政治共同体」と定義した(Anderson, 1991[1983]/ 1997 白石・白石訳, p. 24)。アンダーソン によれば、このような想像力の産物としての国民をもっ とも見事に象徴しているのが無名戦士の墓である。「こ れらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそ こにだれがねむっているのか誰も知らない」にもかかわ らず、そこには「鬼気せまる国民的想像力が満ちている」 (Anderson, 1991[1983]/1997 白石・白石訳, p. 32)。国 家とはメディア的想像力の産物にすぎない。国民は互い に知ることも、会うこともない。にもかかわらず彼らは 同じ共同体に属し、強く結びつけられている。つながり を創出/維持するのに決定的な役割を果たしたのが、出 版資本主義である。書物や新聞の出版と連動して国語が 生みだされ、同じ言語を用いる共同体として国民が創出 されたのだ。 「社会などというものは存在しない」とするサッチャー の言い切りは、ある意味では正鵠を射ている。国民も国 家も社会も想像されたものにすぎない。伝統的な村落共 同体におけるつながりが対面的であったのとは対照的 に、近代の国家や社会や共同体におけるつながりは目に 見えない。このような非対面性こそが近代社会の特徴と いうこともできるだろう。近代社会におけるつながりは、 場所から脱埋め込み化されており、人びとの想像力やメ ディアに媒介されている(「見えないけれど仲間がいる のね」)。 近代社会はつながりにおける対面性を前提とせず、し たがって社会学は想像上/メディア上のつながり(共在 感覚)を考察の主たる対象としてきた。このような社会 学の伝統に対して、相互行為における対面状況や身体性 の重要性を強調したのがE. ゴフマンである。彼によれば、 これまでの社会学が対面的相互行為としてとりあげて きたのは、社会の秩序を脅かすような群集、モッブ、パ ニック、暴動などであった(Goffman, 1961/1985 佐藤・ 折橋訳)。他方、日常におけるありきたりの対面的相互 行為には十分な関心が寄せられてはこなかった。「街頭、 公園、レストラン、劇場、焦点、ダンスホール、集会場、 その他およそ人の集まる場所での行為に見られるルール は、社会組織のもっとも一般的な形態について、多くの ことをわれわれに教えてくれる」(Goffman, 1963/1980 丸木・本名訳, p. 4)。対面的な相互行為にこそ社会を読 み解く糸口があるとし、彼は出会いや集まりの場面にお ける視線やしぐさ、ふるまいを詳細に分析した。相互行 為における身体や演技の役割の重要性に注目したゴフマ ンの議論は、D. マキァーネル、A. R. ホックシールド、R. B. エジャートン、T. エデンサー、J. ラースンなど後続の 社会学/観光研究に多大な影響を及ぼしてきた。 他方、J. メイロウィッツは、相互行為やふるまいをめ ぐるゴフマンの議論を評価しつつも、彼の描く社会が あまりにも静態的であることに加え、彼が対面的な相 互行為のみに焦点をあて、当時隆盛しつつあった電子 メディアの影響を無視したことを批判した(Meyrowitz, 1985)。返す刀でメイロウィッツは、メディア研究をお おきく前進させたM. マクルーハンがメディアの効果に 着目するあまり、対面的相互行為の構造的な側面を等閑 視していることも批判する。これまでの社会学が、現実 とメディアを異なるものとしてとらえてきたのに対し て、メイロウィッツは対面的相互行為論とメディア研究 を統合し、電子メディアの発展が場所に対する人びとの 感覚や彼らの相互行為をどのように再編しているのかを 問うた。 重要なことに、電子メディアという新しいコミュニ ケーション技術の登場によって空間や場所の意味が電子 的に溶解していくわけではない。その逆だ。情報化やデ ジタル化が進展した2000年代以降においても、人びと はパブリック・ビューイングやロックフェスに集い(飯 田・立石編, 2017)、アイドルのライブに駆けつけ(竹田, 2017)、ポケモンGOの旅をする(神田・遠藤・松本編, 2018)。こんにちにおいて私たちが目撃しているのは、 「新たな仕方での空間性の突出」であり、「空間は消失す るのではなく改めて問題化されているのである」(吉見, 2003, p. 138)。 IV. 観光とつながり 1. 観光における個人化とつながり 組織、集団、コミュニティ、村落、都市、国家、会社、 家族、学校、メディア空間などをとおして、社会学は人 と人とのさまざまなつながりに多大な関心を寄せてき た。そこには、ゴフマンが鮮やかに描きだしたような対 面的なつながり(共在)から、ハバーマスが歴史的にあ とづけた公共圏や、アンダーソンが分析した国民国家と いった目に見えない想像上のつながり(共在感覚)まで のひろがりがあった。近年ではデジタルメディアの発達 が、一方ではつながりにおける場所や空間や身体性の意 味をなし崩しにするようにみえつつ、他方でそれらを新 たな形で大胆に再編している。 いまでも/いまこそ場所が重要なのだ。物理的環境や
身体性は私たちの行為を可能ならしめたり、押しとどめ たりしている。私たちはようやく観光のつながりについ て考える地平へとたどり着いたようだ。観光者は誰と、 どのようにつながってきたのだろう。彼らはどのような つながりを生きているのだろうか。 先に結論をあられもなく語ってしまうと、観光の場面 におけるつながりを主題とした研究はこれまで十分に蓄 積されてはこなかった。部分的な指摘や示唆は散見され るものの、観光のつながりをめぐる研究の厚みは、前章 で検討したようなつながりの社会学の蓄積に比してあま りにも物足りない。 Ⅱ章で明らかにしたように、これまでの観光研究は近 代の観光と大衆観光と団体旅行のあいだの太い等号を暗 黙裡に前提としてきた。観光とはつまり「みんなで行く 観光」であった。同じような「みんな」が同じバスで同 じ場所に行き、同じ写真を撮って同じものを食べる。す でに1970年代から観光の個人化が進み、こんにちでは それが大部分を占めている。同床異夢も異床同夢も異床 異夢もさまざまにあるにもかかわらず同床同夢ばかりが 語られてきた。ここでは観光のつながりの社会学を試み てみよう。つながりを糸口として、観光の社会性/集合 性/大衆性をひも解いてみよう。最初の手がかりは社会 関係の個人化だ。 Ⅲ章で述べたように、近代社会においては階級や家族、 学校、企業、国家が人びとをつなげてきた。観光は社会 関係を再生産する。近代観光の原型ともいえるグランド ツアーは、18世紀イギリス貴族階級の通過儀礼であった (本城, 1994[1983])。貴族の子弟たちは国際人としての 教養を身につけるためにフランスやイタリアへと旅をし た。そうしなければ、本国で一人前の紳士とはみなされ なかった。19世紀になるとグランドツアーは衰退する。 新しい階級が台頭し、旅が民主化されたのである。T. クッ クが創始した近代観光は、労働者階級に健全な余暇を提 供する団体旅行であった。旅行をつうじて彼らは良き 労働者として産業社会に組み込まれていった(Brendon, 1991/1995 石井訳)。アーリはブルデューの文化資本 の概念をもとに、ブルジョアが整備された自然を好むの とは対照的にサービス階級は野趣あふれる自然を好むと いったように、観光者のまなざしが階級によって分化し ていることを明らかにした(Urry, 1990/1995 加太訳)。 白幡洋三郎は、修学旅行を「他の文化圏にはみられな い日本文化の一つ」としてその歴史を分析している(白 幡, 1996)。修学旅行の源流は1886年に東京師範学校が おこなった長途遠足である。目的は見学や見聞というよ りも身体の鍛錬であり、富国強兵という国家の目的と連 動するものであったという。師範学校、つまり未来の教 師を育成するための学校から修学旅行がはじまったこと は重要である。修学旅行に参加することは、良き生徒と なり、良き教師となり、良き国民となり、良き兵士とな るための道筋なのであった。戦後になると行き先は帝都 東京や伊勢神宮から、広島、長崎、沖縄、スキー場、海 外へと多様化していくが、修学旅行は一貫して旅する児 童や生徒を学校化/社会化する役割を果たしてきた。 白幡は、団体旅行が修学旅行以外にも社員旅行、家族 旅行、海外旅行などさまざまな形態をとって発展してき たことを指摘している。観光は人びとを階級や国家、学 校、会社、家族へとつなぎあわせ、彼らを社会化する装 置として機能してきた。観光は「社会的に構造化され組 織化」(Urry, 1990/1995 加太訳, p. 2)されているのだ。 後期近代においては、社会関係の個人化が進展する。 人びとは単に社会関係から脱埋め込み化されるのではな く、個人と個人がライフスタイルや趣味などによってそ の都度つながれる/ネットワーク化される。近年みられ る観光の新しい動向も、このような「ネットワーク化さ れた個人主義」のあらわれの一つということができるだ ろう。 ロングステイやライフスタイル移住はこれまでの社会 とのつながりをいったんリセットし、新しい土地での新 たなつながりを志向する。多田治によれば、観光で訪れ た沖縄を気にいって移住した人が伝統芸能の継承や環境 保護など地域活動の重要な担い手となるケースが多くみ られるという(多田, 2008)。古市憲寿が参与観察によっ て描きだしたように、ピースボートの世界一周クルーズ は船上に共同体を仮構する(古市, 2010)。もちろんそ れは、前近代的な村落共同体とも近代のリジッドな組織 とも異なる「ほんの一瞬の止まり木」としての共同体で はあるが。岡本健はアニメ聖地巡礼において、アニメファ ンたちが訪問先の地域住民と交流をおこなう様子を分析 し、そこに新たな旅行コミュニケーションの可能性をみ る(岡本, 2018)。 観光は一方で近代社会におけるつながりを上書きして きた。日常からの逸脱は、たいてい日常への帰還を前提 としており、観光は日常の再創造(re-creation)として の役割を果たしてきた。他方、観光は観光者どうしや観 光者と地域社会との新たなつながりをもたらしてきた。 このつながりは一時的で流動的なものではあるが、それ は後期近代社会におけるつながりをもっとも端的な形で あらわしてもいる。
2. 観光における対面性とつながり 観光には身体的移動がともなう。特定の場所がかかわ る。このような場所性や身体性にこそ観光という行為/ 現象を他と区別する重要な特徴があるといえよう。観光 研究は、対面的状況におけるつながりをどのようにとら えてきたのだろうか。 まずは古い話からはじめよう。W. シヴェルブシュ は『鉄道旅行の歴史』のなかで、17世紀における馬 車 の 座 席 配 置 に つ い て 分 析 し て い る(Schivelbusch, 1977/1982 加藤訳)。旅人どうしが膝をつきあわせるよ うに向かいあって席につくのは「旅行中の談笑の要請」 に応えるためであった。同時代の都市にコーヒー店、ク ラブ、劇場が台頭し、市民階級は社交の空間をつくりだ してく。馬車も「この大きな関連の一部」であり、旅行 者相互の陽気な触れあいを生みだしていたが、「鉄道が これに終止符を打つ」(Schivelbusch, 1997/1982 加藤訳, pp. 96-97)。鉄道の時代になると、狭い車内での共在は むしろ苦痛に感じられる。車窓から外を眺めたり、新聞 や本に目を落とすことが談笑にとってかわる。コミュニ ケーションからパノラマへの移行である。 ゴフマンは観光の場面に中心的な関心を傾けてきたわ けではないが、鉄道や飛行機、長距離バス、船、バー、 避暑地などにおける対面的相互行為にも言及している (Goffman, 1963/1980 丸木・本名訳)。たとえば彼は、 船上での過ごし方について以下のようなエチケット本の 記述を紹介している。「他の乗客に親しげにあいさつす ることは、控え目であるかぎり、グッド・マナーであり ます。デッキ・チェアーにくつろいでいる時などは、隣 りの人に話しかけてもよいのですが、会話をおしつけて はなりません。一般に、友だちの家にいる時のように、 同じ屋根の下にいることが紹介済ということを意味しま す。だからといって、昼間知らない乗客に出会う時に、 会釈以上のことをしてもよいというわけではありませ ん」(Goffman, 1963/1980 丸木・本名訳, pp. 142-143)。 つかずはなれずの微妙な距離をとりあうことが、旅先で の儀礼なのだ。 ゴフマンの問題関心を観光空間に援用してユニークな 分析を展開したのが、R. B. エジャートンの『ビーチの社 会学』である(Edgerton, 1979/1993 和波弘樹・和波雅 子訳)。Alone Togetherという原題をもつこの著作は、必 ずしも観光研究のなかに適切に位置づけられてはこな かったが、観光のつながりを検討する際におおくの示唆 をもたらす。エジャートンは、ビーチは一見すると(そ して実際に)危険な空間にもかかわらず、そこではなぜ 社会秩序が保たれているのかを問うた。アメリカ西海岸 のビーチにおける対面的相互行為の観察をつうじて彼 は、①来訪者たちに共有されているビーチは安全で楽し いとする信念(思い込み)、②他人から近すぎる所にタ オルを置かない、眠っている人のすぐ近くでフリスビー 投げをしない、などといったビーチ特有のルール(ビー チ・ルール)、③問題があれば立ち去ればよいという移 動性/可動性、の3つがビーチの社会秩序を維持してい ると結論づけた。ビーチにやってくる人はほとんどがひ とりか、少人数である。みんなばらばら(alone)であ りながらも、彼らは相互作用の網の目のなかで共在し、 つながっている(together)。一時性や移動性という観光 空間ならではの特徴をここにみることができるだろう。 観光における対面的なつながりを考察したものとして は、ほかにアーリが『観光のまなざし』のなかで提起し た集合的まなざしを挙げることができるだろう(Urry, 1990/1995 加太訳)。彼は観光において孤独を享受する ような態度をロマン主義的まなざしと呼び、自然や田園 を審美的に消費するエリート層のまなざしをその例に挙 げた。ロマン主義的まなざしが他者の不在を前提として いるのに対して、集合的まなざしは他者との共在を必要 とする。他者がその場にカーニバル的な雰囲気や意味を 付与するため、このまなざしのもとでは観光地はひっそ りとしているほうが奇妙なのである。集合的まなざしに おいては「自分と同じような他の ツーリスト がいるこ と」が重要なのである。 1990年代以降、人文学におけるパフォーマンス的転 回の影響を受けて、観光研究においてもパフォーマン スへの注目が高まってきた。E. コーエンとS. A. コーエン は、観光社会学におけるパフォーマンス研究を穏やかな モードとラディカルなモードに区別している(Cohen, E. & Cohen, S. A., 2012)。穏やかなモードは、ゴフマンの影 響のもとで観光の対面的状況におけるパフォーマンスに 着目する。『観光のまなざし』が観光において「みること」 が果たす役割を過度に重んじたのに対して、パフォーマ ンス研究では観光における「すること」、ふるまい、身 体性に焦点があてられる。観光パフォーマンスは社会関 係の反映や再生産の装置であり、観光者は日常性を「旅 行鞄」(Edensor, 2001, p. 61)に忍ばせて旅をしている とされる。 他方、ラディカルなモードは「ゴフマンを越えて進ん でいく」(Cohen, E. & Cohen, S. A., 2012, p. 2183)。ツアー の参加者が添乗員の意図に反する行動をとったり、想定 されていない楽しみを自らつくりだしたりすることがあ
る。観光パフォーマンスには創造性や逸脱の契機があり、 観光はパフォーマティブに現実を構築するのだ。『観光 のまなざし』第3版では、初版における視覚偏重への批 判をふまえて、パフォーマンス/パフォーマティビティ 概念を取り込んだ改訂がなされている(Urry & Larsen, 2011/2014 加太訳)。 このように、観光研究は対面性、集合性に焦点をあて てきた。人と人が一つの場所を共有することの意味にこ だわってきた。社会学や社会科学が研究対象とする社会 が、どちらかといえば共在感覚/非対面的なつながりを 指すことが多いのとは対照的に、観光研究は共在/対面 的つながりに関心を傾けてきた。ここに、身体性や物質 性を重視する観光行為/現象の特徴をみてとることがで きるだろう。 3. デジタル時代の観光のつながり こんにちにおいて観光は変容している。コミュニケー ションのデジタル化によって、身体や場所の意味が再編 されている。私たちは想像上の旅やヴァーチャルな移動 すらも観光の一部であると考えはじめている。さいごに、 モビリティ/デジタル化の時代における観光のつながり について検討してみよう。 『モバイル・ライブズ』のなかでアーリとA. エリオッ トは、モビリティ社会における生活の変容について考察 している(Elliott & Urry, 2010/2016 遠藤監訳)。これ までの社会科学が地理的に近接したコミュニティにあま りに焦点をあて過ぎてきたことを批判しながら、彼らは 社会科学の「モバイル化」を唱える。交通インフラの発 展、グローバル化の進展は、かつては非日常であった身 体的移動をますます日常化する。富裕層はプライベート ジェットに、若者はLCCに乗って物理的距離を日々圧縮 している。デジタル技術やデジタル・コミュニケーショ ンは移動や場所の意味そのものを変えてしまう。イン ターネット会議、出張中のメールチェック、Googlemap などが人びとの生活を地理的/物理的/身体的なものか ら想像的なものへと変容させている。 本稿との関連でより興味深いのは、モビリティ/デジ タル社会におけるつながりをめぐる分析である(Elliott & Urry, 2010/2016 遠藤監訳, ch.5)。イギリスで遠距離 生活を営む家族の観察をとおしてアーリらは「モバイル な親密性」という概念を提起する。かつて親密性は地理 的な近接性に基礎づけられていた。しかし、交通インフ ラの発展とデジタル・コミュニケーションの革新によっ て、遠距離家族は常につながっている。彼らは離れてい るときでもメールで子どもの宿題を手伝い、iTunesで夫 婦の思い出の曲を聞くことで、親密な感覚を失わずに家 族生活を維持していく。 『モバイル・ライブズ』は狭い意味における観光の 研究書ではない。アーリらが旅(travel)というとき、 それが意味するところは観光(tourism)よりも移動 (mobility)のほうに近い。彼らにとって、観光とそう でないものを区別して論じる意義は少ない。彼らの意図 は「異なる形態であるはずの旅、輸送、ツーリズム、コ ミュニケーションに関する社会学的分析を接続」(Elliott & Urry, 2010/2016 遠藤監訳, p. ii)することにある。
『モバイル・ライブズ』の問題意識をふまえつつ、よ り観光に焦点をあてた分析をおこなっているのがJ. G. モ ルツの『観光のつながり』である(Molz, 2012)。モルツは、 旅先でのインターネット接続、デジタルデバイスを用い たまち歩きツアー、旅行ブロガー、カウチサーフィンな どを事例に、デジタル・ネットワークが観光におけるつ ながり(connection/togetherness)をどのように変容さ せているのかを詳細に考察した。そこでは、風景、まな ざし、ホスト/ゲスト、真正性をめぐる観光研究の既存 の議論をモバイル化することが企図される。 私たちは移動中や旅先において、デジタル・ネッワー クに接続し、ノートパソコンや携帯電話をもちいて親し い人や赤の他人とますますつながるようになっている。 このような旅をモルツは「インタラクティブな旅」と名 づける。それはエリオットとアーリの「モバイル・ライ ブズ」、A. ウィッテルの「ネットワーク化した社会性」、 Z. バウマンの「リキッド・ラブ」と同型的なものである。 ここでは、つながりが対面性の次元に限定されることな く、オンラインの相互行為やモバイルなコミュニケー ションへと拡張されている。 モルツの議論を、まずは社会関係の個人化の観点から 検討してみよう。彼女は本の終盤において、デジタル・ ネットワーク時代の旅は近代生活からの逃避となりえる のかを問うた。旅は日常性からの解放や脱出をもたらす。 わずらわしい人間関係や、極度に技術化され商品化され た社会システムからの一時的離脱をともなう。人は自ら の意志によってつながりを選択し、人生を再設計する。 他方、こんにちの観光者の多くは旅先においてインター ネットに接続し、オンラインのつながりを維持する。イ ンタラクティブな旅は旅先ならではのつながりやオンラ インならではのつながりを新たに生みだす反面、過干渉 な親への安全報告や、ブログ更新に多大な時間を費やす など、観光者は近代社会/日常生活に「接続(plugging)」
されてもいる。モルツによれば、観光には希望と不安と が共在するのだ。 対面性の観点からは何がみえるだろうか。ネットワー ク接続は、つながりのあり方を大胆に再編している。旅 行ブログをとおして見知らぬ他者と知り合ったり親しく なったりすることがあるように、一方ではデジタル・ネッ トワークならではの新しいつながりがもたらされる。他 方、ネットへの接続が対面的なつながりを切断すること もある。本の冒頭においてモルツは、ゲストハウスでイ ンターネットに熱中して同宿の他の旅行者とは一切かか わらない若者のエピソードを紹介している。あるつなが りは強化されながら、あるつながりは断ち切られるのだ。 デジタル技術が単につながりを強めるのか弱めるのかで はなく、それがどのようなつながり/社会性を新たにも たらすのかを問うべきであると彼女は主張する。 エリオット&アーリとモルツの議論からえられる示唆 をまとめておこう。物理的な移動が加速度的に容易にな るとともに、デジタル・ネットワークが飛躍的に拡大す ることで、物質性や場所性、移動の感覚はおおいに変容 している。このようなモビリティの時代において、つな がりや、ともにあること、社会的なものが再編されてい る。かつては物理的な次元にとどまっていたつながりや 共在はデジタル・ネットワークによって拡張している。 ただし、それは単に社会関係がアナログからデジタルへ と移行したことを意味するのではない。インスタグラム がリアルな旅の経験をオンラインのネットワークへと回 収しつつも、それが新たな旅へと人びとを誘うように、 共在と共在感覚、対面性と想像は再帰的に循環している のだ。エリオット&アーリの議論は観光に限定しない広 範な社会状況を対象とし、モルツの議論は観光に限定し ているようにもみえるが、その区別はたいした意味をな さない。なぜなら、モルツにとっても観光は「近代の 社会生活のメタファー」(Molz, 2012, p. 9)なのであり、 観光者はますますモバイル化する現代世界の象徴なのだ から。 V. おわりに 観光研究は観光における「社会的なもの」を一枚岩的 にとらえてきた。観光者は誰もが対面的に共在し、同じ 場所に同じまなざしを向けていると考えられてきた。大 衆観光批判は、大衆観光を可能な限り狭く固定的なもの へと閉じ込めておくことにいそしんできた。大衆観光を 大衆観光批判の拘束から解放しその多様な実態を明らか にするため、Ⅱ章ではもう一つの大衆観光という視座を 提示した。こんにちの観光形態のほとんどは個人旅行で ある。しかし、団体旅行であろうと個人旅行であろうと、 対面的であろうとそうでなかろうと、観光者はつながっ ている。観光はどこまでも社会性、大衆性、集合性のな かで営まれている。観光は「社会的に構造化され組織化」 (Urry, 1990/1995 加太訳, p. 2)されているのだ。 本稿は、観光の社会性を明らかにするため、つながり に着目し、観光のつながりの社会学的分析を試みた。Ⅲ 章では観光に限定されない広範な社会的文脈におけるつ ながりを検討し、社会関係の個人化と対面的相互行為に 焦点をあてた。そこでは、ネットワーク化とデジタル 化がつながりのあり方を再編していることを明らかにし た。 つながりの社会学をふまえて、Ⅳ章では観光のつなが りを考察した。観光は、ある面では既存のつながりを再 生産しつつも、ある面ではそれを揺るがし、さらには新 しいつながりを生みだしてもいる。観光者たちは、対面 的に、あるいは想像のなかでつながっている。個人の志 向やライフスタイルによって、観光はますます多様化し ている。「これが観光だ」というものは、ある意味では 存在しない。それぞれの観光や旅、移動がそれぞれに存 在している(alone)。しかし、それぞれの観光はつなが りのなかで織りなされている(together)。ここに、観光 の社会性の現在形を見いだすことができる。 観光のつながりを問うことは、ある厄介さを抱え込ん でいる。移動、コミュニケーション、メディア、デジタ ルデバイスのめまぐるしい進展によって、社会はますま すモバイル化している。観光のつながりと、観光以外の つながりとを別々に論じること、章を分けてそれらをあ たかも別物であるかのように取り扱うことの正当性は揺 らいでいる。社会は観光的に構造化され組織化されてい るなどといえば、言葉遊びがすぎるだろうか。 注 1) 消しゴム版画家ナンシー関の傑作コラム集『信仰 の現場』の版画に添えられた文字(ナンシー関, 1997[1994], p. 211)。 2) 大衆観光をめぐる考察は、鈴木涼太郎氏、須永和博 氏、千住一氏、山口誠氏らとの議論から着想を得て いる。 3) 『中島みゆき全歌集』(中島, 1986, pp. 24-25)より
引用。
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