研究随想
サルトル他者論から現代発達研究へ至る道
柴田健志
11. はじめに
ちょうど日本の元号が平成から令和になった頃、私は講談社メチエの一冊として企画された 『〈心〉の哲学史』の共同執筆の依頼を受けた。私が担当したのはその中の第四章「認知システム と発達の理論展開(サルトル他者論から現代発達研究へ)」である。その内容をひとことで要約す れば、サルトルの現象学に依拠して現代の心理学における発達研究を批判的に検討する、といった ところである。少し詳しく説明すると、幼児の他者理解に関する発達心理学の標準理論である「心 の理論」の問題点を指摘し、それに対するオルタナティブを提案することを主眼とした論考である。 この論考において私が狙った点は、サルトルの他者論の中心に位置する「視線(regard)」に関する 論理の射程が、発達研究の領域にまで及びうることを指摘することであった。ところが後になって、 サルトルの他者論を発達研究に結びつけるという発想はちょっと珍しいものかもしれないという ことに気づいた。いや、おそらくこれまで全く試みられていないものであるはずである。そこで、 サルトルの他者論が発達研究の批判的分析に有効であるという発想そのものがいったいどこから 得られたものなのかという点について語ってみることにしよう。2. 心の理論
サルトルの他者論を発達研究に結びつけるという方向づけを私に与えたのは、ショーン・ギャラ ガーとダン・ザハヴィである。この点は明瞭に自覚できている。この二人の共著である『現象学的 な心』[1]は、様々な問題のレベル(自我、知覚、身体、時間、行為者、他者等)における現象学的 考察の成果を、認知科学や神経科学のような実証的研究を踏まえて再検討するというスタイルにな っている。他者という問題においては、やはり上述の「心の理論」に含まれる問題点を起点にして、 現象学的な他者論の意義を再認識するという課題が設定され、その中で様々な現象学的考察が整理 されているのである。 では「心の理論」に含まれる問題とは何だろうか。「心の理論」とは「(他者の)心を読む」とい うことがいかにして成立しているかという問いかけに対する一つの解答である。私は自分の心の状 態については直接知ることができるが、他者の心の状態については知ることができない。ところが 事実として、私は他者の心の状態について様々なレベルで知識を持つことができる。「彼女は何を1 鹿児島大学教授 Email : [email protected] 自己紹介:近現代哲学専攻です。認知・神経科学の知見を取り入れて哲学史の読み直しをしています。 著書に「自由意志の幻想:ニューロサイエンスからみたスピノザ」『哲学の挑戦』(春風社 2012)など があります。
考えているか」(思考内容)。「彼女は何をしようとしているか」(意図)。「彼女はどんな気分なのか」 (情動)。等々である。無論、これらが全く分からない場合もよくある。また、それらについての 私の知識が間違っていたという場合も多い。しかし、他者の心の状態についてある程度の理解は成 立しているだろう。そうでなければ社会生活の大半は成り立たないはずなのだ。では、直接知るこ とのできない他者の心という対象はいかにして認知されているのか。これが「心の理論」が解答し なければならない問題である。 他者の心というものは、直接知ることができない対象なのだから、あるいはそのように想定され ているのだから、理論的には間接的に知られていると考えるのが自然である。では間接的な認知は 何をもとにしているのだろうか。他者の心は知覚できないかもしれないが、他者の身体ならば知覚 できる。そう考えると他者の身体からは非常に多くの情報を読み取ることができるということに気 づかされるだろう。我々は、他者の顔の表情や身体所作から、その人の心の状態についていかに多 くを読み取っていることか。この時我々はいったい何をしているのだろうか。知覚情報から他者の 心の状態を推理しているのだ。ただし、この推理がその都度の思いつきによってなされているとは 考えられない。経験を積むことで他者の心を読む技術は明らかに正確になるからである。それなら 知覚情報からできるだけ正確に心の状態という目標に到達する方法があるはずである。「心の理論」 という理論はこういう発想から生まれたものであると理解されている。すなわち、人間は知覚情報 から心の状態に到達するために心に関する「理論」を使っているという理論が「心の理論」という 理論なのだ。人間は生まれてから常に他者と共にある。言い換えれば、常に他者を観察している。 そうした観察経験をもとにして他者の心に関する「理論」が構築されているというのである。 以上のような「心の理論」の概観から何が分かるだろうか。おそらく、そこに根本的な問題が含 まれているという点をすぐに見抜くことは難しいだろう。しかし、この理論には決して見逃すこと のできない問題が含まれているということは間違いない。いや、それは問題というよりもむしろ誤 謬であるといわなければならないだろう。その誤謬をひとことで表現すれば、他者の心が「対象」 として存在しているという思い込みである。無論、この対象は直接的に知覚されることはできない。 それはいわば隠された対象として前提されているのだ。 ではなぜこの前提が誤謬であると言い切ることができるのか。この点を納得するためにはそれほ ど複雑な考察を必要としないはずである。なぜなら「心の理論」が解答すべき問題は、まさに次の ことを受け入れることで設定されていたからである。すなわち、「私は自分の心の状態については 直接知ることができるが、他者の心の状態については知ることができない」ということである。こ の命題が表現しているのは、心の状態が主観性として与えられているということである。私の心は 主観性である。同様に、他者の心も主観性である。これらは主観性としてしか存在できないのだ。 それらはいかにしても対象(客観性)とはなりえない存在なのである。ここで「心(mind)」とい うタームを「意識(consciousness)」に置き換えれば、この命題は「意識とは主観性である」という フッサール以来の現象学の基本命題とみなすことができるだろう。このように考えてみると、「心 の理論」に含まれる問題とは、決して対象とはなりえない存在を対象として設定してしまったとい う点にあることが明らかであろう。
3. 間主観性
現象学的な他者論はこの認識から出発したということができるだろう。ザハヴィとギャラガーも 明らかにそのような理解で認知科学の成果を取り入れつつ、同時にそれに対するオルタナティブを 提案しようとしているのだ。「心の理論」が陥った誤謬は、哲学史においては「類推による議論 (argument from analogy)」と呼ばれている論理と同型である。「私は自分の心の状態については直接 知ることができるが、他者の心の状態については知ることができない」という同じ前提に立った上 で、私に当てはまることは他者にも当てはまるであろうという論理(これが「類推」)によって他 者の心の状態が推理されているというのである。つまり、私が特定の心の状態にある時、私の身体 はそれに対応した状態にある(私は悲しいから泣いているのだ)。ところで他者の身体は知覚可能 であるから、他者の身体の状態から自分との「類推」によって他者の心の状態が推理できる(彼女 は泣いているから悲しいのだ)。ちなみに、この論理は現代の認知科学では「シミュレーション」 と呼ばれて理論的に洗練されている。「シミュレーション」と「心の理論」は他者認知に関する二 大理論と考えられているが、他者の心を対象として取り扱うという同じ誤謬を共有しているのであ る。 前掲の『現象学的な心』とは別の論文[6]において、ザハヴィは現象学がこのような誤謬に対する 批判的視点を当初から持っていたという点を明らかにしている。「サルトルの他者論と発達研究」 という主題を設定するにあたって、私はこの論文から非常に影響を受けている。ザハヴィによれば、 シェラーの「共感(Mitleid=empathy)」の理論は「類推による議論」への批判から生み出されたも のなのである。すなわちシェラーにとっての「共感」の理論的な意義は、他者を理解している際の 意識のはたらきを、対象の属性を認知する際の意識のはたらき(つまり知覚)とは異なったものと してとらえるという点にある。現象学的な用語で言い直せば、「共感」とは「意識」すなわち「指 向性(intentionality)」の一つの形態であるが、それは「指向性」の他の形態には還元不可能な形態 なのだ。人間が相互に理解し意志疎通をはかる「間主観性(intersubjectivity)」という領域を独自の 領域として設定したという点が重要なのである。 ところで、「指向性」の他の形態の代表的なものは、ここで問題になっている「知覚」という形 態であろう。その他、「想像」や「想起」等も「指向性」の形態と見なされる。つまり、哲学がそ れまで多様な心的能力として語ってきたものをすべて「指向性」の形態とみなし、それらを「記述」 するというのが現象学の基本的スタンスであるといえるだろう。重要な点は、それらの形態が相互 に還元不可能と考えられている点である。サルトルはこの点を明瞭に認識していた。例えば、『想 像力の問題』[4]においては「想像」と「知覚」が相互に還元不可能な意識のはたらきであるという 点がつねに強調されている。この著作によってサルトルが狙ったことは、「想像」とは「知覚」が 退化したものであるという、アリストテレスに始まる伝統的な哲学的見解を否定することであった。 この見解はヒュームに至ってさえ「印象」と「観念」の理論(「観念」とは生気を失った「印象」 である)として継承されていたことを思えば、哲学史の展開において「指向性」の概念が果たした 意義は決して小さくはないだろう。
しかしながら、「共感」の論理は「間主観性」をめぐる現象学的な議論の始まりでしかない。ザ ハヴィの論述においても、ハイデガー、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティにおける「間主 観性」の展開が整理されている。ただし、ザハヴィの論述をたどり直すことはここでの目的ではな い。ザハヴィを参照することで確認したかったことは別にあるからだ。すなわち「他者の心という 隠された対象が間接的に認知できる」という発想が誤謬であるということを現象学がはじめから主 張していたという点を確認することが以上述べてきたことの趣旨なのである。 この点を鮮明に認識すれば、他者に関する現象学的な視点から心理学的な「心の理論」を受け入 れるというようなことはありえないという点が理解できるだろう。むしろ、現象学的な視点から見 れば、他者理解の論理を解明しようとする際に、「心の理論」がごく初歩的なミスを犯していると いう判断が成り立つであろう。このような初歩的なミスを回避する形で「間主観性」の論理を深め ていくことが、現象学の中に一つの系譜を形作ってきたといえるのだ。ザハヴィの指摘によれば、 サルトルの他者論は他者の主観性を徹底して強調するという点においてこの系譜の中でも際立っ た特色を示すものである。現時点から振り返ってみると、「サルトルの他者論と発達研究」という 私の発想はこの指摘の重要性を認識することから出てきたのではないかと思われる。それでは、主 観性としての他者の存在がサルトルの他者論において最も徹底した形で解明されていると考える 理由はどこにあるのだろうか。
4. 視線の論理
主観性としての他者の存在は、『存在と無』[5]においては「視線(regard)」と同一視されている。 サルトルによれば、私が他者の存在を認知するのはその「視線」を感じることによってである。言 い換えれば、私が誰かに「見られる」と感じることによって他者は私に現前するのである。サルト ルの論理が徹底している点は、「見られる」ということなしに私は他者の存在を確信できないと主 張した点にある。他者とは私が「見る」ことのできる存在ではない。他者との関係において、私は 「見られる」ことしかできないのだ。客観的な存在(モノ)であれば、私はそれを私の世界の内部 に「見る」ことができる。つまり、それは知覚の対象となりうる。これに対し、主観性としての他 者とは私の世界を超越する外部に存在するものである。それは私が「見る」ものではなく、むしろ 私を「見る」ものとしてしか現前しないのである。 このような論理に対しては、直ちに次のような反論が出されるだろう。なぜこんなふうに考える 必要があるのだろうか。私は他者を「見る」ことができると考えた方が自然ではないのか。実際、 私は日常的に他者に対面しているではないか。このような反論はある意味当然である。だが、「視 線」の論理において問うべきことは、それが他者との日常的な相互理解という事実に反しているか どうかではない。なぜなら、それはむしろ日常的な相互理解を事実として認めた上で語られうる論 理だからである。この点を納得するために次のように考えてみよう。 他者との日常的な相互理解が可能であるにもかかわらず、他者の中には私が理解し尽くすことの できない部分が残る。しかも、その部分は私が接近することを本質的に拒んでいると感じられる。 しかし、「他者が私の接近を拒む」というのは、意図的に心を閉ざしているという意味ではない。もしこのような接近不可能な部分が感じられなければ、その時点で他者という存在は消えてしまう だろうという意味である。かりに他の人間が存在したとしても、それらはもはや他者ではなく、私 の世界の中だけに存在する対象にすぎないだろう。 例えば、村上春樹が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の中で描いたのはおそ らくそのような世界である。私はそのような世界においてもなお他の人間と日常的な相互理解を行 うことはできるだろう。また、そのような相互理解には快/不快あるいは好/悪のような情動も伴 うだろう。しかし、そのような世界においては決して感じられない情動がある。それがサルトルの いう「羞恥(honte)」である。 実際、サルトルの「視線」の論理において最も重要な点は、他者によって「見られる」という意 識が「羞恥」という情動をもたらすという点にあると考えられる。例えば、ジャック・ラカンは「視 線」の論理の要所がまさしくこの点にあると見ているのだ[2]。では、いったいどのような意味にお いて「羞恥」の情動はサルトルの「視線」の論理の要所に位置づけられるといいうるのだろうか。 この「羞恥」という情動の特質は、もし他者が存在しなければそのような情動は私のうちに発生 しえないという点に認められるだろう。言い換えれば、「羞恥」という情動の意味は、他者によっ て「見られる」ことから決して切り離しえないものである。実際、それ以外の仕方でいったいどう やって「羞恥」という情動の発生が説明できるだろうか。しかし、このような説明は誤解を招きや すい。なぜなら、この説明に従えば、私はあらかじめその存在を知っている他者から「見られる」 と感じた時に「羞恥」を感じるのだという論理も成り立つからである。サルトルが「羞恥」によっ て語ったのはこのような論理ではない。むしろ、「羞恥」の情動を介してのみ私は他者の存在を認 知しうるといった方がサルトルの真意がよく伝わるだろう。まさしくこの意味において、「羞恥」 の情動はサルトルの「視線」の論理の要所に位置づけられるのだ。 この点にフォーカスすることが発達理論の批判的分析にとって有効であることを示す一例を挙 げてみよう。発達心理学においては幼児が他者の存在を認知するのは早くても生後九ヶ月以降であ るという見解が主流をなしてきた。生後九ヶ月以降、幼児は自分のまわりにある事物に向けられた 他者(大人)の「視線」を感受し、「視線」の先にある事物に注意を向けるようになる。この事象 は「ジョイント・アテンション」と呼ばれる。「事物を見るもの」としての他者の存在が幼児の世 界の中に入り込んできているということがこの観察によって認められる。 発達心理学の分野においては、「ジョイント・アテンション」はきわめて重要な発達段階として 認められている。いうまでもなく、他者の存在に気づくということは、社会性の発達の基盤である と考えられるからである。それゆえ、「ジョイント・アテンション」が成立しない場合には、発達 の障害が疑われることになるであろう。実際、自閉症児においては、「ジョイント・アテンション」 の成立がきわめて困難であるということが知られている。 ただ、この論理に従えば、幼児は生まれてからしばらくは他者の存在をまったく認知しておらず、 生後九ヶ月を経過したところで突然他者の存在を認知するということになる。これはまったくおか しな話ではないだろうか。幼児はそれ以前から他者の存在を認知していると考える方がむしろ自然 である。では、九ヶ月以前の幼児はいったいどんなふうに他者の存在を認知しているのだろうか。
「ジョイント・アテンション」の発想においては、他者とは「事物を見るもの」である。それなら、 幼児にとって他者とはつねに「自分を見るもの」として現前していると考えられないだろうか。事 実、大人たちはつねに赤ちゃんを見ているのだ。問題は、幼児が「見られる」という意識を持って いると考えられる証拠があるかどうかである。サルトルの「視線」の論理を援用すれば、証拠とし て何を探せばいいかが分かる。幼児が「羞恥」を感じているかどうかである。なぜなら、サルトル の論理によれば、他者の存在は「羞恥」という情動を介してのみ認知されると考えられるからであ る。 無論、これはたんなる仮説である。ところが、驚くべきことに、発達研究においてこの仮説を実 証するような論文が発表されているのだ [3]。誰もがごく身近に経験しているとおり、大人が幼児 に注意を向けると情動的な反応が見られるであろう。この論文の著者であるレディは、他者の存在 はまさにそのような仕方で認知されていると主張するのである。「幼児は生後きわめて早い時期か ら他者達の注意を情動的に認知している」[3]。ここで使用されている「注意」という用語は「視線」 と置き換えられるだろう。様々な情動の中でも「照れ」や「当惑」は生後二ヶ月から見られるとい う。「照れ」とはサルトルの用語では「羞恥」にほかならない。つまり幼児は自分を「見る」もの として他者の存在に気づいているのだ。 この論文は私にはきわめて興味深いものにみえた。いうまでもなく、他者の存在認知に関するサ ルトルの現象学的な思弁が実証されたという感触を得たからである。この感触は今でも変わってい ない。生後二ヶ月の幼児が「羞恥」を感じるということは、「見られる」という独特の経験を通し て他者の存在が認知されていると解釈することができるからである。また、九ヶ月以降に「ジョイ ント・アテンション」が成立するのは、それ以前に「自分を見るもの」としての他者の存在が認知 されているからだと考えれば他者認知の発達に空白の期間はないことになるだろう。
5. おわりに
このように、サルトルの他者論が発達研究の再検討に役立つのではないかという視点を、私は主 としてギャラガーとザハヴィーから学んだといえるのだが、実際に発達研究の文献にあたっていく 過程でサルトルの主張を裏書きするような主張にも出会い、それを自分の発想の中に取り込むこと によってサルトルの他者論の持つ射程に気づいていくことになったのである。かれこれ十年ほど前 から始めたこの研究の成果は講談社メチエから刊行予定の『〈心〉の哲学史』に書いたのでよろし ければご覧ください、というのがこの話のまとめである。参照文献
[1] Gallagher, S. & Zahavi, D. (2008) The Phenomenological Mind : An Introduction to Philosophy of Mind
and Cognitive Science, Routledge
[2] Lacan, Jacques (1973) Les Quatre Concepts Fondamentaux de La Psychanalyse, Gallimard
[3] Reddy, Vasudevi (2003) “On Being The Object of Attention: Implications for Self-Other Consciousness,”
[4] Sartre, J.-P. (1940) L’Imaginaire : Philosophie Phénoménologique de L’Imagination, Gallimard [5] Sartre, J.-P. (1943) L’Être et le Néant: Essai d’Une Ontology Phénoménologique, Gallimard
[6] Zahavi, Dan (2001) “Beyond Empathy : Phenomenological Approaches to Intersubjectivity,” Journal of