• 検索結果がありません。

中近世ドイツにおける裁判制度としての魔女裁判に関する考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中近世ドイツにおける裁判制度としての魔女裁判に関する考察"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

†社会科教育専修 教科教育専攻 指導教員:宇佐美隆之 原 著 論 文

中近世ドイツにおける裁判制度としての

魔女裁判に関する考察

Naohiro KAWAMURA

キーワード:魔女,魔女裁判,神聖ローマ帝国,ドイツ,歴史 は じ め に 中近世のヨーロッパ各地で行われた,悪魔と 契約して魔法を用い社会に害を与える人々に対 する迫害は,「魔女狩り」という言葉を用いて 語られる。魔女と呼ばれた人々が,現代に生き る我々には許容し難い理由で殺害されたことは 事実である。しかし,多くの人々が魔女の凄惨 な死のみに目を奪われ,その詳細な姿に目を向 けようとする者は少ない。 当時の魔女たちは他の犯罪者たちと同様に告 発され,法廷で取り調べを受け,判決内容に基 づいて刑を受けた。そのような側面を強調して, 魔女迫害は,魔女に対して行われた裁判として 捉えることが出来る。故に,本論ではドイツに 焦点をあて,当時の合法的な裁判制度の下で行 われた魔女裁判についての考察を行う。その具 体像に触れることによって,私は未だ不鮮明な 部分が多い魔女裁判の制度的な実像を明らかに したい。 第 1 章 魔女裁判の成立とキリスト教 第 1 節 魔女裁判成立以前の魔法とキリスト 教の態度 本節では当時のヨーロッパ社会における魔法 の実像について考察する。当時の魔法は大きく 2 つに分けられる。1 つは主として精霊,降霊 術を用いる魔法である。この魔法の担い手は聖 職者など,当時の知識人層に位置する人々だっ た。もう 1 つはまじない的な魔法である。この 魔法の主たる担い手は共同体の中の女性であっ た。この魔法は不能結びという男性を性的不能 にする効果を持った印章や,薬草の知識,呪術 的な方法を用いた実用的なものであった。 これらの魔法は当時のヨーロッパ社会におい ては一般的に存在しうるものと考えられていた ため,単に魔法が使えるという理由で人々が罰 せられることは無かった。魔法を用いた人が罰 せられるのは,魔法を凶器にして人や社会に害 を与えた場合,すなわち「害悪魔術 malefici-um」を用いた場合などの限定的な状況のみで あった。後に魔女裁判を開始するカトリック教 会も 1080 年に教皇グレゴリウス 7 世がデン マーク王ハーラル 3 世に対して,年老いた女性 や聖職者たちに嵐や病気の責任を負わせ残酷な 方法で殺害していることを手紙で非難した例が

(2)

あることから,当時は魔法を無暗に裁こうとは していなかったと考えられる。 第 2 節 異端審問制度の成立 本節では後に魔女裁判に大きな影響を与える こととなる,カトリック教会内における異端審 問制度成立の経緯について述べる。 カトリック教会の華美で形式化した儀礼様式 や,教会を中心とする教会組織に反対する異端 諸派の 1 つであったカタリ派は 1170 年頃, トゥールーズ近郊のサン=フェリクスで宗教会 議を開催した。この新たな教会組織形成の動き をカトリック教会は何としても阻止する必要が あった。当初,異端者を捜索,撲滅する任務は 各地の司教区に設置されていた裁判所に属する 聖職者によって担われていた。しかし,南フラ ンスの世俗諸侯が異端の庇護者だったことや, 在地聖職者の神学的知識の不十分さが原因とな り,異端の拡大を抑制することは出来なかった。 教皇は状況を打開すべく,教皇特使の派遣,教 皇令による世俗諸侯,在地聖職者への統制強化 といった対応を行ったが,目立った成果を上げ ることはなかった。 1208 年に教皇特使ピエール・ド・カステル ノーが南フランスの諸侯のレモン 6 世の息のか かった者に殺害されたことを契機にアルヴィ ジョア十字軍が開始された。これによって,在 地聖職者の管轄であった異端撲滅の主体は世俗 諸侯へと移った。この十字軍が北フランス諸侯 の領土獲得戦争と化したことは論ずるまでもな い。グレゴリウス 9 世が教皇に就任した頃,異 端との戦いについて 1 つの結論が出る。それは 在地の聖職者や諸侯の力に頼っていては異端撲 滅は完遂出来ないということであった。 1232 年に各地の司教に向けて大勅書『Ille humani generis』が公布された。これによりド ミニコ会士を中心とした聖職者たちが異端追及 の任を引き受けることとなり,異端との戦いの 任務の主要な担い手は,教皇直属の Inquisitor すなわち異端審問官 (以下審問官) へと移った。 これが一般的に異端審問制度と呼ばれる制度の 始まりである。

『Ille humani generis』において審問官の具体 的な規定や権限が言及されていなかったことか ら,制度成立当初は混乱を極めた異端審問制度 であったが,14 世前半には制度として安定期 に入った。異端審問が増加するに連れて,高名 な審問官が自身の行った判例や,審問手続きを まとめた手引書を作成するようになる。トゥー ルーズの審問官ベルナール・ギーが 1323 年頃 に作成した『異端審問の実務』等がその代表的 なものと言える。この手引書が他の審問官たち に普及することによって,異端審問制度は統一 的な審問過程を確立させた。異端審問制度が成 立し,異端者の捜査,撲滅に成果を挙げていく 一方で,魔法はその管轄の対象になっていな かった。審問官の手引書においても極少数の例 が見られるのみであり,この時期の魔法は従来 と同じように扱われていた。 第 3 節 異端化する魔法と魔女の誕生 本節では 14 世紀後半から 15 世紀中頃に行わ れた,新たな異端としての「魔女」概念の形成 について述べる。 具体的な起源が不明であるものの,1320 年 に枢機卿ギョーム・ゴダンが教皇ヨハネス 22 世の名でトゥールーズとカルカソンの審問官に 「…デーモンとの間で明文化された契約を締結 する者」1) を取り締まる全権を委ねていること や,1326 年もしくは 1327 年の勅書『Super il-lius specula』においても同様の記述があるこ とから2),14 世紀前半には魔女の概念の前身と も言える,悪魔と契約した異端の概念の定型は 完成し,教皇の耳に届いていたと思われる。し かし,この段階では,空中飛行,サバトへの参 加,悪魔との性交の概念は未だ姿を現しておら ず,また,1390 年代までの訴訟件数も年平均 1 件程度であった。 異端としての魔女の概念形成の開始場所につ いても諸説ある。ベーリンガー3)はアマデウス 8 世統治下の 15 世紀前半のサヴォア公国にお いて,従来はらい病患者やユダヤ人に対して向 けられていた偏見が転嫁され,概念形成が進ん だと考えている。また,デッカー4)は同時期に 審問官とヴァルド派の抗争が繰り広げられてい たアルプス山麗において,当地に以前から存在 していた異教的な習慣とヴァルド派の異端概念 が融合し,魔法の使用が異端的行為として審問

(3)

官の前に現れたことが,始まりであるとしてい る。当時のヨーロッパ社会には第 1 節で述べた 2 種類の魔法とは別に,キリスト教が受容され る以前の異教的な信仰やそれに関連する儀式が 残っていた。906 年頃に出された『 司 教 教 令カノーン・エピスコピー』 に記載がある異教の神との会合5)や,1400 年の ピエモンテ,ドフィネに存在したストリンゲン 信仰がこれに該当すると考えられる。 15 世紀初頭には魔女の概念は更なる進化を 遂げた。教皇エウゲニウス 4 世の 1437 年の勅 書の記述6)では,悪魔との契約に加えて,魔法 の使用と聖体の濫用の結びつきが強調されてい る。しかし,この段階の魔女の概念は,魔女の 概念が誕生した地域を中心とした局地的な概念 であったと思われる。 魔女の概念がヨーロッパ全土に拡散する契機 となるのは,1431 年から 1439 年に行われた バーゼル公会議である。この会議は,当時カト リック教会で問題となっていたカトリック教会 の至上決定権に関する議論の場となったという 点で,他の公会議とは一線を画したものだった。 会議の直接的な議題となることは無かったもの の,各地から集まった多数の参加者の間で交わ された情報交換によって魔女の概念はヨーロッ パ全土に拡散したと考えられている。また, 1437 年に教皇支持派のフェラーラと公会議主 義者のバーゼルに公会議が分裂した際に,公会 議主義者が擁立した対立教皇フェリクス 5 世が, 魔女の概念の起源の 1 つと考えられているサ ヴォア公国の支配者アマデウス 8 世であること から,彼の影響下で魔女を裁く動きがサヴォア 公国を超えて全ヨーロッパに拡大したという見 方も存在する7) 。 バーゼル公会議の前後を境に法学者と神学者 たちは,新たな異端に関する論文を発表した。 1437 年の『蟻塚 Formicarius』や,1440 年の 『女性の擁護者 Chanpion des Dames』がそれ

に当たる。これらの著作に共通していることは, 魔女集団の実在を肯定している点であった。審 問官たちは魔女を裁くためのイデオロギーとし てこれらを受け入れた。1458 年頃にスイスの レヴェンデーナ渓谷で行われた魔女の迫害には それらの著作の内容が大きく反映されている。 魔女の概念が成熟するのと同時に,魔女を裁 く法的な根拠の整備も進んだ。その動きは教皇 が審問官に新たな権限を付与する形式で行われ た。1451 年のニコラウス 5 世,1457 年の教皇 カリクトゥス 3 世,1459 年に教皇ピウス 2 世 が立て続けに同様の権限を審問官に対して認め ていることから,この時期を以て魔女は新しい 異端としてカトリック教会全体に定着し,異端 審問制度において魔女を裁く準備が完了したと 考えられる。 第 4 節 異端審問制度下の魔女裁判の推移 本節では異端審問制度の下で行われた魔女裁 判の推移について考察する。15 世紀の後半か ら末頃まで活発に行われた異端審問制度による 魔女裁判は,ドイツ西部のライン川の沿岸地域 やフランスやスイス等の地域で行われ,犠牲者 の数は 3000 人を超えると考えられている。 魔女裁判の中心となったのは,魔女の概念を 生み出した聖職者,とくに審問官だった。在地 の聖職者の中にも魔女裁判を積極的に行う者た ちがいた。 悪魔学は魔女裁判のイデオロギーの根幹を成 すものだった。新しい概念である魔女の概念の 正当性を証明するために審問官が行った魔女裁 判の判例が利用された。審問官と悪魔学は互い の需要と供給を満たしながら魔女裁判の正当性 を確立し,多くの犠牲者を出した。悪魔学の 隆盛は 1486 年に『魔女に与える鉄槌 Malleus Maleficarum』が出版されたことによって最高 潮を迎えた。このような悪魔学の著作は魔女の 実在を承認し,同時に「魔女」の性別や,魔女 の空中飛行,サバトへの参加,悪魔との性交と いった概念を作り上げた。一方で,これらの概 念は悪魔学の書物の中でのみ認められており, 教皇関係の文書の中にはそのような記述は一切 見られない。また,それらの書物は出版の際に 教皇庁の認可を得る必要が無かったことから, 悪魔学の内容は必ずしも魔女に対するカトリッ ク教会の総意を表したものではないと考えられ る。 また,異端審問制度による魔女裁判には,そ の制度の構造に由来する大きな欠点が存在した。 審問官インスティトーリスが 1485 年にインス ブルックで行った魔女裁判がその最たる例と言

(4)

える8)。審問官が特定の地域で異端審問を開始 する際には,その地の司教区を管轄する司教と, 世俗領主の許可と援助を得る必要があり,彼ら に反対された場合には,審問官は活動出来な かった。そのような失敗の可能性を常に孕んで いた異端審問制度における魔女裁判の件数は 徐々に減少し,15 世紀の末には一時的に沈静 化する。 第 2 章 魔女裁判の世俗化と社会の変化 第 1 節 魔女裁判の再発と変容 本節では審問官による魔女裁判の沈静化から 半世紀後に再開された魔女裁判について考察す る。この時期の魔女裁判の大きな特徴は,従来 の異端審問制度とは異なり,世俗領主の裁判権 の下にある世俗裁判で行われるようになったと いうことである。 15 世紀末を境に一時的な小康状態に入った 後も局地的な魔女裁判は散発していた。これら の魔女裁判がどちらの裁判制度で行われたのか は判然としない。しかし,この時期に発生した 重大な変化がカトリック教会による魔女裁判を 妨げる大きな要因の 1 つであると考えられる。 この時期のカトリック教会は以前ほど影響力 を失っていた。1517 年に開始された宗教改革 には,教皇の地方に対する影響力を確実に奪っ ていた。カトリック教会はプロテスタントの拡 大を抑えるために全力を注ぐ必要が生じ,カト リック教会に直接悪影響を与えない魔女を裁く ことは後回しにされた。また,後に魔女裁判を 行うプロテスタントも,この時期は宗派の拡大 と安定化に努めており,魔女を裁く余裕は無 かった。16 世紀の前半はそのような宗教的闘 争の最中にあり,それによって異端審問制度に おける魔女裁判は抑制されたと考えられる。ま た,この時期はインスティトーリスがインスブ ルックで魔女裁判を完遂できなかった時以上に 各地域で世俗権力の中央集権化が進展していた 時代でもあった。そのような状況が重なり,こ の時期には,異端審問制度における魔女裁判は 実質的に再開不可能な状況に陥っていたと考え られる。 イエズス会士カシニウスの報告によると,再 開された魔女裁判は各地で発生し,その件数は 以前よりも増加していた。魔女裁判はカトリッ ク地域,プロテスタント地域の両方で発生した。 スイスではカルバン派の地域で大規模な迫害が 発生した。また,アイルランド等,それまでは 異端審問制度でさえ足を踏み入れたことがない 地域でも独自の法律が制定され魔女裁判が行わ れた。このように各地で犠牲者を出した魔女裁 判再開後の最初の熱狂は 1580 年代の終わりに ピークを迎えた。 迫害の過熱に合わせて,悪魔学の書籍も再び 出版された。この時期の悪魔学の発展はプロテ スタントの聖職者も加わって,超宗派的に進ん だ。しかし,この時期の魔女裁判において悪魔 学はその迫害を先導する役目を果たすことは無 かった。 第 2 節 魔女裁判の世俗化を促した諸要因 本節では,上述した魔女裁判の管轄移行の原 因について考察する。この変化は当時のヨー ロッパ社会に生じていた様々な変化が結びつい て生じたと考えられる。 1 つ目に考えられる理由は,環境的な変化で あ る。フ ェ イ ガ ン に よ る と,ヨ ー ロ ッ パ は 1300 年代初頭の極めて寒冷な時代を境に小氷 河期と呼ばれる不安定な寒冷化に襲われる時代 に入ったと考えられている9)。激しい天候の変 化は飢饉を引き起こし,食物価格の高騰と相 まって深刻な食糧危機を引き起こした。魔女の 概念が生まれた地域と考えられているアルプス 山脈の麓の地域は環境悪化の影響を最も被った 地域の 1 つだった。温暖な時期に切り開かれた 村落は,元々,土地が貧弱な限界耕作地帯であ り,飢饉の影響を大きく受けた。また,1550 年頃からの寒冷化の波はアルプス山脈の氷河の 下降を促し,多くの集落が成長した氷河に押し つぶされ,雪解け水が引き起こす洪水によって 多くの耕作不能地が生まれた。当時の人々の日 記からは寒冷な気候が 17 世紀に入っても続い たことが明らかになる。 このような急激な気候の変化は神罰や,魔法 による天候操作に結び付けられた。エスリンゲ ンの説教師ナオゲオルウスは 1562 年に発生し た霰と雹を魔女と組み合わせて魔女裁判を行い,

(5)

その正当性を論じた彼の著作は 19 世紀に至る まで重版された。 2 つ目に考えられる理由は,メディアの発達 による情報の流通性の変化である。1450 年頃 にグーテンベルクが実用的な活版印刷の技術を 生み出したことによって,書籍が社会に与える 影響は変化したと思われる10)。16 世紀に入る と,宗教改革の過熱による書籍の増加と共に, 数枚の紙片にまとめられた“ビラ”や,“パン フレット”といった新たなメディアが誕生した。 このメディアは当時の社会に発生していたセン セーショナルな事例を好んで取り上げた。おそ らく,その事例の中には魔女裁判に関するもの も含まれていたと考えられる。また,印刷物の 中に描かれた挿絵が,人々が魔女の姿を想像す る手助けを果たしたと思われる。 3 つ目の理由はローマ教皇庁の変化である。 第 1 節で述べた教皇の影響力の低下と共に,教 皇庁の方針自体にも変化が生じる。 教皇パウルス 3 世は 1542 年の勅書『Licet ab initio』を以て「ローマ並ビニ全世界異端審 問聖省スナワチ検邪聖省」を設立させた。それ まで,教皇庁の魔女に対する姿勢は,教皇の魔 女に対する意識に左右されていた。しかし,検 邪聖省内の人材が慎重路線で固められることで, 教皇の意思に関係なくその路線を維持していく ことが可能になった。1575 年にセルモネータ の魔女裁判の際に検邪聖省から現地の審問官へ 送られた指示や,1580 年に教皇領アヴィニョ ンにおける魔女裁判の際に教皇が現地の審問官 へ下した指示11)からも,その姿勢は明らかにな る。また,検邪聖省が公認の手引書を作成し, 異端審問の手続きを改めようとする試みも行わ れた。1621 年に検作成された手引書12)の中に は,これまでヨーロッパ各地で行われてきた魔 女裁判の手続き的な不備と,悪魔学に対する教 皇庁の不信感が強く現れていた。この変化に よって,異端審問官の下での魔女裁判が再発す る可能性は無くなったと思われる。 4 つ目の理由は,世俗裁判の裁判形態に変化 が生じたことである。この時期にドイツの司法 制度は,従来の弾劾形式とローマ法を受容した ことで生まれた糾問式が併用される裁判形式に 変化した。この過程で原告が存在しなくとも公 権力が疑わしい者を裁判にかけ,罰することが 可能となり,魔女が裁判にかけられることが容 易となった。 第 3 節 世俗裁判制度における魔女裁判の推移 本節では,上述してきた世俗裁判化した魔女 裁判の具体的な姿について述べる。法廷を世俗 裁判所へ移したことによって,魔女裁判の形態 は多様化する。魔女を裁くという本来の目的は 失われていないものの,魔女裁判を主導した者 によって,その意味合いは大きく変化した。 世俗裁判化した魔女裁判において,裁判の主 たる動機となったのは,社会の不条理の代償を 誰かに払わせたい民衆からの突き上げであった と考えられる。これは 1562 年のレッヒベルク 伯領の魔女裁判の記録や,1657 年に小都市ア モルバッハおよびその周辺で住民が出した陳情 書から明らかになる。この迫害の現場に悪魔学 や権力者の扇動は重要な役割を演じなかった。 このような形で開始された魔女裁判は,君主の 権力機構が脆弱な司教領や,中小規模の領邦, 大領邦の中の飛び地といった地域で頻発した。 領内に領主が居住しておらず,代官が支配を任 されていたリントハイムにおける魔女裁判や, また,俗人,聖職者に限らず魔女の存在を熱心 に信じ,その撲滅を願う人物が政治の中心に存 在したことが魔女裁判の危険性を増大させた。 そのような人々は聖俗の境に関係無く存在した と思われる。自由都市オッフェンブルクにおけ る魔女裁判では,参事会内の強硬派が魔女裁判 を主導したことが明らかになっている。 審問官が精力的に活躍しなくなった後も,聖 職者による魔女裁判は引き続き行われた。聖界 諸侯と呼ばれる聖職者たちの領土は,一般的に 聖堂参事会や領内の都市の独立傾向が高く,在 地の周辺勢力の影響を受けやすかった。それ故 に司教は領内における魔女裁判の要求を抑える ことが出来ず,なし崩し的に魔女裁判を行うし かなかった。また領内の魔女裁判に乗じて反抗 的な都市の代表者の粛清が行われた事例もあっ たようだ。 また,宗教改革に端を発したカトリック教会 の分裂が魔女裁判に与えた影響も大きかったと 思われる。カトリック教会とプロテスタントの

(6)

間で去就に揺れる地域で魔女裁判が頻発してい る。ベーリンガーはカトリック教会内の対抗宗 教改革において,自分自身と他者への厳しさを 中心に養成された初期の世代の聖職者が迫害の 中心となっている可能性を指摘している。 神聖ローマ帝国の司法機関や教皇庁が魔女裁 判に干渉した事例もいくつか存在する。しかし, 元々影響力が弱い皇帝や,影響力が衰えていた 教皇の介入は抑止力にはならなかった。オッ フェンブルクのアンナ・マリア・ホーフマンの 事例では,彼女の親戚が帝室裁判所を動かし, オッフェンブルクに対して裁判無効の訓令を突 きつけることに成功した。しかし,この訓令は 無視され,アンナは処刑された。また,1656 年にパーダーボルンの事例では,教皇庁が直接 介入を行い,一時的に事件は終息に向かったが, 最終的に多くの被害者を出した。 魔女裁判が暴走すると,その地域の資源すべ てを消耗が底をつくまで迫害は終結しなかった。 当時の裁判制度はかなりの資金を必要とする行 為であった。迫害が長期化した地域では,無差 別な処刑による人的資源が損耗し,裁判費用の 負担によって支配権力の財政が打撃を受けた。 ヴュルツブルクでは,過熱した魔女裁判の結果, 最終的には領主の相続人までが処刑された。エ ルヴァンゲンにおいては魔女裁判を主導してい た参事会の中で魔女の告発が行われるほどの状 況に陥った。一方で国家体制が整った大領邦に おいては,独自の立法によって魔女を裁くこと が可能になったにも関わらず目立った魔女裁判 を経験しなかったザクセン大公国のような例も 存在する。 このようなヨーロッパにおける魔女裁判は 18 世紀まで続き,ドイツでは 1775 年に最後の 魔女の処刑が行われた。また,1782 年にスイ スのカルバン派の管区グラールスにおいて行わ れた魔女裁判を最後にヨーロッパ大陸における 合法的な魔女裁判は終焉を迎えた。 第 3 章 魔女裁判の具体的な姿 第 1 節 世俗裁判における魔女裁判の具体的 な手続き 本節では世俗裁判で行われた魔女裁判の具体 的な裁判の過程について考察する。魔女裁判は (1) 逮 捕・拘 束,(2) 予 備 審 問,(3) 本 審 問, (4) 判決・刑執行の行程で行われたと考えられ る。 (1) 逮捕・拘束は,文字通り,魔女と思われ る容疑者を逮捕,拘束する段階である。当時の 裁判制度には 2 通りの手順が存在した。原告が 特定の人物の容疑について公権力に訴え出るこ とによって開始される弾劾形式と,公権力が自 発的に行動し,疑いのある人物を捕えて開始さ れる糾問形式である。魔女裁判もそのような 2 つの告発形式に則って行われた。弾劾形式の場 合は原告からの訴えを受けて公権力が容疑者の 逮捕に動く場合や,容疑者の居住地が判明して いる場合は,出頭命令が出された可能性が考え られる。容疑者が逃走を図った場合には再発を 封じるために監視下に置かれる場合もあった。 容疑者が近隣の地域に逃亡した際には逃亡先の 権力者に連絡を送り,その地の司法権によって 魔女裁判の実施を要請する場合もあった。裁判 費用は糾問形式の場合は原則として原告が負担 し,弾劾形式の場合は公権力が負担した。 (2) 予備審問は容疑者に対する直接的な尋問 や,証人等に対する尋問によって証拠や徴表を 集め,(3) 本審問の際に必要な情報収集や,調 書を作成する段階である。証拠や徴表は公権力 による調査や,容疑者に対する尋問,人々の証 言によって集められたと思われる。詳細は後述 するが,魔女が拷問の結果名前を挙げる「サバ トで見かけた人物」はここで役立つものと思わ れる。 (3) 本審問は (2) 予備審問によって作成され た調書や尋問記録を元に参審員を含めて容疑者 の尋問を行い,裁判の判決を明らかにする段階 である。この段階で容疑者は被告に代わり,本 格的な裁判が開始される。最も重要視されたの は被告の自白であった。必要である場合には拷 問が行われた。拷問は裁判官の認可の下,刑吏 によって行われ,地域によって様々な拷問が行 われた。拷問によって被告が自白を行った場合 は,後日改めて被告に対して自白内容を確認す る機会が設けられた。被告が拷問に耐え,容疑 を否認し続けた場合,被告は無罪となった。ま た,被告自身や,被告の関係者によって出され

(7)

た免責の運動や,僅かな例ではあるが外部の権 力からの干渉によって裁判が停止される場合も あった。裁判の内容は裁判官や参審員の間で協 議され,判決が言い渡された。 (4) 判決・刑執行は,(3) 本審問において導 き出された結果について改めて確認を行い,裁 判の判決を下す段階である。判決の際には被告 の前で改めて容疑が朗読され,被告はその内容 を改めて認める必要があった。被告の罪状が読 み上げられ,その内容を被告が認めたのち,裁 判の責任者によって判決が言い渡された。その 後,裁判長が持っていた杖を折って被告の目の 前に投げるという行為が当時のヨーロッパの裁 判における慣習であった。この行為によって, 被告は刑吏に身柄を引き渡され,刑場まで連行 された。刑の執行の際にも,刑の執行を見物す るために集まった群衆の前で被告の罪状が読み 上げられた後,刑が執行された。魔女に与えら れる刑は火刑と決まっていた。通常,火刑は被 告が生きたままの状態で行われるのが常であっ たが,魔女裁判では判決の際に温情として一旦 被告を絞殺した上で火刑を行うという形式をと るのが常であった。しかし,判決や (3) 本審 問で一旦自白した内容を翻した場合等は被告が 生きたまま火刑に処される場合もあった。 世俗裁判制度における魔女裁判は上述したよ うな過程で行われたと考えられる。また,具体 的には明記していないが,当時の裁判は,裁判 官のみで判断し難い要因が生じた際には,裁判 を一時停止し,近隣の大学等に裁判の鑑定書を 送付し,判断を仰がなければならないという規 定が存在した。この仕組みは魔女裁判が開始さ れ,判決が出されて刑が決するまでのどの段階 においても必要であれば行われた。 第 2 節 魔女裁判とカロリナの裁判過程との 比較 本節では第 1 節で述べた魔女裁判の手続きを 当時行われた魔女裁判の実例と照らし合わせて 眺めていく。以下で示す 3 つの魔女裁判の事例 はどれも第 1 節で述べた魔女裁判の手続きに概 ね則って行われた魔女裁判であると思われる。 1 つ目の事例は 1587 年からトリアー選帝侯 領で開始され,後に「帝国中によく知られた例

“das Reichskhundig Exempel”」と呼ばれたト リアー市長フラーデに対する魔女裁判である13) 1587 年の春からの凶作に加えて,領内に選 帝侯に対する魔術攻撃の噂が流れ始める。同時 期にサバトへ参加した容疑で尋問を受けていた 2 人の少年が選帝侯への魔術攻撃の首謀者とし てフラーデの名を挙げると,その後も同様の告 発や密告が相次いだ。フラーデや彼を擁護する 市参事会の努力も空しく,更なる告発が続くと, フラーデはトリアーからの逃亡を企て,自宅に 拘禁され,1589 年 3 月に逮捕命令が出された。 拷問を含んだ 5 回の審問の中でフラーデは自身 にかけられた容疑のすべてを自白した。自白し た内容の中には,悪魔との性交,悪魔との契約, 魔女のサバトへの参加等が含まれた。裁判は 9 月 13 日の 5 回目の審問において結審し,18 日 に市参事会で判決が言い渡され,フラーデは処 刑された。 この裁判の特徴はフラーデ本人を含めた彼の 関係者が無罪の証明のために奔走したことであ る。彼は領内の様々な権力に接触して裁判を回 避する方法を模索している。彼の助命運動は予 備審問過程の前の段階で終了しているが,この ような助命運動は外部に協力者が存在すれば, 判決が決するまで実施することが出来たと考え られる。 2 つ目の事例は 1600 年初頭にミュンヘンの 法廷で行われたパッペンハイマー事件と呼ばれ る魔女裁判である14)。この魔女裁判は一家が便 壺掃除や乞食を生業とし,その結果,一家が予 てから悪評を被っていたことも含めて,魔女裁 判の事例としてよく取り上げられる裁判であ る15) 1600 年 2 月,ガインドルと呼ばれる窃盗犯 が自身の罪に鍵屋兄弟が手を貸したことを証言 したことで,鍵屋の兄弟とその両親,年の離れ た弟からなる一家が逮捕された。聴取の結果, 魔法による犯罪を行った可能性があると判断さ れた一家の身柄はミュンヘンに移された。尋問 が開始された 4 月中に一家は魔女術,教会窃盗, 強盗,放火,謀殺といった容疑を自供した。ま た,彼らの自供を元に共犯者リストが作成され, 新たな逮捕者が出た。共犯者の数名を助けるた めに奔走していた人物も共に逮捕され,7 月中

(8)

に一家や共犯者の大半が処刑された。 また,この裁判の特徴的な点はその容疑であ る。一家の容疑は,異端としての魔女の概念で はなく,一般的な犯罪行為と関連があるまじな い的な魔法や害悪魔術の行為によるものであっ た。第 3 節で詳述するが,このような,一般的 な犯罪行為と害悪魔術の組み合わせの魔女裁判 は,特定の地域における連続した魔女裁判の起 点となる魔女裁判に見られる特徴であると思わ れる。 次に挙げるのは 1593 年にネルトリンゲンで 行われた宿屋の妻マリア・ホルに対する魔女裁 判である16)。11 月 5 日から開始された 15 回の 尋問の中で彼女に対して行われた拷問は 62 回 にも渡ったが,彼女は容疑を否認し続けた。 1591 年の 9 月に入ると市参事会において彼女 をどのような条件で釈放するかが話し合われ, 鑑定の結果,彼女は獄中食事代金の支払いと裁 判当事者への復讐放棄,裁判の口外禁止の宣誓 と自宅軟禁を条件に無罪で釈放された。自宅軟 禁は徐々に緩和され,最終的には全面解禁され た。 この裁判の特徴的な点は,最終的に容疑者が 無罪とされている点である。この事例からは被 告が無罪になった場合の魔女裁判の結審の形が 明らかになる。被告は正式な判決の前に市参事 会から釈放と,裁判後に被告が裁判関係者へ私 的な復讐を行うことを放棄するウァフェーデの 宣誓の承諾を取り付けられており,また被告の 夫は釈放後の妻を迎え入れる用意があることを 確認されている。ウァフェーデの宣誓や無罪判 決の言い渡しについても,その形式は他の裁判 と同様と考えられる。 第 3 節 世俗裁判における魔女裁判の裁判手 続きに関する考察 本節では世俗裁判における魔女裁判の手続き について,1532 年に公布されたカール 5 世刑 法典 (以下カロリナ) の条文との比較を通して 具体的な考察を行う。この刑法典は,当時神聖 ローマ帝国で横行していた,裁判官による恣意 的な裁判を打開するために作成された帝国内の 統一的な刑法であった。 まず,カロリナにおける魔女の罪の扱いであ るが,これは従来の害悪魔術の要素と異端の魔 女の概念を包括的にまとめたものとなっている。 このことは魔法や魔女に関する罪について言及 された 44 条17)や,第 2 節で概観した 3 つの実 例で容疑の内容が異なることからも間違いない と思われる。 カロリナにおいて厳守が求められた,入念な 調査による証拠,徴表の発見は,不可能犯罪で ある魔女の罪に対してはまったく見込めなかっ た。そのため,「疑いなき非行」という,明確 にされた場合に拷問を行うことが可能となる条 件が重要となった。この条件の 1 つは,既に有 罪判決を受けた者が自発的に共犯者の名前を挙 げた場合だった18)。私はこの条件が魔女裁判に おいて,容疑者が「魔女のサバトで見た人物を 挙げる行為」に結びつくと考える。特定の地域 で魔女裁判が継続して行われると,具体的な容 疑が存在せずとも,既に裁判にかけられている 容疑者が行う「疑いなき非行」の証言によって, 容疑者の量産が可能となった。魔女裁判の実例 において,具体的な容疑の内容が異なっている ことの理由の 1 つにはこのことが挙げられる。 上述した魔女裁判のメカニズムは必然的に拷 問の重視に繋がった。カロリナは徴表を以て軽 率な拷問を戒めている反面,拷問の実施段階に 制限を設けられておらず,拷問の回数や程度は 裁判官の裁量で自由に決定出来た19)。また,61 条において,拷問の結果,被告人が容疑を自白 しなかった場合に裁判官と被告人は罪に問われ ないという規定が存在した20)ことが拷問の実行 に拍車をかけたと思われる。また,91 条の規 定により裁判官と,容疑者の自白を聞いた 2 名 の参審員の任意によって,判決段階での被告に よる自白内容の否認を無効とすることが可能で あった21)。この規定が魔女裁判を連続して行う ために大きな役割を有していたと思われる。 以上のことから導き出される事実は,世俗裁 判制度における魔女裁判が,カロリナの規定か ら逸脱した例外的なものではないということで ある。従来,魔女裁判特有のものと考えられて いた裁判過程の残虐性や不当性は,カロリナの 法典としての不備に由来するものであり,魔女 裁判が魔女を裁くために異常な制度を採用して いた訳ではなかったのだ。

(9)

お わ り に ここまで述べてきたように,魔女裁判は行わ れた裁判制度によって 2 つに区分できる。異端 審問制度における魔女裁判は,異端としての魔 女の概念を生み出したカトリック教会の聖職者 によって始められたが,実際に行われた期間は 短かった。異端審問制度における魔女裁判の後 に始まった世俗裁判制度における魔女裁判は長 期に渡って行われ,ヨーロッパ各地で多くの犠 牲者を出した。 一方で,当時のドイツにおける統一的な刑法 典であるカロリナの内容と世俗裁判制度におけ る魔女裁判の裁判手続きを照らし合わせると, 世俗裁判制度における魔女裁判がカロリナの規 定を大きく外れて行われた訳ではないことが明 らかになる。従来,魔女裁判に付与されていた 暴力的,残虐的な印象は,カロリナの法制度的 な不備に由来して生じたものだった。魔女裁判 は決して非合法的な裁判では無かった。魔女裁 判は,魔女を裁くという目的に従って既存の裁 判制度が利用された,合法的な裁判の一形態で あった。 註 1 ) ライナー・デッカー (佐藤 正樹/佐々木れい 訳),『教皇と魔女』,2007 年,法政大学出版局, 37 ページ 2 ) ライナー・デッカー,前掲書,39 ページ 3 ) Wolfgang Behringer, 『HEXEN, Glaube,

Verfolgung, Vermarktung』,2009,Beck C. H 4 ) ライナー・デッカー,前掲書 5 ) 田中雅志,編集・解説,『魔女の誕生と衰退 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』,2008 年, 三交社,46〜47 ページ 6 ) ライナー・デッカー,前掲書,54 ページ 7 ) Behringer,前掲書 8 ) 1485 年,審問官インスティトーリスが司教ゲ オルク・ゴルザーの許可の下,ブリクセン司 教区の都市インスブルックで魔女裁判を試み, 50 人以上が逮捕されるも,第 1 回目の裁判で 裁判手続きの不備が原因で裁判が無効となり, 魔女裁判に失敗した事例 9 ) ブライアン・フェイガン (東郷えりか/桃井緑 美子訳),『歴史を変えた気候大変動』,2001 年, 河出書房 10) 成立年から明らかなように,グーテンベルクの 活版印刷技術は異端審問制度における魔女裁 判の時代には既に完成していた。しかし,当 初の活版印刷技術は従来写本で作成されてい た書籍の再生産に主として用いられていた。 故に,写本書籍の再生産が落ち着いた後に宗 教改革に起因する出版ラッシュが再度始まり, 同時に“ビラ”や“パンフレット”が出現す る 16 世紀以降になって初めて,印刷技術の発 展が魔女裁判に影響を与えた。 11) この 2 件の魔女裁判に対して教皇庁は,現地の 審問官に対して慎重な対応を要求している。 特にアヴィニョンの事例に対する教皇の文書 では,被告の女性たちがサバトで見た人物に ついて行う自白を信じてはならないと明言し ている。 12) ライナー・デッカー,前掲書,144 ページ 13) 日置 (2006) 14) 若曽根 (1987) 15) パッペンハイマー事件は他の魔女裁判関連の研 究においても魔女裁判の事例として取り上げ られ,当時の社会においても“パンフレット” に取り上げられた有名な事件であった。しか し,この事件の罪状は一般的な犯罪行為と, 犯行の際に用いられた害悪魔術に関するもの であり,異端としての魔女の概念は大きな問 題とされていない。故に,この事件は単なる 魔法が関連した一般的な犯罪の側面が大きく, 魔女裁判と断定するには更なる考察が必要な 事例であると筆者は考える。 16) 若曽根 (1985) 17) 塙 (1968),「さらに,ある者が,他の人びとに 〔彼より〕魔法を学ぶべく申し出ずるか,また は,何びとかを魔法にかくと脅迫して,しか して,脅迫せられたる者にそのことが行わる るか,または,彼が,魔法使いもしくは魔女 と特別の組みをもつか,または,魔法を帯び たる怪しき物,態度,言語,流儀をもって, 徘徊するかし,しかして,当該人物がそのこ とにつきて風評を立てらるるときは,それは, 魔法に関する確たる一徴表を与うるものにし て,拷問のための充全なる事由となるものな り。」 18) 塙 (1968) 19) 塙 (1968) 20) 塙 (1968) 21) 塙 (1968) 22) 塙 (1968) 参考文献 書籍 アン・ルーエリン・バーストウ(黒川正剛訳),『魔

(10)

女狩りという狂気』,2001 年,創元社 池田利昭,『中世後期ドイツの犯罪と刑罰 ニュル ンベルクの暴力紛争を中心に』,2010,北海道 大学出版会 イングリット・アーレント=シュルテ (野口芳子, 小 山 真 理 子 訳),『魔 女 に さ れ た 女 性 た ち』, 2003 年,勁草書房 エリザベス・L・アイゼンステイン (別宮貞徳 監 訳),『印刷革命』,1987 年,みすず書房 ギー・テスタス/ジャン・テスタス (安斎和雄 訳), 『異端審問』,1974 年,白水社 クルト・バッシュビッツ (川端豊彦/坂井洲二 訳), 『魔女と魔女裁判』,2008 年,りぶらりあ選書 ジークフリート・ビルクナー編著 (佐藤正樹 訳), 『ある子殺しの女の記録 18 世紀ドイツの裁判 記録から』,1990 年,人文書院 ジョン・マン (田中勝省 訳),『グーテンベルクの 時代 印刷術が変えた世界』,2006 年,原書房 杉山晴康 編,『裁判と法の歴史的展開』,1992 年, 敬文堂 ノーマン・コーン(山本 通 訳),『魔女狩りの社会 史 ヨーロッパの内なる悪霊』,1999 年,岩波 書店 ハインリッヒ・ミッタイス (世良晃志郎 訳),『ド イツ法制史概説』,1954 年,創文社 浜林正夫,『魔女の社会史』1978 年,未来社 浜林正夫,井上正美,『魔女狩り』,1983 年,ニュー トンプレス 平野隆文,『魔女の法廷 ルネサンス・デモノロ ジーへの誘い』,2004 年,岩波書店 ブライアン・フェイガン (東郷えりか/桃井緑美子 訳),『歴史を変えた気候大変動』,2001 年,河 出書房 ペーター・ブリックレ (田中真造/増本浩子 訳), 『ドイツの宗教改革』,1991 年,教文館 ヘルムート・プレッサー (轡田 收 訳),『書物の 本 西欧の書物と文化の歴史 書物の美学』, 1973 年,法政大学出版局 ミヒャエル・クンツェ (鍋谷由有子 訳),『火刑台 への道』,1993 年,白水社 牟 田 和 男,『魔 女 裁 判,魔 術 と 民 衆 の ド イ ツ 史』 2000 年,吉川弘文館 森島恒雄,『魔女狩り』,1970 年,岩波新書 ライナー・デッカー(佐藤 正樹/佐々木れい 訳), 『教皇と魔女』,2007 年,法政大学出版局 ロッセル・H・ロビンズ (松田和也 訳),『悪魔学 大全』,2009 年,青土社 渡邊昌美,『異端審問』,1996 年,講談社現代新書 度会好一,『魔女幻想』,1999 年,中公新書 Wolfgang Behringer,『HEXEN, Glaube, Verfolgung,

Vermarktung』,2009,Beck C. H 論文 岡本博太 (2004)「スケープゴートとしての魔女 ― 上下似方向からの魔女狩り ―」関西大学『独 逸文学』,48 号,273〜283 奥田紀代子 (2005)『史実の「魔女狩り」― 魔女の 幻想に怯えた人々 ―』関西大学『独逸文学』, 49 号,245〜268 加藤晴康 (2002)「ヨーロッパ近代社会の形成と魔 女裁判」横浜市立大学論叢人文科学系列,53 巻 1・2 合併号,5〜36 清末尊大 (1998)「最初の魔女狩り全書『魔女に下 す鉄槌 Malleus Maleficarum』の研究 (1)」北 海道教育大学紀要 (人文科学・社会科学編), 49 巻 1 号,123〜138 清末尊大 (1999)「最初の魔女狩り全書『魔女に下 す 鉄 槌 Malleus Maleficarum』の 研 究 (2・ 完)」北海道教育大学紀要 (人文科学・社会科 学編),49 巻 2 号,17〜39 (縦組) 小林繁子 (2008)「トーリア選帝侯領における魔女 迫 害 ― 委 員 会 を 中 心 に ―」(研 究 ノ ー ト) 史学雑誌,117 編第 3 号,40〜63 高木正道 (1994)「初期近代ドイツの刑吏 (Ⅰ)」静 岡大学法経研究,43 巻 3 号,121〜165 高里良恭 (1963)「領邦教会 (Landeskirdhe) 成立 の事情」中央大學文學部紀要 文學科,28, 93〜119 溝 井 裕 一 (2005)『「魔 女」に 対 す る 拷 問 と 処 刑 Folter und Todesstrafe bei „Hexen‟』関西大学 『独逸文学』,49 号,269〜283 田口正樹 (2008) 研究ノート「近世ドイツのポリ ツァイ条令と刑事司法」北大法学論集,59 巻 4 号,249〜265 田島篤史 (2011)『「インスブルックの魔女裁判」再 考 ― 15 世紀後半における高地ドイツと教皇 庁の関連から ―』史泉,113 巻,1〜18 田中雅志,編集・解説,『魔女の誕生と衰退 原典 資料で読む西洋悪魔学の歴史』,2008 年,三交 社,46〜47 ページ 塙 浩訳 (1968)「カルル 5 世刑事裁判令 (カロリ ナ)」神戸法學雑誌,18 巻 2 号,210〜299 ハンス=ハッテンハウアー 若曽根健治 訳 (1995) 「翻訳 中世における贖罪と刑罰について」熊 本法学,84,67〜96 日置雅子 (2006)「ドイツ・トリアー選帝侯領にお ける近代の魔女迫害 (上) ― Dr.フラーデに対 する魔女裁判と“Reichskhundig Exempel”と してのトリアー ―」愛知県立大学外国語学部 紀要 (地域研究・国際学編),第 38 号,81〜 106 日置雅子 (2007)「ドイツ・トリアー選帝侯領にお ける近代の魔女迫害 (中) ― Dr.フラーデに対 する魔女裁判と“Reichskhundig Exempel”と してのトリアー ―」愛知県立大学外国語学部 紀要 (地域研究・国際学編),第 39 号,99〜 124

(11)

日置雅子 (2008)「ドイツ・トリアー選帝侯領にお ける近代の魔女迫害 (下) ― Dr.フラーデに対 する魔女裁判と“Reichskhundig Exempel”と してのトリアー―」愛知県立大学外国語学部 紀要(地域研究・国際学編),第 40 号,43〜61 藤本幸二 (2001)「中近世ドイツにおける証拠法の 変遷について ― カロリーナ刑事法典における 法廷証拠主義を中心として ―」一橋論叢,125 巻 1 号,69〜86 宮本弘典 (2008)「刑事司法の原風景 (1)」関東学 院法学,18 巻 1 号,75〜106 牟田和男 (1992)「東南ドイツの魔女裁判」九州国 際大学論集法経研」,4 巻 1 号,34〜65 牟田和男 (1995)「村の魔女狩り ― 民衆司法のメ カニズム」 F・メルツバッハー 瀬口朋子 訳 (1984)「バンベ ルク司教領における魔女裁判」,阪大法学, 132 巻,261〜287 森澤万里子 (2010)「トルコ情勢を報じる 16 世紀の パンフレット ― テクスト作成に関与した社会 的 意 図 を め ぐ る 一 考 察 ―」,ド イ ツ 文 学, (140),60-75 米山耕二 (1974)「カロリナ刑事法典について ― 刑事訴訟における合目的性と正義 (二) ―」一 般論叢,71 巻 4 号,519〜537 米山耕二 (1975)「カロリナの刑事法典手続き ― 近代的刑事司法の礎 ―」一橋大学研究年報邦 楽研究,9 巻,159〜262 若曽根健治 (1985)「近世ドイツ魔女裁判関係史料 二題(一)」熊本法学,45 巻,67〜82 若曽根健治 (1987)「近世ドイツ魔女裁判関係史料 二題(二・完)」熊本法学,51 巻,161〜192 若曽根健治 (2000)「贖罪と刑罰のあいだ ― ヨー ロッパ中世刑法史点描 ―」法学 (東北大学), 63(6),813〜858

参照

関連したドキュメント

るのが判例であるから、裁判上、組織再編の条件(対価)の不当を争うことは

外」的取扱いは、最一小判昭44・9・18(民集23巻9号1675頁)と併せて「訴訟

約二〇年前︑私はオランダのハーグで開かれた国際刑法会議に裁判所の代表として出席したあと︑約八○日間︑皆

判決において、Diplock裁判官は、18世紀の判例を仔細に検討した後、1926年の

〔注〕

記)辻朗「不貞慰謝料請求事件をめぐる裁判例の軌跡」判夕一○四一号二九頁(二○○○年)において、この判決の評価として、「いまだ破棄差

について最高裁として初めての判断を示した。事案の特殊性から射程範囲は狭い、と考えられる。三「運行」に関する学説・判例

 条約292条を使って救済を得る場合に ITLOS