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知多半島の醸造業と廻船 -澤田儀平治家を中心に-

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はじめに  江戸時代以降、知多半島には多様な醸造 業が展開する。これらに関しては、『新修 半田市誌』上巻・中巻(1) の酒造業・酢造業 に関する記載や、篠田壽夫による酒・溜製 造業に関する一連の研究(2)、『中埜家文書に みる酢造りの歴史と文化』(3)などの研究が ある。しかし、各醸造家の経営実態の解明 は、とくに小鈴谷(常滑市)の盛田家以外 はあまり進んでいない。これは文書の残存・ 伝来状況に制約されるところが大きい。  ところで、近年古場(常滑市)の澤田酒 造株式会社で、古文書の所在が確認された。 澤田酒造株式会社は、1848 年(嘉永元年) に澤田儀平治が澤田儀左衛門家から独立し て創業したと伝えられ、「白老」を主力銘柄 とする酒蔵である。所在が確認された文書 は、日本福祉大学知多半島総合研究所で調 査中である。これ以外にも社内に文書が伝 来している可能性もあり、所在確認・調査 とも作業途中である。しかし、本稿では文 書の紹介を兼ねて、現在わかる範囲の澤田 儀平治家の経営を考えてみたい。 1.知多半島の酒造業 (1)知多半島の酒造業の概況  知多半島で酒造業がさかんになってきた のは 18 世紀半ば以降といわれる。尾張は 「下り酒」(江戸への移入が認められた酒) の生産国 11 か国のひとつにもなった。11 か 国は、上方の摂津・和泉・河内・播磨・山 城・丹波・紀伊の 7 か国、「中国」(江戸と 上方の中間に位置する国の意)の尾張・三 河・美濃・伊勢の 4 か国である。時代によっ ても変動があるが、中国酒のシェアは、幕 末期で下り酒の 10%弱∼ 16%であった(4)。  酒造業は江戸で製品を販売し「外貨」を 獲得できる産業であるため、尾張藩は基本 的にこれを奨励する方針であった。払居米 制度も酒造家が春のうちに酒造用の米を確 保するために有効であり、また、払居米の 代金を江戸で販売した酒代金で江戸藩邸に 納めさせることで、尾張藩の江戸での資金 源にもなった。  19 世紀前半の尾張国内の酒造株の分布 をまとめたのが【表 1】である。これから郡 別の傾向をみると次のようになろう。小規 模の酒造株が少数存在するのが、春日井・ 丹羽・葉栗・中島・海東・海西の 6 郡、小 中規模の酒造株が多数存在するのが名古 屋、小規模から大規模までの多くの酒造株 が存在するのが愛知・知多の 2 郡である。 愛知・知多の 2 郡は、他郡と比較すると株 数、とくに大規模な酒造株が多いことが特 徴的である(5)。  このことから、尾張国内の酒造業の中心 は名古屋・愛知郡・知多郡であったことが わかる。名古屋は株の規模から、名古屋の 【歴史・民俗】

知多半島の醸造業と廻船

−澤田儀平治家を中心に− 日本福祉大学知多半島総合研究所 教授 髙部 淑子

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都市需要に対応する酒造家が多かったと推 測される。愛知郡では、大規模な酒造株 は鳴海(名古屋市緑区)の下郷家一統が所 有していた。鳴海で下り酒の酒造株を持 つ酒造家は、半田の酒造家とともに「鳴海 組」を形成しており、鳴海の江戸積酒造家 は知多郡の酒造家と一体のものとして尾張 藩に掌握されていた。知多郡は尾張全体の なかで、酒造米高の 40.5%、株数の 29.8% を占める。1802 年(享和 2 年)の下り酒の 割当樽数は、名古屋 894、熱田 363、鳴海 組 14870、東浦組 47139、西浦組 21534 で ある(6)。「東浦組」「西浦組」は後でも述べる ように半田以外の知多郡の江戸積酒造家が 形成している組である。この割当樽数から、 尾張国の江戸積酒造業は実質的には鳴海と 知多郡の酒造家が担っていたといえよう。 (2)知多郡の酒造業と西浦南部の位置づけ  つぎに知多郡内の酒造家について、その 全体的な傾向をみていく。1833 年(天保 4 年)の知多郡(含鳴海)における酒株の分布 をまとめたのが【表 2】である。  【表 2】からは、酒造家が集中する地域が あることがわかる。それは鳴海・大高(名 古屋市緑区)、緒川(東浦町)∼半田周辺、 横須賀(東海市)周辺、大野(常滑市)周辺、 小鈴谷∼上野間(美浜町)、内海(南知多町) の 6 地域である。これらの地域は厳密な境 界は不明であるが、それぞれ鳴海・半田・ 亀崎(半田市)・成岩(半田市)・横須賀・大野・ 枳豆志(常滑市)・内海という小規模な組を 形成していた。この小規模な組をまとめて 鳴海組(鳴海・半田)、東浦組(亀崎・成岩)、 西浦組(横須賀・大野・枳豆志・内海)の 3 組が組織されていた。  つづいて、小規模な組ごとに 1833 年(天 表 1 尾張国内の酒造家分布(郡別) 石高 名古屋 愛知郡 知多郡 春日井郡 丹羽郡 葉栗郡 中島郡 海東郡 海西郡 0∼200石未満 2 7 22 13 10 19 42 21 4 200石∼ 400石未満 40 14 31 6 3 1 14 7 2 400石∼ 600石未満 22 8 24 4 3 1 2 2 600石∼ 800石未満 12 6 21 2 800石∼ 1000石未満 5 6 10 1 3 1000石以上 3 7 19 2 2 1 2 1 合計株数 84 48 127 25 19 21 59 37 7 合計石数 40045.238 25636.44 70827.17 6622.75 6431.6 1915.06 9956.18 11167.95 2109.44 1株平均石数 477.92 534.09 557.69 264.91 338.51 91.19 168.75 301.84 301.35 株数割合(%) 19.7 11.2 29.8 5.9 4.4 4.9 13.8 8.7 1.6 石数割合(%) 22.9 14.7 40.5 3.8 3.7 1.1 5.7 6.4 1.2 *「酒造米高帳」(徳川林政史研究所蔵)より作成。 *合計石数・1 株当たり平均石数の単位は石。その他は株。 *愛知郡の数字は名古屋を含まない。

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表 2 知多郡の村別酒造家分布 村名 1500石 以上 1400石 ∼1500 石未満 1300石 ∼1400 石未満 1200石 ∼1300 石未満 1100石 ∼1200 石未満 1000石 ∼1100 石未満 900石 ∼1000 石未満 800石 ∼900 石未満 700石 ∼800 石未満 600石 ∼700 石未満 500石 ∼600 石未満 400石 ∼500 石未満 300石 ∼400 石未満 200石 ∼300 石未満 100石 ∼200 石未満 100石 未満 合計 石数 合計 鳴海村 1 3 1 1 2 1 9 9231.19 大高村 1 1 1 1 4 2367.1 緒川村 2 1 1 4 2210.4 石浜村 1 1 2 2036.5 生路村 1 1 120 有脇村 1 1 1 1 1 5 3164 亀崎村 2 1 4 1 1 1 1 1 1 1 14 14679.1 乙川村 1 1 316.88 半田村 1 1 3 1 1 1 8 7985.89 成岩村 1 1 1 1 1 5 2911.7 宮津村 1 1 2 1259.5 萩村 1 1 275 長尾村 1 1 35 大足村 1 1 1 3 868.14 平島村 1 1 877.7 大里村 1 1 2 550 横須賀村 3 1 4 2124.9 加木屋村 1 1 1 2 1 6 2307.7 半月村 1 1 149.5 平井村 1 1 130 寺本新田村 1 1 180 古見村 1 1 300 岡田村 1 1 100 松原村 1 1 500 大興寺村 1 1 60 大野村 1 1 1 1 4 1951.8 多屋村 1 1 82.12 常滑村 3 3 1 7 1980.8 古場村 1 1 500 大谷村 1 1 2 1749.8 小鈴谷村 1 2 1 1 5 3036.4 坂井村 1 1 1 3 1640.8 上野間村 1 1 1 3 1830 北奥田村 1 1 165 一色村 1 1 200 柿並村 1 1 617.34 小野浦村 1 1 800 河和村 1 1 300 吹越村 1 1 1 3 2 8 2285.7 馬場村 2 1 3 1360 中之郷村 1 1 550 西端村 2 2 1579.3 東端村 1 1 2 875 久村 1 1 651.9 師崎村 1 1 1 3 735 大井村 1 1 2 1 5 2427.2 *「酒造米高帳」(徳川林政史研究所蔵)より作成。

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保 4 年)と 1861 年(文久元年)の酒株の分 布をまとめたのが【表 3】である。  知多郡では、酒造業が発展する 18 世紀 半ば以降大規模な酒蔵が増えるとともに、 沿岸部に集中する傾向があった。このこと は知多半島の酒造業が江戸積を前提として 発展してきたことを示している。この傾向 は天保期以降ますます顕著になる。【表 3】 からは、天保期から文久期までの約 30 年 間で酒造株・酒造米高の半田への集中が進 み、それまで江戸積酒造業をリードしてき た鳴海を、酒造株数・酒造米高の両面で完 全に逆転したことが明確になる。他の組は 鳴海が横ばいである以外は、全体としては 微減傾向にある。とくに、横須賀や大野な どの古くからの町場の酒造業は大規模化せ ずに停滞したことがうかがえる。それに比 べれば、小鈴谷組(枳豆志組)や内海組な ど知多半島西浦南部の酒造業は、微減なが らも半島内では三番手グループとしての位 置を得ていたことがわかる。  【表 2】【表 3】は酒株数・酒造米高を村別・ 組別にまとめたものであるが、実際にはこ の地域で 1833 年(天保 4 年)には 136 株、 1861 年(文久元年)には 141 株が確認でき る。しかし、両者に共通して名前がみえ 表 3a 1833 年(天保 4 年)の組別酒造米高 組 1500石 以上 1400石 ∼1500 石未満 1300石 ∼1400 石未満 1200石 ∼1300 石未満 1100石 ∼1200 石未満 1000石 ∼1100 石未満 900石 ∼1000 石未満 800石 ∼900 石未満 700石 ∼800 石未満 600石 ∼700 石未満 500石 ∼600 石未満 400石 ∼500 石未満 300石 ∼400 石未満 200石 ∼300 石未満 100石 ∼200 石未満 100石 未満 合計 石数 合計 (石) 株数 比率 (%) 石数 比率 (%) 鳴海組 2 3 1 1 3 1 1 1 1 14 12475.99 10.3 15.6 亀崎組 1 2 2 4 2 1 3 1 1 1 2 2 4 4 1 31 24210.88 22.9 30.2 半田組 1 1 3 1 1 1 8 7985.89 5.9 10 成岩組 1 1 3 1 3 1 2 2 14 6242.04 10.3 7.8 横須賀組 1 4 2 2 2 4 15 5592.6 11 7 大野組 1 1 1 1 2 1 7 2611.8 5.1 3.3 小鈴谷組 1 3 5 2 2 3 4 2 1 23 10984.92 16.9 13.7 内海組 1 2 3 4 1 4 6 3 0 24 9954.24 17.6 12.4 合計 136 80058.36 100 100 *「酒造米高帳」(徳川林政史研究所蔵)より作成。 *組は表 3b に合わせた。ただし、組の境界が不明なところがあるため、乙川・宮津・萩は亀崎組に、平井・寺本・ 込みは横須賀組に、岡田・大興寺は大野組に入れた。 表 3b 1861 年(文久元年)の組別酒造米高 組 1500石 以上 1400石 ∼1500 石未満 1300石 ∼1400 石未満 1200石 ∼1300 石未満 1100石 ∼1200 石未満 1000石 ∼1100 石未満 900石 ∼1000 石未満 800石 ∼900 石未満 700石 ∼800 石未満 600石 ∼700 石未満 500石 ∼600 石未満 400石 ∼500 石未満 300石 ∼400 石未満 200石 ∼300 石未満 100石 ∼200 石未満 100石 未満 合計 石数 合計 (石) 株数 比率 (%) 石数 比率 (%) 鳴海組 1 1 1 1 4 1 1 1 1 1 2 15 11149 10.6 14.1 亀崎組 1 2 2 5 2 3 2 2 3 3 5 8 38 23762.42 27 30.1 半田組 2 2 1 6 1 1 1 3 1 1 2 1 22 19990.99 15.7 25.3 成岩組 1 2 1 2 2 2 1 5 16 5021.76 11.3 6.4 横須賀組 3 2 1 3 3 12 3094.74 8.5 3.9 大野組 1 1 1 1 3 7 2542.35 5 3.2 小鈴谷組 1 1 1 1 1 1 2 2 6 16 7053.6 11.3 8.9 内海組 1 3 1 4 2 4 15 6423.5 10.6 8.1 合計 141 79038.36 100 100 *「今知多郡酒造家所持之株札覚」(『愛知県史』資料編 17 近世 3 尾東・知多 史料番号 153)より作成。

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る酒造家は 50 軒弱である。株数の増減以 上に酒造家の盛衰が激しいことがうかがえ る。  【表 4】は、本稿で取り上げる古場村を含 む常滑周辺から南奥田村(美浜町)までの 地区の酒造家の変遷をまとめたものであ る。この地区がほぼ小鈴谷組(枳豆志組) に合致すると思われる。  この地域では 1697 年(元禄 10 年)の「酒 かぶ帳」(7)に小鈴谷村・吉之助 30 石、南奥 田村・金蔵 58 石、上野間村・吉兵衛 60 石 の 3 名の酒株所有者と酒造株高が確認でき る。盛田久左衛門家も 17 世紀後半には酒 造業に関与し始め、18 世紀前半には酒造 業を営むようになったといわれる。【表 4】 からは、酒造業の拠点は文政期までは常滑 と枳豆志組南部の大谷(常滑市)・小鈴谷・ 坂井(常滑市)・上野間の村々であったが、 天保期以降になると常滑が株数・酒造米高 とも大きく減少し、大谷の少し北側にある 古場に酒造業が展開し始めたことがわか る。古場から上野間にかけての酒造業は、 この後明治期まで継続する。常滑の酒造業 の減少傾向は、古くからの町場という点で、 先にみた横須賀・大野と同じ傾向である。  古場の酒造業は、18 世紀末に(沢田)儀 左衛門が始めたと思われる。儀左衛門は 1789 年(寛政元年)に 2.5 石の酒株を認め られ、1792 年(寛政 4 年)8 月にこの株を 譲り受け、酒株の正式な所有者となった。 この株の元の所有者は不明である。この後 1833 年(天保 4 年)の酒株の改めまでは 35 石の地株を持って酒造業を営んでいた。酒 株は地元向けと江戸向けの株に分けられて おり、この時点では儀左衛門は地元向けの 酒株を持ち、地売りを行っていたことにな る。酒株として認められている酒造米高は 35 石であったが、1826 年(文政 9 年)の実 際の造高は 150 石であった。儀左衛門は、 その後 1833 年(天保 4 年)に 500 石、1865 年(慶応元年)に 688.59 石の酒造米高を認 められ、天保期末には尾張藩が導入した御 蔵酒の醸造も行った(8)。  この儀左衛門家からの分家などにより、 古場の酒造家として 1888 年(明治 21 年) 刊行の『尾陽商工便覧』(9)には、澤田儀左 衛門(本倉)・澤田儀平治(北倉)・澤田儀兵 衛(中倉)・澤田善助(壷根倉)・澤田儀三郎 (南倉)・澤田富次郎(辰倉)・瀧田文三郎(浜 倉)・平野仙次郎(新倉)の 8 蔵が記載され ている。幕末期から明治初年の知多酒造業 の発展期に、古場でも一気に酒造家が増加 したことがわかる。 2.澤田儀平治家の経営 (1)澤田儀平治家の分家独立   先 に 述 べ た よ う に、 澤 田 儀 平 治 家 は 1848 年(嘉永元年)創業と伝えられる。し かし、現時点では創業時の文書は確認され ず、年代が確定する最古の帳簿は 1852 年 (嘉永 5 年)の澤田新店による「大福帳」で ある。これ以降、1855 年(安政 2 年)「大福 帳」、1866 年(慶応 2 年)「大宝恵」、1869 年(明 治 2 年)∼ 1881 年(明治 14 年)「酒造(醸造) 大福帳」など、創業後間もない時期の澤田 儀平治家の経営を伝える帳簿の所在が確認 されている(10)。  これらの帳簿には、主に酒造に関わる金 銭出納が記載されている。年次によって多 少の異同はあるが、帳簿の基本的な記載内 容は以下のとおりである。  ①米関係    飯米/仕入/精米/酛/売却  ②副産物売却

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表 4 西浦の酒造家 村 酒造人 享和2年 酒造米高 文化11年 酒造米高 文政9年 酒造米高 天保4年 酒造米高 万延2年 酒造米高 御蔵酒 多屋村 与平次 60.36 与平太 60.36 60.36 勘助 82.12 常滑村 松本久右衛門 1100 1100 1100 240石/804.6匁 作左衛門 1040 1040 800 240 六郎兵衛 800 800 勘蔵 617.34 佐次兵衛 324.8 324.8 324.8 324.8 浅之丞 280 280 280 280 240石/154.8匁 兵三郎 250 250 250 250 孫八 170 170 七蔵 150 850 150 386 240石/192.3匁 新八 150 久八郎 100 勇吉 100 源兵衛 170 170 240石×2/154.8匁 源兵衛 330 善太郎 240石/297.2匁 仙次郎 240石/312.3匁 西阿野村 五兵衛 100 友右衛門 40 40 40 古場村 儀左衛門 35 35 35 500 688.59 240石/117.3匁 儀平次 500 大谷村 久兵衛 654.8 654.8 654.8 654.8 大岩弥平治 250 250 250 1095 1095 240石/117.3匁 甚吉 100 100 治郎右衛門 100 小鈴谷村 太助(盛田) 778.4 778.4 778.4 778.4 1228.4 240石×2/117.3匁 久左衛門(盛田) 600 600 600 600 860.3 240石×2+200石/234.6匁 久右衛門 450 権六 450 450 450 240石/117.3匁 権六 620 久左衛門(盛田) 588 坂井村 太右衛門(陸井) 750 750 750 750 1365.5 240石 惣右衛門 681.1 681.1 681.1 250 70 240石/297.3匁 八右衛門 640.8 640.8 640.8 49.96 240石/117.3匁 吉右衛門 570 上野間村 久兵衛 1095 1095 1095 吉三郎 700 700 治郎右衛門(大 崎) 650 650 650 650 240石×2/384.6匁 藤十郎 500 東吉 480 480 480 700 106 240石/267.3匁 三左衛門 400 400 喜兵衛 120 治郎右衛門 480 北奥田村 助左衛門 327.6 327.6 327.6 165 助左衛門 47.65 角蔵 100 南奥田村 平左衛門 600 600 長左衛門 275 (西浦) 弥二右衛門 480 源兵衛 427.9 重兵衛 100 庄蔵 50 三左衛門 14.45 清左衛門 10 治郎 7.5 長助 281.7匁 十兵衛 105匁 *米高の単位は石。 *享和 2 年・文化 11 年・文政 9 年のデータは盛田家文書による。天保 4 年は「酒造米高帳」、万延 2 年は「今知多 郡酒造家所持之株札覚」による。

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   粕/糠  ③販売    江戸・東京(問屋別)/清水行/    吉田行/熊野行(含志摩)/伊勢行  ④船手    船手売(船別)・道売/支配物  ⑤道具類 (購入相手別)  ⑥杜氏・蔵人足    出勤・業務管理/給金・貸借  ⑦舂屋    出勤・業務管理/給金・貸借  最も古い 1852 年(嘉永 5 年)、それに続 く 1855 年(安政 2 年)の 2 冊の「大福帳」と、 明治以降の「酒造(醸造)大福帳」がほぼ同 じ構成で作成されていることから、1852 年(嘉永 5 年)の時点で、経営体としての システムはほぼ整っていたと思われる。  しかし、創業後の経営は順風満帆という わけではなかった。1854 年(安政元年)11 月大地震に見舞われたのである。1855 年 (安政 2 年)の「大福帳」にはその時の様子 が、次のように記されている。 【史料 1】 ① 嘉永七寅十一月四日四ツ時大地震ニ而蔵之 内諸味六尺 打出し候事、口詰物凡頭輪下 場位イ揚り酛かき酛グビツキこぼれ二階へ 流シ、人足之者米洗場最中、其侭飛出し堀 井戸皮だしニ成れ、溜井ゆすり出ス、居家 之柱五六寸程ツヽ下り、庇し柱尺弐寸も地 へいすり込、誠ニ恐ろしく、半時計り過候 処又々津浪与成、浜手ニハ半切・三八かう し場ニ候得ハ是屋敷へ入レ候、間もなく大 浪打込、本家へ家財道具等持込、夫 納屋 米も持込やう、誠ニ言語ニ絶し恐ろしく事 前代未聞之事ニ候ニ付、爰に記ス ② 四日四ツ時地震大津浪屋敷蔵附屋共大損 し、人ニハ別条なし、当日大地震入候而津 浪打込大混雑致し候者也  意味がわかりにくい箇所もあるが、これ によれば人的な被害はなかったものの、家 屋・蔵や付属する建物は大きな被害があっ たようである。11 月でちょうど仕込みの 時期であり、醪が六尺桶からこぼれ、洗米 作業をしていた人足はそのまま外に飛び出 している。半時ばかりして津浪が押し寄せ、 浜手にあった半切桶などを屋敷に、家財道 具は本家に、納屋にあった米も移動させて いる。言葉に表せないような恐ろしい出来 事で、「前代未聞」「大混雑」と記している。 この津浪による濡米は 200 石とも 150 石と も記されている。この地震の後、儀平治家 はそれまでの蔵より内陸側にある蔵に移転 した。  また、同じ「大福帳」には「巳年迄本家名 前ニテ造酒也、安政五年戊午年ヨリ儀平治 ト改ム」とも記されている。つまり、分家 から 1857 年(安政 4 年)までの 10 年間は「儀 左衛門」の名前を使い、儀左衛門の出倉の ような位置づけで酒造業を営んでいたので あろう。新たな蔵に移り、1858 年(安政 5 年)酒造家「儀平治」として本格的な経営が 始まる。 (2)明治初年までの経営  創業当初の帳簿類から澤田儀平治家の経 営の様子を具体的にみていく。これらの帳 簿のなかには仕込み方に関する記載もある が、読み解いて当時の酒の造り方を分析す ることは現時点では困難なので、主に酒の 販売、酒造りの諸条件、廻船との関係につ

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いてみていくこととする。 1)酒の販売  先にみたように、帳簿上では船が扱う酒 荷物の販売地域は、江戸(東京)・清水・吉 田・熊野(含志摩)・伊勢の 5 ブロックに分 けられている。これを販売先ごとにまとめ たのが【表 5】である。  【表 5】から販売の中心が江戸(東京)で あったことは明らかである。江戸(東京) の販売は、問屋ごとにまとめて記載されて いる。【表 5】には 15 軒の江戸(東京)下り 酒問屋の名がある。毎年のように酒を販売 している酒問屋もあれば、鴻池太郎兵衛・ 溜屋久兵衛のように立項はされるが、実際 の取引は確認できない問屋もあり、実際に 取引していた問屋は毎年 10 軒前後という ところであろう。【表 5】の 15 軒以外の下り 酒問屋との取引は、1876 年(明治 9 年)に 尼屋(三橋)甚四郎の名が出るまで確認で きない。  江戸(東京)の酒問屋のなかでは、中井(播 磨屋)新右衛門・米屋(高井)房太郎が創業 間もなくからの中心的な取引相手であっ た。酒の銘柄は酒問屋ごとに分かれており、 中井は江戸一・戎鯛、米屋は江戸一、その 他に、鴻池栄蔵の笑門、小西又三郎の三番 叟、小西利作の新場鯛などの銘柄が確認さ れる。この後、1873 年(明治 6 年)に花嫁、 1875 年(明治 8 年)に乾坤一、1878 年(明 治 11 年)に大漁・惣花・鶴一声など、新 しい銘柄も登場する。澤田酒造は現在は「白 老」の銘柄で知られるが、明治半ばごろま ではその銘柄を帳簿上に見いだすことはで きない。  江戸(東京)以外は問屋別には立項され ず、原則的には日並で各取引が記録されて いる。浦賀(神奈川県)は立項そのものが ないが、支配物の荷物は江戸(東京)や浦 賀で売却されることが多い。支配物の酒は 江戸(東京)への酒とは異なる銘柄で販売 されている。浦賀での取引相手としては、 増田太兵衛・江戸屋(三次)六兵衛・笠屋 長七・万屋清左衛門・宮原屋清左衛門など が確認できる。船には江戸(東京)行・浦 賀行の区別はなく、同一の船に運賃積荷物・ 支配物・道売荷物が積み合わされ、東京湾 の入口から支配物・道売荷物の売却、運賃 積荷物の水揚げが行われた。  清水(静岡市)から東紀州までの販売は、 各方面への往復を専門とする船と中核とな る湊で取次をする問屋との組合せによって 行われた。熊野行には友七・弥之吉・勘右 衛門(蛭子丸)などの船、吉田行には阿野(常 滑市)の伝左衛門の船が使われた。清水(静 岡市)では薩摩屋重兵衛、吉田(豊橋市)で は伊村屋千代蔵・川崎屋清吉・紙屋市十郎・ 瓶屋与作、伊勢では河崎(伊勢市)の加藤 藤太夫、熊野では浜中屋柳蔵・内海屋与三 右衛門などが取次の問屋として機能してい た。その他に常滑や大野などの地元へも販 売していた。  明治初年まではこの方面に出荷される酒 は、無銘柄か澤田家の商号である 印が大 部分であった。吉田だけは鎚・福槌印の酒 が出荷されている。遠州から紀州までの地 域に銘柄を持つ酒が出荷されるようになる のは、1872 年(明治 5 年)ごろまで待たな ければならない。また、江戸(東京)向け の酒が 4 斗入菰樽で統一されていたのに対 して、この地域へは内容量が一定ではない 裸樽で出荷された。江戸(東京)とそれ以 外の地域の市場としての成熟度の差違はす でに指摘されている(11) が、澤田儀平治家 の場合も同様である。

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表 5 澤田儀平治家の酒販売 販売地 販売先 年次 銘柄 駄数 代金 10駄平均 特記事項 江戸 中井(播磨屋) 新右衛門 嘉永5年 嘉永6年 安政1年 172 安政5年 249 万延1年 江戸一 346.5 18両4分5厘 文久1年 江戸一 425 18両2分 文久2年 江戸一・戎鯛 268.5 19両 文久3年 戎鯛 240 468両 19両2分 元治1年 戎鯛 354.5 902両3分4匁8分 29両2分5厘 慶応1年 戎鯛 390.5 1338両 34両9分 慶応2年 戎鯛 547 3168両 57両9分 慶応3年 戎鯛 517.5 3497両2分 67両5分8厘 明治1年 戎鯛 661 2450両 35両5分 50両出情金入 明治2年 戎鯛 460.5 2517両 56両7分6厘 明治3年 戎鯛 339 2230両 68両9分8厘 明治4年 戎鯛 476.5 1450両 30両5分3厘 明治5年 戎鯛・新盛 640 2505両3分2朱 40両9分 明治6年 新盛 672 3008両9匁 米屋(高井)房 太郎 文久2年 江戸一 283.5 17両8分 文久3年 江戸一 236 403両2分12匁 16両7分 元治1年 江戸一 179.5 434両 24両4分 慶応1年 江戸一 305.5 943両 30両4分9厘 慶応2年 江戸一 457.5 2480両 54両2分 慶応3年 江戸一 235 1575両 67両5厘 明治1年 江戸一 389.5 1545両 39両4分3厘 明治2年 江戸一 197 1031両 52両3分 大安売 明治3年 江戸一 338 2270両余 66両3分4厘 明治4年 江戸一 447 1271両3分 28両4分8厘 大安売 明治5年 萬物一 367.5 1479両2分 40両2分5厘 大安売 明治6年 萬物一 87 400円57銭5厘 中野屋幸太郎 嘉永2年 嘉永3年 嘉永4年 嘉永5年 嘉永6年 安政1年 159 安政5年 15 万延1年 千代寿 95 20両2分10匁 明治2年 江戸一 92 529両 57両2分 明治3年 猛勇 100 (内金660両) 鴻池栄蔵 嘉永2年 嘉永3年 嘉永3年合計55駄 嘉永4年 嘉永5年 安政1年 239 安政5年 75 万延1年 笑門 145 文久1年 笑門 272.5 18両3分2匁3分8厘 文久2年 笑門 109 16両5分1厘 文久3年 笑門 143 195両 20両6分 嘉永3年 嘉永4年 嘉永5年 嘉永6年 小西又三郎 万延1年 77 19両6分1厘 文久1年 120 18両3分

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江戸 小西又三郎 文久2年 三番叟 325 17両7分7厘 文久3年 三番叟 212.5 406両2分 19両9分 16両出情分 元治1年 三番叟 215 570両 慶応1年 三番叟 215.5 494両 23両 次郎吉船16両出情 慶応2年 三番叟 5 23両 50両 小西利作 明治3年 新場鯛 266 1792両 67両3分 明治4年 新場鯛 158 503両 31両8分3厘 明治5年 新場鯛 19 92両 39両2分 小西利右衛門 明治3年 戎鯛 193 1317両 68両2分4厘 明治4年 戎鯛 147 475両 32両3分1厘 明治5年 戎鯛 268.5 1253両 46円66銭6厘 明治6年 戎鯛 400.5 1627両3b3匁1分5厘 山田五郎助 嘉永3年 嘉永4年 嘉永5年 嘉永6年 文久3年 三番叟 50 117両2分 23両2分 元治1年 江戸一 120 285両2分 23両7分9厘 慶応1年 江戸一 15 26両3分3朱 23両 大安限 溜屋久兵衛 嘉永2年 嘉永5年 嘉永6年 加勢屋利兵衛 明治1年 東京一 107 480両 44両8分 明治2年 東京一 171 885両 51両7分5厘 明治3年 東京一 130 780両 65両 明治4年 東京一 210 (内金600両) 加島吉次郎 明治4年 南玉・東京一 362.5 1115両 30両7分6厘 明治5年 南玉 289 (内金1260両) 43両9分8厘 明治6年 南玉 370.5 2023両66銭3厘 大和屋善兵衛 万延1年 15 慶応1年 三番叟 20 85両 42両2分 慶応2年 43 196両2分 49両 松屋兼松 元治1年 笑門 148 279両 25両2分 慶応1年 笑門 192 460両 23両9分 千代倉宗兵衛 明治3年 東京一 156 (内金985両) 30両先年出情金受取 明治4年 江戸一 28 (内金25両) 30両巳年出情金 浦賀 明治4年 191 532両 吉田 慶応2年 47両 慶応3年 21.5 124両 明治5年 55 207両3分 37円77銭 明治6年 南玉 名古屋 慶応2年 36 69両 伊勢 明治3年 10 77両 明治6年 南玉 熊野 慶応3年 17 118両 熊野・吉田 明治3年 51 406両 熊野 明治5年 南玉・戎鯛 72 287両 39両86銭 明治6年 (無印)・南玉 地売 慶応3年 22.5 153両 68両 支配 文久3年 18両3分 合計1287.5駄 慶応2年 宝富 61 61両6分 慶応3年 宝富 46 388両3分 83両 (船々) 慶応3年 54 322両2分 59両3分 (外船) 明治1年 55.5 170両 (手船) 明治1年 79 283両 明治5年 169 824両3分 48両80銭 道売 元治1年 23両8分 明治3年 122 803両

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 また、この方面との往復をする船は、酒 の他に糠や酒粕も積み合わせて各地で販売 することが多かった。帰り荷としては、熊 野方面から燃料となる松才、樽材である伊 丹皮を、美濃からは竹や石などを運んでい た。熊野方面からの荷物は酒造りに直結す る消費物資であり、熊野は市場であると同 時に資材供給地として重要な地域であっ た。 2)酒造りの諸条件  つぎに、儀平治家の酒造りの実態をわか る範囲で整理しておく。  まず、原料米の調達についてであるが、 1870 年(明治 3 年)までは古場周辺と知多 半島北部の村々が米の調達先であった。具 体 的 に は、 古 場・ 阿 野 と 小 倉・ 矢 田( 以 上、常滑市)・森・鍛冶屋・南粕谷・羽根・ 佐布里・岡田(以上、知多市)の米である。 これらの半島北部で調達した米は船で酒蔵 まで運ばれる。利用する船は弥之吉・勘左 衛門・万吉など環伊勢湾周辺に酒を運ぶ船 と一致する。これらは直接買い付けている 米であるが、その他に大野の平野彦右衛門、 大里(東海市)の大村金蔵が扱う払居米も 原料としていた。  しかし、1871 年(明治 4 年)以降「北勢」、 1877 年(明治 10 年)から「南勢」の項目が 立てられるようになる。これ以降、原料米 の調達は伊勢が中心となっていく。具体的 には、「北勢」=桑名であり、下里勘右衛門・ 下里貞吉・山元屋太助・植木屋嘉助が買付 先であった。「南勢」では、六軒(松阪市)の 前田甚造ほぼ 1 軒から大量の米を調達して いた。  酒造道具についての記載は少ない。判明 するなかでは、蒸米用と思われる釜を江戸 深川の十一屋から購入している。これは深 川森下町の十一屋半次郎であろう。樽巻用 の菰や縄は上方からの調達である。当初は 尼崎(兵庫県)から、1871 年(明治 4 年)以 降はそれに加えて大坂の醸造道具専門の問 屋から購入している。名前が確認できる問 屋は、尼崎では木屋儀八・木屋儀兵衛・倉 橋屋伊右衛門・丹波屋七兵衛・広島屋仁兵 衛、大坂では吉田屋理兵衛・枡屋栄助らで ある。尼崎の丹波屋・広島屋は知多半島の 醸造家との関係が深い商人である(12)。  儀平治家の蔵で働く人足はほぼ知多半島 内でまかなわれていた。杜氏は福住(阿久 比町)の為右衛門、蔵働きは福住の他、草木・ 白沢(以上、阿久比町)・緒川新田(東浦町)・ 寺本(知多市)・乙川(半田市)など知多半 島中央部、および阿野など近隣から集めら れていた。それに対して、舂屋は親父仁平 以下約 8 割が能登出身者、残りが越前出身 者で占められ、知多半島の人足はほとんど いない。明治初年で舂屋人足は延べ 900 ∼ 1500 人程度が使われ、杜氏・蔵人足より 舂屋に支払われる額の方が多かった。 3)廻船との関係  澤田儀平治家でも江戸(東京)へ酒を運 ぶ場合弁財船を用いたが、江戸方面へ酒を 運んだ船をその所在地別にまとめたのが 【表 6】である。  【表 6】によると、慶応期を境に利用する 船の傾向に変化がみられる。まず、幕末期 までは半田や高浜といった衣浦湾岸の船も 利用していたが、明治期以降それらの船が みられなくなる。一方、明治初年以降に利 用されるようになったのが、儀平治家の手 船の宝富丸・宝徳丸・宝栄丸・宝勢丸と小 鈴谷・坂井の船、少し遅れて若松(鈴鹿市)・

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四日市など伊勢湾西岸、さらに東京の船で ある。常滑・北条・多屋など常滑中心部の 船は時期を問わず利用頻度は高い。  儀平治家ではこの時点では先にあげた 4 艘の船を手船としている。このうち、宝富 丸・宝徳丸は、【表 6】にあるように 1866 年 (慶応 2 年)には手船ではなく、それぞれ 古場の次郎吉・仙次郎の船として利用され ていた。それが 1869 年(明治 2 年)には手 船となっているが、引き続き船頭は次郎吉・ 仙次郎がつとめていた。これらの船は新造 や購入ではなく、それ以前から活動してい た船をそのまま傘下に収めたものと考えら れる。  宝栄丸は 1868 年(明治元年)に手船とな り、二番下りから「水揚帳」が作成されて いる。この「水揚帳」の記載は以下のよう になっている。 【史料 2】      目出度 一百七拾両三分拾匁弐分五り 表 6 澤田家の酒を運んだ船 年次 手船 古場 小鈴谷 坂井 常滑・北条・多屋 大野 半田 その他 不明 熊野行 伊勢行 吉田行 清水行 1852 徳蔵(常滑) 林蔵(常滑) 銀蔵(常滑) 長太郎(北条) 与次兵衛(多屋) 銀蔵(多屋) 甚三郎(苅屋) 新吉 為助 栄三郎 貞三郎 九三郎 貞三郎(高浜) 九三郎(高浜)銀蔵 万助 友吉 勘左衛門 弥兵衛 孫右衛門(熊野) 岩吉 弥之吉 友七 伝左衛門 (阿野) 1855 林蔵(常滑) 竹蔵(常滑) 長三郎(北条) 政蔵(苅屋) 永栄丸七三郎 九三郎 市太郎 栄三郎 弥之吉 友七 1866 (宝富丸次郎吉)宝富丸次郎吉宝徳丸仙次郎清次郎善次郎 (北条)宝恵丸長三郎 九三郎 貞三郎 由次郎 平太郎 正三郎 平三郎 富太郎 勢豊丸金太郎 銀次郎 勢三郎 栄久丸源五郎 金右衛門 茂左衛門 伝左衛門 (阿野) 1869 宝徳丸仙次郎 宝富丸次郎吉 宝栄丸治三郎 太郎吉 増太郎 金太郎 徳治郎 徳太郎 助治郎長三郎(常滑)豊吉(常滑) 源治郎事助次郎(若松)宝勢丸平治郎友七勘右衛門 (熊野)孫右衛門 1870 宝徳丸仙次郎 宝栄丸治三郎 宝勢丸平治郎 増太郎 金太郎 宝聚丸太郎吉 徳治郎 喜太郎 助治郎 金太郎 長三郎(常滑) 豊吉(常滑) 権左衛門(常滑) 吉次郎(常滑) 長三郎(北条) 助治郎(若松) 康乗丸喜太郎 豊七 伊勢丸友七 1871 宝徳丸仙次郎 宝栄丸治三郎 宝勢丸平治郎 (新船玉宝力 丸平三郎) 増太郎 金太郎 宝聚丸太郎吉 徳治郎 助治郎 助治郎 金太郎 広吉(常滑) 常太郎(常滑) 吉次郎(常滑) 長三郎(北条) 徳三郎(東京) 助治郎(若松) 吉次郎(四日市) 助治郎 清喜丸吉次郎 徳治郎 勢宝丸金太郎 伊勢丸友七 勘左衛門 伝左衛門 (阿野) 1872 宝徳丸仙次郎 宝栄丸治三郎 宝力丸平三郎 宝勢丸平治郎 宝聚丸太郎吉 助治郎 (陸井) 金太郎 常太郎(常滑) 吉次郎(常滑) 長三郎(北条) 長三徳三郎(北条) 昇三郎(樽水) 徳三郎(東京) 徳次郎 蛭子丸勘右衛門友七 (阿野)伝左衛門

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      運賃惣高〆   内百廿両ト拾四匁○五り       入用引  引〆五拾両弐分ト拾壱匁弐分       残り徳 一五拾四両弐分ト拾壱匁四分五り       種粕残り徳 二番乗下分 合〆百○五両壱分七匁六分五り    百弐拾九両  仲荷金持出分 合テ弐百三拾四両壱分七匁六分五り       有金 三番下り 一金百廿六両弐分ト拾匁弐分五り        酒六百四拾七太半運賃残 一同拾五両壱分拾弐匁九分壱り       油百○五樽運賃残 一拾壱両ト拾壱匁  平荷物運賃残〆 一五拾六両壱分ト八匁四分八り       菰野糯百俵徳分 一拾三両弐分ト拾三匁六分八り       白米三拾俵徳分 一三両弐分ト壱匁八分六り       同八俵徳分 一弐拾七両ト拾壱匁八分五り        支配酒百廿六太半運賃残 一八両弐分ト拾匁八分       糠油支配物運賃残 〆弐百六拾弐両三分ト五匁八分三り       下り徳〆   内百両壱分拾壱匁三分三り       雑用引  引〆金壱百六拾弐両壱分ト九匁五分       正徳 一金六拾五両ト拾壱匁壱分弐り         登り唐糸為替運賃共得   内金弐拾五両也 先上下持出金分       儀三郎相渡シ  辰十二月  金三百両    儀平治 中新内金持出  二月廿一日  金百両也     儀三郎 持出  〆四百両也 合〆金八百三拾六両三分拾三匁弐分七り       仲荷惣高 巳二月廿一日出帆   四ばん下り 一金百廿六両三分壱匁九分壱り       売荷物トク〆 一金七拾八両三分五匁五り         酒三百八十三太運ちん正 一金拾五両三分七匁壱分       支配物酒運ちん 一金廿七両三分拾弐匁弐分五り       油かさ運ちん 一金廿五両三分   糠四百五十俵運ちん 〆金弐百七拾五両拾壱匁三分壱り   内百拾四両弐分ト拾弐匁七分七り       雑用荷掛り〆 引〆百六拾両壱分ト拾三匁五分四り   四ばん上り 一金九拾壱両壱分ト拾三匁○三り       干鰯大豆トク〆 四番 合〆金千○八拾八両三分ト九匁八分四り       中荷惣高 巳四月十七日出帆   五番下り 一金百○壱両弐分ト九匁八分五り       酒□物共運賃〆 一金弐拾壱両弐分ト八匁八分五り

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      支配物運賃 一金百○弐両弐分ト三匁八分六り       売荷物トク〆 〆金弐百廿五両三分ト七匁五分六り   内百三拾七両ト壱匁七分六り       雑用引 引残金八拾八両三分ト五匁八分       正徳   六番下り 一金九拾四両弐分弐匁六分三り       運賃物惣高 一同三拾七両弐分拾三匁五分       支配物運賃惣高 一同弐拾両ト弐匁壱分五り       米百五拾俵トク 一同百六拾六両ト拾壱匁五分       登り大豆トク 〆三百拾八両壱歩ト拾四匁七分八厘   金百○壱両壱分拾弐匁八分九り       入用引 引〆金弐百拾七両ト壱匁八分九厘       正徳 六番七月廿二日 合〆千三百九拾四両三分弐匁五分三厘 二月 七月迄  金九拾九両弐分三朱ト弐匁○九り       入用引 改 引〆金千弐百九拾五両ト四匁壱分九り   金四百両    先上下仲荷持出分       両家揚金   金七百両也   正徳揚金両家預り 六番下り 引残正徳  金百九拾五両ト四匁壱分九り       仕立金  三番下り出発の時点で、船頭治三郎は 234 両余の所持金があった。四番下りは 1869 年(明治 2 年)2 月 21 日出発、五番下 りは 4 月 17 日出発であり、約 2 か月で 1 往復していることがわかる。下り荷(関東 方面行)は酒の他に買積で米、運賃積・支 配物で糠・油・傘など、帰り荷は唐糸・干鰯・ 大豆などである。伊勢湾・関東間の航海と しては、伊勢湾岸の他の廻船と積荷は往復 ともほぼ共通である。船頭治三郎の所持金 に加えて三番の航海の後で儀平治から 300 両、儀三郎から 100 両が運転資金として補 充されている。その後ある程度収益がまと まった時点で、運転資金から予備資金に計 上している。この資金の動きから、宝栄丸 も先の 2 艘と同様それまで活動していた船 を手船として自らの経営体のなかに組み込 んだものであった。また、出資者は船頭治 三郎・儀平治・儀三郎の 3 名であり、手船 といっても 1 艘すべてが儀平治の所有では なく、歩持(共同所有)であったこともわ かる。   宝 勢 丸 は 1871 年( 明 治 4 年 )に 手 船 と なった際、運転資金として準備されたのは 3000 両であった。その出資の内訳は儀左 衛門家が 1200 両、儀三郎・宝力丸・船頭 が各 600 両であったが、宝力丸分 600 両は 実質的には儀平治家が出資していた。宝勢 丸も歩持であった。4 者からの出資金 3000 両を準備金、150 両を当面の運転資金とし て宝勢丸は活動を開始した。  醸造家にとって、船をうまく利用するこ とは江戸(東京)への出荷において必須条 件であった。しかし、本業はあくまで醸造 業であり本格的な海運業に乗り出すわけで はない。そのため、儀平治家の場合も新造 や購入ではなく、古場で従来から活動して

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いた船を組織化し、船の関係者や本家を含 む醸造家で共同所有をしていた。手船に求 められる役割は、第一に酒の輸送であり、 それにともなう酒代金の回収などであっ た。廻船としての収益はそれほど重要視さ れていなかったと思われる。ただ、支配物 の多くは手船に積み込まれていて、機動力 や商才が求められる場合には手船が優先的 に用いられたのであろう。  もう一つ【表 6】で注目されるのは小鈴 谷・坂井の船である。儀平治家独立直後に は小鈴谷・坂井の船を利用していなかった ようであるが、慶応・明治初年から利用が 確認できる。それも同じ船がほぼ毎年繰り 返し使われ、入れ替わりや 1 年限りという 船はあまりみられない。これらの船は属性 がわからないものも多いが、判明している なかでは小鈴谷の 、坂井の陸井と関わる 船がある。小鈴谷の は盛田久左衛門であ り、坂井の陸井は陸井太右衛門またはその 関係者と思われる。盛田久左衛門・陸井太 右衛門とも西浦南部を代表する酒造家であ る。【表 6】からは、酒の輸送に使われる船 が衣浦湾岸から古場に近い地区、それも酒 造家と関係がある船に明治初年を境に変化 していることが指摘できよう。もう少し事 例を集める必要があるが、近隣の酒造家と の協力関係がつくられつつあることが想定 される。 (3)その後の経営展開  知多半島の酒造業は幕末から 1877 年(明 治 10 年)ごろまでは好調であったが、明 治 10 年代になるとその勢いにかげりがみ え始め、松方デフレが始まった 1882 年(明 治 15 年)以降苦難の時期を迎えた。それ に対して、知多半島の酒造家たちは新しい 酒造りで対応しようとした。具体的には、 機械類の導入、醸造方法の改良、醸造の科 学的分析などである(13)。1883 年(明治 16 年)には亀崎で伊東七郎衛らを中心に練業 会が結成され、醸造方法の研究を行った。 この動きは知多郡全域の酒造家の組合であ る知多郡豊醸組の結成にもつながっていっ た(14) 。  澤田酒造に伝来した文書のなかには、こ うした酒造家の動向を伝えるような文書 が含まれている。ひとつは、1888 年(明治 21 年)3 月 31 日付の愛国舎の案内・舎告 である。特別舎告では「清酒早造方無料伝 授広告」と題して、清酒の早造の方法を伝 授することをうたっている。愛国舎は谷田 貝町(栃木県真岡市)の海老原幸二郎を会 長とする研究会である。名誉会員には伊丹 (兵庫県)の酒造家小西新右衛門、銚子(千 葉県)の醤油醸造家浜口儀兵衛、野田(千 葉県)の醤油醸造家茂木佐平二などとなら んで、亀崎の伊東七郎衛、半田の中野又左 衛門らが名を連ねている。会員になると質 問する権利を得られ、醸造の秘伝を無料で 伝授してもらえる特権があった。その回答 者には泉州堺酒造改良試験所や勢州四日市 酒造改良会社とともに尾州練業会が含まれ ていた。練業会の取組が当時の業界でも認 められていたことの現れであろう。  もう一つは、1889 年(明治 22 年)12 月 付の「回転精米機械発売広告」である。こ の機械は 1886 年(明治 19 年)10 月に専売 特許を取った機械で、発売元は東京三田綱 町の回転精米機械会社で、販売は三田四国 町の三田機械製作所など 4 社であった。精 米機械は 1879 年(明治 12 年)に三田農具 製作所が製造したとされ、榊原庄蔵が導入 して精米会社の創設を試みたことがある。

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しかし、機械で精米した米は質が悪いとい われ計画は頓挫したといわれる(15)。それ から年数を経ているので、広告の機械は改 良型であったと思われる。もちろん、儀平 治家がこれを導入したかも不明であるが、 新たな道具類に関心を持っていたことがう かがえる。  また、儀平治家では酒(清酒)以外の製 品販売も計画していたようである。 【史料 3】 一去ル廿日出御状相達難有拝見仕候、暑気 相増候処、先以其御表御一統様御揃益御 壮健被為在奉賀上候、随而当方無異罷在 候間、乍憚御休神被成下度候 一今般御照会ニ預り候焼酎拾瓶分随分風味 克結構ニ候ヘトモ、十五度物ハ飲料ニ上 等過ル故ニ、度数之割合ニハ買人無之、 無拠壱瓶代金弐円卅五銭、拾瓶代金則弐 拾三円五拾銭ニ売捌キ申候、此内 諸懸 リ引去リ候事と思召可被成下候、当地飲 料焼酎ハ九度 十度位ヒ之処適当ニテ、 割合克相捌け申候、過日中売捌キ候焼酎 十度物瓶入中実壱斗壱升入、当地着量リ 返シ候処壱斗五合 壱斗七八合位ヒツヽ 有之分、壱瓶代弐円弐拾五銭より弐円四 拾銭ニ売捌キ申候、右見当ニテ宜敷候 ハヽ十度物を沢山ニ御送附被成下度、此 場合当地品切れニ付早速御積入願上候、 且亦過日之焼酎洋名ニテアルコールと御 記入有之候ハ如何之義ニ候哉、尤も十五 度以上ハ度数飲料ニ超過致、薬品ニ用ひ 候故、製造元及販売人も薬品取扱免許無 之テハ不叶義と想予仕候、然ル処拙店薬 品取扱免許無之ニ付、縦令三十度之品御 送附被成下候トモ、送状表焼酎と御記載 被成下度候、猶三十度以上之品中実壱斗 余入ニテ壱瓶四円 四円五十銭之見当 ニ、先者右御報旁得御意度如斯ニ候、謹 言   六月廿四日    山脇善助㊞        善右衛門        慶助  澤田儀平治様    御店衆中様        貴下  これは、1886 年(明治 19 年)に東京南新 川の酒問屋山脇善助からの書状である。儀 平治は山脇善助へ焼酎を試験的に出荷し、 それに対する山脇の評価・感想がこの書状 に述べられている。山脇善助の意見として は、儀平治の焼酎の風味はよいが、アルコー ル度数が問題であった。儀平治は 15 度の 焼酎を焼酎ではなく「アルコール」と記し て出荷したようである。しかし、東京で好 まれる焼酎は 9 ∼ 10 度であるため 15 度で は販売が難しく、10 度ならば売れ行きが 期待できると述べている。さらに、アルコー ルと 15 度以上の飲料は薬品扱いとなるた め薬品を取り扱う免許が必要であるが、山 脇は免許を所持していないので、アルコー ル度数にかかわらず送り状の記載は「焼酎」 とするように山脇善助は儀平治に依頼して いる。  この後、儀平治家における焼酎製造・販 売に関わる記録は 19 世紀初頭にいくつか 確認できるが、この 1886 年(明治 19 年) から継続的に製造・販売されるようになっ たかは今のところ判明しない。しかし、少 なくともこの時点で焼酎の東京ヘの販売を 検討し実行に移していたことは事実であろ う。  また、1882 年(明治 15 年)ごろ、儀平治

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家では「糠売買控帳」という帳簿が作られ ている。これによれば尾張・美濃の広範囲 から糠を集荷し、東京や浦賀で 糠として 販売していた。儀平治家では糠の販売を創 業間もなくから行っていたが、それは自蔵 における酒造りの副産物の糠であり、販売 先も知多半島内や熊野など近場であった。 集荷・販売の量やエリアから考えて、儀平 治家の経営における糠の位置づけは創業 間もなくと 1882 年(明治 15 年)では大きく 異なり、酒に次ぐ商品と考えられるように なったと思われる。内海の内田佐七家でも、 1875 年(明治 8 年)ごろから糠を集荷して 内田印の糠として販売し、1901 年(明治 34 年)には肥料店を開店している。商品と しての糠が知多半島の実業家の期待を集め ていたことの現れであろう。  儀平治家と船の関係も明治半ば近くなる と変化がみてとれる。先にみた儀平治家の 手船は 1877 年(明治 10 年)ごろに名前が 見られなくなる。廃船・売却などの記録が ないため、その経緯や理由は不明である。 儀平治家との関係はなくなっても中古船と して中距離航海を続けていた可能性もあ る。  しかし、儀平治家の手船がなくなったわ けではなく、宝正丸・穂崎丸が新たな手船 として活動し始めた。宝正丸は、史料上 は 1879 年(明治 12 年)に初めてその名が 見え、最初は五三郎が船頭をつとめていた が、1881 年(明治 14 年)に船頭が善蔵に乗 り替わった。穂崎丸は 1884 年(明治 17 年) が史料上の初出で、船長は青井弥五郎、会 計担当者は岩田鶴松であった。  岩田鶴松は船を下りた後は酒造業に進出 した。『愛知県実業宝鑑』(1910 年刊)(16) に は「朝日」「常盤」「松正宗」「山桜」の醸造元 として枳豆志村苅屋(常滑市)の岩田鶴松 の名が見える。先にみた『尾陽商工便覧』 に澤田儀左衛門らと連名で新倉として掲載 されていた平野仙次郎は、宝徳丸の船頭仙 次郎と同一人物ではないかと思われる。『尾 三宝鑑』(1897 年刊)(17)の「予約者明細記」 には、清酒「歓喜」醸造元、味噌製造業と して古場村平野仙次郎の名がある。船頭か ら醸造家へというこの 2 人の履歴は、醸造 業と廻船との関係を示すひとつのモデルと して考えてみる必要があるかもしれない。  この 2 艘の活動を概観すると、それまで の手船とは少し性格に変化がみられるよう である。従来の手船は船主である酒造家の 荷物を運ぶことが最優先の役割であり、実 際の運航・取引において酒以外の荷物を積 む機会やその量は史料を見るかぎりは多く はなかった。しかし、この時期以降の手船 は、単なる酒を運ぶための酒造家の手船で はなく独立した廻船としての活動が活発化 している。  まず酒荷物をみると、小鈴谷から上野間 までの酒造家の酒を広く扱うことが増えて いる。儀平治家の酒を運ぶだけではなく、 西浦南部で醸造された酒を運ぶ地域の船と しての性格が強くなっている。明治初年以 降、儀平治家で盛田家や陸井家の船を使う ことが増えてきたのと同様、この地区での 酒造家の協同・連携がさらに強くなってき たことが指摘できよう。この 2 艘の出資関 係はわからないが、場合によってはこの地 域の複数の酒造家が出資している可能性も 考えられる。  また、酒以外の運賃積荷物・支配物の種 類が増えていることも特徴である。たとえ ば、糠・酢・材木・瀬戸物・常滑焼・瓦といっ た具合である。酢は名古屋袋町(名古屋市

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西区)の笹田伝左衛門の製品である。常滑 焼は江戸時代以来出荷されている瓶・樋箱 (便所)・細工物類とともに、大量の土管・ 水道管が積まれている。とくに 1885 ∼ 87 年(明治 18 ∼ 20 年)ごろはその傾向が著 しい。常滑焼の土管・水道管は横浜居留地 や新橋駅などに用いられ、近代の都市建設 には欠かせないものであった。明治半ばま で常滑焼は主に常滑や北条の船によって運 ばれていた。しかし、廻船業の経営が難し くなるなかで、酒という積荷が存在する儀 平治家の船が常滑・北条の船が果たしてき た役割の肩代わりをするようになったと思 われる。  さらに、買積の商売にも乗りだし、航海 範囲も拡大していく。「売買帳」「売買仕切 帳」という帳簿が作られ、仕切状が伝来し ていることからも買積を行っていたことが わかる。買積の基本的な形態は、環伊勢湾 と関東(東京・神奈川・浦賀)の往復であり、 環伊勢湾からは米・糠を移出、帰り荷とし て関東から環伊勢湾へ大豆・鰊粕・〆粕・ 種粕などを運んでいた。1885 年(明治 18 年)には兵庫・坂出(香川県)・尾道(広島県) へ航海し、坂出の塩、尾道の鉄などを扱い、 翌年には唐津(佐賀県)で石炭を買積し東 京へ運んでいた。1888 年(明治 21 年)には、 穂崎丸は東北まで航海を広げ釜石・大槌(以 上、岩手県)に向かい、荒荷やバラスを扱っ ていた。同じ手船であっても、酒造家であ る船主の酒荷物の輸送手段から、しだいに 独立した廻船としての活動の比率が高まっ てきていたと考えられる。 むすびにかえて  本稿では、澤田儀平治家に伝来した文書 の紹介をしながら、幕末期に分家独立した 儀平治家の経営を概観してきた。儀平治家 が独立した幕末期は、知多酒造業全体の発 展期であるとともに、古場を含む知多半島 西浦中央南部に酒造地帯が形成される時期 でもあった。とくに、古場は澤田儀左衛門 家を中心として酒造家が増えて、このエリ アの中核となっていく。儀平治家はその中 でも大きく成長していく酒造家であった。  今回は主に明治初年までの経営帳簿を検 討したが、酒の販売については知多半島の 他の酒造業との共通点も多い。新たに実態 が判明した経営体として、今後他の酒造家 の経営と比較することで、知多半島全体の 酒造業の特徴と儀平治家の独自性が明らか になるものと思われる。  それに対して、原料調達や船との関係な どでは、明治以降にしだいに変化がみられ た。とくに、船との関係は、地域の船の組 織化、他の酒造家との協力・連携、酒の輸 送船から海運業への展開など、酒造業から みても、廻船業・海運業からみても、今後 さらに検討すべき課題であろう。  いずれにせよ、最初に述べたように澤田 儀平治家に伝来した文書は現在調査中であ り、現在わかっているかぎりでは、明治以 降の文書が大部分を占める。文書の調査・ 整理を進めて、苦境に立った知多半島の酒 造家がそれにどのように対処していくのか も含めて、現在まで続く知多半島の酒造家 の実態をこれからも検討していきたい。 注一覧 (1)半田市誌編さん委員会編、半田市発行、 1989 年。 (2)「知多酒の市場 盛田久左衛門の場合」 (『豊田工業高等専門学校研究紀要』16、

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1983 年)、「知多酒造業の盛衰」(『社会経 済史学』55-2、1989 年 6 月)など。 (3)日 本 福 祉 大 学 知 多 半 島 総 合 研 究 所・ 博物館「酢の里」共編著、中央公論社、 1998 年。 (4)前掲注(3)第 5 巻資料 21。 (5)拙稿「江戸時代における知多半島の醸 造業の展開とその背景」(『月刊酒文化』 12-11、2002 年 12 月 )。 こ の 論 考 で は、 知多半島の醸造業の特徴と原料・道具・ 廻船などとの関係を論じている。 (6)『新修半田市誌』上巻、表 3-3-2。 (7)佐野重造編輯『大野町史』(大野町役場 発行、1929 年)pp.275-278。 (8)澤田儀左衛門の酒造高などに関する記 載は、享和 2 年「横須賀御支配酒造株高 帳」、文政 9 年「江戸下シ酒御分量附株 調帳」(いずれも盛田家文書)などによる。 (9)川崎源太郎著、龍泉堂発行。 (10)以下、史料はとくに断らないかぎり 澤田酒造所蔵文書による。 (11)前掲『中埜家文書にみる酢造りの歴史 と文化』第 5 巻。 (12)愛知県史編さん委員会編『愛知県史』 資 料 編 17 近 世 3 尾 東・ 知 多( 愛 知 県、 2010 年)史料番号 431。 (13)前掲『新修半田市誌』中巻 pp.68-72。 (14)前掲『新修半田市誌』中巻 pp.165-170。 (15)前掲『新修半田市誌』中巻 p.68。 (16)枡田和三郎編纂、愛知実業振興会出 版部発行、1910 年。 (17)編輯小菅廉・伊東孝之助・笠原久保、 発行所片野東壁堂・篁文社、1897 年。

表 2 知多郡の村別酒造家分布 村名 1500石 以上 1400石〜1500 石未満 1300石〜1400石未満 1200石〜1300石未満 1100石〜1200石未満 1000石〜1100石未満 900石 〜1000石未満 800石〜900 石未満 700石〜800 石未満 600石〜700 石未満 500石〜600 石未満 400石〜500 石未満 300石〜400 石未満 200石〜300 石未満 100石〜200 石未満 100石未満 合計 石数合計 鳴海村 1 3 1 1 2 1 9 9231.1
表 4 西浦の酒造家 村 酒造人 享和2年 酒造米高 文化11年酒造米高 文政9年 酒造米高 天保4年 酒造米高 万延2年 酒造米高 御蔵酒 多屋村 与平次 60.36与平太 60.36 60.36 勘助 82.12 常滑村 松本久右衛門 1100 1100 1100 240石/804.6匁作左衛門10401040800240六郎兵衛800800勘蔵617.34佐次兵衛324.8324.8324.8324.8浅之丞280280280280240石/154.8匁兵三郎250250250250孫八170170
表 5 澤田儀平治家の酒販売 販売地 販売先 年次 銘柄 駄数 代金 10駄平均 特記事項 江戸 中井(播磨屋)新右衛門 嘉永5年嘉永6年安政1年 172安政5年249万延1年江戸一346.5 18両4分5厘文久1年江戸一42518両2分文久2年江戸一・戎鯛268.519両文久3年戎鯛240468両19両2分元治1年戎鯛354.5902両3分4匁8分29両2分5厘慶応1年戎鯛390.51338両34両9分慶応2年戎鯛5473168両57両9分慶応3年戎鯛517.53497両2分67両5分8厘明治1年戎鯛66

参照

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