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学習者オートノミーにおける「学習の見えないプロセス」 : チュートリアル担当教員の物語と学習者の振り返りから

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学習者オートノミーにおける「学習の見えないプロセス」

―  チュートリアル担当教員の物語と学習者の振り返りから  ―

藤田ラウンド  幸世

キーワード: 自律学習、授業実践としての連続体、学習者の個別性、多様化する言語学習者、 学習者オートノミーと留学生

1.はじめに

「チュートリアル(以後、桜美林大学のチュートリアル授業を指すときには「 」をつけ る)は、桜美林大学日本語プログラムの現場で 2003 年から自律学習を基盤として始められ た授業実践である。2003 年当初は、Dickinson(1987)の ʻSelf Instructionʼ という概念から 「自律学習を促す少人数の授業」、「通常の授業とは異なる枠組みの授業」を「自律学習」と 解釈し、現場の教師と当時のプログラム・コーディネーターたちが日本語プログラムを挙 げてコースデザインを行ってきた。この授業に対して名づけられたものである。 齋藤(2005)は、「チュートリアル」を「自律学習と個別対応」の融合として位置付け、 桜美林大学日本語プログラム「グループさくら」(2007)は、「 チュートリアルは、学習者 と教師が一対一で向き合い、相互にやりとりをしながら進めていく学びの形 」 であると説 明する。ここで「定義」ではなく、「説明」するとことばを選ぶ理由は、青木(2007)が 「オートノミー」の概念が研究者によりさまざまであり、例えば「詳細な定義は必要でも望 ましくもない(Benson 2001)」という立場もあると紹介しているように、「チュートリア ル」自体が授業実践であるということに由縁がある。つまり、一斉授業や固定的な授業で はなく、学習者の目標、または担当教員による、さまざまな要因が絡み合う多様性が存在 する授業実践であるがゆえに、「チュートリアル」は、いろいろな意味で流動的であるから である。本稿では、以下、「チュートリアル」の概念として、先の齋藤(2005)と桜美林大 学日本語プログラム「グループさくら」(2007)の説明をもとに進めることにする。 本稿では、「チュートリアル」に 6 年間関わった一人の教師の物語から「チュートリア ル」を提示する。教師が語り手となり、「チュートリアル」の経験知を学生のエピソードと 物語から引き出す。その上で、「チュートリアル」の見えない学習のプロセス、個別性、多

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様性の共存を記述し、最後に今後の課題を考えることにする。

2.「チュートリアル」担当教師の物語

Aoki(2008)は、Legenhausen から「研究、理論、そして実践はいわば、おのおのがイ ンパクトを持ち、また、それぞれが影響をしあうといった、三角関係に位置づけられる (2007:18 , Aoki の引用部分を筆者が訳)」という引用を提示しながら、新たなパラダイム シフトを目指す上で「教師の物語(Teacher stories)」の有効性を提案している。これま では、一つ一つの教師の「物語」は類のないユニークさを備えてはいるものの、しかし、 物語は客観的ではなく主観的であることや、それぞれの物語は特定の人を想定して語って いるのではなく、散在している断片のように語られることから妥当性に欠けていると考え られてきた。また、一般化できないという特徴を負っているので、研究者からは研究には 使えないと敬遠される傾向があったと指摘する。日本語教育のみならず、グローバリゼー ションという共通背景を抱えている世界各地において、外国語教育にとってよりよい教育 方法を求める現場の教師達の希求がある中で、現在、学習者・教師のオートノミーに関す る理論の模索がなされている。そのための新たなパラダイムを考える上で、教師が当事者 である立場から「物語」を語ることは、一つの試みとなろう。 本稿では、このような問題意識から、Aoki の提案をする「教師が物語を語る」という点 を援用し、一人の教師が 6 年間の「チュートリアル」実践で得たと感じる「実践知」を語 ることを試みる。その点では、先に Aoki にあるように、客観的ではなく、断片的であり、 「チュートリアル」を実証するための一般化を目的としない。むしろ、語り手は、「チュー トリアル」という新たな授業形態を作り上げることに関わった教師という立場であり、実 際の教室の中で 6 年間に亘り「チュートリアル」授業を実践してきた一人の担当教師でも ある。そのような当時者であるという立場から理解している「チュートリアル」を大学教 育にかかわる読み手に実践知として届けることを目的とする。 語り手の教師(以後、「私」と称する)は、2003 年から 2008 年までの 6 年間、合計で 13 学期、13 回の「チュートリアル」を経験した。その間、延べ人数でいうと、129 名の留学 生と関わったことになる。この詳細をまとめると表1になる。

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表1  6 年間に亘る一教師の「チュートリアル」授業総数概要 実施年度 学期名 プログラム形態 対象留学生属性 日本語レベル 担当クラス数 留学生人数 2003 年 春 必修 短期 中級 1 11 秋 短期 1 9 春 短期・学部混合 上級 1 12 秋 短期・学部混合 1 13 2004 年 春 必修 学部(通年履修) 上級 11 11 2005 年 春 必修 学部(通年履修) 上級 11 11 2006 年 春 選択 短期・学部混合 上級 11 164 2007 年 春 選択短期・学部混合 上級 1 100 2008 年 春 選択 短期・学部混合短期・学部混合 上級 11 1517 合計数 13 129 * 2007 年春は担当していない。 表1を活用し、以下、6 年間の時間軸にある私の「チュートリアル」授業を語る。表の 中からは、次の3つの経験を引き出せる。 1)プログラム内の授業形態、必修・選択科目の「チュートリアル」経験 2)日本語レベルの異なる中級と上級の「チュートリアル」経験 3)3種類の対象留学生属性別の「チュートリアル」経験(短期、学部、混合クラス) 1)の経験は、2007 年の大学内の改組に伴う、日本語プログラムの変化に関わるもので ある。日本語プログラムの中での「チュートリアル」授業の変化は、桜美林大学日本語プ ログラムの柔軟性、ボトムアップ型のプログラムの構成にも関わってくるので、1)の経験 に関しては、教師である私ではなく、日本語プログラムの中に「チュートリアル」授業を 位置づけてきた当時の日本語プログラム・コーディネーターの稿に譲ることにする(齋藤・ 松下 2004,齋藤 2005,2007,2008,松下 2007)。

3.中級学習者にまつわる二つのエピソード:学習プロセスを理解する

教師としての私にとって、2)の経験としてあげた中級・上級の「チュートリアル」を 経験することは、それまで日本語教師として中級、上級と固定的に学習者を日本語レベル のみで捉える傾向にあった、教師としての自分に気づく機会となった。

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「チュートリアル(授業形態については 5 で詳しく後述)」の開始直後に学習目標を立て るときに、多くの学生は教科書の復習、専門語彙の学習、新聞などの読解、日本語能力試 験対策など、目の前にあるハードルを越えるための「自分に必要だと考える学習」を切羽 詰って選択をしたり、自由に選択することに慣れていない場合には、自動的に既存の学習 や方法を選択することが多い。 その一方で、できるかどうかわからないけれど、とにかくやってみたいと一斉授業では 扱っていないリソースを選ぶ学生もいる。現実の言語レベル以上の、一人ではできないリ ソースを敢えて選ぶ場合は、教師、TA、日本人学生のクラスゲストなど、人的リソース としての支援者が支えることができる。また、目標が高すぎた場合や途中で目標に飽きた り、難しすぎる場合、時に、担当教師が勉強の段階を整理し、学習デザインをし直す手伝 いをすることなども考えられる。一斉授業ではできない、このようなバリエーションに富 んだ個別性に、さまざまな段階において対応ができる醍醐味、柔軟性、個別支援が「チュー トリアル」にある。 しかし、中級レベルの学生が上級レベルの学生にも難しい目標を掲げた場合、先にあげ た支援だけで学習ができるのかどうか。私にとって、初めての「チュートリアル」クラス の中にいた、非漢字圏の中級レベルの学生の心配をしたことがある。果敢に大きい目標に 取り組むのはいいが、だいじょうぶだろうか、一学期間で目標は達成できるのだろうか。 一学期間という時間の中でできるかどうか、時間と学習の管理という点は、学習者個人 に委ねられるものであると考える。しかし、率直なところ、一学期の終わりを見据える、 評価を考えるチュートリアル初心者の教師としての私は、「チュートリアル」の「評価」を どうしたらいいのか、中級レベルの彼らの目標に戸惑った記憶が鮮明に残っている。結果 的に、中級レベルという言語レベルに関わらず、選ぶことが重要なのだと教えてもらうこ とになった。「自分のことは自分で決める」ことを学習者オートノミーの一つ(青木 2001) と捉えた場合、目標を「選択」することが学習者にとっては重要である、ということを二 人の学生にまつわるエピソードから考えてみたい。 一人は、アメリカの大学で日本語を専攻している学生で、尊敬する宮崎駿雄の『ものの け姫』を一学期間で英語に翻訳することを目標に選んだ。この学生は、毎回、チュートリ アルの授業では、初めと終わりに教室に現れるが、学習は大学内のセルフアクセスセンター のコンピューター室に出かけ、一人で翻訳を行った。わからない語彙や内容は、授業の終 わりに教室に戻ってきた時に口頭で教師に質問し、学習記録も使って紙面上で質問をした。 この学生は、小学生を対象に書かれた『もののけ姫』一冊を学期内で翻訳し終わり、その 間に学んだ語彙もまとめ、本人と教師にとっては達成感があった。教師の目標設定時の心 配とは関わらず、結果がはっきりと出たので、本人も教師も評価に悩むことはなかった。 もう一人の学生は、カナダの大学でコンピューター・サイエンスを専攻している学生で

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あった。書きことば、特に漢字に弱いと本人が感じていたため、「チュートリアル」の目標 に、日本人の友人がプレゼントをしてくれた岩波少年文庫の『ホビットの冒険』を読むこ とにした。この本は、ルビがついているとはいえ、自分で調べる語彙も多く、本人にとっ ては難しいものであった。学期途中で、語彙を英語訳・漢字・読み方の 3 種類で覚えるた めのコンピューター上のソフトウェアを自ら制作し、このソフトウェアに語彙を入力した り、時に手書きで書いてみたりしながら、語彙を増やすことに目標を変更した。しかし、 はっきりとした文脈を読み取れない中で語彙を覚えることが次第に苦痛になり、再度、目 標を見直し、自分が読めると思う短めの新聞記事を選び、その中の語彙を選び、ソフトウェ アを使って語彙表を作るようにした。 二人の学生は、学期末に一冊の本を一学期中に目標通り翻訳ができたという結果と、目 標を何度も変更しながら勉強を続けたという結果を教師に突きつけたわけである。この結 果は、一見、差があるように見える。前者の学生は一学期間の中で目標を達成したという ことで、「チュートリアル」授業の一学期間で、目に見える形で本人にもクラス全体にもそ の達成が実感された。逆に、後者の学生は、学生本人の満足度は高かったものの、当時、 担当教師の私にとっては、ポートフォリオとして、手元に語彙表シートは残ったとはいえ、 それをどうまとめたかというところで、どのくらい達成ができたのか、教師の評価を出す 際、躊躇したというのが正直なところである。 学習のプロセスを評価するというよりも、一斉授業のようにテストのような言語能力を 計るツールがないことに不安を覚えていたといえる。また、前者の学生が目標設定どおり に完結できたことと比較をし、後者の学生は目標設定どおりではなく、目標を途中で修正、 訂正したことで、達成という点を評価につなげることができにくくなったと考えたわけで ある。学期末に、日本語プログラムの会議の中で同僚の教師たちと話し合うことで、私は、 この戸惑いから、学習のプロセスをより細かく見る必要を自覚をするに至った。同時に、 中級レベルの学生という先入観がぬぐえなかった教師としての自分の課題ともなった。 後者の学生に、5 年後の 2008 年7月13日にインタビューをする機会があった。そのと きに、2003 年時の「チュートリアル」を振り返ってもらったのだが、本人の口から出てき たのは「チュートリアル」の記憶の断片は、「リラックスできた」、「自分のペースで好きな ことができた」、「自分のわかるまで、時間を使うことができた」、「『ホビット』をやってい たので単語が大切だと思った。何度も何度もやっているうちに、自分のレベルではないと めげてしまった」とむしろ肯定的なところの方が多かった。また、話していく中で、「チュー トリアル」の授業の内容も次第によみがえり、教室のどこに誰が座っていたか、友達に自 分が作ったソフトウェアをあげて、その学生が同じように勉強を始めたこと、そういえば、 旅行にいったときに、みなにおみやげを買ってきたなど、いろいろな人や風景が口から次々 に出てきた。それぞれ個別に、自習のような形で勉強をしていたことを私は強く覚えてい

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たので、「チュートリアル」授業のクラスのクラスメートやその一人ひとりがどこで勉強を しているかなど、学生の記憶の中からでてきた内容は、予想外のものであった。 この学生は、現在、カナダの大学で博士課程後期に在籍しながら、日本の大学でインター ンシップをしながらコンピューター関連の分野の研究を進めていた。専門は英語でこなし、 日本語は日常や仕事仲間など社会生活でのコミュニケーションに主に使っているようだっ た。私とは電子メールでやりとりをしたが、日本語で漢字を駆使し、自然なやりとりが問 題なくできていた。現在は、どのように日本語を学習しているかとインタビューのときに 尋ねてみたところ、翻訳ツールや辞書ツールなどの補助を駆使すれば日本語で電子メール を書くことができると、私との電子メールもそうしたツールを使って書いたと恥ずかしそ うに話してくれた。日常の学習方法は、インターネット上のメーリングリストで配信され る単語のリストを毎日活用し、日本に滞在中は、コンピューター上のオンラインの漢字 チェックでときどきテストをするなど、専門のコンピューターのスキルとコンピューター というリソース、兼、道具をフルに使用しているようであった。 しかし、コンピューターだけではできないこともあるという自覚もあった。具体的には、 この学生が現在実行しているのは、わからない語彙は、電車の中や歩きながらでも、ひた すら「見て、見て手帳に書く」ということだった。片手に収まる何冊もの手帳を見せてく れ、手帳には縦に横に手書きで語彙がびっしり書かれていた。コンピューターという道具 を駆使することや、手で書いて覚えるという方法が、この学習者にとっては大事であると いうことがわかった。2003 年の「チュートリアル」でも同じことをしていたことをコメン トすると、この学生はびっくりしたような顔をしたあとで、腑に落ちたように、笑ってい た。 私はレベルの異なる「チュートリアル」の経験から、達成感というのは、目にみえる形 だけではないということを学んだといえる。一学期間という短い時間の中で到達するかど うかというのは、明らかに、目標設定に関わっているが、しかし、「達成」するかどうか、 または、「達成」するのが重要かどうかと感じるのは本人次第である。先のインタビューに もあるように、一学期間で達成できるかどうかということは、後者の学生は全く問題にし ておらず、むしろ難しかったけれど、あのときやってみてよかったと 5 年後の今でも肯定 的に受け止めていた。 「チュートリアル」は、自己評価を導入し、直接、テストや学習を計る評価を行わない授 業であるからこそ、自由にリソースを試してみることができる。この「試す」という経験 や「自由に好きな内容、好きなペースでわかるまで勉強ができる」というところが目に見 えない学習プロセスとして、教師の見えないところで、学生自身の満足や達成度に関わっ てくると考えられる。ここに、一斉にテストで計るのではない、個別対応の授業の中に存 在する「見えない学習プロセス」が学習者個人の中にあるという示唆や、「チュートリア

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ル」授業の中には教師や学習者自身にも意識ができない、見えない学習が起きている可能 性が内包されているのではないだろうか。

4.K さんの物語:「チュートリアル」の個別性を重んじる姿勢

3)の経験は、私が経験した対象留学生の属性別の「チュートリアル」経験(短期、学 部、混合クラス)である。これは、一つの「チュートリアル」授業の教室の中にさまざま な個別性を持つ学習者がおり、その個別性に教師は対応しなければならないということに 直結する。半年から一年間大学に在籍する短期留学生と四年間大学に在籍する学部(2007 年度以降は学群生)の混合であるが、さらに詳しく学生の属性を分析すると、学年とすれ ば一年生から四年生まで、年齢も広がり、立場とすれば、大学院生、研究生、履修科目生 も入るかもしれず、専門に関しては、日本語専攻だけではなく、日本文学、経営学、経済 学、国際協力学など多岐に亘るというまさに学習者一人ひとりの個別性が混在する。学習 者の個別性が拡がれば、それに応じた個別の学習オートノミーが必要となるということに もなる。学習者の背景や学習者が置かれた立場の文脈に沿って、教師は、「チュートリア ル」という授業形態の中で一人一人の学習者に必要な「自律学習」や「オートノミー」の 焦点を調整する必要があるからである。 3 )の経験に関しては、個別性にどのように対応するか、ひいては学習者オートノミーは 「チュートリアル」を通してどのように身につくのかをKさんの物語を通して考えてみた い。 K さんは、2003 年度の秋学期に上級必修クラスの「チュートリアル」を経験した一人の 学習者であり、Kさんの物語については、K さんが在籍していたクラスの調査時(藤田ラ ウンド・鈴木 2003)のデータと 2008 年 8 月 27 日にインフォーマル・インタビューを行っ たメモをもとに語ることにする。 K さんは、2003 年 9 月から一年間、台湾の大学から桜美林大学に交換留学生として在学 した。当時、短期留学生のとる必修授業の上級クラスに入り、必修授業 4 コマ中の 1 コマ が「チュートリアル」であった。私は 2003 年秋学期のKさんの「チュートリアル」を担当 した。 私の目には、K さんは学習動機も高く、努力家に映った。「チュートリアル」では趣味の アニメや漫画を翻訳するという目標を決め、アニメや漫画を翻訳した。特に漫画に関して は、「チュートリアル」の中で行った翻訳を母校の先生にチェックしてもらい、一学期の終 わりには完成したものをコピーした漫画のページに切り張りをし、自家版の漫画本を作成 したほどであった。

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このKさんに 2008 年にインタビューで 2003 年の「チュートリアル」を振り返ってもらっ た。初めは、どのくらい覚えているか不安だといっていたが、話しているうちに、学習し た内容、一緒に勉強をしたクラスメート、留学をしたときの楽しい思い出など、つぎつぎ に記憶がよみがえってきた様子だった。 Kさんは「チュートリアル」以前にも、参考書を図書館から借りて、インターネットを 使ったりして解釈を調べることなどは積極的な学習ができていた。しかし、先生を人的リ ソースとして「使う」ことに抵抗があり、どう「使っていいのか」わからなかったと、今 振り返ってみて思うという。 K さんは、「チュートリアル」を体験したことで、人的リソースとして先生を学習の「資 源」として活用していいことがわかったという。そして、一度こつをつかむと「チュート リアル」外でもそれをすぐに応用し、日本語学習リソースセンターでの教師のオフィスア ワーを使って、教師にアドバイスをもらい、添削をしてもらったりしたので、新聞の要約 ができるようになったと覚えている。これを覚えている理由は、「新聞の要約ができるよう になったことは大学院で役にたった」からであると言い、「チュートリアル」で学んだ、教 師を人的リソースとして必要な学習を行うことができるようになったことは、「チュートリ アル」のよさだと述懐する。 さらに、K さんは「チュートリアル」を経験してから勉強が好きになったという。自分 で選んで好きなことが勉強できる、好きなことをやっているので、できるようになり、わ かるようになることが嬉しいと思う体験をしたと言及していた。現在でも、英語を勉強す るときなど、自分の好きな野球の大リーグの英語のページを読むことで勉強をしたりする など、「チュートリアル」の学習ストラテジーを実行しているらしい。この好きなことを選 んで学習をするということは、Kさんにとってはインパクトが強かったようで、留学前ま では、大学では日本語を「自分で」専攻したという意識があり、「日本語が好きだったの が、(日本への留学を経て)勉強が好きに変わった」という。 K さんは、話すうちに頭を整理しながら、留学をしたことで勉強に対する考え方が変わっ たきっかけについて、「チュートリアル」と別にもう一つ桜美林大学の国際学部の授業を挙 げた。国際学部の専門の授業を一つとったときに、学生に自由が与えられていると感じ、 それがとても新鮮だと感じた。「チュートリアル」や国際学部の授業のような学生を中心に おいた授業を日本で経験したことで、Kさんにとっては、初めての日本の留学先となる大 学での経験が、現在では「日本の大学」のイメージとなって形成されたようだった。それ と比較をして今では台湾の大学は高校と変わらず、大学じゃないように感じるという。 K さんの台湾の大学の母校は、当時、「チュートリアル」に近い「契約学習」の授業があ り、Kさんは台湾へ帰国後、学部 4 年生時と大学院進学後にこの契約学習の TA となった。 この契約学習では文法を担当したが、このときの経験として、Kさんは、質問に来る学生

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は成績がよくなることもそうだが、もっとわかるようになるので楽しそうだったと自分で 観察したことに言及した。 勉強の楽しさを経験したことで、K さんは教師になることに決めた。教育実習に行った ときにも、非常勤で日本語を教えている現在も、心がけているのは、日本語に関して知り たいと思ったらいつでも声をかけるように生徒に伝えることだという。休み時間に日本の テレビにでてくるコマーシャルのことを教えてくださいなど、生徒が質問や話にくると生 徒の興味に沿って話しをする。例えば、「(中国語の)字幕でいっていることは日本語でいっ ていることと同じか」と聞かれたときに、「いや違う」とどこがどう違うのかを説明する と、それが生徒の気持ちを捕え、生徒にうけた。今は、授業の教材リソースとしてインター ネット上の「ユーチューブ」も使い、生徒の興味に沿うようにしているという。 記憶にあることを言語化しているうちに、次第にKさんは、TA をしているときは実は 自分は「チュートリアル」をしていると考えていた、と今になって思うと話してくれた。 具体的には、今、考えてみれば、学生が質問に来たときに、直接「教えた」のではなく、 「導く」ことをしていたという。ただ一つの答えを教えるのではなく、興味がわくように、 楽しみとなるように、直接、学生に答えを教えたのではないという。教えるだけの教師に はなりたくないと明言していた。 Kさんの場合は、母校の大学に契約学習という、「チュートリアル」と源を同じくする学 習者の自律を目指した授業やそれを志向する教師がいたこともあり、留学後も「チュート リアル」で学んだオートノミーがさらに帰国後もそのまま役に立った。またそれをさらに TA や教育実習を通して、自ら学習者オートノミーを提案する実践をすることで発展させ たと考えることができる。Kさんは、もともと潜在的に学習者としてのさまざまなストラ テジーも、応用するという実行力もあったと考えられる。特に、留学を契機に学習者が学 習を選択できるという「チュートリアル」の個別性を重んじる姿勢に触発され、自ら学習 者オートノミーを開花させたといえるのではないだろうか。

5.授業実践の連続体としての「自律学習」

ここまでみてきた私の経験と、「学習者としての学生たち」のエピソードを生み出したの は、「チュートリアル」という授業実践にほかならない。ここからは、このような授業実践 が可能になった「チュートリアル」を授業実践から教育実践へと拡げて、改めて考えてみ たい。特に学習者オートノミーと関わる二点、「チュートリアル」が現場の教師たちの発想 と日々の実践から出発をしたという点と、新たな授業実践としての「チュートリアル」 は実 践の連続体により形成されているという点である。

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まず、「チュートリアル」は、2003 年から桜美林大学日本語プログラムで実施されるよ うになったが、現場の教師たちが、日々の授業実践の中で、学習者は「教えられる」とい う受身だけの姿勢に留まらず、自ら学ぶ姿勢を身につけることが必要であると強く感じ、 日本語を教えるだけでは足りないのではないかという疑問を持ったことがその原点であっ た(桜美林大学日本語プログラム「グループさくら」2007)。 教師たちが自主的に新たな授業形態に関わるという点は、後に「チュートリアル」の授 業実践における教師の役割を作り出していくことにもつながっていると考えることができ る。例えば、三宅(2006)は、「自律性を高める言語学習における教師の役割(梅田   2005)」 を援用しながら、「チュートリアル」の教師の学習記録を分析している。その中で、「チュー トリアル」担当教師の役割を教授者、計画者、ファシリテーター、情報提供者、学習管理 者、改革者に分類した。その結果、全体として、「チュートリアル」担当教師たちは、ファ シリテーターや学習管理者として学習のプロセスを具体的に把握しようとしていたことが 見られたという。この結果から、「チュートリアルを担当する教師には、『学習管理者』と して学習のプロセスに寄り添いながら、『ファシリテーター』としてそれを励ますことで、 学習者が意識変容への第一歩を踏み出すことができるような関係性を築いていくことが要 求されている」とまとめている。 また、教師たちの自律性を考えた場合、岡崎・岡崎(2001: vi)がいう、教授法に対する スタンスの推移と教授法の性格の変化とも重なる。つまり、現場での日本語学習者が多様 化している中で、こうした多様性に対応するために、唯一絶対の教授法で対処ができなく なり、「学習者と関わりながらその実情の一つ一つを観察し、各人なりの言語教育間を形 作っていく教師が目指されるようになってきた」という新たな教授法や教師像と一致する。 第二点目は、授業実践についてである。出発当初の教師たちの関心は、「自律学習」とい う新たな授業形態を開発することに注がれ、教師自身の知識を深めるための自律学習に関 する勉強会を開催したり、Dickinson(1987)にヒントを得たマテリアル作りなどを共同作 業で行っていた。また、授業に必要なツールを揃えるために日々、さまざまなレベルでの 試行錯誤が繰り返されることになった。 2008 年現在、チュートリアルの授業形態は、教師たちの試行錯誤の後に安定した形と なっている。担当教師が交代しても、チュートリアルの授業で使うマテリアルや手順は共 通であり、①授業の流れ(オリエンテーション、1 対 1 の面接であるセッション、中間発 表、学期末自己評価)、②マテリアル(学習目標、自己評価シート、パフォーマンスチャー ト、学習者による学習記録)、そして③教師による毎授業後の一人一人に関する学習記録 (教師による学習記録、TA による学習記録、必修授業の担当教員によるコメント)、そし て、④一連のチュートリアル実践は、日本語プログラム全体やチュートリアル担当教員間 でフィードバックされ、実践知として共有(すべての言語レベルのチュートリアルの担当

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者がそれぞれ実践を共有しあうチュートリアルに特化された会議、毎学期末に日本語プロ グラムのスタッフ全体の会議、こうした個人やグループでの教師が、毎学期、反省と改善 を繰り返し、日本語プログラムの他の授業にもさまざまな形で応用されている)、このよう な「サイクル」がある。これをイメージしたのが図1である。 図1.チュートリアルと日本語プログラムのつながりのサイクル 内側の丸に納められたサイクルが一学期間の「チュートリアル」の授業実践の流れとす るならば、図1の④では、「チュートリアル」が教室を越え、日本語プログラムのほうに一 授業としての実践知を還元することにより、外側の丸に広がっている。「チュートリアル」 は一学期毎に完結するものなので、一学期毎に日本語プログラム全体で、相互間による フィードバックがされ、「チュートリアル」だけの実践知として留まるのではなく、日本語 プログラムで共有される実践知となることが考えられる。つまり、「 チュートリアル 」 は、 個人のチュートリアル担当教師だけではなく、プログラムを挙げて共有することで、シス テム(体系的方法)となり、このシステムが一つの特徴であると考えることができるだろ う。ここに、プログラムを挙げて行う意味を見出すこともできるのではないだろうか。 「チュートリアル」の③の学習記録は学生にとっては授業活動であり、教師にとっては観 察記録ともなっている。教師にとっては、「チュートリアル」の授業後、二種類の学習記録 をつけることになる。一つは、学習者が当日授業内に授業活動として書いた学習記録(学 習内容、学習リソース、満足度、感想・質問)に対するフィードバックである。また、も う一つは、授業直後に、授業中に観察をした教師の覚え書きをパソコンに打ち込む教師用 の学習記録である。学習者に関する学習の内容、進度、態度など書きたいことを書きとめ る性質のもので、これはフィールドワークのフィールドノーツに相当する。 後者の記録は、担当教師だけではなく、TA がいる場合は、複眼的に TA も記入する。

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後者の学習記録は、授業中の学習者に対する観察であるため、この学習記録が「チュート リアル」を実践している教師の生の実践知や経験知となっており、学習記録をつけること で担当教師、または、TA が個別の学習者や、グループとしての学習者についての学習情 報を記憶として深める作業であるとも言い換えることができる。同時に、こうした、毎回 のフィールドワーク、もしくはアクションリサーチとも言い換えられるような、学習者を 個別に観察している教師や TA の観察眼が学習者の個別学習のモニターをし、これが授業 活動や「チュートリアル」のシステムの一部となっているわけである。 それは、チュートリアルには、決められたテキストがなく、個別性を保障するために学 習者が学習目標を立てるわけであるから、事前の準備ができないという特質とも関ってい る。それゆえに、授業後に先に挙げた幾重にも振り返り、作業を行い、形にしていくわけ であり、教師が徹底的に記録の作業をすることで、正規の授業としての、単位が出る授業 形態にまで生成し、高めているといえるだろう。同時に、こうした作業をすることで、学 習記録はいわば精製された教師たちの振り返りの形とも考えることができるだろう。これ が、チュートリアルのサイクルと連続体を支えている要となっている。 また、教師だけではなく、学習記録は、書き付ける人すべてにとって、内省の機会とも なっている。直前に行っていた活動に関して、その内容や関わった道具や人についてもう 一度、「振り返り」、それを頭のなかで組み立て直すということでもある。この内省・振り 返り作業が毎回行われるという点も、マテリアルの活用や学習記録という名目だけに収め ると見えにくくなる。しかし、「チュートリアル」の実際の学習活動においては、学習者の 学習記録、またそれに対する教師からのフィードバックはお互いに読み合い、この学習者 と教師間の相互作用は、信頼関係を築く活動であるとも考えられよう。個別指導を支える 見えない学習のプロセスとして補足しておきたい。 図1の二つの丸が重なったサイクルは一つで完結するのではなく、一つのサイクルが次 のサイクルへと連続していくことが実践知の積み重ねとなり、むしろ、図 2 のイメージの ような 「 チュートリアルの連続体 」 と考えることが重要だろう。それは、「チュートリア ル」と名づけた授業形態は、教師たちの教育実践として始められ、初めに基盤となる概念 はあったとはいえ、実際の「チュートリアル」という新たな視点を組み込んだ授業形態は、 6 年間の継続を経て、その間の「連続体」が現在の「チュートリアル」を生み出したとい えるからである。

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図 2 チュートリアル実践と日本語プログラム全体間に互いにフィードバックするサイクルとその連続体 「チュートリアル」は、「自律学習」という概念を発展させたと見ることもできるが、し かし、初めに理論があり、その通りに具現化をした性質のものではない。その意味で、授 業実践を経験知として積み重ね、その連続体が現在の授業形態につながるわけである。言 い換えれば、「チュートリアル」は、6 年度目の現在、授業実践の連続体として、毎学期ご との授業実践から生成された「自律学習」の一つの応用形となったといえるのではないだ ろうか。

6.短期留学生にみるグローバリゼーション 

さらに、先の経験 3)の中にもでてきた選択授業の混合クラスにみられた「チュートリ アル」にまつわる「多様性」について、別の角度から見てみたい。 「チュートリアル」は、授業実践であるので、教室という集団での通常の教育実践と同様 に、授業を実践する教師の「個性」や学習者それぞれの「個性」といった、教室の中の「多 様性」が存在する。この際、一斉授業と比較した場合に、特に学習者の個別性を志向する チュートリアルの授業から生み出される、学習者一人一人の目標の異なり、それに個別に 対応をする教員の対応など、「個別」に反映される目に見えない多様性はさらに複雑である

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ことは想像に難くない。 まず、具体的な多様性として、留学生たちの属性をたどることにする。大学内の学生と いう属性においては、大学の学位取得を前提とした正規の学生として「学部生」と「大学 院生」、一方で、学位を前提としていない「科目履修生」や「聴講生」の立場の留学生もい る。また、母校との単位認定を必要とする「交換短期留学生」や単位の必要ではない「短 期留学生」という立場の留学生がいる。学内では、短期留学生のことを、プログラム名で、 RJ 考察プログラム(Reconnaissance Japan Kosatsu Program)の学生と呼ぶこともある が、受け入れには提携校とそうではない個人留学生もいる。 日本語プログラムが想定する必修科目対象者は、提携校からの単位交換が前提となる短 期留学生と 1 年生のための必修日本語を受ける学部留学生であろう。しかし、2005 年度の 科目登録数の上では、特に「日本語選択科目」において、結果的には短期留学生、学部留 学生、大学院生、聴講生、科目履修生などさまざまな立場の「多様な留学生」が混在する という特徴が見られた(藤田ラウンド 2006)。つまり、選択科目の中に「多様なニーズ」 を求めた、「科目履修」や「聴講」、本来は学部生用の授業をとらないと考えられていた「大 学院生」などが集まったわけである。このような想定外の多様なニーズや多様な背景の学 生に、初めに向き合うのは、現場の日本語教師である。言い換えれば、留学生をめぐる実 際の変化や多様性を真っ先に実感することになるのは日本語教師であるといえる。 チュートリアルが生まれた理由となった日本語教師たちの実感に焦点を当てるために大 学内の留学生の中でも、広い意味でグローバリゼーションと関わる短期留学生数の推移を ここで見ておきたい。 図3 桜美林大学への短期留学生数に関する推移 1991-2007 年 㪉㪇 㪋㪇 㪍㪇 㪏㪇 㪈㪇㪇 㪈㪉㪇 㪈㪋㪇 㪈㪍㪇 㪈㪏㪇 㪈㪐㪐㪈 㪐㪉 㪐㪊 㪐㪋 㪐㪌 㪐㪍 㪐㪎 㪐㪏 㪐㪐 㪉㪇㪇㪇 㪇㪈 㪇㪉 㪇㪊 㪇㪋 㪇㪌 㪇㪍 㪇㪎 桜美林大学国際交流センター資料(2008 年 2 月)より作成

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図 3 のグラフは、短期留学生の受け入れ窓口となっている国際交流センターの資料から 作成したものである。これによると、桜美林大学には、1991 年に 12 名の留学生であった のが、10 年後の 2001 年には 42 名となり、21 世紀以降は右肩上がりに増加をしている。こ の急増は、「チュートリアル」が必要だと感じた現場の教師たちの実感とまさに一致してい るといえよう。2004年には初めて 100名を超えた短期留学生は、以後、130~150名の間を 行き来している。 1991 ~ 2008 年の短期留学生について、次の三点を確認しておく。まず、第一に、出身 国別の合計数である。多い順に、アメリカ(444 名)、中国(128 名)、英国(95 名)、韓国 (69 名)、オーストラリア(41 名)である。中国と韓国については、2001 年度から本格的 に受け入れを始めたが、2004 年から特に数が急増している。 第二に、受け入れ年度という点である。1991 年の短期留学生全 12 名の内訳は、アメリ カ(10 名)、カナダ(1 名)、ドイツ(1 名)、続いて、1992 年の 12 名の内訳は、アメリカ(7 名)、イギリス(4 名)、ネパール(1 名)となっており、1991 年から 2008 年の 16 年間全体 を概観したときには、英語圏のアメリカ、カナダ、英国、オーストラリアから長年、一定 数、来日していることがわかる。特に、アメリカの場合は、1991 年という受け入れ年度の 長さが、合計数の多さとも比例しているだろう。 第三に、短期留学生の出身国の急増である。現在においては、16 年間で 26 カ国となっ ている。2000 年以降に新たに受け入れた出身国を見たときに、中国、韓国、台湾、チェコ、 香港を除いては、1 ~ 4 名程度の学生の少人数となるものの、多様な言語を背景とする世界 各地の大陸からの学生が増えている。受け入れ年度順に出身国を表にすると、以下になる。 表 2 短期留学生の受け入れ開始年度と出身国 受け入れ開始年度 受け入れ国 1991 アメリカ、カナダ、ドイツ 1992 英国、ネパール 1993 バングラデシュ 1995 オーストラリア 1997 パキスタン 1998 インド、フィンランド 1999 タイ 2000 ケニヤ 2001 中国、韓国、台湾 2002 チェコ、香港、デンマーク、スペイン 2003 スウェーデン 2005 マレーシア、ブラジル 2006 オランダ、フィリピン、エジプト、モンゴル

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21 世紀に入ってからは、「英語圏」、「ヨーロッパ」、「東南アジア」と地理的、もしくは 言語別のグループとして多様な国々をまとめていくことがさらに難しくなり、桜美林大学 の短期留学生も世界のグローバリゼーションと同様、多様な出身国からの学生が増えてい るといえる。短期留学生の場合は、留学生の数にかかわらず、出身国の増加は、短期留学 生を受け入れる日本語プログラムの側からすれば、派遣元の教育機関が増加することにつ ながる。ここには、「教育制度の多様性」も内包されることになろう。短期滞在とはいえ、 短期留学生の場合は、母国の教育制度や卒業要件といった制度上の条件や学習観が留学先 に条件として伴うことも多く、学習者としての留学生だけではなく、その留学生の母国の 教育制度、つまり、多様な教育観・学習観とも折り合いをつける必要が出てくる。このよ うなさまざまなレベルでのグローバリゼーションによるダイナミズムが、短期留学生とい う形で大学にも押し寄せ、これが日本語プログラムにも影響をしていることは、明白であ ろう。その時期に「チュートリアル」が現場の教師たちから生まれたということに留意を 促しておきたい。

7.共有概念となった自律学習と学習者オートノミー

授業実践としての「チュートリアル」は、2003 年の出発点から、実践サイクルを連続す ることでさまざまな教師の物語や学生のエピソードを産んできた。また、授業実践の内実 も日本語プログラムと大学内の変遷を経て、確実に変化を遂げている。その一つは、日本 語プログラムの中で、自律学習や学習者オートノミーという共有知識が、日本語プログラ ム内の他の必修と選択授業にも広がっていることである。これも、また、2008 年現在から 見られる新たな「チュートリアル」授業から派生した「自律学習」の発展といえるだろう。 「チュートリアル」に関して、最後に日本語プログラム・コーディネーターの存在に光を あててみたい。2005 年度の 11 月 30 日に桜美林大学内で行われた「特色 GP・現代 GP 応 募公開プレゼンテーション」で当時のプログラム・コーディネーターたちがプレゼンテー ションを行った。その中に出てくるキーワードは、「日本人学生と留学生の交流を目指した シナジー効果」や「グローバル・リテラシー、国際的人材の育成」であり、留学生の多様 化を学内でアピールすることであった。当時の日本語プログラム・コーディネーターたち は、「外国語としての日本語教育」という位置付けではなく、大学内のコミュニティの中で フルに参加をする留学生を想定しており、そうした留学生たちと日本人学生たちとのキャ ンパス内での交流、学び合うことをこのプレゼンテーションで示唆したわけである。 また、実際に、日本語プログラム内で、「ニーズの多様化」「学力の多様化」「学習スタイ ルの多様化」「教育のパラダイム変化」に柔軟に対応できる方向性を模索してきたわけであ

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る。例えば、齋藤・松下(2004)、齋藤(2005)は、もはや一斉授業の形で対処することは困 難であり、また、補完的な個別指導や補習では根本的な解決に至らないことが予想される ことを挙げ、「プログラムの内容」、「教授法のスタイル」、「留学生の学習者としてのイメー ジ」を具体化する必要があるといっている。そのために、自律学習をベースとした「チュー トリアル」といった授業や、上級に行くに従い、留学生個人が自らのニーズを分析し、必 要な選択科目をとれるように、必修科目を見直し、必修科目と選択科目の割合と配分を調 整し直すことで、多様性に柔軟に対応できることを目指したわけである。こうしたプログ ラム・コーディネーターたちの意識が日本語プログラムの姿勢にもつながっているといえ る。 しかし、多様性に柔軟に対応しようという方向性は、日本語プログラム・コーディネー ターたちだけではなく、日本社会全体の変化や世界で進行しているグローバリゼーション の中にある人的移動が、すでに身近に迫った日本語教育全体でも意識されているところで ある。1990 年の入国管理法改正で、日本社会が日系移民を受け入れることを決めて以来、 それまでの、在日韓国・朝鮮人や中国帰国者のオールドカマーと呼ばれる外国籍住民とは、 異なる言語や背景を持つ、多くブラジルやペルーなど南米からの日系人外国籍住民が、日 本国内に定住を開始してから 18 年がたち、新たな「日本語を必要とする」外国籍の人口が 確実に増えているからである。日本社会の変動に伴って、日本語教育も「多様な学習者」 に対応することは急務だという認識がある(岡崎・西口・山田 2003; 日比谷・平高  2005; 春原 2006 ; Fujita-Round and Maher 2008 ;  藤田ラウンド 2008)。 現実として迫った日本国内外でのグローバリゼーションに対応せざるを得ない言語教育 は、新たな「教育」の模索をせざるを得なくなった。これが外国語教育の中でパラダイム シフトとして、現れている(佐々木 2006,2007)。言語を問わず、外国語教育の現場で新 たな「教育」を手探りしているのが実情でもある。その意味では、日本語教育の桜美林大 学の「チュートリアル」授業もその一つであり、他にも流通科学大学の外国語としてのド イツ語教育での実践(板山・森田 2004)、神田外語大学の留学生のための英語教育での実 践(Lee 2008)などもそうであろう。

8.おわりに

「チュートリアルは、学習者個人の個別性と多様性を踏まえて、主体性、自律性を伸ばし ていくための実践(佐々木 2007)」であり、多様な背景を持つ学習者にいかに対応をする かという点では、今後の授業実践からさらなる発展も考えられる。例えば、学習者の個別 を尊重し、柔軟な支援ができ、学習のプロセスを重視する「チュートリアル」授業を新た

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な教授法として捉え、これを教師養成などに役立てることも考えられる。他にも、学習者 と教師、TA、日本人学生のクラスゲスト間で繰り広げられる「自律学習と協働学習」の 有効性など、「チュートリアル」が実践として示唆することはまだまだ存在すると考える。 チュートリアルの担当教師の一人として、私自身の授業実践の関心は、実践の連続体と しての「チュートリアル」は、どのように授業実践の中で「オートノミー」を育成できるか である。先に挙げた学生のエピソードや物語にある、特にKさんのような東アジアの国々 の学校文化を背景とする場合には、「チュートリアル」授業は、学習者オートノミーという 新たな学習文化を実践している空間と映るだろう。学習者オートノミーが学習者にとって の新たな「文化」の学びとなるかもしれない。 多くの、目に見えない学習プロセスが起きる授業実践としても「チュートリアル」は今 後も多くの実践知と経験知を関わる人たちに提供してくれるだろう。 参考文献: 青木直子・尾崎明人・土岐哲編著(2001)『日本語教育学を学ぶ人のために』世界思想社 桜美林大学日本語プログラム「グループさくら」(2007)『自律を目指すことばの学習――さくら先生の チュートリアル』凡人社 岡崎眸・岡崎敏雄(2001)『日本語教育における学習の分析とデザイン』凡人社 岡崎洋三・西口光一・山田泉編著(2003)『人間主義の日本語教育』凡人社 齋藤伸子(2005)「実践としての自律学習――個別対応型日本語授業『チュートリアル』」『第 10 回ヨー ロッパ日本語教育シンポジウム』2005 年 9 月 9-11 日(ベルギー、ルーヴァン・カトリック大学) 齋藤伸子(2008)「大学生の日本語力を上げるには」,『Obirin Today』第 8 号,pp.43-57. 齋藤伸子・松下達彦(2004)「自律学習を基盤としたチュートリアル授業」, 『Obirin Today』 第 4 号 ,  pp.19-34. 佐々木倫子(2006)「パラダイムシフト再考」,  国立国語研究所編『日本語教育の新たな文脈――学習環境、 接触場面、コミュニケーションの多様性』アルク 佐々木倫子(2007)「第 8 章 社会と日本語教育の流れの中で考える」桜美林大学日本語プログラム「グ ループさくら」『自律を目指すことばの学習』, pp.186-193. 写真1・2 2008 年春学期上級チュートリアル、授業の終わりの学習記録記入風景

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津田塾大学言語文化研究所言語学習の個別研究グループ編『ことばを学ぶ一人ひとりを理解する第二言語 学習と個別性』春風社 日比谷潤子・平高史也編著(2005)『多言語社会と外国人の学習支援』慶応義塾大学出版会 春原憲一郎(2007)「学習パラダイムと教育パラダイムの落差」国立国語研究所編『日本語教育の新たな 文脈――学習環境、接触場面、コミュニケーションの多様性』アルク 藤田ラウンド幸世・鈴木理子(2003)「チュートリアルによる学習支援――正規の授業に自律学習を導入 した試み」,『日本語教育学会平成 15 年度第 4 回研究集会予稿集』 藤田ラウンド幸世(2006)「学習者オートノミーを意識した学習環境作り――自律性を育むチュートリア ルと日本語学習リソースセンターの役割とは」『桜美林言語教育論叢』第二号 ,  pp.89-104. 藤田ラウンド幸世(2008)「第 7 章 新宿区で学びマルチリンガルとなる子供たち」、 川村千鶴子編著『「移 民国家日本」と多文化共生論―――多文化都市・新宿の深層』 明石書店 松下達彦(2007)「チームやプログラムとして実践する」,桜美林大学日本語プログラム「グループさく ら」(2007)『自律を目指すことばの学習――さくら先生のチュートリアル』凡人社 三宅若菜(2006)「自律学習を基盤とした日本語授業における教師の役割―――『チュートリアル』の学 習記録から」『桜美林言語教育論叢』  第 2 号 ,  pp.105-115. 森田昌美(2004)「学習者の自律性育成を目標とする初修外国語教育の試み」,板山眞由美・森田昌美編著 『外国車中心の外国語教育を目指して』三修社

Aoki, N.(2008)‘Teacher stories to improve theories of Learner/teacher autonomy’ in Independence (43), pp.15-17. website: http://learnerautonomy.org/articles.html

Dickinson, L.(1987) Self-instruction in Language Learning. Cambridge: Cambridge University Press. Fujita-Round, S. and Maher, J.C. (2008) ‘Language Education Policy in Japan’ in S.May and N.

Hornberger (eds.) Encyclopedia of Language and Education, 2nd edition, Volume 1: Language Policy

and Political Issues in Education. New York: Springer

Lee, A.(2008) ‘The teacher’s role in learner autonomy’in the proceeding of The 34th JALT International

Conference on Language Teaching and Learning, November 2nd, 2008, National Olympics Memorial

図 2 チュートリアル実践と日本語プログラム全体間に互いにフィードバックするサイクルとその連続体 「チュートリアル」は、「自律学習」という概念を発展させたと見ることもできるが、し かし、初めに理論があり、その通りに具現化をした性質のものではない。その意味で、授 業実践を経験知として積み重ね、その連続体が現在の授業形態につながるわけである。言 い換えれば、「チュートリアル」は、6 年度目の現在、授業実践の連続体として、毎学期ご との授業実践から生成された「自律学習」の一つの応用形となったといえるのではないだ
図 3 のグラフは、短期留学生の受け入れ窓口となっている国際交流センターの資料から 作成したものである。これによると、桜美林大学には、1991 年に 12 名の留学生であった のが、10 年後の 2001 年には 42 名となり、21 世紀以降は右肩上がりに増加をしている。こ の急増は、 「チュートリアル」が必要だと感じた現場の教師たちの実感とまさに一致してい るといえよう。2004年には初めて 100名を超えた短期留学生は、以後、130~150名の間を 行き来している。 1991 ~ 2008 年の短期留

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