学苑 No. 953 (51)~(55)(2020・3)
考古学のたのしみ
小 泉 玲 子
はじめに
学生時代,恩師から「君,考古学はアルケオロジーだ よ」と説かれた。考古学は,英語の archaeology の訳語で, 恩師の言葉は,アーケオロジーと歩けを掛けたもの。「自 分の足で確かめなさい」ということで,単なるおやじギャ クではなく(先生ごめんなさい),考古学における発掘調査 の大切さを説いて下さったと理解している。発掘調査は, 地中に埋もれている文化財(文化財保護法では埋蔵文化財と 呼ぶ)を掘り出し,記録する作業である。さらに,掘り出さ れた資料の汚れを落とし,修復し,発掘現場でとった図面を 整理するなどの室内作業を経て報告書という形で成果を公 開する。この一連の作業がセットになっているのが考古学 の発掘調査である。恐竜の骨などを扱う地質学や古生物学, 化石人骨を扱う形質人類学でも同様にフィールドで発掘調 査は行うが,考古学では人間の歴史の解明を目的とする。 発掘調査には,事前調査と学術調査があり,前者は開発 で壊される前に記録を取るため実施されるもので,現在, 日本国内で行われている発掘調査のほとんどが該当する。 後者は学術的な目的のために行われるもので,昭和女子大 学(以下,本学)で実施している調査はこちらにあたる。 おりしも今年度は本学で発掘調査を開始してから 20 周年 の節目にあたる。そのタイミングで本稿執筆の機会を得た ことに感謝しつつ,考古学の魅力をお伝えしたいと思う。1,考古学との出会い
初めての発掘調査経験は,大学 2 年の夏休みであった。 当時は本学で日本文学を学んでいたが,学芸員課程の先生 の紹介で世田谷区の発掘調査に参加することになった。最 初は言われるままに作業をこなすのが精一杯であったが, 土を掘る作業が性に合っていたのだと思う。とにかく発掘 作業が楽しかった。さらに土器や石器を手にした時に,数 千年も前の人が作った物に触れているといった,何とも言 えない感覚に魅了された。調査員の方々が土器片などから 年代や性格を明らかにしている姿にも憧れた。結果,考古 学を学ぶために他大学へ学士入学し,世田谷区で発掘調査 のアルバイトをしながら大学へ行く生活を選択した。 考古学の勉強を始めて最初に参加した発掘調査が野毛大 塚古墳の調査であった。古墳の一部が水道管の交換によっ て壊されるため記録を残すことを目的とした事前調査であ る。野毛大塚古墳は,多摩川中・下流域で最初に形象埴輪 を並べた古墳で,古墳時代中期(5 世紀前半頃)とされてい る。調査当時,全国的に埴輪の研究が活発だった影響もあ り,作業後に有志が集まり埴輪について勉強会を行ってい た。その後,埴輪を研究するようになったのも野毛大塚古 墳との出会いが大きい。最初に関わった遺跡が研究テーマ を決めるきっかけになることは「考古学あるある」の一つ で,遺跡との出会いは時に運命的であったりする。 世田谷区で発掘のアルバイトをする傍ら,他地域や他大 学の調査にも参加していた。新潟県で参加した古墳の調査 (図 1)は,町の公民館を借りた合宿調査で,新潟大学の学 生によって運営されていた。初の合宿調査は何もかもが新 鮮で興味深く,新潟大学の方々の真摯な取り組みを目の当 たりにし,いつか大学で調査をしたいと思うようになった。 栃木県では学士入学先の先輩が研究費で実施に漕ぎつけた 豪族居館(古墳時代の権力者の住まい)の調査に参加した。 限られた予算と日程での調査は,参加者の間でいまだに語 り継がれるほど,生活も調査も過酷なものであったが,そ んな苦労も皆で楽しんでいたようなところがあり,この時 改めて合宿調査の醍醐味を知った。大学で授業を持ち始め た頃,史跡整備を目的とした野毛大塚古墳の学術調査(図 2)が開始されたため,大学の長期休暇を利用して調査員 として参加し,本学の学生も調査に多数参加した。遺体が 埋葬された跡が複数見つかり,都内の古墳の中で非常に残 りが良かったことでも注目された。 海外ではエジプトとベトナムの調査に参加した。エジプ トは,王家の谷・西谷の第 18 王朝(紀元前 14-13 世紀頃) の王墓の調査(図 3)で,主に壁画の状態を記録する作業 を担当した。初の海外調査は言葉も勝手もわからず専門外 でもあり戸惑いの連続だった。王家の谷・東谷(ツタンカ 研 究 余 滴〈エッセイ〉ーメン墓などがある)の墓と同様,墓は地中にあり,斜面の 中腹に作られた入り口から奥へ空間が続いてゆく構造で, 埃っぽくて息苦しい感じには慣れるのに少し時間がかかっ た。発電機が止まってしまったため,電灯が消えて真っ暗 な墓の中に取り残されたこともあった。それでも,今振り 返ると,毎日,触れるか触れないかのすれすれの距離で壁 画を見続けていたあの時間は,夢のように思える。 研究者としては,関わった調査は決して多くないし,そ もそも研究者としてもまだまだである。それでも様々な邂 逅とそこで得ることのできた感動は,考古学に関わったか らこそのものであり,調査の機会が与えられたことは有難 いことだった。上手くいかないことや,辛いことがあって も続けてこられたのはこの感謝の念が何にも勝っていたか らだと思う。
2,中屋敷遺跡について
本学が国内で独自の調査を開始したのは,平成 11(1999) 年のことで,これまで神奈川県,山梨県で学術調査を実施 してきた。ここでは,中屋敷遺跡とその発掘調査の成果を ご紹介する。 中屋敷遺跡は,神奈川県足柄上郡大井町に所在し,本学 の研修宿泊施設である東明学林(以下,学寮)から徒歩で 約 15 分の場所にある(図 4・5)。この遺跡は,昭和 9(1934) 年,現地権者の曽祖父の時代に発見された土偶形容器(図 6・7)で学界に知られることになった。土偶形容器は,宅 地の入り口を広げようとした工事の時に偶然発見されたと 伝えられている。頭のてっぺんが空いていて,胴体は空洞 に作られている土偶の形をした容器で,男女ペアで造形さ れることが多く,農耕儀礼と関係の深い遺物と考えられて いる。中屋敷遺跡の土偶形容器は,ほぼ完全な形で残って いて,乳房,妊娠線,髪型の表現から女性像である。また, 中に人骨粉と歯が入った状態で発見されたことから,一度 埋葬して白骨化した遺体を砕いて入れる(こうした儀礼行為 を「再葬」という)ための蔵骨器であることも証明した。中 屋敷遺跡は標高 95 m の山間部に位置し,西には酒匂川に よって開析された足柄平野が広がる。足柄平野に面した丘 陵上に中屋敷遺跡とほぼ同時期の小集落の痕跡が点在する。 縄文時代の終わり頃,環境の変化により食料難に陥った 人々は小集団に分かれ,分散して住むことで食料を確保し, 生き延びることを選択した。しかし,同じルーツを持つこ とを確認するため,「再葬」の儀礼の時には一カ所に集ま ったのではないか。つまり,集団の象徴的な存在が土偶形 容器ではないかとも考えられている。 中屋敷遺跡は,学界で知られた遺跡でありながら,土偶 形容器以外の詳細は不明な点が多かった。この遺跡の調査 が実現したのは,日本文化史学科(現,歴史文化学科)が大 井町の町史編纂に関わったご縁で,地主さんに発掘調査の 許可をいただくことが出来たからであった。第 1 次調査は, 本学考古学研究会のメンバー 8 名で,学寮での合宿調査か らスタートした。諸般の事情で朝食は自前で賄わなければ ならなかったので,それぞれが米を持ち寄り,寮室でご飯 を炊いて,缶詰のおかずで朝食とした。寮室に集まって朝 食をとっている時はわびしい気持ちにもなったが,第一歩 図 1 新潟県山谷古墳第 2 次調査(1984 年) 図 2 野毛大塚古墳第 3 次調査(1988 年) 図 3 エジプトでの調査(1990 年)が踏み出せた気概を感じていた。こう言えば聞こえはいい が,故櫻井清彦先生や山本博也先生が見かねてカンパして くださるなど,温情にすがって何とか実施できたのが実情 だった。 以後,中断はあったものの,第 11 次(2019 年)調査ま で継続してきた。いずれもその折々,調査の中心となった 学生達の責任感と努力がなければ調査は成し得なかった。 また,地権者のご家族のご理解とご協力なしには成り立た ないことは言うまでもなく,感謝してもしきれない。
3,昭和女子大学の発掘調査
本学の学生の発掘調査について以下に少しご紹介する (図 8)。中屋敷遺跡の発掘調査は,前述のように学寮を利 用した合宿調査である。現在,発掘調査は歴史文化学科の 授業「考古学実習 C」として夏期休暇中に実施している。 この授業は,参加することで単位を取得する学生と,すで に履修済みのため単位とは関係なく参加する学生によって 構成される。第 1 次調査から第 8 次調査までは有志を募っ て実施したため,参加者を集めるのが大変だったが,第 9 次調査からは毎年 40 名ほどの学生が参加してくれるよう になった。12 日間の調査期間のうち,1 年生は前半と後半 に分かれて参加する。また,卒業生で本学非常勤講師でも ある佐々木由香先生にもご指導いただいている(図 9)。 本学の調査の特徴は,勉強会の実施,役割分掌に基づく 組織,しおりの作成,女性のみの運営といった点であろう。 調査参加者には事前に勉強会に参加することを義務付けて いる。主に記録を取るための測量技術,実測図の作成方法 について発掘経験のある 3・4 年生が 1・2 年生にレクチャ ーするもので,6 月から 7 月まで毎週水曜日の放課後を使 図 4 中屋敷遺跡の位置 図 5 東明学林から見た中屋敷遺跡 図 6 土偶形容器 (重要文化財) 図 7 調査区 ●は土偶形容器出土地点 図 8 土坑の調査風景・第 6 次調査(2004 年) 図 9 第 10 次調査後半参加者(2018 年)*白い建物は東明学林って実施している。組織は,総務,遺物係,機材係,図面 係,食事係で構成され,全員がいずれかの係を担当する。 総務は全体を把握するリーダーにあたる。係にはそれぞれ 主任を置き,発掘の作業と並行して,主任の指示のもと係 の仕事を行っている。こうした役割分担やリーダーの存在 は集団生活には不可欠なのだが,リーダーや主任によって 毎年雰囲気が変わるのは面白い。 しおりには,調査目的,タイムスケジュール,持ち物, 係,部屋割り等をまとめている。洗濯は,部屋ごとに輪番 制で全員の洗濯を行っている。個々に洗濯する手間を省き, 洗濯機の数を踏まえての合理的なシステムである。どの部 屋も平等に担当するため,協力して実施してくれている。 学生を主体とする調査のイメージは新潟大学の合宿調査を 参考にしてスタートしたが,全員が何らかの係につくスタ イルやしおりの作成は,本学の学寮研修の経験がベースに あるのだと思う。 このスタイルは,第 2 次調査で完成して以来,代々受け 継がれて今日に至る。女性だけですべて切り盛りしている ことは女子大の調査だから当然なのだが,意外にも全国的 に見るとこれは稀なケースである。第 6 次,9 次~11 次調 査には,他大学の男子学生が 1 名参加している。男子学生 は考古学を専攻する学部生,院生であり,知識ではかなわ ない部分もあるのだが,男性だから,何かをお願いすると いった発想が彼女たちにはないのである。逞しく,頼もし いと思う。女子大学ならでは,の良さを感じる瞬間である。 発掘調査中は,調査区ごとに班編成を行い,上級生が班 の指揮を執る。休憩の合図は総務が,麦茶やスポーツドリ ンクなどの準備,おやつの管理は食事係が担当する。外注 している昼食のお弁当の数をチェックするなど,ライフラ インを担う係である。遺物係は,遺物の取り上げの準備を 事前に行い,取り上げた遺物の管理,遺物台帳の管理を行 う。遺物台帳は出土品のデータを集約したもので調査の成 果と直結するものである。図面係は,図面作成のための準 備を行い,作成した図面に記載漏れがないかチェックする。 図面は作業の記録であり,図面を取り終えると掘り進める 作業が続くため,作業の状況は図面にしか残らない。掘っ てしまったものは 2 度と同じ状態に戻せないため,図面は とても貴重な記録となる。機材係は,調査開始前に,参加 者の人数,作業内容によって必要な機材を集め,搬出でき る状態に整え,調査中はその日の作業に応じた機材を準備 してくれる。 宿舎では,総務が進行役となり,夕食後,毎晩ミーティ ングを行う。調査区の責任者が調査状況,翌日の作業につ いて確認し,係からは全体への連絡事項を伝える。ミーテ ィング後は,係ごとに分かれて作業を行い,作業が終わっ たところから解散,就寝となる。 10 月以降は,世田谷キャンパスで,上級生を中心に整 理作業を行う。土器などを洗って土を落とす作業,個々の 遺物の情報を書き込む作業,割れた破片をパズルのように つなげてゆく接合作業,図面の整理,持ち帰った土坑の土 を洗う作業,機材整理など,発掘調査にかかった何倍もの 時間をかけて作業を行う。この後,調査結果は『概報』や 『報告書』などの印刷物を作成して公開している。
4,発掘調査でわかったこと
本学の調査の成果は,北調査区(図 7)で,22 基の土坑 (どこう: 昔の人が掘った穴のこと)を見つけたことと,この 土坑の中から土器や石器,炭化物(たんかぶつ: 植物が何ら かの理由で火を受け,燃え尽きずに炭の状態で残った物),骨な どの遺物を検出したことである。土器は弥生時代前期(約 2500 年前)の特徴をもち,東海地方や東北地方の特徴を持 つ土器も確認されている。関東地方で,この時期の遺構や 遺物は例が少ないため貴重な出土例となった。さらに土器 に付着した煤の C-14 年代測定で,今から約 2500 年前の 土器(図 10)や土坑(図 11)であることが明らかとなった。 さらに大学へ持ち帰って調べた土坑の土の中から,炭化し たイネ,アワ,キビ,トチノキ(図 12)が見つかった。イ ネとアワの C-14 年代測定を実施したところ,こちらもほ ぼ同時期であることが分かり,現時点で関東地方最古のイ ネの痕跡となったのである。あの時,土を持って帰らなか ったら,場所が少しずれていたらこの成果は得られなかっ た,と考えると,その時々の判断の重みを改めて感じる。 これまで関東では弥生時代中期中頃(約 2300 年前)以降 に水田の痕跡が見つかっていたため,水田稲作はその頃か ら始まったとされてきた。ところが,平成 29(2017)年に は炭化イネの炭素・窒素同位体比分析によって,水稲の可 能性が示され,弥生時代前期には水田稲作が始まった可能 性を指摘することになった。炭化物の同定では,トチノキ やクリ,クルミなどの木の実,アズキやエゴマ,キイチゴ, ヤマブドウなどが確認され,イノシシやシカ(図 13)の骨 や歯,ムササビやカエル,カツオ(図 14)などの骨が見つ かっている。特にカツオは,漁の時期が農繁期と重なるこ とから,遠洋で漁をする専業集団がこの時期に存在してい た可能性を提示することになった。本学の調査は小規模なものであるが,継続してきたことで,情報がゼロだった古 代の人々の生活,とりわけ食材の可能性を具体的に描き出 すことを可能にした(図 15)。まだ一部に過ぎないけれど, 2500 年の時を経ても,利用している食材は現代とそれほ ど変わらないことが分かっていただけると思う。 これまでの中屋敷遺跡の発掘調査の成果は,①関東地方 における稲作の開始が,今まで考えられていた時期よりも 約 200 年早くなることを明らかにした。②稲作導入期にア ワ,キビなどの雑穀の栽培も行われていたことを証明した。 ③トチノキやクリ,クルミなどの縄文的な植物利用も確認 されたことから,人々が伝統的な生活を残しつつも,新し い文化を取り入れて生活をしていたことを明らかにした。 今後は①~③をもとに調査を続け,縄文時代から弥生時 代への移行期における人々の生活を明らかにし,稲作の場 所など,遺跡周辺を含めた土地利用についても明らかにし, 成果を地域史の中に位置付けたい。