院元の卑東刊改問題について
はじめに
院元(一七六四i
一八四九)が王引之(一七六六1
一 八 三 四 ) にあたえた書簡中において、王引之の父である王念孫(一七四四 ー一八三二)晩年の﹁古韻二十一部﹂(最晩年は古韻二十二部)
ω
に、﹃広韻﹄にある漢字を当てはめて配置して出版することを記 した文言がある。この書簡は羅振玉(一八六六1
一 九 四O
)
が 編 集した﹃昭代経師手簡﹄に収録されている。王国維(一八七七1
一九二七)はこの文言を以て院元は古韻の学に明らかではないと 判断し、また王国維のこの見解が後世にまで院元に対する評価と なっている部分がある。後世この件を卑東刊改と称しているが、 確かに中古音の韻書である﹃広韻﹄と、上古音の韻書である﹁古 韻二十一部﹂を混交してしまうことは、特に清代の顧炎武(一六 七 九i
一 七 五 九 ) ・ 戴 震 ( 一 七 二 三i
一 七 七 七 ) ・ 段 玉 裁 ( 一 七 三 五i
一八一五)等の多くの考拠学者の主眼とした経書研究におけ る正確な古韻の復元という立場からすると、全く無意味なことで若
松
信
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九州女子大学共通教育機構 北九州市八幡西区自由ヶ丘一一(干八O
七八五八六) ( 二O
二二年十一月一日受付、二O
二二年十二月十九日受理) あり、如何なる意義があるのか、という不見識の語りは免れない であろう。しかし、実際に院元は古韻の学に未熟であるために、 このような意見を王引之に提示したのであろうか。配元の文集 ﹃寧経室集﹄にある古韻学に言及した箇所をみていくと、院元自 身も王念孫に師事しており、必ずしも院元の古韻学に対する知識 が不正確であったとはいえない部分もある。このようなことが今 までの院元の古韻学の知識を理解する上で、非常に不明瞭な点と なっている。そこで本稿は王国維の発号白から始まる、配元の古韻 学の知識に対する批判・疑問を踏まえた上で、院元が何故敢えて 卑東刊改という問題を起こしたのか。またそこになんらかの深い 別の意図があったのではないか、という点からこの問題に論及し て い く こ と に す る 。一、院元に対する批判の原因 特に須らく至・祭等一一指示すべきのみ。単に大字を窮し、 小字を寓さざれば、数高字に過ぎずして霜成り、舎下に交ふ 院元に対する批判の原因となったものは、 ﹁ 与 王 伯 申 書 ﹂ と い れば之を刻すること甚だ易し。舎下の管事は張茂才(鶴書・ ぅ、王引之にあたえた書簡にある。書簡の数は九通あり、これら 競は琴堂)舎親、之に付さぱ即ち刻す可きなり。
ω
の書簡は羅振玉の﹃昭代経師手簡﹄に収録されている。しかし、 ﹃昭代経師手簡﹄は書簡そのものを影印するのみで、甚だ読みづ この書簡は王国維が嘉慶十年の製作としたことから、劉蹄遂の らくまた書簡の製作年代も確定されていない。ω
二OO
五年に陳 ﹃高郵王氏親子年譜﹄においても嘉慶十年の事としている。ω
し か 鴻森氏が﹁院元奥王引之書九通考稗﹂において全ての書簡の内容 し、この書簡製作年代については、王章涛は王献唐の説に基づき を 考 証 し 、 その年代を確定している。ω
そこで書簡については陳 道 光 十 年 と し 、ω
また、演口富士夫・陳鴻森等が書簡の内容を詳 細に検討した結果、道光十二年以降の製作であるとしている。の 鴻 森 氏 の 論 文 に 従 い 、 その内容をみていくことにする。問題とな ﹁ 古 韻 二 十 一 部 ﹂ に 関 す る 書 簡 は 、 ﹁ 与 王 伯 申 書 一 ご ・ ﹁ 与 王 伯 文中の﹁居郷無事﹂を王引之の父の丁憂と解すれば、道光十二年 る 申書七﹂である。先ず﹁与王伯申書二﹂ の関係個所を紗出してみ 以降がやはり妥当であろう。書簡は院元自身が呉蘭修に﹁古韻二 の出版を依頼したがうまくいかなかったため、王引之に る こ と に す る 。 ( ) 内 は 注 で あ る 。 十 一 部 ﹂ そ の 事 業 を 懲 憩 し 、 その出版については文選楼で行ってもよいと いう内容である。この出版事業は﹁十日にして即ち成る﹂、 古韻二十一部刻字の事は、若し元卑に在らば、十日にして即 ﹁ 之 を ち成るも、今に至るまで杏然たり。呉蘭修事を排じて名有る 刻すること甚だ易し﹂という文言から理解できるように小冊子程 も疲緩し、亦之を催さず。堂中の経解も、若し夏道と厚民の 度のものであろう。問題になるのはここで ﹁古韻二十一部﹂に 緊緊として催排するに非られば、必ず中綴せしならん。(夏 升りて去らば、即ち人の力を出す可き無し。巧巧として刻完 それを行うという院元の意見である。 それについては後述するとして、事の経過を述べるため、次に ﹃ 広 韻 ﹄ を 合 併 さ せ た 形 で 、 うして即ち升る)寄りて思ふに年兄大人此の時郷に居りて事 ﹁ 与 王 伯 申 書 七 ﹂ の関係個所をみることにする。 無し、何ぞ庚韻を牌ひて取り出し、 一教館の人に送りて其れ 排寝せしめざるや。 (字は慶韻の大字の大に似たるを要す) 冬半ば京中の来書に接し、墓銘の己に収到せらるるを知り、冬間己に家郷に到らんことを想ふ。頃ろ卑中の曾創の書に接 中に、録する所の至・祭の二部及び候部入聾表は、即ち此の し、廿一部古韻己に上板せるを知る。冬初前に等語有り。然 譜中より摘出せる者なり。後に定稿を以て院文達公に広東に らば則ち前書の揚に在りて男に刻さんと欲するは、必ずしも 寄す。故に遺書中僅かに初稿有りて、二十一部完具すると雄 も、然れども録する所は許書の二十分の一に過ぎざるのみ。 せざるなり。曾公の書内にまた云ふ、風・克等の字の知きも 亦須らく提出すべきも、究に其の提する所を知らざる者、若 此の書文達卑東に在りし時刊行を矯さんと擬すも、未だ幾ば 干 の 字 あ る な り 。 と 。
ω
くならずして卑より去る。市して稿本は尚ほ皐海堂に留ま 陳鴻森氏はこの書簡を官頭の文言から道光十三年の冬としてい る。文達嘉慶乙丑に於いて雲南由り文簡に札を致して云ふ (中略)此の書の卑中の刻の成と否とは、知る可からずと雄 る。院元の著した王念孫の墓誌銘を王引之が受け取ったことと、 も、即ち刻成せしむれば、 乃ち此の撃を知らざるの人を任 広東の曽剣から配元に送られてきた手紙の内容が記されている。 じ、終に表中の諸字意に任せて出入せんとす。不刻の愈る 書中の﹁廿一古韻己に上板せるを知る﹂については、陳鴻森氏は 卑で曽剣が﹁古韻廿一部﹂を成書に近い状態にまで仕上げた。と 解 し て い る 。ω
続 く に如かず。文達此の事に於いて全く償償に属するを知る可 し。文簡此の書を得て如何なる答へを作すかを知らざるな り。又第一札は文簡に慶韻を牌ひて取り出し、 ﹁前書の揚に在りて男に刻さんと欲するは、 一 教 館 の 人 を 必ずしもせざるなり﹂という文脈と、周知の如く院元によるこの して排寝せしめんことを勘む。此の事亦何ぞ容易なるや。然 れども此れに因りて先生の此の譜の家中に別に副本無きを知 る。先生父子残後、遺稿は第三孫の忠介(害同)の所に在 書の出版は無かったことから考えると、版木に刻む寸前の状態に 近かったのかもしれない。またこの出版事業の依頼を前述の呉蘭 修から曽剣に変更しているのが分かる。この二通の書簡が院元が り。道光季年鄭牒の王膜軒(梓材)忠介の家に館し、補二 王引之に与えた﹁古韻二十一部﹂関する書簡である。 十一表を属し、詩経韻譜の首に冠す。艦軒は史撃を治め、徐 王国維のこれに対する有名な批判を以下に挙げる。 星伯・張石船の諸公と遊ぶ。 又宋元皐案を補ひ、時に名有 り。然れども此の撃の於いては賓に未だ先生の堂に升る能は の諸韻譜中、最も切要なるは説文譜聾 ず。其の至・祭二部及び侯部入聾に於いては、均しく先生 先生(王念孫のこと) 譜矯り。先生恒に奉げて以て人に示す。李許粛方伯に致す書 の 原 譜 を 用 ひ ず 。 又原譜の瞳例を用ひず。蓋し未だ先生の此の譜は説文の震に作るを知らず。其の書教館の人をして庫韻 訓話手続きを高く評価するとともに、 それが院元に由来する に照らして排寝せしむる者と視べて、未だ之れ能く愈らざる として院元も高く評価する。ところが孫玄常﹁王念孫︽爾雅 なり。鳴呼、文達の通博を以てするも、先生の撃に於いては 尚隔膜あること此の如し、則ち他又何ぞ責めん。附 郭 注 ( 疏 ) 刊 誤 ﹀ ﹀ 札 記 ﹂ で は ﹁ 院 元 は 音 韻 に 疎 く 、 し た が つ てその門から出た赫蕗行の疏証は王念孫によって訂正される (中略)とした部分には先の院元の二通の書簡が引用されるので 点が多かったのも当然である﹂とあり、 す る 。 間 王国維の見解と一致 あるが、徒に冗長になることを避けるため略した。王国維の院元 書簡の製作を、嘉慶十年に比定する説は誤りであることは定説に つまり院元の音韻に対する評価は陳謹の如き見解もあり、 一 概 に なっている。しかし、王国維の院元にたいする﹁文達此の事に於 無知であったとはいえない部分がある。演口論文では続いて院元 ﹁文達の通博を以てするも、先生の学に於 いては尚隔膜あり﹂という評価は肯定的になっている感があり、 粛軍・孫玄常等もこの説に賛意を表している。
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演口氏の論文で い て 全 く 憤 憤 に 属 す ﹂ 、 の﹁武進張氏譜声譜序﹂にある以下の知き院元の音韻に対する文 言に対し別人のごとくであるという。間 はこの点について客観的に記述している。 其の言に日く、今の二百六部を讃む者は(少なし。之を古に すなわち王念孫の二十一部は﹃説文解字﹄それ自体のもので 求むれば、既に合はず。以て今に示せば則ち未だ暁らずし て、徒に)之を牽引し、之を分割するは、甚だ謂はれ無きな あるにもかかわらず、配元が意図したものは、﹃広韻﹄所収 り。今故に奉るも之を空しくす。詩を以て韻を求め、佐くる の漢字を古音分部表に配置しなおすことであった。これは近 に易・屈を以てす。韻を以て部を分ち、部を以て聾を類し、 音の音理体系とは明確に一線を画したうえで古音の分部を解 聾を以て説文の字に譜ふのみ。張氏の此の説奇にして法あ 明 し た と し て 、 その意義を強調した王念孫の意図を完全に無 り、説文の聾を審らかにすること亦細やかなり。以て未だ韻 視した組替えであり、実に﹁古韻廿一部﹂ の破壊でしかない 書の時の本来部居有らざるを見るに足る。凶 と見倣すのである。 しかし院元の音韻の認識に関する評価 は、たとえば陳浬は郁蕗行の﹃爾雅義疏﹄の古音を応用した しかも、院元が序文で引用した﹃説文譜声譜﹄の文章の前文をみると﹁諸家の慶韻を以て標目し、其の合はざるは、割裂して之を 分つ、是れ其の虚目を取るなり﹂聞とあり、此の書の﹃慶韻﹄に 対する考えがより鮮明にみてとれる。院元は張成孫のこの姿勢に 十九・幽二十・宵二十一。之を群鰹・楚僻に案じて、斬然と して素れず。其の至・祭・童・絹を分ちて四部と属すや、則 ち更に顧・段諸家の未だ及ばざる所にして、陸法言の未だ析 た ざ る 所 の 者 な り 。 間 賛 意 を 示 し 、 一方では﹁古韻二十一部﹂を﹃広韻﹄に合わせて出 版しようとする。この矛盾を漬口氏はこの序文を書いた道光十七 年の時点において﹁これは院元が王年孫の﹁与李方伯書﹂を研究し この墓誌銘をみると、院元は親しく王念孫より古韻の教えを受け たことによって、今音を排除して﹃詩経﹄の押韻に徹底した考古 の立場を理解したからなのであろうか﹂仰と推測しているが、実 際に院元はここに至るまで﹁古韻二十一部﹂を理解できなかった た こ と が 理 解 で き 、 また恰も﹁古韻二十一部﹂も理解しているが 如くである。となれば院元の ﹁古韻二十一部﹂と﹃広韻﹄に合わ せて出版するという企画には、単に院元が古韻に対して無知で のであろうか。しかも玩元は道光十二年頃作の ﹁ 王 石 膿 先 生 墓 誌 あった。というより別の意図があったのではないかと考えられな 銘﹂に次のように記している。 い だ ろ う か 。 乾隆丙午京に入りて先生に謁す。先生の撃は精微慶博にして 二、既元の文章論 元に語る。元能く其の意を知り、先生遂に築みて以て教へを 属す。元の精く聾音・文字・訓詰を知るは、先生より得るな り。(中略)古音は顧氏・江氏・戴氏より皆考正有り、金壇 前述の問題について考察していく前に、少々視点を変えて院元 の文章に対する考えを概観してみる。そうすることで前章におけ の段氏十七部に分ちて益々精と震る。段氏支・之・脂を分ち て三部と属すや、前人の未だ護せざる所を載す。先生も昔亦 る疑問に何らかの形で接近できるかもしれないからである。 い
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までもないことであるが、配元は文選学の大家であり、餅文の名 同見此れに及ぶも、段氏の書先に出づ、遂に作を轍む。然れ 手である。特に文選に対する傾倒ぶりは世に知られている。 南 ども先生の分つ所は、乃ち二十一部、東一・蒸二・侵三・談 宋淳照貴池尤氏本文選序﹂には幼い時から文選を学習した様子が 四・陽五・耕六・員七・語八・元九・歌十・支十一・至十 記 さ れ て い る 。 二・脂十三・祭十四・童十五・絹十六・之十七・魚十八・侯克幼くして文選の皐を矯すも、世にして未だ其の理に精熟す らばざる所、其の例己に明らかに文選の序に著はすものな る能はず。然れども誰文脱字時時校して之に及ぶ。昔元の張 り。桂苑珠叢久しく亡侠し、間々他書に引かる。其の書諒 伯顔・明の菅府の諸本を得て、即ち秘加と属す。嘉慶丁卯、 に 部 居 有 り て 、 小皐訓話の淵海馬り。故に惰・唐聞の人の 始めて昭文呉氏より南宋尤延の本を得、無上の古加と属す。 (中略)元の家揚州の奮城文選巷に居す。即ち惰の曹憲の故 書に注するに、引据便にして博なり。元幼時文選の皐を矯 す。既にして経籍纂詰二百十二巻を属すは、猶ほ此の志な り。此れ元の嚢日考へる所なり。間 里、李崇賢の文選の撃を惇へて選注を属すに由る所の者な り。元既に文選棲を家廟の南方に構へ、継いで此の加を得て、 之 を 棲 中 に 離 す 。 側 近藤光男氏は院元が﹃桂苑珠叢﹄に代わるものとして、幼時より 治めた文選墜を生かし、﹃経籍纂詰﹄を作ったと述べている。 そ 他に﹁揚州惰文選楼記﹂には以下の如く記す。 のことから﹁配元の文選学には揚州惰文選楼以前に杭州における ﹃経籍纂詰﹄のあることを忘れてはならないこととなる﹂仰と、配 元の﹃経籍纂詰﹄編纂の動機には文選学の影響する所頗る大で あったことを指摘する。またこの文中にある﹁古文・小学と調賦 元謂へらく古人の古文・小撃は調賦と源を同じくし流れを共 にす。漢の相如・子雲の如きは深く古文・雅訓に通ぜざる は無し、惰の時曹憲江准の聞に在り、其の道大いに明らか と源を同じくし、流れを共にす﹂という文言から李貴生氏は院元 にして、馬・揚の撃、文選に侍へらる。故に曹憲既に雅訓 は小皐と調賦が同源であり、この二つが密接な関係であると認識 に 精 し く 、 又 選 撃 に 精 し 。 一群に侍へ、公孫羅等、皆選注 有り。李善に至りて其の成を集む。然らば則ち曹・親・公孫 また、李貴生氏はこの認識は他に﹁西湖詰経 精舎記﹂にも窺えるという。削この文には﹃経籍纂詰﹄編纂の主 旨も含まれるので、その部分から引用してみる。 し て い た と 指 摘 し 、 の注、半ば李善の注の中に存す。(中略)唐人の文を属する に、尚選撃に精し、 五代の後乃ち之を療棄す。昭明の選例 は、沈思翰藻を以て主と矯し、経・史・子の三者は皆選ば 聖賢の道は鰹に存す。経は詰に非られば明らかならず。漢人 ざる所なり。唐・宋の古文は、経・史・子の三者を以て本 の詰は、聖賢を去ること尤も近きと矯す。之を響へれば越人 と属す。然らば則ち韓国家の諸人の取る所、 乃ち昭明の選 の語言は、呉人能く之を排ずるも、楚人ならば則ち否らず。
高曽の容瞳は、祖父之を見るに及ぶも、雲初ならば則ち否ら 曇に戴東原庶常・朱笥河皐士、皆侍注を纂集して以て皐者に 示さんと欲するも、未だ編を成すに及ばず。吾師雲憂先生、 ず。蓋し遠き者の見聞は、終に近き者の賓に若かざるなり。 元少くして皐を属し、宋人より始む。宋よりして唐に求め、 孫淵如編修・朱少河孝廉と共に之を成すも、亦未だ果たさ 豆田・鶏に求め、漢に求め、乃ち愈々其の賓を得。嘗て古人の ず。先生漸江に督撃たるに及び、乃ち僅例を手定し、韻を逐 凡そ二年の久し 詰散じて稽へ難きを病むなり。漸江に督撃たりし時に、諸生 ひて増放し、線て名流を葉め、分書類輯し、 を西湖孤山の麓に衆め、経籍纂詰百有八巻を成す。 ( 中 略 ) き を 歴 て 、 一 百 十 六 巻 を 編 成 す 。 一韻を展ベて衆字畢く備は 一訓を尋ねて原書識る可し。 漢の相如・子雲、百代に文雄たる者も、亦凡将・方言に由り り 一字を検して諸訓皆存し、 て、経の詰に貫通す。然らば則ち鰹を舎ける文は、其の文質 所謂六萎の鈴鍵を握り、九流の揮奥を廓く者なり。 ( 中 略 ) 無し。詰を舎きて鰹に求むは、其の賓ならず。文を馬る者、 後の是の書を覧る者、撃空妄談の病を去りて、古を考へ、古 尚以て経の詰に昧かる可からず。況や聖賢の道をや。間 人の惇注を取りて、其の聾音の理を得。以て其の然る所以を 知るも、惇注の未だ安からざる者は、 又能く博く前訓を考 る こ の ま 文 た に 文 お の い 終 γ
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如 岩 や 世 担 と謹訓
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豪 対 も す 訓 る 詰 信 学 頼 に が 精 窺 通 え へ、以て之を正さば、古の聖賢の著書の本旨を停ふ可く、且 つ吾師の是の書を纂するの意を失せざるに庶らんか。凶 していた点を記す。李貴生氏はこの部分を以て院元が﹃文選﹄を 文献材料として軽視できないものであると捉えていると述べてい る。側つまりは﹃文選﹄も訓話において貴重な文献という位置づ けであり、しかも訓詰学は文章を作る点でも重要なものであると これをみると経解の点ばかり強調され作文の点からの言及はない。 ともあれ﹃経籍纂詰﹄は古訓を調べるに便であり、字書としても機 能し、利用できるものである。当然であるが梁啓超が﹁古訓を調べ いう認識である。これらのことから考えると﹃経籍纂詰﹄には経 るには便利な類書であり、韻によって編次しているが、目的は韻 学の研究ではない﹂聞というように古韻学そのものを研究発展さ せるといったような性質の書物ではないことはいうまでもない。 解のみならず、作文の見地からの利用も意図されていたのではな いだろうか。院元の弟子である王引之の ﹁経籍纂詰序﹂に記す所 は以下の如くである。 次に院元の文章論が一体如何なるものであったのかをみてい く。ここで賛言するまでもないが、院元は道光期の耕体文の大家その餅体文に対する文章論は有名な﹁文言論﹂・﹁文韻 孔子用韻比偶の法を以て、其の言を錯綜して、自ら名けて で あ る 。 論﹂に顕著に表明されている。先ず﹁文言論﹂に述べる所を見て 文と日ふ。何ぞ後人の必ず孔子の道に反して、自ら命じて い く 。 文 と 日 ひ 、
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つ之を尊びて古と日はんと欲するや。側 古人簡策を以て事を侍ふる者少なく、 口舌を以て事を停ふる 院元は﹃易経﹄の孔子作といわれる﹁文言伝﹂を以て文章の祖で 者多し。目を以て事を治むる者少なく、 口耳を以て事を治む あ る と 述 べ 、 その修辞法である韻と偶を用いたものこそ文章であ る者多し。故に同に一言を属すも、轄じて相語を告げて、必 る と い う 。 つまり、ただ単に千言寓字書き綴ったとしても、それ ず懲誤有り。是れ必ず其の調を寡くし、其の音を協せ、以て は文章とはいえないのである。韻と偶を用いる文は当然の帰結と く 其 の 且 言 つ を 方 文 言 り 俗 人 語 を を し 其 て の 詞間 請
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ば集
して耕体文となる。続いて ﹁文韻論﹂における院元の耕文論をみ ることにする。文は息子の院福との問答の形をとっている。 始めて能く意を達し、始めて能く遠くに行はる。此れ孔子易 に於いて文言の編を著す所以なり。古人の歌詩・蔵銘・諺 語、凡そ有韻の文は、皆此の道なり。爾雅稗訓は訓蒙を主と 福岡ふて日く、文心雌龍に今の常言に、文有り筆有り、以て 無韻の者は筆なり、有韻の者は文なりと属すと云ふ。此れに し、子子孫孫以下、韻を用ひる者三十二候なるも、亦此の 擦れば、則ち梁の時の恒言に有韻の者は、乃ち之を文と謂ふ 道なり。孔子乾坤の言に於いて、自ら名けて文と日ふ、此れ 可きも、昭明の文選に選ぶ所の文は韻脚を押まざる者甚だ多 し 、 何 ぞ や 。 千古文章の祖なり。文章を属す者、音を協せ以て韻を成し、 日く、梁の時の恒言の所謂韻とは、固より韻脚 調を修め以て遠きに達し、人をして請し易く記し易からしむ を押むを指すも、亦兼ねて章句中の音韻を謂ふ。即ち古人の ることに務めずして、惟軍行の語を以て従横恋捧し、動もす れば輔ち千言寓字、此れ乃ち古人の所謂直言の言・論難の 言ふ所の宮羽、近人の平灰なり。福田く、唐人の四六の平灰 は、梁以前に論ずる所に非ざるに似たり。 日く、此れ然ら 語を知らず、言の文有る者に非るなり、孔子の所謂文に非る なり。文言の数百字は、幾ど句句に於いて韻を用ふ。(中略) ず 。 揚、詠嘆聾情、皆音韻宮羽に合する者有り。詩・騒而後、皆 八代韻を押まざるの文は、其の中に奇偶相生じ、頓挫抑 然らば則ち千古の文は、孔子の易を言ふより大なるは無し。 然らざるは莫し。(中略)是を以て聾韻流蝿愛して四六と成るも、亦祇章句中の平灰を論ずれば、復た脚韻を押むこと有ら る な り 。 間 ざ る な り 。 四六は乃ち有韻文の極致にして、之れを謂ひて無 韻の文と属すを得ざるなり。昭明の選ぶ所の韻脚を押まざる の文は、本より皆奇偶相生じ、聾音有る者は、所謂韻なり。 ﹁ 文 韻 論 ﹂ の発言は前の ﹁ 文 4 一 一 口 論 ﹂ を さ ら に 敷 街 す る 内 容 と な っ ている。これは院福が﹃文心雌龍﹄にある﹁無韻は筆なり、有韻 休文の斡りて細川めて獲ると属す所の者は、漢・親の音韻は、 は文なり﹂を引き、﹃文選﹄に韻を押まない文が多いのはなぜか。 乃ち無心に暗合すと謂ふも、休文の音韻は、乃ち多く意匠に という質問に対して答えたものである。近藤光男氏によると院元 出づるなり。宣に漢・規以来の音韻は、其の本原を湖れば、 は無韻とは韻律に協わないもの、有韻は韻律に協うものとしてい る側という。そして﹃文選﹄は韻律に協った文を採録していると 判断する。所謂文の淵源は﹁文言伝﹂にあるといい、文章とは餅体 亦久しく鰹より出づるを知らんや。孔子自ら其の易を言ふも のを名けて文と日ふ。此れ千古の文章の祖なり。文言は固よ り韻有り、而して亦平灰聾音有り。(中略)綜べて之を論ず れば、凡そ文章は聾に在りては宮商を矯し、色に在りては翰 藻を属す。即ち孔子文 4 一 一 口 の 雲 龍 風 虎 の 一 節 の 知 き は 、 乃 ち 千 古 宮 商 翰 藻 奇 偶 の 祖 、 文を以て正統であるとする。しかも唐時代の餅体の模倣は容易で あるが、漢・貌以上の時代の模倣は至難であると述べる。ここで興 味深いのは院元の餅体文の製作者としての視点から述べる、漢・ 一朝一夕の故に非ずの一節は、乃ち千 現以上の文体の模倣についての発言である。これが卑東刊改事件 古嵯歎成文の祖、子夏の詩序の情文聾音の一節は、乃ち千古 の動機になったと考えられないであろうか。つまり男東刊改の原 聾韻性情排偶の祖なり。五ロ故に日く、韻とは即ち聾音なり、 聾音は即ち文なり。然らば則ち今の人の便とする所の車行 因は院元の文章観にあったということにならないであろうか。 の文、其の奥折奔放を極める者は、乃ち古の筆にして、古の 三、何故院元は耳東刊改を行おうとしたのか 文に非ざるなり。沈約の説、或ひは横に指さして八代の衰瞳 と属す可きも、孔子・子夏の文瞳、宣に亦衰へんや。是の故 再びここで卑東刊改の問題に立ち戻る。院元がこの作業を行う に唐人の四六の音韻は、愚者と雄も能く之を穀ふも、 上 は にあたり、最初に依頼したのは呉蘭修であったことは前述した。 杏・梁に糊りては、中材己に限る所あり、漢・親以上より、 そしてこの問題に関して必ず言及されるのが、﹃翠経室続集﹄三 巻の収載される﹁与学海堂呉学博蘭修書﹂である。この書簡には 孔・卜に至るが若きは、此れ上哲に非ざれば擬する能はざ
院元の意図が明瞭であるため敢えて全文を妙出してみる。()内 騒を極め、豪苦を剖析す。但に段氏より密なるのみならず、 更に陸氏より密なる者有り。予屡慶韻に併せるに古韻分部 は 注 の 文 で あ る 。 を以てし、漢以上の文章節賦を擬する者に於いて取りて之を 用ふるに便ならしめんと欲するも、未だ之が計を属すに暇あ 陸濠言等の四聾韻を定め、二百六韻と属して後より、唐人詩 賦を作り、窄を井せて寛と馬し、沿ひて今に至まで紙一百六 らざるに迄る。拳海堂中年兄、深く古音を撃す。易ぞ段氏に就 韻のみ。今韻を以て今の詩文を震るは則ち可なり。若し古詩 きて之を精審して進みて王氏の撃を以てせざるや。定めて古 賦を作りて今韻を用ひるは、今ならず古ならず、識者之を晒 はん。唐・宋に至りて以来、濁用適用、浅人の属す所、己に 韻廿一部を矯さば、華経・楚併を以て之を根抵と属し、之を 園範と馬さば、隔部臆用の謬無きに庶らんか。或ひと日く、漢 依操鮮し。或ひは且つ臆ふに時俗の土音を以し、動もすれば 音の文章の韻、己に此の圃範より出づる者有らば、奈何ぞ此 甑ち凱用するは、直に元人の劇曲の韻を以てするに似たり。 唐人に擬して律賦を嬬らんとすれば、更に今の一百六韻に知 かざるなり。量に音韻・家文・訓話に明らかならずして、能 れを以て之を限らん。答へて日く、漢・菅の文章、杏・梁の韻 は、寛なりと雄も、之・支・脂等の韻は、未だ曾て通雑せず。 若し漢・晋の文僻を拳びて、更に能く此の漢・晋以上の韻を く上は相如・子雲に擬する者有らんや。(即ち昌禦の進撃解 謹守し、法を上に取り、乱韻を接め、之を正しきに反へさば、 の韻の知きは、無法を臆用す。世に其の謬を知る者宰なり) 然らば則ち牌に奈何にせんとす。因りて古韻の分合を思へ 更に善からずや。況や今韻一百六韻を以て、井せて廿一部と 属すをや。己に寛の至りなり。皐者も亦何ぞ俸りて此の韻を ば、近ごろは惟金壇の段氏若庸の六書音均表十七部のみ善 用いざらんや。年兄再び堂中の林・曾・楊の諸子と商権寓定 と属す。之・脂・支・晴の四韻の如きは、唐人皆井せて四支 合用と属す。執か華経・楚僻皆三部を分断し、絶へて相混は することを試みよ。(即ち廿一部の至・質の知きは、須らく各 字を牌ひ提摘して出して、彼の韻の字を耐去すべし)即ち堂 らせず、文選も亦分ちて通用せざるを知らんや。高郵の王懐 祖先生、六書の音韻を精研し、古音の一書を著さんと欲す 中の莱板に在りて帳を成すベし。数寓の大字に過ぎざれば、 即ち皐古の士に嘉恵すぺし。予老いると雄も亦之を観ること を 得 る を 梁 み 、 且 つ 家 郷 の 子 弟 に 分 受 せ ん 。 庚 寅 閏 月 。 側 も、段氏の成書に因りて、遂に筆を綴む。(余三十年前即ち 此の論を聞く)然れども其の廿一部に分つは、甑めて詩
この書簡は庚寅とあることから、道光十年に記されたことがわか り﹂という考えからこれを﹁擬する﹂ことが実践可能であるとす る。﹁与王伯申書二﹂より二年前である。また陳鴻森氏の ﹁ 院 元 る方法を模索していたのではないだろうか。 寧経室遺文輯存﹂には王献唐著﹃顧黄書寮雑録﹄所収の 七古音序﹂を収録している。側﹁段氏十七古音序﹂の主旨は﹁与学 海堂呉学蘭修書﹂とほぼ同様であり、またこの書簡が道光九年の ﹁ 段 氏 十 この﹁与学海堂呉学博蘭修書﹂に述べられた院元の意図に関し て陳鴻森氏は﹁与王伯申書一ごにおいて院元が﹁十日にして即ち 成る﹂と記したことから、あまり重視しておらず、単に漢代以上 の文章を模作するためだけの俗学のような書と捉えている。
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逆 に李貴生氏は院元の議論は現在からみると迂遠であることは免れ 作であることから、配元が王念孫の ﹁古音二十一部﹂を入手する 以前は段玉裁の﹁十七部﹂を以てこの企てがあったことが理解で きる。側﹁与学海堂呉学博蘭修書﹂の内容をみると﹁今韻を以て今 ないが、このような思想は当時の考証学者の考古求実精神の一種 の詩文を罵るは則ち可なり。若し古詩賦を作りて今韻を用いる は、今ならず古ならず、識者之を晒はん﹂とあるように、院元も の体現であるといい、また考証学を文学の範曜にまで貫徹しよう とした、と述べる。聞配元にとって﹁古韻二十一部﹂の基づく韻 書の出版は、李貴生氏の指摘するが如く清代考拠による古韻学を 上古音と中古音の相違を認識していたことがわかる。 では院元は 何故敢えて後世卑東刊改といわれるような問題をおこしたのであ 基盤とした文学的営為にほかならなかったであろう。院元の﹃寧 それはこの書簡にあるように段玉裁の 王念孫の﹁古音廿一部﹂により明らかになった古韻の音韻体系を 経室集﹄の自序には以下の如く記している。 ろ う か 。 ﹁ 六 書 音 均 表 ﹂ 、 ﹁予屡贋韻に併せるに古韻分部を以てし、漢以上の文章 余三十年以来、説経・記事、之を書に筆せざる能はず。然れ 応 用 し 、 す 齢 」 賦 と を 記 擬 す す 知 る く、者署
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め b に し ほ め か ん な と ら 欲 ども其の文選の序の如く所謂事は沈思に出で、義は翰藻に踊 する者を求むるも甚だ鮮し。是れ之を文を属すと稽するを得 なかった。このような書物を作成することにより文章製作者は古 ざるなり。今余年六十に届く。自ら奮峡を取り、児子輩に授 韻 を 正 確 に 理 解 し 、E
つ韻律や押韻においても、 より完全に漢以 け重ねて編し之を寓さしむ。分ちて四集と属し、其の一は則 前の音韻体系に基づく文章を製作することが可能になると判断し ち説経の作、買・邪の義疏に擬するも、 己に僧と云へり、十 ﹁漢・親以上よ 四巻。其の二は則ち史の作に近し、八巻。其の三は則ち子の た の で あ る 。 つまり院元は﹁文韻論﹂ における り、孔・卜に至るが若きは、此れ上哲に非れば擬する能はざるな 五 巻 。 凡そ四庫の書の史・子の雨途に出づる者 作 に 近 し 、は、皆之に属し、之を無文と言ひ、惟其の事を紀して、其の 韻﹄をそのままに古音に組み入れようとする無謀さへの批判が含 意を達するのみ。其の四は則ち御試の賦及び耕瞳有韻の作、 まれており、これは、王国維が院元を﹁全く無知である(全属憤 憤)﹂とした見解と重なる﹂側とある。しかも方東樹は﹁今の用に 施さんと欲するに非ず﹂とあるように配元の意図を正確に見抜い 或ひは古人の所謂文に近き者有るか。然れども其の格も亦己 に 卑 し 、 凡 そ 二 巻 。 附 た上で曽剣に忠告しており、他の多くの人々も概ねこのような見 ﹁古人の所謂文に近きもの有るか﹂という文言は謙 解であったと考えられる。 これをみると 遜ともとれるが、院元が何知に文章に意を用い、 より完壁な有韻 院元の依頼に対し曽剣は有名な道光十五年の院元宛書簡﹁院雲 餅体の文章を目指していたかが理解できる。 台相国に上る書﹂において次のように言っている。 呉蘭修がこの依頼を果たせなかったため、曽創がこの事業を請 け負うことになったことは前述した。此の時曽創の友人であった 秋伸、李孝廉能定京師より還り、江君の韻書・王氏の二十一 部韻表を頒護し、井せて二十一部韻稿本を榔回するに奉到 す。訓諒詩語、感侃に勝へず。
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方東樹は曽剣に次のように忠告している。 儀徴の院相園深く其の説を題とし、因りて吾友南海の曾君勉 士に属して、其の類例に依りて二十一部古韻を作らしむ。余 これをみると曽剣はこの時点で稿本を作成していることがわか 聞きて之を疑ひ、吾友に誌げて日く、凡そ古音を求むる所以 る。ここにある﹁王氏の二十一部表﹂については、演口氏はこれ を王念孫の﹁二十一部韻表﹂とし側、陳鴻森氏は既に刊行されて いた王梓材の﹁二十一部韻表﹂としている。側がどちらであるか は判然としない。陳鴻森氏の指摘する所によれば、年代は不明で の者は、牌に以て古経の音を誼せんとして、以て今の用に施 さんと欲するに非ず。有くも鰹の音既に得れば則ち止む。必 ずしも古を尊びて今を卑しむるに非ざるも、持きを以て有く も 難 し と 揺 す な り 。 間 あるが﹁段氏十七部古音序﹂ の後の識語において二十一部が完成 方東樹が何故曽剣にこのような忠告をしたのかという点につい しないのであれば、十七部でも十分であると考えていたようであ る。側結局この一連の事業は院元の熱意にもかかわらず、完成す て、漬口氏によると ﹁古音分部との体系の差異に無自覚に﹃広 ることはなかった。陳鴻森氏はその熱意の減退の原因を院元の老齢によるものとしている。削しかし、ことの成否はともかく、こ は文学鑑賞だけに止まらず、文章製作者としての力量が要求され れにより結果として後世院元は古韻に関して全く無知である、 るのは当然である。要するに院元は ﹁文韻論﹂に述べる ﹁ 宣 に と いう評価を受けることになってしまうのである。 漢・規以来の音韻は、其の本源を湖れば、亦経より出づるを知ら んや﹂という認識の本に、 ﹁与学海堂呉学博蘭修書﹂に﹁漢以上
おわりに
の文章辞賦を擬する者に於いて取りて之を用うに便ならしめんと 欲す﹂また﹁若し晋・漢の文辞を学びて、更に能く漢・晋以上の 以上所謂卑東刊改の顛末を概観してみたが、前述した道光十年 韻を謹守し、法を上に取り、乱韻を按め、之を正しきに反せば、 ﹁与学海堂呉学博蘭修書﹂において ﹁今韻を以て今の詩文を矯 更に善からずや﹂と述べる如く、古韻学を応用してより古形の有 韻の文章製作を目指したことが理解できる。従って卑東刊改の問 の るは則ち可なり。若し古詩賦を作りて今韻を用いるは、今ならず 古ならず。識者之を晒はん﹂とあり、 また﹁段氏十七部古音序﹂ にもほぼ同様の文言があることから考えると、王国維の言う如く 題は配元の古韻に対する無知によるものではなく、院元の文学的 視座により生起した問罵たと考えられる。 院元は古韻学に全く無知であったとは考えにくい。むしろ古韻学 に対してある概ね理解していたと考えるべきではないだろうか。 注 それは﹁武進張氏譜声譜序﹂における院元の発言が、道光十三年 以降道光十七年までの期間に﹁古韻二十一部﹂ の理解を深めたと ( 1 ) 陳鴻森 ﹁院元刊刻︽古韻廿一部︾相関故賓排正兼論︽経 むしろ配元の従来よりの古韻における理解の程度を示 義述聞︾作者疑案﹂﹃中央研究院歴史言語研究所集刊﹄第七 ﹁ 然 則 王 ・ 庇 二 す る よ り 、 唆するものと考えるのが自然ではないだろうか。 つまり配元は古 十 /、 第三分所収 二OO
五年 四四七頁 韻学を理解しながらも、敢えて卑東刊改の挙に及んだ。そこには 純粋なる古韻学とは別に、院元の﹃文選﹄に依拠する文学者とし 氏、終王念孫之世、寛不知其古韻分部道光元年己改分二十二 部﹂とあり、院元・王引之は最晩年に王念孫が、古韻二十一 ての思想的立場がそうさせたと考えられる。餅体文の文章家であ 部から二十二部に改めたのを知らなかったらしい。 ﹁ 文 言 論 ﹂ ・ ﹁ 文 韻 論 ﹂ を み る と 、 る院元の文章論である その立場 がより明瞭に看取される。賛言するまでもないが当時の文学研究 ( 2 ) 羅振玉 ﹃ 羅 雪 堂 先 生 全 集 ﹄ 五 編 ( 十 一 二 ) 台 湾 大通書局有限公司 ( 3 ) 陳鴻森 ﹁院元輿王引之書九通考稗﹂﹃中国典籍輿文化論叢﹄ ( 8 ) 陳 鴻 森 二 六
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頁﹁冬半接京中来書、知墓銘己 収到、冬間想己到家郷失。頃接卑中曽剣書、知廿一部古韻己 上板、冬初前有等語、然則前書欲在揚男刻者不必失。曽公書 内又云如風・克等字亦須提出、究不知其所提者若干字也﹂ 一 九 七 六 年 五五六一頁・五五七三i
五五七四頁 前掲論文 第八輯所収 二OO
五年 二四九頁・二六O
頁 ( 4 ) 陳 鴻 森 前 掲 論 文 二 四 九 頁 ﹁ 古 韻 廿 一 部 刻 字 之 事 、 若 元 在卑。十日即成、而至今杏然。呉蘭修排事有名疲緩、亦不催 之失。堂中経解、若非夏道奥厚民緊緊催排、必致中綴(夏升 去、即無人可出力、巧巧刻完即升)。因年兄大人此時居郷無 事、何不賂慶韻取出、送一教館之人令其排寓(字要似贋韻大 字之大)、特須至・祭等一一指示耳。車寓大字、不寓小字、 不過数寓字、寝成、交舎下刻之甚易、舎下管事者張茂才(鶴 書、競琴堂)舎親、付之即可刻也﹂ ( 9 ) 陳鴻森 ﹁院元刊刻︽古韻廿一部︾相関古賓排正│兼論︽経 義 述 聞 ︾ 作 者 疑 案 ﹂ 一 三 六 頁 ( 印 ) 王 国 維 ﹃観堂集林﹄巻第八 中華書局 一九九九年 四O
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五頁﹁先生諸韻譜中、最切要者為説文譜聾譜。先 生恒奉以示人、致李許粛方伯書中、所録至・祭二部及侯部入 聾表、即自此譜中摘出者也。後以定稿寄院文達公於慶束。故 遺書中僅有初稿、雄二十一部完具、然所録許書字不過二十分 之一而己。此書文達在卑東時擬為刊行、未幾去卑、而稿本尚 ( 5 ) 王念孫等撰 江蘇古籍出版 二OOO
年 留撃海堂。文達於嘉慶乙丑由雲南致文簡云(中略)此書卑中 刻成輿否、睡不可知、即令刻成。乃任不知此皐之人、持表中 諸字任意出入、不如不刻之為愈。可知文達於此事全属憤憤。 不知文簡得此書知何作答也。文第一札新勘文簡牌贋韻取出、 令一教館之人排寝、此事亦談何容易、然因此可知先生此譜、 家中別無副本失。先生父子残後、遺稿在第三孫忠介(害同) 所。道光季年、鄭麟王膿軒(梓材)館忠介家、為補二十一表、 冠詩経因譜之首。腫軒治史撃、輿徐星伯・張石舟諸公遊。又 ﹃ 高 郵 王 氏 遺 書 ﹄ 五四頁 黄山書社 ( 6 ) 王章涛 ﹃ 院 元 年 譜 ﹄ 二OO
三年 八二九頁 ( 7 ) 漬口富士雄 ﹃ 清 朝 考 拠 学 の 思 想 史 的 研 究 ﹄ 国書刊行会 陳鴻森 九九四年 五五五頁 前掲論文 二五一頁( 日 ) 張 成 孫 補宋元皐案、有名於時、然於此皐賓未能升先生之堂、其於至 ・祭二部及侯部入撃、均不用先生原譜。文不用原譜瞳例。蓋 未知先生此譜為説文而作、其書視令教館之人照康韻排寓者未 之能愈也。鳴呼、以文達之通博、而於先生之皐尚隔膜如此﹂ ﹃ 説 文 譜 声 譜 ﹄ ﹃続経解四書類葉編﹄(二)所収芸 ﹁諸家皆以贋韻標目、其 文印書舘一九八六年 不合者、割裂分之、是取其虚目也﹂ 九 八
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頁 ( 同 ) 漬 口 富 士 雄 前掲書 五 六O
頁 ( 日 ) 粛 軍 ﹁王右腫耐訂爾雅義疏声音韻謬誤述補﹂ ﹃ 漸 江 学 報 ﹄ 第二巻 孫玄常 (口)院元前掲書(下)九三頁﹁乾隆丙午、入京謁先生、先生 之皐、精微庚博、語元、元略能知其意、先生遂業以矯教。元 之輔知聾音・文字・訓詰者、得於先生也。(中略)古音自顧 氏・江氏・戴氏皆有考正、金壇段氏分十七部属益精、段氏之 分支・之・脂嬬三部世。護前人所未護、先生昔亦同見及此、 因段書先出、遂轍作。然先生所分者、乃二十一部、東一・蒸 一九八四年十七頁1
十八頁 ﹁ 王 念 孫 爾 雅 義 疏 郁 注 ( 疏 ) 刊 誤 札 記 ﹂ 第一期所収 ﹃ 語 言 文 字 研 究 専 輯 ﹄ ( 下 ) 所 収 上海古籍出版 一 九 八 七 年 三七二頁 ( ロ ) 漬 口 富 士 雄 前掲書 五五九頁 ( 臼 ) 演 口 富 士 雄 五 六O
頁 二・侵三・談四・陽五・耕六・員七・誇八・元九・歌十・支 前掲書 ( 凶 ) 院 元 ﹃ 寧 経 室 集 ﹄ ( 下 ) 十一・至十二・脂十三・祭十四・童十五・絹十六・之十七・ 魚十八・侯十九・幽二十・宵二十一、案之華経・楚僻、斬然 不素、其分至・祭・童・絹属四部也、則更顧・段諸家之所未 及 、 陸 法 言 所 未 析 者 ﹂ 世 界 書 局 一 九 八 二 年 四 二 頁 ﹁其現日、今之讃二百六部者、(少失。求之子古、既不合。以 示子今則未暁、而徒)不牽引之、分割之、甚無謂也。今故奉 而空之、以詩求韻、佐以易・屈。以韻別部、以部類聾、以聾 譜説文字而巳。張氏此説奇而法、審説文之聾亦細、以見未有 韻書時本来部居。﹂()内は院元が省略した部分であるが、よ ( 同 ) 院 元 前掲書(中)六一七頁﹁元幼属文選挙、市世未能精 熟其理。然誰文脱字、時時校及之、昔但得元張伯顔明督府諸 本、印以矯秘冊、嘉慶丁卯、始従昭文呉氏易得南宋尤延之本、 矯無上古加実。(中略)元家居揚州奮城文選巷、即陪曹憲故 り 文 意 を 明 瞭 に す る た め ﹃ 説 文 譜 声 譜 ﹄ の 原 文 を 以 て 補 っ た 。里、李崇賢所由侍文選皐而属選注者也。元既構文選棲子家廟 芳、躍得此加、離之棲中﹂ (幻)院元前掲書(中)五
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五頁﹁聖賢之道存子経、経非詰不 明、漢人之詰、去聖賢矯尤近、響之越人之語言、呉人能排之、 楚人則否。高曾之容韓、祖父及見之、雲伺則否。蓋遠者見聞、 終不若近者之賓也。元少矯準、自宋人始、由宋而求唐、求菅 ・説、求漢、乃愈得其賓、嘗病古人詰散而難稽也。子督撃漸 江時、衆諸生子西湖孤山之麓、成経籍纂詰百有八巻(中略) 漢之相如・子雲、文雄百代者、亦由凡賂・方言、貫通経詰、 然則舎経而文、其文無質、舎詰求経、其鰹不賞、馬文者尚不 可以昧経詰、況聖賢之道乎﹂ ( 印 ) 院 元 前掲書(中)三六四頁1
三六五頁コ冗謂古人古文小 拳輿調賦同源共流、漢之相如・子雲、無不深通古文雅訓、至 情時曹憲在江准問、其道大明。馬・揚之撃、惇於文選。故曹 憲既精雅訓、又精選皐、惇於一群、公孫羅等、皆有選注、至 李善集其成。然則曹・親・公孫之注、半存李善注中失。(中 略)唐人属文、尚精選撃、五代後乃廃棄之。昭明選例、以沈 思翰藻馬主、経・子・史三者、皆所不選、唐・宋古文、以鰹 ・史・子三者矯本。然則韓国禁諸人之所取、乃昭明之所不選、 其例己明著子文選序者也。桂苑珠叢久亡侠、間見子他書、其 書諒有部居、属小皐訓話之淵海。故惰・唐聞人注書引据、便 而博。元幼卸属文選皐、既而矯経籍纂詰二百十二巻、猶此志 也 。 此 元 嚢 日 之 所 考 也 ﹂ ( お ) 李 貴 生 前掲論文 三一二頁 (但)王念孫等撰前掲書一九八頁1
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頁﹁曇者戴東原庶 常・朱笥河皐士、皆欲纂集侍注、以示皐者、未及成編、吾師 雲牽先生、、欲奥孫淵如編修、朱少河孝廉共成之、亦未果。 及先生督撃漸江、乃手定腫例、遂韻増収、纏桑名流、分書類 輯、凡歴二年之久。編成一百十六巻、展一韻而衆字畢備、検 一字而諸訓皆存。尋一訓市原書可識。所謂握六喜之鈴鍵。 (中略)後覧是書者、去撃空妄談之病、市稽子古、取古人之 侍注、而得其聾音之理、以知其所以然而惇注之未安者、又能 博考前訓以正之、庶可停古聖賢著書本旨、且不失吾師纂是書 ( 却 ) 近 藤 光 男 ﹃ 清 朝 考 証 学 の 研 究 ﹄ 研文出版 一 九 八 七 年 四 七 頁 ( 幻 ) 李 貴 生 ﹁ 院 元 文 論 的 経 学 義 組 ﹂ ﹃漢学研究﹄第二十四巻第 一 期 所 収 二OO
六年 三 一 一 一 頁 之 意 奥 ﹂﹃ 中 国 近 三 百 年 学 術 史 ﹄ ﹃ 飲 泳 室 合 集 ﹄ ( 十 ) 所 収 者甚多、何也。日梁時恒言所調韻者、固指押脚韻、亦兼謂章 句中之音韻、即古人所言之宮羽、今入所言之平灰也。福田、 唐人四六之平灰、似非所謂於梁以前。日、此不然八代不押韻 之文、其中奇偶相昇生、頓挫抑揚、詠歎聾情、皆有合乎音韻 宮羽者、詩・騒市後、莫不皆然。(中略)是以聾韻流捕獲而成 四六、亦祇論章句之平灰、不復有押脚韻也。四六乃有韻文之 極致、不得謂之矯無韻之文也。昭明所選不押韻脚之文、本皆奇 偶相生、有聾音者、所謂韻也。休文所持属瓶獲者、謂漢・貌 之音韻、乃暗合於無心、休文之音韻、乃多出於意匠也。宣知 漢・親以来之音韻、湖其本原、亦久出於経哉。孔子自名其言 易日文、此千古文章之祖。文言固有韻失、而亦有平灰聾音意。 (中略)綜而論之、凡文章在聾嬬宮商、在色属翰藻。即孔子 文言雲龍風虎一節、乃千古宮商翰藻奇偶之祖、非一朝一夕之 故一節、乃千古嵯歎成文之祖、子夏詩序情文聾音一節、乃千 古聾韻性情排偶之祖。吾故日、韻者即聾音也、聾音即文也。 然則今人所便単行之文、極其奥折奔放者、乃古之筆、非古之 文也。沈約之説、或可横指属八代之表憧、孔子・子夏之文盟、 宣亦衰乎。是故唐人四六之音韻、雌愚者能放之、上湖杏・梁、 中材己有所限、若漢・貌以上、至於孔・卜、此非上哲不能擬 ( お ) 梁 啓 超 中華書局 一九九六年 二
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八頁 ( 部 ) 庇 元 前掲書(中)五六七頁﹁古人以簡策侍事者少、以口 舌侍事者多、以自治事者少、以口耳治事者多。故同属一言、 輔相告語、必有愈誤。是必寡其詞、協其音、以文其言、使人 易於記請、無能増改、且無方言俗語雑於其問、始能達意、始 能行遠、此孔子於易所以著文言之編也。古人歌詩・簸銘・諺 語、凡有韻之文、皆此道也。爾雅糟訓主於訓蒙、子子孫孫以 下、用韻者三十二僚、亦此道也。孔子於乾坤之言、自名目文、 此千古文章之祖世。属文章者、不務協音以成韻、修調以達遠、 使人易諦易記、而惟以単行之語、縦横恋感、動靴千言寓字、 不知此乃古人所調直言之言、論難之語、非言之有文者也。非 孔子之所謂文也。文言数百字、幾於句句用韻。(中略)然則 千古之文、莫大於孔子之言易。孔子以用韻比偶之法、錯綜其 言、而名目文、何後人之必欲反孔子之道、而自命日文、且尊 之 日 古 也 ﹂ ( 幻 ) 院 元 前 掲 書 ( 下 ) ﹁ 福 間 目 、 文 心 雌 龍 云 、 今 之 常言、有文有筆、以嬬無韻者筆也、有韻者文也。竣此、則梁 時恒言有韻者、乃可謂之文、而昭明文選所選之文、不押韻脚 一 一 九 頁 也 ( お ) 近 藤 光 男 前掲書 四二一頁( 却 ) 院 元 不用此韻哉。年兄試再興堂中林・曾・楊子商権窮定。(即如 廿一部至・質、須在各韻中将各字提摘而出、錯剛去彼韻之字) 即可在堂中葉板成帳。不過数寓大字、即可嘉裏皐古之士、予 雌老、亦築得観之、且可以分授家郷子弟失。庚寅閏月﹂ 前掲書(下)一三三頁﹁自陸謹言等定四聾韻馬二百 六韻之後、唐人作詩賦、弁窄馬寛、沿至今、紙一百六韻突。 以今韻矯今詩文則可、若作古賦詩僻而用今韻、不今不古、識 者晒之。至於唐・宋以来、濁用通用、浅人所属、己鮮依擦。 或且臆以時俗土音、動翻甑用、直似以元人劇曲之韻。擬唐人 矯律賦、更不如今一百六韻失。宣有不明音韻築文訓話、能上 擬相如・子雲者哉(即如昌禦進皐解韻、臆用無法、世竿知其 謬者)然則牌奈何、因思古韻之分合、近惟金壇段氏若庸六書 音均表十七部矯善。如之・脂・支・暗四韻、唐人皆井矯四支 合用。執知華経・楚僻皆断分三部、絶不相混、文選亦分不適 用乎。高郵王懐祖先生、精研六書音韻、欲著古音一書、因段 氏成書、遂即轍筆。(余三十年前即聞此論)然其廿一部、甑 極詩・騒、剖析豪吉、不但密子段氏、更密子陸氏者、予屡欲 贋韻而以古音分部、使便於擬漢以上文章鮮賦者、取用之、迄 未暇馬之計。皐海堂中年兄、深寧古音、局就段氏精審之、市 進以王氏之準、定震古韻廿一部、以華経・楚僻矯之根抵、矯 之圏範、庶無隔部臆用之謬乎。或日漢・晋文章之韻己有出此 圏範者、奈何以此限之、答日、漢・菅文章、斉・梁之韻難寛、 而之・支・脂等韻、未曾通雑、若皐漢・音文鮮而更能謹守此 漢・督以上之韻、取法乎上、接甑韻而反之正、不更善乎。況 以今韻一百六韻、而井矯廿一部、己寛之至失。撃者亦何俸而 ( 初 ) 陳 鴻 森 研究院中国文哲研究所 ﹁院元翠経室遺文輯存﹂﹃清代揚州皐州﹄所収 中 央 二
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五年 六七一頁 ( 担 ) 陳 鴻 森 前掲書 六七一頁 ( 位 ) 陳 鴻 森 ﹁ 配 元 輿 王 引 之 書 九 通 考 稗 ﹂ 二六二頁 ( ね ) 李 貴 生 前掲論文 コ二四頁 (UM) 院 元 前 掲 書 ( 上 ) ﹁ 余 三 十 徐 年 以 来 、 説 経 記 事 、 不 能不筆之子書、求其如文選序所謂事出沈思・義陣翰藻者、甚 鮮。是不得稽之属文也。今余年届六十失。白取奮帳、授児子 輩重編寓之、分馬四集。其一則説経之作、擬子買・那義疏巳 云僧失。十四巻。其二則近子史之作、八巻。其三則近子之子 作、五巻。凡出子四庫書史・子雨途者、皆属之、言之無文、 惟紀其事、達其意而己。其四、則御試之賦、及餅瞳有韻之作、 或有近子古人所謂文者乎。然其格己卑失。凡二巻﹂ 頁義 述 聞 ︾ 作 者 疑 案 ﹂ ( 部 ) 方 東 樹 ﹃ 考 繋 文 集 文 録 ﹄ ﹃儒戴﹄精華編二七五所収新華 ﹁儀徴院相園深題其説、困層 二
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一 一 年 一 四 四 頁 書 庖 吾友南海曾君勉士依其類例作︽二十一部古韻︾。余聞而疑之、 私誌於吾友日、凡所以求古音者、勝以謹古経音、而非欲以施 今用也。有経音既得則止、非必尊古而卑今、以持属有難也﹂ ( 訪 ) 演 口 富 士 雄 前掲書 五七八頁 ( 訂 ) 曽 剣 ﹃面城楼集紗﹄巻四﹃海学堂叢刻﹄所収 七 43 八葉﹁秋仲、李孝廉能定、自京師還、奉到頒護江君韻 書、王氏二十部韻表、井郷田二十一部韻稿本、訓諺誇誇、不 光諸年間刊 勝 感 侃 ﹂ ( 犯 ) 演 口 富 士 雄 前掲書 五七五頁 ( 鈎 ) 陳 鴻 森 義 述 聞 ︾ 作 者 疑 案 ﹂ ﹁配元刊刻︽古韻廿一部︾相闘故賓排正兼論︽鰹 四三七頁 ( 却 ) 陳 鴻 森 ﹁ 院 元 翠 経 室 遺 文 輯 存 ﹂ 六七一頁 ( 引 ) 陳 鴻 森 ﹁院元刊刻︽古韻廿一部︾相関故賓排正兼論︽鰹 四三七頁Z O 開 口 町 民