<研究ノート>ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察
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(2) 第61巻 第3号. は じ め に. 1933年に出版された,ニックリッシュ著『新しいドイツの経済指導』( Nicklisch, H.: Neue Deutsche Wirtschaftsf hrung)は,次のような前書き(Vorwort)を有する。す なわち, この本は,新しい国(Reich)の経済指導に関する伝言(Gru )である。この本は,こ れら経済指導が負担する運動と,精神が活動的な有能な指導者( erfolgreicher F hrer ) を歓迎する。行と行間には,総ての家族(Stamm)に活動の余地(Raum)を与える,完 全な統一体としての国( Reich )をわれわれに復活させる( erstehen )ように,総ての避 けられない多様さでも完全な統一体である,経済がわれわれを復活させるという,確信 (Zuversicht)が織り込まれている(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. Vorwort.)。 手元の記述は,他の非常に簡単な問題と非常に難しい問題を共に取り扱う。この記述は 自明の理(Binsenwahrheit)に関する難しい研究について言及するが,その内,1つが正 に開始にあるが,一新する(umkehren) 〈【筆者補足】つまり,易しく説明する〉。これは 関連(Zusammenhang)を明らかにするという目的で行われる。このような関連は,総て を,統一体に結び付けるが,そこでは,また,バラバラの重要な機関(Stelle)でよりはっ きりさせることに役立つのに適している時には,個々の自明の理が不足していることは許 されない。その上, このようにして, 読者のより広い層を安心させる, 効果が生ずる (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. Vorwort.)。 これにより,既に,この著作が,研究者だけではなくて,むしろ,政治家,経済活動者, 経済上の関連に深い興味( Interesse )を示す,総ての人に利用されることが語られた (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. Vorwort.)。 本がその課題を充たせるように。 タイヒマンバウデ(Teichmannbaude),1933年9月. ところで,本稿でほぼ全訳しながら検討する,ニックリッシュ著『新しいドイツの経済 指導』は,叢書シリーズ「組織」の1冊として,1933年の5月や6月に行われた,ナチス の焚書を免れて, 9月に出版された。 本書はドイツ文字で書かれてあり,国家社会主義 (nationalsozialistisch, Nationalsozialismus)という言葉は,途中でも散見されるが,序 文に6箇所と,原典の S.84 から S.87 に5箇所認められる。しかし,前書きでは,1933年 254( ) 782 ─ ─ .
(3) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). 1月に政権を採った政党に同調しているのではなくて,現状の改善を政策にする国家社会 主義,つまり,新しい経済システムは,自らの政策に関連した分野では,世の中を直視す ると述べている(参照。大橋昭一編著・渡辺朗監訳1996. 189190頁)。. 1 序 文. 経済の関連は,確かに,稀に,現在行われているより,より多様に熟慮されてきた。こ れは,まず,われわれの経済上の活動の復興( Wiederaufbau )のために多くが設定され た,課題(Aufgabe)の重圧(Druck)の結果(Folge)である。しかもまた,これは,経 済活動者として個々人が採用する,立場(Stellung)と関係している。すなわち,個々人 は,自らの過程(Weg)を見付けるために,位置している関係(Verh ltnis)を,自らの ために自ら明らかにしようとしている(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.1.)。 このため,以下の著作と同様に,著作に対しては少しの需要(Bedarf)が存在するよう に思われる(sehen) 。そして,これに代わる,他の根拠(Grund)ではなくて,充分な根 拠が語られない時には,著作を書くことは無駄であろう。しかし,このような根拠は存在 する。とにかく,バラバラの機関( Stelle )で経済上の関連に係わる,総ての者にとり, 統一された全体図(Gesamtschau)が必要であると私には思われ,これにより,総ての彼 の同行者と供に,この全体図なしでは進めない,有機的な結合( organische Bindung ) に,再び彼を連れ戻す,過程(Weg)を彼は見付ける。他の方針を採る,過程(Weg)は, 正に, 荒れ地に, パンのない, また, パンの望みのない,領域で終わる〈【筆者補足】つ まり,経済の破綻で終わる〉(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.1.)。 私の解説(Ausf hrung )はこのような全体図の試みである。その際,これは,統一体 でのこのような描写が完全であることを必要としないことから始められる。もちろん,こ のような描写に,自ら(von ihr aus) ,また広い視野(Sicht)で,間断なしに(l ckenlos) , 到達し,達成する(erreichen und meistern)ことが必要である(Vgl.Nicklisch, H.1933. S.1.)。 政治上の計画の形式とは,本著は,要求(Forderung)が設定されず,むしろ,調査研 究( Untersuchung )が行われることにより,異なる。しかし,成果は,政治上の要求と 行動(Handlung)を強化する(bekraftigen)のには適切である。この成果は,総て,真 の国民共同体(Volksgemeinschaft)の基礎付けに適合しているものである。また,この ような国民共同体内でのみ,経済が持続的に健全になるための根拠(Wurzel)がある。正 255( ) 783 ─ ─ .
(4) 第61巻 第3号. に,このような根拠は,経済上の関連の様式( Art )自体と,これら関連が形成する,統 一体から,確かに(zwingend)生ずる。その中には,再び,ドイツの社会主義,国家社会 主義の運動〈【筆者補足】つまり, 新しい経済システムの構築〉のために与えられる,勝 利の可能性に対する基礎(Grund)がある。これら可能性が,現実に,そして,これと共 に,決定的な勝利に転換されることが問題であり,これが政府の課題(Aufgabe)である (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.12.)。 経済の必要条件(Erfordernis)と,国家社会主義〈【筆者補足】つまり,新しい経済シ ステム〉の政策の要求との間での関係で驚くことは,この後者の政策が,その課題(Aufgabe) を,われわれ〈【筆者補足】つまり,ドイツ〉,あるいは,他の地理上の領域で,以前に作 成された,総ての他の種類の政策より,非常により正確に,経済上の関連の経過(Ablauf) の方向で,自ら調べていることである。バラバラ(diese oder jene)の政策が可能にした, 精神上の財産(Gut)より,国家社会主義〈【筆者補足】つまり,新しい経済システムの構 築のため〉の精神上の基礎(Grundlage)が,非常に特徴のある,かつ,厳密な意味で, 世の中を直視している(weltanschaulich)ことには驚く。これは,中央党(Zentrums) (18701933)や共産主義(Kommunismus) (19191933)と同様に,社会民主主義(Sozialdemokratie ) (18751933)の 政 策 上 の 活 動( Arbeit )と 比 べ る と,同 様 に 妥 当 す る (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.2.)。 その他,正にまた, 多くの国家社会主義〈 【筆者補足】つまり,新しい経済システム〉 の意見で有効な,通常の考え方によれば,世の中の直視に焦点を合わせることと,実質に 焦点を合わせることの,対立( Gegensatz, weltanschaulich und sachlich gerichtet zu sein )である。このため,支配する政党が,また,現実的な関連に反する,自らの意思を 実施しようとすることを想定することは直ぐに理解できる。このような理由(Grund)か ら,また,詳細では,イデー(Idee)の過剰と,多くの関連した誤った処置の下で,全く 明確に認識されうる, 国家社会主義〈【筆者補足】つまり,新しい経済システム〉の政策 の現実的な方針(Richtung)には驚く。このような現象は,国家社会主義〈【筆者補足】 つまり,新しい経済システムの構築のため〉の世の中の見方(Weltanschauung)が,現 在の現実的な関連に,他のものより,より接近していることが想定されうる時にのみ,説 明できる。以下の調査研究はこのための確認をもたらす(Vgl.Nicklisch, H.1933. S.23.)。 読者に,このような刊行物の取り扱い(Berarbeitung)のためにできる限り負担のない 精神上の立場をもたらすために,更に,各自が私の著作の研究により承服できるように, 呈示される思考過程が, 初めての, 最近の産物( Produkt )ではないことを追加する 784 ─ 256( ) ─ .
(5) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). (Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.3.)。. 2 経済は分業型である. タイトルの命題(Satz der. erschrift)は自明の理(Binsenwahrheit)を表す。だが,. このタイトルは,日々の労働の困窮(Drang)の中で常に繰り返して忘れられている,事 情(Ding)を含む。このための1つの例は,集団拓殖(Siedlung)の問題である。この集 団拓殖に係わった,政治家,経済活動者,あるいは,直接の共同経営者( Beteiliger )の だれが,その際,また,これにより,経済の分業を克服する,過程(Vorgang)が問題に なること,すなわち,初めに結果(Auswirkung)ではなくて,むしろ,明らかに根拠(Wurzel) について考えたのか。誰も全く明らかにしていない。そこで,通常では,また,集団拓殖 の効果(Wirkung)自体が分業型の経済の制限から説明されることは,かなり不明確のま ま残された。関連は,集団拓殖労働により,自給者(Selbstversorger)の人数が増加させ られるように,経過する。しかも,この種の経済活動者は,独自の労働の成果により,直 接,生活する。彼らは,少なくとも,一部分では,これを行い,この点では,自らの支援 により,全員の全体の生産から,彼らが使用するモノを,獲得するため,分業型の経済か ら所得を獲得することとは無関係である。これは,彼らに,経済上の危機(Wirtschaftskrisis) に対する,非常に大きな抵抗力を与える。また,このような抵抗力は,彼らが危機(Krisis) を克服すべき時には,全体経済に対して,充分に効果をあげる。これは,共通して,個々 人が躊躇しない程に,良く知られている(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.4.)。 もちろん,分業制の制限は,この危機に対して,これ自体では,決定的には機能しない。 危機は,その本質上の存続では,無傷のまま残されている。というのは,可能な集団拓殖 の機関(Siedlungsstelle)の数が,経済機関の総数に比べて,非常に強い影響を発揮する には充分ではないからである。その他,既に一度述べたように,集団拓殖者では,自給の 程度が,分業型の経済からの購入をもはや全く必要としない程,広範ではないからである (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.45.)。 これは,集団拓殖という考え(Siedlungsgedanke)に反論しないが,この考えの代わり に,全く,また,更に重要な根拠(Grund)が領域(Feld)に入れられ,また,入られた。 しかし,分業が撲滅できない( ausrotten )現象であることが認識される。また,いずれ の意味での世の中の見方(Weltanschauung)で運営されても(wirtschaften) ,現実を踏 まえ(die Erde tragen),個々の国内の全体経済(nationale Gesamtwirtschaft)に包括 257( ) 785 ─ ─ .
(6) 第61巻 第3号. される,住民数( Bevolkerungsmenge )では,世の中の見方は分業型以外にはありえな い。このようにしてのみ,多くの人間は,これにより,彼らが活動でき,かつ,このよう にしてのみ,総ての個々の参加者がここから自らの需要(Bedarf)を充たし,自らの欲求 (Bed rfnis)を充足できる限り,労働の生産性を向上させうる,個別経済に参加されられ る。その際,また,たとえ,分業制が存在するとしても,不愉快な現象が現れれば,これ ら不愉快な現象を克服する(meistern)という課題が人間に対して設定される。この分業 制は,本質上では除去されえないため,改善される(veredeln)べきである。このため, 問題をもう一度終わりまで熟考することはやりがいがある(Vgl.Nicklisch, H.1933. S.5.)。 経済の分業制にとり特有なものは,完結的な(geschlossen)家計経済と,自立した分業 型の経済を比べることにより,最も良く認識できる。その際,他の自立した分業型の経済 と同様に,完結的な家計経済では,まず第一に個別経済が考察される。正に,前者の完結 的な家計経済でのみ,これら家計経済が,これらが使用する,総てのモノを,自ら製造す ることを前提とするのに対して,後者の自立した分業型の経済は,直接,あるいは,間接 に,これら個別経済のために働く,他の個別経済で,これら需要は充足される(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.5.)。 しかし,まず第一に,比較のためには,準備が必要である(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S. 5.)。 経済により活動する,人間は,欲求を有する。すなわち,多数の欲求を有する。しかし, これら欲求は,特例でのみ,個別に,かつ,独立して,現れ,通常では,むしろ,相互に 結合している。結合は,人間の意識では,欲求の内いずれが充足され,いずれが充足され ないかという,選択が実行されるようになっている。最後の,かつ,最高の決定は,この ような過程(Proze )では,人間が人間であろうとする時には,自らの良心から始められ るべきである。欲求の充足の結果は,同時に,個々の場合に問題になる,人格(Pers nlichkeit) の表現( Ausdruck )である。明らかに,ここから,現れた欲求,特に,充足されるモノ は,個々人の活動の総ての時点で,全体( Gesamt )と呼ばれうる,統一体を形成するこ とが認識されるべきである(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.56.)。 これは,現れる欲求が,その意義により区分される時に,更に明らかになる。この場合, どのような異なる程度で,これら欲求を,所与の活動状況下で,欲求者の意識が要求する のかを観察できる。ある欲求は無条件に充足されるべきである。他の欲求では,たとえ, その充足が,重要であり,もしかすると,それどころか,非常に重要であるとしても,こ のような強い必然性(Notwendigkeit)は存在しない。更に,他の欲求は,ただ追加の欲 258( ) 786 ─ ─ .
(7) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). 求(zus tzliches Bed rfnis)と呼ばれる。このような区分は,充足の可能性が縮少する時 に,どのように充足されるべきである欲求の選択で区分が作用するのかについての観念を 作成しようとする時に,特に重要である。これは,たとえば,自然の現象により,あるい は,苦しい生活の維持( Lebensunterhalt )を手に入れる( beschaffen )ために,ほとん ど充分に残されていないように,人間の権力が要求する,義務付けられた貢ぎ物(Tribute) により,生じうる。この場合,人間での選択の過程は不可避的に充足されるべき欲求のみ を残す。 総ての他の欲求は抑制される。この意味で, 欲求の全体は縮少する。 その際, 個々の欲求が有する,肢体性(Gliedschaft)の序列(Rang)が現れる。すなわち,僅か な意義を有する欲求が,まず初めに,その後,次第に,重要な欲求が,最も重要な欲求の みが残るまで,排除される。肢体性のこのような異なる序列は,個々人の意識で活気のあ る(lebendig)欲求を全体(Gesamt)として確認する。これは,個々人で,また自給者に おいても,このようである(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.6.)。 欲求の全体(Bed rfnisgesamt)から,各人に対して,需要の全体(Bedarfsgesamt) が生ずる。この需要の全体は,常に,種類と品質で,彼が有する欲求を充足するのに,適 している,財の数量についての観念である。需要の程度は,ある場合には,非常に理想的 に規定される。この場合,個々人では,〈【筆者補足】欲しい〉財(G ter )には,選択の 過程が不足している充足の可能性を考慮することなしに存在する,欲求に対応する,総て のものが属する。そうでなければ,限定(Bestimmung)は次第に現実的になる。このよ うな場合には,また,給付され,調達されうる,財のみがこの限定に相応しくなる。この 意味での需要は,各人にとり,彼が,充足にとり適切な財を獲得する,自らの能力の程度 と,このための可能性を考慮することにより,自らの欲求の全体から生ずる。考慮は,自 身の給付能力と,給付する可能性についての観念が,充足される欲求の選択の過程で,共 に作用するようにして生ずる。これは,ここで現れる,素朴な観念(blo e Vorstellung) である。これら観念が現実に対応しているのかはまだ常に未解決である。また,これは, 現実的に限定された需要を,予定値(Sollgr. e),すなわち,これが充足されうるのかに. ついては未知である,価値についての要望(Verlangen)として,特徴付ける。充足の現 実に関して更により詳しく考えれば,需要と呼ばれるが,しかし,要望(Verlangen)で あることが中止されるため,用いられないモノ,既に充足されたモノ,あるいは,不足し ている充足の放棄(Verzicht)があるに違いない。しかし,後者の2つの可能な場合は, 存在したこと(Ist)によってのみ表現されえる。存在したことは明らかに出来事を記録し ている(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.67.; Nicklisch, H. 1 934. S.1213.; Nicklisch, H. 1 935. 259( ) 787 ─ ─ .
(8) 第61巻 第3号. S.2122.; 参照。拙稿2013b. 355356頁)。 要求と同様に,また,財に対する需要は,個別で,かつ,独立してではなくて,むしろ, 各自では, 結合して, 全体でのみ, 存在する。そして,経済の状態が変化する時には, 個々の経済活動者の需要の全体は,要求の全体でのこのような過程に対応して,縮少する か,拡大する(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.7.)。 このため,現実的に限定された需要は,個人の給付能力と給付可能性の程度に左右され る。これら給付能力と給付可能性を検査すると,その充足が,元々(von vorherein),不 可能と思われる,欲求のその後の中止により,現実的に限定された需要は減少する。これ は,充たされないままで残されえない,最後の欲求が,全体の意識を充たしながら,最後 に強制的に破棄される(sprengen)まで,継続される。結果は更に詳細に描写される必要 はない(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.78.)。 しかし,給付能力と給付可能性による実際の需要に対する程度の影響は,両者の間に存 在する,個別の関係(Beziehung)ではない。その程度の変更により変化する,需要の構 成(Zusammensetzung)により,諸力が投入される,目的に対する遡及効果(R ckwirkung) が生ずる。充足が,最低でも,制限された給付能力から生ずる,制限内で,行われる(vor sich gehen)べきである時には,給付の全体は,その構成では,常に,その時に存在する 需要の全体に一致している。各自は,たとえば,自らの生活( Leben )を脅かす,自然の 現象により,自らの諸力が要求される時には,自らの給付可能性の残りを,以前に慣れて いたこととは異なって分配する,すなわち,多くの価値の創造を取りやめ( ausfallen ) , 給付の全体の構成を,対応して,変更すべきである(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.8.)。 欲求と,充足価値( Befriedigungswert )の給付の間では, 欲求, 需要と給付の全体 (Bed rfnis-, Bedarfs- und Leistungsgesamt)が,これらの関係で,相互に形成する,範 囲において,財と力の経済(G ter- und Kr ftewirtschaft)の過程が生ずる(abspielen) (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.8.)。 財の形式で,充足価値( Befriedigungswert )が生じ,また,これにより,経済で,新 しい給付に能力を与える,諸力が,繰り返して創造し,維持される,欲求の充足のために, 利用されることが,この過程の本質である。個々の充足価値は,集められるべき,中間価 値(Zwischenwert)の総額として規定され,これにより,この充足価値は生ずる。いずれ かの形式での資本の利用(Nutzung von Kapital),建物,機械と道具(Ger t)の減耗, 利用された補助材料と,加工される材料は,このような価値〈【筆者補足】つまり,中間 価値〉である。給付価値( Leistungswert )は,列挙されたものにまだ含まれていない限 260( ) 788 ─ ─ .
(9) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). り,これに〈【筆者補足】つまり,中間価値に含まれる〉。たいてい,総てのこのようなグ ループの価値は充足価値に含まれる(hineingeben) 。材料(Rohstoff)のみが例外を構成 する。というのは,全く加工されない,非常に多数の充足価値が存在するからである。こ れは, 〈【筆者補足】たとえば,保険・仲介などのサービスで〉 ,発生し,実物財(Sachg ter) なしに増加する(zuwachsen)ことが生ずる,給付価値が問題になる時に,常に,妥当す る。これら給付価値は, このような〈 【筆者補足】実物財の〉仲介なしに,使用されるべ きである。われわれは,自らの空腹を和らげるために食べる,おやつ(Bissen)では,実 物財の価値(Sachg terwert )を食べ尽くす。しかし,これ以外に,資本の利用,減耗す る建物,機械と道具の価値, また, われわれが正に持っている〈 【筆者補足】使用してい る〉,フォークの価値の一部分,その減耗(Abn tzung )が問題になるが,建物,機械と 道具の製造のために使用される,補助材料の価値,あるいは,実質価値(Sachwert)の加 工と,料理の支度において使用が見付けられた,補助材料の価値が〈【筆者補足】ある〉。 これに対して,床屋のサービス(Leistung)は,たとえ,しかし,資本の利用,建物,機 械と道具の減耗価値(Abn tzungswert),そして,また,カミソリの価値の一部分がこの 給付に含まれるとしても,全く実質価値(Sachwert)を含まない。石鹸は,材料(Rohstoff) ではなくて,むしろ,補助材料(Hilfsstoff)のみに関係する(Vgl.Nicklisch, H.1933. S. 89.)。 おやつや床屋の場合で,建物,機械と道具の減耗について語られる時には,全体の家の 構成要素としての台所(R che) ,あるいは,床屋の店(Barbierladen)のみではなくて, 台所の電化製品の存在( Bestand )と床屋の電気バリカンのみではなくて,家の調理道具 と食器(E ger t),並びに,床屋の手作業の用具(Handwerkszeug)のみが考えられる のではない。むしろまた,台所と店(Laden)と,これらに含まれている機械と道具を製 造するために,減耗される,建物,機械と道具の価値の総てが考慮される。それどころか, 更に,定義は,家計と床屋のための,台所,店,機械と道具を製造するために必要だった, 家,機械と道具を製造するために必要だった,建物,機械と道具の製造での減耗による, 建物,機械と道具の価値を包括する。これは,場所(Raum) ,機械と道具を有する,床屋 と同様に,家計の装置(Ausr stung) ,並びに,人間の食事,あるいは,理容(Versch nerung )の過程の実施のための,原材料( Rohmaterial ),材料,あるいは,補助材料の要 求による総ての種類の減耗価値に対する分担分(Anteil)にまで及ぶ。更に,個々の場合 で,様々な段階(Stufe)での資本の利用に対する分担分(Anteil)が加わる(Vgl.Nicklisch, H. 193 3. S.9 10.)。 261( ) 789 ─ ─ .
(10) 第61巻 第3号. 総ての段階による総てのこのような過程では,常に,給付物( Geleistete )が需要に対 応していることが問題になる。これが当てはまらなければ,無価値(wertlos)である。と いうのは,価値は,常に,需要で活動的な,要望(Verlangen)の充足(Erf llung)とし てのみ生ずるからである。しかし,無価値な給付は,需要の充足のために手元の給付能力 (Leistungsf higkeit)によりそれ自体として与えられる,可能性の断念(Preisgabe)を 暗示する(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.10.)。 このような準備の後では, 今や, われわれの比較が〈 【筆者補足】必要になる〉 ( Vgl. Nicklisch, H. 1 933. S.10.)。 完結的な家計経済の考察では,まず第一に,ワン・マン・経済体(Ein-Mensch-Wirtschaft) が問題になることが想定される(annehmen)。このような1人の人間の意識では,欲求が 全体( Gesamt )として現れる。彼では需要は同様の意味で有効になる。上で記載したよ うに,常に,選択の過程では,彼においては,充足されるべき欲求を,充足価値(Befriedigungswert )を創造する,彼の能力についての観念が把握する。彼が自らのために給付 するモノの構成( Zusammensetzung )は,彼の需要の構成と同様に,正に,彼の給付能 力と給付可能性が活動の余地(Raum)を与える,程度により変更される。そこから,わ れわれの自給者の精神と手〈【筆者補足】つまり,身体〉が充足価値を創造する,中間価 値(Zwischenwert)は,上であげられた,性質(Art)に等しい。独自の多様な直接的な 給付以外に,この中間価値は,資本の利用(Kapitalnutzung),総ての種類の減耗された 価値,並びに,補助材料と材料の価値である。われわれの想定によれば,自給者は無条件 である(absolut)ため,もちろん,像(Bild)は本質上では単純になる。ここでは,たと え,既により以前に,使用対象の製造で,創造されたものでも,減耗価値(Abn tzungswert) は,例外なしに,独自の給付価値( Leistungswert )である。また,補助材料と材料はわ れわれの例の経済の中でも自ずと認められる。本来の使用までにその経済で起こることの 総ては,また,独自の(eigen)給付によってのみ,実現される。個別の経済活動者が,自 らに完全に自ら給付することを,彼に可能にする資産(Verm gen )を第三者から取得し た時には,資本の利用について, ここでは,分業型の自立的な経営( arbeitsteilige selbst ndige Betrieb)におけるのと同様に,語られる。このための前提は,彼が,自身が 経済上で独立して行える,全体経済の肢体であることである。これとは反対に,自然が彼 に総ての種類の補助材料と材料として,土地と資材(Materialien)を自由に与えることを 想定すれば,彼にとっては,このような意味での資本の利用は全く存在しない。実現され る(zustandekommen) ,充足価値(Befriedigungswert)は,この場合には,以前に準備 262( ) 790 ─ ─ .
(11) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). されたり,後に製造される独自の給付により,自然が提供するモノの自由な使用の下で, 増大する。彼が,食事を採る時に,準備された食料でのこのような価値の総てを消耗する ことが,また,彼には妥当する。すなわち,また,彼は,これらの価値の減耗比率(Abn tzungsquote)の形で,次第に,机の上で利用するか,手で取り扱う〈 【筆者補足】つま り, 鑑賞するか, 使用する〉,独自の食器を一緒に利用し尽くす。例では独自の給付価値 (Leistungswert)が問題になることは,このような過程を全く変更しない(Vgl.Nicklisch, H. 193 3. S.1011.)。 自給経済( Selbstversorgerwirtschaft )が人間のグループ( Gruppe )を包括する時に は,基礎(Grundlage)は同じである。今や,多数のための基礎が与えられる。しかし, 総ての人間は同一の経済単位の肢体である。彼らの欲求は同一の意思に影響を与え,彼ら の給付可能性は同一の意思により管理され(leiten) ,このため,欲求との結合では,統一 的に作用する。しかし,管理され,規制された意識は,参加する意識の全体ではなくて, むしろ,管理と規制の機能が効果を発揮する,単独の意識の内の,1つ(eines der Einzelbewu tseine)である。だが,これは,他の意識により,支援され,補足される。そこで, とにかく,需要の全体が総て完全に適切に評価され,給付能力が様々な目的に正当に分配 されているのかは,疑問である。複数の参加者の需要が包括された評価に対応して,ここ では,時点と同様に,継続して,また,参加者での給付物( Geleistete )の分配が必要で あり,これにより,給付されたモノが総て価値であるのかが初めて示される(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.11.)。 その他,経済の範囲でも,過程でも,個々の自給者(Selbstversorger)でのそれらとの 乖離(Abweichung)は確認されるべきである(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.12.)。 分業制により相互に結合している,自立的な経済活動者は,個々の経済単位で一緒に活 動するのではなくて,むしろ,一部は家計,一部は価値創造経営である,このような経済 単位の多数に分かれている。後者の価値創造経営が前者の家計から派生したことには疑問 はない。 これら価値創造経営は,事業部門の様な,水平〈【筆者補足】つまり,独立した ビジネスユニット〉と,家計のための食料品と嗜好品,消耗財とサービス(Dienst)を製 造するために必要な,最後の給付までの総ての生産段階のための,消耗材,建物の価値, 機械と道具の製造に至る,原資材(Urmaterialien)の補給(F derung)による充足価値 ( Befriedigungswert )の製造の個々の段階の様な,垂直〈 【筆者補足】つまり,バリュー ネットワーク〉で,グループを形成する。これは,正に,上で,自給経済と分業型の経済 の比較のための準備で既に議論したものに対応している。もちろん,最終の(allerletzt) 263( ) 791 ─ ─ .
(12) 第61巻 第3号. 給付は家計の中で自ら給付される。これは,食器の自らの使用(Handhabung)の価値を 一緒に食べ尽くす,ホテルの顧客に対してさえ妥当する(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.12.)。 自立した単位の分業型の経済での中間価値( Zwischenwert )は,自給者でと同じであ る。すなわち,減耗価値,補助材料と材料,並びに,あるモノにも,他のモノにも既に含 まれていない,給付価値(Leistungswert)である。しかし,個々の経済単位に対しては, 結局,本来の充足価値が形成される,総ての価値が独自の給付価値であるという,自給経 済活動者(Selbstversorgerwirtschafte)での確認はもはや当てはまらない(zutreffen) 。 これは, むしろ, 常に, 彼ら〈【筆者補足】つまり,自立的な経済活動者〉の一部分に対 してのみ妥当し,たいてい,外部にある給付者が関係させられるべきである(hinziehen) ため,個々の経済単位で実施される,製造の一部分に対して直接的に必要である,総ての 給付価値に対しては一度も妥当しない(gelten) 。更に,われわれの参加(Eintritt)まで の前後に続く充足価値の発生,あるいは,われわれの装備(Ausr stung)の,あるいは, われわれの給付者の装備の製造に関与する,異なる相互に継続する製造段階の減耗価値の 形式での他の給付も存在する(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.1213.)。 関係する, 材料と補助材料には, 様々な由来の減耗部分以外に, 他の給付が含まれる (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.13.)。 資本の利用の問題は, 分業型の自立的な経済単位の領域では, 確定された新しい基盤 (Basis)で設定される。資本は,そこでは,通常,外部者から調達される(besorgen)べ きであり,中間価値の下でその利用(Nutzung)の組み入れを断念することとはもはや関 係ない。なお,自立した経営の分業型の経済では,限られた資本額〈【筆者補足】つまり, 内部資金〉が継続して自らにより生ずるため,利用の最も効果的な機関( Stelle )への分 配が,利用(Nutzung)の価値に注意することなしには,充分に有効に行われることは不 可能であることを読者は知るであろう(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.13.)。 しかし,これら総ては,分業型の自立的な経済単位が,自給者とは,異なる基礎を有す ることを示唆しない。むしろ,また,これら分業型の自立的な経済単位は,充足されるべ き,要求と関係している。 また, これら〈【筆者補足】つまり,分業型の自立的な経済単 位〉では,これらは,個々の単位にとり,全体と,より多くの単位,あるいは,再び全体 を示唆する,全体の総体( Summe )を形成する。同じことは,より多くの単位,あるい は,総ての単位と同様に,個々の単位の需要についても成立する。実際の需要の限定(Abgrenzung )のため,充足されない欲求の脱落(Ausf llung )は,またここでも,経済活 動者の給付能力についての観念の影響(Einflu )と,所与の関係の下でのこれらの結果 264( ) 792 ─ ─ .
(13) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). (Auswirkung)の下で,生ずる。もちろん,給付は,2つの他の場合〈【筆者補足】つま り,ワン・マン・経済体と人間のグループ(Gruppe)を包括する自立的な経済単位〉にお けるように,直接それ自身でわれわれの前で生ずるのではなくて,むしろ,購入するため の力, すなわち, 購買力( Kaufkraft )として,調達されるべき,充足価値( Befriedigungswert )に対向している。しかし,このために必要になる,貨幣は,個人の分業型 の給付に対する対価として,総てのこのような労働者の全体の給付から,派生される(ableiten) べきである。このため,貨幣は,依然として(noch immer),自給者におけるのと同様の, 関連である。すなわち,今や,給付の代わりに,貨幣での対価,給付能力の代わりに,購 買力を獲得する能力,そして,給付可能性の代わりに,所与の関係下で可能になると思わ れる,購買力が存在する。関連のこのような相互展開(Auseinandergezogensein)は,た とえ,人間が,給付でき,経済の途中でまた給付すべきであるとしても,給付することな しに,購買力を受け取ることを認める。これは,単に,個人が労働において身体を大切に したり,あるいは,彼が労働から逃れることにより可能になるだけではなくて,むしろま た,〈【筆者補足】たとえば,贈与のように〉 ,彼がそもそもいくらかを給付することのな い,彼への貨幣価値の移転により可能になる(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.1314.)。 需要に対する給付能力と給付可能性の関係の間接(Mittelbarkeit)による関連では,こ こでは,個々の自立的な経済活動者が,たとえ,彼が分業制下にあるとしても,自らのた めに決定すべきであることを思い起こさせる。これは,総てのために存在し,経済関係の 管理と規制を行う, 他者の認知により, 補足し, 支援された, 個々の意識では全くない (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.14.)。 しかし,給付物( Geleistete )は,またここでは,需要に対応している時にのみ,価値 を有する。またここでは,この給付物は,価値によれば,全体では,その都度,同一時点 での需要の全体の構成と一致するように,形成される。そうでなければ,またここでは, 無価値物( Unwert )が供給され, この限りで,給付力を浪費する( Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.14.)。 しかし,自給者の経済を分業型の経済と比較すれば,とにかく,次のようになる。すな わち,ワン・マン・給付者では,同一の意識に,欲求の全体,給付力と給付可能性と需要 の全体の観念が見られる。現れる欲求と,給付する能力は,独自の能力である。需要の縮 少,あるいは,拡大に対する動機と,これについての決定は,直接,相互の関係にある。 どのような価値のために給付能力が投入されるべきかと,給付全体の構成についての決定 は,同様に緊密に関連している。総てのこのような関係の規制は,同一の意識により,語 793 ─ 265( ) ─ .
(14) 第61巻 第3号. られた,人の経済の節度(Schranke)で,実行される(Vgl.Nicklisch, H.1933. S.1415.) 。 もちろん,だが,このような調整(Abstimmung)では,困難が現れる。予想されない, 自然の現象が生ずることと,その結果,そうでなければ,目的が成し遂げられうる,労働 が中断される(im Stich lassen)べきであることは起こりうる。困難は,あらゆることが 起こる,意識で,簡単に―多分辛い感情の下でも―実行される,対応した欲求の充足 の放棄(Verzicht)ではなくて,むしろ,諸力の今までの投入の一部分が満足な結果なし に残されることと,今までの給付物( Geleistete )が時間の経過で再び消滅し,完全に無 価値になりうることである。これは,困難な時(Zeit der Not)に,無効に諸力が浪費さ れるように,作用する。反面,給付能力は,また,需要,その上,理想的に規定された需 要を超過しうる。この場合,一部は,充足が可能である,新しい欲求が展開されるまで, 利用されずに残される(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.15.)。 多様な自給者の経済では,総て,経済の過程と同様に,活動の範囲(Rahmen)が,複 数の意識にわたって分配される限り,関係は幾分より困難である。しかし,調整は,繰り 返して,総てのために他者が存在するという,唯一の意識により実行され,このような意 識の中で現れるものの総てがただ資料(Material)として利用される(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.15.)。 このような調整は,ここでは,ワン・マン・経済体(Ein-Mann-Wirtschaft)でと同様 な困難が示されうる。理解は完全に充分ではないため,総ての可能な結果は予想されえな い。必要になった転換( Umstellung )でも,もちろん,またここでも,余剰( Rest )が 生じ,そこでは,継続されえない,給付が既に開始されている。しかし,洞察に関する不 足では, 再び, そこ〈【筆者補足】つまり, ワン・マン・経済体〉でと同様に,外部経済 上の事情が問題になる。〈【筆者補足】反面〉,経済上の事情は,このような狭い領域では, 充分に見渡せる(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.1516.)。 ここでは,給付能力が,需要の全体,しかも理想のそれを上回るという場合が現れる時, 諸力は未使用のまま残される。〈【筆者補足】たとえば,日本では,IT 機器の普及により, 植字工は減少している〉。 むしろ, ここでは,経済の肢体は,完全に,労働から排除され る。これは,管理者( Leiter )の意思により,起こる。展開は,このような場合では,労 働の拡張を上回り, このような経済の危機でその充足が可能である,新しい欲求の生成 (Ausbildung)に対する精神上で可能な限界まで,導かれる。しかし,いずれの時点でも, 給付能力の超過( berschu )の継続では,経済上の存在がとにかくその肢体で脅かされ る。経済上の理由以外から,もちろん,このような状況では,困難が生じうる。内部の争 266( ) 794 ─ ─ .
(15) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). いでは,たとえば,グループの協働者(Frau)を巡って,可能である。 〈【筆者補足】たと えば,医療行為では, 優れたアシスタントの獲得競争が激しくなっている〉 。これら争い は,このため,正に,給付能力が活動を奪うように導く。しかし,上で述べたことはこの ような可能性により弱められない。というのは,このようにしてのみ(lediglich) ,給付能 力を巡る超過が除去されるからである。これは,要求の脱落(Ausf llung)下で,需要の 全体を再び狭めるために必要になるが,これについては必要性が既に(bereits)問われて いる(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.16.)。 分業型で活動する自立的な経済単位は関係を複雑にした。しかし,中間価値の様々な特 徴,購買力の問題と,資本の利用の問題は,この場では,もう一度取り扱われない。これ は既に以前に行った。ここでは,主に,経済の調整が問題になる。全体,欲求の全体と需 要の全体が,ここでは,自立した経済活動を行う構成体の個別の全体から,生ずる(Vgl. Nicklisch, H. 1 933. S.16.)。 これは,全く(schon),充足の可能性が脱落する(ausfallen)時には,需要の縮少の過 程を困難にする。というのは,個々の参加する意識,また,指導的に参加する意識にとり, どこでこの過程が起こるのか,どこにこれらが存在するのかは疑問であるからである。だ れが,需要の縮少のために必要な,給付能力の妨害を斟酌する(Rechnung tragen)者に なれるのか。そして,財の種類( Art )のいずれが,これにより,完全に,あるいは,部 分的に, 排除されるのか。 この過程が行われる, 地理上の領域は広いが, いずれの地方 (Provinz),区域(Bezirk) ,共同体,共同体の一部分で縮少の場合が示されるのか,そし て,どのような頻度(H ufung)においてかは不確実である(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S. 1617.)。 給付の側では,より良くはない。総ての分業型の経済活動者にとり自由に使用できる, 給付の全体に関しては,これら総ての分業型の経済活動者が労働できるべきである。これ は,これら総ての分業型の経済活動者にとっては,彼らが自らの需要の充足に参加する, 社会的生産(Sozialprodukt)である。しかし,この社会的生産は,いずれの人(Person), いずれの充足価値(Befriedigungswert)と,いずれの程度で,需要が,給付の脱落(Leistungsausfall)において,縮少されるのかが分からない時に,正しく構成されうるのか。そして, 多くの経済活動者がこれを知っている時には,そこでは,経済活動を行う単位は自立的で あり,かつ,彼らの個々は独自の意見を有するため,どのように彼らがこれを実施できる のか(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.17.)。 しかし,最悪のことは,このように,経済で,給付能力に関する超過( berschu )が 267( ) 795 ─ ─ .
(16) 第61巻 第3号. 現れるのかに応じて,同時に経済活動を行う人間が没落する(zugrunde gehen)ことであ る。 給付でき, かつ, 給付しようとする人間が,原則上では,他者の給付により必然的 (zwangsl ufig )に保証されることなしに,労働から追放される。というのは,経済活動 者は,前提とされる種類の経済では,少なくとも,個々人は,派生的な,ある種の製造経 営では自立していなくても,家計では,自立しているからである。彼らは,労働からの脱 退後は,経済にはもはや参加しないで,残りの人が与える,施し物(Almosen)により, そうである(es sei)〈【筆者補足】生活する〉。また,多くの人の欲求がまだ労働に関する 参加で完全に充足されることなしに,ここで,給付能力に関する超過が現れえることは, 精神的な打撃を与える。そこで,これは,法外な逆説(s ndhaft paradox)のように思わ れるが,ここでは,だが現実である。すなわち,承認される( willig )給付能力の超過で は,欲求は脱落させられ( ausfallen ),その結果,給付に関しては不足しているため,需 要の全体は縮少される。〈【筆者補足】たとえば,世界中では食料不足の基調があるにも係 わらず,豊作では,市場価格が生産コストを下回ることを回避するために,出荷制限が行 われ,需要の全体も縮少する場合が発生する〉。だれに,全く,国家社会主義の運動〈【筆 者補足】新しい経済システムの構築〉が取り組んでいる,問題は,食事の完全な辛さ(volle Bitternisse auf die Zuge)〈【筆者補足】つまり,貧困〉をもたらさない(treten)のか。 すなわち,これはそうであるべきなのか。われわれはこれをより良くすることはできない のか(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.17 18.)。 それにも係わらず,自立した経営の分業型の経済では,給付の全体と需要の全体の間で の関係が係わるものは,決定的に重要な(Bedeutung)別の困難を示すが,その重要さは, 個人,あるいは,グループの純粋な自給の場合では確認されえない。この困難は,国内(Nation) 〈【筆者補足】経済〉の助成(F rderung)と保全(Sicherung)の必要(Erfordernis), 分業型の経済の傾向(Tendenz) 〈【筆者補足】サプライチェーン〉が切断されることから 生ずる。分業制は,国内〈【筆者補足】経済〉の境界を越えて広がる,傾向〈【筆者補足】 サプライチェーン〉を有する。この分業制が障害なしに作用を及ぼせる限り,個々の給付 は,最低の必要経費(Aufwand)により要求される品質で生産される,国内〈 【筆者補足】 経済〉領域(Bereich)で産出される(hervorbringen) 。製造が至る所で同様な有利さで 行われえるような,財では,当然,全く効果(Wirkung)を示さない。しかし,異なる必 要経費では,展開は,必要経費額(Aufwandstief)を有する領域での集積(Aush ufung) をもたらすのに対して,異なる等級(Grad)の水準(H he)を有する領域は,製造によ り,このような価値の多少を奪い取る。〈【筆者補足】たとえば,わが国では,高級品を除 268( ) 796 ─ ─ .
(17) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). いて, 縫製を海外にアウトソーシングしている〉。その際,格差が,充分に大きく,ほと んどで相当な[輸送のための]必要経費(Transportaufwand)を近似的には調整できな いことが想定される。金額と等級は―既に述べたように―異なる国内〈【筆者補足】経 済〉領域に所属できる。 そして, あれやこれやの領域で, 国内〈【筆者補足】経済〉の存 立にとり絶対必要な, 財の製造が衰退することはありうる。結果が国内〈【筆者補足】経 済〉の相互依存であることと,このため,分業制が永久的な平和への道を準備するとは語 られない。これは, 異なる国内〈 【筆者補足】経済〉の相互依存が同程度ではないし,こ れら相互依存の内,多くの状態が,弱者の自立性を,また,文化上の事情(Kulturding) , 彼らの最高の価値で,脅かすような,政治上の協定(Abkommen)の強制的な提案を創造 することを本当に直ぐに強力に誘導する(einladen)ため,妥当しない。 〈【筆者補足】た とえば,政策により保護されている時には〉 ,起こりそうなこと(Wahrscheinlichkeit)の 程度は,分業により充分に依存させられる国内〈【筆者補足】経済〉が実質上では無防備 である時より,はるかに大きい。国内〈【筆者補足】経済〉は,国内〈【筆者補足】経済〉 によるだけではなくて, むしろまた, 他の起源( Herkunft )の権力と他の目標設定によ り,脅かされることが更に加わる。正に,総ての国内の給付,つまり,社会的生産に対す る対価の,分業型の経済での必然的な分配は,貨幣と資本の集積(Geld- und Kapitalanh ung) が生じ,利害関係で, 国内〈【筆者補足】経済〉の指導を獲得し,これにより,他の国内 〈【筆者補足】経済〉が既に経済上では服従し,分業型の経済の傾向〈【筆者補足】サプラ イチェーン〉の途中でより一層服従させる,試みが行われうる,可能性を与える。このよ うな権力は,特に,この権力を支配する国内〈【筆者補足】経済〉が,また,自らの権力 を不正に用いるために, これらが支配したい国内〈【筆者補足】経済〉に対して,好戦的 な支配(kriegerische Gewalt)を優先させることは,直ぐに考えられる。この場合,金権 (Geldmacht)は,このようにして文化を征服し,そこから,これらに有利なものを行うた めの,用意をする。これに対して,人類(Menschheit)が基礎にしている,文化力(Kulturmacht)を,国内〈 【筆者補足】経済〉が,増大することが必要である。これは,また, 国内〈【筆者補足】経済〉の自由の防御( Verteidigung )にとり絶対必要な,財が問題に なる限り,国内〈【筆者補足】経済〉の境界による分業制の防衛(Abwehr)を暗示する。 国内の必要性と,分業制の傾向〈【筆者補足】サプライチェーン〉の交点(Schnittpunkt) を越えては,自立し,活力のある( lebenswillig )国内の経済は外に出られない。この場 合,このような交点を知ることが最も重要なものである(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.1819.)。 しかしまた, 他の側面によれば, 国内〈 【筆者補足】経済〉の境界を越える,分業制の 269( ) 797 ─ ─ .
(18) 第61巻 第3号. 傾向〈【筆者補足】サプライチェーン〉から,特に重要な困難が生ずる。国内の安全性を 巡る配慮が目立つようになる時には,国内の経済の構造はポイントがずれている(verschieben)。 これは,国際的な分業を扱う,経済政策上の方策で,現れる。個々の[国内の]地域(Nationalbereiche )のために働く,今までの供給国( Leifernation )の製造経済の装置は自らの販 路を失う。これは,多くの購入国(Abnehmernation)で起こりうるし,このため,転換 (Umstellung)は困難である。また,これが非常に迅速に起こると,供給国は充分早急に 転換することが全くできない。結果は,経済での根本的な混乱( Verwirrung )であるに 違いない。 このような混乱は, 自らの内部関係を非常に根本的に(gr ndlich )正視させ る( ansehen )に違いない。というのは,転換が本質上で内部より行われるに違いないこ とはもっともらしいからである。経済がまだ再び秩序付けられない限り,どのような不一 致が給付の全体と需要の全体の間で確定されうるのか(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.1 920.; Nicklisch, H. 1 934. S.6.)。 自立した経営の分業型の経済の困難は,人間に,外部経済上の関連において充分な洞察 (Einsicht)がないだけではなくて,むしろまた,経済上の関係とその発展についての展望 ( bersicht)が自らに〈 【筆者補足】ないことである〉 。この困難は,純粋な自給者では, 決して確認できない。 その他, ここでは, 経済単位の自立性は,偏った見解,利己主義 (Egoismus),あるいは,規律の喪失(Zuchtlosigkeit)から,分業型の全体経済での統合 能力(Eingliederungsfahigkeit)での増大する不足(Mangel)を展開し,この不足によ り,これら経済単位が人間のためのその目的を大きな部分で見誤ることがあるという,危 険(Gefahr)が含まれている(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.20.)。 それにも係わらず,調整(Abstimmung)の問題は,ここでは,絶望的と思われる。こ の解決のために,分業型の経済は,市場(Markt)と呼ばれる,機構(Mechanismus)を 創造した。その際,これがどのような形式を採用するのかは,いずれでも構わない。すな わち,公開の販売所での取引契約, 統制( Kontoren ) ,毎週や毎年の定期市(Wochenund Jahrmarkt) ,オークション(Auktion) ,登記と証券取引所の総体(Summe)とし て示されるか,あるいは,それが私的,あるいは,公的な分配機関(Verteilungsstelle) から構成されるのかは,〈【筆者補足】いずれでもかまわない〉 。本質的なことは,代表者 (Vertreter)の中に需要の全体と給付の全体〈【筆者補足】の認識〉が存在することと,総 ての者において,市場での関係と過程が適宜に知られ,その結果,需要の全体と給付の全 体の縮少と拡大と,構成での変更が,適宜に,かつ,充分に,洞察できることである(Vgl. Nicklisch, H. 1 933. S.2021.)。 270( ) 798 ─ ─ .
(19) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). このようにして,全体経済の調整は個々の経済単位での決定により実施される。このた めの前提は,市場が分配機関の形式を有するとしても,市場参加者(Marketpartner)が, 義務付けられて(verbindlich) ,具体的に表明する( u ern)ことである。このような具 体的な表明( u erung)なしには,調整の能力は全く失われる(Vgl.Nicklisch, H.1933. S.21.)。 経済活動者のイニシアチブ(Initiative)に対する評判(Ruf)と,独自の意思の具体的 な表明の強調,並びに,自身の方法(Weg)を自ら見付けるという必要性は,徹底的に, このような関連に対応している。今や,企業家のみではなくて,むしろ,経済活動を行う べき,総ての者が問題になる。個々の経済活動者は,自らの領域で,適切なイニシアチブ を展開すべきであり, これが, 全体と彼を独りでに継続して支援する( weiterhelfen ) (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.21.)。. 3 成果の分配は成果の獲得と同様に重要である. 成果の獲得(Ertragserzielung)は価値創造経営で実行される。これら価値創造経営は, 総て―事業部門のグループ化で強く(tief)段階付けられているが―家計(Haushaltung) のサービスに努める(im Dienste stehen) 。これら価値創造経営の活動は,このようなサー ビスが無ければ,全く理性的な意義(vern ftiger Sinn)を有しない。価値創造者がこの ような自らの立場を理解し,これらを充たすように用意する程,成果はより確実に獲得さ れる。すなわち,個人,特定の人( Person ) ,あるいは,家計のための,食料品,あるい は,嗜好品,あるいは,耐久消費財,あるいは,サービス(Dienst)であるとしても,直 接的には,これら価値創造者が自ら経済の最後の買い手に売る時,間接的には,むしろ, 全体の系列( Reihe )で,順次,これら価値創造者の給付が,日々の,あるいは,期間の 需要の商品に変わる( bergehen )まで,〈【筆者補足】続くが〉,初めて,他の製造者よ り,全部,あるいは,部分的に,引き受けられる( bernehmmen )時,〈【筆者補足】成 果は獲得される〉 。このような洞察(Einsicht)は,たいてい,家計管理者(Haushaltende) で,かつ,自家消費者(Selbstkonsumierende)としての人間に直接的に販売する,経営 においてのみ存在する。このようなグループでただ働く(zuarbeiten),他者は,耐久消費 財,補助材料,材料とサービスの製造と給付により,直接,あるいは,初めから繰り返し て,中間に位置する経営による過程( Weg )で,このような洞察を簡単に見落とす ( bersehen) 。彼らとその代理人(Vertreter)では,簡単に,彼らが経済体であり,残り 271( ) 799 ─ ─ .
(20) 第61巻 第3号. の総て,とりわけ,家計は,ただ添え物(Anh ngsel) ,あるいは,必要悪(notwendiges bel)であるという見解が成立する。これは,このような様相である,現場(Front)の 背後で簡単に発生する,精神上での態度である。ここで継続して決定を下す,現場は― 強調して繰り返したように―,家計と,家計に直接対向している,価値創造者の段階(staffel) の間に,生ずる。その背後で段階付けられるものは,現場が個々の立場で消滅しないよう に配慮すべきであり,また,最も苦しんで勢力を強く求めている事業部門のマンモス経営 ( Mammutbetrieb )でも,これらが家計の現場の前に存在しなければ〈【筆者補足】つま り, 家計を直視しなければ〉, 総ての価値創造活動と総ての〈【筆者補足】努力の〉注入 (Einflu )が経済上では有意義ではない(sinnwidrig)ことを知っている。また,これは, 後方の事業部門で行われるか,行われる可能性がある,全く大きな発明(Erfindung)で も妥当する。これら発明は,家計の現場で好都合に機能しなければ,意義はない。家計で は,国内(Nation) 〈【筆者補足】経済〉の個々の肢体(Glied)が活動する。国内〈【筆者 補足】経済〉自体は家計で活動する。また,その保護(Schutz)と促進(F rderung)の ために考案され,使用されるモノは,同一の現場に経済上では立たされる。そこで,総て の創造する経営が家計に奉仕するという意図を確信している( durchdrungen )時に,成 果の獲得が,継続して見れば,最も確実に実現されると理解されている。このようにして, 最も迅速に,総ての肢体の全体の給付,つまり,需要の構成( Zusammensetzung )に対 応した,社会的生産の構成が生ずる(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.2223.)。 成果の分配は,個別の分業型で給付する人間に彼らの給付の対価を供給し(zuf hren) , これにより,彼らが使用するモノを,社会的生産から購入する,立場に立たせる。その上, 彼らでは,これにより,活発になる,需要が,労働の機会である,給付可能性の最高度を もたらすように,総ての給付の全体の対価の分配が企てられることが問題になる(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.23.; Nicklisch, H. 1 934. S.9.)。 このような関連により,どのように密接に成果の分配と成果の獲得が共に関連している のか,そして,とりわけ,経済を調整するために,後者の成果の獲得の過程がどの程度本 質的であるのかを示す(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.23.)。 これが更に解説されるが,しかし,初めに,ここで問題になる,概念が説明されるべき である。これは,この場所で,科学上の概念の展開が特に最高の分裂を見せるため,益々, 必要になる(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.23.)。 経営経済上の文献と理論(Lehre)では,本質上4つの異なる成果概念(Ertragsbegriff) が認められる。 272( ) 800 ─ ─ .
(21) ニックリッシュによる『新しいドイツの経済指導』についての一考察(牧浦). 1.儲け(Ausbeute)としての成果 2.売上げ(Erl s)としての成果 3.利益(Gewinn)としての成果 4.[経営による]給付の対価(Gegenwert)としての成果(Vgl.Nicklisch, H.1933. S. 24.) 。 ここでまず除去されるべき,2つの概念は,番号1と2にある概念である。最初の概念 は,経済活動者より,むしろ技師(Ingenieur)が,はっきりと分かる(eineuchten)。そ れにも係わらず,この概念は,また,経済と,正に,経営経済の大学教員(Hochschullehrer) により,既に利用されている。これに対して,〈【筆者補足】たとえば,給付契約でのよう に〉, とりあえず,儲け( Ausbeute )では, 価値( Wert )ではなくて,給付数量関係 (Leistungsmengenverh ltnis)が問題になることが指摘されるべきである。〈【筆者補足】 また, たとえば, 医療給付のように, 病気から回復すると,価値がなくなるように〉,給 付は,そもそも( berhaupt) ,価値がないようになり,そこで,搾取関係(Ausbeutungsverh ltnis)には好都合である(gut sein)。これに対して,成果は価値がある状態(Wertsein) を前提とする。このため,評価されることは避けられない(notwendig)。どのような形式 で,しかも,給付者の対価の協定( Vereinbarung )により,成果が与えられるのかは, 常に,決定的に,市場でのみ行われうる。そして,〈【筆者補足】たとえば,自治体の予算 とその執行のように〉,規定された価格(festgesester Preis)で購入されることを常に必 要とするため,価格(Preis)についての官公庁の規定(obrigkeiteitliche Festsetzung) はこのような協定を理解しない。これによれば,成果は,常に,対価のみである。また, このような対価は,市場を先取りして,ただ評価されうる。これらは,もちろん,リスク を含まない。しかし,これらは,また,この場合,対価以外にはみなされえない。搾取関 係(Ausbeuteverh ltnis)は,それ自体としては,価値も,対価も表わせない。このため, また,この搾取関係は経済上の意味での成果については何も述べられない(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.24.)。 成果概念の内容としての売上げ(Erl s)の除去はより簡単である。すなわち,売上げは 確かに対価であるが,しかし,特定の給付の対価より大きなものを含む。すなわち,〈【筆 者補足】たとえば, バリューチェーンでの取引きのように〉,とにかく,また,問題にさ れる給付で, これらがまた給付されない〈 【筆者補足】つまり,完成品として最後の買い 手に販売されていない〉時でも,このために使用された実質価値(Sachwert)と減耗価値 (Abn tzungswert)を含む。収穫者(Leser)は,消費者までの様々な工業と商業の段階 273( ) 801 ─ ─ .
(22) 第61巻 第3号. による原料生産(Urproduktion)の価値の通過(Durchlauf)を考察し,そして,常に, 繰り返して給付されることなしに,どの程度しばしばこれら原料生産が様々な財で給付の 成果として現れるのかを計算する(zahlen) 。成果概念としての売上げを常に除去するより 他は無い(Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.2425.)。 これにより,列挙された番号3と4が残る。これらを示された順序で取り扱うことが合 目的である(Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.25.)。 年間利益,期間利益の意味での利益は,利益に関する権利者(Berechtigte),主に,貨 幣との関係者(Beteiligte),このような意味での企業家に対する経営の成果(Ergebnis) である。自然人,あるいは,法人であっても,彼らに対するこのような成果には,成果を 手に入れる(haben)ために,彼らの立場から,支出されるべき,金額が掛かる。そこで, 利益は,企業家の必要経費(Unternehmerausgaben)を上回る企業家の所得(Unternehmereinnahmen)の超過( berschu )として生ずる。その際,当然,経営上の根拠に還 元されないものは総て排除されるべきである。更に,決算される期間に対して生ずる,金 額のみが問題になる。利益と呼ばれるものの内容は,しかもまた,このような精密な表示 によれば,更に異なる。一方で,コスト(Kosten)の計算は様々な経済単位で,正に,異 なるためである。しかし,これが実践では相違のみが存在するように見えることは,また, コスト概念に対する多くの勘定科目の帰属性について全く統一性が存在しない限り,理論 上の相違である。更に,利益概念の範囲が,正に,経済単位に与えられる,企業の形態に より,異なる。個人商人と,個人企業の共同出資者では,利益に,また,企業家賃金が含 まれるが,しかし,資本会社の共同出資の利益には含まれない。比較は,報告された基礎 からは,ほとんど不可能である。しかし,総てから,成果という言葉が利益に適用される べきであるならば,利益は企業家の成果の意味でのみ生じうることは明らかである (Vgl.Nicklisch, H. 1 933. S.25.)。 最後に,何が[経営による]給付(Betriebsleistung)の対価(Gegenwert)としての 成果であるのかを説明すべきである。ここでは,この最後の概念に戻るべきである。この 概念は,所属者(Angeh rige),[経営のための]肢体(Betriebsgleider)として,[経営 のための]労働( Betriebsarbeit )に参加する,あらゆる者の給付の全体を指摘する。こ のような労働により一貫して行われる,総ての個々の対象では,これら給付の全体はその 範囲に含まれる。すなわち, [個別からなる]全体(Einzelgesamt) ,総ての参加する[経 営のための]肢体( Betriebsgleider )の給付の全体がこの範囲には〈 【筆者補足】含まれ る〉。われわれの関連では,期間の[経営による]成果(Betriebsertrag)が中心になって 274( ) 802 ─ ─ .
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