墓地整理に伴う地蔵の移動 ―仙台市仏教寺院の調
査から―
著者
ドンネレ・アリーセ
雑誌名
論集
巻
44
発行年
2017-12-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00130356
墓地整理に伴う地蔵の移動
仙 台 市 仏 教 寺 院 の 調 査 か ら ー (113)ドンネレ・アリーセ
1 .序論 本論文では,筆者はもともと個人墓のそばに記られた地蔵像の記られる場と 把り方の変更に伴う意味の変化について考察したい。この問題は仙台市内の仏 教寺院における地蔵像の研究過程で気づいたことであり,研究者が注目すべき 問題だと考える。 本論文の対象である墓地整理の際に移動され た地蔵像は,大きな水子地蔵像およびもともと 個人供養のために建立され,人々の信仰を集め た地蔵尊1などではない。今回は,あまり研究 されていない,もともと個人基のそばに建てら れた2種類の小さな仏像に集中したい。一つは 特定の家族の水子のために建立された水子地蔵 である。墓地に行くと,個人墓のそばにこのよ うな仏像をよく見かけることである。 図1 光明寺の墓地にある個人 もうーつは江戸時代から昭和前半まで建立さ 墓のそばに肥られている水子地 れた30cm-100cmぐらいの地蔵像である。この 蔵(筆者撮影2017.03.11) 二番目の地蔵像はよく亡くなった子供の墓標とし て建立されたと言われている[吉田:1962 : 259.五来:2007 : 11 -12]。 筆者がインターピューした住職たちはこのような小さくて古い地蔵像を「子 供の供養のために記ったもの」と称した。しかし住職が「子供の供養のため に杷ったもの」と称したいくつかの仏像には子供の戒名ではなく,大人の戒名 が彫られている。子供の戒名はxxxx
章子・童女であり,大人の戒名(XXXX
l 宮城県におけるこのような仏像の例は[宮1983Jにあげられている。 -84(114) ドンネレ アリ}セ 信 士 信 女 ) も た ま に 彫 ら れ て い る , [五来 1981]。五来震によると,地蔵尊は非業の死者(例 えば,洪水などの多数死者の慰霊)のために建 立することが多く,子供の死者のために建立さ れた地蔵尊は天折死で亡くなったものが崇りを 起こさないように建立されている仏像である。 [五来20日7:262-263]
。
また,建立の年月日だけが彫られている地蔵 像もあり,多くの場合,石が古くなって,彫刻 が読めないため,何のために建立されたのか, もうわからなくなっている。 墓が無縁墓になるとき,この地蔵像は墓石な どと一緒に処分されたり,無縁塔3などに集め られたりすることが多い。 ー~ 図2:瑞鳳寺にある,子供の戒 名が主u
まれた地球尊(!it者撮影 2016.06.08) 彫刻の内容 俗名菅野勘之丞(俗名) 背荷量子(戒名) 元文五年九月二十四日(おそら く,亡くなった年月日 (1741)) 行年四歳(亡くなったときの年 齢) しかし地蔵像だけを分け て,寺院の境内で杷ることも ある。地蔵像を個人墓から分 けて,ほかの場所に移動する ときに,この地蔵像の意味, すなわち特定な家族の子供・ 水子のために建立された仏像 というアイデンテイティも変 わると思われる。この地蔵尊 の場を決めるのは,多くの場 合,寺院の住職であるため, 図3 万福寺にある無縁搭(筆者振影, 2016,08.08) 2 ちなみに,信士・信女の他の戒名(例えば1 居士および大姉)が刻まれた地蔵尊 を見かけたことがほとんどない。一体だけには尼に終る戒名があった。この地球時 は如来教の寺院の境内にあり,おそらく寺放の供獲のために建立されたものである。 3 担縁塚,永代供養塔!剖霊塔などとしても知られている。 83墓地蜂理に伴う地球の移動 (115) 主に住職とのインタービューを通じて1 住職の説明による地蔵尊の移動の理由 を考察する。 筆者はこれまで214ヶ所の仙台市内の寺院の悉皆調査をしてきたが,本論文 のために,
3
ヶ所のケーススタディーを選んで,それに加えて,他の事例も挙 げたい。ケーススタデイーを3
つに絞った理由は詳細に地蔵像の場と杷り方の 決定までの過程を論じたいからである。 その調査のデータに基づき,個人墓から移動された地蔵像がと暑のように杷ら れているか,そして,寺院の空間においてどんな役割を果たしているのかを論 じたいと思う今回の事例調査は,典型的なパターンを選んだ。しかし,本論文 の流れにはさらにユニークな杷り方,および地蔵像から作成された複雑なオブ ジェも出てくる。 選択した三つの事例から地蔵尊の3つの把り方を紹介する・ 1 )墓石と一緒に無縁塔などに集積すること,2
)
墓石から分離して,寺院の檀家の全ての水子・子供の供養のための地蔵群 を形成すること, 3)墓石から分離して,水子供養以外な意味付けのある地蔵群を形成すること。 この3つの紀り方を浄土宗の正円寺と照徳寺,そして,曹洞宗の金畠寺の事 例で取り上げたいと思う。2
目地蔵尊と子供の関係 地蔵尊と子供との特別な繋がりは経典にあまり見られない由。'地蔵尊が小 僧として現れるモティーフは『今昔物語集J
などの中世の説話集において頻繁 に見られる50 日本のシャマニズムにおいて,子供は女性と老人に並んで霊託 の媒介者であり,現世と他界,つまり,この世とあの世をつなぐ機能を持って いるとされる。i
度浩ーによると,縁ある衆生を救うために,現世及び地獄に入 札冥官の前で罪人を弁護し,堕地獄者を蘇生させる力を持っている地蔵尊が4
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延命地蔵菩陸経J
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地蔵菩臨本田1
経』などには様々な役割が取り上げられてい るが,子供への強調は見つけられなかった。地蔵信仰および経典の日本と海外の研 究者もその幣がりを取り上げない。 5 日本と海外の研究者がそのモティー 7をよく指定している。例えば。[片寄1974: 432-461J ([今昔物詩集』を中心として)。及ぴ [Dykstra1978J([地蔵普隆露験記J を中心として)。 82(1l6) ドンネレ アリーセ 小僧の姿で現れるようになったことは偶然ではない。「小僧の〈お地球さん〉は, 他界と現世の両義的存在としての子どもと地蔵菩薩の習合した姿にほかならな いJ [波2011・71]
。
東北地方を中心に大正時代まで残っていた地蔵掛け及び地蔵遊びという民俗 宗教儀礼には.南天,笹葉,地蔵像などを持たせた子供を囲み,その子供に地 球尊を滋依させたことである。手に持ったものが動き始めたら,それを地蔵尊 のついた印として,参加者が病気及び失せ物について尋ねたりした[桜井 1977: 323-24;大島1992: 57 -61]。このような儀礼において,子供は地臓尊 が信者の希望に応じるように現れるためのー杏適切なのりものとして考えられ ていた。このような儀礼の存在から,また,民俗信仰において,地蔵尊と子供 の繋がりが強かったことを理解できる。 波は日本の各地に伝わる,次の伝説を取り上げる: 「地球の尊体を負うたり抱いたり,呆ては川に入れたりして,子どもたちが 遊んでいるのを見谷めた大人が,子どもたちを叱りつけて止めさせ,尊体を洗っ てお堂に戻したところ,子どもたちと楽しく遊んでいたのに余計なことをした と,地蔵が大人のほうに崇って,病気などの罰を与えた。 J [渡2011: 72] 仙台においても閉じような伝説がある。その伝説によると,大満寺(曹洞宗, 泉区)の門の前に立っている地蔵尊の頭で遊んでいた子供たちが大人に叱られ た後,その大人が病気になって,地蔵尊のE
買を子供に返した後に病気が治った という6。また,本論文に出てくる照徳寺の「流れ地蔵尊」も子供の遊びに参 加したという伝説がある。ここで,地蔵尊はやさしい〈お地蔵さま〉より,い たずらが好きな子供の仲間として現れてくる。 このような〈子供の仲間〉としての子供のかみさまのアイデンテイティは, 地蔵盆の存在によって強調されている。地蔵盆は京都を中心として近畿地方に 行われている祭であり,その当日, 8月23-24日に,町・村の地蔵像を対象と して,その町村の子供逮が祭りの行事を企画して,様々な儀礼が行われるら つまり,地蔵尊が子供の守護者,子供のかみさまであり,子供の姿で現れる 6 この伝説は[仙台市史編纂委員会1999(別券6): 386J に械せられている。 7 祭りの行事が地域によって違うが.一般的に地球像に飾りを付けて!化粧をして。 百万遍念仏(大きな数珠を繰り回しながら念仏を唱える儀礼)をして,地蔵尊に供 物を供えるパターンである。[大森1992J 81墓地盤理に伴う地蔵の移動 (ll7) ことが多いという観念が存在して,この世だけでなく,あの世でも子供の世話 をする役割も果たしているという信仰がある。こちらは,地蔵書Iが地獄からの 救済者として知られているため,不思議ではないと思われるが,また,地蔵尊 の経!)I!におけるイメージと迷う内容がある。 餐の河原(i!9院河原として記述することも多い)の信仰は,ヘンク・グラス マン (HankGlassman) が,中世日本仏教における地蔵尊のイメージについて の著書において指摘するように,仏教における「子供の煉獄」のようなもので あり [Glassman2011 : 144
1
.
日本だけに存在して,他の固にはあまり見られ ないとされている80 ~1fの河原信仰の起源はおそらく仏教ではなく,民間信仰の道祖神信仰,境の 干'11の信仰に基づいている。道祖神は豊餓,安産の神としても信仰されていたた め,多くの研究者は道祖神と地蔵尊との習合を考察してきた90 し か し 津 田 瑞穂によると,江i
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地方にも子供が瓦碑の類を集めて塔を組む風習があって, 中近世の留学僧・渡来僧が江街地方を訪ねて,そこの地蔵会の存在を知ってい たはずである日畢回 1968: 125 -126J。 饗の河原に関する一番知られている和讃,r
西院河原地蔵和讃J
は饗の河原 の様子と地蔵尊の役割を次のように語っている10 二つ三つ四つ五つ中にも足らぬみどり子が西院の河原に集まって,父上恋し, 母恋しと泣きながら,河原の石を取り集めて,自分の家族のために回向の塔を 組む。陽が入相のころ,地獄の鬼が現れて,父母は追普作普の勤めなくて,た だ毎日哀しみで嘆いているため,子供たちが苦患を受けていると言い,子供述 が積んだ搭を押し崩す。このような哀しい子供のリンボーのイメージを地蔵尊 の登場が和らげる。地蔵尊が子供の前に現れて,r
汝等命短くて冥途の旅に来 るなり裟婆と冥途は程遠し我を冥途の父母と思うて明け暮れ頼めよJ
と言い, 子供を自分の衣に包んだり,抱いたり,撫でたりして,親の代わりに子供の世 8 ~鍋広済は授の河原信仰を室町時代まで過して。一番知られている『鈍の河原地 蔵和讃』のパージョンが17世紀に作成されたとしている[真鍋 1956]。波i告ーはm
の河原地蔵和讃jを17世紀の前半に記載している[波2日01:波2005]。 9 例えば, [柳田1964(27) : 277],及び[和歌森1951]。
10m
の河原地蔵和讃J
のパージョンがたくさん存在しているが。ここでは空也上人 の作とされる『西院河原地蔵和讃I
に基づいている。この和讃は日本だけでなく! 小泉八雲の翻訳のおかげで,外国でも知られている (Hearn1894, pp.6日61)ロ 80(
1
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)
ドンネレ アリーセ 話をする。 ここで,地蔵尊は子供の守護者に加えて,親の身代わりの役割も果たして, 亡くなった子供の保護者になっている。饗の河原の信仰は矢田地蔵院などの有 力な寺院によって支えられ[渡2
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.
絵解きという仏教の教えを簡単に解く 絵図を使っていた旅僧によって広められたものである [Kaminishi2
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寮の河原が基づいている思想は二つの商を持っている。自分の家族を覚えて いる子が地蔵尊によって保護されているイメージは子供をなくされた親を慰め るが,一方,地蔵尊の崇作への強調があり,親が自分のなくなった子のために, 地蔵尊の保護を祈願しなければならないという意味も含まれていると考えられ る110地蔵尊への祈願,供物,そして,追善供養は地蔵尊と亡くなった子供の 縁を確保するための主な手段だったと思われるが,子供が必ず地蔵尊によって 保護されるための仕方は他にも存在したかもしれない。 例えば,地蔵尊が刻まれた墓石,及び,子供の戒名が刻まれた地蔵像の建立 はその一つの仕方であったと考えられる。このような墓石には子供らしい地蔵 尊が刻まれ[日本石仏協会1
9
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6:
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.
この地蔵尊がおそらく二つの役割を来 たしていた。一つは,子供が地蔵尊のそばにいるということを明らかにする役 割であり,二つは,亡くなった子供のイメージとなる役割である。たまに,一 つの墓石に二鉢の地蔵尊が刻まれた。このような墓石の意味は,幼い子供が一 人で他界に旅することは安全ではないため,地蔵尊が子供のそばに立って。導 きするということであるとされる九しかし,小山隆秀が他の説明をあげている。 青森県弘前市禅林街在住の石屋が,亡くなった子供を供養する地蔵について 語って.r
普通,一つの石に彫るものだが,何人も子供の死が続いた家が経済 上の理由から,一つの石に二体の地蔵を彫ってしまう場合がある。すると次に 生まれる子供にも災いがあって良くない」と説明した。この石屋によると, このような二体の地蔵を建立した後,不幸が続いてしまった人は改めて別個に 地蔵を建てたということがある[小山2
日1
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この事例は昭和前半の青森 県の状況を語っているが,その前でも経斉上の理由に基づいて,一つの墓石に 二体の地蔵尊を彫った家族があったと考えられる。1
1
~の河原の 'Et味の詳細な分析に関しては. [真鍋1
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を参照。1
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このような説明は!例えば. [升上1
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にあげられている。 ー7
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墓地整理に伴う地臓の移動 (119) この地蔵尊の彫刻及び像の子供らしさはよく研究者によって記述されている にもかかわらず13 実際に子供を象徴するように刻まれたのか,および私逮, 現代人がそのように見たいのか,明らかではない。子供の墓石として建立され た地蔵尊の本当の数と,子供の墓石ではないが,同じ形をしている仏像問主
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との区別も明らかではない。この像は凝灰岩のような,やわらかい石で作成さ れ,非常に崩れやすく,刻まれた戒名,年月日などは早く消えるMO 須藤弘敏は著書の『かわいい仏像 楽しい地獄絵』にて次のようなことが述 べられている 「日本各地には何十万体もの仏像があるが,i
すごい」と言わせるような 像は実はめったにない。困宝や重文に指定されるような仏像はほとんどが すごいのだが,それはすぐれた造形性と深い精神性をたたえているからで ある。ところが全国の寺々にまつられたご本尊の仏像の多くは。端整でき れいなものの,とくに飛び抜けた造形性や強い緊張感を感じさせることな く,ある意味退屈な彫刻である。しかし,ここで勘違いしてはいけない。 際だった造形性を示さないそれらの「すごくない」仏像こそ,実は江戸時 代から現代にいたるまで最も望ましい仏像だったのである。」 この「すごくない」仏像は個人宅の仏壇に杷られた,素朴で,かわいい仏像 だった。個人のニーズに応じた仏像は身近で感じられるように,ユーモアがあ ふれるもののほうがふさわしかった。須藤は「すごい」と「かわいい」仏像を 対立して,i
すごい」仏像が「お寺の真ん中にぽつんと置かれるのではなく, 美麗な布を掛けた壇の上に荘厳具や燈明を伴って一種のユニットとして記られ, わかりやすいきれいさをそなえたちょっと品の良い仏像であるのに対して,i
か わいい」仏像は日々の暮らしの中で感じる辛さ苦しさ哀しさを除くこと,わず かな幸せを願うこと,ごく身近な場でそうした思いを訴える対象として使用さ れていた [須藤2014:18-19J。 このような「かわいい」仏像の事例は地蔵像だけでなく,観音,文殊,普賢 などの菩薩,十玉,鬼などを含む [須藤2日14:20-32J。地獄絵もユーモラ 13例えば, [吉田1963・14:において,r
信心深い石屋さんたちは亡くなった可愛い赤 ん坊の姿をそのまま地蔵さまにしました」と述べられているロ 14例えば。[小山201幻には,なき子供の供養のために建立された地政1量訴の調査のデー タが述べられ。石の状況により,地蔵尊の建立目的と奉納年代を判断できない場合 が多いと昔向、ている。 78(120) ドンネレ・アリーセ スなイメージを含んで,堕地獄の恐怖を教える教化的な機能だけでなく,
i
怖 いものの見たさの小さなアミューズメントパークのような効果が受けたために 迷いないJ
と述べている [須藤2014:32]。つまり,須藤が述べているように, 民間に広まっていた,個人的なニーズに応じた仏像は寺院の仏像と違って,庶 民の歓心を得るために,わざとかわいらしく作られていたケースも多かっただ ろう。 子供の供養のために建立された地蔵像および彫刻は1 同時に,個人のニーズ のために作られたものであり,その「かわいらしさJ
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子供らしさJ
は子供を 象徴しているからだけではないかもしれない。墓石・仏像を注文した家族およ び石屋は,地蔵尊(もしかして,地蔵尊だけではなく,全ての仏)をかわいら しくイメージしたため,このように作られた可能性もある。 20世紀・21世紀の人々にはこの仏像のイメージは迷うと思われる。水子供養 は1970年代に登場して,中絶流産された水子への注目とともに新しいイコノ ロジーも取り入れた。例えば,水子地蔵尊である。それはおそらく突の河原の 信仰に基づいているが,完全に饗の河原に相当することはない [Hardacre 1997:28-30]15,
現在,技術と医療の発達とともに,人間の地獄・他界に対する恐怖が弱くなっ てくると思われる。こうして,地蔵尊の地獄からの救済者の役割はだんだん重 要さを失ってくる。しかし,同時に,子供の死への関心が高まってくる。子供 の死は普通のものではなく,悲劇!として見られていたため,地蔵尊の他界にお ける子供の守護者・保護者の役割は強調されているではないかと考えられる。 頼宮本広が述べるように,饗の河原の信仰が存在していたが,i
水子,あるい は生まれながらも生活苦などから間引きされていった子供たちはく 〉これま で特定のほとけに託されることはなく,施餓鬼や孟蘭盆にかねて供養されるこ とが少なくなかったJ
が, 1970年代,子供の生命への関心が高まって,生まれ なかった子供の命も関心を集めるようになった時代,慈悲の仏の代表である地 球菩薩および観音菩薩に水子供養を担当してもらったという考えが強くなって きた。それで,以前にはなかった水子地蔵,水子観音が生まれた [頼富 15 Hardacreが指摘しているように。泣き子供が自分の両親社会の被害者であり,界 がなく苦労しているという観念は伝統的な突の河原のイメージと迷い。水子供養が 取り入れたものであると考えられる。一
77【墓地控理に1'1'う地球の移動 (121) 1984 : 157 -158J。 水子供養の地蔵尊のイコノロジーへの影響の一つは地蔵尊と子供の関係の強 調であると考えられる。水子地蔵の像にはよく地蔵尊の衣にすばり付いている 児童,および地蔵尊に抱かれている赤ん坊がある。抱かれている赤ん坊と二三 人の児童がすばり付いている像も時おり見られる16。赤ん坊の像の頭にはよく 檀家およひP寺族が作った赤い帽子が被らせている。同じ帽子が地蔵尊の顕にも 飾られている。加えて,個人墓のそばに建っている小さな水子地蔵 (50c mぐ らい)の像はたまに赤ん坊の形をしている。よくこのような赤ん坊らしい水子 地蔵を見て,その目的を理解している人は,かわいらしく,子供の形をしてい る地球像を全て子供の供養のために建立されたものとして解釈することが可能 ではないかと思われる。 泣き子供の供養への強調は背森県の川倉地蔵のようなところで行われている 地蔵祭の意味の変化にも見られる。 1960年代までの日記及び新聞の記事からわ かるように,地蔵祭は子供と若者向けのにぎやかなパーティーであったが,現 在,その娯楽の機能を失って,静かな法要になっている [小山2012.
福民
2007 : 74J。
従って,研究者および住職も,一般の信者より知識を持っているにもかかわ らず,現在社会に生きていることから,子供の供養にあまり関係ない地蔵像を 子供の供養のためのものとして解釈する可能性が有ると考えられる。本論文に おいて,インタービューされた住職の説明によると,住職が墓地から移動され た地蔵像を子供の供養のために建立されたものとして解釈しているため,この 像の最初の役割J
を同じように記載する。しかし,前述したとおり,墓地にある 全ての地蔵尊は子供の供養のために建立されたわけではなく,いくつかの像の 目的に意味の変化が行われたと考えられる。 3 無縁塔に収集された地蔵像 一番よく見られる扱いは墓石とともに無縁塔などに集められることである。 16赤ん坊を抱いている地蔵像は水子供養以前にもあったが,その数はそんなに多くは なかった。そして.
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の河原および泣き子供の供養への関係は必ずしもあったと言 えない。例えば. [三吉1975: 213]には章子を抱いている地蔵尊について述べられ ているが,その地蔵尊の説明には全く子供との関係を見られない。 n h U 7(122) ドンネレ・アリーセ 図4.5無縁塔の上にある観音像を聞む小さな地蔵像,笹渡寺(筆者撮影。 2017.03.17) その場合,地蔵像は墓石と同じように, 無縁塔の一部分に過ぎず,仏像というより,壁の煉瓦および模様として見られ ていると考えられる。 しかし,地蔵像を無縁塔に纏めても,無縁塔の構造の中に地蔵像に特定の位置 を与えることもある。例えば,無縁塔の上にi品せることがある。このような使 い方はいくつかの仙台の寺院に見られる。例えば,資福寺(臨済宗妙心寺派)• 誓波寺(臨済宗妙心寺派).大願寺(
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争土宗)である。 他の使い方は地蔵像の囲いを作成することである。いくつかの寺院には,無 縁塔がその聖なる性格を強調するためにデザインされた。例えば,荘般寺 (i争 土宗)には墓石が完全に地蔵像の後ろに隠されて,無縁塔は地蔵像から作成さ れたものとして見える。普応寺(臨済宗妙心寺派)には. 1 m ぐらいの地蔵像 が無縁塔の上に載せられて,墓石の台座の上に建っている。この墓石の台座は 蓮の花びらのように作られている。そして,小さな地蔵像はその墓石の台座に 建っている地蔵尊を囲んでいる。 ここで,寺院の住職が無縁塔に収集された地蔵像をどのように説明している のかという事例を取り上げたい。 正 円 寺 (i
争土宗)は多くの仙台の寺院とともに,新坂通りにある。現在福島 75墓地整理に伴う地蔵の移動 (123) 図6,7,8醤応寺の無縁塔(筆者搬影2016.12.26) 県いわき市の専称寺の末寺で17 もと肴町にあったが.1632年6月,大願寺の 南の地にー寺を建立してこれに移った。 1812年,失火のため堂宇・什器一切が 灰燐となって,同年再建したのである[仙台市史編纂委員会1953: 345J。 正円寺の本堂には,すばらしい木造愛宕尊騎馬像(神道の火防の神であり, 将軍地蔵の垂漣としても知られている18)と六地蔵菩薩立像の七鉢の像(1716年, 大仏師伊織の作)が安置されている。六地蔵と愛宕尊はもと附属仏堂に安置し てあったが,明治初年堂宇朽廃の為本堂に移った[仙台市史編纂委員会1953 346J。この像は仙台市の指定登録文化財であり,仙台市教育委員会文化財課に よると.
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火伏せの神といわれる愛宕尊像が六地蔵と共に杷られているのは, 類例がなく貴重であるJI9。つまり,正円寺は地蔵信仰との密接な関係があり, 寺院に杷られているほかの地蔵像の説明もその関係によって影響されているか もしれない。 正円寺の墓地には無縁搭がある。地蔵像は墓石と一緒に!!!¥縁塔に集められた が,地蔵像は無縁塔の上に安置させられた。 正円寺の住職によると,この地球像は墓地から移動され,もともと「亡くなっ た子供を供養するために杷ったもの」であった。無縁塔の構造を次のように説 明している 17専称寺の歴史について,そのホームページをご覧ください:http://sensyouji.com/ 18本地垂迩思想のよると,判1道の判lは仏 菩躍などの化身であり。日本の地において. 仏教以前にも存在していたということである。本地垂迩について. [末木2007], [Teeuwen, Rambelli 2002Jを参照。 19仙台市教育委員会文化財課のホームページーhttp://www.sendai-c.ed.jp/ーbunkazai/ shiteidb/c00709.html 74(124) ドンネレ・アリーセ 「我々人間は地に生きているね。ほとけさまは天国のものだ。ほとけさま を天にあげたいなと,思って,上にのせられた。このように,ここの下にい るもの〈墓石のこと〉はみんな天国に行くよねヘ」 このインタービューの後, 「天国
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という言葉を使った 理由を住職は,筆者,外国人 に分かりやすく説明するため に用いたと言い,実際は「浄 土」を意味したということで ある。 この事例から見ると,正円 寺の無縁塔の構造には墓石が 図9:正円寺の無縁搭(錐者揃影2017.04.20) 死者を象徴しており,地蔵像 は幼いころになくなった子供・水子ではなく,天国にいて,死者を待って,死 者の蘇生を支援している仏を象徴している。住職は地蔵像のもともとの役割と して「子供の供養」を挙げているが,無縁塔の構造の中でこの役割は全く表さ れていない。寺院には珍しい地蔵尊と愛宕尊の像が安置されているため,住職 にとって,墓地から移動された地球像も死者の供養のために杷ったものより, 地蔵菩薩を象徴している聖なるものであると考えられる。 4 みんなの子供 たまに,地球尊だけを墓石などの個人慕にあるものから分けて,寺院の境内 のどこかに集積することもある。ここで,まず仙台市太白区にあるl
曹洞宗の寺, 金昌寺の事例を取り挙げたいと思う。 金昌寺のホームページによると,寺院は福島県宇多郡駒ヶ嶺村「金自立l
完」の 末寺として関山された。本寺が江戸期に廃寺となり,以来,仙台市根岸町宗禅 寺の末寺となった210仙台市史は金昌寺の閉山を 1575年として,現在の福島県 白河市の長楽寺の末寺であったと述べている [仙台市史編纂委員会1953 280]0江戸末期に火災により閉山以来の関係書類等ことごとく焼失したため, 20 2017.04.20のインタービューより。 21 金昌寺のホームベージ http://www.kinshoj.ior.jp/index.htm 73墓地整理に伴う地蔵の移動 (125) 金昌寺の沿革の詳細は不明で ある。火災の後,荒廃極まっ た金昌寺を寺子屋時代の廃材 を利用して仮本堂を再建した と伝えられている。 1967年に 本堂を再建した。新しい本堂 は1976年4月不慮の火災によ り全焼して.1977年4月30日 に現本堂が再建された。しか 図10 金昌寺の「水子子育て地蔵像
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(筆者撮影, しその後でも,道路工事な 2016.08.23) どに伴って,金昌寺の境内に 工事が行われた。 金昌寺の墓地の入り口に把られている大きな 地蔵像は「水子子育て地蔵像」と名づけられて いるが,住職によると,水子供養のためだけで なく,永代供養のためにも記られている。この 中には追善供養ができる家族がいない死者の遺 骨が入っている。「水子子育て地蔵像J
は墓地 の入り口に建立され,墓参に来る檀家はそこを 必ず通って,拝んでいるためにこの位置が選択 されたということである。また,お彼岸,お盆 の時期にはたくさんの供物が供えられている。 図11 金昌寺の「水子子育て 地蔵像」の後ろにある小さな地 蔵像(鋒者掃影2016.08.23) 住職によると,この地蔵像は寺院で一番参拝されている仏像であるへ 「水子子育て地蔵像」の後ろには古くなった墓を整理した際にここへと集めら れてきた地蔵像が数多く紀られている。同じ墓の墓石などは墓地の奥の無縁塔 に集積されている。住職は墓石と地蔵f
設を別々に杷る理由を次のように述べて いる: 「亡くなった子供の為に紀られたお地蔵さんは可愛そうなので,人が拝んでく れるところで杷ることにしましたJ
。 22 2016.09.23のインタービューにより。 一72(126) ドンネレ アリーセ 「水子子育て地蔵尊」は永代 供養の役割も果たしているが,
i
供物の中には多くの子供のお 菓子,ヤクルトのボトルがあ ることからすれば,植信徒は それを水子地蔵として理解し ていると考えられる。また, その地蔵群のそばに追普供養 ができる跡継ぎがいない夫婦 図12:国分尼寺にある地蔵障の群れ(筆者撮影, の永代供養のために建立され 2017.02.02) た地蔵像がある。つまり,墓 地の入り口にいわゆる忘れられた死者のためのメモリアルのようなものがあり, 大人の供養のための地蔵像と子供の供養のための地蔵像が分けられている。 似たような形(大きな地蔵像+個人墓地、ら移動された地蔵像)をしている地 蔵尊群が他の寺院にも墓地あるいは墓地の入り口に記られている。例えば,持t 土寺お(i争土宗),国分尼寺(曹洞宗),江巌寺(曹洞宗)である。江燥寺とffi', 土寺には,子供の墓石も含まれて.大人の戒名が刻まれた墓石が群れの中にも, その近くにも見られない。 子供の供養のために建立された地蔵像が墓地,及び墓地の入り口に一番参拝 されている地蔵像のそばに杷られている場合,その原初的なアイデンテイテイ, つまり,子供の供養のために杷られたというアイデンティティが保存されてい るが,この像・墓石を建立した特定な家族との関係が失われている。この像は 墓参りに寺院を訪問している檀信徒によって参拝されたり,供養を受けたりす る。金昌寺と他の寺院にあるこのような地蔵尊群に供えられた供物から見ると, 檀信徒は子供の為の供物を供えることもある。そして,金昌寺の住職と他の住 職の話を聞くと,それは寺院の全ての檀家(無縁になった家族を含んで)の子 供・水子を象徴することになるという。 23 浄土寺は来日本大震災のとき流され,移転された。しかし,事例の地球部群は現在 もi争土寺のもとの場所にある。 71ー墓地整理に伴う地臓の移動 (127) 5 地蔵像のほかの杷り方 しかし個人墓地、ら移動さ れた地蔵像は必ずしも子供の メモリアルに集められている わけではない。まず,市
E
り場 は墓地と墓地の入り口だけで はなく,寺院の入り口,参道 などもある。地蔵像を寺院の 門の周囲,および寺院の途中 図13 林香院の墓地のデザインに使用された地蔵像 に肥る習慣はおそらく古来の (隼者撮影2017.02.16) 道祖神の信仰に起源している [五来2007: 257 -2751ヘ道祖神(サヘノカミ,道陸神などとしても呼ばれ ている)は,防障・防塞の神であり,柳田国男の『民俗学辞典』によると.i
外
から製い来る疫神悪霊などを村境や峠・辻・橋のたもとなどで防障する義であ り,また生者と死者,人間界と幽冥界の境をつかさどる判1の意である[柳田 1951 : 40010J現代人はよくその関係を気にしないが,住職が,門のそばに杷 られている地蔵像について質問されるとき,寺院の入り口に地蔵像を建立する 習慣があると答える。そのため,墓地から離れて,門のそばに安置されるとき, 地蔵像は寺院の守護者として理解されることも可能である。 地蔵像はデザインのオブジェとしても使用されることがある。例えば,林香 院(曹洞宗)には,墓地の聞いは石のオブジェの二列からなりたっている。後 ろの列は古い墓石からなりたって,前の列は50cmー70cmぐらいの地蔵像である。 そして,墓地には墓の列の両端には同じような地蔵像があり,墓地の真ん中に は人間の大きさぐらいの地蔵像が建立されている。 同廃寺(曹同宗)にはいくつかの子供の戒名が刻まれた地蔵像が寺院の聞い に含まれている。もし誰かその像を参拝して,供物を挙げようと思ったら,そ れは無理である。この地蔵像が信仰・供養の対象というアイデンティティを失っ て,寺院のデザインの一部分になっていると考えられる。 24 様々な研究者は道祖神と地蔵部の関係を指摘している。例えば. [谷口,明見1985: 18-24].[富士1974:59-7剖. [大島1992a J。
70-(128) ドンネレ・アリーセ 図14,15:
!
I
H徳寺の流れ地蔵(左)と生き残った堤人形(右)(筆者撒影2017,03,22) しかしたまには墓地から移動された地蔵像から構成された群れは複雑な意 味を与える場合がある。ここで,被災地にある浄土宗の寺,照徳寺の事例を取 り上げたいと思う。 照徳寺は仙台市新寺小路にある成楽寺の末寺として開山され[仙台市史編纂 委員会1953:364]. 海岸から僅か3,1kmである。それに関わらず,住職によると, 東日本大震災まで海岸近くに住んでいるという感じが全くしなかった250寺院 の周りには緑が多かったが,今はわずカ吋可本の木が残っているだけで,多くの 住宅が流されて,海から来た風が寺院まで吹くようになった。 日現徳寺には,昔から把られた流れ地蔵がある。この地蔵尊が子安地蔵として 知られおり,子宝の霊験があるとされているお。伝説によると,元は中野にあっ て,子供たちが親しんでよく持ち出してー緒に水浴びをさせていたが。ある時, 突然の雷雨で子供たちは逃け合帰ってしまい,地蔵尊は流されてしまった。下流 の和回新田付近で拾われ,当寺に持ち込まれ,授かりものとして,境内にお地 球堂の中で紀るようになった。寺院の周辺には,子供がほしい人は堤人形(地 蔵{ゑ男の子,および女の子の人形)を奉納して,枕を借りたら,子供を授け られるという伝説がある。女の子がほしい場合,赤い枕,男の子がほしい場合, 白い枕と定められている。子供が生まれたら,二個の枕を返さなければならな 25 2017.03.22のインタービューより。 26 子安地蔵について, [柳田 1964(27) : 299-302] を参考にしてください。-69-し
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墓地蜂理に伴う地践の移動 (129) た め M V と だ 険 危 キ I 晶 、y ﹄ 、﹄ る す 置 一 安 て め 改 堂 一 蔵 地 後 で 下 い 月 境3
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1
0
年ぐらいに無くなる可能性が高い。そのため,現在の地蔵堂跡の構造は有る意 味でその地蔵堂の石仏版であり,周りの人に元の地蔵堂の様子を思い出させる 方法であるとも考えられる。 この場合,地蔵像の群れ,大きな地蔵像の周りに集められた小さな地蔵像, 三つの役割を来たしている。まず,自分の墓を失った家族は自分の亡き子供・ 水子を参拝し続けて,子供が無縁になることを防ぐ。一方,流された地蔵堂の 記憶として,寺院の震災前の様子を思い出させる。このような二重のアイデン ティティは寺院と寺院の周辺の震災による変化を受け止めることを可能にする ではないかと考えられる。 結論 日本人と外国人の中で. 1m
以下の地蔵像が子供の供養のために建立された ものであるという考えが強いが,本稿で示したとおり,それは100%
ではない と考えられる。そのなかで,それに刻まれた戒名からすると,大人の供養のた めに建立されたものもあり,建立の年月日(誰か亡くなった年月日りだけが 刻まれている,及び何も刻まれていない地蔵像もあり,何のために建立された のか断定できないものもたくさんある。そして,この像の姿は子供及び赤ん坊 を想像したものであるということは,信者にアピールするように作られたから ではないかと思われる。 しかし. 日本の研究者は子供の供養のために建立された地蔵像及び墓石につ いてよく論じている。そして,寺院の住職は一般的に1m以下の地蔵像を子供 の供養のために建立されたものとして理解して,その意味を説明するとき,子 供の供護のために地蔵像を建立する習慣を取り上げている。 本論文に紹介された事例から見ると,寺院の境内における墓地から移動され た地蔵像の場と把り方は住職が持っているこのような像のイメージ(例えば, !!!¥縁墓に関わっている仏像,子供の供養のために建立されたもの,地蔵菩薩な ど)によって決められている。インタービューされた住職たちはみんなそれを 「子供の供養のために建立されたもの」として説明したが,疑いなく,地蔵像 として見ているため,この像は「地蔵像」というアイデンテイティを持ってい る。つまり,この像は1
)子供の供養のために建立されたものと2
)
地蔵像と -67墓地整理にf4う地械の移動 (131) して理解されている。 墓地から移動された像を棄てることができない理由として,住職はよく「子 供の供養のために建立されたもの」というアイデンテイティを挙げている。し かし,墓地から移動された地蔵像の新しい場は必ずしも死の領域(例えば,墓 地,墓地の入り口,無縁塔)ではない。住職がこの像から複雑なオブジェを作っ て,それを庭及び墓地のデザインに使用することもある。このように扱われる と.地蔵像は寺院のデザインの材
1
Sとして理解される恐れがあると考えられる。 無縁塔の中で浄土を象徴したり,津波で流された地蔵堂の記念となったり, 庭の囲いの飾りになったりする地蔵像は,個人墓から移動され,特定家族の水 子・子供を供養する像のアイデンテイティを失って,完全に寺院のものになる。 寺院のものとして,これらは主に日本の仏教寺院の特定の雰囲気,聖なる場所, 先祖の供養の場所の雰囲気を保つ役割jを呆たしているではないだろうか。 それでも .I
地蔵像」としてのアイデンテイテイは消えない。住職はそれを ただの「墓石J
.
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供養塔J
.
I
仏像」として説明しない。子供・水子のための無 縁塔に集められでも,持土の象徴であっても「お地蔵さん」である。すなわち, この像は地蔵の像であり,加えて,なくなった子供のイメージがそれに移され ているといえるのだ。 参考文献. 井上長雄 (1977)r
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ウェブサイト:
The official homepage of the Board of Education of Sendai: http://www.sendai-c ed.jpf
The officia1 homepage of Kinsh司:hittp://www.kinshoji.or.jp/
(134) ドンネレ・アリーセ
The new place of memorial Jizo statues in Buddhist temples of Sendai A1iise Donnere In this artic1e, the author would1ike to present a rather complicated problem that she came across while conducting a research00 BodhisattvaJizo 地 蔵 菩 薩 statuesin the city of Sendai. There exists a difficult problem of dealing with Jizo statues, erected as memorials for the dead (especial1y children), and small private Mizuko-Jizo statues. Both types of statues are parts of family graves, and after a grave is forgotten and has to be wiped away from the temple, the statues usual1y share its' fate. However, sometimes the statues are moved to some other place, c問atinga memorial for all the late children of temple's parishioners, or serving
some other pu叩oses
Here, the author pres回 t5three case studies: 1) Shδenji, where Jizo statues are being
placed on top of Muen-tδーamonument, bui1t of the grave stones taken from forgotten
graves, 2) Kinsh司i,where the abbot created a memorial for chi1dren who died too early, and 3) Shotokuji, a temple, which was swept away by tsunami waves, and had to recreate its' territory almost from the start.The main cases are not very much unique, but some of the additional cases prese川tintricate designs of muento or curious ways of using the statues. The reason behind this selection is the author's desire to present the situation when the statues a問 movedto a new place in details, which, in the author's thoughts, is impossible with statistical data. Rather than simply noticing the fact of moving statues to a certain place in the temple precincts, the author wanted to investigate the reasoning behind such action, which is sometimes rather complicated. Here, in every case, the author attempted to explain the meaning behind a composition created by th田estatues and the role that they fulfill in the temple's atmosphere in general 63