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東南アジア華人移民の歴史およびマレーシアとインドネシアにおける華人移民の適応パターン

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Academic year: 2021

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(1)45. 東南 ア ジア華人移民 の歴史 および マ レー シアと イ ン ドネ シ アにおける華人移 民 の適応 パ ター ン ∧口. 田. 穂. 美. A Historical Study of the Patterns of Adaptation of(Dverscas Chinese in Malaysia and lndonesia. GODA Miho Abstract: This historical and socio―. cultural study investigates the complicated relationship between overseas. Chinese and the natives in South… East Asia,using Chinese lninorities(suCh as Kapitan in Malaysia,Chukong in lndonesia and pure― blooded{Chinesc in lndonesia)and ΠliXed― blooded communities(Such as in Peranakan in Malaysia and lndonesia)as eXamples to show different patterns of national and cultural adaptation and ac―. culturation.From documents,we can see that the Chinese. Ⅱlinority culture and society have developed in ac―. cordance with changes within Malaysia and lndonesia and the outside worldo Duc to interactions with other groups, cither inside or outside Malaysia and lndonesia,the Chinese nlinority, which has its special charac― teristics,has undergone specific changes.. 年 ほ ど前 までの シ ンガポ ールで は ,こ の よ うな返答 が 1。. は じめ に :研 究 課 題 お よび研 究 方 法. 大半 を占めて い たのが ,近 年 で は,本 人が第 1世 代 の 移民 であ る と答 える「新移民 」 も数 多 く見 られ る よ う. 海外華人 にかんする研究 を始 めてか ら,海 外 に居住 する華人 と親 しくなると,必 ず 「あなたは移民第何世. になって い る。 海外 華 人 は さまざまな要 因 に よつて海外 へ 移民 し. ,. と質問す るようにしてい る。 シンガポー. 居 住 国 にお い て ,そ れぞ れ異 な った 背 景 と環 境 の 中. ルでは,50∼ 60代 の華 人 の場合,祖 父 の世代 ,あ る. で ,一 時 または長期 滞在 ,あ るい は場合 に よつて永住. い は父母が幼少時 に移民 して きたと答 える人が最 も多. す るこ とになった。 そ して ,華 人 の移民 の過程 で ,現. い。20代 以下 になる と,祖 父 の時代 で あ ったか,父. 地 人 との通婚 に よって混 血 児 お よびその文 化 が生 まれ. 母 の時代 であ ったかはっき り答 えられない人さえもい る。中には,祖 先が直接 中国か らではな く,マ レー シ. た。 また ,一 部 の華 人 は,土 着 の支配者 あるい は時 の 政治家 に重用 あ るい は利用 され ,現 地華 人社会 を統制. アやイ ン ドネシアを経由 してシ ンガポール に定住 した. す る任務 に も任命 された り;経 済 を支配す るに至 った. とか,祖 先 が東南 アジア華人であ ったのが,新 中国の. り,と い う こ と もあ っ た。 この よ う に,何 らか の 形. 建設 とともに中国 に戻 った後 ,文 化大革命 を機 に逆流. で ,現 地 の他民族 とかかわ りなが ら,現 地 に根 を下 ろ. して きたケースや,親 が 国民党 の残留勢力 として,1950. す華 人が い るの と同時 に,現 地 社 会 の 中 に同 化 せ ず. 年代 に海外 へ 渡 って きた とい うケ ース もあ った。 ま た,「 曽祖父 はマ レー系女性 と通婚 し,親 や親戚 もそ. に,華 人 コ ミュ ニ テ イを築 いて平和 的 に共存 して い る. 代 ですか ?」. 華 人 も存在 して い る。過去 には,華 人 に とつて不幸 な. うい うもの同士 で通婚 してい るため,家 の 中ではず っ とマ レー語や英語 しか使 わない し,あ まリチャイニー. 事件 もしば しば起 こってお り,と りわけ,近 代 では. ズ としての意 識 もない」 とい う混血華 人 もい た。 lo. の軋蝶 な どによって ,種 族暴動 や排華運動 が発生 し. ,. 多 くの華 人が居住 国へ 同化 を強制 された り,他 民族 と ,.

(2) 甲南女子大学研 究紀 要第 41号. 46. 人 間科学編 (2005年 3月. ). 多数の華人が排斥 された り,華 人の経済活動や教育活 動 に制限が加えられた り, とい うことは少な くなか っ. 時 ,危 険 を冒 して海や陸 を行 く商 人が後 を絶 たず ,特. た。. うにな り,中 には滞在期 間 が 10年 に まで お よぶ もの. に,泉 州 (福 建省 )か らの商 人 は,現 地 で冬 を越 す よ. 本研究 は,以 下にのべ る 4点 ついて考察す ることを. や ,現 地 に移民す る もの まで もい た。 こ うい った状況. 目的 としてい る :1点 目は,海 外華人移民が生 まれる. は ,元 朝 以 降 も続 い た。明朝 以 降 は,歴 代 皇帝が さほ. こととなった歴史的背景,2点 目は,海 外華人移民 の. ど南 洋貿易 に興味 を示 さなか った 中で ,明 初 の永楽帝. 種類 ,3点 目は,華 人の居住国 における適応パ ター ン. が 70回 以上 も使 節 を派遣 し,積 極 的 に南 洋 との 商業. である。 これ らの問題 について考察 を行 い,比 較す る. をベ ース と した交流 をすすめ たため ,そ の 時期 ,ジ ャ. 事 によって,複 雑化 された華人社会についての理解 を. ワや スマ トラに華 人や混血 華 人が居住す る強大 な華 人. 深 めることが本研究 の 目的である。. 商業地区が作 られた。. 本研究 に用 い た研究方法 は以下の 4点 である 三1点 目は,歴 史的文献 お よび先行研究,2点 目は,雑 誌. ,. 2-2。. 16∼ 19世 紀 :中 国 と東南 ア ジアの相互作 用. "西. 新聞な どの報道 ,3点 目は,東 南 アジア華人 による手. 洋 の 軍 事 お よび商工 業 の拡大 をは じめ とす る全. 記 を含 めた 自伝的記述 ,4点 目は,東 南 アジア華人 を 主 とす る関係者へ の聞 き取 りである。なお,本 研究 で. 世界的動 き この 時期 ,東 南 アジアヘ の ヨー ロ ッパ の進 出がめ ざ. は,華 人 と土着住民 との相互利用 の代表例 として,マ. ま しく,多 くの商業 をベ ー ス に した移 民 が 東南 アジア. レーシアの「カピタン」 およびイン ドネシアの 「チ ュ. ヘ 渡 った。 16世 紀 ,中 国 の 社 会構 造 は 変 化 を 見 せ. コン」 を,同 化 の代表例 として,マ レーシアや イン ド ネ シアに多 く見 られ る「ペ ラナ カ ン (バ バ,ニ ヨニ. 中国社 会 は ,過 去 の どの時期 よ りも市場経 済 に よって 大 きな影響 を受 ける よ うにな った。農業 は商業化 し. ャ)」 と呼 ばれる混血華人 を,「 歴史の副産物」 とい う. 都市部 の工 芸 品生産 は拡大 し,貿 易 とそ の競争力が増. 見地か ら選択 した。 また,居 住国 における共生. 加 した ことか ら,社 会 の流動性 も加速 した。それは. (非. 同. ,. ,. ,. 化)の 例 として,「 保守」的な立場 か ら,「 排斥」 され る立場へ ,そ して,現 在 は「承認」 されるようになっ. 明政府 の経 済 に対す る管制が厳 しくなか ったためで あ. たイン ドネシア華人. 形成 され ,東 アジアお よび東南 アジア との貿易 の仲介. (純 血華人)を. I。. 選択 した. る。 そ の 中 で ,福 建 人に よる非常 に大 きい商業勢力が を行 う よ うにな った。彼 らの 中 で突 出 して い たのが. 2。. 海外 華 人 の 歴 史. ,. 鄭芝龍 とそ の子 で 台湾 を統轄 した こ とで知 られ るell成 功 で あ る。. 2-1.16世 紀以前 :中 国海軍の成長および海上貿易の 発展 海外 華 人 は,ど の よ うな過 程 で生 まれ た の だ ろ う. 17世 紀 には,オ ラ ン ダ人や イギ リス 人が 東 南 ア ジ アに進 出す るの と同時 に,多 くの華 人が タイ,ベ トナ ム ,カ ンボ ジアや フ ィリ ピンな どに華 人殖民 区 を形成. か。 多 くの 海外華 人 を生 み出す こ とになった歴 史的背. した。 1644年 に,清 政府 に よる統 治 が 始 まる と,清. 景 には,中 国海軍 の 成長お よび海 上 貿易 の発展 ,中 国. 政府が ,反 清 を唱 える鄭成功 に よる沿海貿易 を封 じる. と東南 アジアの相互作用 ,中 国国内 の 人口増加 ,西 洋. ため ,沿 海住民 を内陸部 に移 民 させ ,海 上 貿易 を禁止. の 軍事 お よび商 工 業 の拡大 をは じめ とす る全 世界的動. した。 清政府 の迫害 に よって ,鄭 成功 の残留勢力 はベ. き,そ れ につ なが る動 きと して ,西 洋 の 中国お よび東. トナ ム南部 に流 れ ,地 方 の統 治者 となった。 一 方 ,満. 南 アジアに対す る影響 ,中 国内部 の 崩壊 ,そ して ,近. 州族 の統治 に不 満 を持 つ 多 くの 人び ともイ ン ドシナ半. 年 にお ける東南 アジアでの熟練動労者 の需 要 があげ ら. 島 に渡 り,ベ トナ ム南部や カ ンボ ジアで は半 島南部 で. れ る。. は華 人 による巨大 な勢力が形成 された。 これ は,商 業. 16世 紀 以 前 の 中国 人 の 移民 は,商 業 目的 に よる外. ベ ース とは異 なる もうひ とつ の移民 の流 れであ る。. 国 との往 来 の過程 で生 まれた もので あ った。 中国 の 海. 華 人 と東南 ア ジア との 貿 易 は ,政 府 の 管 制 な どか. 上 貿易 は主 に南 洋 (東 南 アジア)か らの特産物 の輸 入. ら,多 くの 困難 に直面 して い たが ,18世 紀 以 降 ,更. に よる もの で あ った。特 に,H27年 に南 宋 が 成 立 し. に多 くの華 人が東南 アジアに渡 った。 当時 は,商 業 ベ. た こ とに よって始 まった中国 の航 海時代 で は,南 洋 と. ー スの ほか に,「 苦力」 とよばれ る非熟 練 労働 者 が 多. の「朝貢」 の形式 を取 らない貿易 が全盛期 を極 め ,南. 量 に発生 し,そ の 中 には,渡 航費用 を借 金 して渡 った. 宋政府 は商港 を建設す るための 海軍 を も組織 した。 当. もの ,編 されて連行 された もの な どもいた。そ の背景.

(3) 合田. 美穂 三東南 アジア華 人移 民 の歴 史お よびマ レー シア とイ ン ドネシアにお け る華 人移民 の適応 パ ター ン. 47. には,土 着 の統 治者 や西 洋 の植民者が華人 を利用 して い た こ とが あげ られ る。「苦力」 の 多 くは 地縁 や血縁. 労働 者 で はな く,多 種 にお よぶ 熟練労働 者 の 需要 に よ. な どに よる連鎖移民 で あ り,ベ トナ ム ,タ イ,フ ィリ. る移 動 で あ る とい え,そ の能力 と労働 力 は,非 熟練労. ピン,イ ン ドネシア,マ レー シアな どを中心 と した地. 働 者 の それ をはるか に上 回 つてい る。更 に,近 年 は. 域 に渡 り,方 言群 に よる住 み 分 け を行 った。そ の後. グ ローバ ル化 に伴 い ,中 国へ の投 資 な ど,商 業 ベ ース. ,. た ,こ の時期 の移民 は,従 来主流 を占めて い た非熟練. ,. 華 人居住地 は更 に拡 大 し,華 人が現地 の貿易 を コ ン ト. の往来 をは じめ ,中 国 か らの観光客 や留学生 を受 け入. ロール す る よ うにまで な っていた。. れ る国 (シ ンガ ポ ールや マ レー シアな ど)も 増加 し. ,. 中国 との交流が 一気 に進 んで い る。特 に,シ ンガポー 2-3。. 19世 紀以降 :西 洋 の 中国お よび 東南 ア ジア に対. ルで は高学歴 で専 門知識 を有 す る 中国人 (香 港 人 を含. す る影響 1中 国内部の崩壊. む)が 労働 す る こ とや ,更 に は彼 らの 帰 化 が 歓 迎 さ. 19世 紀 以 降 ,植 民 地 政府 の統 治 下 にあ る東 南 ア ジ. れ ,「 新 移民」 が 急増 中 で あ る。 また ,中 国 か らの新. アにお い て ,植 民地主義 を伴 った ヨー ロ ッパ の商 工 業. 移民 に よる「華 源 会」,香 港 人 に よる「九 龍 会」 とい. の拡張 に よる労働力 の不足 に伴 って ,多 くの 中国か ら. う互助 的 な組織 も成立 し (特 に後者 は シ ンガ ポ ール政. の労働 者 が 東南 アジアに流 れ た。移民 の移住先 はアジ. 府 に よる積極 的 な支持 を得 て い る),中 国 か らの 新 移. アのほか に,ア フリカや 太平洋地域 に まで広が った。. 民 に よる コ ミュニ テ イ形成 に一役買 ってい る"。. 移民 の発生 は,中 国内部 の崩壊 に も起 因 して い る。清 朝末期 には,ア ヘ ン戦争 に始 まって ,清 朝 の存亡 にか. 3。. か わ る再 三 にわ た る群 集蜂 起 が起 こ り,19世 紀 中葉 には,そ れが ピー クに達 して い た。 また,清 朝 を揺 ら がす こ とにな った「太平 天 国 の乱 (1850-1864年 )」. 移 民 の 適 応 パ タ ー ン (1): 土 着 との 相 互 利 用. (マ レ ー シ ア と イ ン ドネ シ ア の 事 例 ). ,. 「捻 軍 (反 清 武 装 農 民 の 集 団)の 蜂 起 (1851-1868. 3-1.マ レー シアの 「 カ ピタン」. に. 華 人移民 が最 も多 い とい え る 19世 紀 にお い て ,東. よって ,国 内 は更 に混乱 を極 め ,多 くの 中国人が海外. 南 アジア各地 で は,華 人 の相互扶助 を目的 と した地縁. に流 れた。. お よび血 縁組織 や ,華 人商人 の利益 を守 るための商業. 年 )」 ,「 義 和 団 運 動 (北 清 事 変 )(1899-1900年. )」. 清 朝 の 政 権 に 終 止 符 を 打 っ た「辛 亥 革 命 (19H. 組織 な どが次 々 と設立 された。そ の一 方 で ,華 人移民. 年 )」 後 も,中 国 国 内 で は,軍 閥 ,革 命 ,外 国 か らの. に よる秘密結社 も同時 に成立 し,華 人 を保護す る とい. 侵 略 ,内 戦 とい う よ う に,混 乱 が 続 き,1937年 に 日. う名 目を持 ちなが ら,華 人社会 に脅威 を与 えて い た。. 中戦争が勃発 す る と,更 に国内 は混乱 し,国 外 へ の 移. 一 般 的 に,秘 密結社 は,同 一の方言 グル ー プか ら形成. 民 の 大 きな波 が起 こった。 そ して ,1949年 に 中 国共. されてお り,方 言 グル ー プを コン トロール して い た。. 産党 に よる 中華 人民 共和 国 が成立 に ともなって ,多 く. 当時 ,マ ラヤ (マ レー シアの前 身)で は,秘 密結社 の. の 国民党 の残留 が 国外 に流 れた。 この 時期 ,海 外 に渡. リー ダー格 で才覚 を持 つ 人物 は,農 園や採掘場 な どを. った華 人 は,都 市部 で は 巨大 な華 人 コ ミュニ テ ィを形. 支配 し,労 働 者 を コ ン トロールす る よ うになった。 か. 成 し,経 済活動 を含 めて華 人社会全 体 を コ ン トロー ル. れ らは 自然 と,方 言 グル ー プだけで はな く,華 人社会. す るまで になった。 また ,辺 境 の途上地帯 に移 民 した. の 中 で もリー ダー 的存在 として認 め られ る よ うになっ. 華 人は,タ イ北 部 にお ける国民党軍 の残留 の よ うに. て い った。. ,. 当地 の 政府 の意 向 で 中国共産党 の進 出 を防 ぐ役割 を担. 当時 のマ ラヤでは ,土 着 のスル タ ン (王 )が ,秘 密. う場 合 や ,ミ ャ ンマ ー 北 部 にお け る 同軍 残 留 の よ う. 結社 の財力 に目をつ け るだ けで はな く,結 社 に よる保. に,政 治的 に も文化 的 の も台湾 とは密接 なつ なが りを. 護 を求 めて ,結 社 の リー ダー と商業協定や政治的連盟. 保持 しなが ら,現 地 に根付 い て商業活動 を行 うな ど. を結 ぶ ケ ー ス も増加 して い た。 スル タ ンの信頼 を得 た. それぞれ独 自の生 活 を築 い て い る'。. 結社 の リー ダー は,ス ル タ ンか ら「カ ピ タ ン」 を呼 ば. ,. れ る地 位 を授 与 され た。結社 の リー ダ ー は,「 カ ピ タ 2-4。. 1950年 代以降 :東 南 ア ジア を中心 とす る熟練 労. ン」 になる ことに よって ,ス ル タ ンの支配下 にあ る採. 働者 の需要ヮ「新移民 」 の波. 掘場 な どを傘下 にお き,事 実 上 ,そ の 地域 の事 や物流. 1950年 代 か ら 1960年 代 にか け ての 移民 は主 に,辺. を完全 に支配す る よ うになって い た。 そ して ,結 社 の. 境 の発展途上地帯 で はな く,都 市部 へ と集 中 した。 ま. リー ダー はスル タ ンを保護す るだ け で はな く,そ れ ら.

(4) 甲南女子 大学研 究紀 要第 41号. 48. で 得 られた利益 をスル タ ンに献 上す る とい う ように. 人間科学編 (2005年 3月. ). の華 人 )は イ ン ドネシアの公民権 を取得 して い なか っ. ,. スル タ ン側 も得 る もの は多 く,か れ らとスル タ ンの 間. たため ,華 人商 人たちは,土 着 の商 人 と手 を組 み ,土 着 の 名義 で 得 た土 地 にて ,工 場 な どを建 設 した りし. 4。. には一 種 の 相互利 用 が 存在 して い た. そ の 中で も最 も卓越 した 「 カ ピタン」 であ った とい. た。 この 「ア リ・バ バ 式 連 携 経 営」 が 出現 した 当初. われ るのが ,セ ラ ンゴール州 の 海 山秘密結社 の リー ダ. は ,華 人は主 に,サ イ ドビジ ネス を もつ 政界 の重要人. ー で あ っ た 葉 亜 来 (ヤ ップ ・ ア ー ロ イ)で あ る。葉. 物 と手 を組 む こ とが 多 く,こ こか ら,「 チ ュ コ ン」 を. は,1860年 代 に,土 着 の 王位 継 承 戦 争 にか か わ り. は じめ とす る,華 人企業家 と政 界 人物 の癒着 の土 台 が. スル タ ンの アブ ドル ・サ マ ドの王 位継承 のため に一 役. 作 られ るこ とになった ので あ る'。. ,. 買 った ことで ,ス ル タ ンか ら「 カ ピタン」 の 地位 を与 え られ た。 そ の後 ,葉 の支配 とリー ダー シ ップに よつ て , クアラル ンプールの錫鉱業 お よび商業 は飛躍 的 な 発展 をみせ た。 これ に よつて , クアラ ル ンプールは 商業都市 と して更 に発 展 を続 け ,後 に,マ. ,. ラヤ の首都. 3-3.イ ン ドネ シアの 「 チ ュ コン」 現代 的 な企業 の運営 に携 わる よ うになった華 人は. ,. 多種 多様 にわたる ビジ ネス に勢 力 を拡大 し,彼 らの企 業 も高度 に多角化 して い った。 1950年 代 か ら 1960年. となるのであ る。 スル タ ンだ け,あ るいは,秘 密結社. 代 以 降 ,多 くの土 着 と華 人 との連合企業 の所有権 は. の リー ダー だ け の力 で は,当 時 ,ク アラル ンプ ール を. 華 人 の 手 中 にあ り,「 ア リババ 式 連携 経 営」 の 対 象 に. 含 めた マ ラヤ 各都市 の発展 はなか った とい う こ とがで. なる土着 は政 界 人物 だけで はな く,軍 人 に まで広が っ. ,. た。. 5。. きる. マ レー シアにお い て ,華 人社 会 での 第 一 群 の指導者. 特 に,1950年 代 以 降 ,頭 角 を現 し始 め た 軍 人 は. は,こ の ような「 カ ピ タ ン」 で あ った。 そ の 後 ,植 民. 積極的 に華 人 との連携 を望 んで い た。地方 の 軍 人 は. ,. ,. 々に「カ. ゴム ,椰 子 ,砂 糖 な どをシ ンガポ ー ル に密輸 し,そ こ. ピ タ ン」制度 は廃止 されて い ったが ,華 人社会 で 巨額. で得 られた利益 を,軍 資金 として利用す る ことを 目的. の富 を得 た商人や企業家が ,華 人社会で の リー ダー 的. に,華 人商 人 と積極 的 に手 を組 んだ。特 に,ジ ヤワの. 地位 を「 カ ピ タ ン」 か ら取 って代 わ って ,第 二 群 の指. 地方 にお い ては ,福 建系華 人が長年 ,中 小 の ビジ ネ ス. 導 者 とな る 20世 紀 初期 まで ,こ の 「カ ピタ ン」 制 度. に携 わ ってお り,地 方軍 人 と手 を組 みやす い環境 にあ. 地政府 に よる実権 が強 固 になってか らは,徐. った。 また,こ うい った華 人商 人 のほ とん どが ,中 国. 6。. は継続 し,マ ラヤ発 展 の 基礎 を固めた ので あ る. 語教育 を受 けた純血華 人であ り,シ ンガポール な ど. ,. 3-2ロ. 華 人が多 い地域 とは ビジ ネ スや資 金調達 の ための ネ ッ. イ ン ドネ シアの 「ア リ・ ババ 式連携経営」. 一 方 ,イ ン ドネシアで も,そ の ような土 着 と華 人 の 相 互利 用が近年 まで存在 して い た。そ の相 互 利 用 は. ,. オ ラ ン ダ植民地 時代 の 1870年 か ら,1960年 まで 1世 紀 以上続 い た土地政 策 に よ り,イ ン ドネシアの公民権 を取得 して い ない華 人が ,農 地 を所有す ることがで き. トワー クをすで に持 ってお り,当 時 ,シ ンガポールヘ の密輸 は難 しくなか ったので あ る。. 1967年 に大 統 領 に就任 した ス ハ ル トも,大 統 領 就 任以前 ,ジ ャワ軍 の指揮官 で あ った際 に,林 紹 良. (ス. ドノサ リム )を は じめ とす る複数 の華 人商 人 と手 を組. この 土 地 政 策 が. んでお り,大 統領就任 以 降 も,そ の ビジ ネ ス関係 を継. 実施 され る以 前 は,東 ジヤワの スラバ ヤ を中心 とした. 続 させ て い た。 これは,そ の 後 ,林 が イ ン ドネシアで. 地域 で ,裕 福 な華 人移民 は大規模 な農 園 を所有 し,イ. 最大 の財 閥 となるサ リム ・ グルー プを築 き上 げ る土 台. ネやサ トウキ ビの栽培 を行 っていた。 しか し,土 地政 策実施 以降 ,華 人はや むな く農園へ の資金 を製糖工場. とな った。 1970年 代 ,こ の よ う に,軍 と密 接 な関係 を持 ってい た華 人商 人 は,「 チ ュ コ ン」 の 称 号 を与 え. の 建設 な どとい った現代 的 な企業 の運営 へ 移 した。 し. られ ,い くつ か の 分野 で 活 躍 して い た。 1980年 代 末. か し,成 功者 は一 部 分 であ り,こ れ に よ り没落 した華. 期 か ら,原 料価格 の暴落 に よつて ,特 に イ ン ドネシア. 人農園所有者 は少 な くなか った。. で主 要 な輸 出品 目であ つた石油 は大 きな打 撃 を受 け た. 7。. な くな った こ とに端 を発 して い る. 1950年 代 か ら 1960年 代 にか け て ,「 ア リ 0バ バ 式. ため ,政 府 は石 7由 に変 わる代替 の輸 出品 を増加す る政. 連 携 経 営」 とよばれ る ス タ イ ルの 経 営 が 出現 した。. 策 を とった こ とか ら,紡 績業 や靴製造業 をは じめ とす. 「ア リ」 とは土 着 を,「 ババ」 とは華 人 を指す この経営. る製造業が発展 し,輸 出品 も多様 化 した。 それ ら大企 Ю 業 のほ とん どが 華 人に よる もので あ る 。. ス タイルは ,文 字通 り,土 着 と華 人に よつて作 り上 げ 8。. られ た もので あ る. 当時 も,多 くの 華 人 (特 に純 血. 林 にか ん して言 えば,1980年 代 に中亜 銀 行 を設 立.

(5) 合田. 美穂 :東 南 アジア華人移民 の歴史お よびマ レー シアとイ ン ドネシアにおける華人移民 の適応パ ター ン. 49. し,サ リム ・ グル ー プを国内屈指 の財 閥 まで成長 させ. マ レー シアか ら分離独 立 ,同 年 イ ン ドネシアでは 90. た。 当然 なが ら,ス ハ ル トの支持 な くしては,サ リム ・ グルー プは,こ こまでの発展 をな しえる ことはで き. 30事 件. なか ったで あ ろ う。 しか しなが ら,1998年 に,経 済. で,唐 はイ ン ドネシアの政府高官 に対 し,シ ンガポー. 危機 の悪化 に よってスハ ル ト退陣 を求 め る暴動 が発 生. ル との 国交樹立 を積極 的 に助 言 し,1967年 ,両 国 の. し,状 況 は一 変 した。 林 をは じめ とす る,ス ハ ル トや そ の傘 下 にあ る軍部 と関係 が 深 か った華 人商人 は,ス. 間で国交が結 ばれた。イ ン ドネシアでは同年 ,ス カル ノか らスハ ル トヘ政権が交代 したが,シ ンガポール と. ハ ル ト失脚 と同時 にその勢力 を失 う こ ととなったので. の国交樹 立やイ ン ドネシアの経済発展 の立て役者 であ. 林 の 中亜銀行 の株 式 の大半 は,外 資系企 業 に. る唐 は,失 墜するどころか,ス ハ ル ト新大統領 か らも. リム ・ グル ー プ も現在 ,大 きな負債 を抱. 買収 され ,サ えて い るに 林 は,福 建省福 清 出身 の 華 人であ り,シ. 信望 を得 たので あ る。そ の後 ,唐 は,199o年 の イ ン. ンガ ポ ー ルの福清会館 の名誉顧 間 を して い るが ,名 ば. と中国 の 国交回復 にお い て,両 国 と中国 の 要人 との. か りで は な く,主 要行 事 の た び に シ ンガ ポ ー ル ヘ 飛. 「根 回 し工作」 で,陰 なが ら大 きな役割 を呆 た したの. H)。. ある. )。. び,イ ベ ン トに出 席 して い る。 1998年 の 暴 動 以 来. ,. (詳 細 は次節 )が 発生. し,ス カル ノ政権が揺. らぐことになった。その ような波瀾 に満ちた時代 の 中. ドネシアと中国の国交回復 ,そ の直後 のシンガポール. で あ る。 1960年 代 以降,唐 は,積 極 的 な中国へ の支. シ ンガポ ー ル に滞在す る ことが 多 くな った林 は,引 き. 援や中国でのビジネス を通 して,李 鵬や朱鉛基 など中. 続 き頻繁 に福清会館 には顔 を出 して い た. イ ン ドネ. 国の要人か らも信頼 を得 てきた。唐 のそういった人脈. シアで ,こ の よ うな華 人組織 が容認 されて い ない状 況. と信頼関係 が,イ ン ドネシアお よびシンガポールの指. 下 にお い て ,海 外 の血 縁 あ るい は地縁組織 に加入 し. 以外 で も, ミャンマ ー な ど,政 府 に よる制 限が存在す. 導者 か ら一 日置かれ,そ れが三国の外交関係 にも大 き く役立 ったのである‖ 以上の「カピタン」,「 アリ・ババ式連携経営」 お よ. る地域 の華 人企業家 に よ く見 られ るケ ース で あ る。. び「チ ュコン」 に見 られる華人 と土着 との関係 につい. B)。. ,. 華人 の ネ ッ トワー クを築 くこ とは多 く,イ ン ドネシア. '。. そ うい った ケ ース ばか りで はな く,国 家 間の 国交樹. てい えば,華 人 と土着 は同化す るわけではな く,共 生. 立 な どのため に活躍 し,国 家 が 国際社 会 でその 地位 を. とい うよ りもむ しろ相互利用 しなが ら生存 してい ると. 確 立す るため に貢献 した「チ ュコ ン」 も存在す る。 そ. いった関係 である とい える。相互 に利用 し合 っている. の代 表例 が ,イ ン ドネシア国籍 で ,シ ンガポール の永. ため,双 方 ともに得 られるものは多 く,こ れ らの関係. ン・ ジ ュー)で あ る。唐 は 1926. が,国 家 の発展 に寄与 した部分 は非常 に大 きい。特. 年 にイ ン ドネシアで生 まれ ,8歳 の 時 にシ ンガ ポ ール. に,「 チ ュコン」 につい てい えば,一 般的 に,林 詔良. に い る兄 を頼 って 来 星 ,華 語 に よる教 育 を受 け ,18. を例 とするように,時 の政治権力が存在する間は安泰. 歳 で 海 運 業 に 従 事 す る よ う に な っ た。 1950∼ 60年. であ るが,政 変 によって反対派が政権 を握 ると失墜す. 代 ,製 油業 を本格 的 に開始 したばか りの シ ンガ ポ ー ル. るケースがほとんどであった。 こういった関係 は, ど. で ,唐 は シ ンガ ポ ー ル とイ ン ドネシア 間 の 石油 の輸送. ちらかに利用価値がな くなれば,あ るいは,土 着 の権. を手 が け た。そ して ,1957年 には唐 の経営 す る TuNAS. 力者が失脚すれば,華 人は全 てを失 って しまう危険 を. 社が ,イ ン ドネシア国家石油公社 の駐 シ ンガポ ー ル総. はらんだ関係 である ともいえるのである。その中で. 代 理 に指 定 され る まで とな った。 1950年 代 後 半 か ら. 住 権 を持 つ 唐 裕. (ト. ,. 1960年 代 にか け て,同 社 は全盛 を極 め ,多 い 時 に は. 唐裕 の よ うに,国 家 間の外交 関係 に尽力 したケ ース は,居 住国へ の最 も大 きな貢献 のひとつであ り,い わ. 一 時 に 200隻 の タ ンカー を所有 し,唐 はシ ンガ ポ ール. ば特別 のケースであ るといえるだろう。 こういった関. の 海運王 と も称 え られ た。唐 は 1945年 ,イ ン ドネ シ. 係 は,華 人. アのス カル ノ政権樹 立 に際 して軍 部 に物資 を調達 し. 重要な選択肢 の一つ だったのである。. ,. (特. に商人)が ,居 住地 に適応するための. 政権 の樹 立 を助 け,そ の後 の ビジ ネ ス を通 してス カル ノ大統領 と深 いつ なが りを築 き, ビジ ネス にお ける 自 らの地位 を確 か な もの と した。 1960年 代 ,唐 は,中 国銀行 シ ンガ ポ ー ル支店 の 開設 を積極 的 に支援 し,中. 4.移 民 の 適 応 パ タ ー ン. (2):. 土着 との同化 (マ レー シアおよび イ ン ドネシアの「ペ ラナカ ン」 を例 として). 国 の シ ンガ ポ ー ル 進 出 の 突破 口 を 開 く こ とに 貢 献 し た。 また ,当 時 ,シ ンガ ポ ール とイ ン ドネ シアで は. ,. 政変 が立 て続 け に起 こ り,シ ンガポ ー ル は 1965年 に. 東南 アジアの一 部 の地域 で は,華 人 と原住民 との通 婚 に よる同化が進 み ,混 血文化が生 まれた。 マ レー シ.

(6) 甲南女子大学研 究紀 要第 41号. 人間科学編 (2005年 3月. ). アやイン ドネシアでは,こ うい う混血児 を「ペ ラナカ. ン」 によって,純 血 華人 と同様 に,互 助組織 で あ る. に男女 を区別 して呼称す る場 合 は,男 性 はバ バ,女 1生 はニ ヨニ ヤ)」 と呼 ばれて い る。 また,フ イ. 「公会」や 「会館」が設立 された。組織内 での使用言. リピンでは,先 住民 とスペ イ ン人の文化 をあわせ持 っ. れて い たが,後 にマ レー語 に取 って代 わ られた。 ま. たメステ イソと呼 ばれる混血児が生 まれ,か れ らは居. た,華 人による華文学校 の増加 に対抗 して,オ ラ ンダ. 住地で他民族 と比較的平和 にに共生 していた。 かれ ら. 植 民 地 政 府 に よ っ て,「 荷 華 学 校 (Holland_chinese 「ペ ラナカ ン」 のエ リー トの School)」 が設立 された。. ン. (特. はそれぞれ,華 人の もの とは別 の,独 自の融合文化 を 作 り出 して きた。本節 では,「 ペ ラナカ ン」 につい て 取 り上げる。 マ レー シアの 「ペ ラナ カ ン」 の起源 は,15世 紀 の マ ラッカ王国時代 にまで さかのぼることがで きる。当 時,福 建省か らの移民 を多 く受け入れたマ ラッカはマ ラヤにおける最初の華人居住地 となった。 イン ドネシ. 語 は,早 期 においては父祖 の地か らの福建語が使用 さ. 子弟の多 くは,オ ラ ンダ語 を教学用語 とする「荷華学 校」へ進学 したため,オ ラ ンダ語が 「ペ ラナカ ン」 エ リー トの言語 となった。中で も優秀 な「ペ ラナカ ン」 の子弟 は,オ ラ ンダの大学 に進学す る機会 を得 る事が で き,帰 国後 は,医 師,弁 護士,薬 剤師やエ ンジエア な どの専 門職 に従事す ることとなった。植民地政 府. アで も,19世 紀 中葉以前 か ら多 くの華人移民 が流入. も,オ ラ ンダ語教育 を受けた「ペ ラナカ ン」 を積極的. し,巨 大な華人居住地が形成 された。当時の移民 の大. に官員 として採用 した。 こ うして,「 ペ ラナカ ン」 の. 半 は単身の男性 であ り,原 住民 の女性や,華 人 と原住 民 との間に生 まれた混血児 と通婚するケースが多かっ. 中で もエ リー ト層 は,オ ラ ンダ語教育 を受けた ものに よって占め られることになった口 「ペ ラナカ ン」 の文化 は,中 国文化 と土 着 の文化 の. た。かれ らの子弟 は「ペ ラナカ ン」 と呼 ばれ,現 地 の 言語 に精通 し,現 地 の文化を積極的 に受け入れたが い 中国の伝統的な価値観 も保持 していた 。. ,. 18世 紀 か ら 19世 紀 にかけてのマ ラヤでは,商 業界 や専 門的な分野 で,「 ペ ラナカ ン」 はその才覚 を現 し た。マ ラヤでは,イ ギ リス人が ペ ナ ン (1786年 )お. │。. 融合であるとい える。言語 について言えば,エ リー ト 階層 は宗主国の言語 に精通 してい るが,一 般的 には. ,. 家庭内ではマ レー語. (イ. ン ドネシア語)を 使用 し,親. 族 に対す る呼称 や料理の名称 に福建語の単語 を使用す るほかは,中 国語 は話 さない。マ レー シアの「ペ ラナ カン」女性 の服装 は,マ レー系 のスタイルを基調 とし. よび シ ンガポ ー ル (1819年 )に て政 権 を確 立 す る と,両 地域 の経済 は急速 に発展 した。マ ラッカの「ペ. た ものではあるが,中 国的な色彩 や模様 をあ しらった. ラナカ ン」 は,そ の機 に乗 じて両地域 に移 り,そ れ ら. ものが多い。 イン ドネシアの場合は,バ テ イックと呼. の地域 で も活躍 した。 また,か れ らはマ ラヤ全域 にお. ばれる土着 のろ うけつ染めの服装が好 まれて使用 され てい る。「ペ ラナカ ン」 の歴史は長 い ため,彼 らによ. いて,サ トウキ ビの栽培 や,製 糖業 に従事 した り,錫 野 で成果 をあげ,土 着 の王か ら認め られ,「 カピタン」. る文学 も地位 を確立 していた。イ ン ドネシアの場合 独立前 は,華 人マ レー語 (ム ラユ ・テ イヨンフ ァ)と. としての地位 を獲得するもの も現れた。植民地政府が. 呼 ばれる日常生活 で使用 される言語によつて書 かれて. 「カピタン」制度 を廃止 してか らは,英 語や マ レー語. いたが ,独 立後 は,そ れは標準 イ ン ドネシア語 に取 っ て代 わ られた螂。. 鉱業や ゴムの栽培 にも着手 した りして,そ れぞれの分. に精通する「ペ ラナカ ン」 は,植 民地政府 の機関 にて. ,. また,「 ペ ラナカ ン」 の特色 が現 れてい る宗教 の 中. 官員 として採用 される機会が増加 した。 1900年 ,マ ラヤでは,イ ギ リス植民地政府 によつ. に,孔 子 を信仰す る「孔教」があ る。 ジャワの孔教 の. て,「 英籍海峡華人公会」 が設立 された。 メ ンバ ーの. 歴史は古 く,1899年 にジャワのス ラバ ヤに孔 子 の神. ほとんどが,英 文教育 を受けた専門職従事者や企業家 である「ペ ラナカ ン」 によって占め られていた。 かれ. 位 を祀 つた廟が建立 されたのを最初 に,そ の後 ,華 人 組織 である中華会館 (中 で も「ペ ラナカ ン」 のメンバ. らは,マ レーシア華 入社会において,第 三群の指導者 となった。 メンバーの 中で も代表 的 な人物 は陳禎禄. ー」)に よる支持や,熱 心 な信者 によつて孔教 はジヤ ワ各地 に広 まった。現在,「 了L教 会」 とい う組織が設. ン・チ ェンロック)で あ り,公 会 の指導者 を務め. 立 され,孔 子学説 を宣揚 し,孔 教 を広める ことに努力. たほか,後 にマ レー シアで成立 した華人政党 「馬華公. してい る。興味深 いの は,そ の主要 メンバーの大半が. 会」 の初代会長 に就任するなど,華 人社会におけるリ. 「ペ ラナカ ン」 によって占め られ,具 体的な活動 内容. (タ. %。. ー ダー的役割 を果た した. 一方 ,イ ン ドネシアでは,20世 紀初頭 ,「 ペ ラナカ. は,イ ン ドネシア語 による集会 の 開催 ,出 版物 の刊 行 ,宣 教 であ り,そ れ らの活動 により,非 華人か らも.

(7) 合田. 美穂 :東 南 アジア華 人移民 の歴 史お よびマ レー シア とイ ン ドネシアにお ける華 人移民 の適応 パ ター ン. 支持者 を集 めてい る。孔教会 は組織化 されてお り,教 義お よび一神論 を有す ることか ら,そ の形態 はキリス ト教やイス ラム教 に類似 している。 これ らの点 だけを. 抱 い て い なか ったため ,華 人 と「ペ ラナカ ン」 の接 点 も多 くはなか った創 当時 ,華 人 の 多 くはチ ヤイナ タ )。. ウ ンに居住 して い た。. 見 て も,す でに中国にある孔教 とは異なるものになっ. また ,当 時 は,他 の東南 アジア諸地域 の華人社 会 と. てお り,イ ン ドネシアに同化 された新 しい形 の孔教 で. 同様 に,華 人 に とって方言 グル ー プの アイデ ンテ イテ. あるとい うことがで きる. イは非常 に重 要 で あ った。多 くの職業 は,一 つ の 方言. 19)。. こういった「ペ ラナカ ン」 は移民 の歴史が生んだ副. グル ー プに よつて独 占 されてお り,他 の方言 グル ー プ. 産物 であるとい える。かれ らのアイデ ンテ ィティは. の 参 入 は難 しか つた。 1950年 代 まで は,華 人 の 方 言. それぞれの背景 によって異な り,華 人の血 を引 いてい. グ ル ー プ に よって ,75∼. る,あ るい は華人であると認識 してい るもの,華 人の. い た。彼 らの大 半 は純血華 人 で ,そ れ らの多 くが ,中. 意識が希薄なものなど,様 々であるが,一 般的には華. 国生 まれ ,或 い は 中国語教育 を受 け た もので あ った。. 人 と区別 して,「 自分 はペ ラナカ ン (バ バ,ニ ョニ ャ. 多 くが 中国語 を流暢 に話 し,商 業界 で は,「 ペ ラナ カ. である」 と認識 してい る ものが多 い. マ ラヤやイン. ン」 をはるか に しの ぐ勢力 を有 して い た。 イ ン ドネシ. ドネシアでは,「 ペ ラナカ ン」が,積 極 的 に現地や宗. ア華 人 の商業文化 は ,ほ ぼ完全 にこ うい った純 血 華 人. 主国の言語 を学ぶ ことによって,居 住国での地位 を確. に よって作 り上 げ られた ものであ る とい って も過言 で. 立 していったことが,共 通点 としてあげられる。居住. はない 。そ の 中 か ら,後 に「ア リ・ババ 連携経営」 に. 地の文化 ,言 語や習慣 を取 り入れ,同 化す ることによ. かか わ る ものや ,「 チ ュ コ ン」 と して活躍 す る華 人商. って,比 較的容易 に居住地 に適応 して い ったので あ. 人が生 まれたのであ る。. ,. ). 20。. る。. 85%の 大企 業 が独 占 され て. 教育 につい て い えば,戦 前 は,他 の東南 アジアの華 人社 会 の状 況 と同様 ,中 華民族主義 を涵養す る 中国 の 5。. 移 民 の 適 応 パ タ ー ン (3):. 土 着 との 共 生. カ リキ ュ ラム に従 った華文学校 が 数多 く設立 され ,華. (ジ ャ ヮ の 純 血 華 人 を 例 と して ). 文学校教 育 は発展 を続 け て い たが ,イ ン ドネシア独立 後 ,状 況 は 一 変 す る。 1957年 に,国 民 党 系 の 学 校. イ ン ドネシアでは,華 人 は,主 にジ ャワに居住す る. は,強 制 的 に閉鎖 され る ことに な り,こ れ に よって. ,. 純血 華 人 (以 下華 人),「 ペ ラナ カ ン」,そ して ,ジ ャ. 1800校 あ った華文学校数 が ,510校 に まで激減 した。. ワ以外 の 島 に居住 す る華 人 に大別 され る。本節 で は. しか し,12万 人 の 児童 ・生 徒 は なお も華文 学 校 で 学. ,. ジヤワ華 人 につ い て取 りあげる。 ジ ャワの華 人 につい. び続 け た。華文教育 に更 なる打 撃 をあたえるこ とにな. ては,近 年 は,徐 々に同化 もみ られ る よ うになって き. ったの が ,1965年 9月 30日 に起 こった 9・ 30事 件 で. てお り,純 血 の 割 合 は,1960年 代 の 時 点 で ,ジ ャワ. あ る。 同事件 は,軍 事 クー デ ター を きっか け とす る反. 華人全体 の 40%と な ってい る。. 共産主義暴動 で あ った。翌年 ,反 共産主義暴動 が 大規. 19世 紀 末期 にな る と,そ れ まで の 男性 の単 身者 に. 模 な排 華運動 へ と発展 し,ス マ トラ島北部 や カ リマ ン. よる移民が大半 だった状況 か ら,妻 帯 で 移民す る華 人. タ ン島 の農村 に居住 す る華人 は 出国 を迫 られた。 これ. が増加 し,華 人移民 の様相 も変 容 した。 そ うい った妻. に よって ,中 国 とイ ン ドネシアの国交 は断絶 し,す べ. 帯 の移民 は,特 にジ ャワに多 く,移 民 は 同化 せ ず に. ての華文学校 は 閉鎖 に追 い込 まれ たのであ る2)。 華文. ジャワにて華人 の家庭 を築 い た。 かれ らは,中 国 の言. 学校 の児童 ・生 徒 はイ ン ドネシア語学校 へ の転入 を余. 語 ,服 装 ,習 慣 を保持 し,代 々 中国文化 を継承 す る こ. 儀 な くされ た 。. とに努 め た。 と りわ け,現 地 生 まれ の 子 女 に対 して. イ ン ドネシア華 人 の 中で ,中 国語 を話 せ る人の ほ とん. は,中 国 の 出身地 へ 送 り,教 育 を受 け させ るな ど,中. どが 50歳 以上 とい う状 況 で あ る。 かれ らは,1960年. 国 との紐帯 を強 め る よ うな教育 を行 った。. 代 以前 に,華 文学校 を卒業 した人 たちであ る。. ,. かれ らは また ,現 地 で ,中 国語学校 の設立 ,華 人義 山 (墓 地 )の 造営 ,中 国廟 の建立 ,地 縁 ・血縁 会館 の 設立 ,中 国語紙 の発行 ,中 国か らあ るい は現地 の 中国 語 に よる出版物 の普及 な どを積極 的 に行 い ,華 人文化 を維持 す る こ とにつ とめた。 こ うい った純血華 人が つ くった もの に対 して ,「 ペ ラナ カ ン」 は さほ ど興 味 を. 2勢. この よ うな い きさつ か ら,現 在. ,. 9013事 件 が 起 こ った 1960年 代 ,イ ン ドネ シ ア政 府 は ,華 人 を含 めた少数民族 に対 して ,同 化政策 を本 格 的 に実施 した。華 人 に対 しては,中 国文化 を消滅 さ せ る こ とを 目的 と し,華 人 は 中国語名 を使用 せ ず ,イ ン ドネシア名 を使 用 す る こ とを強制 した 。 また ,更 に,地 縁 ・血縁 に よる華 人組織 は もとよ り,「 ペ ラナ 2■.

(8) 甲南女子大学研究紀 要第 41 号 人間科学編 (2005年 3月. ). カ ン」 に よ る 国 籍 協 商 会 さ え も解 散 に追 い 込 まれ. に重 点 をお く メ ガ ワ テ イ大 統 領 は ,2002年 の 春 節. た25。. に,孔 教 総 会 を訪 問 し,そ の 場 で ,2003年 以 降 ,春. 公民 権 に つ い て い え ば,同 じ く,1960年 代 に大 き. 節 を正 式 に イ ン ドネ シアの祝 日 とす る こ とを発 表 し. な変動 があ った とい える。 オラ ンダ植民地時代 は,植 民地政府 が 出生地主義 と取 っていたため ,イ ン ドネシ. た29。 これは,イ ン ドネシア華 人 に とつて ,57年 間待 Ю ち こがれた朗報 で あ る とい える 。 メガワテ イ大 統 領. アで生 まれ た華 人は ,必 然的 にオ ラ ンダ植民地 政府 か. は ,そ の ほか に も,華 文教育 の復 興 とい う快挙 をな し. ら公民権 を与 え られ た。 そ の一 方 で ,中 国 は,血 統 主. 遂 げ た。現在 は ,華 人 による華文学校 ,家 庭教 師 によ. 義 に基 づ い て ,海 外 に居住す る中 国人 に も国籍 を与 え. る 中国語 の補習 も次 々 と出現 し,イ ン ドネシア語 の学. て い たため ,当 時 の イ ン ドネシアで は二重 国籍 の華 人. 校 で さえ も,中 国語 コー ス を設 け る よ うに な って い. が非常 に多 か った。 イ ン ドネ シアが 1940年 に独 立 し. る。 中国語 の教学 レベ ル を高 め るため に,直 接 ,中 国. てか らは,新 政府 は二重 国籍 を認 め なか つたため ,華. 大 陸 の 高等教育機 関 に連絡 を取 り,教 師 や学生 の交換. 人 はその うちの 1つ を選択 せ ざる を得 な くな つた。特. プ ロ グラム を提案す る教育 機 関 も出現 して い る。 この. に,1960年 お よび 1961年 の 間 に強制 的 に選択 が追 ら. よ うな動 きは ,政 府 に も見 られ る。2001年 ,イ ン ド. れ る こ とになる と,一 部 の華 人が公民権 を 申請 す るに. ネシ ア教育省 (青 年 ・体育 ・校外教育司 )と. とどま り,そ の 後 ,1980年 代 まで は,な お も 60%以. 海外交流協 会お よび広東教育 国際交流協 会が ,広 州市. 上 の華 人が ,中 国国籍 を有 して い た。 中国国籍 を保持 す る華 人 の うち,一 部 の華 人は 自ら中国へ 渡 ったが. にて ,華 文教 師訓練 コースの 合 同実施 とい う協議 に調 印 した。具体的 には ,広 東省 か ら,大 学教 員 に よる 中. 多 くは イ ン ドネシアに残 り,中 国国籍 を保持 した まま. 国語 の 専 門家 グ ルー プが イ ン ドネ シア 各 地 に 派 遣 さ. ,. ,広 東省. れ ,華 文教 師 の トレーニ ングを行 う とい うもので ,コ. 26。. 永住権 を 申請 す る こ ととなった. 1970年 代 後期 にな る と,ス ハ ル ト大 統 領 は,中 国. ース を終了 し,試 験 に合格 した ものが ,中 国 とイ ン ド. との 関係改善 を希望す る よ うにな り,華 人 に対す る制. ネシア双方 に よる修 了証書 を受 け取 るの と同時 に,イ. 限 も緩 和 す る事 を決 定 した。公 民 権 に つ い て も同様. ン ドネシアで の華文教 師 の資格 を得 ることがで きる と い うシステムだ劇。. で ,公 民権未取得 の華 人が公民権 を取得す る際 の手続 きを簡略化 し,費 用 も下 げ ,多 くの華 人が公民権 を取. 現在 , イ ン ドネシアでは,中 国語 が ブ ーム になって きてお り,最 も重要 な言語 と して ,英 語 と肩 を並 べ る. 得 しやす い よ うに した。 また,同 時 に,こ れ まで禁止 して い た 中国廟 を修復 す るこ とや ,地 縁 ・血縁組織 を. よ うにな ってい る。 中国 の改革 開放政策 や メガワテ イ. 復 活 させ る ことな ども,条 件付 で 許可 した。現在 は. 大統領 の 親 中国政策 に よつて ,こ こ数年 ,中 国 との ビ. ,. 10%の 華 人が まだ公民権 を取 得 して い な い。 か れ. ジ ネスは盛 んになって きてお り,中 国語 を話せ る人材. コ らのほ とん どが 中国生 まれ の 高齢 者 であ る 。華 人 の. が必 要 とされて い るためであ る。現在 ,熱 心 に中国語. 伝統行事 につい て い えば ,植 民地時代 は,植 民地政府. を学 ぶ 人たち は ,中 国文化 に興味 を持 ってい るわけで. が 華 人 に対 して さ して制 限 を加 え なか った ため ,春. はな く,ま して ,中 国伝統文化 を継承 した い と考 えて. 節 ,端 午節 ,中 元節 ,中 秋節 な どとい つた華 人 の伝統. い るわけで はな いので あ る。. 約. 行事 は盛 大 に祝 われて い た。 しか し,イ ン ドネシア独 立 後 は ,政 府 は,こ うい った伝統行事 はすべ て宗教行. ジ ャ ワの 純 血 華 人 は,移 民 当 初 ,中 国 の 言 語 ,服 装 ,習 慣 を保 持 し,代 々 中 国文 化 を継 承 す る事 に努. 事 で はない とい う理 由か ら,公 共 の場 での華 人 の儀式 や行事 の イベ ン トな どの 実施 を禁止 し,中 国廟 と家 の. め ,他 民族 との 同化 を受 け入れ なか った。 イ ン ドネシ. 中でのみ実施す る事 を許可 した。 この制限 はスハ ル ト. へ の改 名へ の 要請 ,伝 統行事 の実施 に対す る制 限 ,ひ. 大統領時代 も継続 した。. い ては華 文 学校 の廃止 な どに よって ,華 人 はイ ン ドネ. そ の 後 ,1998年 に起 こった 暴 動 に よつて ,ス ハ ル. ア独立後 も,政 府 に よる公民権 取得 や イ ン ドネシア名. シアヘ の完全 な同化 を求め られたが ,華 人 の 多 くは. ,. ト大統領 が退陣 してか らは,華 人 を取 り巻 く状況 は大. そ の状 況 に耐 えなが ら,同 化 を受 け入れ る ことを しな. き く変 化 した。 2000年 ,ワ ヒ ド大 統 領 は,こ れ まで. か った。そ して ,近 年 は,華 人 に対 して行 われて きた. 華 人 の 宗 教 や 民 俗 活 動 に つ い て 制 限 を設 け て い た. 数 々の制限 は緩和 され ,現 在 で はむ しろ,中 国語教育. 「 1967年 第 14号 大 統 領 政 令」 を撤 回 した こ と に よ り,華 人が公共 の場 で も,世 界 の華 人 と同様 に春節 を 郎 祝 う事 がで きる よ う にな った 。更 に,中 国 との 関係. が 奨励 され ,華 人伝統行事 も承認 され る よ うにな り ,. 土着 の イ ン ドネシア人が 中国語 を学 んだ り,華 人伝統 行事 に参加す る姿 も見 られ る よ うにな って い る。 ジャ.

(9) 合田. 美穂 :東 南 アジア華 人移民 の歴 史お よびマ レー シア とイ ン ドネシアにお ける華 人移民 の適応 パ ター ン. ワの純血華人は,大 別す ると以上のような保守的な立. れぞれの地域 で ,多 くの華人 が犠牲 になって きた。 ま. 場 か ら排斥 される立場 を経 て他民族 と共生する立場 に. た ,現 在 にお いて も,一 部 の居住 地 で は,先 住民 を優. 変容過程 にある。現在 の「共生」 とい う状態 は,イ ン. 遇す る政 策 で ,華 人 の進学や就職 に も制限が行 われて. ドネシア華人のみ ならず,世 界 に散 らばる (同 化 して いない)海 外華人が,他 民族 との よ りよい関係 を築 い. い た り,中 国語学校 や 中国語 の 出版物 に制 限が加 え ら れた り,華 人 の生 活 が なお も制 限 されて い る。 そ の一. てい く上でめざす ものである ことは間違 い ないであろ. 方 で ,華 人が国民 国家 の一 員 と して他 民族 と平等 の権. う。. 利 を享受 で きて い る居住 地 もあ る。 ジ ャワの純血華 人 も,現 在 で は承認 され る立場 とな り,本 当 の意味 での. 6.お わ り に. 他民族 との「共生」 が可 能 にな りつつ あ る。 グ ローバ ル 化 が 更 に進 み ,今 後 ,多 くの 国 や 地 域. 海外 華 人の歴史お よび移民 の適応 パ ター ンについ て. で ,「 新 移民」 も更 に増加 す る こ とで あ ろ う し,多 種. 述 べ て きたが ,華 人移民 の 適 応 パ タ ー ン は 大 別 して. 多様 な他民族 との 関係 が うまれ るで あ ろ う と予想 され. 「土着 との相互利用」,「 同化」,「 共生」 といっ た 3種. る。 この よ うな状況 の 中 で ,今 後 ,華 人社会 も更 に複. 類 のパ ター ンに分け ることがで きる。その中で,「 カ. 雑化 し,異 な った適応 パ ター ンが生 まれて くるで あ ろ. ピタ ン」,「 ア リ・ババ連携経営」お よび「チュ コン」. う。 そ の 中 で華 人 を含 め た多民族 が よ りよい社会 を築. に代表 される「土着 との相互利用」 については,華 人. くた め にい か に多民族 を承認 し,共 生 して い くかが重. と土着 は同化するわけではな く,共 生 とい うよ りもむ. 要 なカギ となる ことは まちが い ない であろ う。. しろ相互利用 しなが ら生存 してい るといった関係 であ り,相 互 に利用 し合 っているため,双 方 ともに得 られ るものは多 く,こ れ らの関係が,国 家 の発展 に寄与 し た部分 は非常 に大 きい。 こういった関係 は,華 人 (特. )王. 1)華 人 に つ い て 語 る際 に,よ. く議 論 され るの が 「 中 国. 人」,「 華 僑」,「 華 人」 とい っ た 呼 称 に つ い て で あ る。. に商人)が ,居 住地に適応するための重要な選択肢 の. 一 般 的 に は,海 外 に居 住 して い る (主 に職 業 を持 ち. 一つ となった。特 に,華 人の経済活動 に対 して制限を. 定 住 して い る状 態 の )中 国 国籍 所 有 の 中国 人 で ,居 住 地 へ の 永 住 を 目的 と して い る もの も含 め ,か れ ら は. 加えてい る国や地域 でこのようなケースが見 られる。 また,「 同化」 を代表す る「ペ ラナカ ン」 は移民 の 歴史が生んだ副産物 であ るといえる。マ レーシアやイ ン ドネシアでは,「 ペ ラナカ ン」 が,積 極 的 に現地や 宗主国の言語 を学ぶ ことによって,居 住国での地位 を 確立 していったことが,共 通点 としてあげ られる。居 住地 の文化 ,言 語や習慣 を取 り入れ,同 化す ることに. ,. 「華僑」 と呼 ばれて い る。 一 方 で ,い わ ゆ る中 国系 ア メ リカ人 ,中 国系 シ ンガ ポ ー ル 人 な どを例 とす る よ うに,海 外 に居 住 し,居 住 国 の 国籍 をす で に取 得 して い るの が 「華 人」 と呼 ば れ て い る。特 に,後 者 は,中 国 人 の 血 を 引 い て は い る が ,中 国 国籍 を所 有 してお らず ,中 国 に対 す る政 治 的 忠 誠心 や 国家 ア イデ ンテ ィテ ィを持 って い るわ け で は. よって,比 較的容易 に居住地 に適応 してい くパ ター ン. な い 。 さ らに,後 者 の 中 に は,他 民 族 との 通 婚 な どに よって ,完 全 に居 住 国 へ 同化 し,自 らが 華 人 で あ る と. である。. い う ア イデ ンテ ィテ ィさえ も有 して い な い もの も存 在. 同化 をしない華人が,他 民族 とうまく「共生」 で き ることは容易な ことではない。本研究 で取 り上げたイ ン ドネシアの純血華人の事例 のみ ならず,多 くの国や 地域 において,過 去 には,排 華運動 をは じめ とする華 人にとって不幸 な事件 が しば しば起 こっていた。 と り わけ,近 代 では,居 住国政府 による厳 しい同化政策に よって,多 くの華人が居住 国へ 同化 を強制 された り (イ. してお り,そ れ らを「華 人」 と呼 べ るか とい う こ と も 微妙 な ところであ る。 華 人 を取 り巻 く環境 ,歴 史 的背 景 や ,地 域 の 条 件 が 異 な る こ とか ら,ひ とつ の 時 代 を境 に,「 華 僑」 か ら 「華 人」 へ と,境 界 線 を引 く こ とは 非 常 に 困 難 で は あ る。 よって ,本 研 究 で は,「 華 人」 の 用語 に統 一 して使 用す る。. 2)以 上 の 部 分 参照 した. ン ドネシア, ミャンマ ーなど),他 民族 との軋礫 な. どによって,種 族暴動や排華運動が発生 し,多 数 の人 びとが殺害 された り. (マ. 経済活動や教育活動 に制限が加えられた り. (タ イァ イ ン ドネシアなど多数)と いったことは少な くな く,そ. 2-3)に つ い て は,以 下 の 書 籍 を. 沿物主 編 ,桂 貴 強 編 訳 ,『 海外 華 人 百 科 全 集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年. ,46-59頁 。. Jennifer CushIIlan & Wang Gungwu, eds。. レー シア,イ ン ドネシア, ミ. ャ ンマー,カ ンボジア,ベ トナ ム な ど多数),華 人 の. (2-1∼. :. Iグ. θ ″. j′ jι. sげ ′ 力ιSθ ′ 力ι α. s′. Asjα 77 Chj4θ s` sjれ. gjκ g , Cttα κ. ε ιwOrJグ War. “ 二 Hong Kong:Hong Kong University Press,1988。. ′ 力ι α 24sjα 77 C“ rθ ′rh` sθ _ “ “ 紹′ 五万777`κ sJθ れ, Singapore: Times AcadcIIlic “. Leo Suryadinata, ed。 ,. θ 一C“ jθ. J′. Sθ. s′. J′.

(10) 甲南 女 子 大 学研 究 紀 要 第 41号. 54. Lco Suryadinata,. Press, 1995。. Lco Suryadinata,C力 sr Asfθ ,. 人 間科 学 編 (2005年 3月. j′. ?′. ια″グヽQr′ θ72-3夕 グj′ gj″ ∫ :′. Sθ. ィ ′ カー ι. ). “ Chinese Economic Elites in lndone…. sia:Recent Devclopments",Zた. `Ctrrr“. r`げ C力 jれ. `s`豚. j4θ r¨. ` ″/77グ θ″ , Singapore: Tirnes Books lntemational, ′ ● ′ `s,α. Singapore: Singapore Socicty of Asian Studics,. `α. 1997,pp 25-54.. 1997.. 3)呉 偉 明 。合 田 美 穂 「 シ ン ガ ポ ー ル に お け る 日本 の 社 縁文化 一 日本人会 と九龍会 との比 較」,中 牧弘允 ・ ミッ シェル・セジウィック編 『日本 の組織 社縁文化 とイ. 11)当 初 は ,ス ハ ル ト退 陣 を 要 求 す る 暴 動 で あ っ た の が ,ス ハ ル トと癒 着 して い た 華 人 商 人 もそ の 攻 撃 の 対 象 と な り,更 に は 一 般 市 民 を 含 め た 全 華 人 も犠 牲 に な. ンフ ォーマ ル活動』,東 方 出版 ,2003年 ,99-126頁 。. つ た 。 同 暴 動 に つ い て は ,中 国 和 世 界 雑 誌 社 編 輯 部. 「亜洲週干J」 2004年 4月 25日 。 “ 正"の 側面 である とす る 負"の 側 面 と い え な ら,そ の一 方 で,秘 密 結 社 は “. 『華 裔 的 非 情 』,中 国 和 世 界 雑 誌 社 ,1998年 の 前 文 を 参. 4)宗 郷 会館が,華 入社 会 の. る。中国 か らの移民 のほ とん どは,仕 事 や住居 な どで の扶助 を求 めて宗郷会館 に入会 し,そ の保護 を受 けて いたが,同 時 に秘密結社 に加入す る華 人 も少 な くなか った。秘密結社 で は,『 三 国演義 (三 国史)』 中 の 英雄 である関羽 や劉備 ,張 飛 な どを守護神 として いる もの が 多 く,入 会儀式 もそれ らの面前 で 行 われた。 また 秘密結社 は宗郷会館 と同様 に,華 人社会 の葬祭 を取 り ,. 仕切 るこ とも仕事 の一 部 として いた。当時,多 くの華 保 人は,秘 密結社 に入会す るこ とに よつて,自 らを “ 護"し て もらっただけではな く,同 時 に闘争 に参加 す 保護"し た ることで結社の メンバーや結社 自身 を も “. 照 に した。 12)「 亜洲週刊」 ,2002年 10月 7日 。. 13)筆 者 は,シ ンガポール滞在中の 1996年 ∼2000年 まで の期 間,シ ンガポール福清会館 での行事 にて,参 与観 察 を行 う機会 を得 たが,中 で も比較的重要 な春節 の行 事 などには,林 は必ず出席 していた。. 14)シ ンガポールに居住す る唐裕 は,現 在,シ ンガポー ルの安渓会館主席 ,中 華総商会理事 ,海 星 中学校 お よ び工 商小学校等 の学校役員 を務めるな ど,シ ンガポー ルの華 人社会 に も多大 な貢献 を して い る。唐裕 にかん す る記述 は,筆 者が シ ンガポー ル滞在 中 の 1996年 ∼ 2000年 の期 間に,数 回にわたつて唐 に対 して聞 き取 り を行 った内容 をもとにして記述 したものである。 (マ レー 人や イ ン ドネシア人)の 価. 15)一 般的 に,土 着. のである。. 5)沿 物主編,在 貴強編訳 ,『 海外華 人 百科全集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,172-174頁 。 顔清涅著 ,陳 剣紅訳 「新馬華人社会的階級結構 典社 会地位流動 (1800-1911)」 お よび,栗 明鮮訳 ,「 十九世 紀新馬華 人社会中的秘密会社典社会結構」,『 海外華 人 史研究』,新 加坂 亜洲研究学 会,1992年 ,149-167お よ び,179-197頁 。 6)同 時期 , イ ン ドネシアにおいて も,「 カピタン」 は存 在 してお り,主 に「ペ ラナカ ン」 の 有力者 が任命 され. 値観 は,倹 約 しない,勤 労勤勉 で はな い,ビ ジネ ス に 興味が ない,楽 な生活 を享受す ることや確実性 を重視 す る とい った ものである といわれて い る。一方で華人 は,倹 約 に努 め,富 や名誉 を重視 し,ビ ジネ スチ ヤ ン ス を逃 さず ,洞 察力 が深 い といつたことが価値観 の特 徴 としてあげられる。. 16)活 制主編 ,在 貴強編訳 ,『 海外華 人百科全 集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,172-174頁 。 萩原宜之 『ラーマ ンとマ ハ テ イール. ブ ミプ トラの. 挑戦』,岩 波書店 ,1996年 ,1-18頁 。. ていた。. 7)こ の土 地政策 の 目的 は,土 着 を保護す るための もの であ り,華 人が土着 の耕地 を占領 した り,編 し取 った りす る事 を防 ぐため に実施 されたcイ ン ドネシアの 公. 17)沿 物主編 ,在 貴強編訳 ,『 海外華 人百科 全集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,164-165頁 。 18)Lco Suryadinata,. “ The Chinesc Minority in lndonesia:. 民権 を持 つ土着 のみが,耕 地 を所有す ることがで き 華 人 を含めた外来 のアジア人は,都 市 に居住す るこ と. Peranakan Literature in lndone― Recent lDevelopments" and “. を強 い られた。. pore: Times Books lntemational, 1997, pp 7-20 and 197-. ,. 8)沿 認主編,在 貴強編訳 ,『 海外華 人百科全集』,三 聯 Lco Suryadinata,. “ Chinesc Econonlic Elites in lndone―. ′ ●' j″. 4`Sjθ /77グ θ. `Cノ. r′. r`げ Cttjη. jれ. `S`″. θrjヶ j4ル あれ `sjα. ,Singa―. jκ ι r′ ″ げ C力. jκ. θrj∼. jれ. ルグθれ. `S`豚 `C′ ∫ , Singapore: Times Books lntemational, 1997, pp 159-. `―. jα. 9)当 時 の マ レー シ ア に お い て も,華 人 の 商 業 活 動 が 制 限 され て お り,華 人 と土 着 との 「 ア リ 。バ バ 式 連 携 経. 184.. 20)シ ンガポ ー ルの 場 合 は,身 分 証 明書 に記 録 す る た め の 民 族 区 分 に「ペ ラ ナ カ ン」 は 設 け られ て い な い た. 営 」 が 生 まれ た 。. lo)沿 認 主 編 ,社 貴 強 編 訳 ,『 海 外 華 人 百 科 全 集 』,三 聯 朱 炎 『華 人 ネ ッ トワー クの秘密 』,東 洋経 済新 報 社. ,. 隆 『新 版 イ ン ドネ シア』,N「Π 出版 ,1996年. め ,「 ペ ラナ カ ン」 は華 人 と して登 録 され る。 また ,英 語 と母語 に よる 2言 語教 育 の 過程 で ,「 ペ ラナ カ ン」 は 華 語 (中 国語 )を 母 語 と して履 修 す る。 そ うい つ た要. ,159-160頁 。. 因 に よ り,シ ンガポ ー ルで は,自 身 を華 人 で あ る と認. 1995年 ,52-53頁 。 169-176頁 。. jれ. Lco Suryadinata, “Chinesc Mino五 ty Religions After World War H", Tみ. 1997,pp 25-54.. 白石. `ν. 203.. θr―. , Singapore: Tirnes Books lntemational,. 書 店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年. Cttj4`∫. 19)沿 物主 編 ,在 貴 強 編 訳 ,『 海 外 華 人百 科 全 集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年 ,162-163頁 。. 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,159頁 。 sia:Recent Devdopments",動. r“ r`げ 豆a",「/2`C′ ′. ,. 識 して い る 「ペ ラナ カ ン」 も多 い 。. 21)方 言群 を超 えた組織 で あ る ジ ャカ ル タの「中華 会館」.

(11) 合田 美穂 :東 南 アジア華人移民 の歴史お よびマ レー シアとイン ドネシアにおける華人移民 の適応パ ター ン は例外 で ,ペ ラナ カ ン も積極 的 に参加 して い た。 22)Lco Suryadinata, and Present'', 7物 sjα. た。 1960年 に,イ ン ドネ シアで 国籍 の 選択 を迫 られ. J′. `s`ノ. Иjれ θrjク. jれ. ,. 中国国籍 を選択 した X氏 の話 に よる と,ジ ャワで比 較. “ Indonesian Chinese Education: Past. ιC“ 夕′ て のrC力 Jれ. 55. レグοれ `―. , Singapore: Tilnes Books lnternational, 1997, pp 77-. 的裕 福 な生 活 を して い た純 血 華 人 で あ る X氏 の 家 族 は,全 員 が 中国 国籍 を選択 し,一 家 で 中国 へ 渡 っ た。 そ の 後 ,X氏 は大 学 へ 進 学 したが ,お り しも,文 化 大. 102.. 23)当 時 ,ジ ャカル タの 華 文 小 学 校 の 4年 生 で あ っ た H 氏 の 話 に よる と,保 守 的 な思想 を持 つ 純 血 華 人 の 家 庭 に育 った H氏 お よびその兄 弟 は,イ ン ドネ シア学校 へ は転 入せ ず ,華 人 の 家庭 教 師 に つ い て 学 び なが ら,中. 革命 が起 こ り,海 外 華僑 で 裕福 で あ った とい う背 景 を 持 つ X氏 お よび そ の 家族 は批 判 の 対 象 とな った。文 革 時代 に辛酸 をなめ 尽 くした X氏 は,イ ン ドネ シ アヘ 戻 る こ とを切 に希 望 したが ,中 国 国籍 しか保 持 して い な. は,子 弟 を イ ン ドネ シア人 と接 触 させ ず ,中 国 人 と し. い 立場 で は不 可 能 で あ った。 そ の 後 ,専 門職 に つ い て い る 中 国 人 と結 婚 し,中 国 国 内 で 生 活 を続 け て い た. ての価 値 観 や 中国伝 統 文 化 を守 る事 を第 一 に考 えて い. が ,1980年 代 に,シ ンガ ポ ー ル 政 府 が 専 門的知 識 を持. H氏 は,華 人 以 外. の 民 族 と結 婚 す る とい う こ とは一切 考 えてお らず ,そ. つ 人材 を呼 び込 む政 策 を打 ち出 した際 に,X氏 の 配偶 者 は シ ン ガ ポ ー ル に 招 聘 され る こ と とな っ た。 そ し. の 後 ,シ ンガ ポ ー ル 華 人 と結 婚 し,シ ンガ ポ ー ル 国籍. て ,家 族 全 員 で シ ンガポ ー ル に渡 り,H氏 は シ ンガ ポ. 学 教 育 まで の 学 習 内容 を終 えた。 当時 の 保 守 的 な華 人. た とい う。 そ の よ うな背 景 で 育 った. ,シ ン ガ ポ ー ル にお け る H. ー ルで 永住 権 を取 得 後 ,ほ どな くシ ンガ ポ ー ル 国籍 も. 氏 へ の 聞 き取 りに よる。 24)ジ ャ ワの ス ラバ ヤ に居 住 す る純 血 華 人 の 保 守 的 な家. 取得 した。 イ ン ドネ シア を離 れ て 30年 以上 経 て か ら X氏 は再 び故 郷 イ ン ドネ シアの土 を踏 む こ とが で きた. を取 得 した。 (2002年 6月 ). O氏 は,イ. ン ドネシア名 へ の 改 名 とい う圧. ,. 力 の 中 で も,一 切 そ れ に従 わ なか った。民 族 意 識 が 強. ので あ る。 (2000年 7月 ,シ ンガポール にて ,シ ンガポ ール人 X氏 へ の ききと りに よる。). い 華 人 の 中 で ,O氏 の よ うに断 固 と して改 名 しなか っ. 27)沿 物主 編 ,桂 貴 強 編 訳 ,『 海 外 華 人 百 科 全 集』,三 聯. た華 人は多 くな い 。 (2003年 3月 ,香 港 にて ,イ ン ドネ シア人 の O氏 へ の 聞 き取 りによる。). 28)「 亜洲週刊」 2002年 8月 26日 。. 庭 に育 った. また,現 在 ,当 局 は,華 人 が イ ン ドネ シ ア に 同化 す. 書店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年. ,165-166頁 。. 29)「 亜洲週干J」 2003年 2月 3日 。. る意思 が あ るか ど うか とい う こ とを示 す ため の 指 標 と. 30)ワ ヒ ド,メ ガ ワテ イ両 大 統 領 に続 き,2004年 の 大 統. して ,イ ン ドネ シア名 の 有 無 を重 要視 して い る。例 え ば ,イ ン ドネ シア公 民 権 を取得 して い る華 人 に発 給 さ. 領 候 補 者 の 一 人 で あ る ウ イ ラ ン トも,2004年 の 春 節 に,華 人組 織 の イベ ン トに出 席 し,中 国語 で 出席 者 に. れ る 身分 証 に,イ ン ドネ シ ア名 で あ るか ど うか の 暗 号. 挨 拶 をす る な ど,親 華 人 の 態 度 を取 っ て い る。 ウ イラ. が 記 され てお り,そ れ に よって ,華 人 に対 す る待 遇 を. ン トは,1998年 の 暴 動 時 に,国 防 お よび治 安 にお け る. 変 える とい う。. 25)沿 物主 編 ,社 貴 強 編 訳 ,『 海外 華 人 百 科 全 集』,三 聯. 最 高 責 任 者 の 地位 にあ った に もか か わ らず ,暴 動 に対 して適 切 な措 置 を と らなか った こ とか ら,華 人 の 不 満. 書 店 (香 港 )有 限 公 司 ,1998年 ,166頁 。 1970年 代 に,華 人 へ の 制 限 が 緩 和 され た こ と に よ り,条 件 付. に つ い て は,選 挙 目的 で あ る と冷 や や か な見 方 を され. で ,華 人組織 を再 開す る こ とがで きる よ うにな った。. て い る。 (「 亜洲週刊 」 2004年 2月 22日 。. 26)国 籍 選択 は,華 人 の 人生 を大 き く変 え る こ とに な っ. を買 った い きさつ が あ るだ け に,こ の 親華 人 的 な態 度. ). 31)「 亜洲週 干J」 2004年 5月 9日 。.

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