東南アジア華人移民の歴史およびマレーシアとインドネシアにおける華人移民の適応パターン
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(2) 甲南女子大学研 究紀 要第 41号. 46. 人 間科学編 (2005年 3月. ). 多数の華人が排斥 された り,華 人の経済活動や教育活 動 に制限が加えられた り, とい うことは少な くなか っ. 時 ,危 険 を冒 して海や陸 を行 く商 人が後 を絶 たず ,特. た。. うにな り,中 には滞在期 間 が 10年 に まで お よぶ もの. に,泉 州 (福 建省 )か らの商 人 は,現 地 で冬 を越 す よ. 本研究 は,以 下にのべ る 4点 ついて考察す ることを. や ,現 地 に移民す る もの まで もい た。 こ うい った状況. 目的 としてい る :1点 目は,海 外華人移民が生 まれる. は ,元 朝 以 降 も続 い た。明朝 以 降 は,歴 代 皇帝が さほ. こととなった歴史的背景,2点 目は,海 外華人移民 の. ど南 洋貿易 に興味 を示 さなか った 中で ,明 初 の永楽帝. 種類 ,3点 目は,華 人の居住国 における適応パ ター ン. が 70回 以上 も使 節 を派遣 し,積 極 的 に南 洋 との 商業. である。 これ らの問題 について考察 を行 い,比 較す る. をベ ース と した交流 をすすめ たため ,そ の 時期 ,ジ ャ. 事 によって,複 雑化 された華人社会についての理解 を. ワや スマ トラに華 人や混血 華 人が居住す る強大 な華 人. 深 めることが本研究 の 目的である。. 商業地区が作 られた。. 本研究 に用 い た研究方法 は以下の 4点 である 三1点 目は,歴 史的文献 お よび先行研究,2点 目は,雑 誌. ,. 2-2。. 16∼ 19世 紀 :中 国 と東南 ア ジアの相互作 用. "西. 新聞な どの報道 ,3点 目は,東 南 アジア華人 による手. 洋 の 軍 事 お よび商工 業 の拡大 をは じめ とす る全. 記 を含 めた 自伝的記述 ,4点 目は,東 南 アジア華人 を 主 とす る関係者へ の聞 き取 りである。なお,本 研究 で. 世界的動 き この 時期 ,東 南 アジアヘ の ヨー ロ ッパ の進 出がめ ざ. は,華 人 と土着住民 との相互利用 の代表例 として,マ. ま しく,多 くの商業 をベ ー ス に した移 民 が 東南 アジア. レーシアの「カピタン」 およびイン ドネシアの 「チ ュ. ヘ 渡 った。 16世 紀 ,中 国 の 社 会構 造 は 変 化 を 見 せ. コン」 を,同 化 の代表例 として,マ レーシアや イン ド ネ シアに多 く見 られ る「ペ ラナ カ ン (バ バ,ニ ヨニ. 中国社 会 は ,過 去 の どの時期 よ りも市場経 済 に よって 大 きな影響 を受 ける よ うにな った。農業 は商業化 し. ャ)」 と呼 ばれる混血華人 を,「 歴史の副産物」 とい う. 都市部 の工 芸 品生産 は拡大 し,貿 易 とそ の競争力が増. 見地か ら選択 した。 また,居 住国 における共生. 加 した ことか ら,社 会 の流動性 も加速 した。それは. (非. 同. ,. ,. ,. 化)の 例 として,「 保守」的な立場 か ら,「 排斥」 され る立場へ ,そ して,現 在 は「承認」 されるようになっ. 明政府 の経 済 に対す る管制が厳 しくなか ったためで あ. たイン ドネシア華人. 形成 され ,東 アジアお よび東南 アジア との貿易 の仲介. (純 血華人)を. I。. 選択 した. る。 そ の 中 で ,福 建 人に よる非常 に大 きい商業勢力が を行 う よ うにな った。彼 らの 中 で突 出 して い たのが. 2。. 海外 華 人 の 歴 史. ,. 鄭芝龍 とそ の子 で 台湾 を統轄 した こ とで知 られ るell成 功 で あ る。. 2-1.16世 紀以前 :中 国海軍の成長および海上貿易の 発展 海外 華 人 は,ど の よ うな過 程 で生 まれ た の だ ろ う. 17世 紀 には,オ ラ ン ダ人や イギ リス 人が 東 南 ア ジ アに進 出す るの と同時 に,多 くの華 人が タイ,ベ トナ ム ,カ ンボ ジアや フ ィリ ピンな どに華 人殖民 区 を形成. か。 多 くの 海外華 人 を生 み出す こ とになった歴 史的背. した。 1644年 に,清 政府 に よる統 治 が 始 まる と,清. 景 には,中 国海軍 の 成長お よび海 上 貿易 の発展 ,中 国. 政府が ,反 清 を唱 える鄭成功 に よる沿海貿易 を封 じる. と東南 アジアの相互作用 ,中 国国内 の 人口増加 ,西 洋. ため ,沿 海住民 を内陸部 に移 民 させ ,海 上 貿易 を禁止. の 軍事 お よび商 工 業 の拡大 をは じめ とす る全 世界的動. した。 清政府 の迫害 に よって ,鄭 成功 の残留勢力 はベ. き,そ れ につ なが る動 きと して ,西 洋 の 中国お よび東. トナ ム南部 に流 れ ,地 方 の統 治者 となった。 一 方 ,満. 南 アジアに対す る影響 ,中 国内部 の 崩壊 ,そ して ,近. 州族 の統治 に不 満 を持 つ 多 くの 人び ともイ ン ドシナ半. 年 にお ける東南 アジアでの熟練動労者 の需 要 があげ ら. 島 に渡 り,ベ トナ ム南部や カ ンボ ジアで は半 島南部 で. れ る。. は華 人 による巨大 な勢力が形成 された。 これ は,商 業. 16世 紀 以 前 の 中国 人 の 移民 は,商 業 目的 に よる外. ベ ース とは異 なる もうひ とつ の移民 の流 れであ る。. 国 との往 来 の過程 で生 まれた もので あ った。 中国 の 海. 華 人 と東南 ア ジア との 貿 易 は ,政 府 の 管 制 な どか. 上 貿易 は主 に南 洋 (東 南 アジア)か らの特産物 の輸 入. ら,多 くの 困難 に直面 して い たが ,18世 紀 以 降 ,更. に よる もの で あ った。特 に,H27年 に南 宋 が 成 立 し. に多 くの華 人が東南 アジアに渡 った。 当時 は,商 業 ベ. た こ とに よって始 まった中国 の航 海時代 で は,南 洋 と. ー スの ほか に,「 苦力」 とよばれ る非熟 練 労働 者 が 多. の「朝貢」 の形式 を取 らない貿易 が全盛期 を極 め ,南. 量 に発生 し,そ の 中 には,渡 航費用 を借 金 して渡 った. 宋政府 は商港 を建設す るための 海軍 を も組織 した。 当. もの ,編 されて連行 された もの な どもいた。そ の背景.
(3) 合田. 美穂 三東南 アジア華 人移 民 の歴 史お よびマ レー シア とイ ン ドネシアにお け る華 人移民 の適応 パ ター ン. 47. には,土 着 の統 治者 や西 洋 の植民者が華人 を利用 して い た こ とが あげ られ る。「苦力」 の 多 くは 地縁 や血縁. 労働 者 で はな く,多 種 にお よぶ 熟練労働 者 の 需要 に よ. な どに よる連鎖移民 で あ り,ベ トナ ム ,タ イ,フ ィリ. る移 動 で あ る とい え,そ の能力 と労働 力 は,非 熟練労. ピン,イ ン ドネシア,マ レー シアな どを中心 と した地. 働 者 の それ をはるか に上 回 つてい る。更 に,近 年 は. 域 に渡 り,方 言群 に よる住 み 分 け を行 った。そ の後. グ ローバ ル化 に伴 い ,中 国へ の投 資 な ど,商 業 ベ ース. ,. た ,こ の時期 の移民 は,従 来主流 を占めて い た非熟練. ,. 華 人居住地 は更 に拡 大 し,華 人が現地 の貿易 を コ ン ト. の往来 をは じめ ,中 国 か らの観光客 や留学生 を受 け入. ロール す る よ うにまで な っていた。. れ る国 (シ ンガ ポ ールや マ レー シアな ど)も 増加 し. ,. 中国 との交流が 一気 に進 んで い る。特 に,シ ンガポー 2-3。. 19世 紀以降 :西 洋 の 中国お よび 東南 ア ジア に対. ルで は高学歴 で専 門知識 を有 す る 中国人 (香 港 人 を含. す る影響 1中 国内部の崩壊. む)が 労働 す る こ とや ,更 に は彼 らの 帰 化 が 歓 迎 さ. 19世 紀 以 降 ,植 民 地 政府 の統 治 下 にあ る東 南 ア ジ. れ ,「 新 移民」 が 急増 中 で あ る。 また ,中 国 か らの新. アにお い て ,植 民地主義 を伴 った ヨー ロ ッパ の商 工 業. 移民 に よる「華 源 会」,香 港 人 に よる「九 龍 会」 とい. の拡張 に よる労働力 の不足 に伴 って ,多 くの 中国か ら. う互助 的 な組織 も成立 し (特 に後者 は シ ンガ ポ ール政. の労働 者 が 東南 アジアに流 れ た。移民 の移住先 はアジ. 府 に よる積極 的 な支持 を得 て い る),中 国 か らの 新 移. アのほか に,ア フリカや 太平洋地域 に まで広が った。. 民 に よる コ ミュニ テ イ形成 に一役買 ってい る"。. 移民 の発生 は,中 国内部 の崩壊 に も起 因 して い る。清 朝末期 には,ア ヘ ン戦争 に始 まって ,清 朝 の存亡 にか. 3。. か わ る再 三 にわ た る群 集蜂 起 が起 こ り,19世 紀 中葉 には,そ れが ピー クに達 して い た。 また,清 朝 を揺 ら がす こ とにな った「太平 天 国 の乱 (1850-1864年 )」. 移 民 の 適 応 パ タ ー ン (1): 土 着 との 相 互 利 用. (マ レ ー シ ア と イ ン ドネ シ ア の 事 例 ). ,. 「捻 軍 (反 清 武 装 農 民 の 集 団)の 蜂 起 (1851-1868. 3-1.マ レー シアの 「 カ ピタン」. に. 華 人移民 が最 も多 い とい え る 19世 紀 にお い て ,東. よって ,国 内 は更 に混乱 を極 め ,多 くの 中国人が海外. 南 アジア各地 で は,華 人 の相互扶助 を目的 と した地縁. に流 れた。. お よび血 縁組織 や ,華 人商人 の利益 を守 るための商業. 年 )」 ,「 義 和 団 運 動 (北 清 事 変 )(1899-1900年. )」. 清 朝 の 政 権 に 終 止 符 を 打 っ た「辛 亥 革 命 (19H. 組織 な どが次 々 と設立 された。そ の一 方 で ,華 人移民. 年 )」 後 も,中 国 国 内 で は,軍 閥 ,革 命 ,外 国 か らの. に よる秘密結社 も同時 に成立 し,華 人 を保護す る とい. 侵 略 ,内 戦 とい う よ う に,混 乱 が 続 き,1937年 に 日. う名 目を持 ちなが ら,華 人社会 に脅威 を与 えて い た。. 中戦争が勃発 す る と,更 に国内 は混乱 し,国 外 へ の 移. 一 般 的 に,秘 密結社 は,同 一の方言 グル ー プか ら形成. 民 の 大 きな波 が起 こった。 そ して ,1949年 に 中 国共. されてお り,方 言 グル ー プを コン トロール して い た。. 産党 に よる 中華 人民 共和 国 が成立 に ともなって ,多 く. 当時 ,マ ラヤ (マ レー シアの前 身)で は,秘 密結社 の. の 国民党 の残留 が 国外 に流 れた。 この 時期 ,海 外 に渡. リー ダー格 で才覚 を持 つ 人物 は,農 園や採掘場 な どを. った華 人 は,都 市部 で は 巨大 な華 人 コ ミュニ テ ィを形. 支配 し,労 働 者 を コ ン トロールす る よ うになった。 か. 成 し,経 済活動 を含 めて華 人社会全 体 を コ ン トロー ル. れ らは 自然 と,方 言 グル ー プだけで はな く,華 人社会. す るまで になった。 また ,辺 境 の途上地帯 に移 民 した. の 中 で もリー ダー 的存在 として認 め られ る よ うになっ. 華 人は,タ イ北 部 にお ける国民党軍 の残留 の よ うに. て い った。. ,. 当地 の 政府 の意 向 で 中国共産党 の進 出 を防 ぐ役割 を担. 当時 のマ ラヤでは ,土 着 のスル タ ン (王 )が ,秘 密. う場 合 や ,ミ ャ ンマ ー 北 部 にお け る 同軍 残 留 の よ う. 結社 の財力 に目をつ け るだ けで はな く,結 社 に よる保. に,政 治的 に も文化 的 の も台湾 とは密接 なつ なが りを. 護 を求 めて ,結 社 の リー ダー と商業協定や政治的連盟. 保持 しなが ら,現 地 に根付 い て商業活動 を行 うな ど. を結 ぶ ケ ー ス も増加 して い た。 スル タ ンの信頼 を得 た. それぞれ独 自の生 活 を築 い て い る'。. 結社 の リー ダー は,ス ル タ ンか ら「カ ピ タ ン」 を呼 ば. ,. れ る地 位 を授 与 され た。結社 の リー ダ ー は,「 カ ピ タ 2-4。. 1950年 代以降 :東 南 ア ジア を中心 とす る熟練 労. ン」 になる ことに よって ,ス ル タ ンの支配下 にあ る採. 働者 の需要ヮ「新移民 」 の波. 掘場 な どを傘下 にお き,事 実 上 ,そ の 地域 の事 や物流. 1950年 代 か ら 1960年 代 にか け ての 移民 は主 に,辺. を完全 に支配す る よ うになって い た。 そ して ,結 社 の. 境 の発展途上地帯 で はな く,都 市部 へ と集 中 した。 ま. リー ダー はスル タ ンを保護す るだ け で はな く,そ れ ら.
(4) 甲南女子 大学研 究紀 要第 41号. 48. で 得 られた利益 をスル タ ンに献 上す る とい う ように. 人間科学編 (2005年 3月. ). の華 人 )は イ ン ドネシアの公民権 を取得 して い なか っ. ,. スル タ ン側 も得 る もの は多 く,か れ らとスル タ ンの 間. たため ,華 人商 人たちは,土 着 の商 人 と手 を組 み ,土 着 の 名義 で 得 た土 地 にて ,工 場 な どを建 設 した りし. 4。. には一 種 の 相互利 用 が 存在 して い た. そ の 中で も最 も卓越 した 「 カ ピタン」 であ った とい. た。 この 「ア リ・バ バ 式 連 携 経 営」 が 出現 した 当初. われ るのが ,セ ラ ンゴール州 の 海 山秘密結社 の リー ダ. は ,華 人は主 に,サ イ ドビジ ネス を もつ 政界 の重要人. ー で あ っ た 葉 亜 来 (ヤ ップ ・ ア ー ロ イ)で あ る。葉. 物 と手 を組 む こ とが 多 く,こ こか ら,「 チ ュ コ ン」 を. は,1860年 代 に,土 着 の 王位 継 承 戦 争 にか か わ り. は じめ とす る,華 人企業家 と政 界 人物 の癒着 の土 台 が. スル タ ンの アブ ドル ・サ マ ドの王 位継承 のため に一 役. 作 られ るこ とになった ので あ る'。. ,. 買 った ことで ,ス ル タ ンか ら「 カ ピタン」 の 地位 を与 え られ た。 そ の後 ,葉 の支配 とリー ダー シ ップに よつ て , クアラル ンプールの錫鉱業 お よび商業 は飛躍 的 な 発展 をみせ た。 これ に よつて , クアラ ル ンプールは 商業都市 と して更 に発 展 を続 け ,後 に,マ. ,. ラヤ の首都. 3-3.イ ン ドネ シアの 「 チ ュ コン」 現代 的 な企業 の運営 に携 わる よ うになった華 人は. ,. 多種 多様 にわたる ビジ ネス に勢 力 を拡大 し,彼 らの企 業 も高度 に多角化 して い った。 1950年 代 か ら 1960年. となるのであ る。 スル タ ンだ け,あ るいは,秘 密結社. 代 以 降 ,多 くの土 着 と華 人 との連合企業 の所有権 は. の リー ダー だ け の力 で は,当 時 ,ク アラル ンプ ール を. 華 人 の 手 中 にあ り,「 ア リババ 式 連携 経 営」 の 対 象 に. 含 めた マ ラヤ 各都市 の発展 はなか った とい う こ とがで. なる土着 は政 界 人物 だけで はな く,軍 人 に まで広が っ. ,. た。. 5。. きる. マ レー シアにお い て ,華 人社 会 での 第 一 群 の指導者. 特 に,1950年 代 以 降 ,頭 角 を現 し始 め た 軍 人 は. は,こ の ような「 カ ピ タ ン」 で あ った。 そ の 後 ,植 民. 積極的 に華 人 との連携 を望 んで い た。地方 の 軍 人 は. ,. ,. 々に「カ. ゴム ,椰 子 ,砂 糖 な どをシ ンガポ ー ル に密輸 し,そ こ. ピ タ ン」制度 は廃止 されて い ったが ,華 人社会 で 巨額. で得 られた利益 を,軍 資金 として利用す る ことを 目的. の富 を得 た商人や企業家が ,華 人社会で の リー ダー 的. に,華 人商 人 と積極 的 に手 を組 んだ。特 に,ジ ヤワの. 地位 を「 カ ピ タ ン」 か ら取 って代 わ って ,第 二 群 の指. 地方 にお い ては ,福 建系華 人が長年 ,中 小 の ビジ ネ ス. 導 者 とな る 20世 紀 初期 まで ,こ の 「カ ピタ ン」 制 度. に携 わ ってお り,地 方軍 人 と手 を組 みやす い環境 にあ. 地政府 に よる実権 が強 固 になってか らは,徐. った。 また,こ うい った華 人商 人 のほ とん どが ,中 国. 6。. は継続 し,マ ラヤ発 展 の 基礎 を固めた ので あ る. 語教育 を受 けた純血華 人であ り,シ ンガポール な ど. ,. 3-2ロ. 華 人が多 い地域 とは ビジ ネ スや資 金調達 の ための ネ ッ. イ ン ドネ シアの 「ア リ・ ババ 式連携経営」. 一 方 ,イ ン ドネシアで も,そ の ような土 着 と華 人 の 相 互利 用が近年 まで存在 して い た。そ の相 互 利 用 は. ,. オ ラ ン ダ植民地 時代 の 1870年 か ら,1960年 まで 1世 紀 以上続 い た土地政 策 に よ り,イ ン ドネシアの公民権 を取得 して い ない華 人が ,農 地 を所有す ることがで き. トワー クをすで に持 ってお り,当 時 ,シ ンガポールヘ の密輸 は難 しくなか ったので あ る。. 1967年 に大 統 領 に就任 した ス ハ ル トも,大 統 領 就 任以前 ,ジ ャワ軍 の指揮官 で あ った際 に,林 紹 良. (ス. ドノサ リム )を は じめ とす る複数 の華 人商 人 と手 を組. この 土 地 政 策 が. んでお り,大 統領就任 以 降 も,そ の ビジ ネ ス関係 を継. 実施 され る以 前 は,東 ジヤワの スラバ ヤ を中心 とした. 続 させ て い た。 これは,そ の 後 ,林 が イ ン ドネシアで. 地域 で ,裕 福 な華 人移民 は大規模 な農 園 を所有 し,イ. 最大 の財 閥 となるサ リム ・ グルー プを築 き上 げ る土 台. ネやサ トウキ ビの栽培 を行 っていた。 しか し,土 地政 策実施 以降 ,華 人はや むな く農園へ の資金 を製糖工場. とな った。 1970年 代 ,こ の よ う に,軍 と密 接 な関係 を持 ってい た華 人商 人 は,「 チ ュ コ ン」 の 称 号 を与 え. の 建設 な どとい った現代 的 な企業 の運営 へ 移 した。 し. られ ,い くつ か の 分野 で 活 躍 して い た。 1980年 代 末. か し,成 功者 は一 部 分 であ り,こ れ に よ り没落 した華. 期 か ら,原 料価格 の暴落 に よつて ,特 に イ ン ドネシア. 人農園所有者 は少 な くなか った。. で主 要 な輸 出品 目であ つた石油 は大 きな打 撃 を受 け た. 7。. な くな った こ とに端 を発 して い る. 1950年 代 か ら 1960年 代 にか け て ,「 ア リ 0バ バ 式. ため ,政 府 は石 7由 に変 わる代替 の輸 出品 を増加す る政. 連 携 経 営」 とよばれ る ス タ イ ルの 経 営 が 出現 した。. 策 を とった こ とか ら,紡 績業 や靴製造業 をは じめ とす. 「ア リ」 とは土 着 を,「 ババ」 とは華 人 を指す この経営. る製造業が発展 し,輸 出品 も多様 化 した。 それ ら大企 Ю 業 のほ とん どが 華 人に よる もので あ る 。. ス タイルは ,文 字通 り,土 着 と華 人に よつて作 り上 げ 8。. られ た もので あ る. 当時 も,多 くの 華 人 (特 に純 血. 林 にか ん して言 えば,1980年 代 に中亜 銀 行 を設 立.
(5) 合田. 美穂 :東 南 アジア華人移民 の歴史お よびマ レー シアとイ ン ドネシアにおける華人移民 の適応パ ター ン. 49. し,サ リム ・ グル ー プを国内屈指 の財 閥 まで成長 させ. マ レー シアか ら分離独 立 ,同 年 イ ン ドネシアでは 90. た。 当然 なが ら,ス ハ ル トの支持 な くしては,サ リム ・ グルー プは,こ こまでの発展 をな しえる ことはで き. 30事 件. なか ったで あ ろ う。 しか しなが ら,1998年 に,経 済. で,唐 はイ ン ドネシアの政府高官 に対 し,シ ンガポー. 危機 の悪化 に よってスハ ル ト退陣 を求 め る暴動 が発 生. ル との 国交樹立 を積極 的 に助 言 し,1967年 ,両 国 の. し,状 況 は一 変 した。 林 をは じめ とす る,ス ハ ル トや そ の傘 下 にあ る軍部 と関係 が 深 か った華 人商人 は,ス. 間で国交が結 ばれた。イ ン ドネシアでは同年 ,ス カル ノか らスハ ル トヘ政権が交代 したが,シ ンガポール と. ハ ル ト失脚 と同時 にその勢力 を失 う こ ととなったので. の国交樹 立やイ ン ドネシアの経済発展 の立て役者 であ. 林 の 中亜銀行 の株 式 の大半 は,外 資系企 業 に. る唐 は,失 墜するどころか,ス ハ ル ト新大統領 か らも. リム ・ グル ー プ も現在 ,大 きな負債 を抱. 買収 され ,サ えて い るに 林 は,福 建省福 清 出身 の 華 人であ り,シ. 信望 を得 たので あ る。そ の後 ,唐 は,199o年 の イ ン. ンガ ポ ー ルの福清会館 の名誉顧 間 を して い るが ,名 ば. と中国 の 国交回復 にお い て,両 国 と中国 の 要人 との. か りで は な く,主 要行 事 の た び に シ ンガ ポ ー ル ヘ 飛. 「根 回 し工作」 で,陰 なが ら大 きな役割 を呆 た したの. H)。. ある. )。. び,イ ベ ン トに出 席 して い る。 1998年 の 暴 動 以 来. ,. (詳 細 は次節 )が 発生. し,ス カル ノ政権が揺. らぐことになった。その ような波瀾 に満ちた時代 の 中. ドネシアと中国の国交回復 ,そ の直後 のシンガポール. で あ る。 1960年 代 以降,唐 は,積 極 的 な中国へ の支. シ ンガポ ー ル に滞在す る ことが 多 くな った林 は,引 き. 援や中国でのビジネス を通 して,李 鵬や朱鉛基 など中. 続 き頻繁 に福清会館 には顔 を出 して い た. イ ン ドネ. 国の要人か らも信頼 を得 てきた。唐 のそういった人脈. シアで ,こ の よ うな華 人組織 が容認 されて い ない状 況. と信頼関係 が,イ ン ドネシアお よびシンガポールの指. 下 にお い て ,海 外 の血 縁 あ るい は地縁組織 に加入 し. 以外 で も, ミャンマ ー な ど,政 府 に よる制 限が存在す. 導者 か ら一 日置かれ,そ れが三国の外交関係 にも大 き く役立 ったのである‖ 以上の「カピタン」,「 アリ・ババ式連携経営」 お よ. る地域 の華 人企業家 に よ く見 られ るケ ース で あ る。. び「チ ュコン」 に見 られる華人 と土着 との関係 につい. B)。. ,. 華人 の ネ ッ トワー クを築 くこ とは多 く,イ ン ドネシア. '。. そ うい った ケ ース ばか りで はな く,国 家 間の 国交樹. てい えば,華 人 と土着 は同化す るわけではな く,共 生. 立 な どのため に活躍 し,国 家 が 国際社 会 でその 地位 を. とい うよ りもむ しろ相互利用 しなが ら生存 してい ると. 確 立す るため に貢献 した「チ ュコ ン」 も存在す る。 そ. いった関係 である とい える。相互 に利用 し合 っている. の代 表例 が ,イ ン ドネシア国籍 で ,シ ンガポール の永. ため,双 方 ともに得 られるものは多 く,こ れ らの関係. ン・ ジ ュー)で あ る。唐 は 1926. が,国 家 の発展 に寄与 した部分 は非常 に大 きい。特. 年 にイ ン ドネシアで生 まれ ,8歳 の 時 にシ ンガ ポ ール. に,「 チ ュコン」 につい てい えば,一 般的 に,林 詔良. に い る兄 を頼 って 来 星 ,華 語 に よる教 育 を受 け ,18. を例 とするように,時 の政治権力が存在する間は安泰. 歳 で 海 運 業 に 従 事 す る よ う に な っ た。 1950∼ 60年. であ るが,政 変 によって反対派が政権 を握 ると失墜す. 代 ,製 油業 を本格 的 に開始 したばか りの シ ンガ ポ ー ル. るケースがほとんどであった。 こういった関係 は, ど. で ,唐 は シ ンガ ポ ー ル とイ ン ドネシア 間 の 石油 の輸送. ちらかに利用価値がな くなれば,あ るいは,土 着 の権. を手 が け た。そ して ,1957年 には唐 の経営 す る TuNAS. 力者が失脚すれば,華 人は全 てを失 って しまう危険 を. 社が ,イ ン ドネシア国家石油公社 の駐 シ ンガポ ー ル総. はらんだ関係 である ともいえるのである。その中で. 代 理 に指 定 され る まで とな った。 1950年 代 後 半 か ら. 住 権 を持 つ 唐 裕. (ト. ,. 1960年 代 にか け て,同 社 は全盛 を極 め ,多 い 時 に は. 唐裕 の よ うに,国 家 間の外交 関係 に尽力 したケ ース は,居 住国へ の最 も大 きな貢献 のひとつであ り,い わ. 一 時 に 200隻 の タ ンカー を所有 し,唐 はシ ンガ ポ ール. ば特別 のケースであ るといえるだろう。 こういった関. の 海運王 と も称 え られ た。唐 は 1945年 ,イ ン ドネ シ. 係 は,華 人. アのス カル ノ政権樹 立 に際 して軍 部 に物資 を調達 し. 重要な選択肢 の一つ だったのである。. ,. (特. に商人)が ,居 住地 に適応するための. 政権 の樹 立 を助 け,そ の後 の ビジ ネ ス を通 してス カル ノ大統領 と深 いつ なが りを築 き, ビジ ネス にお ける 自 らの地位 を確 か な もの と した。 1960年 代 ,唐 は,中 国銀行 シ ンガ ポ ー ル支店 の 開設 を積極 的 に支援 し,中. 4.移 民 の 適 応 パ タ ー ン. (2):. 土着 との同化 (マ レー シアおよび イ ン ドネシアの「ペ ラナカ ン」 を例 として). 国 の シ ンガ ポ ー ル 進 出 の 突破 口 を 開 く こ とに 貢 献 し た。 また ,当 時 ,シ ンガ ポ ール とイ ン ドネ シアで は. ,. 政変 が立 て続 け に起 こ り,シ ンガポ ー ル は 1965年 に. 東南 アジアの一 部 の地域 で は,華 人 と原住民 との通 婚 に よる同化が進 み ,混 血文化が生 まれた。 マ レー シ.
(6) 甲南女子大学研 究紀 要第 41号. 人間科学編 (2005年 3月. ). アやイン ドネシアでは,こ うい う混血児 を「ペ ラナカ. ン」 によって,純 血 華人 と同様 に,互 助組織 で あ る. に男女 を区別 して呼称す る場 合 は,男 性 はバ バ,女 1生 はニ ヨニ ヤ)」 と呼 ばれて い る。 また,フ イ. 「公会」や 「会館」が設立 された。組織内 での使用言. リピンでは,先 住民 とスペ イ ン人の文化 をあわせ持 っ. れて い たが,後 にマ レー語 に取 って代 わ られた。 ま. たメステ イソと呼 ばれる混血児が生 まれ,か れ らは居. た,華 人による華文学校 の増加 に対抗 して,オ ラ ンダ. 住地で他民族 と比較的平和 にに共生 していた。 かれ ら. 植 民 地 政 府 に よ っ て,「 荷 華 学 校 (Holland_chinese 「ペ ラナカ ン」 のエ リー トの School)」 が設立 された。. ン. (特. はそれぞれ,華 人の もの とは別 の,独 自の融合文化 を 作 り出 して きた。本節 では,「 ペ ラナカ ン」 につい て 取 り上げる。 マ レー シアの 「ペ ラナ カ ン」 の起源 は,15世 紀 の マ ラッカ王国時代 にまで さかのぼることがで きる。当 時,福 建省か らの移民 を多 く受け入れたマ ラッカはマ ラヤにおける最初の華人居住地 となった。 イン ドネシ. 語 は,早 期 においては父祖 の地か らの福建語が使用 さ. 子弟の多 くは,オ ラ ンダ語 を教学用語 とする「荷華学 校」へ進学 したため,オ ラ ンダ語が 「ペ ラナカ ン」 エ リー トの言語 となった。中で も優秀 な「ペ ラナカ ン」 の子弟 は,オ ラ ンダの大学 に進学す る機会 を得 る事が で き,帰 国後 は,医 師,弁 護士,薬 剤師やエ ンジエア な どの専 門職 に従事す ることとなった。植民地政 府. アで も,19世 紀 中葉以前 か ら多 くの華人移民 が流入. も,オ ラ ンダ語教育 を受けた「ペ ラナカ ン」 を積極的. し,巨 大な華人居住地が形成 された。当時の移民 の大. に官員 として採用 した。 こ うして,「 ペ ラナカ ン」 の. 半 は単身の男性 であ り,原 住民 の女性や,華 人 と原住 民 との間に生 まれた混血児 と通婚するケースが多かっ. 中で もエ リー ト層 は,オ ラ ンダ語教育 を受けた ものに よって占め られることになった口 「ペ ラナカ ン」 の文化 は,中 国文化 と土 着 の文化 の. た。かれ らの子弟 は「ペ ラナカ ン」 と呼 ばれ,現 地 の 言語 に精通 し,現 地 の文化を積極的 に受け入れたが い 中国の伝統的な価値観 も保持 していた 。. ,. 18世 紀 か ら 19世 紀 にかけてのマ ラヤでは,商 業界 や専 門的な分野 で,「 ペ ラナカ ン」 はその才覚 を現 し た。マ ラヤでは,イ ギ リス人が ペ ナ ン (1786年 )お. │。. 融合であるとい える。言語 について言えば,エ リー ト 階層 は宗主国の言語 に精通 してい るが,一 般的 には. ,. 家庭内ではマ レー語. (イ. ン ドネシア語)を 使用 し,親. 族 に対す る呼称 や料理の名称 に福建語の単語 を使用す るほかは,中 国語 は話 さない。マ レー シアの「ペ ラナ カン」女性 の服装 は,マ レー系 のスタイルを基調 とし. よび シ ンガポ ー ル (1819年 )に て政 権 を確 立 す る と,両 地域 の経済 は急速 に発展 した。マ ラッカの「ペ. た ものではあるが,中 国的な色彩 や模様 をあ しらった. ラナカ ン」 は,そ の機 に乗 じて両地域 に移 り,そ れ ら. ものが多い。 イン ドネシアの場合は,バ テ イックと呼. の地域 で も活躍 した。 また,か れ らはマ ラヤ全域 にお. ばれる土着 のろ うけつ染めの服装が好 まれて使用 され てい る。「ペ ラナカ ン」 の歴史は長 い ため,彼 らによ. いて,サ トウキ ビの栽培 や,製 糖業 に従事 した り,錫 野 で成果 をあげ,土 着 の王か ら認め られ,「 カピタン」. る文学 も地位 を確立 していた。イ ン ドネシアの場合 独立前 は,華 人マ レー語 (ム ラユ ・テ イヨンフ ァ)と. としての地位 を獲得するもの も現れた。植民地政府が. 呼 ばれる日常生活 で使用 される言語によつて書 かれて. 「カピタン」制度 を廃止 してか らは,英 語や マ レー語. いたが ,独 立後 は,そ れは標準 イ ン ドネシア語 に取 っ て代 わ られた螂。. 鉱業や ゴムの栽培 にも着手 した りして,そ れぞれの分. に精通する「ペ ラナカ ン」 は,植 民地政府 の機関 にて. ,. また,「 ペ ラナカ ン」 の特色 が現 れてい る宗教 の 中. 官員 として採用 される機会が増加 した。 1900年 ,マ ラヤでは,イ ギ リス植民地政府 によつ. に,孔 子 を信仰す る「孔教」があ る。 ジャワの孔教 の. て,「 英籍海峡華人公会」 が設立 された。 メ ンバ ーの. 歴史は古 く,1899年 にジャワのス ラバ ヤに孔 子 の神. ほとんどが,英 文教育 を受けた専門職従事者や企業家 である「ペ ラナカ ン」 によって占め られていた。 かれ. 位 を祀 つた廟が建立 されたのを最初 に,そ の後 ,華 人 組織 である中華会館 (中 で も「ペ ラナカ ン」 のメンバ. らは,マ レーシア華 入社会において,第 三群の指導者 となった。 メンバーの 中で も代表 的 な人物 は陳禎禄. ー」)に よる支持や,熱 心 な信者 によつて孔教 はジヤ ワ各地 に広 まった。現在,「 了L教 会」 とい う組織が設. ン・チ ェンロック)で あ り,公 会 の指導者 を務め. 立 され,孔 子学説 を宣揚 し,孔 教 を広める ことに努力. たほか,後 にマ レー シアで成立 した華人政党 「馬華公. してい る。興味深 いの は,そ の主要 メンバーの大半が. 会」 の初代会長 に就任するなど,華 人社会におけるリ. 「ペ ラナカ ン」 によって占め られ,具 体的な活動 内容. (タ. %。. ー ダー的役割 を果た した. 一方 ,イ ン ドネシアでは,20世 紀初頭 ,「 ペ ラナカ. は,イ ン ドネシア語 による集会 の 開催 ,出 版物 の刊 行 ,宣 教 であ り,そ れ らの活動 により,非 華人か らも.
(7) 合田. 美穂 :東 南 アジア華 人移民 の歴 史お よびマ レー シア とイ ン ドネシアにお ける華 人移民 の適応 パ ター ン. 支持者 を集 めてい る。孔教会 は組織化 されてお り,教 義お よび一神論 を有す ることか ら,そ の形態 はキリス ト教やイス ラム教 に類似 している。 これ らの点 だけを. 抱 い て い なか ったため ,華 人 と「ペ ラナカ ン」 の接 点 も多 くはなか った創 当時 ,華 人 の 多 くはチ ヤイナ タ )。. ウ ンに居住 して い た。. 見 て も,す でに中国にある孔教 とは異なるものになっ. また ,当 時 は,他 の東南 アジア諸地域 の華人社 会 と. てお り,イ ン ドネシアに同化 された新 しい形 の孔教 で. 同様 に,華 人 に とって方言 グル ー プの アイデ ンテ イテ. あるとい うことがで きる. イは非常 に重 要 で あ った。多 くの職業 は,一 つ の 方言. 19)。. こういった「ペ ラナカ ン」 は移民 の歴史が生んだ副. グル ー プに よつて独 占 されてお り,他 の方言 グル ー プ. 産物 であるとい える。かれ らのアイデ ンテ ィティは. の 参 入 は難 しか つた。 1950年 代 まで は,華 人 の 方 言. それぞれの背景 によって異な り,華 人の血 を引 いてい. グ ル ー プ に よって ,75∼. る,あ るい は華人であると認識 してい るもの,華 人の. い た。彼 らの大 半 は純血華 人 で ,そ れ らの多 くが ,中. 意識が希薄なものなど,様 々であるが,一 般的には華. 国生 まれ ,或 い は 中国語教育 を受 け た もので あ った。. 人 と区別 して,「 自分 はペ ラナカ ン (バ バ,ニ ョニ ャ. 多 くが 中国語 を流暢 に話 し,商 業界 で は,「 ペ ラナ カ. である」 と認識 してい る ものが多 い. マ ラヤやイン. ン」 をはるか に しの ぐ勢力 を有 して い た。 イ ン ドネシ. ドネシアでは,「 ペ ラナカ ン」が,積 極 的 に現地や宗. ア華 人 の商業文化 は ,ほ ぼ完全 にこ うい った純 血 華 人. 主国の言語 を学ぶ ことによって,居 住国での地位 を確. に よって作 り上 げ られた ものであ る とい って も過言 で. 立 していったことが,共 通点 としてあげられる。居住. はない 。そ の 中 か ら,後 に「ア リ・ババ 連携経営」 に. 地の文化 ,言 語や習慣 を取 り入れ,同 化す ることによ. かか わ る ものや ,「 チ ュ コ ン」 と して活躍 す る華 人商. って,比 較的容易 に居住地 に適応 して い ったので あ. 人が生 まれたのであ る。. ,. ). 20。. る。. 85%の 大企 業 が独 占 され て. 教育 につい て い えば,戦 前 は,他 の東南 アジアの華 人社 会 の状 況 と同様 ,中 華民族主義 を涵養す る 中国 の 5。. 移 民 の 適 応 パ タ ー ン (3):. 土 着 との 共 生. カ リキ ュ ラム に従 った華文学校 が 数多 く設立 され ,華. (ジ ャ ヮ の 純 血 華 人 を 例 と して ). 文学校教 育 は発展 を続 け て い たが ,イ ン ドネシア独立 後 ,状 況 は 一 変 す る。 1957年 に,国 民 党 系 の 学 校. イ ン ドネシアでは,華 人 は,主 にジ ャワに居住す る. は,強 制 的 に閉鎖 され る ことに な り,こ れ に よって. ,. 純血 華 人 (以 下華 人),「 ペ ラナ カ ン」,そ して ,ジ ャ. 1800校 あ った華文学校数 が ,510校 に まで激減 した。. ワ以外 の 島 に居住 す る華 人 に大別 され る。本節 で は. しか し,12万 人 の 児童 ・生 徒 は なお も華文 学 校 で 学. ,. ジヤワ華 人 につ い て取 りあげる。 ジ ャワの華 人 につい. び続 け た。華文教育 に更 なる打 撃 をあたえるこ とにな. ては,近 年 は,徐 々に同化 もみ られ る よ うになって き. ったの が ,1965年 9月 30日 に起 こった 9・ 30事 件 で. てお り,純 血 の 割 合 は,1960年 代 の 時 点 で ,ジ ャワ. あ る。 同事件 は,軍 事 クー デ ター を きっか け とす る反. 華人全体 の 40%と な ってい る。. 共産主義暴動 で あ った。翌年 ,反 共産主義暴動 が 大規. 19世 紀 末期 にな る と,そ れ まで の 男性 の単 身者 に. 模 な排 華運動 へ と発展 し,ス マ トラ島北部 や カ リマ ン. よる移民が大半 だった状況 か ら,妻 帯 で 移民す る華 人. タ ン島 の農村 に居住 す る華人 は 出国 を迫 られた。 これ. が増加 し,華 人移民 の様相 も変 容 した。 そ うい った妻. に よって ,中 国 とイ ン ドネシアの国交 は断絶 し,す べ. 帯 の移民 は,特 にジ ャワに多 く,移 民 は 同化 せ ず に. ての華文学校 は 閉鎖 に追 い込 まれ たのであ る2)。 華文. ジャワにて華人 の家庭 を築 い た。 かれ らは,中 国 の言. 学校 の児童 ・生 徒 はイ ン ドネシア語学校 へ の転入 を余. 語 ,服 装 ,習 慣 を保持 し,代 々 中国文化 を継承 す る こ. 儀 な くされ た 。. とに努 め た。 と りわ け,現 地 生 まれ の 子 女 に対 して. イ ン ドネシア華 人 の 中で ,中 国語 を話 せ る人の ほ とん. は,中 国 の 出身地 へ 送 り,教 育 を受 け させ るな ど,中. どが 50歳 以上 とい う状 況 で あ る。 かれ らは,1960年. 国 との紐帯 を強 め る よ うな教育 を行 った。. 代 以前 に,華 文学校 を卒業 した人 たちであ る。. ,. かれ らは また ,現 地 で ,中 国語学校 の設立 ,華 人義 山 (墓 地 )の 造営 ,中 国廟 の建立 ,地 縁 ・血縁 会館 の 設立 ,中 国語紙 の発行 ,中 国か らあ るい は現地 の 中国 語 に よる出版物 の普及 な どを積極 的 に行 い ,華 人文化 を維持 す る こ とにつ とめた。 こ うい った純血華 人が つ くった もの に対 して ,「 ペ ラナ カ ン」 は さほ ど興 味 を. 2勢. この よ うな い きさつ か ら,現 在. ,. 9013事 件 が 起 こ った 1960年 代 ,イ ン ドネ シ ア政 府 は ,華 人 を含 めた少数民族 に対 して ,同 化政策 を本 格 的 に実施 した。華 人 に対 しては,中 国文化 を消滅 さ せ る こ とを 目的 と し,華 人 は 中国語名 を使用 せ ず ,イ ン ドネシア名 を使 用 す る こ とを強制 した 。 また ,更 に,地 縁 ・血縁 に よる華 人組織 は もとよ り,「 ペ ラナ 2■.
(8) 甲南女子大学研究紀 要第 41 号 人間科学編 (2005年 3月. ). カ ン」 に よ る 国 籍 協 商 会 さ え も解 散 に追 い 込 まれ. に重 点 をお く メ ガ ワ テ イ大 統 領 は ,2002年 の 春 節. た25。. に,孔 教 総 会 を訪 問 し,そ の 場 で ,2003年 以 降 ,春. 公民 権 に つ い て い え ば,同 じ く,1960年 代 に大 き. 節 を正 式 に イ ン ドネ シアの祝 日 とす る こ とを発 表 し. な変動 があ った とい える。 オラ ンダ植民地時代 は,植 民地政府 が 出生地主義 と取 っていたため ,イ ン ドネシ. た29。 これは,イ ン ドネシア華 人 に とつて ,57年 間待 Ю ち こがれた朗報 で あ る とい える 。 メガワテ イ大 統 領. アで生 まれ た華 人は ,必 然的 にオ ラ ンダ植民地 政府 か. は ,そ の ほか に も,華 文教育 の復 興 とい う快挙 をな し. ら公民権 を与 え られ た。 そ の一 方 で ,中 国 は,血 統 主. 遂 げ た。現在 は ,華 人 による華文学校 ,家 庭教 師 によ. 義 に基 づ い て ,海 外 に居住す る中 国人 に も国籍 を与 え. る 中国語 の補習 も次 々 と出現 し,イ ン ドネシア語 の学. て い たため ,当 時 の イ ン ドネシアで は二重 国籍 の華 人. 校 で さえ も,中 国語 コー ス を設 け る よ うに な って い. が非常 に多 か った。 イ ン ドネ シアが 1940年 に独 立 し. る。 中国語 の教学 レベ ル を高 め るため に,直 接 ,中 国. てか らは,新 政府 は二重 国籍 を認 め なか つたため ,華. 大 陸 の 高等教育機 関 に連絡 を取 り,教 師 や学生 の交換. 人 はその うちの 1つ を選択 せ ざる を得 な くな つた。特. プ ロ グラム を提案す る教育 機 関 も出現 して い る。 この. に,1960年 お よび 1961年 の 間 に強制 的 に選択 が追 ら. よ うな動 きは ,政 府 に も見 られ る。2001年 ,イ ン ド. れ る こ とになる と,一 部 の華 人が公民権 を 申請 す るに. ネシ ア教育省 (青 年 ・体育 ・校外教育司 )と. とどま り,そ の 後 ,1980年 代 まで は,な お も 60%以. 海外交流協 会お よび広東教育 国際交流協 会が ,広 州市. 上 の華 人が ,中 国国籍 を有 して い た。 中国国籍 を保持 す る華 人 の うち,一 部 の華 人は 自ら中国へ 渡 ったが. にて ,華 文教 師訓練 コースの 合 同実施 とい う協議 に調 印 した。具体的 には ,広 東省 か ら,大 学教 員 に よる 中. 多 くは イ ン ドネシアに残 り,中 国国籍 を保持 した まま. 国語 の 専 門家 グ ルー プが イ ン ドネ シア 各 地 に 派 遣 さ. ,. ,広 東省. れ ,華 文教 師 の トレーニ ングを行 う とい うもので ,コ. 26。. 永住権 を 申請 す る こ ととなった. 1970年 代 後期 にな る と,ス ハ ル ト大 統 領 は,中 国. ース を終了 し,試 験 に合格 した ものが ,中 国 とイ ン ド. との 関係改善 を希望す る よ うにな り,華 人 に対す る制. ネシア双方 に よる修 了証書 を受 け取 るの と同時 に,イ. 限 も緩 和 す る事 を決 定 した。公 民 権 に つ い て も同様. ン ドネシアで の華文教 師 の資格 を得 ることがで きる と い うシステムだ劇。. で ,公 民権未取得 の華 人が公民権 を取得す る際 の手続 きを簡略化 し,費 用 も下 げ ,多 くの華 人が公民権 を取. 現在 , イ ン ドネシアでは,中 国語 が ブ ーム になって きてお り,最 も重要 な言語 と して ,英 語 と肩 を並 べ る. 得 しやす い よ うに した。 また,同 時 に,こ れ まで禁止 して い た 中国廟 を修復 す るこ とや ,地 縁 ・血縁組織 を. よ うにな ってい る。 中国 の改革 開放政策 や メガワテ イ. 復 活 させ る ことな ども,条 件付 で 許可 した。現在 は. 大統領 の 親 中国政策 に よつて ,こ こ数年 ,中 国 との ビ. ,. 10%の 華 人が まだ公民権 を取 得 して い な い。 か れ. ジ ネスは盛 んになって きてお り,中 国語 を話せ る人材. コ らのほ とん どが 中国生 まれ の 高齢 者 であ る 。華 人 の. が必 要 とされて い るためであ る。現在 ,熱 心 に中国語. 伝統行事 につい て い えば ,植 民地時代 は,植 民地政府. を学 ぶ 人たち は ,中 国文化 に興味 を持 ってい るわけで. が 華 人 に対 して さ して制 限 を加 え なか った ため ,春. はな く,ま して ,中 国伝統文化 を継承 した い と考 えて. 節 ,端 午節 ,中 元節 ,中 秋節 な どとい つた華 人 の伝統. い るわけで はな いので あ る。. 約. 行事 は盛 大 に祝 われて い た。 しか し,イ ン ドネシア独 立 後 は ,政 府 は,こ うい った伝統行事 はすべ て宗教行. ジ ャ ワの 純 血 華 人 は,移 民 当 初 ,中 国 の 言 語 ,服 装 ,習 慣 を保 持 し,代 々 中 国文 化 を継 承 す る事 に努. 事 で はない とい う理 由か ら,公 共 の場 での華 人 の儀式 や行事 の イベ ン トな どの 実施 を禁止 し,中 国廟 と家 の. め ,他 民族 との 同化 を受 け入れ なか った。 イ ン ドネシ. 中でのみ実施す る事 を許可 した。 この制限 はスハ ル ト. へ の改 名へ の 要請 ,伝 統行事 の実施 に対す る制 限 ,ひ. 大統領時代 も継続 した。. い ては華 文 学校 の廃止 な どに よって ,華 人 はイ ン ドネ. そ の 後 ,1998年 に起 こった 暴 動 に よつて ,ス ハ ル. ア独立後 も,政 府 に よる公民権 取得 や イ ン ドネシア名. シアヘ の完全 な同化 を求め られたが ,華 人 の 多 くは. ,. ト大統領 が退陣 してか らは,華 人 を取 り巻 く状況 は大. そ の状 況 に耐 えなが ら,同 化 を受 け入れ る ことを しな. き く変 化 した。 2000年 ,ワ ヒ ド大 統 領 は,こ れ まで. か った。そ して ,近 年 は,華 人 に対 して行 われて きた. 華 人 の 宗 教 や 民 俗 活 動 に つ い て 制 限 を設 け て い た. 数 々の制限 は緩和 され ,現 在 で はむ しろ,中 国語教育. 「 1967年 第 14号 大 統 領 政 令」 を撤 回 した こ と に よ り,華 人が公共 の場 で も,世 界 の華 人 と同様 に春節 を 郎 祝 う事 がで きる よ う にな った 。更 に,中 国 との 関係. が 奨励 され ,華 人伝統行事 も承認 され る よ うにな り ,. 土着 の イ ン ドネシア人が 中国語 を学 んだ り,華 人伝統 行事 に参加す る姿 も見 られ る よ うにな って い る。 ジャ.
(9) 合田. 美穂 :東 南 アジア華 人移民 の歴 史お よびマ レー シア とイ ン ドネシアにお ける華 人移民 の適応 パ ター ン. ワの純血華人は,大 別す ると以上のような保守的な立. れぞれの地域 で ,多 くの華人 が犠牲 になって きた。 ま. 場 か ら排斥 される立場 を経 て他民族 と共生する立場 に. た ,現 在 にお いて も,一 部 の居住 地 で は,先 住民 を優. 変容過程 にある。現在 の「共生」 とい う状態 は,イ ン. 遇す る政 策 で ,華 人 の進学や就職 に も制限が行 われて. ドネシア華人のみ ならず,世 界 に散 らばる (同 化 して いない)海 外華人が,他 民族 との よ りよい関係 を築 い. い た り,中 国語学校 や 中国語 の 出版物 に制 限が加 え ら れた り,華 人 の生 活 が なお も制 限 されて い る。 そ の一. てい く上でめざす ものである ことは間違 い ないであろ. 方 で ,華 人が国民 国家 の一 員 と して他 民族 と平等 の権. う。. 利 を享受 で きて い る居住 地 もあ る。 ジ ャワの純血華 人 も,現 在 で は承認 され る立場 とな り,本 当 の意味 での. 6.お わ り に. 他民族 との「共生」 が可 能 にな りつつ あ る。 グ ローバ ル 化 が 更 に進 み ,今 後 ,多 くの 国 や 地 域. 海外 華 人の歴史お よび移民 の適応 パ ター ンについ て. で ,「 新 移民」 も更 に増加 す る こ とで あ ろ う し,多 種. 述 べ て きたが ,華 人移民 の 適 応 パ タ ー ン は 大 別 して. 多様 な他民族 との 関係 が うまれ るで あ ろ う と予想 され. 「土着 との相互利用」,「 同化」,「 共生」 といっ た 3種. る。 この よ うな状況 の 中 で ,今 後 ,華 人社会 も更 に複. 類 のパ ター ンに分け ることがで きる。その中で,「 カ. 雑化 し,異 な った適応 パ ター ンが生 まれて くるで あ ろ. ピタ ン」,「 ア リ・ババ連携経営」お よび「チュ コン」. う。 そ の 中 で華 人 を含 め た多民族 が よ りよい社会 を築. に代表 される「土着 との相互利用」 については,華 人. くた め にい か に多民族 を承認 し,共 生 して い くかが重. と土着 は同化するわけではな く,共 生 とい うよ りもむ. 要 なカギ となる ことは まちが い ない であろ う。. しろ相互利用 しなが ら生存 してい るといった関係 であ り,相 互 に利用 し合 っているため,双 方 ともに得 られ るものは多 く,こ れ らの関係が,国 家 の発展 に寄与 し た部分 は非常 に大 きい。 こういった関係 は,華 人 (特. )王. 1)華 人 に つ い て 語 る際 に,よ. く議 論 され るの が 「 中 国. 人」,「 華 僑」,「 華 人」 とい っ た 呼 称 に つ い て で あ る。. に商人)が ,居 住地に適応するための重要な選択肢 の. 一 般 的 に は,海 外 に居 住 して い る (主 に職 業 を持 ち. 一つ となった。特 に,華 人の経済活動 に対 して制限を. 定 住 して い る状 態 の )中 国 国籍 所 有 の 中国 人 で ,居 住 地 へ の 永 住 を 目的 と して い る もの も含 め ,か れ ら は. 加えてい る国や地域 でこのようなケースが見 られる。 また,「 同化」 を代表す る「ペ ラナカ ン」 は移民 の 歴史が生んだ副産物 であ るといえる。マ レーシアやイ ン ドネシアでは,「 ペ ラナカ ン」 が,積 極 的 に現地や 宗主国の言語 を学ぶ ことによって,居 住国での地位 を 確立 していったことが,共 通点 としてあげ られる。居 住地 の文化 ,言 語や習慣 を取 り入れ,同 化す ることに. ,. 「華僑」 と呼 ばれて い る。 一 方 で ,い わ ゆ る中 国系 ア メ リカ人 ,中 国系 シ ンガ ポ ー ル 人 な どを例 とす る よ うに,海 外 に居 住 し,居 住 国 の 国籍 をす で に取 得 して い るの が 「華 人」 と呼 ば れ て い る。特 に,後 者 は,中 国 人 の 血 を 引 い て は い る が ,中 国 国籍 を所 有 してお らず ,中 国 に対 す る政 治 的 忠 誠心 や 国家 ア イデ ンテ ィテ ィを持 って い るわ け で は. よって,比 較的容易 に居住地 に適応 してい くパ ター ン. な い 。 さ らに,後 者 の 中 に は,他 民 族 との 通 婚 な どに よって ,完 全 に居 住 国 へ 同化 し,自 らが 華 人 で あ る と. である。. い う ア イデ ンテ ィテ ィさえ も有 して い な い もの も存 在. 同化 をしない華人が,他 民族 とうまく「共生」 で き ることは容易な ことではない。本研究 で取 り上げたイ ン ドネシアの純血華人の事例 のみ ならず,多 くの国や 地域 において,過 去 には,排 華運動 をは じめ とする華 人にとって不幸 な事件 が しば しば起 こっていた。 と り わけ,近 代 では,居 住国政府 による厳 しい同化政策に よって,多 くの華人が居住 国へ 同化 を強制 された り (イ. してお り,そ れ らを「華 人」 と呼 べ るか とい う こ と も 微妙 な ところであ る。 華 人 を取 り巻 く環境 ,歴 史 的背 景 や ,地 域 の 条 件 が 異 な る こ とか ら,ひ とつ の 時 代 を境 に,「 華 僑」 か ら 「華 人」 へ と,境 界 線 を引 く こ とは 非 常 に 困 難 で は あ る。 よって ,本 研 究 で は,「 華 人」 の 用語 に統 一 して使 用す る。. 2)以 上 の 部 分 参照 した. ン ドネシア, ミャンマ ーなど),他 民族 との軋礫 な. どによって,種 族暴動や排華運動が発生 し,多 数 の人 びとが殺害 された り. (マ. 経済活動や教育活動 に制限が加えられた り. (タ イァ イ ン ドネシアなど多数)と いったことは少な くな く,そ. 2-3)に つ い て は,以 下 の 書 籍 を. 沿物主 編 ,桂 貴 強 編 訳 ,『 海外 華 人 百 科 全 集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年. ,46-59頁 。. Jennifer CushIIlan & Wang Gungwu, eds。. レー シア,イ ン ドネシア, ミ. ャ ンマー,カ ンボジア,ベ トナ ム な ど多数),華 人 の. (2-1∼. :. Iグ. θ ″. j′ jι. sげ ′ 力ιSθ ′ 力ι α. s′. Asjα 77 Chj4θ s` sjれ. gjκ g , Cttα κ. ε ιwOrJグ War. “ 二 Hong Kong:Hong Kong University Press,1988。. ′ 力ι α 24sjα 77 C“ rθ ′rh` sθ _ “ “ 紹′ 五万777`κ sJθ れ, Singapore: Times AcadcIIlic “. Leo Suryadinata, ed。 ,. θ 一C“ jθ. J′. Sθ. s′. J′.
(10) 甲南 女 子 大 学研 究 紀 要 第 41号. 54. Lco Suryadinata,. Press, 1995。. Lco Suryadinata,C力 sr Asfθ ,. 人 間科 学 編 (2005年 3月. j′. ?′. ια″グヽQr′ θ72-3夕 グj′ gj″ ∫ :′. Sθ. ィ ′ カー ι. ). “ Chinese Economic Elites in lndone…. sia:Recent Devclopments",Zた. `Ctrrr“. r`げ C力 jれ. `s`豚. j4θ r¨. ` ″/77グ θ″ , Singapore: Tirnes Books lntemational, ′ ● ′ `s,α. Singapore: Singapore Socicty of Asian Studics,. `α. 1997,pp 25-54.. 1997.. 3)呉 偉 明 。合 田 美 穂 「 シ ン ガ ポ ー ル に お け る 日本 の 社 縁文化 一 日本人会 と九龍会 との比 較」,中 牧弘允 ・ ミッ シェル・セジウィック編 『日本 の組織 社縁文化 とイ. 11)当 初 は ,ス ハ ル ト退 陣 を 要 求 す る 暴 動 で あ っ た の が ,ス ハ ル トと癒 着 して い た 華 人 商 人 もそ の 攻 撃 の 対 象 と な り,更 に は 一 般 市 民 を 含 め た 全 華 人 も犠 牲 に な. ンフ ォーマ ル活動』,東 方 出版 ,2003年 ,99-126頁 。. つ た 。 同 暴 動 に つ い て は ,中 国 和 世 界 雑 誌 社 編 輯 部. 「亜洲週干J」 2004年 4月 25日 。 “ 正"の 側面 である とす る 負"の 側 面 と い え な ら,そ の一 方 で,秘 密 結 社 は “. 『華 裔 的 非 情 』,中 国 和 世 界 雑 誌 社 ,1998年 の 前 文 を 参. 4)宗 郷 会館が,華 入社 会 の. る。中国 か らの移民 のほ とん どは,仕 事 や住居 な どで の扶助 を求 めて宗郷会館 に入会 し,そ の保護 を受 けて いたが,同 時 に秘密結社 に加入す る華 人 も少 な くなか った。秘密結社 で は,『 三 国演義 (三 国史)』 中 の 英雄 である関羽 や劉備 ,張 飛 な どを守護神 として いる もの が 多 く,入 会儀式 もそれ らの面前 で 行 われた。 また 秘密結社 は宗郷会館 と同様 に,華 人社会 の葬祭 を取 り ,. 仕切 るこ とも仕事 の一 部 として いた。当時,多 くの華 保 人は,秘 密結社 に入会す るこ とに よつて,自 らを “ 護"し て もらっただけではな く,同 時 に闘争 に参加 す 保護"し た ることで結社の メンバーや結社 自身 を も “. 照 に した。 12)「 亜洲週刊」 ,2002年 10月 7日 。. 13)筆 者 は,シ ンガポール滞在中の 1996年 ∼2000年 まで の期 間,シ ンガポール福清会館 での行事 にて,参 与観 察 を行 う機会 を得 たが,中 で も比較的重要 な春節 の行 事 などには,林 は必ず出席 していた。. 14)シ ンガポールに居住す る唐裕 は,現 在,シ ンガポー ルの安渓会館主席 ,中 華総商会理事 ,海 星 中学校 お よ び工 商小学校等 の学校役員 を務めるな ど,シ ンガポー ルの華 人社会 に も多大 な貢献 を して い る。唐裕 にかん す る記述 は,筆 者が シ ンガポー ル滞在 中 の 1996年 ∼ 2000年 の期 間に,数 回にわたつて唐 に対 して聞 き取 り を行 った内容 をもとにして記述 したものである。 (マ レー 人や イ ン ドネシア人)の 価. 15)一 般的 に,土 着. のである。. 5)沿 物主編,在 貴強編訳 ,『 海外華 人 百科全集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,172-174頁 。 顔清涅著 ,陳 剣紅訳 「新馬華人社会的階級結構 典社 会地位流動 (1800-1911)」 お よび,栗 明鮮訳 ,「 十九世 紀新馬華 人社会中的秘密会社典社会結構」,『 海外華 人 史研究』,新 加坂 亜洲研究学 会,1992年 ,149-167お よ び,179-197頁 。 6)同 時期 , イ ン ドネシアにおいて も,「 カピタン」 は存 在 してお り,主 に「ペ ラナカ ン」 の 有力者 が任命 され. 値観 は,倹 約 しない,勤 労勤勉 で はな い,ビ ジネ ス に 興味が ない,楽 な生活 を享受す ることや確実性 を重視 す る とい った ものである といわれて い る。一方で華人 は,倹 約 に努 め,富 や名誉 を重視 し,ビ ジネ スチ ヤ ン ス を逃 さず ,洞 察力 が深 い といつたことが価値観 の特 徴 としてあげられる。. 16)活 制主編 ,在 貴強編訳 ,『 海外華 人百科全 集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,172-174頁 。 萩原宜之 『ラーマ ンとマ ハ テ イール. ブ ミプ トラの. 挑戦』,岩 波書店 ,1996年 ,1-18頁 。. ていた。. 7)こ の土 地政策 の 目的 は,土 着 を保護す るための もの であ り,華 人が土着 の耕地 を占領 した り,編 し取 った りす る事 を防 ぐため に実施 されたcイ ン ドネシアの 公. 17)沿 物主編 ,在 貴強編訳 ,『 海外華 人百科 全集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,164-165頁 。 18)Lco Suryadinata,. “ The Chinesc Minority in lndonesia:. 民権 を持 つ土着 のみが,耕 地 を所有す ることがで き 華 人 を含めた外来 のアジア人は,都 市 に居住す るこ と. Peranakan Literature in lndone― Recent lDevelopments" and “. を強 い られた。. pore: Times Books lntemational, 1997, pp 7-20 and 197-. ,. 8)沿 認主編,在 貴強編訳 ,『 海外華 人百科全集』,三 聯 Lco Suryadinata,. “ Chinesc Econonlic Elites in lndone―. ′ ●' j″. 4`Sjθ /77グ θ. `Cノ. r′. r`げ Cttjη. jれ. `S`″. θrjヶ j4ル あれ `sjα. ,Singa―. jκ ι r′ ″ げ C力. jκ. θrj∼. jれ. ルグθれ. `S`豚 `C′ ∫ , Singapore: Times Books lntemational, 1997, pp 159-. `―. jα. 9)当 時 の マ レー シ ア に お い て も,華 人 の 商 業 活 動 が 制 限 され て お り,華 人 と土 着 との 「 ア リ 。バ バ 式 連 携 経. 184.. 20)シ ンガポ ー ルの 場 合 は,身 分 証 明書 に記 録 す る た め の 民 族 区 分 に「ペ ラ ナ カ ン」 は 設 け られ て い な い た. 営 」 が 生 まれ た 。. lo)沿 認 主 編 ,社 貴 強 編 訳 ,『 海 外 華 人 百 科 全 集 』,三 聯 朱 炎 『華 人 ネ ッ トワー クの秘密 』,東 洋経 済新 報 社. ,. 隆 『新 版 イ ン ドネ シア』,N「Π 出版 ,1996年. め ,「 ペ ラナ カ ン」 は華 人 と して登 録 され る。 また ,英 語 と母語 に よる 2言 語教 育 の 過程 で ,「 ペ ラナ カ ン」 は 華 語 (中 国語 )を 母 語 と して履 修 す る。 そ うい つ た要. ,159-160頁 。. 因 に よ り,シ ンガポ ー ルで は,自 身 を華 人 で あ る と認. 1995年 ,52-53頁 。 169-176頁 。. jれ. Lco Suryadinata, “Chinesc Mino五 ty Religions After World War H", Tみ. 1997,pp 25-54.. 白石. `ν. 203.. θr―. , Singapore: Tirnes Books lntemational,. 書 店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年. Cttj4`∫. 19)沿 物主 編 ,在 貴 強 編 訳 ,『 海 外 華 人百 科 全 集』,三 聯 書店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年 ,162-163頁 。. 書店 (香 港 )有 限公司,1998年 ,159頁 。 sia:Recent Devdopments",動. r“ r`げ 豆a",「/2`C′ ′. ,. 識 して い る 「ペ ラナ カ ン」 も多 い 。. 21)方 言群 を超 えた組織 で あ る ジ ャカ ル タの「中華 会館」.
(11) 合田 美穂 :東 南 アジア華人移民 の歴史お よびマ レー シアとイン ドネシアにおける華人移民 の適応パ ター ン は例外 で ,ペ ラナ カ ン も積極 的 に参加 して い た。 22)Lco Suryadinata, and Present'', 7物 sjα. た。 1960年 に,イ ン ドネ シアで 国籍 の 選択 を迫 られ. J′. `s`ノ. Иjれ θrjク. jれ. ,. 中国国籍 を選択 した X氏 の話 に よる と,ジ ャワで比 較. “ Indonesian Chinese Education: Past. ιC“ 夕′ て のrC力 Jれ. 55. レグοれ `―. , Singapore: Tilnes Books lnternational, 1997, pp 77-. 的裕 福 な生 活 を して い た純 血 華 人 で あ る X氏 の 家 族 は,全 員 が 中国 国籍 を選択 し,一 家 で 中国 へ 渡 っ た。 そ の 後 ,X氏 は大 学 へ 進 学 したが ,お り しも,文 化 大. 102.. 23)当 時 ,ジ ャカル タの 華 文 小 学 校 の 4年 生 で あ っ た H 氏 の 話 に よる と,保 守 的 な思想 を持 つ 純 血 華 人 の 家 庭 に育 った H氏 お よびその兄 弟 は,イ ン ドネ シア学校 へ は転 入せ ず ,華 人 の 家庭 教 師 に つ い て 学 び なが ら,中. 革命 が起 こ り,海 外 華僑 で 裕福 で あ った とい う背 景 を 持 つ X氏 お よび そ の 家族 は批 判 の 対 象 とな った。文 革 時代 に辛酸 をなめ 尽 くした X氏 は,イ ン ドネ シ アヘ 戻 る こ とを切 に希 望 したが ,中 国 国籍 しか保 持 して い な. は,子 弟 を イ ン ドネ シア人 と接 触 させ ず ,中 国 人 と し. い 立場 で は不 可 能 で あ った。 そ の 後 ,専 門職 に つ い て い る 中 国 人 と結 婚 し,中 国 国 内 で 生 活 を続 け て い た. ての価 値 観 や 中国伝 統 文 化 を守 る事 を第 一 に考 えて い. が ,1980年 代 に,シ ンガ ポ ー ル 政 府 が 専 門的知 識 を持. H氏 は,華 人 以 外. の 民 族 と結 婚 す る とい う こ とは一切 考 えてお らず ,そ. つ 人材 を呼 び込 む政 策 を打 ち出 した際 に,X氏 の 配偶 者 は シ ン ガ ポ ー ル に 招 聘 され る こ と とな っ た。 そ し. の 後 ,シ ンガ ポ ー ル 華 人 と結 婚 し,シ ンガ ポ ー ル 国籍. て ,家 族 全 員 で シ ンガポ ー ル に渡 り,H氏 は シ ンガ ポ. 学 教 育 まで の 学 習 内容 を終 えた。 当時 の 保 守 的 な華 人. た とい う。 そ の よ うな背 景 で 育 った. ,シ ン ガ ポ ー ル にお け る H. ー ルで 永住 権 を取 得 後 ,ほ どな くシ ンガ ポ ー ル 国籍 も. 氏 へ の 聞 き取 りに よる。 24)ジ ャ ワの ス ラバ ヤ に居 住 す る純 血 華 人 の 保 守 的 な家. 取得 した。 イ ン ドネ シア を離 れ て 30年 以上 経 て か ら X氏 は再 び故 郷 イ ン ドネ シアの土 を踏 む こ とが で きた. を取 得 した。 (2002年 6月 ). O氏 は,イ. ン ドネシア名 へ の 改 名 とい う圧. ,. 力 の 中 で も,一 切 そ れ に従 わ なか った。民 族 意 識 が 強. ので あ る。 (2000年 7月 ,シ ンガポール にて ,シ ンガポ ール人 X氏 へ の ききと りに よる。). い 華 人 の 中 で ,O氏 の よ うに断 固 と して改 名 しなか っ. 27)沿 物主 編 ,桂 貴 強 編 訳 ,『 海 外 華 人 百 科 全 集』,三 聯. た華 人は多 くな い 。 (2003年 3月 ,香 港 にて ,イ ン ドネ シア人 の O氏 へ の 聞 き取 りによる。). 28)「 亜洲週刊」 2002年 8月 26日 。. 庭 に育 った. また,現 在 ,当 局 は,華 人 が イ ン ドネ シ ア に 同化 す. 書店 (香 港 )有 限公 司 ,1998年. ,165-166頁 。. 29)「 亜洲週干J」 2003年 2月 3日 。. る意思 が あ るか ど うか とい う こ とを示 す ため の 指 標 と. 30)ワ ヒ ド,メ ガ ワテ イ両 大 統 領 に続 き,2004年 の 大 統. して ,イ ン ドネ シア名 の 有 無 を重 要視 して い る。例 え ば ,イ ン ドネ シア公 民 権 を取得 して い る華 人 に発 給 さ. 領 候 補 者 の 一 人 で あ る ウ イ ラ ン トも,2004年 の 春 節 に,華 人組 織 の イベ ン トに出 席 し,中 国語 で 出席 者 に. れ る 身分 証 に,イ ン ドネ シ ア名 で あ るか ど うか の 暗 号. 挨 拶 をす る な ど,親 華 人 の 態 度 を取 っ て い る。 ウ イラ. が 記 され てお り,そ れ に よって ,華 人 に対 す る待 遇 を. ン トは,1998年 の 暴 動 時 に,国 防 お よび治 安 にお け る. 変 える とい う。. 25)沿 物主 編 ,社 貴 強 編 訳 ,『 海外 華 人 百 科 全 集』,三 聯. 最 高 責 任 者 の 地位 にあ った に もか か わ らず ,暴 動 に対 して適 切 な措 置 を と らなか った こ とか ら,華 人 の 不 満. 書 店 (香 港 )有 限 公 司 ,1998年 ,166頁 。 1970年 代 に,華 人 へ の 制 限 が 緩 和 され た こ と に よ り,条 件 付. に つ い て は,選 挙 目的 で あ る と冷 や や か な見 方 を され. で ,華 人組織 を再 開す る こ とがで きる よ うにな った。. て い る。 (「 亜洲週刊 」 2004年 2月 22日 。. 26)国 籍 選択 は,華 人 の 人生 を大 き く変 え る こ とに な っ. を買 った い きさつ が あ るだ け に,こ の 親華 人 的 な態 度. ). 31)「 亜洲週 干J」 2004年 5月 9日 。.
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が漢民族です。たぶん皆さんの周りにいる中国人は漢民族です。残りの6%の中には
本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、
これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,
このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に
人の生涯を助ける。だからすべてこれを「貨物」という。また貨幣というのは、三種類の銭があ