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学校におけるスポーツプロモーション : 体育経営を超えて 利用統計を見る

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山梨大学教育学部紀要 第 26 号 2017 年度抜刷

学校におけるスポーツプロモーション

-体育経営を超えて-

Sports Promotion in school

Transcends P.E. management

加 藤 朋 之

Tomo KATO

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学校におけるスポーツプロモーション

-体育経営を超えて-

Sports Promotion in school

Transcends P.E. management

加 藤 朋 之

Tomo KATO

序  体育とスポーツはどのように違うのであろうか。体育教師とスポーツ指導者は何が違うのであろう か。体育経営とスポーツマネジメントは?     …愚問である。グローバルレベルで世界を凌駕 する現在のスポーツにとって取るに足らない質問である。    …急所である。複雑化、巨大化しセ ルフコントロールを失ったスポーツにとって答えることができない質問である。  身体運動に関する学校教育の存在意義は、実はここにあるのではないか。本論がスポーツプロモー ションに注目するに至った出発点である。本論がその本質に従っているという意味で括弧書きにして いる「スポーツ」を扱えるのはもはやスポーツではない。「スポーツ」をプロモートするというスポー ツプロモーションが功を奏すのは様々な問題を抱える学校ではないか。ただし体育経営では範疇を超 えている。では体育とスポーツの間をどのように地盤整備すれば学校においてスポーツプロモーショ ンが可能なのか、以下論じてゆく。 1. 身体運動に関する学校教育の歴史性  わが国の身体運動に関する学校教育(以下身体運動教育)の歴史は、戸外で体を動かすことの楽し さを味わうことから始まり、欧米化にともなうスポーツという運動様式の認知、戦時下における兵式 体操をはじめとする規律訓練、戦後の自由解放教育としての身体表現、さらには個別化社会への反省 としての協力と繋がりによる共生などの要素が順に加えられてきた。こうした身体運動教育の歴史的 要素は現在の学校教育の中に散在している。この身体運動教育の歴史性は今現在では机上での理解に 止まり、教育現場で意識されることは少ない。しかし吉見(1999)が運動会の分析で見事に描いたよ うに現在でも身体運動教育のところどころに残存している(表1参照)。 表1 運動会種目の歴史的要素(吉見(1999)を参考に筆書が作成) 遊戯系 スポーツ系 規律訓練系 身体表現系 共生系 パン食い競争 徒競走 騎馬戦 ダンス 大玉転がし 借り物競走 リレー 棒倒し ソーラン節、よさこい節 玉入れ アメ食い競争 綱引き 行進 フォークダンス 応援合戦 バットまわり 球技 障害物競走 組体操 長縄跳び ムカデ競争 一輪車競争 徒手体操 マスゲーム 台風の目  本論はそうした残存する歴史的要素を意識しながら現在の身体運動教育における問題克服のアイ ディアをスポーツプロモーションに求める。本論の問題意識は現在の体育をはじめとする様々な身体 運動教育が総合性を欠きながら、それぞれが別々に歴史的要素を引き継いでしまっている点にある。

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山 梨 大 学 教 育 学 部 紀 要 平成29年 (2017年) 度 第 26 号 その様態はまさに運動会の種目間のつながりのなさに示されている。いったい子どのたちの身体はど こへ向かうのであろうか。身体運動教育によって身体が引き裂かれて行く現状こそ、本論の問題意識 なのである。  そこで本論が提示するスポーツプロモーションによる身体運動教育の集約統合というアイディアは、 まさにスポーツという観点から身体運動教育を再構成するという試みである。佐伯(2006)は、「小・ 中・高における「体育」も、その言説はともかく、実践のほとんどがスポーツに依存しており、その 意味ではもしスポーツがなければ,体育の実態もないに等しいものであろう」と看破し、「このところ の体育の不人気の理由は、体育によるスポーツの独占時代が終わりを告げ、スポーツが新しい社会的 な分野に著しく進出している事実に由来するとみるべきであろう」と体育の限界を述べている。そし て体育の再生をスポーツの持つ本質的な意味に立ち返り、スポーツを使って身体を「教え育てる」の ではなくスポーツに込められた身体文化の「学び習い」に求めている。本論はこの佐伯の示唆に呼応 して、スポーツの持つ「人間的成熟へ向けた自己開発」性を中心に据え体育だけでなく身体運動教育 全体を集約統合的にプロモートしようとする試みである。  そこで本論はまず身体運動教育につらなる教育活動について個別にその課題を整理し、スポーツプ ロモーションとしてどのように全体を集約統合の上、再構成し、それぞれの課題を克服できるのかを 順に述べてゆく。ただしその前に次章では身体運動教育を集約総合しようとするスポーツそのものの 本質について確認しておきたい。 2. スポーツの本質について  「ホモルーデンス」(ホイジンガ 1973)から「遊びと人間」(カイヨワ 1990)に連なる「プレイ論」の 系譜を改めてここで述べることは避けるが、スポーツの本質とは、佐伯(前掲)によれば自由な活動、 非日常的活動、未確定の活動、非生産的活動,ルールある活動、虚構的活動というカイヨワの「プレ イ」概念のうち、「アゴーン」として「ルールに従って最善の力を尽くす行動として現れ、自己の優越 性を証明するために自己を自ら練磨し、強固な意志と努力を尽くすことを要求する」ものである。つ まり「スポーツ」は、自由であり、外部からの強制を排除し、自己の資質と錬磨を持って競争し、そ の優越性を自己享受する活動なのである。  また早くから学校体育の反プレイ性を指摘し、自ら「トロプス」というゲーム群を授業に持ち込ん だ岡崎(1987)は、スポーツの持つ競争性が体育で「制度的な暴力性」を生み出す実態を相対化する ために協動性を中心にした「トロプス」を持ち込んだと述べている。そこで指摘されているのはス ポーツが本来持っているはずの自発性や遊戯性が失われている実態と構造である。岡崎(1996)は、 スポーツの本質的姿を自らの「子供会ソフトボール」の指導体験から鋭く描いている。「みんなで、の んびりと、体を動かすこと、技術だ根性だという余分な価値基準をプレイ = 遊びに入れずに、合理的 なるもの、効率を考えずに、とにかく戯れること」で「勝利の執念に燃える「野球おじさんやリト ルリーグっぽい少年」とも一緒に試合ができ、楽しむ点においては、それを遙かに超えている」とし 「あのソフトボールで、もっともじゃまだったのは、我々のような大人の存在そのものだった」と強制 的な外部を否定している。ここで確認しておきたいのは、スポーツの本質はプレイを核にした競争に よる自己享受にあるということである。 3. 身体運動教育の課題 (1) 体育、保健体育の課題  現在、体育の目的は「体育や保健の見方・考え方を働かせ、課題を見付け、その解決に向けた学習 過程を通して、心と体を一体として捉え、生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツラ

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イフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す」(小学校指導要領)、「体育や保 健の見方・考え方を働かせ、課題を発見し、合理的な解決に向けた学習過程を通して、心と体を一体 として捉え、生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・ 能力を次のとおり育成することを目指す」(中学校指導要領)と指導要領には記されている。この教員 採用試験で暗唱できなければならない体育、保健体育の目的に沿えば生涯を通じてスポーツに関わり その本質を享受することが最大の狙いだと読むことができる。  しかし正課の体育や保健体育におけるスポーツ活動があくまで教員と児童、生徒を結ぶ教材という 位置付けは変わらない。ここに大きな矛盾が存在している。本質的にはスポーツの享受は誰からの指 示も強制も受けないところに成立する。しかし体育や保健体育では指示する立場の教員が必ず存在す る。教員による導きは強制性を内包している。そこにスポーツの享受を掲げながらも規律訓練的要素 と遊戯性の拘束が見え隠れする。  佐伯(前掲)は体育が「号令と命令による運動の指示」という簡便な指導法によって」行われる 「身体の規律訓練としての身体の教育」として「身体訓練化を必然的に内包する現在の学校システムと 容易に密通する」と述べている。  岡崎(1987)はもっと単純に休み時間に対する体育の時間について「「自由じゃ無い」「遊べない」「体 操をしている」「たいいくは運動する」と言った子どもたちの言い方は、体育の授業では、あらゆる運 動が、指導されなければならないということを明らかにしている」と指摘している。  つまり身体の訓練がスポーツの享受につながるという前提が体育や保健体育には潜在する。しかし ここまで述べてきたようにスポーツを教材とする限り、スポーツの本質に近づけないというジレンマ が指摘できる 。 遊戯性と内発性の担保、さらに規律訓練的な要素をどう位置付けるのかが「スポーツラ イフの実現」に向けた体育や保健体育の課題である。 (2) 体育行事の課題  運動会、球技大会、マラソン大会など体育行事は、教育的活動であるため全校生徒、児童参加が前 提である。そしてその目的は、正課の体育、保健体育とは関わりなく、それぞれの学校で定めること になっている。しかし実際の運動会においては先に述べたとおりその種目はそれぞれの歴史的要素を 背景にし、散在している。何故、徒競走の次にダンスが行われるのか、借り物競走の紅組の勝ちとと リレーの白組の勝ちは同位なのか本当のところは誰にもわからない。つまり運動会の目的、教育効果 (影響)は問われることなく、行われる種目はその場の論理として流行的、任意的に決定される。さら に地域行事化することで見せる要素も組み込まれるようになった。  一方で児童会や委員会が中心になって司会も児童会がやり、先生はできるだけ台に上がらない運動 会も行われている(岡崎ほか 1998)という変容もあった。影山(1995)は「岡崎(愛知県岡崎市:筆 者注)でも、なぜ騎馬戦や組体操をするのか、問題になったことがあります。これらは、「楽しい運動 会」とは異質のものです。しかし、騎馬戦や組体操は、最近運動会で大々的に行われるようになって きているのです。これは運動会が体育大会や競技大会に変質し、子どもの管理の手段になってきてい ることを物語っています。」と述べている。岡崎や影山の当時の発言は、一貫して学校における管理さ れたスポーツ活動のプレイ性の欠如に向けられていた。つまり学校での身体運動教育のスポーツ要素 や規律訓練要素,身体表現要素が強制力を持って行われることに警鐘を鳴らしていたのである。  また内田(2015)は、エビデンスデータを基に組体操の巨大化、高度化による危険性を示すと必ず 「感動」や「一体感」「達成感」を味わえるという教育的意義からの反論にあうと述べる。命を危険にさ らしながらも「感動」や「一体感」「達成感」を味わおうとするのはなぜであろうか。それは子どもた ちが自ら味わおうとするのではなく教育的に味わわせるからである。さらに「感動」や「一体感」「達

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山 梨 大 学 教 育 学 部 紀 要 平成29年 (2017年) 度 第 26 号 成感」を味わうのがなぜ運動会においてなのかは不明であり、かつその味わいはその後の何につなが るのかは無視されている。つまり運動会種目としての組み体操は、教育という名の下に行われる「感 動」や「一体感」「達成感」の強要であり、体験の消費にすぎない。  ここに体育行事としての運動会の問題がある。教育に関わる限りにおいて体育行事は「教え育て」、 「身体訓練化を必然的に内包する現在の学校システムと容易に密通する」(佐伯前掲)のである。さらに 体育行事は様々な歴史的要素が混在し、全体としての意味付けがなされないままただ出来事として消 費され続けている。もちろん祝祭として生活のダイナミズムに寄与するかもしれないがその点を意識 する現場はない。ゆえにその存在意味を明確にし、どのように身体運動の教育につなげるのかを定位 することが体育行事の課題である。    (3)運動部活動の課題  部活動は「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科 学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環と して、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の 人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うよう にすること。」(中学校指導要領)  この指導要領通りの運動部活動であれば問題はおそらくあまりない。しかし現実は逸脱している。 これまでの運動部活動の位置付けの曖昧さはそのまま現場に様々な問題を引き起こしてきた。スポー ツに親しませるどころか多くの体罰、死亡事故、顧問教員の過剰負担、スポーツ実績にかかわる不正 入学など様々な問題が山積している。運動部活動は身体運動教育の中で唯一生徒の意志での参加が謳 われている。つまり生徒の権利としてのスポーツ活動である。しかしこの権利には2つの条件がつけ られる。1つは運動部活動があくまで教育の一環であること、もう1つは運動部活動が手段として他 者に利用されるということである。つまりこの生徒の権利としてのスポーツ活動は、教育的に行われ かつ現代スポーツイベント化して行われている。運動部活動で大事なことは「指導」であり、結果と しての「競技力向上」と「勝利」である。   運動部活動に参加を希望する生徒は必ず教育的「指導」を受けなければならない(顧問教師は必ず 教育として「指導」しなければならない)。内田(前掲)は、運動部活動における「暴力」と「事故」 の背景に「指導」という名の過剰鍛錬があることを指摘し、「教育的意義というものには、限定性がな い。部活動中の暴力も事故も 、 すべて「善きもの」として教育の範疇で処理されてしまう」「生徒は、 暴力を受けたり修行に進んだりするために、部活動を始めるわけではない」のにと述べている。また 内田(前掲)は、運動部活動の「指導」は自主的な関わりであるはずだが「教員集団自体が、部活動 指導を自分たちの使命として位置付けてきた。また世間では、部活動というものは正規の教育活動で ある、言い換えれば、教育者として部活動を指導するのは当然の責務であると信じられている」と運 動部活動の「教育リスク」について述べている。  また運動部活動に参加を希望する生徒は、「競技力向上」と「勝利」を目指さなければならない。ス ポーツの本質として自己目的であるうちはこのこと自体はあまり問題ではない。しかしこれが様々な 手段となっている点に大きな問題がある。生徒の「競技力向上」や「勝利」という結果は、学校のラ ンク付けや経営戦略となり、進路に関与し、他者から賞賛を浴びる。こうしたスポーツイベント化に よって「競技力向上」と「勝利」を目指さなければならない状況が運動部活動の様々な問題を引き起 こしている。広瀬(1997)は、イベント化するスポーツの状況を「スポーツ中心主義からの逸脱」と 呼んでいる。現在の運動部活動もまさに「スポーツ中心主義からの逸脱」をしている。運動部活動に 生徒の自主性、自発性、自己完結性を持ち込むことが課題である。

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4. 学校におけるスポーツプロモーション  このように身体運動教育につらなる教育活動の課題を整理してみると、それらの全てを教育の一環 としてまとめようとしていることがわかる。しかし教育を共通とするもののその目的はそれぞれに違 うこともわかった。これはそれぞれの活動が学校に位置付けられてきた歴史性の違いに由来する。今 学校で「教え育てられる」子どもたちの身体は、様々な方向へ引き裂かれている。  そこで本論では身体運動教育のスポーツプロモーションとして集約統合することを提案したい。菊 (2006)は、スポーツプロモーションを「スポーツを行わせる側の体育的な論理ではなく、日々の生活 のなかで行う側のスポーツへの文化的な論理(=スポーツに対する欲求と必要)」を基盤に置くと述べ ている。つまりスポーツプロモーションにおける「スポーツ」とは、まさに本論がスポーツの本質と してきたプレイを核にした競争による自己享受である。学校におけるスポーツプロモーションとは、 身体運動教育をスポーツの本質に向けて集約すること、つまり「スポーツ」を、教育目標に向けた教 材という位置づけから教育目標そのもの変更することである。  そこでこれまで述べてきた身体運動教育のそれぞれがスポーツプロモーションによってどのように 変更されるのかを述べてみたい。 (1)スポーツプロモーションとしての体育、保健体育  スポーツを教材とする限りスポーツの本質に近づけないというジレンマの解消、遊戯性と内発性の 担保、規律訓練的な要素の位置付けを本論では体育、保健体育の課題としてきた。そこでスポーツプ ロモーションとして「スポーツ」(の享受)を教材としてではなく教育目標に置くことを提案する。そ れによって「スポーツ」を享受するための教材開発が必要になる。その教材は、「スポーツ」の遊戯性 と内発性に特化したものである。もちろん競技性や向上性は必要ない。岡崎(前掲)が述べたように 「みんなで、のんびりと、体を動かすこと、技術だ根性だという余分な価値基準をプレイ = 遊びに入れ ずに、合理的なるもの、効率を考えずに、とにかく戯れる」教材である。また体育、保健体育には身 体の訓練がスポーツの享受につながるという前提があると述べたが、この連鎖も断ち切り、身体の訓 練のための教材と「スポーツ」享受のための教材を明確に分離する。そして身体の訓練は、健康や保 健につなげ 、 スポーツを享受するための基盤となる生活への教育として位置付ける。つまり体育、保健 体育は、一部で身体の訓練を、残りは「スポーツ」で遊ぶのである。 (2)スポーツプロモーションとしての体育行事  存在意味を明確にし、どのように身体運動の教育につなげるのかを定位することが体育行事の課題 と本論で述べてきた。そこでまずスポーツプロモーションとして体育行事の目標を「スポーツ」の享 受に置く。その上で運動会の種目を含め、それぞれその歴史的要素との対応を明示し、それを理解し て錬磨、競争する。体育行事では遊戯性に加え、競争性や自己練磨性を教材に加える。  そして最も重要なことがその参加を自主選択にすることである。この自発性こそ「スポーツ」の享 受に向けて身につけるべき選択眼である。遊戯としてスポーツをすることも競技としてスポーツをす ることも身体訓練としてスポーツをすることも身体表現としてスポーツをすることも共生としてス ポーツすることも自己判断によって行うことができればすべて「スポーツ」の享受への糧となる。そ して教員は、歴史的要素に応じて立ち位置を定めて関わる。もちろん積極的にリードする立場も関わ らない立場も理由を持ってあり得る。  また運動会では種目の並びで物語性を持たせスポーツプロモーションする。例えば多々納ら(1990) がカイヨワの概念を「スポーツ」の概念規定に応用している日常生活での区分け「聖・俗・遊」に従 い聖(身体訓練、身体表現)・俗(遊戯、共生)・遊(スポーツ)種目の反復により「スポーツ」を組み

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山 梨 大 学 教 育 学 部 紀 要 平成29年 (2017年) 度 第 26 号 込んだ日常生活のリズムを演出するなどが考えられる。 (3)スポーツプロモーションとしての運動部活動  本論は、運動部活動がスポーツイベント化し、「スポーツ中心主義から逸脱」(広瀬前掲)していると 述べた。そこでまず指導要領にある「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」を厳守する。そ の上でスポーツプロモーションとして「指導」を外す。運動部活動が教育の一環としても自主学習の 場として「教え育てる」を除外し、「学び習い」にする。これによって身体の訓練性を排除するのであ る。  加えて「競技力向上」と「勝利」を自己完結させるために結果の序列付けを行わない。つまり運動 部活動から「優勝」を排除するのである。運動部活動の大会を1つ1つの試合の結果までで完結させ、 それ以上の結果がないフェスティバル形式にする。  さらに運動部活動に「スポーツ」を「する」だけでなく、「みる」、「支える」も加える。例えば様々 なスポーツの観戦体験を享受するスポーツ観戦部、スポーツの競技力向上に資するデータ収集を学ぶ スポーツ分析部、スポーツにおける身体ケアを学ぶスポーツトレーナー部、スポーツの様々な審判体 験を享受するスポーツ審判部、校庭芝生化や施設管理技術を学ぶスポーツ施設管理部などである。こ のように「スポーツ」を総合的に学べるように運動部活動を配置し、各自の興味に従って複数参加で き、各運動部活動の試合だけでなく体育行事などでその学びの実践実習を行う。 (4)スポーツプロモーションとしてのクラブマネージメント  先にスポーツプロモーションとしての運動部活動のあり方を提案した。このあり方では従来の多 くの運動部活動が担ってきたチャンピオンスポーツ志向の受け皿がなくなっている。そこで本論は、 チャンピオンスポーツ志向の受け皿を学外スポーツクラブに求める。現在、スポーツ少年団をはじめ、 様々な学外スポーツクラブが活動している。学校が施設を貸し出したり、教員を指導者として紹介し たりして、学外スポーツクラブと連携を積極的にとることによってチャンピオンスポーツ志向の生徒 の受け皿にする。もちろん近年実際に、幾つか見られるような学校発、教員発の地域総合型スポーツ クラブもその一つである。また学校と地域がタイアップしたNPO法人形態のスポーツクラブもある。  広瀬(前掲)が、「スポーツ中心主義からの逸脱」と指摘したように現在、チャンピオンスポーツは そのすそ野を広げ、さらに高度も上げ、様々な手段として使われ巨大イベント化が進んでいる。そう した巨大化・高度化するチャンピオンスポーツの状況の中で学校がそれに対応することは限界である。 プロスポーツ選手を目指す者にとってスポーツを教育教材として扱う場所は全く次元が違う。同様に 運動部活動でプロスポーツ選手を養成することも次元が違っている。  もちろん学校と連携する学外スポーツクラブの役割は、チャンピオンスポーツ志向の受け皿だけで はない。身体運動教育で培った様々な「スポーツ」マインドをさらに充実させ、様々な形で「スポー ツ」を享受できる場所として学校と連携する学外スポーツクラブを位置付けるのである。学校は、児 童、生徒に「スポーツ」の享受に向けての「学び習い」の場を提供し、さらに児童、生徒を「スポー ツ」の享受の場へ責任を持って送り出すのである。つまり学校と連携する学外スポーツクラブこそが 児童、生徒が実際に「スポーツ」を享受する場所であり、スポーツプロモーションとして学校がクラ ブマネージメントに参画するというのが本論の提案である。 結 学校におけるスポーツプロモーションの実現に向けて  ここまで本論が提案してきた学校におけるスポーツプロモーションは表2である。ここで逐一の対 応策を述べることはさけるが、もちろん筆者はこの提案を実現するためには膨大な困難があることは

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理解している。しかし例えば体育、保健体育では約 30 年も前に影山ほか(1984)が 実際の教育現場へ 表2 学校における身体運動教育の集約統合案:スポーツプロモーション 身体運動教育 体育、保健体育 体育行事 運動部活動 学外スポーツクラブ 参加形態 必修 自主選択 自発参加 自発参加 学習形態 学 び 習 い( 一 部 教え育てる) 学び習い 教え育てる 学び習い 教え育てる 学び習い 目  的 遊 戯 性 の 体 験、 理解 (一部、生活に向 けた身体の訓練) 競 争 性 と 自 己 練 磨性の習得 「スポーツ」享受 へ の 選 択 眼 の 習 得 自己完結する競技 力向上及び勝利 「 す る・ み る・ 支 える」の体験と理 解 「スポーツ」の享受 「トロプス」を持ち込んでいる。また平成 29 年3月の指導要領改訂には体育、保健体育の目的に「豊か なスポーツライフの実現」が盛り込まれた。  また体育行事では岡崎ほか(1998)が示したような児童会や委員会が中心になって先生はできるだ け台に上がらない運動会の事例や内田(前掲)が行った運動会の種目に対する問題提議など体育行事 の存在意義に対する揺り動かしも見られる。  運動部活動でも畑(2017)が提唱するボトムアップ理論で全国優勝し話題となった広島観音寺高校 サッカー部のような練習計画作成や選手選考、監督 、 コーチ役などすべての運営を生徒間の話し合いで 行う運動部活部も幾つか出てきた。また中塚(2006)が行った競技志向のアスリート部門、プレイ志 向のフットサル部門、プレイ志向の女子部門に分割する筑波大学附属高校サッカー部の改革などの実 践例もある。  そして「スポーツ」の享受において我が国の学校の最も魅力的なことは施設の充実である。この充 実している学校施設の有効活用こそ「スポーツ」享受の核となる事項である。学外スポーツクラブか らすれば学校施設の優先使用は願ってもない優遇である。実際、加藤(2017)によって校庭を使用す る学外スポーツクラブが学校側と協働で校庭の芝生を管理している例が数多く報告されている。この ように本論の提案の実現に光がないわけではない。  学校の身体運動教育がスポーツを抱え込んでいた時代は既に終焉を迎え、スポーツが学校を凌駕す る時代に入っている。スポーツを教材にする研究ではなく、スポーツそのものの研究が必要な時代で ある。教員の立ち位置を、スポーツを通じての「教え育て」ではなく、自身の「スポーツ」の「学び 習い」に変更することが学校におけるスポーツプロモーション実現の第一である。それは学校の「学 び習い」への変革を意味している。   文献 内田良、教育という病、光文社、2015 岡崎勝、現代子どもスポーツとプレイの蘇生、トロプス・じゃーなる 1996 年 11 月第2号、国体に異議あり!全国市 民ネットワーク編集、1996 岡崎勝、身体教育の神話と構造、れんが書房新社、1987 岡崎勝ほか、対談 学校体育の未来はあるか、トロプス・じゃーなる 1998 年1月第3号、国体に異議あり!全国市 民ネットワーク編集、1998 カイヨワ(1990)遊びと人間、講談社

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山 梨 大 学 教 育 学 部 紀 要 平成29年 (2017年) 度 第 26 号 影山健、岡崎勝編、みんなででトロプス、風媒社、1984 影山健、ビッグイベントから運動会まで、トロプス・じゃーなる 1995 年 11 月創刊号、ロシナンテ社、1995 加藤朋之、校庭芝生化を巡る議論の在処、スポーツ産業学研究、第 27 巻第3号、2017 菊幸一、スポーツ行政施策からスポーツプロモーション政策へ、現代スポーツのパースペクティブ、大修館書店、 2006 佐伯年詩雄、これから体育を学ぶ人のために、世界思想社、2006 多々納秀雄、小谷寛二、菊幸一、「多元的現実としてのスポーツ」論の構成に関する試論的考察、健康科学、第 12 巻、 九州大学、1990 中塚義、DUO リーグの実践-スポーツの生活化のために、現代スポーツのパースペクティブ、大修館書店、2006 畑喜美夫、チームスポーツに学ぶボトムアップ理論、カンゼン社、2017 広瀬一郎、メディアスポーツ、読売新聞社、1997 ホイジンガ、ホモ・ルーデンス、中央公論社、1973 吉見俊哉、運動会と近代日本、青弓社、1999

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