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津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(七)

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全文

(1)

椙山女学園大学

津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(七)

著者

二宮 俊博

雑誌名

文化情報学部紀要

6

ページ

119-157

発行年

2006-03-24

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002530/

(2)

津阪東陽

﹃ J

L

f

出 相 一 一 一 一 口 必 月 ﹄ 本稿には、津阪東陽﹃杜律詳解﹄巻中の﹁厳中丞在駕見過﹂詩か ら﹁九日﹂詩までを収める。原丈の﹁メ﹂は﹁シテ

L

に 、 ﹁

1

L

は ﹁ コ ト﹂に、﹁尺﹂は﹁トモ﹂にそれぞれ改めた。明らかに訓点が脱落し ていると思われる箇所には、これを補った。また詩句の左傍にとこ ろどころ施されている和訓は、※をつけて改行して示した。書き下 し文は、紙幅の都合で省略する。なお、詩題の上には便宜的に通し 番号を施した。 組厳中丞柾駕見過 叫江上値水如海勢柳短述 附奉酬厳公寄題野亭之作 山間厳公仲夏柾駕草堂兼携酒撰得寒字

側野望 川 町 開 官 軍 収 河 南 河 北 側培城県香積寺官問 問送路六侍御入朝 鵬又送辛員外 肌九日

訳注稿

(

)

社律詳解巻之中 伊勢津阪孝紳君裕著 聞 巌 中 丞 柾 ぼ 駕 ヲ 見 レ 過 ( ふ 正 I ) 巌 武 以 二 御 史 中 丞 五 ア コ リ 成 都 一 一 。 以 一 一 世 奮 イ 待 川 公 ヲ 、 訪 二 涜 花 ノ 草 ( 注 2 ) 堂 寸 。 柾 ハ 猶 レ 屈 ノ 也 。 公 自 註 巌 自 一 一 東 川 一 除 ヨ ラ レ 西 川 一 一 、 勅 ン テ 令 ニ 雨 川ノ都節制す。案スルニ先レ是謁分ヨ東川西川イ置二一隅節度ザ。上元ニ ( 材 、 合 一 J 雨川イ靖二道斗、麿コ東川ノ節度使↓、以二巌武↓篤二成都ノ ( ﹂ 庄 4 ) ヰ ア ト 、 充 一 朗 南 ノ 節 度 使 一 一 一 穂 ニ 鎌 之 40 ( 注 1 ) ﹃ 旧 唐 書 ﹄ 杜 甫 伝 に ﹁ ( 厳 ) 武 、 世 旧 を 以 て 甫 を 待 す る こ と 甚 だ 普 し ﹂ と 。 な お 、 厳 武 ( 七 二 六 j 七 六 五 ) に つ い て は 、 訳 注 稿 パ 門 、 ﹁ 詩 聖 杜 文 貞 公 伝 ﹂ の ( 注 お ) 参 照 。 ( 注 2 ) 例 え ば 、 ﹃ 字 葉 ﹄ に ﹁ 柾 、 殖 往 の 切 、 注 、 上 声 。 屈 也 ﹂ と 。 ( 注 3 ) 顧 由 民 ﹃ 註 解 ﹄ に ﹁ 上 元 三 年 ( 七 六 二 十 月 、 崖 光 遠 卒 す 。 十 一 月 、 剣 南 東 西 両 川 を 合 し て 一 道 と 為 し 、 東 川 の 節 度 使 を 廃 し て 、 厳 武 を 以 て 成 都 の ヰ ア と 為 す 。 故 に 中 丞 と 日 ふ 。 此 の 詩 、 宝 応 元 年 ( 七 六 二 ) の 作 ﹂ と 。 宇 都 宮 遜 庵 の 両 著 に も 挙 げ る 。 ( 注 4 ) ﹁ 一 ご 点 、 原 文 は 誤 っ て ﹁ 三 ﹂ 点 に 作 る 。 厳武は御史中丞の肩書で成都ヰアとなり、代々のよしみで公を待遇し、 涜花の草堂を訪うた。︿柾﹀は、屈とほぼ同じ。公の自注に﹁厳、東 男達有功校

(3)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解」訳注稿(七) よ 川自り西川に除せられ、勅して両川都節制たらしむしと。案ずるに これより先、局は東川・西川を分け、両節度使を置いた。上元二年、 両川を合して一道とし、東川節度使を廃して、厳武を成都矛とし、 剣南節度使に充て、これを統治させた。 元 戎 小 隊 出 一 一 郊 畑 一 一 一 間 レ 柳 ヲ 尋 げ 花 ヲ 到 一 一 野 亭 一 一 一 ※ 小 隊 : ・ ス コ シ ノ ト モ 到 ・ : タ チ ヨ ル ( 注 5 ) 詩 ノ 小 雅 ニ 元 戎 十 一 来 、 以 先 敢 け ト 行 ヲ o 元大也。戎ハ兵車也。元戎ハ ( 注 6 ) ( 注 7 ) 猶 レ 一 言 ロ コ 将 軍 斗 也 。 元 戎 出 レ ハ 必 大 隊 、 言 一 1 隊 ↓ 者 ハ 、 因 日 遊 覧 -一 一 来 週 ス 、 故 ニ 減 J 儀従寸隊兵少 γ ク随フ爾。間レ柳ヲ尋レ花ヲ、即途中遊寛之興。城 ( 山 一 在 9 ) 外 ヲ 日 レ 郊 ト 、 郊 外 ヲ 日 レ 桐 ト o 蓋 以 二 節 鎮 之 貴 イ 而 柾 ニ 駕 ヲ 於 郊 村 一 一 、 故 ニ 若 w 非 コ 特 ニ 過 臨 す 一 一 然 也 。 抑 ( 亦 厚 意 春 顧 、 不 一 一 一 日 テ 李 張 寸 也 。 ( 注 5 ) ﹃詩経﹄小雅・六月。米子の集伝に﹁元は大なり。戎は戎車なりしと。 醇益﹃分類﹄(巻二、尋訪)に﹁戎は兵車なり﹂までを挙げる。﹃分類﹄ は、宇都宮遜庵の増広本に引く。 ( 注 6 ) ちなみに、﹃白氏六帖事類集﹄巻十五﹁大将﹂の条及び巻二十一﹁節度 使﹂の条に、それぞれ﹁元戎﹂の語を挙げる。 ( 注 7 ) ﹃而庵説唐詩﹄(巻十八)に﹁元戎の出づる必ず大隊なり。小隊と言ふ は出でて客を拝す。簡便に従ふ﹂と。 ( 注 8 ) ﹃唐詩貫珠﹄(巻十六、雅事酬贈ニに J 厳公遊覧するに図って、故に 儀従を用ひず、小隊を用て相随へ、柳を問ひ花を尋ねて来たるしと。 ( 注 9 ) ﹃而庵説唐詩﹄に﹁邑外を郊と日ひ、郊外を桐と日ふ﹂と。もとは、﹃爾 雅﹄釈地に寸口巴外之を郊と謂ひ、郊外之を牧と謂ひ、牧外之を野と謂ひ、 野外之を林と謂ひ、林外之を桐と謂ふ﹂とあるのによる。邑は、国都の 意。なお、醇益﹃分類﹄には﹃爾雅﹄を挙げる。 ﹃詩経﹄小雅に﹁元戎十乗、以て先づ行を啓く L と。︿元﹀は、大で ある。︿戎﹀は、兵車である。︿元戎﹀は、将軍と一一百うのとほぼ同じ。 ︿元戎﹀が︿出﹀る場合、必ず大がかりな隊列であるのだが、︿小隊﹀ と一言うのは、遊覧のためにやって来たので、それゆえ儀衛の数を減 らして隊兵が少人数だけ随行するのだ。︿柳を間ひ花を尋ぬ﹀は、途 中での遊覧の興にほかならない。域外を︿郊﹀といい、郊外を︿珊﹀ 、 手 という。けだし節度使という高い地位にありながら、︿駕を在、げ﹀て 郊外の村にやって来たのは、ことさらにわざわざ出向いたというだ けではないようである。そもそもやはり厳武の厚意審顧をあえて誇 張したくないのであろうか。 川 合 弓 東 西 ↓ 瞳 一 一 使 笥 イ 地 分 斗 一 ア 南 北 一 一 任 コ 流 淳 一 一 ( 注 目 ) 覇 、 一 名 川 。 最 武 初 鋸 コ 東 川 イ 、 至 げ 是 ニ ヰ ア コ ン テ 成 都 一 一 一 、 合 ヨ 東 西 雨 川 イ 矯 ⋮ J 一 節 度 ↓ 領 以 之 ヲ O 故ニ日三川合計東西 40 美 一 寸 其 線 一 一 鑓 ス ル ヲ 全 罰 イ 也 。 謄 コ 使 節 イ 一 言 一 一 一 萄 人 膿 ニ 仰 ス ル ヲ 其 威 望 寸 也 。 地 八 五 南 北 ↓ 一 言 下 萄 (在ロ) 奥二長安一南北遠縞目。任ハ者分付スル之謂。此句公自嘆ス、身瓢二 零 シ テ 南 中 一 一 、 而 不 レ 能 一 一 北 ニ 諦 寸 、 任 ヨ 其 流 韓 不 同 ト 定 ラ 、 如 コ 一 一 浮 淳 之 漂 寸 レ 水 ニ 耳 。 ( 注 目 ) ち な み に 、 ﹃ 夜 航 詩 話 ﹄ 巻 一 一 一 に ﹁ 平 桁 の 田 野 を 川 と 日 ふ ﹂ と し 、 局 中 を 川と称するのも、その義を取ったもので、﹁眠江・花江・黒水・白水の四 大川を取り、以て名と為すを謂ふは、蓋し後世の説のみ﹂と指摘する。 後出、附﹁野望 L 詩 の ( 注 口 ) 参 照 。 (注日)顧震﹃註解﹄に﹁公の自註に、厳、東川自り西川に除せられ、勅して 両川の都節制たらしむと。武初めて東川に鎮たるを以ての故なり。日定 の時、両川を合して一道と為す、故に︿川東西を合す﹀と臼ふ L と。宇 都宮遜庵の増広本にも挙げる。 (注ロ)釈大典﹃詩語解﹄巻上に、﹁任意 L ﹁ 一 任 ﹂ ﹁ 任 ﹂ ﹁ 信 ﹂ ﹁ 信 任 ﹂ の 用 例 を 挙 げ て 、 寸 比 自 分 付 ス ル 之 辞 、 不 川 妨 之 辞 、 同 用 ス し と い う 。 寸 分 付 L は 俗 語 で 、 言 い つ け る 意 。 (ル在日)﹃唐詩貫珠﹄に﹁君己に河川を合して節銭を贈るを得、独り憐れむ我に 南北の分有り、北に帰ること能はず、南地に瓢零して、其の流転するこ と薄の如き耳﹂と。南中は、局を指す。初唐の王勃﹁萄中九日﹂詩(﹃唐 詩選﹄巻七)に﹁人情は己に南中の苦を一献ふ﹂と。訳注稿同、問﹁野老﹂ 誇 の ( 注 日 ) 参 照 。 萄は、一名を︿川﹀という。厳武は当初、東川を鎮したが、ここに 至って成都矛となり、東西両川を合せて一節度使の管轄としてこれ

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文化情報学部紀要,第 6巻, 2006年 を領した。それゆえ︿川東西を合せて﹀という。局全土を統治して いることを称えているのである。︿使節を謄る﹀は、萄の民人がその 威望を仰ぎ慕うことを言うのである。︿地南北に分かる﹀は、萄と長 安とが南北に遠く隔っていることを言う。︿任﹀は、分付するの意。 この句は、公が自らを嘆じたもので、身は南中に流浪零落し、北に 帰ることができず、浮薄が水に漂うように、その流転して定まらぬ のに任せているのだ。 一 屑 舟 不 三 濁 如 コ ミ ナ ラ 張 翰 ↓ 阜 帽 膳 一 一 一 乗 テ 似 コ ル 管 寧 一 一 ( 込 在 凶 ) 菅玄百ニ張翰ハ舎稽ノ人。賀循赴げ命ニ入レ洛ニ、経二回天ノ閏門て於二船 中 一 一 一 弾 以 琴 ヲ O 翰初ヨリ不二相識一、乃就け循ニ言談ス、便大ニ歌悦ス o 問 げ ( 注 目 ) 循ニ知二其入ず洛ニ、翰便同門ァ舟ヲ即去ル O 貌志ニ管寧漢魂之際、避げ 乱 ヲ 依 二 公 孫 度 一 一 、 居 コ ト 遼 東 -一 一 ゴ 一 十 年 、 好 テ 坐 コ 一 審 林 一 一 、 嘗 川 膝 ニ 慮 皆 ( 注 国 ) 穿ッ。常ニ著二宅帽布梧イ而己。此承二地分ノ句↓、言一己ヵ之芹院↓。其 ( 品 広 口 ) 始 テ 入 レ 萄 一 一 也 、 原 如 下 張 翰 ヵ 一 時 起 り テ 意 ヲ 超 才 人 ノ 扇 舟 イ 入 針 レ 洛 ニ O 倉 卒 之襲、自賠コ悔恨寸。今乃不レ能レ蹄コ f 、 克 ニ 如 下 管 寧 ヵ 寓 一 J テ 干 遼 東 一 一 一 、 ( 注 河 川 ) 息帽布祐、窮困自守守也。胡嬰亭云、公避げ乱ヲ入レ易一一、嘗日原貿 ( 注 目 ) ( 注 却 ) 貿 然 不 レ 暇 コ ラ 遠 ク 慮 士 、 遂 ニ 葡 繋 ン テ 不 レ 蹄 ラ 、 坐 ニ 消 一 J 歳 月 イ 、 賀 川 一 ア 志 ヲ 以 残 ス o 其 誤 在 } 弓 人 レ 川 一 一 一 一 挙 一 一 、 所 一 以 深 ク 悔 刊 也 。 案 ス ル ニ 張 翰 字 ハ 季 鷹 、 之 江 副 ) 是羽翰之翰、卒整。今用テ作二一以聾叶、後人議ニ襲レ之ヲ o 故ニ劉辰翁 云、翰不コハ平撃す操川之ニ O 蓋 白 一 此 詩 一 創 用 ス ル 也 。 (注目)﹃晋童日﹄巻九十二、文苑伝に﹁張翰、字は季鷹。呉郡呉の人。父の僚 は呉の大鴻臆。翰は清才有り、善く文を属す。而して縦任拘せず。時人 号して江東の歩兵と為す。会稽の賀循、命に赴き洛に入り、呉の閏門を 経、船中に於いて琴を弾、す。翰初め相識らず、乃ち循に就きて言譲す。 使ち大いに相欽悦す。循に向い其の洛に入るを知る。翰日く、吾れも 亦た北京に事有りと。使ち同載して即ち去り、而して家人に告げず﹂と。 東陽が拠ったのは、醇益﹃分類﹄もしくは﹃唐詩貫珠﹄で、これらは いずれも張翰を会稽の人とする。﹃而庵説唐詩﹄も同じ。呉郡呉県は、 今の江蘇省蘇州市。会稽は、今の漸江省紹興市。 (注目)降益﹃分類﹄に見える。管寧の伝は、﹃一二国志﹄貌書巻十一 o ﹃ 分 類 ﹄ は、宇都宮遜庵の両著にも引く。 ( 九 在 日 山 ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に 、 ( 注 日 ) に 挙 げ た 箇 所 に 続 い て ﹁ 此 の 聯 、 東 西 南 北 を 以て句脈と為し相貫く。下半界、皆此を承け而して己が洋践を言ふ﹂と。 芹院は、浮草暮しで一箇所に定住しないこと。 (注口)﹃唐詩貫珠﹄に、(注目)に挙げた箇所に続いて﹁其の始めて川に入る お や、原と張翰が一時意を起こして他人の一一属舟を越って洛に入るが如く一 つ ひ 般。今、皇に帰ること能はざること、覚に管寧の久しく遼東に隠るるが 如し尖﹂と。一般は、同様の意。 (注国)﹃唐詩貫珠﹄に﹁按ずるに、公の川に進む諸什、当日原とより貿貿然と して南選し、深く険阻に入る。故都を廻首するに、中興恢復の際、預聞 そ ぞ ろ も た ら あ や ま り すること能はず。坐に歳月を消し、志を費して以て残す。皆侠は川 に入る一挙に在るに因る﹂と。貿貿然は、軽はずみなさま。賓は、驚の 俗字。資志は、志を抱いたまま。梁・江流﹁恨みの賦﹂(﹃文選﹄巻十六) に﹁志を粛して地に没し、長く懐いて己むこと無ししとあり、五臣注に ﹁ 粛 は 、 持 な り L と 。 ( 注 ゆ ) ﹃ 論 諾 ﹄ 衛 号 一 正 公 篇 に ﹁ 人 遠 き 慮 り 無 け れ ば 、 必 ず 近 き 憂 ひ 有 り し と 。 ( 注 却 ) ﹃ 論 語 ﹄ 陽 貨 篇 に 寸 五 口 れ 管 一 一 に 苑 瓜 な ら ん や o 駕んぞ能く繋がれて食ら はれざらんや L とあるのに基づく語。清・劉宝楠の正義につ掬瓜食らは れざるを以て、一処に繋滞するを得。後に強繋を以て露滞を謂ふ﹂と。 強瓜は、ヒョウタン。 (注幻)劉辰翁(須渓)については、訳注稿日、鵬﹁賀至舎人阜に大明宮に戟 するを奉和す﹂詩の(注 m m ) 参照。その注は、﹃集千家註批点杜工部集﹄ ( 巻 八 ) に 見 え る 。 ちなみに、釈六如(滋周)の﹃葛原詩話﹄巻一一一に﹁晋張翰ノ之翰、平 去ノ二声﹂の条あり、﹁張翰字ハ季鷹ナレバ、羽翰ノ翰ニテ平声ナルへシ。 故 ニ 楊 基 カ 詩 ニ 、 黄 金 何 ソ 用 ン 鋳 コ ト ヲ 抱 姦 ィ 、 紫 尊 本 ト 白 ラ 足 コ 張 翰 一 ト 。 正 ク 寒 韻 ニ 用 ユ 。 然 ル ニ 杜 詩 三 一 滴 舟 不 コ 独 ノ ミ ナ ラ 如 一 一 張 翰 ィ 、 息 帽 応 一 一 一 兼 テ 似 ラ 管 寧 一 一 、 劉 須 渓 ヵ 評 一 一 、 戦 不 二 立 田 平 す 拠 川 之 ニ ト 。 羽 翰 ハ 定 テ 平 声 、 詞 翰 ハ 定 テ 去声。タ f 張翰ニ至テハ社詩ニ拠テ去声ニ用ルモノ多シ。然レトモ楊 孟 載 ニ 拠 レ ハ 、 平 声 一 一 モ 用 ユ ヘ キ ナ リ 。 石 湖 ノ 句 ニ 、 思 婦 意 決 ス 五 口 レ 張 翰 、 贈別情深ン子繰朝、コレ社詩ノ如、どという。

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三宮俊博/津阪東陽『宇土律詳解』訳注稿(七) 明 の 楊 基 ( 字 は 孟 載 、 号 は 眉 庵 。 一 一 一 一 二 六

1

一 三 七 八 ) の 作 は 、 七 律 ﹁ 雲 間 の 謝 嘉 と 同 に 張 夢 辰 舟 に 害 す ﹂ 詩 ( ﹃ 盾 庵 集 ﹄ 巻 入 ) の 頚 聯 。 石 湖 は 、 南 宋 の 泡 成 大 ( 字 は 致 能 、 号 は 石 湖 居 士 。 一 一 一 一 六

1

一 一 九 一 二 ) の こ と 。 そ の 二 句 は 、 七 律 寸 黄 必 先 主 簿 同 年 の 贈 別 の 韻 に 次 す ﹂ 二 首 其 一 ( ﹃ 石 湖 底 士 詩 集 ﹄ 巻 八 ) の 頚 聯 。 な お 、 東 陽 の ﹃ 葛 原 詩 話 糾 謬 ﹄ 巻 三 に は ﹁ 杜 詩 又 た 云 ふ 、 部 平 元 と 漢 に 入 り 、 張 翰 後 に 呉 に 帰 す と 。 亦 た 灰 声 に 作 る ﹂ と 。 こ れ は 五 一 言 古 詩 ﹁ 南 岳 を 過 ぎ て 洞 庭 胡 に 入 る ﹂ 詩 ( 詳 註 巻 二 十 二 ) の 第 二 十 一 、 二 勾 。 ﹃亜日書﹄に﹁張翰は会稽の人。賀循が君命により洛陽に赴く途中、 呉の闇門を経由し、船中で琴を弾じた。張翰はそれまで面識はな かったが、そこで賀循のもとを訪れ語り合ったところ、たちまち大 いに話がはずんで気にいった。賀循に問うて入洛すると知るや、張 翰はそのまま一緒に同じ舟で即刻でかけた﹂と。﹃魂士山﹄に﹁管寧は 漢貌の際、戦乱を避けて公孫度のもとに身を寄せ、遼東に居ること あかぎ 三十年、好んで棄の寝台に坐して、膝のあたるところはすべて穴が あいた。いつも阜帽(黒い帽子)に布措(木綿の袴)を身につけて いたしと。これは︿地分﹀の句を承け、己が浮草暮しを一言史ノ O その 始めて萄に入ったのは、もとより︿張翰﹀が一時に思い立って人の ︿扇舟﹀を追って入洛したごとくで、哨嵯の軽はずみな行動に、悔 恨を残している。今では帰ることもできず、ついには︿管寧﹀が遼 東に仮寓し、︿阜帽﹀に布棺という粗末な身なりで、困窮のうちに自 ら節を守ったごとくである。胡突亭が云う、﹁公は戦乱を避けて萄 に入ったのだが、その時はぼんやりとして深く先のことまで考える ふ く べ 暇なく、かくしてぶらさがった鞄のように留まったまま帰るに帰 れず、歳月を無駄に過ごし、果たせぬ志を抱いたまま没した。いず れも誤まりは︿川﹀に入りし一挙にある﹂と。深く悔やむゆえんで あ ざ な ある。案ずるに張翰は、字が季鷹であるから、これは羽翰の翰で平 声。今ここで灰声として用いているが、後人はそのままこれを踏襲 している。されば劉辰翁が云う、﹁翰が平声でないのは、これに拠る﹂ と。けだしこの詩から用い始めたのであろう。 寂真タル江天雲霧ノ裏何人ヵ道凶有コ少微星 道 ハ 言 也 。 少 供 出 回 ハ 在 二 大 微 垣 ノ 西 一 一 一 、 一 名 庭 土 星 。 故 ニ 公 自 比 ス o 身 既 ニ 矯 一 一 隠 士 ↓ 、 僻 一 雇 シ テ 寂 真 之 漬 J一 、 深 ク 戴 コ 子 雲 霧 中 一 一 、 猶 一 一 少 微 之 星 、 天曇テ不寸レ可レ見。能有口何人ノ認識一。最公乃以ニ雨川ノ節度之貴 ( 注 お ) 重て不レ題二棄セ寂実之故人 40 公 深 ク 感 コ 其 厚 詮 寸 也 。 以 一 歩 微 星 寸 自 ( ふ 在 民 ) 居、是高世紹俗之人、亦旦散岸ノ気象イ。 令 官 比 例 叫 ) 醇 益 ﹃ 分 類 ﹄ に ﹃ 陪 量 百 ﹄ 天 文 志 を 引 い て 、 ﹁ 少 微 の 四 星 は 大 微 垣 の 西 に 在 り 、 士 大 夫 の 位 、 な り 。 一 名 、 処 土 星 。 明 黄 な る と き は 、 則 ち 処 士 挙 げ ら る ﹂ と い う o ﹃ 唐 詩 賞 珠 ﹄ も 同 様 の 注 。 ﹃ 分 類 ﹄ は 、 宇 都 宮 遜 庵 の 増 広 本 に も 挙 げ る 。 ( 注 お ) ﹃ 而 庵 説 唐 詩 ﹄ に ﹁ 此 の 詩 は 是 れ 公 が 厳 公 の 阿 川 節 度 使 の 貴 重 を 以 て 寂 実 の 故 人 を 忘 れ ざ る を 顕 は す を 要 す る な り し と 。 混 棄 は 、 遠 ざ け 見 捨 て る 。 ﹃ 詩 経 ﹄ 周 南 ・ 汝 墳 に ﹁ 既 に 君 子 を 見 る 、 我 を 遺 棄 せ ず L と 。 ( 注 川 社 ) 気 象 は 気 性 の あ ら わ れ 。 訳 注 稿 日 、 山 寸 曲 江 ﹂ 二 首 其 一 の ( 注 9 ) 参 昭 一 。 ︿道﹀は、言である。︿少徴星﹀は、大微垣の西にあり、一名、処士 星という。されば公自ら比す。我が身は隠土となっており、︿寂実﹀ たる江辺に引っ込んで、深く︿雲霧﹀の中に隠れており、ちょうど ︿少微﹀の︿星﹀が、空曇って見ることができないのと同じで、いっ たい︿何人﹀がしかと覚えていてくれょうか。厳公にはなんと両川 の節度使という貴く重い地位にありながら、︿寂実﹀たる境遇の昔な じみを見捨ててはいない。公は深くその一厚誼に感じ入っているので ある。︿少微星﹀を自認しているのは、世俗を超越したはずの人で、 そこにやはり倣岸の気象が見てとれる。 四 江 上 値 一 一 一 水 如 弓 海 勢 ザ 脚 短 述 ス i E 1 3 庄 1 ) 江八割錦江。短遮ハ謂レ不 w 能 レ 述 日 コ ト 其 大 ナ ル 者 寸 。 如 守 一 海 勢 ↓ 、 篇 中 不 レ 言 一 海 勢 4 、 柳 短 連 ス ル 而 己 。 水 顧 守

1

需註

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L

二題

一-.1.:.'¥--:L三

正 値

是 水

(6)

文化情報学部紀要,第 6巻, 2006年 短 述 也 。 ( 注 l ) 部 宝 ﹃ 集 註 ﹄ ( 巻 一 一 十 三 、 述 懐 類 ) に ﹁ 江 は 、 錦 江 ﹂ と 。 宇 都 宮 遜 庵 の 前 著 に も 挙 げ る 。 あ ( 注 2 ) 顧震﹃註解﹄に寸題に水の海勢の如くなるに値ふと云いて、篇中海勢 を一言はず、柳か短述するのみ。水艦の二句、正に是れ短述するなり。 宝応元年(七六二)の作﹂と。宇都宮遜庵の両著にも挙げる。 ︿江﹀は、すなわち錦江。︿短述﹀は、その大なるものを述べること ができないこと。顧註に﹁詩題に︿水海勢の如きに値ふ﹀と一子つが、 篇中には︿海勢﹀について言わず、︿柳か短述す﹀るのみだ。︿水艦﹀ の一聯は、まさしく︿短述﹀したものである﹂と。 矯 川 コ ト 人 性 僻 子 ン テ 耽 コ 佳 句 一 一 一 語 不 可 驚 け 人 ヲ 死 ス ト モ 不 凶 シ 休 マ ( 注 3 ) ( 注 4 ) 僻 ハ 偏 也 。 言 一 血 バ レ 人 異 ↓ ル ヲ 也 。 死 ス ト モ 不 い 休 マ 極 コ 言 其 弗 川 ハ 得 弗 古 措 ( 注 5 ) 也。是下句解一 J 上匂イ、自扶刊其耽二佳句一一之情 H 。 憶 昔 自 一 一 負 シ 詩 才 て 不 レ 屑 コ セ 尋 常 之 語 ↓ 。 其 耽 ニ 住 句 一 一 之 甚 シ キ 、 必 欲 レ 驚 け ン ト 人 ヲ 、 ( 注 6 ) 不可得不レ巳マ O 自 畳 一 イ ァ 死 カ イ 求 レ 之 ヲ 、 殆 欲 レ 植 一 面 セ ン ト 心 肝 て 何 ソ 其 ( 注 7 ) 性 之 僻 ナ ル 也 。 然 ト モ 此 皆 少 壮 時 ノ 事 、 今 嘆 コ 其 不 イ レ 能 二 大 ニ 速 す } 也 。 ( 注 3 ) 醇 益 ﹃ 分 類 ﹄ ( 巻 一 、 述 懐 ) に 見 え る 。 宇 都 宮 遜 庵 の 両 著 に も 挙 げ る 。 ( 注 4 ) ﹃ 中 庸 章 句 ﹄ 第 二 十 章 に ﹁ 思 は ざ る こ と 有 り 、 之 を 思 ひ て 得 ざ れ ば 措 か ざ る な り ﹂ と 。 ( 注 5 ) 顧 展 ﹃ 註 解 ﹄ に ﹁ ︿ 語 人 を 驚 か さ ざ れ ば 死 す と も 休 ま ず ﹀ は 、 自 ら 其 の ふ け 佳句に耽るの癖性を状す。次の句、上旬を解く法﹂と。宇都宮遜庵の増 広 本 に も 挙 げ る 。 ( 注 6 ) ﹃ 量 百 一 言 故 事 ﹄ 巻 十 一 、 詩 類 に ﹁ 錦 嚢 L の 語 を 挙 げ 、 中 唐 ・ 李 賀 ( 七 九 O ー八一六)の故事を引くが、そこに李賀の母が﹁是の児、心肝を眠吐し て 乃 ち 己 む ﹂ と 嘆 い た 一 言 葉 が 見 え る 。 こ れ は 娩 唐 ・ 李 商 隠 ( 八 一 一 一

1

八 五 八 ) の ﹁ 李 賀 小 伝 L に 基 づ き 、 そ れ に は ﹁ 回 定 の 児 、 要 ず 当 に 心 を 阻 吐 し て 始 め て 己 ま ん 爾 ﹂ と あ る 。 な お 、 ﹁ 李 賀 小 伝 ﹂ に つ い て は 、 原 田 憲 雄 ﹃ 李 賀 歌 詩 編 I ﹄ ( 平 凡 社 東 洋 文 庫 、 一 九 九 九 年 ) に 訳 注 が あ る 、 ( 注 7 ) 顧 宗 ﹃ 註 解 ﹄ に 、 ( 注 5 ) に挙げた箇所に続いて﹁然れども此れ皆少壮 お も や の時の事。少壮の時に在って、謂へらく此の癖性、死すと難も休まず、 お も は な は す べ 意はぎりき老い去って詩篇太だ然らず、ロハだ海て漫興のみ。佳句に耽 る時を回想するに、必ず人を驚かすの語を作さんと欲す、何ぞ其れ癖な るしと。宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。少壮は、三十代までの若く元 気 な 時 。 ︿僻﹀は、偏である。他人と異なることを一言うのである。︿死すとも 休まず﹀は、そのどうしても得ないではおれない心情を極言してい る。これは下旬が上句の意を解説し、自らその︿佳句に耽る﹀あり ありきたり さ ま を 形 容 し て い る 。 憶 え ば 昔 は 詩 才 を 自 負 し 、 尋 常 の 語 を 用 い るのをいさぎよしとしなかった。その︿佳匂に耽る﹀ことの徹底ぶ りは、何がなんでも︿人を驚か﹀そうとして、得るまでやめること ができず、自ら死力を尽くしてこれを求め、ほとんど心肝を恒き出 ださんばかりであった。なんとその︿性﹀の︿僻﹀なることか。さ りながら、これはいずれも年若く意気軒昂だった時のことで、今で は大いに︿述﹀べることができないのを嘆じているのである。 老去テ詩篇、産テ漫興春来花鳥莫 -h ク 愁 4 ※海漫興:ミナヤリパナシ莫深秋山:・サノミナキヅカイセソ ( 注 目 ) 漫ハ浪漫也。莫﹀深ク愁寸ト従二花鳥一説、言レ不コ復足一畏ルニ也。二匂 嘆 一 J 老 来 詩 興 不 寸 レ 競 、 以 一 一 海 勢 之 難 イ レ 吠 シ 、 自 恥 二 才 退 之 甚 ヴ キ ヲ 也 。 花 鳥 ノ 句 申 一 一 言 ス 漫 血 ハ ィ 、 且 輿 レ 驚 同 人 ヲ 釘 映 。 蓋 首 時 佳 勾 不 ニ 唯 驚 ♂ ミ ナ ラ 山 正 叩 ) 人 ヲ 、 以 三 拭 川 ル コ ト 物 ヲ 精 徴 、 寓 ニ 透 ス ル ヲ 其 形 一 柳 て 花 鳥 モ 亦 所 レ 愁 ン 也 。 今 乃老衰、才力雨ナカラ落、卒レ喜同一品ニ信守口三平平無レ奇、只揮テ漫興而 ( 注 U ) 己 。 無 三 復 著 コ ル コ ト 意 ヲ 於 驚 戸 人 ヲ 、 則 刻 二 輩 、 ン テ 寓 物 之 情 状 イ 、 使 い コ ト ( 注 ロ ) 無レ得凶ト遁コトヲ子五口之筆下一一、何ヲ以復能再凶ン之ヲ哉。甚シ実吾之 ( 注 日 ) ( 注 比 ) 衰 タ ル 也 。 漫 興 一 ニ 作 二 漫 輿 一 一 o 一 吉 一 一 漫 然 随 げ 意 ニ 付 輿 寸 ル ヲ o 東波山谷誠 斎 襲 一 一 用 之 て 倶 ニ 押 テ 入 レ 韻 一 一 o 己上四句意一貫、奥一一二片花飛テ減二 ( 注 国 ) 却 ス 春 寸 同 格 。 矯 一 一 一 五 六 迩 コ ヵ 頭 事 て 先 有 一 一 此 嘆 一 也 。 ( 注 8 ) 醇益﹃分類﹄に見える。宇都宮遜庵の両著にも挙げる。浪漫は、でま か せ 気 ま ま の 意 。

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二宮俊博/津阪東陽「杜律詳解』訳注稿(七) ( 注 9 ) 顧展﹃註解﹄に﹁深く愁ふること莫かれとは、花鳥従り説く。甚だ奇 なり﹂と。宇都宮遜庵の両著にも挙げる。 な ん ち な (注印)部停﹃集解﹄に寸春花春鳥、爾が形神を写透することを愁ふること母 か れ し と 。 すペ (九在日)醇益﹃分類﹄に﹁揮で漫興とは、復た意を人を驚かすに著げること無 き を 一 言 ふ な り し と 。 宇 都 宮 源 一 庵 の 増 広 本 に 挙 げ る 。 ( 注 ロ ) 顧 展 ﹃ 註 解 ﹄ に 、 ( 注 9 ) に挙げた箇所に続いて﹁万物の情状を刻画し て、五口が筆下に遁るること得ること無からしむ、此れ亦た花鳥の深く愁 ふる所なり﹂と。宇都宮遜庵の両著にも挙げる。 ( 注 目 ) よ 柵 一 語 ﹄ 述 而 篇 に ﹁ 甚 だ し い か な 、 五 口 れ の 衰 ふ る や 。 久 し い か な 、 吾 れ 復た夢に周公を見ず﹂と。 (注目)銭注(巻十二及び輯註(巻八)は﹁興 L に作るが、仇兆禁(一六三 八

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一七一七)の詳註(巻十)は﹁輿﹂に作り、﹁黄鶴本及び越次公註は 比白︿漫輿﹀に作る。韻府群玉に此の詩を引き、亦た︿漫輿﹀に作る。王 介甫詩に、粉墨空しく多く真に漫奥、蘇子膿詩に、手を袖にし筆研を焚 く、清篇真に漫奥と。皆柏設す可し。諸家、前題の漫興九首に拠って、 遂に此れを弁せて亦た︿漫興﹀に作る。上聯に︿句﹀字有り、次聯に又 た︿興﹀字を用ふ、宜しく去声を畳見すべからずしという。 ﹃韻府群玉﹄は、宋末元初の陰勤弦(字は時夫)撰の韻書。その巻九、 上 声 語 韻 に ﹁ 担 措 置 八 ﹂ の 語 を 挙 げ 、 そ の 注 に 蘇 載 の 句 例 を 引 き 、 ﹁ 社 詩 に 設 お ほ む ね 奥九首有り、大率花柳に対するの興を一言ふ﹂と。王介甫は、北宋の王安 石(字は介帯。一 O 一 一 一 J i -一 O 八六)のこと。荊国公に封ぜられたので 王荊公ともいう。その勾は﹁純甫、釈恵崇が闘を出だして予に詩を作ら んことを要むし詩(﹃臨川先生文集﹄巻二。蘇子陥聞は、北宋の蘇戦(字 は 子 暗 唱 。 号 は 束 坂 居 士 。 一 O 二 一 七

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一 一 O ニのこと。その例は寸正甫 表兄の江行して桃花を見るに次韻す﹂詩(﹃蘇文忠公合註﹄巻三十九)に 見 え る 。 この仇兆器用の説を踏まえて、釈六如は﹃著原詩話﹄巻一 ト ス 。 注 シ テ 日 、 老 レ ハ 則 詩 境 漸 ク 熟 ス 、 但 随 げ 意 ニ 付 与 ス ト 。 と述べ、これに対して、東陽は更に資料を補い、﹃葛原詩話料謬﹄巻一に お い て 、 杜 詩 、 絶 句 漫 興 九 首 、 八 王 唐 詩 注 に 冷 斎 夜 話 を 引 い て 云 ふ 、 ︿ 沼 市 民 血 ︿ ﹀ 、 当に︿漫奥﹀に作るべし。即景率意の作を一言ふなり。蘇戟・黄庭堅・ 楊万里、之を襲用し、倶に押して韻に入る。一冗以前未だ読みで︿興﹀ 字と為す者有らず。楊廉夫始めて漫興七首を作り、妄りに云ふ、杜 を学ぶと。其の徒、呉復従って之を停会す。是に於いて世人尽く 社集の︿奥﹀を改めて︿奥﹀と為す。 という o ﹃全唐詩﹄は巻二二七に見え、︿夜話﹀を︿詩話﹀に作る。ある いは東陽は﹃冷斎詩話﹄という書物がないことから、それを北宋・釈恵 洪(字は覚範。一 O 七 一 F i l l 一 一 一 一 八 ) 撰 の ﹃ 冷 斎 夜 話 ﹄ の 誤 り と 見 た の であろうか。但し、それには当然ながら、かかる記述はない。 ところで、明末清初の朱勢尊(号は竹花。一六二九

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一 七 O 九 ) の ﹁ 韻 府群玉の後に書す﹂(﹃曝書亭集﹄巻四十二一)には、次のような記述があ る 。 杜工部集に漫奥五言絶句九首有り。又た七言に云ふ、老去って詩篇 海て漫奥、春来花鳥深く愁ふる莫かれと。︿漫奥﹀とは、即景口上口、 率意にして作るを言ふなり。其の後、蘇子陥帽・黄魯直・楊廷秀の諸 公、皆之を襲用し、押して上声語韻に入る。美嘉章の膝熔詞に一五ふ、 幽詩漫奥、咲ふ簸落燈を呼ぶ、世間の児女。段復之の詞に云ふ、詩 句一春海て漫典、紛紛たる紅紫倶に塵土と。陰時夫、韻府群玉を輯 する、亦た采りて語字韻中に入る。蓋し元自り以前は読みて漫興と お よ 為す者有ること無し。楊廉夫、漫興七首を作るに治んで、妄りに謂 ふ、杜を学ぶ者、先づ其の情性一言語を得るに、必ず漫興自り始むと。 而して其の弟子呉復従って之を侍会し、注に云ふ、漫興なる者は、 老杜、涜花渓に在りて作る所なり。漫興の言為る、蓋し眼前の景に 即きて、以て漫成の辞と為す。其の一言語、村なるに似たり、未だ始 めより俊ならざるは、比れ社体の最も学び難き者と。康夫の詩出で て自り、世人遂に尽く杜集の旧を改め、輿を易へ興と為せり実。 ﹃全唐詩﹄の注は、これに拠ったのであろうか。 ちなみに、︿漫輿﹀の用例は、北宋の黄庭堅(字は魯直、号は山谷。 ﹁ 漫 奥 ﹂ の 条

漫 興 ト 云 ハ 常 ノ コ ト ナ リ 。 又 漫 奥 ト 云 字 ア リ 。 王 荊 公 題 一 一 宙 富 市 ヵ 画 一 一 一

詩 二 、 粉 墨 空 ク 多 ン テ 真 ニ 漫 奥 、 東 坂 ノ 詩 ニ 、 袖 ラ テ 手 ヲ 焚 二 筆 研 ィ 、 清 篇 0 0 0 0 真 ニ 漫 奥 ト 。 社 詩 ノ 老 去 テ 詩 篇 都 テ 漫 奥 、 一 一 一 本 作 一 通 史 一 一 。 仇 注 定 メ テ 除

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文化情報学部紀要,第6巻.2006年 O 四 四 j 一 一 一 一 一 O ) には見い出せない。南宋の楊万里(字は廷秀、号は 誠 斎 。 一 一 一 一 七

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一 二 O 六)のそれは、韻字ではないが、﹁晩に側渓山下 を過る﹂詩(﹃誠斎集﹄巻二十六﹁江西道院集﹂)に

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路 詩 篇 調 停 て 漫 奥 、 側渓端的相結けず﹂と見える。南宋の美嘉章(名は襲、号は白石道人。 一 一 五 五

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一 一 一 一 一 一 ) の ﹁ 賂 熔 詞 ﹂ は ﹁ 丙 辰 の 歳 、 張 功 父 と 張 逢 可 の 堂 に会飲す。屋壁の問、燃熔の声有るを聞く﹂云々の自序を付した﹁斉天 楽﹂詞(﹃白石道人歌曲﹄巻二一)のこと。段復之は、金の段克巳(字は復 之、号は遜斎。一一九六

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一一一五四)のこと。そのつ漁家倣﹂詞六首其 五に見える(﹃遜斎楽府﹄)。また楊廉夫は、元末明初の楊維績(字は廉 夫 、 号 は 鉄 山 屋 。 二 一 九 六

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一 三 七 O ) 。その﹁漫興﹂詩七言は、﹃鉄崖楽 府﹄巻十に収む。呉復(字は見之)には、﹃登喜悦稿﹄があるが、未見。 なお、先に挙げた﹁韻府群玉の後に害す﹂とほぼ同じ一文が朱葬尊の ﹃静志堂詩話﹄巻二、張孟兼の条にも見え、伊勢山田の東夢亭(名は菜、 字は伯傾。一七九六

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一八四九)の﹃鐙雨亭随筆﹄巻下(﹃日本詩話叢 書﹄第五巻)には、それを挙げる。 (注目)ちなみに、張遠﹃会秤﹄(巻九)に﹁前の四匂一意﹂と。宇都宮遜庵の 詳 説 に 挙 げ る 。 (注目)訳注稿日、四﹁曲江﹂二首其一。 ︿漫﹀は、法漫である。︿深く愁ふる莫かれ﹀は、︿花鳥﹀の側から 説き、もう二度と畏れるに足りないことを一百うのである。二句は、 ︿老﹀いてより︿詩興﹀の振るわないことを嘆じ、︿海勢﹀の名状し がたいことから、自ら才能の衰退が甚だしいのを恥じているのであ る。︿花鳥﹀の匂は、︿漫興﹀を引き伸ばし、かつ︿人を驚かす﹀と 対応反映している。けだし、そのかみは︿佳句﹀が︿人を驚か﹀し たばかりでなく、事物を形容するのに精鍛微細にその形状と精神と を写し出し、︿花鳥﹀もやはり︿秋山﹀えたものであったが、今ではな んと老衰し、才能力量ふたつながらとんと衰え、思いつくまま口か ら出まかせで、平々凡々と何の奇もなく、ただ︿揮で漫興﹀なるの みだ。もはや︿人を驚かす﹀のに留意することはない。きすれば万 物のありさまを鎮刻して、我が筆下から逃れ得ないようにさせるな ど、どうしてこれを再びできようか。ひどいものだ私の老衰ぶりは、 というのである。︿漫興﹀は、一に︿漫奥﹀に作る。漫然と気ままに 付与することを言う。蘇東坂・黄山谷・楊誠斎がこの語を襲用し、 ともに押韻の箇所に用いている。以上の四勾は意味が一貫してお り、﹁一片花飛、びて春を減却す﹂と同格。五六勾で噴事を述べるため に、まずこの嘆きがあるのだ。 新 ニ 漆 一 J 水 櫨 イ 供 レ 垂 川 一 一 釣 ヲ 故 ト 著 一 J 擢 イ 替 レ 入 に 舟 二 ※ 権 : ・ テ ス リ 浮 桂 : ・ イ カ ダ ( 注 げ ) ( 注 国 ) 櫨 ハ 柵 也 。 於 二 水 際 一 一 一 矯 レ 之 ヲ 、 故 二 日 二 水 艦 斗 。 公 居 枕 凶 江 一 一 、 岸 上 矯 一 J 欄 障 寸 以 防 一 一 人 ノ 墜 堕 寸 ン コ ト ヲ o 蓋 奮 ト 有 レ 所 レ 設 、 今 国 一 J 水大ニ溢士、又 別 ニ 設 レ 之 ヲ o 故 ニ 日 一 一 新 ニ 添 ↓ 。 川 上 之 人 、 因 二 雨 水 様 士 、 垂 レ 釣 ヲ 多 麓二鰻鱒鰻魚 40 此句蓋其事也。是誠二直匝タル小事、亦惟漫興而己。 故 ハ 在 任 断 。 著 ハ 猶 レ 繋 ノ 也 o 平 常 諜 ン メ 備 、 故 ニ

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一 故 著 イ ト o 桂ハ枯木 ( 注 却 ) ( 注 幻 ) 也。替ハ代也。入ハ謂ニ翠げ家ヲ載古之ヲ o 公 貧 シ テ 不 レ 能 レ 備 は } 舟 ヲ 、 設 げ 樟 ヲ 以 代 レ 之 ニ O 若 宅 或 ハ 漂 浸 セ ハ 、 欲 二 一 来 テ 以 避 立 難 ヲ 也 。 浮 木 載 い 家 ヲ 危 ン 実 。 亦 不 レ 得 レ 己 ヲ 之 計 耳 。 其 窮 如 レ 是 ノ 、 那 ソ 得 ン 才 思 不 可 ヲ 落 、 崎 山 。 (注げ)輯註(巻八)に﹁公、草堂に水艦有り。蓋し水際に之を為る L と。宇 都宮遜庵の増広本にも挙げる。 ( 注 四 国 ) ﹃ 旧 唐 主 回 ﹄ 社 甫 伝 に 寸 ( 社 ) 甫 、 成 都 の 涜 花 里 に 子 い て 、 竹 を 種 ゑ 樹 を 植ゑ、鹿を結び江に枕む L と 。 ﹃ 渓 童 日 ﹄ 厳 助 伝 に ﹁ 北 枕 大 江 ﹂ と あ り 、 唐 ・ 顔師古の注に寸枕は、臨なり﹂と。 (注ゆ)部侍﹃集解﹄に見える。 (注初)部宝﹃集註﹄及び醇益﹃分類﹄に見える。﹃分類﹄は宇都宮遜庵の増広 本 に 、 ﹃ 集 註 ﹄ は 詳 説 に 挙 げ る 。 (注幻)郁宝﹃集註﹄及ぴ辞益

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類﹄に見える。﹃分類﹄は宇都宮遜庵の増広 本 に 、 ﹃ 集 註 ﹄ は 詳 説 に 挙 げ る 。 ︿櫨﹀は、柵である。水際にこれを作るので、︿水艦﹀という。公の 住まいは江に臨んでおり、岸上に手すりを作って人が落ちるのを防

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三宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(七) いだ。けだし、もとから設けであったのだろうが、今、︿水﹀が大い に 溢 れ て き た の で 、 さ ら に 別 に 設 け る の で あ る 。 そ れ ゆ え ︿ 新 た に 添ふ﹀という。川べりに住む人は、雨で増水すると、︿釣を垂れ﹀て う な ぎ な ま ず 多 く 鰻 鱒 や 鰻 魚 を 獲 る 。 こ の 句 は 、 け だ し そ の こ と で あ ろ う 。 こ れ はまことにちまちまとした些事で、やはりただ︿漫興﹀なるのみだ。 ︿故﹀は、旧である。︿著﹀は、繋とほぼ同じ。常日頃あらかじめ備 えているので、︿故と著く﹀という。︿桂﹀は、枯木である。︿替﹀は、 代である。︿入る﹀は、家族を引き連れて載せること。公は貧しくて 舟を備えることができず、︿樟﹀を用意して代用した。もし自宅が流 さ れ 水 没 す る よ う な は め に な れ ば 、 そ れ に 乗 っ て 避 難 し よ う と す る の で あ る 。 浮 木 に 家 族 を 載 せ る の は 危 険 だ が 、 や は り や む を 得 な い 措 置 な の だ 。 そ の 困 窮 ぶ り は か か る 具 合 で あ っ て 、 ど う し て 才 能 や 詩思が衰えずにいられょうか、ああ痛ましいことだ。 ( 注 辺 ) 安ソ得存思如コ陶謝イ手日令一 J 渠 ヲ ン テ 遮 作 ↓ 興 一 一 間 ク 遊 ン ( 注 お ) 陶謝ハ陶潜謝跳。渠ハ彼也。公値三江水如コニ海勢イ、不レ可レ無山アル雄 篇 驚 M 人ヲ者一。濁奈セン年老才退、柳旦短遮スル而己。安ソ得円才思雄 贈 如 一 陶 謝 り 之 輩 目 、 令 一 戸 其 ヲ シ テ 封 ヱ 此 壮 観 一 一 、 則 豪 興 勃 護 ン 一 ァ 、 必 逗 一 J 大 ( 注 包 ) ( 注 お ) ( 注 お ) 手筆ヲ、津酒正洋、亦如一得勢↓。不二惟驚一レ人ヲ、殆泣一 J ン 鬼 神 三 矢 。 我 輿 レ 之 同 遊 テ 、 共 一 一 一 セ ハ 其 愉 快 て 矯 山 ト 幾 何 如 ソ 哉 。 (注辺)︿安﹀字、銭注(巻十一)及び輯註(巻八)は︿鳶﹀に作る。輯註は、 宇 都 宮 、 遜 庵 の 増 広 本 に 引 く 。 ( 注 お ) こ こ は 、 陶 溶 ( 一 二 六 五

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四 二 七 ) と 謝 霊 運 ( 三 八 五

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四 三 二 ) 。 杜 甫 が この二人を並称した例として、他に寸夜、許十損が詩を請するを聴き愛 して作る有り﹂詩(詳註巻一二)に﹁陶謝校梧せず、風騒共に推激す﹂と いう。枝梧は、逆らう意。風騒は﹃詩経﹄の﹁国風﹂とよ謹肘﹄の﹁離 騒 ﹂ 。 ま た ﹁ 張 十 二 山 人 彪 に 寄 す 三 十 韻 L 詩(詳註巻入)に﹁謝氏山を尋 ぬる履、陶公酒を漉する巾﹂、寸石横閤﹂詩(詳註巻九)に﹁優務たり謝 康楽、放浪す陶淵明 L と 見 え る 。 このうち、最初に挙げた﹁許十損が詩を諦するを聴く﹂詩は、吉川幸 次郎﹃杜帯詩注﹄第一冊に、これを載せ、﹁なお謝霊還は当時すでに大家 として公認されていたが、府淵明は必ずしもそうでない。しかるに社は 陶に傾倒すること、のちいくつかの詩でも一不される。また北宋の旧注 が 、 ︹ 謝 ︺ を も っ て 、 謝 智 正 運 の み な ら ず 、 そ の 従 弟 謝 恵 連 、 ま た 斉 の 謝 眺 、 あわせていわゆる︿三謝﹀とするのは、宋人の意識であっても、杜の意 識ではあるまい﹂と説く。なお、明人の注、部停﹃集解﹄には﹁玄障・ 霊運・恵連の輩﹂と注し、辞益﹃分類﹄も同様。玄障は、謝跳(四六四

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四 九 九 ) の 字 。 ちなみに、社甫を始め盛唐の詩人による六朝の詩人評価について論じ たものに、伊藤正文﹁盛唐の詩人と前代の詩人│盛唐における文学論の 一 面 │ ﹂ ( ﹁ 中 国 文 学 報 L 第八冊、第十冊。後に﹃建安詩人とその伝統﹄ 収録。創文社、二 OO 二年)がある。特に陶淵明の評価や受容に関して は 、 李 剣 鋒 ﹃ 元 前 陶 淵 明 接 受 史 ﹄ ( 斉 魯 童 日 社 、 二 O O 二年)及び劉中文 ﹃ 唐 代 陶 淵 明 接 受 研 究 ﹄ ( 中 国 社 会 科 学 出 版 社 、 二 O O 六 年 ) が あ り 、 呉 懐 東 ﹃ 社 甫 与 六 朝 詩 歌 研 究 ﹄ ( 安 徽 教 育 出 版 社 、 二 OO 二 年 ) の 第 四 章 第 二節﹁唐人陶謝弁称的詩学意義﹂には、初唐の王勃や盛唐の李白が陶淵 明と謝霊遂とを併称し並べて論ずる例を挙げる。その他、社甫の陶淵明 理解については、安東俊六﹃杜甫研究﹄(風間書房、一九九六年)の第三 章第七・入節に、これを論じて、それが不徹底であったとする。 ( 注 M ) 元 来 は 、 詔 勅 そ の 他 の 国 家 の 重 要 文 書 を い う 。 例 え ば 、 ﹃ 耳 白 書 ﹄ 主 殉 伝 れ 九 ス 匂 品 。 に ﹁ ( 王 ) 均 、 人 の 大 筆 の 橡 の 如 き を 以 て 之 に 与 ふ る を 夢 む 。 既 に 覚 め 、 人に諮りて云ふ、此れ当に大手筆の事有らん L と。ここでは、すぐれた 詩 文 の 才 を い う 。 ( 注 お ) ﹃ 新 唐 室 田 ﹄ 社 甫 伝 賛 に ﹁ ( 社 ) 甫 に 至 っ て 、 海 泌 注 荘 、 千 葉 万 状 、 古 今 を兼ねて之を有す L と。海溺は、すべてを包みこむさま。双声語。迂廷 は、広々としたさま。注洋と同じ。畳韻語。 (注お)訳注稿口、附﹁鄭十八由民の台川可戸参軍に夜せらるるを送る﹂詩の詳 解に﹁真に詩家の聖人、以て鬼神を泣かしむ可し L と。その(注 m m ) 参 n 口 竹 O ︿陶謝﹀は、陶潜・謝眺。︿渠﹀は、彼である。公は︿江﹀の︿水﹀ が ︿ 海 勢 の 如 き に 値 ﹀ い 、 雄 篇 の ︿ 人 を 驚 か す ﹀ 作 が な く て は な ら ぬはずなのに、いかんせん年老い才衰え、︿酬明か﹀まずは︿短述﹀す

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るのみだ。どうにかして才思の雄大で豊婚なる︿陶謝﹀のごとき輩 を得て、この壮大な眺めに向き合わせれば、豪放な興趣がむらむら と起こり、必ずや大手筆を遅しくして、すべてを包みこみ広々と際 限なくし、やはり︿海勢﹀のごとく、ただ︿人を驚かす﹀のみなら ず、ほとんど鬼神を泣かさんばかりになるだろう。自分はかかる 人々と︿同遊﹀し、その愉快さを共にしたなら、楽しさはいかばか り で あ ろ う か 。 文化情報学部紀要,第 6巻, 2006年

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O ( 注 l ) ﹃ 唐 詩 貰 珠 ﹄ ( 巻 十 六 、 雅 事 酬 贈 一 ) に J 二 は 、 其 の 放 浪 の 意 を 一 言 ふ 。 三四は直ちに之を諏す失﹂と。 ( 注 2 ) ﹁ 鵜 鵡 の 賦 L は、﹃文選﹄巻十三に載せる。﹃集千家注﹄(巻八)に寸後 あ な ど 漢の禰衡、字は正平。気、剛倣を尚ぶ。好んで時を矯し物を慢る。歯回 操を見て数しば恐一言有り。操、念を懐く。然れども其の才名を以て之 を殺すことを欲せず。送って劉表に与ふ。表、之を重んず。衡、復た毎 に表を慢る。表、容るる能はざるを恥ぢて、江夏の太守黄祖が性急なる 、 え さ を以て、故に衡を送って之を与ふ。祖も亦た善く待す。祖が長子射、章 陵の太守為り、尤も衡に善し。射、時に大いに賓客を会す。人の鶏鵡 を献ずる者有り、射、后を衡に挙げて日く、願はくは先生之を賦して 佳賓を娯しませよと。衡、筆を撹って文を作る、点を加ふること無し。 辞采甚だ麗なり。後、賛祖大いに賓客を会す。衡が言、遜頗ならず、立見 に之を殺す﹂と。宇都宮、遜庵の両著にも挙げる。なお、橋衡の伝は、﹃後 漢 孟 同 ﹄ 文 苑 伝 に 見 え る 。 ちなみに、杜甫が自らを欄衡に比した例として、 ・ 使 者 顔 闘 を 求 む る も 、 諸 公 禰 衡 を 一 献 ふ (寸敬んで鄭諌議に鰭る十韻﹂詩、詳註巻二) ・径ちに劉表に依らんと欲す、遼た疑ふ禰衡を厭はんかと (﹁郭中丞が太僕卿を兼ね、際右節度使に充てらるるを送り奉る﹂ 詩、詳詮巻五) と見え、﹁秦州にて勅目を見るに、古昨三珠は司議郎を授けられ、畢四曜は 監察に除せらる。遠く遷官を喜び、兼ねて索居を述ぶ。凡そ三十韻﹂詩 (詳註巻八)に寸瀧俗鶏鵡を軽んず、原情鵠鵠に類す﹂というのも、 ﹁鶏鵡の賦﹂が禰衡の作であることを踏まえて、自らを比している。 ( 注 3 ) ﹃旧唐童亘社甫伝。訳注稿村、﹁杜文貞公伝 L 参照。なお、杜甫と厳武 との関係をめぐる説話について考察したものに、松原朗﹁﹃社甫厳武反 日説話﹄の構造﹂(﹁中国文学研究 L 第三十一期、二 OO 五年)及び﹁杜 甫厳武反自説話の消長 L ( ﹃松浦友久博士追悼記念中国古典文学論集﹄収 録。研文出版、二 OO 六 年 ) が あ る 。 ( 注 4 ) ﹃ 渓 主 問 ﹄ 俊 幸 伝 に ﹁ 孝 恵 の 時 、 郎 ・ 侍 中 は 皆 駿 曲 械 を 冠 し 、 貝 帯 し 、 脂 粉 を付し﹂云々とあり、顔師古の注に﹁駿蟻の毛羽を以て冠を飾る L と 。

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二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(七) 宇都宮遜庵の両箸にも挙げる。駿蟻は、山難に似て小さな鶏冠がある 鳥 。 錦 難 。 ( 注 5 ) 世 俗 の 外 。 例 え ば 、 ﹃ 世 説 新 畳 間 ﹄ 任 誕 篇 に 、 表 棺 の 一 言 と し て 寸 院 ( 籍 ) は方外の人、故に礼制を崇ばず。我が輩は俗中の人、故に儀軌を以て自 ら 居 る ﹂ と 。 ( 注 6 ) ﹃唐詩貫珠﹄に﹁五六は其の幽事を言ふ﹂と。 ( 注 7 ) ﹃世説新語﹄排調篇に寸都降、七月七日、日中に出て仰臥す。人其の故 を問ふ。答へて日く、我れ書を隠す﹂と。宇都宮遜庵の雨箸にも挙げる。 ( 注 8 ) ﹃集千家註﹄(巻八)に﹁晋の葛洪、神仙養導の法を好み、自ら抱朴子 と 口 す す 。 肘 後 要 急 方 四 巻 を 著 す ﹂ と 。 宇 都 宮 、 遜 庵 の 両 著 に 挙 げ る 。 ( 注 9 ) もっとも、鈴木虎雄﹃杜少陵詩集﹄(巻十)は、結びの二句を﹁此より 二句は武自らいふ﹂と解し、後に見える﹁使君灘﹂については﹁涜花渓 の近傍にかかる名の灘ありしならんといふしとして、厳武が﹁自分は興 がおこったならば必ず駿馬をとばしてすぐおまへのそばの使君灘まで ゆかうとおもうてゐる﹂意だと説く。この解釈は、詳註に明・王嗣突の ﹃杜臆﹄を引いて﹁結語を以て公の往きて見るを招くと為すは、葉し使 君の三字に泥む耳。此の詩、題を草堂に寄する為に作る、白ら応に草堂 に関合すべし。堂は江干に在り、故に使君灘を借用す﹂というのに拠る。 (注叩)﹃唐詩貫珠﹄に﹁按ずるに杜に﹃酔うて馬より墜つるを為す、諸公酒を 携へて相看る﹄有り、長歌して云ふ、︿馬に騎りて忽ち憶ふ少年の時、踏 を散じて訴一落す開催唐の石。白帝城門水雲の外、身を低くすれば直下八千 尺﹀と。又た︿実に少く銀鞍険に傍ひて行くを﹀等の作有り、則ち此の 老が馬に騎るを愛する、亦た共に知る所にして詩も亦た隅意なり﹂と。 ﹁ 酔 う て L 云々の詩は、詳註巻十人。﹁実に少く L 云 々 の 句 は 、 ﹁ 展 評 事 弟相迎ふるを許す、到らず。応に老夫泥雨を見て出づるを伯れ、必ず佳 点 的 内 、 金 手 期を慾るを慮るなるべし。筆を走らせて戯れに題す﹂詩(詳註巻十八) の 結 句 。 (注日)﹃集千家註﹄に﹁水経に魚復県に羊腸虎瞥灘有り、楊亮、益州と為ると き、此に至って舟覆る。今に至って名づけて使君灘と為す﹂と。宇都宮 淑一庵の両著にもこれを引く。水経は、﹃水経注﹄のこと。その巻三十三、 江水の条に見えるのを節録する。 (注ロ)﹃唐詩貫珠﹄に﹁通篇、厳詩に杜の疎阪を謂ふに酬答す。而して解潮の すべか 意有り、或いは承認し、或いは自ら解き、或いは暗に其の意に答ふ。須 らく原詩を読みて、乃ち作者の情を知るべし﹂と。 み 丈 り ま し 厳武の﹁杜二が錦江の野亭に寄題す L 詩にいう、﹁漫に江頭に向て 釣竿を把る、沙草に憾眠して風捕を愛す。侍ること莫かれ善く鵜鵡 もち の賦を題するを、何ぞ須ひん駿蟻冠を戴せざるを。腹中の書籍幽時 ベ C 台 り に曜し、肘後の医方静処に看ん。興発して会たま能く駿馬に騎らば、 終に須らく直ちに使君灘に到るべし﹂と。一一一句は、そのぶらぶら し て の ん び り 過 ご す 様 子 を 一 一 言 う 。 コ 一 四 句 は 、 直 裁 に こ れ を 調 す る 。 そ し ︿鶏鵡の賦﹀は、禰衡の故事を借り、その狂倣ぶりを刺っている。 ﹃唐書﹄本伝に﹁厳武は社甫と代々のよしみがあり、待遇ぶりはこ とのほか手厚かった。社甫は勝手気ままで狭量であった。かつて 酔っぱらって厳武の寝台に上がり込み、厳武を脱みすえて、厳挺之 どのにまさかかような息子がいようとは、といった。厳武は気短か で乱暴者であったが、逆らわなかった﹂と。けだし、この類の話を 指すのだ。︿駿蟻冠﹀は、駿蟻の毛羽で冠を飾ったもの。漢代、侍中 の冠。公はかつて近侍の臣であったので、これを用いた。公は態度 がでかく、厳武がその宅を訪れた際、時には冠をかぶらぬまま会う ことがあった。これも本伝に見える。それで詩に言及している。両 句は、その文章が︿人を驚かす﹀すぐれたものだとしても、才を侍 んで狂倣であるのはよくないし、たとえ世俗の外に遊ぼうとも、ど うして冠や頭巾をかぶらずに人に会えようか、という意。これも親 友間で冗談半分にふざけてからかっているのである。五六句は、そ の︿幽事﹀を言い、かねて博学を称賛している。︿腹中書を一曜す﹀の は、都隆の故事を用いる。︿肘後方﹀は、葛洪が著わした医学書。結 句は、気が向いて出かけることがあれば、どうかまた訪ねて来てく れと言、っ。公が馬に騎るのが大好きであったことは、しばしば公の 詩に見える。その︿能く駿馬に騎る﹀のを称するのは、老いてなお 普く叡するのを讃えていると同時に、明意を寓しているのである。

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文化情報学部紀要,第 6巻, 2006年 ︿使君灘﹀は、萄の魚腹県にある。楊亮が益州の刺史となったとき、 ここを通過して舟が転覆したことから、俗に称して︿使君瀧﹀とい ゃ く し よ う。借りて節度使の︿城府﹀をいう。けだし江辺に近いためであろ う。公の詩は一首全体が厳武の詩に酬答し、酬明りを解いたり、その まま認めたり、暗にその意に答えたりしている。まずもとの詩を味 わってみてこそ、唱和した詩の趣旨が分かるのであって、それゆえ 具体的に挙げて詳しく説いた。 拾遺曾テ奏ス数行ノ書欄性従来水竹ノ居 ※瀬性:・ブシヤウモノ ( 注 目 ) ( 注 M ) 奏 以 ハ 書 ヲ 指 一 一 一 上 げ 疏 ヲ 救 一 三 ト ヲ 房 瑠 ↓ 。 水 竹 ノ 居 ハ 帥 涜 花 ノ 草 堂 也 。 一 言 余 ( 注 目 ) ( 注 凶 ) 難 三 曾 テ 居 二 親 近 ノ 言 路 一 一 一 、 然 ト モ 賓 ニ 性 瀬 、 考 二 葉 ス 水 竹 之 境 一 一 、 分 之 所 レ 稽 フ 也 。 拾 遺 ハ 貰 ニ 矯 一 弘 前 華 之 官 一 。 此 詩 聞 い 口 ヲ 便 自 稽 コ 拾 遺 ↓ 、 冗 倣 之 気 如 レ 見 ヵ 、 且 見 三 共 一 一 矯 コ ト ヲ 奮 闘 老 40 曾テ奏コ敷行ノ書て亦見レ ( 注 目 ) 不足文一一彊禦イ。然トモ次乃接シ得テ闘韓、遜抑挟過ンテ、不レ露け精 ( ← 在 日 ) 一 柳 イ 。 輿 -一 王 右 丞 温 泉 寓 目 ノ 起 聯 一 同 一 手 段 。 ( 注 目 ) 顧 由 民 ﹃ 註 解 ﹄ に ﹁ 按 ず る に 公 、 左 拾 遺 と 為 り 、 上 疏 し て 一 房 璃 を 救 ふ 。 此れ云ふ所の数行の童日を奏するなり﹂と。宇都宮遜庵の両著にも挙げ る 。 ち な み に 、 訳 注 稿 ハ 門 、 ﹁ 杜 文 貞 公 伝 ﹂ に ﹁ 一 房 培 、 陳 議 斜 の 敗 を 以 て 相 た て ま つ を罷めらる。公、指と旧交、疏を上って璃才有り宜しく廃免すべから ざ る こ と を 論 ず ﹂ と 。 ( 注 M H ) 都 宝 ﹃ 集 註 ﹄ ( 巻 二 十 コ つ 簡 寄 類 ) 及 び 醇 益 ﹃ 分 類 ﹄ ( 巻 二 、 酬 寄 ) に ﹁ 水 竹 の 居 は 、 即 ち 草 堂 な り ﹂ と 。 ﹃ 分 類 ﹄ は 宇 都 宮 遜 庵 の 増 広 本 に ﹃ 集 註 ﹄ は 詳 説 に 挙 げ る 。 ( 注 目 ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に ﹁ 起 、 一 言 ふ こ こ ろ は 余 曾 て 親 切 の 一 言 路 に 在 り と 難 も 、 然 れ ど も 実 に 性 慨 に し て 水 竹 に 居 る を 好 む と ﹂ と 。 言 路 は 、 諌 官 の 地 位 。 こ こ で は 、 左 拾 遣 を 指 す 。 な ( 注 目 ) ﹃ 詩 経 ﹄ 衛 風 ・ 考 般 市 に ﹁ 般 市 を 考 し て 澗 に 在 り 、 碩 人 之 れ 覚 し ﹂ と あ り 、 朱 子 の 集 伝 に ﹁ 考 は 、 成 な り 。 般 市 は 、 般 市 桓 の 意 。 其 の 隠 処 の 室 を 成 す を 一 言 ふ な り ﹂ と 。 (注口)閣老については、訳注稿回、似﹁至日興を遣る。北省の旧閣老・両院 の故人に奉寄す﹂詩二首其一の詳解に﹁蓋し中書・門下の官人互ひに閣 老 を 以 て 相 呼 ぶ な り ﹂ 、 ﹁ 旧 閣 老 は 厳 武 ・ 買 至 の 輩 を 指 す 。 時 に 武 は 給 事 中 為 り 、 門 下 省 に 属 す ﹂ と い う の を 参 照 。 ( 注 時 ) ﹃ 詩 経 ﹄ 大 雅 ・ 蒸 民 に ﹁ 持 寡 を 侮 ら ず 、 彊 禦 を 畏 れ ず ﹂ と 。 彊 禦 は 、 権 勢 を 笠 に き る 者 。 ( 注 川 口 ) 王 維 の 七 律 ﹁ 太 常 章 、 王 簿 五 郎 の 温 泉 寓 目 に 和 す ﹂ 詩 ( ﹃ 唐 詩 選 ﹄ 巻 五 ) 0 訳注稿側、日﹁曲江雨に対す﹂詩の(注 5 ) に 挙 げ る の を 参 照 。 ︿書﹀を︿奏﹀すは、疏を上って一房落を救おうとしたことを指す。 ︿水竹の居﹀は、すなわち涜花の草堂である。ここの意味は、私は う ま れ っ き ぷ し ょ う かつて天子に親近する諌官の地位にいたものの、実に︿性﹀︿慨﹀ で、︿水竹﹀の境に隠遁しており、分際にかなったことであると言う のである。︿拾遺﹀は、実に清華の官である。この詩は開口一番、す ぐに白ら︿拾遺﹀と称しており、倣岸の気象がまるで目に見えるよ うで、それに厳武とともに元は閣老の身分であったことを表わして いる。︿曾て数行の書を奏﹀したのも、やはり権勢を畏れないのを表 わしている。されど次句になると続き具合が円転とし、謙遜抑制し やり過ごして、心意気を露わにしない。王右丞の﹁温泉寓目﹂詩の 起聯と同一手段である。 奉引濫リニ騎シ沙苑ノ馬幽栖員二釣ル錦江ノ魚 ※奉引:・オサキノリ滋:カタジケナクモ ( 注 却 ) ( 出 在 乱 ) ( 注 幻 ) 奉引ハ導レ駕ヲ也。後漢割聖公俸二本ナ松奉引馬驚ク o 濫ハ謙辞、猶レ ( 注 お ) 恭 ノ 也 。 沙 苑 ノ 馬 ハ 謂 一 一 御 厩 之 駿 寸 。 沙 苑 ハ 在 二 同 州 帯 域 牒 ノ 南 一 一 o 東西 ( 注 目 ) 八十里南北三十里。唐置ヨ沙苑監寸牧同馬ヲ。明皇命一 J 王 毛 仲 一 一 ( 注 お ) 監 凶 シ ム 牧 ヲ o 至二四十鈴高匹之盛サルニ O 公有二沙苑行一、具ニ記コ其 事 40 沙 苑 ヨ リ 所 レ 進 必 是 駿 馬 、 答 二 巌 詩 ノ 第 七 匂 一 一 o 員 二 釣 ハ 答 ニ 最 詩 ノ 一 二 一 一 、 故 ニ 日 レ 異 ニ ト 、 猶 レ 云 レ 如 川 所 ω 聡也。上ノ句承二拾遺て下ノ匂 承 一 一 幽 棲 40 昔 騎 ヨ 沙 苑 ノ 駿 馬 一 一 一 矯 二 御 前 ノ 先 駆 一 、 今 ハ 則 垂 ニ 鈎 ン テ 錦 江 一 一 一 、 異 ニ 作 二 漁 夫 ↓ 実 。 此 雄 一 一 一 言 孫 寸 、 狭 山 ト モ 隠 然 掘 強 、 有 下 一 種 ( 注 お ) 不 ニ 肯 テ 倒 一 架 子 ノ 意 上 。

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二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(七) ( 注 却 ) 部 宝 ﹃ 集 註 ﹄ 及 び 醇 益 ﹃ 分 類 ﹄ に ﹁ 奉 引 は 、 駕 を 導 く な り ﹂ と o ﹃ 分 類 ﹄ は宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。なお、部博﹃集解﹄もっ奉引 L の 下 に ﹁ 導 駕 ﹂ と 注 す る 。 ( 注 幻 ) ﹃ 後 漢 童 百 ﹄ 劉 聖 公 伝 。 集 千 家 註 に 引 く 。 宇 都 宮 遜 庵 の 増 広 本 に 挙 げ る 。 (注沼)釈大典﹃詩語解﹄巻下に﹁字且宅、切ハ泰也 o 濫 ハ 切 濫 也 。 切 窃 也 。 窃 ハ 私 也 。 ( 中 略 ) 三 者 多 ク 為 一 一 謙 辞 一 ﹂ と 。 ( 注 お ) ﹃ 元 和 郡 県 図 志 ﹄ 巻 二 、 関 内 道 、 同 州 漏 刻 県 の 条 に ﹁ 沙 苑 、 一 名 沙 阜 。 県 南 十 二 里 に 在 り 。 東 西 八 十 里 、 南 北 三 十 里 ﹂ と 。 ( 注 M ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に 寸 沙 苑 は 、 同 州 に 在 り 。 玄 宗 、 王 毛 仲 に 命 じ て 馬 を 牧 せ し む 。 四 十 鈴 万 匹 の 盛 に 至 る ﹂ と 。 王 毛 仲 に つ い て は 、 ﹃ 旧 唐 童 日 ﹄ 巻 一 O 六 、 ﹃ 新 唐 童 日 ﹄ 巻 一 一 一 一 に 伝 が あ る。玄宗の先天二年(七二一)七月、輔国大将軍・左武衛大将軍・検校 内 外 関 厩 兼 知 監 牧 使 を 授 け ら れ ( 司 旧 ﹄ 玄 宗 本 紀 、 ﹃ 旧 ﹄ 伝 ) 、 ﹁ 初 め 監 烏 二 十 四 万 、 後 に 乃 ち 四 十 三 万 に 至 る ﹂ ( ﹃ 新 ﹄ 伝 ) と い う 。 ( 注 お ) 詳 註 巻 三 。 天 宝 十 三 載 ( 七 五 四 ) の 作 と す る 。 ( 注 お ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に ﹁ 詩 中 自 ら 拾 遺 と 称 し 、 又 た 奉 引 し て 御 馬 に 騎 す は 、 皆 一種肯へて架子を倒さざるの意有り﹂と。架子は、明清の口語で、でか い 態 度 、 強 気 の 姿 勢 。 詳 解 の 訓 点 、 ﹁ 有 下 一 種 不 一 一 一 肯 倒 二 架 子 一 意 上 ﹂ と す る 方 が よ い で あ ろ う 。 ︿奉引﹀は、車駕を先導することである。﹃後漢書﹄劉聖公伝に﹁李 かたじけ 松奉引して馬驚く﹂と。︿濫﹀は、謙辞。恭なうすとほぼ同じ。︿沙 苑の馬﹀は、御厩の駿馬のこと。︿沙苑﹀は、同州漏刻県の南にあり、 東西八十里、南北一二十里。唐代、沙苑監を置き馬を放牧させた。明 白玉(玄宗)は王毛仲に命じて牧場を管理させ、四十徐万匹という数 にまで繁殖した。公に﹁沙苑行﹂の作があり、つぶさにその事を記 している。︿沙苑﹀から進められるのは必ず駿馬で、厳武詩の第七句 に答えている。︿真に釣る﹀は、厳武詩の一一一旬に答えており、それ ゆえ︿真に﹀という。臨えられたとおりだというのと同じ。上勾は ︿拾遺﹀を承け、下句は︿幽棲﹀を承ける。昔は︿沙苑の馬﹀に︿騎﹀っ て御前の先駆となっていたが、今では釣糸を︿錦江﹀に垂れ、︿真に﹀ 一介の漁夫となってしまっている。これは、一言葉っきは謙遜してい るとはいえ、しかしどことなく鼻っ柱が強くて、あえてでかい態度 をくずさないという意がある。 謝 安 不 ω倦登臨ノ賞配籍罵ソ知ノ措法ノ疎ナルヲ 菅ノ乱封喜一一山水寸、揖げ妓ヲ遊賞ス O 以比日巌公風流、好一一遊覧之 ( 注 お ) 賞イ。蓄本賞作レ費ニ、太俗。且不レ倦レ費二、殊ニ不レ成レ語ヲ、不レ ( 注 お ) ( 注 鉛 ) 若 一 一 賞 ノ 字 雅 子 ン テ 且 妥 寸 ル ニ O 故ニ従ヨ輯註本 J一 正 M 之 ヲ O 桔康絶交書ニ、玩 嗣宗至性過レ人ニ、奥レ物無レ傷コト、唯歓レ酒ヲ過差耳。至下震一種法之 士 イ 所 げ 縄 サ 、 疾 同 ト 之 ヲ 如 子 雄 ノ O 幸 ニ 頼 一 一 一 大 将 軍 保 二 持 ス ル ヲ 之 イ 耳 。 上 匂 承ニ幽棲錦江て言下巌公喜レ遊ヲ、風流忘レ勢ヲ、嘗テ既ニ柾ラ駕ヲ野 古 ア 一 一 、 翼 ク ハ 復 来 テ 遊 賞 此 ン コ ト ヲ O 下句承二拾遺奉引寸、謝コ狂倣失龍之 過 ↓ 。 喜 一 口 非 一 一 一 故 ? フ ニ 作 口 一 一 疎 放 イ 、 況 ャ 敢 テ 傍 げ 能 川 ル 一 一 文 ヲ 而 騒 ン ヤ O 亦 唯 持 ( 注 担 ) 軍礎教寛、故ニ泳り恩ニ来凶テ興ニ而不ニ自知一耳。遜一言、ンテ翼二其恕 ( 注 お ) 宥 イ 。 然 ト モ 罵 ソ 知 ン ノ 二 字 大 ニ 有 二 骨 片 丸 、 未 二 肯 テ 白 屈 ↓ 、 何 ソ 其 強 項 ナ ル ( 注 お ) 耶。胡捷亭一五、此線テ酬ニ巌詩ノ三四一一、亦従コシテ原題ノ野亭一而 来 ル O 然 、 γ テ 詩 意 中 有 一 一 徴 辞 一 。 蓋 言 遊 覧 ハ 風 雅 、 何 ソ 能 拘 一 J ン 於 櫨 法 一 一 、 ( 注 討 ) 不可然似コ花開ニ喝道シ、背げ山ニ起レ棲ヲ、一種ノ俗人一一耳。此意人 ( 注 お ) 未 二 看 出 寸 、 捜 亭 可 レ 謂 聴 光 透 コ ト 紙 背 一 一 尖 。 ( 注 幻 ) 謝 安 、 字 は 安 石 ( 三 一 一

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一 二 八 五 ) 0 肥水の戦いで前秦・存堅の軍を破 り、その南進を阻止するのに大功があった。重任される以前、会稽(漸 江 省 紹 興 市 ) に 寓 居 し 、 ﹁ 情 を 丘 都 世 に 放 っ と 難 も 、 然 れ ど も 務 賞 す る 毎 に 、 必 ず 妓 女 を 以 て 従 へ ﹂ た と い う 。 ﹃ 晋 童 日 ﹄ 巻 七 十 九 に 伝 が あ る 。 ( 注 お ) 部 侍 ﹃ 集 解 ﹄ を 指 す 。 な お 、 ﹃ 集 千 家 註 ﹄ も 同 様 。 ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に ﹁ 千 家 本 は 、 ︿ 賞 ﹀ を ︿ 費 ﹀ に 作 る 。 本 づ く 所 有 り と 難 も 、 然 れ ど も ︿ 費 ﹀ 字 、 俗 に 近 し 。 ︿ 賞 ﹀ 字 の 妥 な る に 若 か ず し と 。 ち な み に 、 鈴 木 虎 雄 ﹁ 杜 少 陵 詩集﹄は、詳註に従ってその本文を﹁費 L に 作 る が 、 ﹁ 費 の 字 は 不 倦 に 対 0 0 して接続よろしからぬ様なり、一本に賞に作れるあり、余は賞に従ふ、 賞は山水を賞愛することなり L と 注 す る 。 ( 注 m U ) 輯 註 ( 巻 九 ) は ︿ 費 ﹀ に 作 り 、 寸 一 に 賞 に 作 る L と。宇都宮遜庵の増広

参照

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   ︵大阪讐學會雑誌第十五巻第七號︶

注意: 操作の詳細は、 「BD マックス ユーザーズマニュ アル」 3) を参照してください。. 注意:

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SLCポンプによる注水 [津波AMG ③-2] MUWCによる注水 [津波AMG ③-1] D/DFPによる注水 [津波AMG ③-3]

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