宮沢賢治 「
農民芸術概論綱要」 について
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関
戸
嘉 光
SEKID0, Yoshimitsu
日 次
Ⅰ
賢治理解の鐘 としての<農民芸術>Ⅱ
その時代的背景 (1)社会的背景について (2) 文化的思想的背景について (3)室伏高信の 『文明の没落』 と 『土に還 る』 の影響についてⅡ
<農民芸術>の農民概念についてⅠ
賢 治理 解 の鍵 と しての<農 民芸 術 > 表題に掲げました 「農民芸術概論綱要」のほか に、「農民芸術概論」 と 「農民芸術の興隆」 と題 す る二つの資料が 残 っています1)。 こ の3資 料 は、稗貫農学校の校舎をか りて岩手県国民高等学 校が開設 された とき、賢治 もその 「農民芸術」の 講座を担当す ることにな り、そのために彼が準備 した講義の草案 とメモであ ります。「農民芸 術 概 論」は 「綱要」の項 目だけを列記 したにす ぎず、 「農民芸術の興隆」は 「綱要」のなかの1項につ いて講義のためにヨ 1)詳細なメモや参考文献など を付記 した もので、要す るに この3資料は 「農民 芸術概論綱要」一つで代表 させてよい と思 い ま す。 賢治の講義そのものは、講習を受けた生徒伊藤 清一の聴講筆記が残 っていますので、その概略を うかが うことができます2)。 賢治の講義の口述筆 記は、 もう一つ残 っています。羅須地 人 協 会 で 「地人芸術論」 と題 して1927年 2月に行われた講 義の要項を会員だった伊藤忠一が筆記 したもので す8)。
岩手県国民高等学校について一言 しておきまし ょう。筆記者伊藤清一の 「岩手国民高等学校 と官 沢賢治」4)に詳 しく紹介 されていますか ら、 それ を一読 して頂 きたいのですが、要点だけ話 します と、開校は1926年 (大正15) 1月∼ 3月、生徒数 は35名、全寮制で県下の町村か ら推薦された有為 の農村青年たち、範をデンマークの国民高等学校 に とり、農村振興の中堅 となるべ き人材の養成を 目的 とす るものでした (デ ンマークはデンマーク 農法やデンマーク体操で有名な独特の小農 自作主 義の農業国です。内村鑑三の 「デ ソマ ル ク国 の 話」は有名です)5)。その指導精神は、 デ ンマ ー クとはちが って、正に時局に順応 し国策に追従す る皇国精神で、寛克彦 (神がか り的憲法学者)辛 加藤完治 (内原訓練所 ・満蒙開拓義勇 軍 の 指 導 者) らをその精神的主柱 とす るもので した。戦時 下に全国的に普及 したあの 「やまと は た ら き」 (皇国体操)が既に この学校で行われていたので す。賢治は、そのような教育方針に別に異和感は 持たなかった ようです。 この学校の教育指導の実 際に当たったのは県社会教育主事高野某ですが、 前掲伊藤清一によります と、 この人は 「加藤完治 の薫陶を受け られた直系 といわれ る方で、宮沢賢 治 とは特に親 しかった ようであ ります」。国 民 高 等学校は この年の一期だけで幕を閉 じます。翌年 か らは、軍事教練に重点をおいた 「青年訓練所」 に とってかわ られますO さて、 まず 「農民芸術概論綱要」などのこの3 第の本文についてですが、前掲の 『校本宮沢賢治 全集』の編者は、 「三簾 とも、 昭和20年 8月戦災 で焼失 して現存 しない」 といっています。では何 を底本 としたのでしょうか。編者は 「昭和42年筑 摩書房版 『全集』第12巻を底本 とした」 といって いますが、その昭和42年版は何に よったのでしょ うか。(その第 12巻をみればわかるか も知れ ませ - 64んが、いまや簡単に手に入 りそ うもあ りません. 誰かお手許にお持ちの方に教えて頂 きたい と思い ます)0『校本宮沢賢治全集』の編者は、たて前 と して自筆稿に拠 る、それが無い場合は自筆稿にも とづいた ことの確実な印刷物に拠 る、 といってい ます。昭和42年版が 自筆稿にもとづいた ものでな い ことは明らかな事実ですか ら、それが底本 とし て使用 した印刷物があった筈で、前掲校本全集第 12巻上の編者はそれを明記 しておいて ほ しか っ た、それが編集校訂者の良心 とい うものではない で しょうか。 もっとも、編者は 「焼失以前に刊行 された十字屋版全集の第六巻をも参照 し」た とい って、十字屋版の単純な誤植を二つあ げ て い ま す。そのはかは、十字屋版の 「トロッキー」が校 本版 では 「トロッキー」 とされ、 「もつ と 明るく 生 き生 きと 生活をす る道を見付けたい」の1字 アキが校本版ではアケてない ことぐらいです (十 字屋版では漢字は正字体、促音物音は半字に しな い、反復字には々や ゝを用いない原則ですが、校 本版では新字体、促音物音には半字、反復の々や ゝは用いるとい う原則です。 この相違は ここでは 問題にす る必要はないで しょう)。たった こ れ だ けの相違で、十字屋版は参照に とどめ られた とす れば、他にもっと倍額できる印刷物があった とい うことにな ります。それが何か、ぜひ知 りたい と 思います。校本全集の校訂上の信頼にかかわ るこ とでしょうか ら。 戦後 しば らくして、宮沢賢治全集が新 しく筑摩 書房か ら出版 され るとい う噂をききました。戦前 戦中の全集は、物資 も人手 も根 こそぎ軍 に と ら れ、かつ軍事 目的に直結 しない出版は 許 さ れ な い、 とい う苛烈な状況の下で、辛 うじてそれに耐 えて刊行を敢行 したものでした。原稿の探索調査 が不十分なのも、誤植が多いのも、やむをえない ことで した。 しか し不完全な全集 とい う不満は億 りつづけていました。 ですか ら、筑摩か ら新 しい全集が出る、 これは 正に朗報で した。出版社側でも、 これ までの全集 はひ どい もので、賢治の真の姿に接するには程遠 い、今度の新 しい全集によって初めてそれが可能 になる、 とい うふれ こみで した。大いに期待 して いました。1956年4月∼57年2月全11巻の 『宮沢 賢治全集』 としてそれは公刊されました。 しか し がっか りしました。 これまたひ どいものだったの です。テキス トクリティークの過程についての説 明は全 くない、語句の意義についての註釈が とこ ろどころ付けてあるが、編者の無知を曝露す るだ けのもの、 といった代物で、がっか りと同時に腹 が立ちました。その後10年たって、 また同 じ出版 社か ら今度は12巻の 『富沢賢治全集』が刊行 され ましたが、私は、 またかの思いで手に とることも 致 しませんで した (校本全集が<農民芸術>関係 の3篇の底本 とした ものです)。そ して更に10年 ほ どして 『校本宮沢賢治全集』15冊が出版 された のです。 これが現在 もっとも信頼できるテキス ト とされています。その通 りですが、 もちろん全然 欠陥がないわけではあ りません。編者の主観で歪 め られた り除かれた りした部分があ ります。いま 問題に している3篇だけに限っていえば、編者は 「賢治生前には これを秘 して発表せず」 といって いますが、「秘 して」は編者の単なる主観的 推 察 で しょう。講義のためのメモの如 きものは、 もと もと発表す る意図のないもので、わ ざわ ざ 「秘す る」必要 もなか った と思います。 以下、賢治の<農民芸術>についてのこの3篇 を一括 して 「農民芸術論」 といった り、 「綱 要」 とか 「興隆」 とが略称す る場合がある と 思 い ま す。 ご了承下 さい。 では、本論に入 るといた します。 今回私は 「農民芸術論・」を とりあげることに し ましたが、その理由は、 これが賢治理解のための 最 も枢要な鍵であると信 じるか らであ ります。 「世界がぜんたい幸福にな らない うちは個人の 幸福はあ り得ない」 「まづ もろともにかがや く宇宙の微塵 とな りて 無方の空にち らば らう」 「芸術を もてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれ ら不断の潔 く楽 しい 創 造 が あ る」 「髪を長 くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つ きを見 よ なべての悩みをたきざと燃や し なべての心 を心 とせ よ
」
魂が真底か らゆすぶ られ るような言葉です。詩 だの歌だのといった次元の低いものではあ りませ ん。賢治生涯の誓癖の吐露 ともい うべ き で しょうO だが、 これは、私ひ とりの独断的評価か もしれ ません。事実、賢治のこの 「農民芸術論」にはさ まざまな評価がなされています。鏡伸 ともい うべ きそれか ら全 くの無視 まで、千差万別ですd ここ ではそれをおお ざっぱにわけて、三つの型に集約 しておきます。 (1)その第一は谷川徹三に代表 され る型です。 谷川は賢治の作品を 「賢者 の文学」 と い っ て, 「もし賢治の童話の代表作-篇を挙げ よといわれ た ら、 『グスコープ ドリの伝記』を、 詩 の代表作 を挙げ よといわれた ら 『雨 ニモマケズ』を、そ し て論稿 の代表作を挙げ よといわれた ら 『農民芸術 概論綱要』を挙げ るに席蹄 しません。 グスコープ ドリは賢治の理想の人を措いた ものであ ります。 イー- トヴ ォの人 々の幸福のために、 自ら仕掛け た装置に よって、火山の人工爆発を させ るととも に、 自己の肉身を文字通 り宇宙 の微塵 とな して、 無方の空に散 らしたのであ ります。『まづ も ろ と もにかがや く宇宙の微塵 とな りて無方の空にち ら は らう』 とい う言葉は、 グスコープ ドリの生涯 の 中にその象徴を もつのであ りま して、 そ れ こそ また賢治の理想 とした生涯 であったの で あ り ま す」6)。 私は谷川徹三に全面的に賛成 です。あえて異を 唱えるとすれば、代表作 として私な ら、童話では 「なめ とこ山の熊」を、詩では 「無声働突」を挙 げたい、 と思 うぐらいの ことです。 しか し、 こんな谷川徹三 のよ うな賢治理解は近 は や 頃 さっぱ り流行 らな くなった ようで、少 し残念に 思います。いちばん素朴な、それだけに,いちば ん根本的な賢治理解だ と思 うのですが。 だが、だか らちっとも面 白 くない、凡庸 で平俗 で偽善道徳的だ、 と嫌われたので しょう。 自己犠 牲 なんてまっぴ らごめんだ、戦時下 の軍国主義が 俺たちに押 しつけた欺晴だ、今や平和 と民主主義 の時代、個人が 自己の個性を開花 させ ること、 こ れが現代の至上命令だ、 とい う立場か らの賢治再 評価が戦後 の主流 となってきてい ます。個性尊重 ですか ら、その主張 もみんな個性的で千差万別 で すが、 どれ も谷川批判か ら出発 している点は共通 してい ます。 (2)そ こで次に第二の型です。千差万別の谷川 批判ですが、 「農民芸術論」を規準に とると、 簡 単に分類できます. これを批判的に と り あ げ る か、それ とも全然無視す るか、 この二つです。第 二 の型は、 この 「批判的に とりあげ る型」で、そ の代表 として、私は中村稔を とりあげたい と思い ますO彼は 「雨 ニモマケズ」論争 で谷川徹三 と渡 りあった し、そ うして聖者賢治 とい う偶像を破壊 した、偶像破壊者 として一部 で高 く評価 されてい ること既にみなさん よくご存知 の ことで しょう. 中村稔に 『宮沢賢治』 とい う著 書 が あ り ま す7)。 これを とりあげてお話す ることに し ます。 中村 自身がその 「後記」で 「現在 の私の宮沢賢治 観 とはかな りのずれがある」 とい っています し、 その ときか ら現在はさらに
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余年 もた ってい るの ですか ら、 これをい ま持ちだすのは不適当でもあ り失礼で もあ る、 といわれ るか もしれ ません。そ の通 りです。 しか し、 これは これで一つの代表的 宮沢賢治観なのですか ら、現在 の中村稔その人 と は切 り離 して取 りあげることは許 され ると思いま す。 中村日 く 「僕たちは戦争中の体験か ら 『世界が ぜんたい幸福にな らない うちは個人の幸福はあ り 得ない』 とい うような,それだけを とりだせば、 支配階級に とってだけ都合の よい言葉の危険を知 っている。そ して、 『おお 朋だち ょ いっしょに 正 しい力を併せ われ らのすべての田園 とわれ ら のすべての生活を一つの巨きな第四次元 の芸術に 創 りあげ よ うではないか』 とい うよ うな,純粋な 情熱 と、壮麗な理想に心を惹かれ、心を惹かれな が らも、『農民芸術概論』における方法論 の 貧 し さに 目を陛 らずにはい られない。-- こうした方 法論の貧 しさ。『農民芸術概論』 の観念性。」と8)。 中村が ここで 「方法論」 とい ってい る、その意味 が正確にはわか りませんが、つづけて 「観念性」 といってい る処か ら推 して、 もののみかた、 とら えかたの意 と解 して差 しつかえなさそ うですOで すか ら彼は、観念的な貧 しい方法論 でない,現実 的な唯物論的な科学的な方法論に立脚 して、 「結論的にいえば、 日本農業の棟械化をはばん でいるのは、 日本の狭少な地勢 で もな く、水 田耕 作の特殊性で もない。そ うした 自然条 件 で は な く,それをそ うさせてい る日本資本主義の構造 と い う人間関係であ り階級関係である。そ して、か - 66-れ (賢治をさす一引用者)は この第一 の現象形態 である地主的土地所有制度、言いかえれば地主対 小作の対立関係を見失 うことに よって、すべての 機械化の方向を見失 ったのだ った。--・こうした 地主的土地所有の問題を,かれが まった く看過 し た とい うことは、一見お どろ くべ きことのように 思われ る。 しか しあ くまでそれは事実であった」 とい うのです9)0 賢治が地主対小作の問題を まった く見落 として いた とは考え られ ません (この点については一昨 年 の合宿ゼ ミでお話 しましたか ら練 りかえ しませ ん、その報告要 旨 「宮沢賢治 と社会主義」を参照 して下 さい)10)。 しか し、 当時の労農運動は、 そ の主流がマル クス主義の階級闘争史観を理論的支 柱 とす るもので、賢治は これに一応 の理解を持ち なが ら、 なお根源的な次元で不満を感 じていた こ とも事実です。 「きみたちがみんな労農党になってか ら それか らほん とのおれの仕事がは じ ま る の だ」11) これは賢治が労農運動に もっとも接 近 し た 時 期、 1927年3月の作です。賢治の内なる異空間感 覚が宗教感情が、 こういわせたので しょう。それ を賢治の社会主義路線か らの後退 とか逸脱 とか批 判す るのは、賢治自身に とってはお門違い と受け とられた ことで しょう。 (3) 三つめの型は、「農民芸術論」を全然 評 価 しない、 あ るいは無視す る、 とい う型 です。 こん にちの御覧 のとお りの大そ うな賢治ブームを演出 してい るのが この型で、そのほ とん どが詩人、芸 術家 といわれ る人たちです。代表 として天沢退二 郎 の 『宮沢賢治の彼方- 』12)を挙げてお きますO 天沢は、何故 「農民芸術論」を無視 し て よ い か、いや無視すべ きか、その理 由を こ うい ってい ます.「賢治の文学一 詩や童話は、 断 じて、 谷 川徹三のい うような、『実践者た る彼 の本質 の -放射 としてのみ初めてこれを正 しく理解 できる』 とい った ものではない。 -・・・宮沢賢治 もまた、文 学 であ り文学以外 の何 ものでもなか った といえる のではないか」13) 「いた るところにい る賢治礼賛 老 ・『賢治教』信者たちの よ うに、賢治文学 の 美 しさ (ヒューマニズムやモ ラリズムまで含めて) を情緒的にのみ とらえ、『いいなあ、 いいなあ』 と嘆声をあげ ることは可能 である。けれ ども賢治 の作品はそ うした嘆声を容赦 もな く通 りこしてい るのだ。--その明るい美 しきは,賢治が燃や し たそれ ら暗い不健康な情念の熔 なのであ る」14)O なにや ら深刻そ うな感 じが しますが、私には よ くわか りません。天沢はカフカの 日記 の中の 「し ごと (書 くこと) でわが身を救わなければ、 ぼ く はだめになるO -.・・どんな ことが あって も、 どん な ことを してでも、ぼ くは書 くだろ う」 とい う言 葉を引いて、 「カフカの場合 と同 じく、 文学は賢 治に とって唯一 の救済の手段」であった、 とい っ ています15)。そ ういえるであろ う作家 ・芸術家が 存在す ることは確かです。た とえば画家の ゴッホ な どがそ うで しょ う。それは、神を失 っ た 近 代 が、その世紀末に負わねばな らなか った宿命 だっ た、そ ういえると思います。 しか し、 これは賢治の場合ではあ りません。賢 治には世紀末はあ りませんo彼は神を見失 っては いません。尊大な自我だけにか じ りつかねばな ら ない孤独な近代人ではあ りませんO 彼は寧 ろ縄紋 からだ 人 です、原始人です。だか ら彼は身体 ごと自然に 還 ろ うと試みたのです。その実現が羅須地人協会 であ り、その設計図が 「農民芸術論」だ ったので す。 そ しても うーっ、賢治礼賛老 とか賢治教信者 と かいわれていることについてですが、彼 らは殆ん ど総 て生前 の賢治 と直接交渉のあった人 またはそ の2代 目3代 目です。それが更にネズ ミ算的に拡 大波及 して今 日の事態 となったので しょうが、私 紘, これ も天沢 とは反対に、彼 らこそほん と うの 賢治理解者 だ と思い ます。不幸に して私は、生前 の宮沢賢治に按す る磯会に恵 まれ ませんで した。 せめて、古老
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の回顧談や学者 の生活史研究 などに学んで、 もっともっと身近 に生身の賢治を 知 りたいと思 っています。Ⅰ
Ⅰ その時代的背景 このよ うに、私は賢治の 「農民芸術論」を、そ の実現形態である羅須地人協会 ・肥料設計 ・東北 砕石工場な どの農民救済 の実践活動 とともに、彼 の生涯 のⅠ乱点と考えているものであ りますが、 あ のよ うな賢治 の世界の成立には当然、 それを可能 に もし、制約 もした歴史的条件が、時代の背景があったのですか ら、それについて次にお話す るこ とに致 します。 (1) 社会的背景について まず政治的社会的経済的背景です。 第一次世界大戦 の終末期に ロシア革命が起 こり ます.1917年 ですO レーニンの率い るポル シェヴ ィキ党が ツァーの帝政 ロシアを打倒 して (十月革 令)、労働者の社会主義政権を樹立 します。 こ れ は 「必然 の王国」か ら 「自由の王国」-の人類最 初 の一歩 として、世界史的に大 きな反響を呼びお こしました。 日本 も勿論例外ではあ りませんで し た。翌1918年あの米騒動が爆発 します。以後、労 働者農民の自覚的組織的運動が全国的に活溌化 し ます。1923年関東大震災、 これを契機 に政府は狂 気の反撃弾圧 に出ます。朝鮮人暴動 とい うデマを 流 して多数の朝鮮人が市民の手に よって街頭 で鯵 殺 され ました。労働組合の指導者や社会主義の活 動家、平沢計七 ・川合義虎 ・大杉栄その他が官憲 の手に よって警察署内で秘密裡に殺 され ました。 地震の災害に もまさる大 きな衝撃で した。 成金を族生 させた大戦中の好況はア ッとい う間 に去 り、不況は年 ごとに深刻化 していきました。 〆レー ト・ヂプL/ツyヨ'/ 1927年昭和金融恐慌,1929年世 界 大 恐 慌、 日本 だけでな く資本主義全体が崩壊に瀕 し て い ま し た。冷害に よる兇作 と重なって、東北 の農村は と くにひ どい状態で した。娘 の身売 りが大 き く社会 問題化 した時代で した。 資本主義帝国主義を打倒 して社会主義建設 の途 についた ソ連だけが恐慌 と無関係で、五 ケ年計画 に よって経済的発展をつづけていました。社会主 義は多 くの心 ある若い知性に とって、 明 日の社会 を予約す る歴史的必然 と思われたので した。 大恐慌か らの脱 出は, アメ リカでは ニューデ ィ ールに よって、 ヨ- ロッパではナチの暴力的人種 主義的全体主義に よって、そ して 日本では天皇制 軍 国主義的対外侵略に よって遂行 さ れ ま し た。 1931年満州事変に始 まる日本の大陸便意です。 コ ミンテル ンはそれを 「強盗戦争」 とい っていまし た。 以後、 自由 と人権を守ろ うとす る抵抗は、個人 的に も組織的にも脆 くもくずれ きって、忠勇無双 のわが国民は産業報国会へ大政翼賛会-殺到 し、 果 ては一億一心火の玉 とな って1945年 8月15日の 敗戦へ と盲進す るので した。そんな時代だ ったの です。 (2) 文化的思想的背景について 次 に文化的思想的背景です。 これ も、第一次大 戦 で歴史の土台に大転換があったのですか ら、 当 然その上部構造に もそれに相応す る変化が起 こ り ました。社会主義を志向す る新 しい潮流です。文 学 と演劇に限 って、私 自身の記憶を もとに してお 話 しましょう。 とはい っても、昭和初期 とい うと 私 の中学生の頃ですか ら、少年 の私が直接読 んだ り見た りした ものは ご くわずかですが。 文学はプ ロレタ リア文学 の全盛時代で した。徳 永直 の 「太陽のない衝」、小林多喜二の 「蟹工船」 「不在地主
」
「東倶知安行」な ど、わけ もわか らず なが ら胸をお どらせて読んだ ものです。 レマル ク の 「西部戦線異状な し」 も読み ました、感動 しま した。 あ とで、 あれは唯の反戦文学にす ぎぬ、階 級的見方が薄弱だ、 と聞か されて、少 しが っか り したのを憶 えています。 演劇 では、小山内薫 ・土方与志たちの築地小劇 場を本拠 とした新劇が新鮮な刺激的な 魅 力 で し た。チ ェーホフの 「桜の園」や ゴ 1)キーの 「どん 底」や トレチ ャコフの 「吼 えろ支那」な どです。 ラーネフスカヤ夫人役の東山千栄子の ことを 「華 族 の家柄のお嬢 さまがねえ、え らいねえ-」 と、 母が感嘆 していた ことも憶 えています。旧い時代 の黄昏が、新 しい時代の繁 明が肌 で感 じられ る雰 囲気で したO 時代の この雰囲気を知 っていただ くために、 こ こで私は、有島武郎 と芥川竜之介の2人をその象 徴的存在 として挙げたい と思います。 こ の2人 は、 とくに有島は、今では忘れ られかけてい ると いえるか も知れ ません。 しか し当時は、大正末か ら昭和初めにかけては、 ジャーナ 1)ズムを賑わせ た最 も著名な作家で したO私の姉は 日本女子大の 国文科を1929年に卒業 していますが、卒論 のテー マは 「有島武郎論」で した。「とても論文な ど と いえるものではないの、ただの感想作文 よ、南京 豆をポ リポ リか じりなが ら一週間で書 きあげた」 なんてい っていました。 ともか く 「倦みな く愛は 奪ふ」な ど、 当時の女子学生に大 もての作家で し た。黒い布装の 『有島武郎全集』全10巻があった のを憶 えています。ただ し私がそれを読んだのは - 68高校-入ってか らですが。 有島の 「宣言一つ」が発表 されたのは1922年1 月、 綜合雑誌 『改造』の新年号で した。 わ ず か 12、3枚の短い論文ですが、 その反響は大-んな もので した。有島の主張は一 口にいえば知識階級 無用論です。第四階級 (プロL,ク リアー D は今 や、 自らの生活に根 ざした理論 と実践を もって自 らを解放 しうるに至 ったのであって、知識階級か らの思想的理論的支援ない し指導など必要 としな い、否、かえってそれは有害である。 自分のよう にブルジョアの階級に生 まれ育ち教育を うけた者 は、余計な差 し出 口をすべ きでない し、 またその 資格 もない、「第四階級的な労働者たること な し に、第四階級に何物をか寄与す る と思 っ た ら、 それは明らかに借上沙汰である」 とい っ た の で す16)
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有島のこの宣言の背後には、彼の精一杯の実践 が、社会主義に労農運動に当時誰 よりもいちばん 接近 した実践があった ことを見落 としてほな らな い と思います。そんな彼であったか らこそ、 この 小 さな 「宣言一つ」が大 きな波紋を生 じた の で す。た しかにそれは、あま りに単純で した、素朴 で した。あま りに幼推 といってもいいで しょう。 事実、彼 自身が 「私は今43ですけれ ども心の発達 の未熟な点か らいふ と10年若い33位だ といってい い と自分で思ってゐます」 と河上聾宛の手紙で書 いています17)。 だが、彼の幼稚 さは、同時に彼の純粋さの現わ れでもあったのです。幼稚なまでの彼の純粋さに は頭がさが ります。1923年6月有島は軽井沢三笠 の別壁で波多野秋子 とともに自殺 しますが、 これ も彼の純粋さ、道徳的潔癖が させた結果です (昨 年7
月友人 とその浄月庵姓を訪ねました。弟生馬 の筆になる有島武郎終意地の碑があ り、傍 らにス イスの少女チルダへの英文の手紙の1節の碑があ りましたが、波多野秋子の名は見当た りませんで した)0 「宣言一つ」 とともに有島で忘れてな らない こ とは、父か ら相続 した北海道羊蹄山麓の狩太農場 450町歩を無償で小作人に解放 した ことです。「宣 言一つ」を発表 したその年のことです。彼はかね がね、生産手段の私有を罪悪 と感 じて い た の で す。それは彼の良心の苛責 となっていたのです。 解放 しても、借金の抵当に とられた りして、す ぐまた資本の支配下に組み敷かれてはなんに もな らない し、そ うなることは 日に見えていましたか ら、彼は解放 した農地を元の小作人各 自の私有 と はせず、あ らか じめ周到な計画をたてて協同組合 的経営の共産桑田 としたので した (共産 とは物騒 でいけない、 とい う周囲の意見に従 って、名称は 共生農団 と改めましたが)。 有島の念頭には ソ連 の コルホーズがあったので しょうか。 以上のように、私 どもは有島のなかに時代の苦 悩 と救い とを最 も純化 した形で認めることができ るのではないか と思います。 次は芥川ですが、彼は有島に くらべ ると、現代 の若い人たちに も遥かに よく知 られていると思い ます し、 また、資本主義や第四階級 の問題に、有 島のように全身で体当た りしたのでもあ りません か ら、賢治の 「農民芸術論」 との関係では特に と りあげる必要はないのですが、一つだけ、彼 の自 殺の1
月前に書かれた 「或阿呆の一生」のなかの 「傾向詩」を思い出 していただきたい と思ったの です。 - 誰 よりも十戒を守った君は 誰 よりも十戒を破った君だ。 誰 よりも民衆を愛 した君は 誰 よりも民衆を軽蔑 した君だ。 誰 よりも理想に燃え上った君は 誰 よりも現実を知ってゐた君だ。 君は僕等の東洋が生んだ 草花の旬 のす る電気機関串だ。- 18) ここで 「君」 といっているのは、 レーニンのこ とです、断るまでもない と思います。 芥川について これだけではやっぱ りお粗末す ぎ ます。賢治の 「農民芸術論」に関係のあるモ リス について彼がいっていることを一言紹介 しておき ましょう。「ラスキンよりモ リス- 伝へた る法灯 はモ リスよ り更に ショウに伝は りた る観あ り、そ の中間に詩人、兼小説家兼画家兼工芸美術家兼社 会主義者 として立てるモ リスは前世紀後半の一大 橋梁 と存侯。但 し老年のモ リスの社会主義運動に - 69-加は り、いろいろ不快な 目に遇ひ し事は如何にも 人生落莫の感有之侯。小生は詩人モ リス、- 殊 にLoveisEnoughの詩人モ リスの心事を付度 し、同情する所少か らず、モ リスは便宜上の国家 社会主義者たるのみな らず、便宜上の共産主義者 た りしを思ふ こと屡 とに御座侯
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」(1927年 2月17 日大熊信行宛書簡)19)「わた しは玄鶴山房の 悲 劇 を最後で山房以外の世界へ触れさせたい気 もちを 持ってゐました (最後の一回以外が悉 く山房内に 起ってゐるのはその為です)。なは又その世 界 の 中に新時代のあることを暗示 したい と思 ひ ま し た。チエホフほ御承知の通 り 『桜の園』の中に新 時代の大学生を点出 し、それを2階か ら転げ落ち ることに してゐます。わた しはチエホフほ ど新時 代にあきらめ切った笑声を与へることは出来ませ ん。 しか し又新時代 と抱 き合ふほ どの情熱を持っ てゐません。 リイブクネヒ トは御承知の通 り、あ の 『追憶録』の中にあるマル クスやエンゲルスと 会った時の記事の中に多少の嘆声を洩 らしてゐま す。わた しはわた しの大学生に もか う云ふ リイブ クネヒ トの影を投げたかったのです。--なは又 わた しはプルヂ ョワた ると否 とを問はず、人生は 多少の歓喜を除けば、多大の苦痛を与へ るものと 思ってゐます・--0
」(1927年 3月 6日青野季書 宛書簡)20) 最晩年の言葉です。時代の危機的状況が鋭い感 覚で正確に とらえられています。なお年譜に よる と、芥川は1916年7月東大文学部英文科卒業、卒 業論文は 「ウィ1)アム ・モ 1)ス研究」でした。 (3) 室伏高信の 『文明の没落』 と 『土に還る』の 影響について 有島や芥川に象徴 され るこのような時代を背景 に して、賢治の 「農民芸術論」に直接影響をあた えたのが室伏高信の文明批評的著書 『文 明 の 没 落』 と 『土に還 る』 とです。そのことを私は、上 田哲の 『宮沢賢治- その理想世界へ の道 程』21) に よって初めて知 りました。 室伏高伏は戦前戦中、綜合雑誌 『日本評論』に 拠 って論壇に大活躍 したジャーナ 1)ス トで す。 1923年刊の 『文明の没落』 とその翌年刊の 『土に 還 る』 とは昭和の10年代、大東亜戦争に突入す る まで、首版を重ね るロングベス トセラーで した. 内容は、機械文明 ・都会文化は資本主義が生んだ 徒花であること、その資本主義が今や没落に瀕 し ていること、農村の生活 こそ人間に とって最 も自 然な健全な、人間 らしい人間の生活であること、 を主張 した ものです。経済不況が深刻化 していた 時代ですか ら、社会救済の方向を指示す るものと して世の喝采を浴びたのも領けることです。 賢治が この室伏の著書を読んで、大いに啓発 も され、我が意を得た りと、大いに自信を強めもし ただろ うこと疑いあ りません。 上 田は、 賢 治 の 「農民芸術の興隆」 と室伏の 『文明の没落』 とを 対照 して、その言辞に全 くまたは殆 ど全 く同 じ表 現が幾つ も見出せ ることを指摘 しています。例え ば、賢治は 「人 口の一割がそれを買ひ鑑賞 し享楽 し九割は世 々に労れて死す る」 といっ て い ま す が、室伏は 「人 口の一割がそれを買ひ、鑑賞 し、 享楽する。人 口の九割は世 々この芸術を味ふ こと な く、労働 して、疲れて、死す る」 といっていま す。また、賢治は 「芸術の回復は労働に於け る悦び の回復でなければな らぬ Morris〟Artisman's expressionoflュisjoyin labour."/労働は本能 である 労働は常に苦痛ではない/労働は常に創 造 である。創造は常に享楽である」 といっていま すが、室伏は 「労働は今 日は正 しく苦痛である。 堕落である。不名誉である。 ウヰ リアム ・モ リス は芸術をもって労働における喜びの表 現- Art isman'sexpressionofhisjoy in labour-だ といふた。労働における喜びの喪失 とともに芸 術は終 りを告げたのである。芸術の回復はそれゆ えに労働における喜びの回復でなければならぬ。 -- (人間は)労働を本性的に要求す る動物であ る。=-・労働は常に苦痛でない。・・-・われわれの 求めるものは労働の享楽なのだ。そ こに生命があ るO創造がある、芸術がある」 といっています. ご覧のとお り、論説の主 旨も表現 もそっ くり同 じです。それ もそのはず、賢治は国民高等学校の 講義用に室伏の著書か ら抜 き書 きしなが らメモを 作 った、そのメモが この 「興隆」だったのですか ら。 室伏の賢治へのこのような影響を上田によって 学び知 らされた とき、正直のところ私は少 々がっ か りでした。彼の 『青年の書』な どを通 して私が 知 っていた室伏は、時局便乗型の浅薄な評論家だ ったか らです。だが これは私の方が浅薄でした。 - 7
0-昭和の2、 3年頃 までの室伏には、即 ち賢治が読 んだ室伏には確かに資本主義の矛盾を突いた現状 批判 として耳を懐けるべ きものがあったのです。 それは ともか く、 この よ うに、賢治の 「農民芸 術論」は さまざまな直接的間接的影響の もとに成 立 した ものであ りますが、その ことは賢治の独創 性をいささか も傷つけ るものではあ り ま せ んo 「綱要」のあの高 らかな張 りつめた呼びかけ、そ れは賢治その人その ものです。「おお朋だ ち よ 君 は行 くべ く やがてはすべて行 くであ ら う」 こ んな言葉が賢治以外の誰か ら聞け るで しょうか。
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< 農 民 芸 術 > の農 民 概 念 に つ い て <農民芸術> とい うな ら 「同時に <労 働 者 芸 術>や<商人芸術> な ど職業の数だけの芸術を設 定 しなければおか しい とい うことにな る」22)と い った疑問 もあるようですか ら、賢治の農民概念に ついて最後に一言 しておきます。それは私に とっ てあんま り自明のことで したので、 これ までつい うっか り見落 としてきました。 まず結論か ら申 します と,賢治のい う農 民 と は、現に農業 とい う分業の一つに従事 してい る農 民を指すだけではあ りません。彼は、 自然 のなか で自然 とともに生 きる農民の姿に、真に人間 らし い人間の在 り方を見出 したのです。そ してまた、 「アダムが耕 しイヴが織 った とき誰が殿様だ った か」28)といった標語が示 してい るように、生 活 必 需資料を 自らの労働に よって稼 ぐ生 き方 こそ まと もな人間の生 き方だ、農民の生活が正にそれだ、 と彼は考 えていたのです (分業については、若 き 日のマル クスが興味深い ことをいってい ます。証 の24を参照 して下 さい)0 こうした考 え方は、何 も賢治一人に限 った こと ではあ りません。額縁をた どれば、 トルス トイに 懐倒 した徳富産花や白樺派 (新 しい村) な どがあ ります。 さらに潮れば安藤 昌益 の直耕賛美に まで 上れ るで しょう。「農は国の本な り」 とい う所 謂 農本主義は、思想的には右か ら左 までさまざまで すが、それ らを底部で一貫す る一筋の何かがある よ うな気が します。 自然-の復帰 とい う人間の本 能的願望で しょうか。 もちろん賢治の農民 もその 例外 ではあ りません。賢治は地人 とい う言葉 も使 ってい ます、地人は彼の独創ではない で し ょ う が、 この方が よ りぴ った りだ と思い ます。 羅須地人協会 とは少 し違 った空気ですが、やは り同質の理想を求めて農耕生活に入 っていった例 を私は一つだけ実見 しました。豊多摩郡高井戸村 の江渡欧嶺 さん25)の百姓愛道場 です.「美的百姓」 徳富産花 の粕谷村恒春園か ら北へ1、 2キ ロの と ころだ った ように記憶 します。戦時中の ことで し た。 これ も記憶がは っき りしませんが、昭和18年 の初夏の頃ではなか ったか と思います。吉 田清太 郎先生26)のお伴を してお うかがい したので した。 岩本和気子 さんが案内 して下 さい ました (吉田先 生 は当時市 ヶ谷の岩本家に居候 してい らっしゃっ た)。 当時の こと、思い出そ うとす ると、すればす る ほ ど記憶 は霧 の彼方へ遠 のいてい って し ま い ま す。 きれ ざれの断片をい くつかお話 しましょう。 吉 田先生は80歳の ご高齢で した、驚 き ま し た (なにをい うか、 自分が今80歳では な い か、 い や、 これは二重 の驚 きです)。 そんな ご高齢なの に、電車に乗 って空席があると誰かを座 らせ よ う となさる。 吊皮を握 って立 ってい る先生 の方が私 は心配 で した。 江渡 さんのお住いは茅葺 きの幾棟かの百姓家で した。その1棟に十 ちゃん (幼少の とき昇天 した 江渡 さんの愛児)の遺骨が安置 してあ り、その部 屋 で吉 田先生 の司会 で小 さな集会が持 た れ ま し た。先生は讃美歌を調子はずれの大 きな声で歌わ れ ました。木の葉を1枚手に とって、神が、神 の 奇蹟がそ こに現在す ることを説かれ ました。 秋嶺 さんにはお 目にかかれ ませんで した。お留ごう ごう 守だったので しょう。業だ、業だ、 といって深 く 悔 いてお られたあのアル中症状のためではなか っ た と思います。 集会が終 って、昼食 の ご馳走にな りました。畑 で とれた新鮮 な トマ トや胡瓜が出たにちがいない と思 うのですが、憶 えていません.ただ、缶詰め の コンビーフだけを- ッキ リ憶 えてい ますO戦中 です、 めったにお 目にかかれ るものではあ りませ ん。 きっ と青 田先生 のための取 ってお きの貴重品 だ ったので しょう。 この 日は私に とって久 し振 りの静かな幸せの一 日で したo戦争熱一色の世の中に、その片隅 で神 の愛に思いを致す こんな小 さな空間があった こと -71-ほ、 その頃賢治 の詩 だけを心 の支 えに していた私 に とって、 ほん とに驚 きで もあ り喜 び で もあ り無 上 の慰 めで もあ った のです。 この次 は是非江渡 さん ご自身 にお会 い したい と 思 っていた のです が、 果たせ ませ ん で した。翌年 (?)岩 本和気子 さんが江渡 さん の急逝 を報 せ て くれ ま した。腸捻転 だ ったそ うです。江渡 さんの 百 姓愛道場 につ いて最後 にひ とこと申 します と、 そ こには強 い意志 と信仰 の リゴ リズムが支配 して いた よ うに思い ますO それ に較 べ て、賢 治 の羅 須 地 人協会 には、彼 の固い法華経信仰 に もかかわ ら ず、 ときに - メをはずす ほ どの喜 び楽 しみ笑いが あ った のではないか、 そんな違 いを感 じます。 以上 で私 の話 をお しまい とします が、一 つ蛇足 を加 え させ ていただ きたい。 それ は、賢 治 は皇室 につい て戦争 につ いて どんな態度 を とったか、 と い う問題 です。戦後、平和 と民主主義 の世 の中に な って、賢 治 を もてはやす には、賢 治が平和 と民 主 主義 の擁護者 でな くては都合 が悪 いわけ で、従 って、賢 治 と天皇制 とか、賢 治 と侵略戦争 とか い った問題 には敢 て触 れ ない でお くとい う傾 向がみ うけ ちれ ますが、 これ は間違 いで し ょう。賢 治 の 全体像 を まっす くtl見据 え る必要が あ る と 思 い ま す。 で私 の答 えは、賢 治 は皇室 には敬度 な尊崇 の 念 を もっていた し、戦争 に も肯定的 だ った、 とい うことです。 これ については また別 の機会 でお話 しま し ょう。 (せ き ど よ しみつ 名誉教授) (1995.9.28 受理) 註 1)『校本宮沢賢治全集』第12巻上、7-20貢 (筑摩書 房、1973-77年刊) 2)同上、第14巻、771-779頁。 3)同上、779-782京。 4)同上、第12巻上の月報。 5)『内村鑑三全集』第18巻、304-315京 (岩波書店、 1981年刊) 6)谷川徹三 『宮沢賢治の世界』81貢 (1970年、法政 大学出版局刊) 7)中村 稔 『宮沢賢治』(1970年刊、筑摩叢書) 8)同上、165頁。 9)同上、39貢。 10)『人権 と教育』20号 (1994年、社会評論社刊) ll)前掲 『校本宮沢賢治全集』第 6巻、97京 (詩 ノー ト、作品1016、1927.3.26) 12)天沢退二郎 『宮沢賢治の彼方-』(初版 1968年、 増補改訂版 1977年、新増補改訂版 1987年、思潮社 刊、1993年筑摩文庫版は新増補改訂版による、引用 の貢はこの文庫本による) 3)同上、262-263貢。 4)同上、277-278貢。 5)同上、277京。 6)筑摩書房版 『現代 日本文学大系35、有島武郎集』 367貢 (1980年刊) 17)同上427貢、本多秋五 「有島武郎論」より、 手 紙 の日付は大正 9年 6月 8日。 18)『芥川龍之介全集』第 8巻、130貢(岩波書店 1955 年刊) 19)同上、第18巻、205-206貢 (昭和 2年 2月17日付 大熊信行宛書簡) 20)同上、208貢 (昭和 2年 3月 6日付青野季書 宛 書 簡) 21)改訂版、1985年、明治書院刊。 22)北川 透 「農民芸術概論をめ ぐって」(『新修宮沢 賢治全集』別巻、280貫、筑摩書房刊) 23)ジョン ・ポールの言葉.ボールは14世紀イギ 1)ス の聖職者、 ウィクリフの宗教改革的思想を支持 し、 社会的不平等に反対 して闘った。農民一挺 ワット・ タイラーの乱で指導者の 1人であった。農民軍は一 時勝利 したが、首領タイラーが1381年 6月15日に殺 されたため瓦解 した。ジョン ・ボールも7月15日に 処刑された。 24)マルクス (とェソゲルス)によると、分業は階級 社会の成立 とともに発生 したのである。従 って階級 が無 くなれば、即ち共産主義社会になれば分業も消 滅する。 「共産主義社会では、 各人はそれだけに固 定された どんな活動範囲をも持たず、どこでも好き な部門で、自分の腕を磨 くことができる。社会が生 産全般を統制 しているのである。だか ら こそ、 私 は、 したいと思 うままに、今 日はこれ、明日はあれ を し、朝に狩猟を、昼に漁捗を、夕べに家畜の世話 を し、夕食後に批判評論をすることが可能にな り、 しかも、決 して猟師、漁夫、牧夫、評論家にならな くてよいのである」 (『新版 ドイツ ・イデオTZギ-』 花崎皐平沢、合同出版、1966年刊).それは生産力 が高度に発達 した未来のことではあるが、マルクス がこのような空想を措いたことは興味深い。マルク ス主義が空想社会主義を斥けて科学的社会主義にな って以来、教条化 し硬直化 した、 と私は 思 っ て い る。 25)江渡秋嶺、本名は幸三郎、青森県上北郡五戸町の 生れ。隣村倉石村出身の田中修君 (元北海学園大学 学長、 1992.9没) の父上が姻戚関係の縁で親交が - 7
2-あった由、また修君 も中学のとき江渡家に寄宿 して そこか ら通学 した由。旧制二高卒、経歴の詳細を知 りたい と思っている (私は生没の年月 日さえ知 らな い)。著書に 『或る百姓の家』(1922年刊) 『地滴の 姿』(刊年1942年頃か ?)その他数点がある。彼は 人間の生活を3つに分類 して、-、生産 労 働 の 生 活、二、行乞の生活、三、詐取強奪の生活 とした。 26)吉田清太郎、1863年 (文久3)四国松 山 に 生 ま - 73 -れ、1950年1月22日没。1883年同志社に入学、翌年 受洗。『愛の行者』 として知 られた。 自ら貧書 生 で あ りなが ら、同志社学生時代の山室軍平を経済的に 援助するなど貧者-の愛の実践に一生を捧げた。猫 の死骸を神か ら与えられた糧 と頂いて食べた とい う 逸話は有名である(『キ リス ト教人名辞典』1986年、 日本基督教団出版局刊、を参照)。