「文学」の解体 : 〈人間関係学〉の構築を目指し
て
著者
平野 順雄
雑誌名
椙山女学園大学研究論集 人文科学篇
号
26
ページ
21-44
発行年
1995
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00001579/
「文 学」の 解 体
〈人間関係学〉の構築を目指して
平 野 順 雄
Deconstruction of“Literature”:Toward the Construction of
“HumanRelations" as a Study
Yorio HiRANO もう7年も前のことになるが,人間関係学部が発足した頃,当時盛んに行なわれていた パーティのある席上で「人間関係のための英語をやってくれ」と言われて,足許がぐらり と揺れる気がしたことや,やはりその頃の教授会で「人間関係学」を作って行こうという 議論が出た時に,〈関係〉などというものが果たして学問になるのだろうかと非常な不安 を感じたことを今でも憶えている。 英文学研究の端緒に着いたばかりのその頃の私には,とても落ち着きの悪い響きを「人 間関係学」は持っていた。そんな得体の知れないものに深入りすると学界のはぐれ者になっ てしまうのではないか,と思われたのだ。それよりもむしろ,自分の専門分野の研究に打 ち込むことによって,どこかで学際的に「人間関係学」に資することができるはずだと考 えていたのである。 しかし,その後数年経つうちに 自分の専門領域「英文学」研究を何よりも大切なく実 体〉と考え,足場である人間関係学部を詰まるところ単に職場ととらえる行き方に私は 次第に閉塞感を覚えるようになってきた。自この専門領域を絶対のものとして取って置乱 そこから小出しに「人間関係学」を考えるよりもむしろ,未だ存在しない「人間関係学」 を少しでも構築しつつ,そこか劫自分の専門領域を照射して見る方が,けるかに面白いの ではないかと思引こ至ったのである。 だが,果たしてどのように? まずは,私がべ実体〉と考えてきた「英文学」という研究領域を,その起源に遡って洗い 直してみなければならないだろう。ただし,日本における「英文学」の起源は,初めから 割れていた。ラフィカディオ・バーンの後を受け,初めて日本犬として「英文学」を講じ た漱石見目金之助以後,日本の「英文学」研究は挫折の歴史を形成する。それがどのよう なものであったのかを,まず〈起源〉への手紙の形で確認しておこう。 工。壁としての西欧 《起源》としての夏目漱モ 拝啓 夏目金之助 先生 突然のお手紙をお許し下さい。失礼をも顧みず先生のH民りを覚まそうとするのは,研究 - 21 −
対象とする国の文化に内属していない事について を他に知らないからです。 先生程真剣に苦しみ,考え抜いた先達 京都で上旺│敏が英文科の学生に向けて,(英文學といふ大伽藍を完成竹かノ)として気字 壮大な激励文を発表し九明治37年に,先生は東京帝国大学で「文學論」を講じておいでで した。明治33年から35年にかけてのロンドン留学中に構想が芽生えた『文學論』は,後の 明治40年に刊行吝れますが,その序文末尾で先生け「此學術上の作物が,如何に不喩決の うちに胚胎し,如何に不喩決のうちに組織せられ,如何に不喩決のうちに講言せられて, 最後に如何に不喩決のうちに出版せられたるかを思へばノと,お書きになっています。 行きたくもない英国へ,英文学ではな《英語修得の目的で派遣され,到底英語は物になら ぬと観念して,英文学の傑作を読破しようと試みるが,読むべき本の量に圧倒谷れるばか りでいっこうに捗らない。しかも読んだ本のどこが面白いのから分らない。リントンにも なじめず,生活心苦しい。そうこうするうちに留学年限の半分が過ぎてしまい,何の成果 も見出せない。こうした地獄の状況下で,先生が「根本的に文學とは如何なるものぞと云 へる問題を解悍せんと決士ヽしノし,「文學は如何なる必要あって,此世に生れ,他達し, 額朧するかを極めんノとした時に『文學論』の構想が芽生えたのでした。つま呪『文學 論』は,分らない英文学をどのように考走れば分かりうるのかという軋みの中から生まれ たのです。英文学を産み出す英頭文化になじめぬ先生は,文学をその形態と内容と修辞法 とに分解し,この三者の成す構造がどのような種類の感動を与えるのか,そしてその感動 の型は特代と共にどのように推移して行《のかを丿にヽ理学的・社会学的に迪ることによっ て,英文学を俯瞰しようとしたのでした。 しかし,俯瞰への欲望は,自分の位置を知りた いという欲望と抽象化への欲望との混合物だったのではないでしょうか。先生の歩くロン ドンの街路が,英国文化にも英文学にも通じることのない,障壁だらけの「不喩決投」迷 路であったからこそ,俯瞰への欲望が芽生走たはずなのです。 『文學論』から3年後の明治超年にぷ版谷れた『文學評論』には,壁としての英頭文化 及び英文学に対するより鮮明診態度表明がなされています。「文學論」の講義を終え九回 治38年から顔年にかけて東京帝国大学で行なった講義「十八世紀英文學」に基づくこの書 物の序言で,先生は脳性紀英文学を講義するに際して,百年間の英文学を通覧することが まず不可能事であ呪 また脳世紀という百年を先行する]ブア世紀そして後続する19世紀から 切り離して取り出すことに原理的な無理かおる,とお断りになっています宍)何でもない発 言のようですが,ここにも私は,俯瞰への欲望が足場のあやう吝と不即不離の関係にある ことと,連続体として英文学をとらえようとする構造的欲望を見てとらずにはおれません。 しかし,『:丈學評論』は『文學論』と地続かであるというだけではありません。『:文學論』 で提出吝れた問題一分らない英文学をどのように考えれば分かりうるか を『文學評 論』はもう一半掘り下げ,根底的な解答を堂々と提示しているからです。すなわち,分ら ないのは文化の違いによるのであるから,分がらぬ事を恥じる必要はいさ谷かもない,と いうのがそれです。だとしたら,同じ英文学作品に対する評価加日本人と英囚人では違っ て来はしまいか,という疑問が湧いてきますが,これに対しても先生は,英語という言語 の壁があるうえに,文化によって規定谷れる「趣味」が普遍でない以上,日本人が英文学 作品を英願人と『司じように評価する必要はない,とお答えになっていますヤなぜこうまで きっぱり断言しなければならなかったかといえば,おそら《先生け,英則という西欧に思
考と感覚の自由を奪い去られることを全力で拒否したかったからにちがいありません。 先生がお書きになるとおり「英國で出来た者を英國人が評するとなると本家本元の製造 品を本家本元で批評するのだから確かに相違ないと云ふ感が日本人の㈲の中に」あり,そ の根本には「言語の相述」が横たわっていて,「判然としないからして自己の感じを標章 として批評するのが剱呑のやうに思はれるブ」のは確水です。ここから「今一つの誤まっ た結論」が出て来る,と先生はお述べになり,外図文学研究の暗部を照らし出します。 夫礼は外でもない。詰り外國文學を評する標準は彼にあって我にない。だから外國人 の世に従はねばならぬ。外國人の世に従ふとなると自分か其役を尤もと思はざる事に 就てのみならず,無理と思ふ事迄も先方の世に従ふ様になる。今迄は自分は此作品に 對してかう云ふ風に感じて居っだ,然るに今某の批評を聞《とかく͡で自分の感じ とは述って自分には無理と思はるバナれども,兎も角も本家本元の評家の云ふ事だか ら,自分のよりも正しい感じであるに祖述ない。して見れば自分か今迄抱いて居だ感 じは誤った下劣詮感じである。誤った感じである以上は改めねばならぬ。かう云ふ気 になる。すると大開け妙な者で何時の間にやら今迄の感がなくなって,自分の正しい と思ふた感じに移って仕舞ふ。従っで外國文學を研究して其批評をするとなると自分 の感じはなくなって外國の批評家の感しのみになるサ) この暗部を,「言語の相違」という「障害物」に迷わされて「趣味」加普遍であるかのよ うに錯覚してしまう所から生じた迷妄にすぎないとして退けた後,では如何にして外頭文 学に対すべきかについて先生は二つの方法を挙げます。一つは自分の判断のみに頼る方法, 今一つは「西洋人が典白│國の作品に對しての感じ及び分析を諸書からかり集めて,之を諸 甘の前に陳列して參考に供する」9)方法です。第二の方法の価値を力説する箇所よりも, 第一の方法の方に先生の,そして『:丈學評論』の真骨預かあると思いますので,これを引 かせていただきます。 然らば吾人加批評的鑑賞の態度を以て外國文學に向ふ時は岫口何にしたらよからう。 余はこれに二法あると思ふ。一は言語の障害と云ふ事に頓著せず,開瞭も不明瞭も容 赦な《,西洋人の意見に合ふが合ふまいが,顧慮する所詮《,何でも自分かおる作品 に對して感じた通りを遠慮なく分析してか,るのであるとO) この「頗る大謄にして臆面のない遣り口」によって『正直な,詐りのない批評』 のであって,時としてこの批評が外願人の批評と正反対になることがあっても, えが浅いとする必要はない,と先生は言います。なぜかと言うと が出来心 自分の考 アストンが「日本文學史」を書てもチェンバレンが日本の文章を評しても矢張り英人 の見地からするのであって之が正営なる批評である。言語こそ違へ,内容は文學であ る。文學と云ふ黙に於て相違がない以上は,趣味を以て判断すべき以上は,自己の趣 味の標準を捨て,人の悦に服従すると云ふ法はない。服従と[司時に自己は趣味がなく - 23
-なるのである。趣味がなくなる以上は外國文學は無論のこと,白國の文學さへ批評す る資格がなくなった者と云はねばならぬと1) こういう決然たる態度によって貫かれているからこそ,18世紀英国の状況一般から説き起こ し,アディソン,スティール,スウィフト,ホープ,ディフォーらB世紀英文学の犬立物を 論じた『文學評論』の至る所から先生の肉声が聞こえてきて,時として外国文学研究の暗部 に陥りがちな私などは㈲のすく思いがするのですが,そうではないという人も無論います。 目夏歌之介です。目夏は,先生の『文學論』を「案外詰らぬ論理的遊戯の空韓も少《は ない内容のもので,そこから後生の英才には何の影響をも付へずに終った完全な不登弾の 好逼例であったノ)とし,また『文學評論』については,先生の意m加「諸家を論じるの でなくて,是等諸家を通じて」先生御白身の(文學上意見を述べるにあつた丿)とし,作 家の扱い方に不満をもらしています。ホープについて「二十世紀已後に生じたポオプ復活 更生の事賓とその理論とを背景として讃み直すと,太だ偏頗な恣意な褐断的な陳套なもの になつてゐる丿)と手厳しぐ批判していますが,スウィフトに関しては難点はあるものの 『文學評論』以上のものは(目本には出てゐないので,あれで姑《満足する外はない/3) と一応ぱめた後でこう言っています。 アン女皇朝の文學に對する考察は最も漱石の弱詰を示してしまった。(一寸書いて ある丈けだが)この時代の重要な(英㈹文學史にとっても世界近代文學史にとっても) 要素の意義が没却せられ,判らな《,まるで書かれてゐないのである。それにしても, 矢張りポオプ論の単純でイイズイ・ゴウイングな太い線の云ひ張りの方がもっと非道 かった。ポオプ文學の美に目を閉って背を向けてしやべってゐるのである。いや,見 ても判らないのである。讃んでも解吝ぬのである。それでもこの書は目本に於ける英 文學研究文獄の出頭の書であった。その位に 日本の英文學者(:正確に言へば英學者 といふあいまいな一寸威めしい俗呼がふざけしからうが)は文學が昧はへず文學と縁 がなく,そんな語學者になれぬ語學崩れが國立大學で文學の周目の堂々廻りをつい最 近までしてゐたのである。漱石言の燦然光つとに無理はなかった。 (學間慰愛モラルぞの他一鴎外と漱石と丿) 少々混乱した観を呈しておりますが,目夏の言わんとするところは,先生の『文學論』と 『文學評論』は,このままではそれほど大したものではないし,難点もあるが,今のとこ ろこれらを超えるものがな《,また先生以後,大した学者もいないから,先生の書物が有 難がられる他ないのだ,ということになりましょう。 ただし,目夏が非常に偉《て,先生の論の不足を面白そうにあげつらっているわけでは ないようです。この文を書《昭和23年,目夏は58歳,先生が『文學論』(明治40年)『文學 評論』(明治42年)をお出しになったのは飢歳から43歳の時でしたから,両者の態度にち がいがあるのは当然ですし,その間の40年間に英文学のみならず外目文学がどんどん入っ て来たでしょうし,外国文学研究もまた大いに進んでいたはずです。それに目夏は早熟の 才人でもありました。先生と全くタイプのちがう日夏は,早大に入学しか明治釘年頃を偲 ひっつ,こう書いています。
宛ら天下を瞰望すると,常時東大には何がしといふ英國人の老爺がゐて退屈な語學の 復習をしてゐた。外には日本人教師はない。あっても上[日敏と漱石後には人材が途絶 えてゐる。 また,[│計口元年,日夏30歳の時,既にこうも 「落日を漁る少年」(昭和22年戸) 今日ではアメリカ逞で二三年且洗ひをして来た徒輩が高上りして身の程知らぬ大學校 の辻講祥をおつ始めうる始末だから批評文壇の無知を殷へた義理でもなからう。(中 略)語學証の抄詳や且洗ひの切音やツンドク先生の祖述や哲學狂の浅薄なる膿得やが ニッポンの講壇にも文壇にもいとど柴えて大衆興味としての一般文學作品の濫讃は大 小賢愚の作者等を十分に北叟笑ませる程度に夥しいが,席讃して文學眼の向上人性の 深化に資する心もちは讃者側にも少く,揚へるに止るものぱ作家側評家側にも誠に少 い。科學の學間的寄揚の功績は明治史上著しい事賓だが,訓詰と註解と本文批評との 丹念な努力の後の,鑑賞を鏡き文學の批評が文學史的にも文學評論的にも輩出して文 學の學間的寄輿が今少し進捗してもよい筈である。 (學問的寄興言) つまり,日夏は,早熟な才人特有の生意気極まる口調で,当時の文壇及び文学研究のあり 方に対する正当な苛立ちを表明しているのです。『文學論』『文學評論』をけなす目夏は, 先生の創作に対しても歯に衣きせぬ,そしてそれであればこそ丁寧な批評を行なっていま す。文学研究と創作双方にわたって早熟の才人ぶりを終生発揮し得九目夏の幸福は,しか しながら,やはり先生の苦闘と断固たる態度表明があったからこそ保証吝れたものではな かったのかと,私は疑わずにはおれません。 先生の『文學論』『文學評論』が世に聞かれてから70年余り経過した昭和51年,比較文 学の泰斗高圧│謹二氏は,『目本における外目文学』という著書の中で,先生の英文学との 格闘とそこから産み為された解答を正当に評価しつつ16)こう批判しています。 しかしながら,今口漱石の残しか諸書を再読すると,現代の学徒ならもう少し史実を さぐ呪解釈を多岐にし,文献を詳細に参考するのではないかと惜しまれる節が散見 する。例えば十八世紀英文学の一節など,あまりに自己の文学論にひおっけ過ぎ,諸 作者の史的背景や心理やを自己流に解釈し過ぎてぃる個所があ卵士しまいかご) こうした島田氏の批判が, 70年前の英文学研究草創期と島田氏がこの文を書いている時点との研究状況の成熟度の差から出ているものであって,根本において日夏の行なった『文學評論』『文學論』批判と同してあることは明らかです。そして,先生が外目文学研究法の第一の方法,すなわち自己の判断にのみ従う方法を取り,本匡│人の諸説を見渡す第二の方法を敢えて取らなかっかことに対する不満であることは,言うまでもありません。第一の方法と第二の方法が根底において相容れぬものであることを誰よりも良《見抜いていたからこそ,先生は第一の方法を貫いてみせる事によって,日本人の行なう英文学研究の見事な一例を後世に残してくれたのでした。 続いて高圧│氏は,日夏歌之介の牛−ツ研究を高《評価します。島[日氏によれば,「日本 −25−
の外国文学研究は,本国人の書物を盲信して,文字通りの紹介と移植とに終始している。 あれではいつまでたっても本国人の評価のくり返しに終って,没批判の,記聞の学の域を 脱し切れない。あんなことではならぬ。学位論文としてキーツをとり扱う以上,ただの編 纂でもない,移植でもない,翻案でもない,独自の立脚地をもつ日本人独自の立言がなさ れねばならぬ。……」18)と日夏は覚悟し,先生とは少しちがった仕方で外国文学研究に向 かった,とされます。少しちがったゆき方とは,まず参考文献の取り扱いに関すること, すなわち学問の成熟度に関わることであ呪第二には,日本とイギリスという文化の壁に 対する態度のちがいに関することのようです。高圧│氏は,こう述べています。 改めて七十年前の漱石の批評を再読してみると,学識の不足と風習の無理解から かなり強引な解釈が目につくのは,いかんともしがたい6 る く それを知ってか知らずてか,目夏の秀一ツ解釈は,少しゆき方が違う。参考文献は, 少なくとも英語ものに関する限り,よくよんでいるし,巧みに引用もしている。ひと 通りの学識としては批議する余地がないだろう。少なくとも三十年前の漱石よりは学 識の年輪の差は明らかにみえる。それにキーツはわずか二十五か六で死んだ。それを 批評する目夏は五十に近い。そこに当然心境のゆとりも生まれてきた。反省も出た。 それとともにしからなる同感も湧いた。底知れぬ敬意もとどめがたかった。そこには 日本とイギリスという順境の相違は消えてしまった。蛇か蛇を知るの境地である。外 聞文学研究としての難所のひとつは,これによってさわやかに突破された汗 学識および文献の取り扱いに関しては,目夏の方が先生よりも優れていた,と島[日氏は言 い,また先生が,日本人は英匡│人と同様には英文学を味わうことができないとい脆白-を出 発点としたのに対して,目夏は,そこを乗り越え得恋,と島日]氏は目夏を絶讃しています。 ならば,日本人の英文学研究が,先生方式ではなく,目夏式で行《べきだ,と島田氏が言 うのなら,それはそれとして筋が通るのですが,島[日氏は,この目夏礼讃に続けて,英語 力にそれ程自信がないと述懐する目夏が果たして斗−ツの英詩を正しく読みえたか否かと 疑義をはさみ,翻って英語力にそれ程自信がないと語為日夏が英詩を大胆に論じ得だのは, 詩人としての能力に自信があったからに他ならず,英語力にも詩人としての能力にも自信 を持てぬ者が大胆な発言など出来るはずがないと言って,日本人の英文学徒を叱責するに 至っております叉O)慶応3年(1867年)に一歳であった先生を,㈲治23年(1890年)生れ の目夏が学問的に批判し得,先生と目夏を明治討年に901年)生れの高圧│氏が学問的に批 判し得るのは当然の事でしょうし,後進の学者は必らず先達をどこかで乗り越えて行かな くてぱならないことも事実でしょう。 とはいえ,先生が英国という西欧の壁に激しくぶつかり,その衝撃の中から著わした『文 學論』と『文學評論』における絶望からの出発は,一体どうなったのでしょうか。原理的 に決して自分のものとはなり得ない外匡│語で書かれた作品を,私は外匡│人だから本匡│人の ようには理解できませんと告白した後で,それでも尚研究を続けようとするなら,一体ど ういう道かおりうるのかを,先生は,本匡│人にも外匡│人たる日本人にも共通しうる科学の 方法を用いて探ろうとされたのでしたが,その絶望的困難を,詩人としての才能によって 目夏歌之介が「さわやかに突破」しかと言えるでしょうか。無論言えません。言えるなら,
すべての英文学徒は詩人か小説家か劇作家か批評家のいずれかになれば,たとえ英語が 少々出来なくとも研究対象に迫って行ける,と強弁できるはずですが,島[日氏はそうは言っ ておりません。英語か弱いという目夏のキーツ研究に島[日氏は疑義をはさんでいたはずで した。やはり言語の相違と感性の習慣の違いは如何ともし難いのです。それに,すべての 英文学徒が詩人か小説家か劇作家加批評家として身を立てることが出来たとしたら,英文 学徒を止めることもできるはずのものではないでしょうか。脱線してしまいましたが,島 田氏の言わんとすることは分かります。作品にぐんぐん迫って行くためには文学的才能が なくてはいけないということを氏は言っているにすぎません。 しかし問題は,文学的才能というあやふやなもので研究がどこまで出来るのか,という 一事です。それはまた外匡│文学研究とは一体何を目的にするのか,そしてそれはどこまで 可能なのか,という根本問題に外匡│文学研究を志す者を直面させずにおかない一事です。 先生の行き方と目見の行き方との双方を批判する島[日氏は,①本匡│イギリスに比べて資 料が少なく,②テクストを読むときの入り込みがイギリス人に比べて弱く,③イギリス文 学が持つ文化的背景を持っていない日本人の英文学研究者に何がなしうるかについて, 一つの解答を用意しています。それは詰まるところ,物理的,言語的い文化的上記三重の 弱点を強みに転化する方法です。すなわち,イギリス人が英文学を「匡│文学」として研究 する時,彼らの視線からもれるところをとらえて,そこを研究するという方法です。 イギリス人が英文学を一番よくわかるのは言うまでもないが,そのイギリス大のや り方にもいろいろ配盲点があるだろう。その盲点を発見して,そこを深《究めれば, 必要なのに本匡│大が顧ず,打ち込めぬ世界を学的に開拓したということになるのでは ないか。たとえば十九世紀中葉のイギリス大は,あるいは遺徳的感党から,社会風習 の上から,教育上の配慮から,要するにいろいろな意珠から,大勢としてはなんとな 《王政復古期の文学に冷たかった。いわけ臭いものにふたをしていた。それにたいし てフランスの学者アレクサンドル・ペルジャムは敢然として徹底的な研究をやっての け,大も驚《偉業を打ち立てた。それはイギリス人の盲点をついて,やることは意義 がありながら本国の人が無自覚に拒否していたものを学的に明らかにしたことがイギ リス大に高《評価谷れた,つまり学的独針匪を認められたのだと考えている。王政復 古期の文学には限らない。イギリス人のイギリス文学研究のうちには多くの胤我が隠 れているに違いない。それをもっと白覚して見つけていこう。見つけたならばそれを 徹底的に究めていこう。(中略)これがわれらを学問的に活かす一つの遺だと信じて いる汐 これは,イギリス人のように日本人には英文学を読めないという文化的限界を逆手に取っ て,イギリス人のようではない着眼点をむしろ外両人である日本人が見出しうる,とする 立場です。しかし,日夏の仕事に疑義をはさんだ時の島[日氏のこだわりが,特に②の英語 力の不足にあったはずですが,これについてはどうかというと,これを逆手に取る方法を も高[日氏は考えています。 - 27−
著者は,その日本人のもつ英語力の弱点を,逆手にとればいいと考えている。よくわ からないのだから,よく究めるより仕方がない。よく究めるのだから,時開かかかる。 イギリス人が三時間で読めるものも,三日はかかる。それを五日でも十日でも時間を かけてやれば……。がれらは読みとばしている。いろんなところで大事なものを落と して,そのことに気付いていない。イギリス人が自国の文学に対する見方は,そんな に完璧であろうはずがない。(中略)かれらが滑走してわかったつもりでゆくところを, われわれは虚心,瞑目,あるいは腕組みをして,よ《考え,よく生きることによって, かれらがみすごす世界と問題とを徹底化すれば,われわれの立場からする英文学研究 ができてくる。つまり学問上オリジナルな研究が可能だと思うご) 島[日氏は,この方法を(工クスプリカシオン・ド・テクスト言)と呼んでいます。しかし, 弱点を逆手に取る氏のこの二方法は,結局のところ,自分で良《考えるという至極基本的 な態度であり,先生が『:丈學評論』で宣言した態度表明の延長線上にあることは明らかで す。先生は,あるいは高田氏のこの二方法を読んで,その学者的良心を評価しながらも, 苦笑な谷っているかもしれません。 70年後も,西欧という壁が研究者の前に言語と文化の差として立ちはだかり,この壁を何とか超えようと,どの研究者も四苫八苦しているにすぎず,事態はい谷さかも変かっていないからです。 外匡│文学が外匡│文学である限り言RPの相違と②文化的背景の差異は,必らず研究者 の前に西欧の壁として立ちはだかります。原理的に完全には決して乗り越えることのでき ないこの壁を突破しようとする目的は,一体どこにあるのでしょうか。第一には,外頭文 学を日本に紹介することによって日本文化に資するという目的が考えられます。そして第 二には,研究対象とする外国文学そのものに何らかの方法によって資するという目的が考 えられます。どちらも言うは易《,行なうに難い事です。特に第二の目的を果たすのは困 難極まりないでしょう。この困難の根元には,言語の相違と文化的背景の差異が壁となる ために,研究者は自信を持って発言することが実はできない,という事情があります。あ の早熟の才人目見ですら英語力か弱いと洩らしていたのですし,その目夏を疑う島[ロ氏に おいてすらそうでした。この自信の欠如は,詰まるところ,外聞文学が外聞文学であると う と い こ まさにその点に庄│来するものですから,研究者は原理的に本格的な自信を持ち得ない になります。自信を持ち得るのは,仮説として提示しか自分の意見が,他人によって 支持される場合であ呪 この他人が,当の研究対象とする外頭文学の本匡│の研究者である 場合,日本人研究者け殊のほか自信を得ることがでおすしょう。しかし,この構造そのも のに潜む卑屈吝は,どうすればよいのでしょうか。もしこうした構造にしか白│信獲得の道 がないのだとしたら,研究者け,再び先生の「誤まつだ結論」へ,連れ戻谷れるのではな いでしょうか。すなわち,外頭文学研究の暗部へ。 外國文學を研究して其批評をするとなると自分の感じはな じのみになる。 《なって外國の批評家の感 『文學評論』 この暗部に陥ることは主体を喪失することに他ならないが故に,先生は「頗る大謄にして 臆面のない遣り口」を取呪「正直乱詐りのない批評」を残したのでしか。言語の相違
にも文化の差異にも本国人の意見にも煩わされない毅然たる態度を先生は持し得たのです が,それは西欧という壁を越之ないことを選ぶことと同一でもあったはずです。では,先 生は英文学を,そして英国文化を学ばなかったのでしょうか。 『文學論』序によれば,いかにも先生は英文学および英国文化を学ばなかったかのよう に見えます。漢籍によって文学に親しんでいた先生は,英文学も(斯の如きものならば生 涯を拳げて之を學ぶも,あながちに悔ゆることながるべし言)と考えて英文学科に入りま すが,(卒業せる余の脳裏には何となく英文學に欺かれたるが如き不安の念丿)かおり, この「不安の念」を抱いたまま桧山へ,次いで熊本へ,そして倫敦に到着します。漢籍な ら「味ひ得る」のに何故英文学を味わえないのかを考える所から,先生は「漢學に所謂文 學と英語に所謂文學とは到底問定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可か らず戸)という結論に達し,英文学という異質な文学を,英文学でも漢文学でもないとこ にもない場所で,科学的に解剖しようと試みられたのでした。 余は下宿に立て龍りたり。一切の文學書を行李の底に収めたり。文學書を讃んで文 − − = ・ . − − ゛ ミ ¶ / ` e φ @ @ 命 e @ ゆ φ e e o φ @ s φ e e @ e @ φ @ e 參 e e e e e 6 φ 参 ・ ● e φ ゆ 學 の 如 何 な る も の な る か を 知 ら ん と す る は 血 を 以 て 血 を 洗 ふ が 如 き 手 段 た る を 信 じ た @ e e 命 ればなり。余は心理的に文學は如何なる必要あって,此世に生れ,費達し,顔面する かを極めんと誓へり。余は社會的に文學は如何なる必要あって,存在し,隆興し,衰 滅するかを究めんと誓へり叩) (傍点平野) これが英文学への内属を拒否し,英文学を英匡│文化ともども先生御白身から力の限り遠ざ ける努力であったことは言うまでもありません。傍点を施しか箇所は,万巻の書を読み, しかる後に理論化を試みる帰納法を先生が断念し,英文学そのものを生物学もしくは社会 学のモデルによって高みから俯瞰しようとしたことを雄弁に物語っています。こう見ると いかにも先生は,英文学および英国文化を学ぼうとしなかったかのようですが,そうでは ありません。文学を文学以外の基準によって構造化しようとする必敗の企てに他ならぬ『文 學論』から,時として先生の理論構築の軋みを破って,英文学に培れた鋭利な批評眼が顔 をのぞかせるからです。二つの例をあげます。
一つは第四編「文學的内容の相互開係」第七章「寫賓法」でJane Austen の『高慢と偏見』の一節を引いて,「此一節は夫婦の全生涯を一幅のうちに縮寫し得たるの黙に於て尤も意珍深きものなり」と評し,続いて「這裏の消息に通ずるものはAustenの深さを知るべし。
Austenの深さを知るものは平淡なる寫言中に潜伏し得る深さを知るべしノ)とする先生の綱眼。あるいはまた第五編「集合的F」第匹│章「原則の唐用(二)」で,18世紀の詩がheroiにouplet (便雄対韻句)で書かれ,女は必らずnymph(ニン副,男は必らずswain (牧夫)となる擬古典主義時代の詩の約束事を論じる際尚時代の趣味の圏外に立つことが如何に難かしいかを活写している箇所がそれです。 時代の精神は吾を誤り人を駆りて,萬客を一渦の中に葬って,旋韓し盤同し,眩目し 聾耳せしめて已む事なし。彼等は推移せざるにあらず。只意識の車輪を約束の鍛軌に 乗せて習気の陳閣を馳するが故に馳するが如くにして足に動がするに等し。圓外に 立つもの指示して奇異の観をなすと乱却つて順笑の目的となる。洙期の吾人を縛す −29−
るや斯の如く牢なるものあり。 洙期の弊は沈滞に陥るにあり,固晒に流為川こあ呪新生命を容れざるにあり,子 篇一律なるにあり,鸚鵡の呼言するにあり,屋上に屋を架するにあり,徴兵槍査の態 度にあり。然れども是旋渦回流の災を竟かれて,背後に往時を顧みたるもの,始めて ロにするを得べき言鮮なりとすう8) 一つは極めて文学的な,いま一つは歴史への洞察力を示すこの二例は,先生の内部への英 文学の浸透を暗示してはいないでしょうか。 もう一箇所,隠微な例を挙げ吝せて下さい。第四編第一章「投出語法」,すなわち「自 己の情緒を移して他を理會甘んとする」方法について述べておられる箇所で,「更にこれ を推して抽象的事物に及ぼす」場合に関して,「元来余は所謂抽象的事物の擬人法に接す る度毎に其多《の場合が態とらしく気取りたるに頗為和決を感じ,延いては此語法を總 じて厭ふべきものと断定するに至れりノ)と嫌悪感を露わになさっておいでです。ところ がU 例へば『虞美人草』を讃んでは暢んびり面白い小説だが,藤尾といふ願私的里亜性の コケティッシュの面のある明治風令嬢のクライシスを叙して, 藤尾の長│青は忽然として檜悪となった。檜悪け次第に嫉妬となった。 嫉妬の最も深《刻み込まれた時,ぴたりと化石しか。 だけでは,抽象的拵への感じしか印象し得ない。こんな文句にあはあは感激する人 は,二本棒の若翰か,大學へ通ふサラリーマンの世間知らずである。今どきの腕かっ しやな手取り作者なんかはへ,らと順ってそっぽを向《。 (學間怒愛モラルその他一鴎外と漱石とノ) 『文學論』ではっきり嫌いだと断じた抽象を,ある効果のために小説中では用いているの です。私か言いたいのは,あれ程精一杯向こうへ押しやろうとした英文学が,先生の嫌悪 を突き破って,先生の内部に侵人しているという事実です。 目見の文は[│計目23年のものですが,そのずっと以前昭和9年に平日]禿木は,「夏目谷ん とイギリス」と題する文の中で,先生が如何にイギリス風であったかをこう語っでいます。 先 頃 歿 し か 英 作 曲 界 の 巨 匠 エ ル ガ ア の 肖 像 を 出 し て 見 た が , 夏 目 吝 ん は 実 に 酷 《 似 て ゐ る 。 ば と ん ど も う 生 き 写 し で あ る 。 藪 術 家 と い ふ よ り 紳 士 と い つ か 趣 も 全 《 同 し て あ る 。 あ の 位 似 て ゐ る 二 人 は ば と ん ど な い 。 そ れ 程 ま で に 夏 目 谷 ん は イ ギ リ ス 風 に e e e @ 4 e e 參 e @ @ e e e ゆ 参 參 e e e e e e e な り き つ て ゐ る の で あ る 。 知 ら ず 識 ら ず の う ち に , そ の 気 分 , 精 神 に 感 染 し て し ま つ て ゐ る の で あ る 。 そ れ が す べ て 自 然 で , 強 ひ て 学 ぶ と か , 気 取 る と か い ふ 跡 は 微 塵 も ないよその作もまた回様であると思ふニ 平[日禿本邸こう書《のは,『明暗』が「全体の精神において, ふメレディスのComic Spiritに触れてゐる」と評しか後です。 (傍点平野) ま谷に彼のエゴイズムを笑 日夏敢之介,平[日禿木という二人の英文学者の言を持ち出しましたが,英文学と格闘し,
その理解に絶望した結果,英国文化もろとも英文学を力一杯向こうへ押しやろうとした先 生の内部にさえ,英文学と英国文化か二つなからに侵入したという事実を指摘したかった からに他なりません。 しかし,先生のような行き方が根本的に間違っていると痛罵する文人がいます。吉圧│健 一(1912−1977)です。『文學論』序の「余が讃丁せる書珊の獄を貼檜するに,吾が未だ 讃了せざる書珊の獄に比例して,其甚だ僅少なるに驚ろき」に明らかな焦燥感について, 氏はこう言います。 ここに脱に,英國の文學作品に對する彼の理解の程度を疑はせるものがある。まだ讃 まない本の徴に悩まされるといふのは,一つの作品を讃んで得られるものが少いから であり,そ牝が少いのぱ,理解か庖い鎬であると考へなければならない。一行の詩を 冊見しか喜びといふ種類のものを,漱石は知らずにゐたやうである。 「夏目漱石の英國留學」(1955年押) 吉田健一氏の先生批判を紹介する富士川義之氏によれば,元来楽しみや喜びのためにある 文学を,先生は苦行に化してしまっているというのです言臨3歳にしてこういう批判が可 能でめった吉日]氏は,考えられない程有利な地点におりました。やはり富士川氏によれば, 「吉[日茂の長男に生払だ吉[日健一が父の任地に従って幼少の頃よりフランス,英国,宇国 へ渡り,拐歳でケンブリッジ大学に入学するという,当時としてはおよそ日本人ばなれし た外聞経験の持主」であり,「従っで吉[日氏の英国理解が,文化と珈文学などと言い出す 以前に何よりもまずその生活の具体的な細部,基本的な知識,一言で言えばその感覚的 把握を基盤にして築かれたものである/3)なら,英文学ところが文学そのものの外部に出 てしまっていた先生が,吉[日氏に太刀打ちできるはずはありません。古田氏には,日本の 英文学の未来を一身に背負って研究の成果をあげなければならないといった重圧はなかっ たはずですし,豊かな外目体験ゆえにヨーロッパ文化に内属し得九吉[日氏には,文学その も坏]の外部に出てしまった先生が倫郭で英文学研究の地獄を見ていたことなど,愚かし《 しかも許し難い事にすぎなかったでしょう。「いかなる形であれ,ヨーロッパへの夢を欠 いていると感ずると仏漱石批判のような激語が発せられるのであるノ)と吉[日氏の先生 批判紹介を結ぶ富士川氏の言は,問題の所在を明らかにしています。すなわち,先生が西 欧という壁を乗り越免ないことを選んだよ谷にその態度に,吉日]氏は苛立っているのです。 先生にとって,ヨーロッパは夢のありかどころではな《,「文学」という概念を根底から 破壊し去った地獄でしたのに。吉日ヨ氏の「平生心」には及びおっかないとこにもない場所 で,先生は誰も疑わない西欧を疑。いの眼で見ていたはずです。「文学」の外へ出てしまっ た先生の眼光には狂いが混じっていたかも知れません。しかし,私には割れに割れ軋みに 軋む狂いの混じった視線が,何故か貴重な物に思われるのです。と申しますのは,外頭文 学研究の壁として立ちはだかる①言語の相違②文化的背景の差異を突破する手立ては,詰 まるところ対象とする匡│の言語と文化に内属する事にしかない,という結論が余りにも面 白《ないからです。これを一歩進めれば,日本人の外頭文学研究者け,対象とする匡│の人 になることによって言語の相違も文化的背景の差具も無化しうるという結論が出て来ます が,この結論が外目文学研究不能論であることは言うまでもありません。それに,対象と −31−
する匡│の文化に内属しない者に決して味わえない文学など味わう必要がどこにあるのか, と問い返す事も可能です。内属よりも内属を拒否する狂いの混じった視線の方が魅力的で ある所以です。そして西欧に対してあれはどかたくなに自らを閉ざした先生の体内に英文 学・英国文化という西欧が侵入してきたことに私は驚きとともにある可能性を感じずに はいられないのです。 日本人研究者が外国文学を学ぶ場合にどのような態度が実り豊かであるかについて,お そらく最も妥当な解答を金関寿夫氏が「外国文学の『内面化』と『外面化』」(1974年)で 示しています。氏は外国文学の「内的問化」の最も卓越しか例として先生と英文学の関係 を挙げてこう言います。 漱石のイギリス滞在中の心境告白については,英文学を噛ったばどのものなら,誰ひと り知らぬものはない。漱石の憂愉の深さは,彼の中の「日本人」とイギリスとの間の, 衝突の激しさを物語っている。彼の中の「日本人」ないし日本的感受│生け,衝突の瞬間 烈しく火花を散らし,その衝撃は彼の内面に深く沈潜して行ったように思われる。そ して彼は再びイギリスを訪れることな《,また生涯イギリス文化の「外面」とは,つ いに深《触れることはなかったのである。(中略)ところでこの漱石的原型は,まだ 一部の西洋文学研究者の開白脈々と伝わってきている。このタイプは,西洋文学か ら得だ体験をいわけ「内面化」し,内面化できない他の部分は切り捨てるのであるヤ) この「内面型」は,西洋文学の外面的現象に親しんで行こうとする「外面型」の「西洋文 化への阿訣追従的態度」に「日本的⑤│青主体の欠如」を見,「外面型」の学者の仕事が,「外 碩学者の二番,三番煎じ」にすぎないから本当の学問ではなく,詰まるところ(文化的斗ヤ リバンの,対西洋無条件降伏に他ならないノ)として「外面型」を軽蔑する,と金関氏は 言います。しかし,氏は「内面型」が必らずしも「日本の伝統文化への素養」を持つわけ でもなく,また先生が「英語で講義することをやるうとすればできたし,しばしば英語詩 を書いた事実」に気付いていないという事実を指摘し,このタイプには「に1分の⑤匪的未 成熟を突き破る一種の内発的意志」が欠如している,と言います。つまり氏は,先生が「内 面塑」の代表でありつつ,「外面型」の良いところをちゃんと吸収していたのに先生以 後の「内面型レは,「外面型」を攻撃するだけの「内面型」にすぎず,彼らが攻撃する「外 面型」と空ろ谷においては[司じだ,と言うのです36]続いて氏は言います。 外国文学を読んだり研究することぱわれわれにとって一種の新しい縁験である。そ れは紙の上で死んだ思想を読むことではない。その往験を自分の全感受けをあげて体 験することである。多《の「内面型」の学者け,この新しい体験を拒否し,自分の日 本人的主体性を貫くふりをしているのではないか。それはおそら《ロレンスのいう「恐 れ」,自分の馴れ親しんだ知的感性的経験から外へ出て行乱新しい経験の中に突入 することへの恐れからにちがいない。[司イヒとは一種の精神的成長である。そうすると これは成長の拒否であ呪それへの恐怖である。だとすればこれを真の意味で「内面 的[司イヒ]と呼ぶことはむずかしい。「内面的」かもしれないが,「㈲イヒ」へのヴォリショ ンが,そこには欠けている。これは致命的だと言えないかご)
「同化」を伴なわぬ「内面化」には「痛みをこらえた新経験への参加がない」ことを氏は 今一度強調し,「外から惨み込んでくる」すべてのものを受け入れる態度がいかに犬切水 を述べた後,こう結びます。 日本人の古注主体をできるだけ保持しながら,「[司イヒ]を試みること。 みは,「内」にも「外」にも向けられねばならない。それ以上のこと そしてその試 すなわち東 洋は精神的にもっと西洋化すべきか,あるいはその逆がいいのかーそういうことは, おそらく個人よりもっと大きなものが決めてくれる。多分それは歴史そのものであろ 、38)つ O こうして金関氏によって,①言語の相違②文化的背景の差異という西欧の壁をどう乗り越 えるかについての謙虚にして勇気ある解答が提示されたことになります。西欧という壁を 乗り越えるためには,西欧文化への完全な内属,すなわち研究対象とする国の犬になって しまう他ないといっか性急な議論は,研究者の精神的成長を外国文学研究の根幹に据える ことによって,無用になった訳です。つまり,西欧文化に内属しようとするのか良いのか それとも疑いの視線を向けるべきなのかという問いに対する答などな《,研究者は一回一 [目のテクストとの,そして西欧の様冷か事象との格闘の過程でこの問題を考え続ける他は ない,という結論が出されたのです。研究の成果が本国人に負けないものであるのか,紹 介にすぎないのかなどという区別は,ずっと後で考えればよいことでしょう。 では,先生はなぜあれ程苦しまなければならなかったのでしょうか。それは先生が近代 という日本の歴史の曲がり角にいたからに他なりません。先生の時代にあって,西欧は無 条件に学ぶべき手本でした。だからこそ先生は英文学という西欧に対して,日本人として の自らを持すために頑なな程決然たる態度を取らなければならなかったのです。西欧に内 属し得る程西欧を学ぶよう派遣された英国という西欧で,西欧そのものに疑いの眼を向け る奇妙な日本人留学生か先生でした。 それでもなお,先生の内部に西欧加侵入したことは既に述べました。 Austenの写実に深谷を見,18世紀英詩の流れに人間の認識及び嗜好の限界を見出し,嫌っていた抽象表現を白│らの創作に用い,容貌・物腰までが英闘人らしくなったと証言される程,先生は英国という西欧に内部を犯されたのでした。それが,言語の相違も文化的背景の差異も貫き通す文学の力によるものでなかったはずはありません。文学とは,読者の内部を回復不能なまでに犯寸力以外の何物でもないからです。 今日では,先生の特代とは比較にならない程豊富かつ速かに外聞の作品や研究動向の紹 介が行なわれています。明治3工年唾大│創刊以来出版吝れている[]曼語青年』には,「海外 新潮」や「研究の現状と課題」といっかコーナーが設けられ,研究を志す者加どの位置に いるのかを示す羅針盤役を果たし,時折組まれる特集では「文学史の読み直し」「ユダヤ 系アメリカ文学」「アメリカ詩の新しい展開」などに混じって,「座談会 英文学研究の姿 勢」[]500号,1974年)や「日本の英文学研究一現況と課題」じ1984年,別冊)といった 研究の自己点検そのものをテーマとする号も出ています。英文学研究者の数における増加 に伴かって研究の質も,英米本順にひけを取らないものがぶているというのが喜ばしい現 状です。これは英文学に限ったことではありません。欧米の文学のみならず様冷か文化が −33−
日本に浸透しかことの結果です。日本は今や加藤周一氏の言う(雑種文化ノ)の国になっ ているのです。 しかし,こうした情況はまた私たち研究を志す者が,果たして日本人としての感性主体 を保持し得ているかとうかを深く疑わせもします。海外の研究動向や流行の批評のスタイ ルにどうしても無批判な影響を受けがちで,どこに研究の根拠を置くかについて,はなは だ心もとない状況にいるというのが偽りのないところなのです。そして,海外の研究及び 批評は時として「英文学」というトポスを疑わせもします。英本匡│のネオ・マルキスト批 評家デリー・イーグルトンによれば,「英文学」研究の成立は19世紀にすぎず,「英文学」 研尭が順民統治という政治の道具として機能したのですゾO)またパレスチナのエルサレ ムに生まれ,パレスチナとエジプトで初・中等教育を受け,プリンストン大学で学士号を, ハープアート大学で修士・博士号を取得したサイードはぎ)「文学」のみならず「文化」 そのものがヨーロヅパの思考によって生まれた「制度」であり,従って「文化」=「制度」 のテクストに働く強制力を見抜《ためには,ヨーロッパの思考のヘゲモニーの外へ出て, ヨーロッパ文化そのものを対称化する視点が必要なのだ尹と主張します。 こうなると,「英文学」研究を志す者け更に窮地に立たされることになります。ヨーロッ パ文化への内属にはおよそ意味がな《,「英文学」研究そのものが,ギリシヤ・ラテン研 究の哀れな代替物にすぎぬ政治用具であるとしたら,西欧という壁を乗り越えようとして 真面目にそして様々に苦闘してきた日本の「英文学」研究は一体どこへ行けばよいという のでしょうか? 西欧という壁を敢えて乗り越大ようとせず,日本人としての感性を守ろ うとした先生が,やはり正しかったのだ,などと今更言ってみたところで何も始まりはし ません。日本人としての感性主体そのものを,今目の私たちが「雑種文化」の中で相当失 なっているからです。そしてまた,この架空の手紙などよりもっと広範な文脈の中で先生 その人を対象化しなければならない地点に この手紙轟体が来てしまったからです。従っ て,ここでも答はありません。そして,イーグルトンやサイードによって↓恐ろし《正当 に震感させられた「英文学」研究及びヨーロッパの思考に対して,「英文学」研究を志す 今日の私たちは,何らかの解答を探し続けなければならないのです。 解答への手掛りは,研究対象とする国の文化への内属かそれとも内属の拒否かといった 二者択一にはな《,対象とする国の「文学」概念を形成する諸事象の解析にあるでしょう。 すなわち「制度」としての「文学」の解体に。そして何よりもテクストそのものの持つ力 の解析にあるでしょう。こう考える時,先生が英国という西欧を力の限り向こうへ押しや るうとしたにもかかわらず,先生の内部に英文学と英回文化か侵人したという事実が,「文 学」などではない本物の文学の力を考える際の大いなるヒントになるのです。 先生という《起源》において「英文学」研究は,既に可能性と不可能性に引き裂かれ, 割れておりました。この割れを回復する試みと挫折の連続が曰本の「英文学」研究の歴史 であったと言っても過言ではありません。そして今また,「英文学」研究のみならず西欧 文化自体が,英本目内部からの告発及びヨーロッパを外から撃つ視線によって,根底から 揺り動かされた結果,「英文学」研究の地盤は割れています。いかにしてこの割れを修復 しうるのか? その手掛りは「割れ」そのものの中に潜んでいるに違いありません。そし て「割れ」そのものの解析には,どうしても英国をけじめとするヨーロッパの諸事情をよ り深《知ることによる「文学」概念の歴史的再検討炉必要になってくるでしょう。それと
共に,あるいはそれ以上に この「割れ」の中から西欧の「文学」などという「制度」の 壁を破って立ち現われ,西欧以外の国々の読者の内部を回復不能なまでに犯し去る本物の 文学の「力」の究明が必要なのだと思います。 見ず知らずの者からの突然の手紙で,先生にはさぞ御迷惑であったことでしょう。長い 間眠りを妨げて申し訳ありませんでした。おかげて私にも問題の所在が,ようやくほの見 えてきた気が致します。有り難うございました。安らかにお眠り下さい。 敬具 平野順雄拝 1994年8月猛暑の中より H。文化の「内」と「タt」 上の手紙で明らかになったことは,第一に研究対象とする回の「文化ッ│青況の成り立ち についての理解か外匡│文学研究には不可欠であるということであり,第二には,そういう 事情を超える文学の「力」の解明が文学研究の最も大切な点てある,という二点てある。 すなわち,壁としての西欧を生み出す歴史的な力とその壁を突き破石文学の力の双方を外 匡│文学研究は解析の対象とするのであるが,外回文学研究者は壁としての西欧を作り出す 歴史的な力にひるみがちである。理由は言うまでもな《,言語の祖違と文化の差異にはね つけられるために 自らの視線に対す志疑いが生じるからである。研究対象とする匡│の言 語が母匡│語のようには分らず,また文化的コードもとらえにくい場合,外目文学研究者は 作品をどこまで理解し得たかについて自信を持ち得ず,半匡│の批評家や研究者あるいは単 に半匡│人であるというだけの人でも,自分よりはこの文あるいはこの作品を良《理解しう るに違いないと考える時,この研究者け外團文学研究の奈落へ落ちて行《。漱石が道破し たあの外回文学研究者の自己喪失の暗部へ。 無論,こうした壁としての西欧を作り出す歴史の力は大きいには違いないのだが,実際 は,この壁を突き破石文学の力の方が逞かに大きいのである。そうでなければ,誰が好き このんで外聞文学など読もうという気になるだろうか。分からない箇所はあるにはあって も,分る所をつないで行くうちに段々と分からない箇所が少なくなってくることは事実 なのであり,少しずつ理解か増して来る喜びの中から西欧の壁を突破して,自分で考える 勇気も湧いてくるのである。 問題が生じてくるのは↓理解の深浅あるいは高低を競争の場に引き出す時だ。つま呪 本開の研究者と日本の外團文学研究者が,作品の理解においてどちらが優るかを考え石時, 西欧という壁の「内」側にいる半回の研究者の方が,壁の「外」側にいる日本の外目文学 研究者に必らず優呪それが日本人研究者には残念でならないと思える場合である。しか し,作品理解の深さや高さが,必らずしも壁の「内」側にいる本匡│人において優り,「外」 側にいる日本人研究者において劣る,という訳でもないのではなかろうか。それに,たと えそうであるとしてもノ㈲しがる必要もないのではないか。より優れた解釈や評価は,壁 の「内」側にいる者から出ようが「外」側にいる者から出ようが,そんな事は作品の与り 知らぬことであろうから。人の意見には耳を傾ければよいのだし,違うと思えば反論すれ ばよいだけのことだ。外聞文学研究者炉決してしてはならないことは,壁の「内」惧肘こい る人の意見を「内」側にいる人だからというだけの理由で有り難がり,白身をも含めて壁 −35−
の「外」狽いこいる人の意見を「外」狽れこいる人の意見だからというだけの理由で軽視する ことだ。この卑屈な心性は,金関氏の言う「文化的キャリバンの対西洋無条件降伏」にち がいないし,漱石の言葉で言えば「本家本元の評家」の意見への盲従に他ならないからだ。 こうした態度が困るのは,西欧が文化において日本より先験的に上であり,従って後進匡│ である日本は進んだ西欧に何もかも学ばなくてはならない,という明治以来の哀しい精神 的負債から抜け出していないからである。すなわち,西欧を世界の中心と考える西欧中心 主義から。これに呪縛される限り,日本における外国文学研究は決して成り立たない。 なぜなら,「英文学」を例にとれば,本囚英国で行なわれる研究が最も進んだそして意 味ある研究であって,他順で行なわれる研究は二流以下であり,本匡│の研究者に他国の研 究者加決してかなわないのだとしたら,外匡│文学研究は本目で行なわれている研究の紹介 の域を出ようがないからだ。そして「英文学」研究者の取るべき正しい道は,英本国の活 発で重要な厳しい議論の現場へ入って行乱本匡│の研究法を身につけて本目で高い評価を 得る研究をする以外にはないことになる。そしてこの英匡│帰りの研究者が日本の「英文学」 研究をリードして行乱次には,この研究者の後進がやはり同じ様に渡英し,宇匡│のより 新しい研究を身につけて帰順し,日本の「英文学」研究をリードして行く…としたら,日 本の「英文学」研究は,巨大な紹介の伝統を持つことになるだけではないのか。これが学 問的隷属でなくて何だろう。学問とは進んだ外聞のまねびにすぎないのだろうか? だが,これには良い面がない訳ではない。本家本元の意図する線に沿ってではあれ,日 本の「英文学」研究はわずかながらでも進むのだから。それに日本の「外」の「英文学」 研究の動向を知ることに何の不都合があろう。それはむしろ望ましいことですらある。英 本開の研究とは完全に分離しか,日本の中でのみ通用する「漢学」のような虚学としての 「英文学」研究には,ゾッとしないではいられないからだ。それに外図文学研究者の㈲の 内には,対象とする匡│の文化への敬意もしくは憧れが必らず刊替んでいることも事実なのだ。 問題は,本家本元の研究動向および研究方法への無批判な,従って理解を伴なわぬ追従 にある。それは,研究対象とする順の文化の「内」側へ入ろうとする余り,「外」の日本 に対して研究者炉心を閉ざすことに通じるのである。外聞文学研究者が,白│らの心のあり かを,ここ日本という「外」ではな《,対象とする国の「内」側に置きたがるのは確かに ありがちな事ではある。だが,そうすると外匡│文学研究者け,自らの心の置き所である対 象とする国の文化の「外」にいる悲哀を,日本にいる限り味わっていなければならないこ とになる。 しかし,ここで立ち止まって考えてみなければならない。外匡│文学研究者の興味の中心 は一体どこにあるのか,と。すなわち,外白文学研究者の興味が,対象とする国の文化に 内属することにあるのか,それとも対象とする順が産んだ文学テクストにあるのか,を今 一度考えてみる必要かおるのだ。無論,前者と後者は切り離せるものではないが,前者を 取ろうとするなら,外匡│文学研究者け白│こ喪失の危機にどこかで見舞われずには済まない であろう。しかし後者を取るなら,外團文学研究者け対象とする国の文化の「内」碩Uから 日本という「外」へ出て来た,今,ここにあるテクストを相手に日本人としての感性を失 なうことな《,自分の意見を組み立てることができる。後者の立場を取りながら,わざわ ざ「外國文學を評する標準は彼にあつて我にない」などと考える必要はいささかもないで あろう。西欧文化という壁の「内卜部でしか通用しないような作品を本気で相手にする必
要などどこにもないからである。壁の「内」部から「外」部へ出る力を持つ作品のみを, われわれは文学と呼ぶのである。以下,研究の実際に則して,文化の「内」。「外」とテク ストとの関係を考えてみよう。 in.文学研突とは対象とする作家の思考に限りな《近づくことか 作品誕生時の意昧 シェイクスピア研究を例として考えてみる 概念図A ことにしよう。右のようなピラミッドを想定 してみよう。シェイクスピアの思考を研究対 象,すなわち〈実体〉と惜定し,シェイクス ピアの思考=〈実体〉→初演当時のシェイクス ピア劇→その後のシェイクスピア劇→英本匡│ 及び米匡│のシェイクスピア研究→日本その他 異文化内でのシェイクスピア研究,とい引順 に下位に行〈につれて〈実体〉であるシェイ クスピアの思考から遠ざかるピラミッドであ る。文化的・言語的に開一の枠内にいる者程, シェイクスピアの思考=〈実体〉に近《,従っ てシェイクスピア劇をより良く理解しうると する考え方を図にしたのが,このピラミッド である。この考え方に従えば,シェイクスピ アの作品は文化と言語を同じくするイギリス 人にしか分らず,他匡│で翻訳され上演される シェイクスピアは本物のシェイクスピアでは シェイクスピアの思考 II 〈実体〉 ない,という考えすら論理的整合性を持ち得ない。 20世紀のイギリス人が,たとえイギリスという匡│の文化の「内」側にいるとしても,16世紀イギリスの劇場でシェイクスピア劇を観ることは不可能なのだから,現在のイギリス関内においてすら本物のシェイクスピア劇は観られないことになる。恥世紀から現在までの4世紀聞にイギリスが経穴歴史が, 20世紀イギリス人と16世紀イギリス人とを分かつために,㈲者の問に横たわる時間的文化的差異加覆い難いものになるからだ。同一文化の「内」狽IJ,[司一の言語環境の中にいない者には本物のシェイクスピア劇が分らないとする考えを更に押し進めれば,シェイクスピアの同時代人であるエリザベス朝の観客ならシェイクスピア劇加理解できたことになりそうであるが,それとて十分臣しむに足るのである。そして詰まる所,シェイクスピア劇はシェイクスピア本人にしか分らないという不毛で排他的な結論に至る他なくなるのである。ならば一体何のためにシェイクスピアは劇を書いたのか?「理解する」が〈実体〉に限りな《近づ《ことだとする考えには,文学とは相容れないものかおるのではなかろうか? 無論,物理的 に近づこうとする場合にてある。では,精神的に近づこうとする場合はどうだろう。 「理解する」が精神的に《実体》に限りな〈近づくこと,比喩的には〈実体〉そのもの になることだとすると,研究者け対象とする作家の中に自らを失なうことによって自らを −37−
得るという宗教にも似たパラドックスを身を以って生きなければならなくなる。長年シェ イクスピア研究に打ち込んでいるうちに顔がどことかくシェイクスピアその人に似てくる という話や事実は確かに存在するのである。ただし,このように徹底する研究者は,上に 掲げたシェイクスピアを頂点とするピラミッドの底辺に自らを埋没させてはいない。彼も しくは彼女にとって,シェイクスピアとは,他国の過去の劇作家であるよりはむしろ,現 在の劇作家である。テクストとして存在するシェイクスピアの作品総体に彼または彼女は, あらゆる資料を駆使して追って行く。彼または彼女が,テクスト及び諸資料との格闘を通 して仮構する「シェイクスピア」は,シェイクスピアの思考の下位に置かれたあらゆる観 点を含みっつ,彼または彼女の現在において生きる「シェイクスピア」である。ここで言 う彼または彼女の「シェイクスピア」が真のシェイクスピア(〈実体〉としてのシェイク スピア)であるか否かの判断は,誰にもできない。真偽の基準かおるとすれば,彼または 彼女の「シェイクスピア」が真のシェイクスピアといかに近く感じられるか否かである。 つまり,彼言だけ彼女の「シェイクスピア」と真のシェイクスピアとの背丈の差の大小の みが真偽の判断基章となるのである。歴史的研究方法によって,当時のシェイクスピアを 蘇らせる方法を取るにせよ,今日的問題意識によってシェイクスピア劇を解剖するにせよ, 判断基準はここにしかない。こうした事情は,研究対象加誰であるにせよ,文学である限 り㈲じである。 無論,学者のをすべき極めて大切な仕事として訓詰の学はある。はるか遠い時代(外聞 文学であれば空間的にも遠い)のある作品の成立過程,作品中の語句の意味,その時代に おいて顕在化こそしないが作品が前提としてい為様冷か暗黙の丁解としてのサブ・テクス ト,当時劇なら劇がどのような条件のもとで観られ,また作られたか,等々の学者ならで はの仕事は,極めて大切である。こうした作業によって,作品はある時期のある国が産み 出しかものとして歴史の中にがっしりと定位され,あるべき解釈の始まりへ向かって自ら を開いて行くことが可能になるからだ。つま呪作品の誕生時点での「意珠」へ向かう基 礎作業が広い意珠での訓詰の学なのである。 この訓詰の学を更に一歩進めて,作品の「起源」へ遡及することによって作家の《実体》 に追ることができそうに思えるかも知れないが,そうではないのである。イ可を作品の「起 源」と見るかによって「起源」はいくらでも作り出しうるからだ。シェイクスピアが種本 としたホリンシェッドの『年代記』を起源と見ることも,またこの『年代記』が記そうと した事実を起源と見ることもできようし,シェイクスピアに先行する劇作家たちの作品を イギリスのみならず,ラテン,ギリシヤに遡って起源と見ることもできるし,またシェイ クスピアの作品鉄筆当時のイギリスを取り巻《政治状況へのシェイクスピアの反応を作品 の起源と見ることもできるからだ。従って,「起源」への遡及は,「起源」と作品との睦ま じい,あるいは不和の関係を導き出すことによって,作品の誕生時点における『意味』へ のヒントにはなり得ても,それ自体言語で構築された織物であるテクストの未来の意味を 発見することには必らずしもならないのである。 iに作品の未来の意昧 あ石時ある場で書かれた作品が読者と出会うのは,作品誕生以後である。時間的空間的 に一外聞文学の場合,空間の隔た白土いっそう大きい 隔った作品と読者の出会いが