絶対服従 による至福への道 :
キルケ ゴール的思考
市 沢 正 則
The Way to Joy Through
Absolute Obedience
in the Thought of Kierkegaard
Masanori Ichizawa
日
次
はじめに
Ⅰ
服従するとい うこと
1.人間の義務2.
服従のための条件3.
服従の定義Ⅱ 服従における問題点
1.二種類の 自己2.
二つの巨大 な力Ⅲ 服従の模範者
1. 自然2.
キ リス トⅣ 理性 と服従
1.理性 と服従の関係2.
見せ かけの服従Ⅴ 喜びと服従
Ⅵ 服従の日的
おわ りに
はじめに
「もしわた したちが この世 の生活でキ リス トにあって単 なる望み をいだいているだけ だ とすれば、わた したちは、すべての人の中で最 もあわれむべ き存在 となる。 (コリン ト清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 人への第-の手紙15:19)」 キルケゴールは、使徒パ ウロの この言葉 に言及 し、人間が究 極 に求めるのは何であるのか を探 り、次の結論 に達 した。「天 と地のあいだには、ただ一 つの道 しかない。 キ リス トに従 う道がそれである。 この地上 にあっては、ただ一つの永 遠の希望 しかない。 キリス トのあ とに従 って天 にいたるとい うのがそれである。人生 に は一つの祝福 された喜 びがある。 キ リス トのあ とに従 って天 にいたるのがそれである。 そ して死 においては、一つの祝福 された喜 びがある。キ リス トのみあ とに従 って生命 に いたる とい うのがそれである !
1
」す なわち、人間はキ リス トに従 うことによってのみ、 祝福 された喜びを得 ることがで きるのだ、と。デ ンマークの思想家キルケゴール(181 3-1855)の人生観 ・哲学思想は、人間に服従 を要求する神の存在 を根底 としてお り、彼 は、自 由意志 を持 っている我 々被造物が なさねばならぬ ことは神 に服従す ることであ り、それ が無条件 に我々に課 された義務である、 と考 える。キルケゴールの文筆活動の主 な 目的 は人間がこの責務 を遂行す るのを援助するための ものであ り、彼 自身の人生 もこれ を遂 行す るための トレーニ ングであ り、実践の場であった といって も過言ではないだろう。 本稿 においては、キルケゴールが考 える、「キ リス トに従 うこと」、すなわち服従する とは どうい うことなのか、服従す ることにおける問題点、服従す るための模範、喜 び と 服従、服従の 目的 とい う順 に、キルケゴールの表現 をで きるだけ引用 しなが ら考察 して い く。Ⅰ 服従するということ
1.人間の義務 全ての人間が最 も重要 な事 として、なさねばな らない普遍的なことは何であろうか。 そ もそ もその ような 「なさねばな らない」 ものは存在するのであろうか。キルケゴール は次の ように述べ ている。
「人間が なにを遂行 し、なにを遂行 しないか とい うことは、彼 の力で どうにもで きないことである。世界 を支配す るのは、決 してその人による もので はない。彼はひたす ら従 うべ きである。2」 キルケゴールが考 えていた 「世 界 を支配す る」もの とは神であった。「この不変の神 は 従順 を要求 され、最 も偉大 なものに も一番つ まらぬ ものに も、 この上 もな く広範囲に亘 る世界史的な偉業 の うちの一番無意味なことにも一番 日常的な企てにもこの同 じ従順 を、 今 まで生 きた者の うちの一番の勢力家か らも一番卑賎 な者か らもこの同 じものを、 また市沢 :絶対服従による至福への道 神の御心がなければ何 も、何 ひとつ許 されない全被造物か らもこの同 じものを要求 され る。3」 神が我 々人間に要求する もの、人間がなさねばな らない こととは、神への絶対服従で ある。では、その服従のためには人間は どの ような心の準備 を しなければならないのだ ろ うか。
2.
服従のための必要条件 人間に服従するためには仕 える人間に対 しての絶対的な信頼が必要である。では人に 仕 えるための条件 とは何であろうか。 人は、ただ一人のかたのみを、真 に、永遠 な意味 において 自分以上 に愛 し得 る。そ れはすなわち神である。それゆえ、「自分 を愛するようにあなたの神 を愛せ よ」と語 られているのではな くて、「心 をつ くし、精神 をつ くし、思 いをつ くして、主 なるあ なたの神 を愛せ よ」 と語 られているのである。 4 人間は神への愛 をもって服従 しなければな らない、 また、人間の神 に対す る愛 は 「無 条件的な服従であ り崇拝」であるべ きだ、とキルケゴールは主張す る。「た とえその神の 要求が君 自身にとって も、いなそれ どころか神 ご自身にとって も、有害 となるように見 えた として も、君は神 を無条件的な服従 において愛 さねばならない。 なぜ なら神 の知恵 は君の知恵 との比較 を許 さない ものであ り、また神の導 きも君の賢明 さに対 して弁明す る必要がないか らである。君はただ愛 において服従 しなければな らないのである。5
」又、 神 に対す る愛は隣人への愛であるので、それを踏 まえた上で神 に服従 し、 また、 自分が 神 にどの ように使 われるかは神の摂理であるので、覚悟 して我 々は生 きるべ きだ、 とキ ルケゴールは言 う。 いかなる人間 も、 どの ような地位が 自分 にとっては もっとも好適であるか とか、 ま た どの ような関係が 自分 にとっては もっとも有益であるかな どとい うことを最初 に 問 うべ きではない。神の摂理が彼 を用いたい と思い給 うときに、それが彼 を用 い給 うことがで きるような地点 に、 自分 自身を置 くとい うことが重要 なのである。 この 地点が まさに隣人に対する愛であ り、 また言いかえる と、人間が本質的にすべ ての 人に対 して平等 に存在する地点なのである。それ以外 のいかなる地点 も、た とえそ の地位がいかに有利で、快適で、 また見 た ところ重要であろうとも、その人 を分裂清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) した状態 にもた らす ものである。 6
3.
服従の定義 「自分の十字架 を負 うてわた しについて来る ものでなければ、わた しの弟子 となるこ とはで きない。 (ルカによる福音書1
4:1
7
)
」聖書 のこの一節 に関連 してキルケゴールは 述べ る。ある人間の人生 を導いて生命 に至 らしめる道案内は、ただ一つ しかない。主人 であるか下僕でるか、男であるか女であるかではな く、彼 らが主 イエス ・キ リス トに属 しているか、おのれ をキ リス ト者 と呼ぶか、である。では、「キ リス トのあ とに従 う人」 とは、 どの ような人間であるのか。『さまざまの精神 における建徳的講話3
』でキルケ ゴールは5
つの点 を記述 している。 (1)信ず る者 とおのれを呼ぶ こと 「信ず ることの意味は、わた しが探 し求めている ものはいまだここにない ものであ り、 い まだここにないか らこそわた しはこれ を信ず る、I ・信ずる者 を前方へ駆 りたてて、 この世の うちに安住 して しまうことをさせ ない、深 く、強い、祝福 された反安住運動 に 外 ならない。7」キルケ ゴールによる と、その ようなことを信 じる者 は以下の ような人 を 指す。敵の矢 に進み出て 自分の胸 に受 ける大胆不敵 な猛将の後 に従 う若い当番兵で もな い、人品高潔な夫 を人生の立派 な模範 と思い脇 に寄 り添い、 もたれかかるような風情で 歩 く妻で もない、た じろ ぐことを しなかった師匠が噸 け られた時に、師匠に身を隠 して もらった弟子で もない、親鳥が敵の襲来 をみて雛 をかば うために拡げた翼 に逃げ込 もう とした雛鳥のことで もない。従 うとい うことは、従お うとす るだれかが歩 んでいったの と同 じ道 を歩むことであ り、そのだれかは 目に見 えるかたちで先 を歩 んで くれることは ない。 8(2
)キ リス トの歩 んだ道 をひ とりで歩 むこと 幼児が ひとりで歩 くことを学 ばなければならない ように、我 々は自分で道 を選 びとっ ていかなければならない。 しか し、重大事 についての決断、永遠の幸せ に関する問題 に ついて相談で きる相手 は、一切の我意 を放棄 して心のいちばん奥 にある ものを捧 げ尽 く した ときのみ、 目に見 えない助 け としてやって くる。 9(3
)キ リス トの十字架 を引 き受け、 自分の十字架 として負 うこと 自分の十字架 を負 うとい う意味は、自分 自身を捨てること、「だれで もわた しについて市沢 :絶対服従 による至福への道 来たい と思 うなら、自分 を捨 て、自分の十字架 を負 うて、わた しに従 って きなさい。 (マ タイによる福音書
1
6:2
4)
」 と述べ るキ リス トの ことばその ままである。それは、「神 と 等 しくあることを固守すべ きこととは思わず、かえっておのれを低 くして、死 にいたる まで、 しか も十字架 の死 に至 るまで、従順 であ られた イエス ・キ リス トの こころ ざ し (ピリピ人への手紙2:6-8
の内容)」で もある。 自分 を捨 てるとは、 ひとつの善行、 高慢 な決意ではない。「もしあなたが完全 にな りたい と思 うな ら、あなたの持 ち物 を売 り払 い、貧 しい人び とに施 しなさい。 (マ タイによる福音書1
9:2
1
)
」 と単 に言 っている のではな く、「またやって きて、十字架 を取 り、そ してわた しに従 って きなさい。 (マル コによる福音書1
0:
2
1
)
」 と続 く。全ての もの を売 り払い貧 しい人に施す ことは始 ま りで あ り、次 になすべ きことはキ リス トに従 うこと、す なわち、長期間にわた り身 を擦 りへ らす こと、それは 「日々なされるべ き行動でなければな らない し、 これっ きりとい うも のであってはならない。あ とに従 う者が、おのれ を捨 てるときに、欣 んで手放す ことが で きない ようなものは、何 ひとつ、ほん とうに何 ひ とつ残 っていてはならない。あ とに 従 うものがおのれを捨 てるに当たって、その ことの妨 げになる ものが、俗 にい うほんの ち ょっ としたことであるか、ない しは重大 な問題であるかは、本質的 には どうで もよい ことである」loo(
4
) 自己愛 を捨 てること 人間には自己愛があるゆえに、最 も小 さい事柄 においてす ら自分 を捨 てることがあ ら ゆる偉業の うちで も至難の業である、 とキルケ ゴールは考 える。 要求がちっぽけで些細でけち くさい事柄 であればあるほど、 自己愛 にとってはます ます屈辱的である。そのた ぐいの要求 を義務的 に果た したか らといってその ことが、 われ とわが 目に、 また他人の 目にも、思い上が った気分 を くす ぐるような賞賛の的 に映 るわけはないか らである。 しか し、 まさにそ うであればこそ、 自分 を捨 てる と い うことは、それだけます ますその名 に値す る謙遜 な業 と言 えるわけである。 たっ たひとり、世の片隅で人か ら顧み られることもな く生 きている場合、 自分 を捨 てる とい うことが至難の業であるとは、そ もそ もどうい うわけであろうか。けだ しそれ は、一種の高尚な自己愛 もまた- 多数の人び とか ら驚歎の 目で見守 られている場 合- 自分 を捨ててかかることに堪能であるかに外 目には見えるか らであろ う。 ll ひとりの人間が 自分 を捨てる場合の具体的状況 は違 っていて も、その本質的な差異 は清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) ない。乞食 も国王 も、自己放棄す る場合 は同 じ条件である。 自己否定 とは、「自分 自身を 捨 てる とい う深い内面的な心以外の何 もので もない。そ してこれは重 く辛い労苦 にみち た ものである。それ とい うの も、 自己否定 とは疑い もな く重荷 を投 げ捨 てることで、そ の限 りではたやすい仕事 にも見 え もしょうが、 しか し、 自己愛が担 ぎたが っている他 な らぬその重荷 を投 げ捨て よといわれることは、 さすが に苦 しいことなのである」 12。
(5
) 自分 自身を捨 てること キ リス トが下僕の卑 しい姿で歩 んだの と同 じ道 をひとりで歩 くことである。す なわち、 「自分 を捨 てることによ り世 と世 に属す る一切 の ものを放棄 し、人 を唆 し人 をすか し編 す もの としてのあ らゆる しが らみ を断ち切 ったひとは、『自分の畑 に行 くことも、売 り買 いす ることも、また妻 を要 ることもしない』
。
」永遠 において我 々が問われるのは、「どれ ほ ど大 きな財産 をあ とに残 したか」
「どれほ ど多 くの勝利 を博 したか」
「どれほど賢明で あ り、 どれほ ど影響力が絶大であったか」ではな く、「天 にどれだけの富 を積 んだか」
「自分の欲望 をい くたび負か したか」
「自己統御 をどの ように達成 したか」
「自己否定 にお いてい くたび自分 を支配 しえたか」
「善 きことのためにすすんで犠牲 を払お うとしたか」 「い くたび敵 を赦 したか」
「い くたび誹諸 を辛抱づ よ く耐 えたか」
「きみが受 けた苦 しみは、 きみ 自身のせいではな く、 また きみの利己的な意図のせいで もな く、 自己否定 において 神のために受けた苦 しみであったか どうか」が永遠 によって問われる。 13Ⅱ 服従における問題点
1.二種類の 自己 キルケゴールは、人間 と神が考 える愛 には矛盾がある、又、正反対で もあるとも言い、 「愛 における服従」とい う点 について、この対立か ら生 じる問題点 をあげる。現代の世界 は人間 をあ らゆる拘束か ら、た とえそれが有益 な ものであろうと、解 き放 とうとしてい る。た とえば、「人間同士の感情関係」、
「個 々人を神 に結 びつけ、また、生のあ らゆる表 現 において結びつけるような拘束」か らもd愛の問題 においては、「嫌悪すべ き奴隷の時 代 は過 ぎ去 った」のであるか ら、神 に対す る人間の隷属性 を廃絶すべ きだ、 と新 しい教 えは説いている。 しか し、この教 えは神 を信 じない者の 自由さである。神 に対 してすべ ての人は誕生 によってではな く、無か ら創造 されることによって奴隷 として従属するの であるか ら、 この世の主人に奴隷が従属す るの とは比較 にならない違いである、 とキル市沢 :絶対服従 による至福への道 ケゴールは反駁 し、次の ように書いている。 この世の主人は、 まだ しも思想や感情の 自由は許容するのに対 し、人が神 に従属す る とい う場合 は、あ らゆる思いにおいて、最 も心 ひそかなる思いにおいてす らも、 またあ らゆる感情 において、最 もかすかな感情 においてす らも、あるゆる行動 にお いて、最 も内面的な行動 においてす らも、神 に従属す る、 とされるか らである。 し か も、人は、 こういった神への隷属 を、 しだいに煩 わ しい厄介事 と感ず るようにな る。そ こで人 は、多かれ少 なかれ、あか らさまに神 をお しのけ、その座 に人間 を - 人間の権利のなかへ と- 据 えることを考 えるのではないか ?14 「愛 における服従」について、我々人間が選択決定 しなければならない事柄 は、自分 自 身が最終的 目標 としている価値 とは何か、究極的 に愛す るもの とは何か、であろ う。キ ルケ ゴールは、『愛のわざ』の中で、二種類の人間存在 (それ 自身の存在 と神 のための存 在15)、 また 『死 に至 る病』では、二つの 自己 (人間的 自己 と神的 自己)の存在 を取 り上 げ、それぞれの人間が服従する対象 を述べ ている。彼 による と、人間の 自己意識 には段 階があ り、初期段階の自己は人間的な自己、す なわち、人間を尺度 とす る自己である。 しか し、この 自己は神 に面す ることによって、新 しい性 質 と資格 を受ける。 この段階で 人間的 自己は神的な自己、神 に直面す る自己になる。 自己が現 に神 の前 にあることを意識す るにいたるならば、神 を尺度 とす る人間的な 自己 となるならば、自己は、なん とい う無限な実存性 を獲得す ることであろ う !牝 牛 に面 して自己であるような牧人<そ うい うことがあ りうるとして>は、はなはだ 卑 しい 自己である、奴隷 に面 して 自己であるような主人 も、同様であって、それは もともと自己ではないのである- どち らの場合 にも、尺度が欠けているか らであ る。 これ まで単 に、両親 を尺度 としていたにす ぎなかった子供 は、大人 になって国 家 を尺度 とす ることによって、 自己 となる。 しか し、神 を尺度 とす るにいたるなら ば、なん とい う無限のアクセ ン トが 自己の上 におかれることであろ う !自己 を量 る 尺度 は、つねに、 自己がそれに面 して 自己であるその当の ものである、そ して これ が また、「尺度」が何であるかの定義で もある。同質の量だけが加算で きるように、 あ らゆる事物 は、それが量 られる尺度 になるもの と同質である。そ して質的 にその 尺度であるものは、倫理的にはその 目標 なのである。 16 『NewObedience』 においてBradeleyK.Deweyはキルケ ゴールが意味す る二 つ の異
清泉女学院短期大学研 究紀要 (第21号) なった自己の働 きを以下の ように説明 している。 人間的 自己は完全 に世俗的な状況で行動 し、キルケゴールが考 える明確 なキ リス ト 教 的な意味合い とは全 くかけ離れている。人間的 自己を所持 している人間の範囲は 成長過程の初期 にある子供か ら非常 に知的な大人に至 るまで広範囲 に渡 る。- ・発 達期の どの レベルであろうと、世俗的人生の どの ようなス タイルで生 きようと、新 約聖書のキ リス ト教が要求す る領域以外 で行動する限 りにおいては、 自己は人間的 自己 と称 される。 - ・段 階 を上昇 していった人間的 自己が明 らか に宗教的領域 に入 り、キ リス ト教が教 える人生 を生 きようと努力す る時、その 自己は神 的 自己 にな る。- ・積極的にキ リス ト教の使徒的生活 を行 うことによって 自己は より高め られ、 神 的 自己へ移行 してい く。神 的 自己 は人 間的 自己 とは質的 な違 いが あ るのであ る。 17 神 の観念が増す につれて、それだけ自己 も増 し、それにつれて、 また神の観念 も増す。 自己が神の前 にあることを意識する とき、初めて人間的 自己は無限の 自己になる。神か ら供給 されている完堅 さ無限性へ と向か う質 を備 えているのは神的 自己であ り、神 を理 解 し、神 との関係 を持 っている人間は人間 としての一番高度 な完成度 に常 に近づいてい る。我 々が神的 自己になった時に、人間的 自己は最後のゴールに到 し、そ こか らまた新 しい生活が始 まるのだ と、キルケゴールは論 じる。 しか し自己が神の観念 を保持 していなが らも、神が望む ように望めない場合 は、神 に 不従順である。異教徒や 自然の ままの人間は、ただ人間的な自己を尺度 として もってい るにす ぎない18。であるか ら、この世的世界、又 は、人間的 自己に存在す る限 りにおいて、 真の意味での服従 を理解す ることはで きない。
2.
二つの巨大な力 人間は二つの巨大 な力 (神 と悪徳 としての富、神 と堕落 した世界、善 と悪)の間に置 かれ、どちらかに属する。 この二つの力は烈 しい敵対関係 にあ り、「一方 にただ少 し傾い て も、他の側か らは絶対的な離反 とみ られる19」ので、我 々はどち らか を愛す るか憎 むか しなければな らない、 とキルケゴールは警告す る。人間は 「危険の中に呑 み込 まれ、 自 己 を失 っていて、そのために神がかれに注 ぎ給 うている愛 について理解 をもたず、神が 愛すればこそ、絶対服従 を要求 し給 うのだ とい うことを考 えず、 また悪の力 とその枚智市沢 :絶対服従 による至福への道 と、そ してかれ自身の弱 さについて理解 をもたぬ」 20。人間はこの巨大 な二つの力 に常 に 直面 していることを、不幸 にも忘れているか、又 は、忘れ去 るように導かれている、 と も彼 は言 う。サ タンは人間を神か ら離れ させ、 自分の下 に導 くため にあ らん限 りの努力 をす る。最良の方法 は人間に備わっている機能 (理性) を、そ して人間が持つ二つの性 質 (忘却 と記憶)の一つ、忘却 を使 うこ とであ る。ゆえに、神 が 人間 に常 に祈 る こと (主の祈 り 『私たちを誘惑 に陥 らせず、悪か らお救い下 さい』) を強いているのは理解で きる。キルケゴールが神-の服従 をこれほ どまでに強調す る理由は以下の通 りである。 「サ タンが 自己の獲物 として眼 を光 らせ て窺 っている もの- しか もそれは百合や鳥の もとにはい まだかつて存在 しなかったのであるが、- またあ らゆる誘惑が 自己の獲物 として確信 して付 け狙 っている もの - ・、それは暖昧 さである。暖昧 さのある ところ には誘惑があ り、- ・なん らかの意味で根本 に不従順 もまた潜 んでいる。21」 キルケ ゴー ルはこの暖味 さと誘惑の関係 も説明す る
。
「全然暖味 な ものが存在 しない ところでは、 サ タンは無力であ り、全然暖昧 さのない ものの存在 しない ところでは、誘惑 は無力であ る。- ち ょうど民 をもった小鳥捕 りが、鳥 を兄いだす ことがで きぬ ときの ように無力 である。 しか し、 どんなにどんなに少 しばか りの暖昧 さが存在 して も、サ タンは強 くな り、誘惑 は圧倒的 となる。そ して悪であるかれは眼光が鋭 く、その民 は誘惑 といわれ、 その飼物 は人間の魂 といわれる。2
2
」
人間が神 に服従 している限 りにおいては、敵か ら逃れることがで き、誘惑 もされない。 「絶対服従 によって神 の中に身 を隠 している人間は、絶対 に安全である。かれは安全 な 隠れ場所か ら悪魔 を見 ることがで きるのであるが、悪魔 はかれ を兄いだす ことがで きな いのである。2
3
」
Ⅲ
服従の模範者
我 々人間は時間に制約 され、移 り気で、瞬間的な存在物であるゆえに、人間の中か ら 服従 についての良 き模範者 を見つけ出す ことはほ とんど不可能である、 とキルケ ゴール は考 える。では、真 の意味での服従 を学 ぶ には どこを探せ ば よいのだろ うか。 キルケ ゴールは二つの模範 をあげる。一つは我 々の周 りの 自然か ら、 もう一つは我 々が歴史的 に知 るキリス トと我 々の内に潜 むキ リス トである。10 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 1. 自然 「自然 においてはすべてが服従であ り、絶対服従である」 とキルケ ゴールは確信する。 「ここでは 『天におけるが ごとく地 にて もまた神の意志が成 っている。』- ・神がただ全 能者であるためにすべての ものは、 どんなにつ まらぬ もので も、神の意志 な くしては起 こらない。」どんなに些細 な、又は大 きな人間の不従順 も、また個々の人間、又 は全人類 の不従順 も、「全能者の意志 に反 してはいかにささいなことといえども為 しえない」。マ タイによる福音書 (10:29)の 「御心 な くば-羽の雀 も地 におつることな し」 を引用 し、 キルケゴールは自然 においては全ての ものがいかに絶対服従であるか を叙情詩的に描写 す る。 風 の ざわめ き、森の冴 (こだま)、小川のせせ らぎ、夏の虫のぶーん とい う捻 り、木 の葉の さや ぎ、草の噴 き、あ りとあ らゆる声、汝の聞 くあ りとあ らゆる声 は、その すべ てが服従であ り、絶対服従である。 こうして汝は天体の従順 なる運行 において 神 を知 りうるように、そこにおいて も神 を知 りうるのである。 しか も酷暑の恐 ろ し さや、雲の軽 やかな柔軟 さ、そ して大海の滴 るような流動性 とその凝衆力、それに 音響の迅速 さと光線のいっそ う大 なる迅速 さ、それ らのすべてが服従 なのである。 そ して太陽が暁の鐘の音 とともに昇 り、夕の鐘の音 とともに沈みゆ くこと、そ して 風がたちまちに して変わること、 また時 を定めて盈 ちては退 きゆ く潮の干満、そ し て正 しく循 る四季の循環、すべ ての ことはみんな服従 なのである。 24 服従 を学ぶため には特 に野 に咲 く百合 と空 に飛 んでいる小鳥 たちを見 よ、 とキルケ ゴールはア ドバ イスす る
。
「御使いたちが神 の どんな指図 にも従順 な神の使者 であ り、 神が風 を御使い とされるならば、鳥や百合 もまった く同 じように従順である、た とえ神 が彼 らを使者 としてお使いにならない として も、 また神 には彼 らの使いみちが ない よう だ として もである。鳥や百合は神 に使われることによって勿体ぶる機会 を持 たず、謙虚 にも自分 を余計者の ように感 じている。 しか しだか らといって、彼 らは神 に愛 されるの が少 ないわけではな く、 またそ うい う余計者であることが最低の幸福 だ とい うので もな い。- ・鳥や百合の ように 『たったひとりの主 に仕 えよ、あなたの心 をつ くし、思いを つ くし、力 をつ くしてその主 に仕 えよ』。25」そ して彼等か ら我 々は以下の ような絶対服 従 を学ぶ ことがで きると言 う。市沢 :絶対服従 による至福-の道 ll (1)我 々は自尊 してはいけない。 多 くの事がで き、 また才能があるか らと言 って忙 しく専心 して、高慢 になるべ きでは ない。多忙 な社会では非凡 な人間が彼 に課 された状況が適 さないので、余計者 になるこ とはよくある。 しか し、彼が余計者であるか らこそ、多忙 だ と言 って もったいぶ る者 よ りも創造者の名誉 にもっ と役立つ。「キ リス トの足 もとにひざまずいていたマ リアの方 が、忙 しく動 き廻 ったマル タよ りキリス トを敬 った ように (ルカによる福音書10:38)、 百合や鳥 も神が創造の時、惜 しげ もな く使われた美 と余 りものである。 しか し彼 らがそ うい う余計者であるか らこそ、彼 らか らはまた最 も完全 な従順が要求 される。26」
(2
)我 々は命令す る人 に注意 を払い、その人にのみ仕 えるべ きである。 百合や鳥は 「『あの主』に仕 えて、ほかの主の ことは考 えず、あの主 に関係のない こと は何 ひとつ考 えない」27。鳥は自由に飛 んでいるように見 えるが、それは不決断のせいで はな く喜 びのせいであ り、気 まぐれではな く 「完全な従順 の固い確 固たる決心」である。 時 には、何 かにとま り心配 ごとがあるかの ようにうなだれるが、それは 「慰めのなさで はな く、それは主 に仕 えているため28」である。
「旅 をすべ き瞬間が鳥 に訪れる とき、鳥 は心の中で この ままの幸福 をなお保 ちうることを確信 し、旅 をすることによって確実 な ものを放棄 して、不確実なる ものを擢 むことになる と確信 して も、それで も従順 な鳥 は 即座 に旅 をは じめるのである。29」鳥は、自己の遭遇す る全てのことは本来的に彼 には関 係がな く、絶対的 に関係のあることは遭遇す ることにおいて神 に絶対的 に従 うことと理 解 している、 とキルケゴールは鳥の従順 さを賞賛す る。(
3
)我 々は与 えられた状況 と能力 を快 く受 け入れ、与 え られた可能性 を実現す るために 全力 を尽 くすべ きである。 百合の置かれている場所が この うえな く不幸 な場所であって、- ・百合 を見て喜 ん で くれる人はだれ一人気づかないであろうことが、あ らか じめわか り切 っていて も、 あるいはその環境が ・・・もっと絶望的に不幸 であって、その場所 は探 し求め られ ないばか りでな く、かえって避けて通 られる として も、従順 な百合 は自己の運命 に 服従 して、美 しきの限 りを尽 くして花咲 くのである。 30 百合が美 しくあることを妨 げようとす る環境 の下で、美 しくあること、完全 に自分 自 身であ り、 自分 を保 ちえること、何の思い煩 い もな しに美 しきを極 めていること、 これ らがで きるのは百合が神 に絶対 に服従 しているか らである、 とキルケゴールは解釈 し、12 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) 次の ように記 している。 絶対服従 を通 してのみ人は少 しの狂 い もな く、 自己の立つべ き 『その』地点 にであ い うる ・・・それがた とえ肥溜であって も、そんなことは どうで もよい ことを理解 す る。- ・膏 (つぼみ)の開 くその瞬間に、不運 にもその ことをほぼ確実 に予感 し なが ら、 しか もその まま折 りとられる とい うようなことがお ころ うとも ・・・絶対 に服従 して自己の没落 を迎 えたのである。- ・百合 は実際 にそのあ らゆる可能性 を 展 開 したのである。その同 じ瞬間 に自己の死が訪 れる とい う考 えに妨 げ られない で ・ 。 31
(4
)我 々は疑 わず物事 をなすべ きである。 鳥が この世の冷酷 さに打 たれる時、鳥が不遇 と不幸の中で試 される時、鳥が幾 日も 幾 日も来る朝 ごとに、 自分の巣の こわ されているのを兄いだす ような時、その よう な時で も、従順 な鳥は 日ご と最初 の時 と同 じような喜び と骨折 りをもって、仕事 を 初めか らや り直すのである。鳥 は単純 に絶対服従 に助 け られて、一つの ことを理解 しているのであるが、自己の責務 をのみ尽 くす ことが 自己の仕事 であるとい うこと を、絶対的に理解 しているのである。 32 百合や鳥 と人間では服従の度合が違 う。前者 は 「妥協的手段や急場の間に合 わせ策」 は とらず、「少 し従 って、少 し従わないで」とい うことは しない。服従 においては非常 に 単純で 「かれ らは生起するすべての ものは神の絶対的意志 によることを信 じてお り、世 界においては神の意志 に絶対服従 して行為す るか、あるいは神の意志 に絶対服従 して順 応す るか より外 に、全然道のない ことを信 じている」33。結果 として、彼等 は心配 しない。 しか し、人間は常 に懐疑 し、複雑 に考 えて しまう。 自分の存在意味が無いのではないか と疑い、 自分 は可能性 を実現 しているんだ と自分 に偽 り、 自分以上の ものになろうとし、 自分が与 えられた能力以上の ことを しようとする。結果は明 らかである。人間は絶望 に 陥 る。鳥や百合 はこう解釈す るだろ う。
「私 は自分で場所や境遇 を定 めることはで きな かった。従 ってその ことは全然私の関与せぬ ことである。私が今在 る ところに立 ってい ることは神の意志である34」 と。 しか し人間は不満 を言 う。
「美 しい とい う印象の無効 に なることのわか り切 っているような、非常 に思わ しくない環境で花咲 くことは、苦 しい ことであ り、耐 えがたいことである。」そ して 「怨恨 のために凋むであろう」。 百合 はどこに自分が置かれ ようと、 どの ようにそ していつ 自分の存在が終わるのかに市沢 1.絶対服従 による至福への遺 13 ついては気 に していない。 とい うのはすべ ては神 の意志 でなされる と信 じている
。
「た とえ百合の出あった場所が この うえ もな く不幸 な場所であって、ち ょうど菅の開 くその 瞬間に、不運 にもそのことをほぼ確実 に予感 しなが ら、 しか もその まま折 り取 られる よ うなことが起 ころうとも、従 って百合の発育 は没落であ り、実際、百合の発育 して美 し くなるのは、一見 した ところ単 に没落す るためにす ぎなかった として も、従順 な百合 は 従順 にそ こにとま り、それが神の意志 であることを知 っている。そ して百合 は菅 を開 く のである。35」 しか し、人間が百合の立場 に置かれた ら 「発育 と没落が一つであることを 思 って、おそ らく絶望するであろう。そ してその まま絶望のために、た とえ一瞬 にせ よ われわれの成 りえたであろうものに成 ることを自ら止めるであろう」36。それゆえに、確 実である自分の破滅 についての思い悩みで、人間は自己の可能性 を展開 (自分 自身にな ることを妨げ)で きず、「何の為 に、何故 に、それが何の役 に立つのか」 と問いただす こ とになる。 キルケゴールは百合が肥溜で花 を咲かせ ることは芸術 である と言 う。百合が美 しい と い うことが芸術 なのではな く、不遇 な状況の中で美 しくあ り、 自己 を保 ち、美 しきを保 ち、思い煩 わないことが芸術 である、と。
「百合がそ うした環境 にもかかわ らず、百合 自 身であ りうるのは、百合が神 に絶対 に服従 しているか らである。37」ゆえに、人間 も自分 の生 まれ出る瞬間が常 に死 に直面 しているとい う事実 に思い煩 わ されず に、 自己の可能 性 を展開で きるはずであ り、百合の絶対服従 は我 々に 「没落 と目賭 (もくと) しつつ、 自己の美 しさを残 り隈 な く展開する勇気 と信仰38」 を与 えて くれる。 百合 と鳥 には全 く対象的な違いがある。前者 は種が一旦落ちた場所 に根 を張れば、 自 分の意志ではそこを一生動 くことがで きない。後者 は自分で動 くことがで きる限 り、常 に場所 を移動 し、生 き続 ける。人間の場合 も様 々な状況がある。ある人は自分 の住居 か ら移動 した くて も移動で きず にそこで生 き続 ける人、ある人は移動 した くはないけれ ど も、移動 しなければならない人。 しか し、人間 も、百合や鳥の ように、与 え られた状況 の中で導かれるままに、そ して自分 に与 えられた役割 は何かを考 え、その答 えに忠実 に 従い、最善 を尽 くすべ きだ、 とキルケゴールはア ドバ イス をしているのではないだろ う か。14 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号)
2.
キ リス ト 我 々はキ リス トか らも服従 を学ぶ ことがで きる。キ リス トは道であ り、服従 を学び、 そ して全 てのことについて父なる神の意志 に服従 していた。ではキ リス トはどの ように 服従 を学 び、キ リス トの服従は我 々に何 を教 えるのだろうか。キルケゴールは 『キリス ト教の修練』の中でキ リス トが服従 を学 んだ方法 を記述 している。 かれは、- ・或 るほかの使命 をも果た さなければな らなかった。それは、 自分 自身 の生 き方 をもって真理 を世 に顕わす こと、つ ま り真理 とはなにか を身 をもって示す ことであった。それゆえまことの人間であるかれは、その生涯 をかけてこの使命 を も忠実 に全 うしなければならなかった。か くしてかれは、或 る課題 をもって生 き、 その受 けた苦 しみによってみずか ら従順 を学 び、真理 とな りかつ真理 として生 きる 境地 にまで- 全 く人間的な言い方 をすれば (しか もそれは、 まことの人間である かれに対 しては、当然 に許 されるこ とであろう)- 成長 していったのである。 こ の使命 を全 うしつつ、 また全 うす ることによって、かれは同時 にすべ ての人をみ も とに引 きよせ ん と求めた もうた。そ して 自分 自身の前 に置かれた この使命 を最後 ま で、すなわち死 に至 るまで、十字架の死 に至 るまで従順 に全 うした もうた。 - ・か れはその走 るべ き道の りを果た し、その業 を、すなわちかれに負わ された、ない し はかれが 自発的に負 った従順の務 め をな し終 えた もうた。39 この世 に生 きることは試みを受けること、一種の試験 である、 とキルケゴールは考え る。人間が受けなければならない最大の試験、つ まり全生涯 をあげて当た らなければな らない試験 とは、キ リス ト者 となること、キ リス ト者 として生 きることである。その人 の活動が、人間的 に考 えて最大の規模であろうと、狭い範囲に限 られてい ようと、人間 が この世でやろうとする全ての ことは、結論的に受験準備の意味 しか もたないのではな いか、 と彼は我 々にチ ャレンジす る。 人々は、世で 「一旗 あげる」 ことに夢 中にな り、 また他人が どんなことを して一旗 あげたかについて、そ して自分 自身が どんなことを して一旗あげたかについて、夢 中になって語 るのである。世界史は審判であると説 き聞かせ る人がいることを、私 は知 っているO - ・それが人間の狂滑 な知恵の発明 にかかる ものであることも知 っ ている。実はそれによって人間は、神 とのかかわ りを断ち きり、 自分 自身を主人公 と してお し出 し、みずか ら摂理 の役割 まで も演 じようとす るのであ り、それゆえ市沢 :絶対服従 による至福への道 15 もっぱ ら人生の結果ばか りを気 に して、ほん とうはあ らゆる瞬間に人間がただひた す ら神か ら試験 されている とい う厳粛 な事実 を思いみないのである
。
「一旗 あげる」 とは、お よそ人間が 自分でなに一つ左右で きる問題ではな く、神のみ手 に握 られて いて、個 々の人間の生涯 に神か らつけ加 え られる賞与 なのである。 しか し個 々の人 間 自身 としては、 自己の全生涯、 またそ こでの一つ一つの行動が、神 とい う試験官 の前で受 けている試験以外 のなにものであって もならぬ。人間 としてだけ見 るな ら ば、キ リス トの生涯です ら - ・かれ 自身にとっては、ひ とえに試練であ り、試験 であった。すなわち従順 をためされる試験であった。・・・人間的 に語 るとすれば、 かれはその試練 にうち勝 ち、衆人に模範 を示 し、そ していまや高 きところにいる。 40 キリス トは神か ら与 えられた務めを全 うす るために、全てを放棄す ることにおいて従 順であ り、死 に至 るまで全て を神のみ手 に任せ た。結果 として、彼 自身が苦 しむことで 服従 を学んだ。キルケゴールは 『あれか、 これか』で、服従 と苦悩の関係 を次の ように 述べている。「絶対 的な行動 と絶対的な受苦 との同一性 は、美学的 な ものの力の及 ばな い ものであ り、形而上学的な ものに所属す る。キ リス トの生涯のなかにはこの同一性が ある。なぜ な ら、彼の受苦 は絶対的に自由な行動 だか ら絶対的であ り、彼 の行動 は絶対 的な従順だか ら絶対的な受苦である。41」 キ リス ト者 は鳥 よりも従順 であるとキルケ ゴールは言 う。鳥は神の御心以外何 も意志 を持 たないが、キ リス ト者 は別の意志 を持 ってお り、 この意志 を神 に対す る服従の中で たえず犠牲 にす る。「各人が この上 もな く愛す ることので きる実 にさまざまな もの、女 性 や 自分の子供や父親や祖 国や芸術や学問な どについて語 られるが、 しか し各々の人間 が結局一番愛す るもの、 自分のたった一人の契約の子 (アブラハ ムの子 イサ ク) よ りも、 天 に も地 に もた った ひ と りの恋 人 よ りも愛 す る もの、それ はや は り自分 の意志 で あ る。 42」ゆえにキ リス ト者 は苦悩する。 とい うのは彼 らは一番愛す る もの、す なわち自分 の意志 を放棄 しなければな らない。 しか し、キ リス ト者 は 「いつ も喜 び、いつ も感謝 し ている」。 なぜ なら 「従順 こそそれ らに至 る道であるとい うこと、それ を彼 は道その もの であるあの方か らすでに学んだ し、今 も学 んでいる、あの方 は御 自分 も従順 を学 ばれ、 従順であ られ、すべてに従順 であ られ、従順 に もすべてを放棄 され、従順 に も万事 な し です まされ、従順 にもすべてをみずか ら引 き受 け られ、従順 に もすべ てを悩 まれ、生存 中は従順 にもすべてに自分 を隷属 させ られ、死 んで も従順であ られたのである。 43」
16 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号)
Ⅳ 理性 と服従
1.理性 と服従の関係 どんな人間 も本性 として不従順 を好 む傾向 をもっている。そこで人間は服従す ること を避けるために、理性 を持 ち込 ちこんだ。ゆえに、人間の理性が発達す るにつれて、服 従心が退化 している、 とキルケゴールは懸念す る。理性 と服従 について彼が案 じている 相関関係 を6つ取 り上げた。 44 (1)知性が増す ことで、従順が減 る。 「人間の知性や理解力、倣慢 な自己主張 などが よ り発展すれば、キ リス ト教 においては 服従が よ り少 な くな り、- ・キ リス ト教圏の中ではキ リス ト教が要求す る服従 は取 り去 られ、理性がそのかわ りをして きた。45」人は従順 を恥 じ、命令す ることも命令 されるこ とも好 まず、キ リス ト教的服従 は抹殺 された。す なわち、や さしい慰めが厳 しい要求の かわ りに持 ち込 まれた、 とキルケゴールは人間の巧妙 さを嘆 く。(2
)世界が進展すればす るほど、キ リス ト教 は退化す る。 人間はキリス ト教 と俗世界 を同質化 させ ることを望む。世界が進歩 している とい うこ とは否定 しないが、神 を喜 ばせ るとい う進歩ではない。その状況 は、父親が純真 さをな くした子 どもについて感 じるように、何か最上の もの を失 った と神が感 じている状況 と 似 ている。す なわち、キ リス ト教の歴史は衰退であ り、俗世界 とキ リス ト教が同一化 し てい く歴史である。 46 (3)神 を喜ばせ ようと考 えるほ ど、神の無限性 とい う概念が薄れる。 キ リス ト教 は摂理 として無条件服従 を望む。あれや これをして神 を喜ばせ ようとい う のは子 どもが よ くする考 え違いで、神 とい うものは、無限の主であ り、その統治者の崇 高 さはそのような子 どもじみた考 えを許 さない。 47 (4)理性が発達すると、信仰が少 な くなる。 ある人間が 自分 よ り高い地位の者 に服従 している限 り、彼 は権威 を持 って他 に命令が で きる。 しか し、彼が服従すべ きか どうか疑いだす と、彼 は命令 を出す ことがで きな く な り、理由を述べ始める。科学が発達す るに従い、人間は信仰す ること-の疑問 を抱 き だ し、不信仰の理 由を話 しだす とい うことは、信仰への服従がな くなって きているとい う間接 的な標 Lである。 48市沢 :絶対服従 による至福への道 17
(5
)教理が多ければ、実践が少な くなる。 キ リス ト教が現実 に存在 している、使徒 たちが存在 している、真の模倣がある、 と考 えられている場合 は、教師 になるための修業 には修道上的な性格があ った。す なわち、 服従 を学ぶ、俗世界か ら身を引 く、 自己犠牲 をする、修道士的生活 を実践す るなど。 キ リス ト教が教義以外のなにもので もな くなった時、教師になるための試験 は単 に学問的 な試験 になる。す なわち、実践す るこ とに関 しては決 して尋 ね られる こ とが な くなっ た。 49 (6)科学が進歩すれば、修練 は少な くなる。 一生懸命 に実践 しようと奮 闘 している人がいれば、他の人々は自分 自身の怠惰 さを弁 護 す るため に科学 をす ぐに持 ち出 し、その人 間 を純粋理論 の人 間 に転 向 させ て しま う 。 50 理性、知性、科学、そ して理解力は人間の境遇 を改善す るように見 えるが、 これ らは 時 として人間の神 との関係 においては否定的 に作用す る、すなわち、人間が よ り密接 に 神 に接 しようとす る真筆 な思 い を避 けるための手段 として用 い られてい る、 とキルケ ゴールは懸念す る。 どうしてこのようなことが起 るのであろうか。 これ らの機能 自体 は 悪い ものではないが、非難すべ きはそれ を使用する人間である。人間は卑劣で悪賢 く、 苦痛 を被 ることを逃れ、 よ り楽 な人生 を送 ろ うとするため、使徒 になることを避 ける。 神 との関係 を保 ち、神 に従 うには受難 しなければな らない と知 っているため、 どの よう にこの窮屈 さを避けることがで きるのか を考 える。では人間はこの行動 を正 当化す るた めにどのようなことを案出す るのだろうか。 キルケゴールは人間の本性 の悪賢 さ巧 み さ を次の ように説明す る。 これ ら科学 とい うものは何 なのだろ う ?人類がキ リス ト教か ら自分 自身 を守 るため の道具 なのではないか。- ・各人は告 白す る :新約聖書 は根本的には理解 しやすい。 しか し、肉 と血 をもった人間にとって、実際 に言 っていることを実行す るのは難 し い。『持 っている ものをすべて貧乏人に与 えよ。
』 この事 は理解す るには難 しい こと であろうか。根本的には難 しくないだろう。 しか し、私 は自由を好 むが、単純 に『い や』とは言 う勇気 はない。それで科学 に足 を運ぶ。そ して言お う、『自分 としてぜ ひ それを したい と思 う。 しか し、異説 もあるに違いない し、解釈の方法 も完全 に決定 しているわけで もない。聖書原典の参考資料 も助 けになるだろうし・ ・ 。 5118 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 上述の告 白者 は信仰者 によってアプローチ された次の無神論者 に似ているのではない だろ うか。彼 は俗世界的な快楽や 自由を愛 しているので、誰 にも制約 されて生 きた くな い と思 っている。 また、 自分で も利己的で、怠惰 である と知 っている。彼 は真 の幸福、 喜 び、愛、 自由、心の平和 を与 えて くれる神 を信 じたいか と聞かれる。 これ らを得 るた めには何 を代償 に払 わなければな らないか薄々感 じていたので、彼 はその信仰者 に神が 存在 しているとい う科学的な証明 を要求す る。 また、彼 は自分が神 を信 じない理 由を述 べ る。罪のない正直 な人が どうして苦痛 な目に遭わなければな らないのか ;人々は自分 達が信 じている神 の名の もとに異教徒 を殺害す る ;哀れみ深 く、愛深い神が存在す るな ら、 どうしてその ような不平等 をその まま黙 しているのか。 しか しなが ら、彼 は、主観 的な自分史、誰 にも知 られた くない内なる自分 を隠すために、人類史の客観的な事実 を 述べ、神の存在の科学的証明を求め、苦 しんでいる何の罪 もない人々を道具 を して使用 しているのではないだろうか。
2.
見せかけの服従 真 に服従するかわ りに、人間は理性 を使 って見せかけの服従 をする傾向 もある。そ う す るために、人間はまず、自分 自身を、他人 を、そ して神 まで をも欺 こうとす る。キル ケゴールはこの ような行動 を人間の愚鈍 さと呼 び、三つの例 を上 げている。 (1)ある衣装 を着て真の 自分 を隠す人間 人間が 自分 自身のね うちによって、 自由によって、善への意志 によって世界 史上の人 物 とな りえない と分かった時、そ して もしある人間がそ うした気づかいを投 げ うち、そ の誘惑 か ら身を振 り切 ることをせずに、かえって他人のためを思 ってやっているんだな どとい う神聖 な口実 (神聖 な衣装で着飾 っているように52)の もとに自己のそ うした状態 を美化す るな らば、その人間は非倫理的であって、神 との取引 きにおいて、神 はやは り この俺様 を必要 としているんだ とい う考 えをふてぶて しくも決め こもうとす るのだ。だ が これ こそ愚か とい うもの。神 は人間など必要 とは したまわないか らである。 53(2
)見ためは賢 く見える、才能ある使用人 国王や哲学者 に犀利有能な頭脳の持 ち主がついていて、 自分 自身は忠実な臣下で も真 の信奉者で もないのに、国王の権力 を擁護 し哲学者の教説 を支持 し、 もって万人 を国王 -の恭順、哲学者への帰依 に引 き入れる役 を果 た して くれることは、おそ らくそんなに市沢 :絶対服従 による至福への道 19 悪いことではあるまい。だが神 にむかって までその術 (て) を使お うとい うのな ら、 こ れはい ささか愚考 に類する。 54 (3)不適切 な動機 を持 った世界征服者 ある男 にとって恐 ろ しい重荷 は、神が一番興味 を持 っているのは人間が神 に服従す る ことだ、 と認識することであった。我 々の周 りには多 くの違いがあ り、ある事 は他 よ り 重要な事である。そこで、男 はこの重荷 をどこかに追い払いたい と思い、 自分 自身に言 い聞かせ る。「多分、ある事が他のことよ りも重要であるように、様 々な違いで もって神 をごまかす ことがで きるのではないか」と。彼 は全世界を統治す ることがで きた時、「神 もその統治 は重要 なことと考 えるだろ うし、叉、神 はそれほ ど赦密 に詳 しく物事 を詮索 しないだろう」 と考 える。 55
V
喜びと服従
人間は苦痛 を避 けるためには何事で もす るようだ。ゆえに服従することは人間行動の 優先順位の中では最後 に位置す るのだろう。 しか し、新約聖書ではその順位 は逆である。 「患難 をも喜 んでいる。なぜ な ら患難 は忍耐 を生み出 し、忍耐 は練達 を生み出 し、練達は 希望 を生みだす ことを知 っている。 (ローマ人への手紙5:1)」服従 は忍耐、謙遜、卑 下、苦痛 など常 に否定的な要素 を要求 しているようだが、服従す ることにおいては喜 び の要素 はないのだろうか。キルケゴールは次の ように述べている。 純粋 に人間的なものは神 に関 してはあ ま り語 らず、主 として人間的な事象の可変性 について憂夢 そ うに口を開 くとい う傾向 をもつが、使徒 はただただ神 の不変性 につ いてのみ語 ろ うとする。使徒 はそ うした ものである。彼 にとっては神 の不変性 の思 想 は、ただただ慰め、平安、喜悦、浄福 だけであることを忘れてはならない。つ ま り使徒が使徒 たること、彼が絶対の服従 においてすでにず っ と以前か ら神の不変性 に身を献 じて きた とい うこと、彼が道程の出発点 にではな くむ しろ到達点 にたつ も のであ り、その道程 は狭 くはあるが よき道であることを忘れてはな らない。それは、 彼がみずか らすべてを排 して選び、永遠性 をさして、背後 を振 り向かず、い よい よ 足早 に、確 固 として歩んでいった道 なのだ。56 キルケ ゴールは 『キ リス ト教 的講話 1』第7章 において も服従 における喜 びについて 記述 している。 5720 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) 1.人間が理解 していることをはめ賛 えないで、人間が理解 していないことをほめ賛 え ることがで きる。
2.
神が なす全てのことは恵み と知恵である、 とい う賛歌 を歌 うことがで きる。3.
神 を理解で きない時 に、喜 びに満 ちた無条件 な従順 によって賛美歌で神 をほめ賛 え ることがで きる。以下がキルケゴールが考 える賛美歌の役割である。 万事があなたの思い通 りに行かない 日に、あなたの 目の前が真 っ暗 になるような 日 に、神 は存在 しない と他人が恐 らく容易 に証明で きるような日に、神 をはめ賛 える こと- しか も神がいます とい うことを証明することによって勿体ぶ ることをしな いで、神がい ます とあなたが信 じている とい うことを謙虚 に証明す ること、 しか も これ を喜 び に満 ちた無条件 な従順 を もって証 明す る こ と、 これ こそ賛美歌 であ る。58 賛美歌 は従順 よ り高貴 なものではな く、従順 こそ本当の賛美歌であ り、従順の中に賛 美歌があ り、賛美歌が本物 な らば、それは従順である、 とキルケゴールは言 う。人間関 係で他人ために自分 自身の損 になることをす るか もしれないが、そのために自分 を犠牲 にす ることは自身の祝福 にもなる。神 に服従す ることで、 自分 に損害 を与 えることはな い。その祝福 を賛美歌 を歌 うことによって得 られることがで きるのだ とキルケゴールは 信 じる。 キルケ ゴールは服従 における喜 びを自分 の個 人的経験 か ら次 の ように述べ ている :「
『詩人』 は詩想 を得 るために詩神 に祈 ると言 われている。 - ・これに反 して私は思想の 豊か さをせ きとめることについて 日ごと神 を必要 とした。 まこと一人の人間にこれほ ど の制作 の素材 と、 これほど弱い健康 とを与 えるならば、彼が祈 りを知 るにいたるのは当 然 なのだ。私は時 を問わず次の ような芸当をや ってのけることがで きた し、現在 もまた それがで きる。私は腰 を下 ろ して さえいれば夜 も昼 もぶ っ通 しで幾 日幾晩 も休みな しに 書 き続 けることがで きる。書 きつ くせぬほ どの ものをもっているか らだ。が、そんなこ とをすれば私はのびて しまっただろう。 まことに、ほんのわずかな飲食の摂生 を怠 った とい うくらいで私の生命 はおびやか されるのだ。だが従順であるように心がけ、厳 しい 請負仕事 としてそれにたず さわ り、ペ ンを正 しく握 り、一字一字 を注意 して書 くならば 私 にや ってゆけることなのだ。 こうして私 は しば しば自分の生み出 した思想 についての 喜 び よ りもはるかにまさる喜 びを、神 に対 して私が従順 になることにおいて感 じたので市沢 :絶対服従 による至福への道 21 あった。 59
」
Ⅵ
服従の 日的
服従す ること、す なわち、キ リス トに従 うことは、歩 き方 を学 んでいる幼子の ような ものだ、 とキルケゴールは類似点をあげる。その子が親 に 「ぼ くはひとりばっちで歩い ているんだ」と泣 きなが ら訴 えた時に、親 は 「坊 や !それ こそすぼ らしい ことなんだ よ」 と答 えるの と同 じ状況であ り、苦難の後 にやって くる喜 びを力説する。苦難が くると、 重苦 しさは圧倒的にな り、道の選択 を誤 ったのでは とい う思いにか られる。 しか し、キ リス トのみあ とに従 って行 く自己否定の道 においては、それが通 じている と永遠が保証 す る。 ここでは苦難 は 『道標』であ り、 目的に向かって正 しい道 を歩みつつある とい う ことの喜 ば しい しる Lである。最上の道、最高の ものにいたる道 を選び取 ることがで き た喜 びにまさる喜 び、 この道 こそは永遠 にわたって交通が保証 されているのだ とい う喜 びほ ど大 きい喜 びは他の どこにもない。60 しか し、我 々人間が感 じる喜 び、幸せ については他人 と比較 して感 じる ものが多 くあ るようだが、キルケゴール もこの点 に関 して以下の ような世俗的な幸せ を描写 してい る。 ほかの人間をだれひとり寄せつけないその ものずば りの一番 になることが、それほ どすぼ らしい ことなのだろうか。む しろそれは俺 しい ことではないのか !他 の人が 飢 えているのに銀の食器 をつかって美食 をたの しむことが、それほどすぼ らしい こ となのだろ うか。雨露 を しの ぐあば ら家 さえない多数のひとがいるのに、御殿住 ま いをす ることが、素朴 な庶民が歯牙 に もかけない御大層 な学者 になることが、何千 何万 とい う人には望むべ くもな く閉め出されるような名声 を博することが、それほ どすぼ らしいことなのか !不平不満 をひ きお こす地上の生活の こうした差別がか り に最高の原理であるとすれば、何 とそれは非人間的なことであろう。 しあわせ に生 きている者 にとって、 もしそうであるならば、人生 は何 と耐 え きれない もの となる ことだろう !これに反 して、キリス トのみあ とに従 って行 くことが心 を弾 まさせ る 唯一の ことであるなら、事情 はが らりと変わる。何 といって も最高の者 になれる と い う喜 びにまさる喜 びはない。そ してこの崇高 な喜 びをのびやかで、 しあわせで、 安堵の思いに満た して くれるもの、それは何 ものに もまして、 この道 を行 くことは あ らゆる人間にかなうことなのだ とい う、天 に分 け隔てない慈 しみ深 さに支 え られ22 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) た喜 ば しい想いなのだ。 61 神 に服従することで、人間は複雑 さではな く平易 さが、暖昧 さではな く明快 さが、誘 惑ではな く確固たる意志が、危険性 ではな く安全性が備 えられる。結果 として家庭 での、 永遠の家でのやす らぎの ような心の平和 を享受で きるのである、 とキルケゴールは確信 し、祈 る。 愛 における不変者 よ、 まさにわれわれの最善の ものによって さえ も変化 をうけるこ とな き不変者 よ。われわれ 自身の救 いがあ ります ように。絶対的な服従の うちにや す らぎを兄いだ し、あなたの不変性 によってお導 き下 さらんことを !62 我 々にとって自分 たちの 「疲れ切 った脳、疲れ切 った思考、疲れ切 った精神」 にこの やす らぎは必要である。それを得 ることがで きるか どうかは人間の 自由意志であるとキ ルケ ゴールは信 じる
。
「あなたの平安 を乱す者 はあなた自身以外 にない。 もしあなたが 変わることなき従順 さで完全 に服従するならば、あなたはいかなる瞬間にあって も、重 い物体が地上 に落下 してい くの と同 じ必然性 によって、あるいは軽 い物体が天空 に上昇 してい くの と同 じ必然性 によって、神の うちで自由にやす らうであろう。63」人間の 自由 意志 による服従 は平穏 なやす らぎを得 るためには必要条件であ り、 この服従 によ り人間 のあるべ き姿 (神 との一致)が保 たれる。 この繋が りが断たれた ときに、人の心 は混乱 し、休息のない心が神の平和 を見つけるまで さまよいつづけることになる。 天の至福 は 「万事 を決定する決定的な もの」であ り、人間が 「世 間を放棄 し、 自分 自 身の うちに閉 じこもり、自分 自身 と和解 し、そ うして雑多 な人生 と和解」糾させ ることを 助 ける。キルケゴールが ここで言 う至福が もた らす「雑多な人生」とは何であるのか。彼 の以下の言葉がそれを示 している。 至福 はすで にこの世で患難 を しば しの軽い もの とな しうる と言 うこと、そ して神が 結 び合わせ給 うたすべての ものの ように分かち難 く、神御 自身が祝福 し給 う契約の ように実 り豊かに、あなたの憂慮せ る魂 を内面的に喜 びに結 びあわせ うるとい うこ と、 これだけではあなたには十分ではないのだろうか ?永遠の至福の期待 はあ らゆ る人 に本質的なことを理解 させて、その隣人 と、その友人 と、その敵 と和解 させ る であろう。65市沢 :絶対服従 による至福-の道 23
おわ りに
思考で きる限 りにおいて多 くの人間は、常 に何かの 目的 をもって生活 している。 日常 生活 を営 む上で何か を行 うに して も、又、行 わないに して も、それな りの理 由があるは ずだ。では、我々人間が共通 して持つ究極の E]的 とは何であろうか。その ような ものは あるのであろうか。 この質問は、本稿で取 り扱 った最初 の質問 「人間が なさねぼ らぬ共 通の ことは何か、そ もそ もそ ういうものはあるのか」 と相関する。古代 のギ リシャ哲学 者 ア リス トテ レスは、人間は さまざまな 目標 を求め るが、究極の 目標 は幸福 であ り、そ の他の 目標 はすべて幸福 を達成するための手段 にす ぎない、 と述べ ている。 人間が最終的に求めるもの、求めるべ きものは、至福 であ り、それを達成す る手段 と しては、キ リス トに従 うことによる神への絶対服従である、 とキルケゴールは主張 した。 神 との関わ りによって もた らされる至福 は 「憂慮せ る魂 を内面的に喜 びに結 びあわせ」、 心の 「やす らぎ」 を人間に与 えるとい うことも学 んだ。 しか し、キルケゴール も述べているように、我 々が幸せ に感 じる時は、他人 と比較 し て優越感 を感 じるときも多い ようだ。 また、現代社会の中で主流 をな している幸福観 は 次の ような ものではないだろうか。一生懸命勉 強 して学校 でいい成績 をとり、いい学校 に行 き、いい会社 に入 り、 日夜就業 し、それな りに周 りか ら認めて もらい、安定 した収 入 を確保 し、家 を建 て、家族 を養い、子 どもを育てる。そ して子 どもには一生懸命勉強 して もらい、学校でいい成績 をとり、- ・。多 くの人間はその人な りに最善の努力 を し て、 自分が決めた 目的にそって毎 日を過 ご している。だが、上述のプロセスの中で一つ の歯車が狂 い 自分の存在意義 について考 え直 さなければならない時 もくるであろ う。健 康 だった自分が病気 になる、身内に不幸が起 こる、会社が倒産する、 リス トラによ り退 職 を余儀 な くされる。今 まで 自分が親 しんで きた体、家族、家、事務所、肩書 きが突然 な くなって しまうとい う状況 に置かれた時で も自分 とい うものは残 る。ではその 自分 に 残 るのは何か。 しか し、その 自分 も失 う危機 にある、 とキルケゴールは警告す る :自分 自身を失 うとい う最大の危機が、世間では、 まるで何 で もないことの ように、い とも平 静 におこなわれている。 これほど平静 にお こなわれる喪失 はない。ほかの ものな ら、一 本の腕であれ、一本の足であれ、妻であれ、そのほか何 を失 って も、す ぐ気がつ くくせ に。神学者 フランシス ・シェイファーは、ある社会 に絶対 的価値がなければ、その社会 自体が絶対的価値 になる、 と述べている。神が存在 しない社会では家族、友人、隣近所、2
4
清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第2
1
号) 職 場 、居 住 してい る地域 社 会 が絶 対 で あ り、 そ の 中 で価値 が 決 定 され るが 、 そ こで の価 値 観 は常 に不確 実 で不 安 定 で あ る。 3
世 紀 に生 きた聖 ア ウ グス チ ヌ ス は人 間 と神 との服 従 関係 を強調 し、そ の 関係 の 中で こそ 、人 間 の心 の や す ら ぎ(
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が得 られ るの だ と説 い た。 人 間 と神 との平和 は永 遠 法 の も とで の信 仰 にお け る秩 序 あ る服 従 で あ る。 人 間 の平 和 は秩 序 あ る和 合 で あ る。家 の平和 は家 族 の 中で の命 令 す る もの と服 従 す る者 との 秩 序 あ る和 合 で あ る。 国 の平 和 は市 民 た ちの 中で の命 令 す る者 と服 従 す る者 との秩 序 あ る和 合 で あ る。 天 上 の 国 の平和 は神 を享受 す る者 と神 にお い て相 互 を享 受 す る 者 との 、 もっ と も秩 序 あ りもっ と も和 合 した静 け さで あ る。 す べ て の もの の平和 は 秩 序 の静 け さで あ る。66 人 間 の 自主 的意 志 で な され る服 従 は平和 とや す ら ぎを得 るた め には必 要 な要 素 で あ る。 この服 従 を通 して 人 間 の 自然 の状 態 (神 との結 合 ) が保 た れ る。 この結 合 が 断 ち切 られ た時 (ア ダム とイ ブが エ デ ンの 園 を追 われ た時 )、人 間 は混 乱 し、神 にお け るや す ら ぎを 見 つ け る まで坊径 い続 け る。 そ れ を避 け る ため に も、神 との 関係 を回復 し、神 か らのや す ら ぎを得 る こ とは必 要 とな るの だ ろ う。 そ れ は、 キ ル ケ ゴー ルの考 え る よ うに 「永 遠 の至 福 の期待 はあ らゆ る人 に本 質 的 な こ とを理解 させ て、 そ の 隣 人 と、 そ の友 人 と、 そ の敵 と和 解 させ67」、 そ の時 に こそ真 の や す ら ぎが 訪 れ るの だ ろ う。 そ れ ゆ え に、 キ リス トは常 に次 の こ とを忘 れず に祈 る よ うに我 々 に教 え た の で は な い だ ろ うか。 『私 た ちの 罪 をお ゆ る し くだ さい。 私 た ち も人 をゆ る します 。 (主 の祈 り)』 1キルケゴール 『さまざまの精神 における建徳的講話3』、岩永達郎訳 『キルケ ゴールの講話 ・ 遺稿集4
』 (新地書房、1
9
8
1
年)p.
3
0
0
2キルケ ゴール 『愛 のわ ざ (第 1部)』、武藤一雄 ・芦津 丈夫訳 『キルケ ゴール著作集1
5
』 (白水 社、1
9
9
5
年)p
.
1
4
4
。
3キルケゴール 『キ リス ト教 的講話 1』、飯 島宗亭 ・中村一彦訳 『キルケ ゴールの講話 .遺稿集5
』 (新地書房、1
9
7
9
年)p
.
1
2
6
。 4キルケ ゴール 『愛 のわざ』p.
3
6
。
市沢 :絶対服従による至福への遺 25 5同上、p.36。 6 同上、p.145参照。 7 キルケゴール 『さまざまの精神 における建徳的講話3』p.6。 8 同上、p.10参照。 9同上、p.13参照。 10同上、pp.14-15参照。 11同上、p.16。 12同上、p.17。 13同上、p.19参照。 14キルケゴール 『愛のわざ』pp.191-192。 15同上、p.52。 16キルケゴール 『死 に至 る病』、桝田啓三郎訳 『世界の名著40 キルケゴール』 (中央公論社 、 1966年)p.5170
17BradeleyR.Dewey,"TheNew Obedience,"(Washington/Cleveland:CorpusPublication,
1986),p.20。 日本語訳 は著者。 18キルケ ゴール 『死 に至 る病』pp.518-519参照。 19キルケゴール 『野の百合 ・空の鳥』、久 山康訳 『キルケゴール著作集18』 (白水社、1995年) p.222。 20同上、p.222。 21同上、p.220。 22同上、p.220。 23同上、p.220。 24同上、pp.208-209