• 検索結果がありません。

開目鈔本尊鈔報恩鈔の三鈔に顯はれたる本尊の硏究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "開目鈔本尊鈔報恩鈔の三鈔に顯はれたる本尊の硏究"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

開 臼 抄 本 館 妙 報 思 紗 一 一 一 妙 に 綴 れ た る 本 骨 悼 の 研 究 一 一 四

の 三 妙 に 旧 制 。 は れ た る

0)

一、本隼

営家の本零論を形式論の上からみれば各種各様の本寧があるやうにみえるが、その本隼の本休論即ち本質論からみ れば定んで書量山掛本無始無終の始畳即本売の無作三身如来である。 ︵との無作本畳三身如来を以下暮隅して本伸とい ふ益 、 _ , 本悌とは法華経本門書量品文底秘沈の極談、文上且立塵点に百尺竿頭一歩を進めたる文底無始の古悌である。との 本仰は民言大日如来の如く単なる理法身では・泣い。現知日悲相即の仰格である。本備はあらゆる相封の封齢を超えてゐ る。しかもその法体は無色無形無名であるからわれらの認識を超えてゐる。超認識的本悌であるから何人と雄もその ま L 直接に認識し体験する事はできない。恐らくは地上に於ける永遠の紳秘であらう。 しからば地上の波情は不可能ではないか。今此三界 皆是我有 共中衆生 悉是吾子 而今此底 多諸忠難 唯 我 人 能震救護の本願を

ε

うするか。毎自悲願の組本願をすてるのであるか。 本怖の聖境は相封的存在たる凡夫の認識を超えてゐるから.そのま L 一致一如を求める事はできない。本怖の方か ら相封的な世界へ顕現態をとらねばならぬ。との本併は如何なる顕現態をとるべをであるか、私共が認識し休験し得 る顕現態をとらねばならぬ、との局には無名無色より有名有色へ顕現し、非因非果より因果相ヘ頴現し・なければなら

(2)

理 知 H 悲固浦の本悌は人類救済の大本願の矯めに、世界史上には臆身樺隼と現れさせ給ひ、今末法に於てはまた五字 七字の南無妙法蓮華経と顕現遊ばされたのである。史上に醸身樺迦伸と顕現遊ばされたみ姿は二千五百年前の人々が よく親しく見聞し、認識し体験したととろである。しかるに減後の私共はその隼き柔軟のみ姿を肉眼に親しく拝し、 躍する事はでまない。わづかに信限を以って拝躍が許されるのみである。と L に 於 て 本 僻 は 向 一 一 暦 下 機 の 衆 生 の 需 に 具体的表象をとらねばならぬ。と L に本怖は無縁の大慈悲を以って玄題へまで頴現遊ばされたのである。玄題・ならば 滅後の劣機なる私共もとれを見聞し認識する事ができる。 との南無妙法蓮華経とそは末法就護の唯一の模機なのである。とれ以外に私共が救はれる塗は絶封に友いのである それはどういふわけであるか、玄題は本伸の全現態であり、本俳の一全能力を表象するものである。日女抄に妙法の光 明に服されて本有の隼形となると仰せられた通り、妙法本怖の光りにてらされてのみ本傘としての絶封債値が確保せ られるのである。如何に十界を並べてコ一千の威儀堂ゐべたりと雌も、もしも妙法の光明によって照され・なければ何等本 隼 た る の 資 格 債 値 は た 一 い の で あ る 。

諸御書の本零に閲する文献によると宗組は大量奈羅の虞式、国各式、 一 等 阿 士 式 、 一 塔 雨 等 四 士 式 、 一 遍 首 題 式 、 隼式等を組隅して是の本隼と仰せられてゐるやうである。 一 等 式 や 一 一 等 間 士 式 の 本 隼 た ら 誰 が 拝 し て も 人 本 隼 に 定 つ てゐる。しかるに大量茶羅の中隼や一週首題の本隼になると|勿論その表現形式が法格的なる事には異論はない

l

そ 、 の法体の法なるや、人友るやに就ては古今にわたって人法論の論争がたえたいのである。 関 目 抄 本 館 妙 報 恩 沙 三 紗 に 嗣 刷 れ た る 本 館 の 研 究 一 一 五

(3)

開目抄本館紗報恩紗三一紗に樹れたる本骨干の研究

ー 』 ノ、 人法本隼論には古来人法勝劣論と、人法一如論の一一論者がある。人法勝劣論には法勝人劣論と人勝法公論との二義 がある。法勝人劣論は多くの場合本法謹僻相封論であった。とれは各宗の本隼が備本隼で

b

ったので、それを統一す る需に立てられたものである。次に伸勝法劣論は多︿本僻挫法相割論であって、諸宗の捗一法を統一する震に立てられ た も の で あ る 。 だからとれ等の勝劣論は何れも本怖と本法との相封勝劣を論じたものではたい。所詮法華経の人法を以って、諸経 諸宗の人法を破陵開曾すればその目的が建吐られたのである。 今の人法論は是の如き勝劣論ではたい。

E

しく本僻本法の関係を論ぜんとするものである。本僻本法の関係を一一麿 簡明に把握する錆に、とれを表現形式の上からと、内容貰体の上からと南方面より観察してみよう。 まづ憂茶羅の中隼及び首題本隼をその形式の上からみれば明確に本法でるる。しかしとの本法の現さんとするもの は理智悲相即の本併でるうて、決して本法そのものではない。即ち本法の相は本伸の休を表現しようとしてゐるので ある。もしかやうにみらる L たらば、中隼の法格的七字の妙法は体の本備を表す震の表現様式に過ぎないのである。 戎にその表現形式的文字を離れて、本怖の異質体を讃仰してみよう。本僻とは無始以来今日及び未来永恒にわたっ て、衆生救済の錆に身口意三輪の妙化を施し、働き動きつ L ある生ける事備である。その生ける事怖の詩悟の内容と して本法が存在するのである。それで本悌は能詮の僻であり、本法は所詮の理であるとも一足へやう。との場合の能詮 所詮は勝劣を意味したい。天台は法は十界十如樺賓の法たりといってゐるが、とれから類推すれば法とは認識の封象 であるゃうである。若し法が認識の封象である・ならば、法は信仰の封象とはなり得たい。と L に 問 題 と ・ な る の は 法 の 梯敬的理解である。遁悌敬では法を如何に取り扱ってゐるか。歴史的に是を述べる事は今の所要ではないから、ほん

(4)

にとれだけを趨ペょう。 法とは如来の則るべき法則でるり、その理である。成宜論に ﹁如賓の遣に乗じて来って

E

畳を成子、故に如来と名く﹂と

b

る如く、法は如来をして如来たらしめる如賓の道であ る。それから乙の如来の L へ行たる法は叉一面衆生救済の縄とも友り、舟ともも仏るのである。と、に於て法は能化所化 共に質修質読すべき久遠の伸道であると云ふ事ができる。久遠の伸道は真如法性の理でるり、自然法爾の大道である から‘是を陣奔し、日起を隼崇すべき性質のものでは・なからう o むしろ日廷の道に則り、是の道を真面目に修行すべきも のであらう。隼崇すべきものは法たる細や舟ではあるまい。質にその縄を岸上より下す入、舟を漕ぐ梓取とそ私共の 骨尋崇雰重の封象とたるぺきものではたからうか。 久還の怖道たる本法の如賓の体験者たる本悌樟隼とそ私共の信仰の封象となる絶封慣値的質表者であらねばなら ぬ

しからば何故に最初から悌格的表現方法をとらぬのであるか。本骨与を南無妙法蓮華経といは宇に、何故南無本僻と いは・なかったかももし南無本僻本隼と書いであれば六百年の異論の根を断つ事ができたであらう。とれ末法の犬導師 ともあらう大聖人の千慮の一失ではないか。 その答は僻皐である。本側は或詑己他身といひ、或は然耀伸等といひ、名字不同年紀大小の一月高影の顕現態をとら れる悌格であるつだから本俳そのま L の全体に名づくべき言葉がゑい。営体義抄に至理名無し聖人 H 疋 に 名 づ け て 妙 法 蓮華経といふと仰せられてゐる通り、本備には本来名等はないのである。無名無色の無縁の慈悲の働きそのものたる民 置在悌たのである。その大慈悲者たる倶休倶周の普遍的本怖の全貌をろかがふには、個性的佃体的佃別的相封的糟迦 関目抄本智紗報恩紗三紗に頼れたる本館の餅究 七

(5)

関白抄本館妙報恩妙三妙に開削れたる本館の研究 一 一 八 牟尼悌等の名ではとうてい満足できないのである。と

L

K

本悌の全額態を見奉らんとする熱烈なる信何のほ左ぽしり から、その本伸自ら、賓修質設したる本法を書き表し、唱へ出したのが御題目である。 また如何に人本隼だと確定しても、事観の妙法を賓修し宜詮し・ない所の人本隼は一一暑の債依もないのである。例へ ぽ他宗他殺の人本傘は本法を修誰したいから、樺悌誼備と破廃するが如きものである。と L にまた本法の本法たる慣 値があるのである、宜に本法は本伸乞して本側たらしめる絶封慣値的存在として認識されたければならぬのである。 害量品の本怖は久遠の本法を修詮した唯一絶封の本隼である。 一、教門本軍と観門本尊 上越の如く営家本隼の法体は本法の質修質読たる久還の本怖である。との本隼の賓体に就て近世の宗曲学者聞に教観 二本隼論があるやろである。如何なる立場から如何たる意味に於てとの敬制二門の本隼を論歩べきであるか。教観二 門といへば書量品の文上文底の相封論に親しいゃうである。もし文上交底の義に於て救観二門の本隼を論やる・ならば それはム日常判に過ぎない事に友りはしないか。もしさうであるならば今の要でたいから且くゐく。今はとの意味の文 上文底と云ふ範噂の下に詮顕された文民無始の本怖の上に於て教観二門の本隼を論じゃうとするものである。かやう な意味・ならばむしろ、救翻本傘論と・いふよりも信観本律論といふ方が安鴬であらう。 回 、 信 心 本 隼 と 観 心 本 隼 無始久還の本怖は私共の信仰の封象である。迷問介に沈諭せる私共を久遠の大古より四六時中何を以てか救済せんと 胸をとがし、袖を下して居られるのだ。その救済の賞践として久遠の大古すでに本法を質修賓詮し玉ひ、久遠元初に 於て十界へ平等に本国僻種を下種されたのである。私共カ界はとの無縁の大慈悲に感激して、主師親三徳有縁の本悌

(6)

を隼崇し信仰し奉るのである。 とのをり私共は自然に本俳体内へ罷取されて本備と一如するのでるる。との一如した光景を本怖の妙光にてらされて 本有の隼形となると云ふのでるる。との時には九界は消えてしまってたど宣布するものは絶封の本伸一一等とたるので ある。絶封隼たる本備を信仰してゐる聞は本悌の外には何ものもない献態にある。とれを信心本隼といふのである。 今かりに自他二力の上からとれをみればどうたるだらう。信心本尊は本怖の絶封力より外に何ものも認めたいのであ る か ら 絶 針 他 力 の 本 ・ 隼 と も 一 五 へ る の で あ る 。 との信心本隼成就の時を私共の即身或怖といふのである。営家の成伸論は現賓眼前に於て、本伸を信仰する事それ 自体の上に認めるものである。過去の久遠たる、未来の永遠なる皆本く現賓の一瞬時に含有してゐるのだ。我家の成 僻論はかやろな象徴主義の上に立つものである。かくて本律論も成伸論も、判判共が本悌を信じ、本法を唱へる所に成 就し究議するのである。 次に信心本隼は如何・なる意味に於て親心本隼となるのであるか、私共が生涯の中一度もとの本悌を信やるならば、 そのま L 即身成怖の妙果を味った事になるのだ。しからば怖となったものは悼とうすればい L のか。伸の事行は衆生救 済であるから、備となったものは必然的に化他行をやらねばならぬ。本併を信じて白行を全うした者は自利利他国満 の妙巣を期ずべきである。と L に自ら猛烈な偉道布教運動が起るのである。 一度布敬鞍線に立てば今までは信心本掌として自己の眼前に賞・在してるた本隼は‘ 一瞬にして自己体内の本傘と持 化し己心本隼となるのである。だからその人の説法は己心に本等と掘れたる本悌それ自身の叫びであり、唱題であり 布教停道であるといふ事ができる。との本帥自らの宣言であってとそ初るて力強き末法下種が可能たのである。との 問自抄本命紗報恩紗コ一妙に綴れたる本隼の研究 一 一 九

(7)

開 H 抄 本 館 − d 報 回 廊 妙 三 ー か に 綴 れ た る 本 伸 悼 の 回 附 究 一 二 O 意味に於てのみ信心本隼は一一押して親心本診の名に慣する本傘となるのである。もし信心本隼を絶封他力の本傘とい ふならば、親心本傘は絶封自力の本隼といはねばならぬであらう。しかもとの木等の本体としては史上の鷹身轄傘に 即せる本怖をとるのでるるから此の点は毘宗等のとうてい企て及ぽぬ本化調歩の法円である。

豆、開

間目砂上下袋、文・氷九年壬市二月於佐渡塚原聖書五十二才撰述、御真蹟在延山今巴焼失。 開目紗は法に於 C は様賓判をとき、人に於ては末法の大導師たる人の開出闘をせられた御書である。然しその末法の 大導帥は如何たる力によって日本の桂、日本の眼目、日本の大舶となり得たか。との事もし開目砂に明かされなけれ ぽ、佐渡の岡より弟子共に内々・申す法門あり、魂隅佐渡の闘にいたりで等の白議も宰しいであらう。然らぽ聖阻の御 一代を動かした背後の力は何んであったか。聖組御生涯の原動力は貨に無始宜校の本悌樺隼であった。その本伸木等 に就ては、或る点では本隼紗よりも倫明確に設かれてゐるのである。努閥の 夫一切衆生の隼敬すべきもの三あり。所謂主師親これなり。 ︵ 七 四 七 ︶ は末法導師の三徳でもるるが、意は本曾たるべきもの L 費格としての三徳をあげられたものでもある。それは耀隼 が三徳有縁の備である事を 三には犬畳世品与は此一切衆生の犬導師、大眼目、大橋梁、大船師、大稲田等たり。︿七五

O

︶ と述べられてゐるのに明である。この世隼は文は.雨前今経を分別しない樫隼のゃうであるが、意は害量文底無始貰 在の本俳を説かうとしてゐるのである。

A

本 質 一h

面開

(8)

との本備が顕れたければ一念三千義、二乗作僻等も浮草水月のやうたものである。 いまだ費遊綱本ぜざればまととの一念三千もあらはれ歩。二乗作悌も定まら十、水中の月をみるが如し。根なし草 の水の上に怒るににたり。 ︵ 七 六 五 ︶ それが一度本門誇量品が顕れると 本門にいたって始成正費を破れば四敬の川棋を破る、四敬の果を破れぽ四敬の因やぶれぬ。 全 上 と一京ふやうに述門繭前の出開通別闘の法報陪等の僻は悉く舵られて唯一絶封の久遠質成の本悌ばかりが現在前するの で あ る 。 爾 前 控 門 の 十 回 介 の 因 果 を 打 や ぶ っ て 本 門 の 十 界 の 悶 川 市 を と き 顧 す 。 此 即 ち 本 因 本 巣 の 法 門 ・ た り ノL --'- -上 因は九回仲であり、果は働界である、その本岡市たる本側は自ら爾前逃門に詑かれたる諸宗の本品与を打ち破って、本門 の無始本有の害量所詮の木悌本隼・なる事を説き顕す法円である。 九 回 作 も 無 始 の 悌 田 仲 に 具 し 、 働 界 も 無 始 の 九 界 に 具 り て 民 の 十 回 介 互 共 百 界 千 如 一 念 三 千 な る ぺ し 全 上 九国外が無始本悌に包容罷取されるのは信心本隼の場合である。伸界が無始九界に具るといふのは観心本隼の立場で ある。かやろな本伸信仰を事一念三千といふのである。即ち事一 A A 必三千とは無脱創浩力を有する本悌十界縁起そのま L の活動態に名づけたものである。それは生きて活動し、働いてゐる如来秘密紳通之力さたがらなる本悌の民休であ る。是の相を闘顕したのが大豊茶羅である。だから事一念三千とは生ける本悌の全貌を人聞の言葉を以って表現じよ うとした熱烈たる信仰表現なのでるる。是の本悌本傘はまた本隼紗の首題を以って顕し玉ふ無作本悌でもある。恐ら く日本語を以ってしでは是れ以上に本側を説明し持たものは・ないであらう。 関 白 抄 本 骨 格 d 報恩み一一一妙に鮪れたる本館の併究

(9)

関目抄本館妙報滋妙三沙に瓢れたる本館の研究 とれで関目紗の本備本隼論に劃する原理論本体論は能った。共の蓮文は是の如き本質を有する本悌本骨骨を以って諸 宗の本隼を破慶するのである。

B

他 宗 本 隼 破 諸宗の木隼に封しでは本備本隼が如何に絶針樺を有するかをみよう。 斯うてかへりみれば華最粧の台上十方、阿合経の小樺迦.方等、般若、金光明経、同調陀経、大日経等の構備等は 此の需量品の悌の天月しばらく影を大小の器にして浮ぺ給ふを 諸 宗 の 曲 学 者 等 近 く は 自 宗 に 迷 ひ 遠くは需量品を し ら 4 1 0 水中の月に賓月の想をたし或は入って取らんと思ひ、或は細をつけてつなぎとどめんとす。天台云不レ識ニ 天 月 − 但 観 = 池 月 ↓ 等 一 試 一 式 ハ 七 六 五 ﹀ 財閥本己後爾前経所設の諸宗の本隼を観れぽ皆悉ぐ水月浮草の如きものであるo唯一絶封の本側本隼ばかりが、現在 前して輝いてゐる。他宗の本隼は日出の後の霜露の如く消滅し.星の如く姿を消してしまふのである。 然るに滅後未代の人身はかやうに隼い本備本隼を知らや、我即是父の毎自悲願を忘れてゐるのは如何たる理由か。 日蓮案一式く二乗作僻すら猫爾前づょにをぽゆ。久遠質成は叉にるぺきもなき爾前づりなり。共の放は爾前法華相封す るに、猶爾前とわき上、爾前のみなら歩透門十四品一向に爾前に同守口本門十四品も涌出書量の二品を除ては皆始 成を存せり。費林最後の大般浬襲経四十巻共外の法事前後の諸大乗経に一宇一旬もたく法身の録、始無絡はとけ

E

も 熔身報身の顕本はとかれ歩。いかんが庚博の爾前木建浬襲等の諸大乗経をぽすて L 但涌出書量の二品には付ぺき。 ︿ 七 六 五

l

七 六 六 ︶ と仰せられた。他宗の者は文献の量に迷惑して.その質を見分ける事ができたかったのである。諸経は如何に如来

(10)

の無始無絡を説く文句を並べても、その意は法身の無始無終に限られてゐるのである。然るに書量品の顕本は法報醸 三身具足の顕本である。諸経の抽象的なる単理法身の顕本なるに封して、書量頴本は生ける具体的たる三身固浦の本 悌の顕本である。とれを報臆顕本とも云ふのである。 附 百 本多日生師等はとの報臨顕本を主張しながら事一念三千義を否定しようとする傾向あるはどうした事か。報 際頴本は事一念三千義である事に気がつかぬのであらうか。事一念一一一千義とは本怖が自ら報躍の身を示現して十 界へ顕現する様の説明式・なる事を知らぬのであらうか口かゃうた意味の下に初めて報躍頴本で可能である事をし ら ね の で あ ら う か 。 もし本法たる事一念三千義を賓修質設しない本側なら、あかの凡夫にすぎ・ないのである。それこそ本多師の主張 する本怖とは、賞相抄の本多仰の最もいやがる凡夫の本悌の謂か。何んとその遺著於本人の難を股れたいのであ ら ろ 事 ょ 。

c

依 文 如上の果海の十回介を字む本仰は如何なる原擦によってゐるのであるか。 然 善 男 子 我 質 成 伸 己 来 無 量 無 謹 百 千 寓 億 那 山 信 劫 等 一 石 一 五 此の文は華厳粧の三底の始成疋費、 阿 合 経 一 広 初 成 、 浄 名 経の始必一悌一樹、大集経云始十六年、大日経の我昔必一道場等、仁王粧の二十九年、無量義経の我先道場、法華経方便 品 云 我 始 必 一 道 場 等 を 一 一 吉 田 に 大 虚 妄 た り と や ぷ る も ん な り 。 ︵ 七 九

O

﹀ とれによれば本帥本隼の五依文は然我質成悌己来無量無漣百千寓億那由劫の交である。その意は書量文底の無始質 本無作本悌の顕本である。 関目妙本館妙報恩妙三妙に頼れたる本骨悼の研究

(11)

開白妙本館妙報恩妙一ニ紗に鮪れたる本命の研究 P『 この本併は天月の如く衆生救消費現の震に十界の水にその妙相を示現し玉ふのである。その示現した怖は能縁起の 本併に封しては所縁起の怖であるから分身といはれるのである。と t A に今日最も進歩せるものであると一去はれてゐる 宗救的封象としての汎紳敬的一一脚鞍が成立したわけである。 此の過去常観る a A 時‘諸伸皆様隼の分身・なり。雨前議門の時は諸悌樫隼に肩を並べて各修各行の帥なり o 故に諸帥 を本写とするもの樺傘等を下す。今華置の台上、方等、般索、大日程等の諸併は皆禅曾の谷属なり。 p

-'・・

L t 一広へば本怖は十方諸悌菩薩を統帥する事併なる事が明である。 如何なる閥家でも一定の闘土を有してゐるやうに‘

E

んな宗教でも理想の岡土をもってゐないものはない。然らぽ との本併の住所は何鹿でるるか。 伸=一十成道の御時は犬党天王、−一六天等の知行の婆婆世界を奪ひ取り給ひき。今爾前地門にして十方を浄土とがう して此の土を穣土ととかれしを打ちかへして、此の土は本土なり、十方の浮土は聖遮の積土となる。 全 上 とれは本命錆の今本時の婆婆世界と同意の文である。で此の本併は婆婆世界を本岡土とし‘共の化境の中心とするの で あ る 。 D 倫理的宗救としての本隼 文化時代の宗救はより多く倫理的でなければならぬ。営出織の本品与は三徳有縁の本悌である。三徳有縁の悌と一再へば 宗敬的といふよりむしろ倫理的意義が濃厚である。 本伸が一切衆生の主君であるといふ事は 霊山八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひっか守、久住の者にへだてらる L が 如 し ︵ 七 九 一 ︶

(12)

の交に明である。本怖が一切衆生の恩師であると一五ふ事は戎の連文に明である。 今久遠質成あらわれねれば東方の薬師如来の日光月光西方阿調陀如来の観音勢至、乃至十方世界の諸伸の御弟子、 大日金剛経等の南部の大日如来の御弟子の諸大菩薩、狛救主制伴骨骨の御弟子也。諸悌樺迦如来の分身たる上は諸伸の 所化巾すに及ば・ヂ。何況此土の劫初よりこのかたの日月昼等、敬主禅隼の御弟子に非歩や。 ノL −'−・

J

二 との主君であり、思師である本俳を忘れたる諸宗を破して 而るを天台宗より外の諸宗は本等にまどへり ノ∼ -'

-1

:

:

と断じられた。次にまた本側本侍与を親に約して諸宗の本隼を破してゐる。 倶合成貰律宗は三十四心断結成遣の樫隼を本隼とせり。天算の太子が迷惑して我身は民の子と忠ふが如し。華殻宗 真言宗三論宗法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相三論は勝隈身ににたる悌を本隼とす。天王の太子我が父は侍と 思ふが如し。華厳宗真言宗は禅傘を下て虚合那の大日等を本隼と定む。天子たる父を下て積姓もなき者の法王のご とくなるにつけり。浄土宗は樺趣の分身の阿蝿陀仰を有縁の伸と思て敬主をすてたり。開宗は下践の者一分の徳あ りて父母を下ぐるが如し。備を下げ粧を下す。此皆本傘に迷へり。例せば三皇己前に父をしらヂ人骨禽獣に同ぜし が如し。書量品をしらざる諸宗の者は畜=同シ O 不 知 思 の 者 た り 。 故 三 妙 端 末 一 弓 一 代 救 中 未 ニ 曾 顕 7 遠 ︵ 父 母 之 書 不 レ 可 レ 不 レ 如 、 若 不 ι 知 = 父 書 之 遠 ﹁ 復 、 迷 コ 父 統 之 邦 ﹁ 徒 謂 コ 才 能 ︵ 金 非 一 一 人 ノ 子 一 等 云 一 五

l

誇景品の怖を知らざる者︽父統の邦に 迷へる才能ある高生と書けるなり。 ︵ 七 九 一 | 七 九 二 ︶ とれらの御文によれば本悌は宗祖及び末代の人 K の主であり、師であり、親である事が極めて明瞭である。本怖を しらぬ諸宗の者は不忠不孝の悪人といふなり、寄生だと極論されてゐる。唯一本怖をか k げて大義名分を明かにする 関白妙本品 m v 妙報恩妙三妙に綴れたる本館の研究 一 二 五

(13)

関目紗本館俳報同組紗三妙に翻れたる本館の研究 一 一 一 六 あたり、よく我岡体と冥合して将来必十や世界の宗教となるのであらう。 上越の如く開目紗には本牟の本質論、封諸宗本掌論、倫理的本隼論等にわたって本悌本傘義が高潮されてゐる。 なしむらくは妙法蓮華経と本側本隼の関係があまり明瞭でない。本因本果の法門は十界事常位、事一念三千義を詑 いてゐるのであるから、本隼紗等の義によれば明に事観の南無妙法蓮華経は本伸の所設でるる。開目紗ではとれを本 悌所詮の妙法であるとしても、との題名によってのみ本悌を金表するといふ明文はたい。開目紗は人間顕正意で本隼

E

顕の御書でたいから、その本等法体論は或る程度まで謹きてゐても.その表現論は縦容たのであらう。 本多師等の迷の原因はと L に あ る か 。

六、本

本隼紗文永十年実酉四月聖書五十二才於佐渡一谷捜越 有御毘蹟中山法華経寺 本隼紗には本隼法体論.本隼表象論、本曾流布年時論等委細を極めてゐる。しかし諸宗本写破と、主帥親三徳に約 して誘く倫理的説明は開白砂の如く詳しく危い。 A 本 質 論 本隼紗に設かれた本隼も開目紗と同じく本悌本隼である。本悌をして本隼たらしめたのは何んであるか。それは本 法である o 本法とは本俳所詮の事一念三千観である。 本 僻 本 隼 の 本 質 論 た る 事 観 の 法 門 に 就 て は 開 目 紗 よ り 一 一 房 具 体 的 に 設 か れ て ゐ る 。 事 一 念 一 一 一 千 観 と は 如 何 た る 内 容 を有するのであるか。先づ事視に於ては左の如き探義を信解する事ができると思ふ。 1 とれを静的に考へれば本怖には自然法爾として本来十界三千が疋共正融してゐるのである。

(14)

2 とれを動的にみれば十界三千は悉く能縁起の本伸から縁起した所縁起の賞在である。 3 とれを一一居宗教的にみれば子たる十界は悉く父本怖に釣して随喜渇仰し合掌踏拝してゐる貰相である。 ーの義に就ては 不 軽 菩 薩 ハ 於 ニ 所 見 ノ 人 ↓ 見 コ 伸 身 ↓ 悉 建 太 子 内 自 ニ 人 界 一 − 成 = 伸 身 一 以 ニ 此 等 ノ 現 詮 寸 可 b L 也 ︵ 九 一 一 二 二 ︶ と十界瓦具の現詮をあげられてゐる。

2

の義に就ては 敬 一 主 樺 隼 内 五 百 塵 点 以 前 ノ 伸 也 。 閃 位 モ 叉 如 レ 是 。 自 レ 共 己 ・ 米 分 ニ 身 シ 十 方 世 界 一 演 ニ 詑 シ テ 一 代 聖 歌 ザ ’ 骨 1 ・ ド U シ タ マ ヲ 日 現 E

q

4 “ 佳 教衆生 ︵ 九 一 二 同 ︶ と悌界の無蓋縁起の法門本俳の無限の創造力を力説されてゐる。 3 の義に就ては受持議輿段、四十五字法体段、米文の天晴地明の文等皆とれを詮明してゐる。 ー 、

2

の義は原理論であるが 3 の義は現貨の問題である。慈父本僻は大慈悲のみ手を垂れて、久遠以来私共を救 済してゐたのである。その生々しい生ける本怖の質相を書き顕したのが大憂茶雑であり、その原理論は事一念三千論 で あ る 。 B 本 隼 表 象 論 無始久遠の本伸は自由白夜に身を示現して.無上最大法輪を縛じられ、 一切衆生を済度し玉ふ。かやうな生きてゐ る本備をそのま L 表象表現する事は人聞としては永遠にできぬ業であらう。然らば永く地 L L の榊秘として秘められた ければ友らないのであらうか。 問 日 本 山 内 隼 妙 報 恩 紗 一 一 一 妙 に 頼 れ た る 本 命 の 研 究 七

(15)

開同本妙曾妙報闘相ゆ三一妙に瀬れたる本館の研究 一 一 一 八 本怖のやむにやまれぬ毎自悲願は如何たる妙相をとって現れたか。 是れ全く日蓮が自作に非宗。多賓塔中の大牟吊世隼分身の諸仰すりかたぎたる本隼たり。 ︵ 一 六 二 五 ︶ といへぽ本悌が自ら妙法に顕現遊ばされた妙相が本隼の相であるのでるる。それを本隼妙にはかろ誰かれてゐる。 今本時婆婆世界、離三災問問劫常位浮土、悌既過去不減、未来不生、所化以同体。此即己心三千具足、三種,世間也。 述門十阿品未設之。於法華経内、時機未熟故敗。此本門肝心、於南無妙法蓮華経ノ五字、働猶文殊輔衆王等不付属之、 何況其巳下乎。但省地涌千界説八品付属之。其本隼話体、本師婆婆上、賓塔居忽九塔中妙法蓮華経左右禅迦牟氾働

9

空会

十 俳 方 、 諸 樺 悌 傘 底 脇 大 士 地 上 上 行 。 等

働 薩 誼 土 交

故 殊

也 摘 。 勤 | 等 来 四 入 菩 末 薩 法 脊 ‘ 属 ιム 予 3院ロ シ 此

i

J

悌宣言 像 末 可 座 A . →3 −:;, 誰 」 化

競勢

大 諸 主E

高 民 鹿 大 地

金 日 見 雲 閣 月 ︵ 九 三 九 | 九 四

O

︶ との御文によれば本僻所住の本闘土妙に初り、本怖の久遠の生命を説き.本備の表象形式論から本伸のカ用に至るま で明示されてゐる。 との御交によワて初めて本悌の表象形式が明確にたった。南無妙法蓮華の五字、塔中の妙法蓮華経は何を顕してゐ るか。いふまでも友︿書量文底無作三身の本僻を顕してゐるのである。御装の無作三身の賓蹴を南無妙法蓮華経とい ふ也等の文をかりてくる必要も左い程はっきりしてゐる。来入末法といへぽ末法に木悌が出現するをりは必歩南無妙 法蓮華経の名によって会同期する事に定ってゐるのでるる。 との南無妙法蓮華経は本働久遠元初に於て賢修賞聾された本法である。事一念三千視である。十界を救済せんとし て久遠元初に輔ぜられた根本法輪でもある。営家の宗旨を三大秘法と定める曲学者もあるやろだが 私は金的賛成はし たい。大聖人の宗旨は断巴て南無妙法蓮華経の一元論である。本隼は三法式だ。本品与は十界だ。いや法本隼だ。人本

(16)

隼だ。本隼は佐渡始顕の憂茶羅でなければならぬ等といふ後世の雑論はとらたい。撃者も知ら歩、返って信者の心を 惑飽さすのが皐者の役目と考へてゐるらしい。もし日蓮聖人の本隼設がわかりにくいたら それをわかり易くするの が事者たる者のっとめではたいか。 本側はもと色もたく名もましまさぬのである、たど機縁に随って種々の名色を示現するのである。御在世には禅迦 牟尼併の名で十方の諸備の名と飽する憂がなかうた。 今末法は十方諸悌各修各行の俳菩薩雑然として世に行れてゐる。との時に営って本併が本化を使して南無妙法蓮華 経と御出現遊ばされたのは有史以来未曾有の一大事国総であらねばならぬ。との故に営家の本隼は久遠の本法の名の 下に本併を全現してゐるのである。かくて久遠の本法再び米法に向現したのである。

c

本零流布の年時 本僻本隼は唯一絶封の本併でありながら、救済の常には十界へ身を示現する。との超越的にして而も内十代的なる本 隼の頴現する時はいつであるか。 豆 像 二 千 年 之 問 、 小 − 飛 躍 隼 迦 葉 阿 難 矯 脇 士 、 模 大 一 斑 並 浬 襲 法 華 経 謹 門 等 轄 隼 以 文 殊 普 賢 等 詩 脇 士 、 此 等 伸 浩 = 畜 正 像 一 ・ 禾 有 害 量 伸 、 来 入 末 法 始 此 悌 像 可 令 出 現 欺 ︵ 九 四

O

﹀ 此時地涌千界、出現本門躍隼需脇士、 一間浮提第一本隼可立此岡、支震旦未有此本隼 ︵ 九 四 八 ﹀ 今日の如く時代が進めば宗敬信仰も進化して、下殺な宗敬は自然に清算されねばならぬ。然るに天理敬、大本敬、右 翼、・左翼等盛んに流行するのはどうしたのか。末法は濁世間詩竪同の時だとすますのであるか。否私共は田正の如き優 秀たる高等信仰をもってゐるのだ。との光明を以って現世の閤を照らさねばたらぬ。いよ/\折伏の鯛を提げて立う 関目紗本曾紗報恩妙三妙に旧制れたる本命の研究 一 一 一 九

(17)

開日紗本館沙報恩紗三妙に旧制れたる本命の回附究

ぺき時が来たのである。 D 依 文 本 紗 は 本 骨 格 の 依 交 と し て 然 我 質 成 怖 の 文 と 、 H 正 好 良 報 提 の 文 と 、 結 要 四 句 の 文 を あ げ て ゐ る 。 共の第一の文に於ては己心顕現の本得を明してゐる。 書 量 品 一 民 然 我 a質 成 悌 己 来 無 量 無 理 百 千 寓 億 那 尚 信 劫 等 一 一 五 云 我 等 己 心 棒 律 五 百 鹿 点 乃 至 所 願 三 身 無 始 古 伸 也 。 ︵ 九 一 一 一 九 ︶ 本併が自ら法華粧を信やる人々の心の家に御誕生願現遊ばすといふ文である。 共第二文に於ては末法の本算表象形式を説いてゐる。 目 疋 好 良 薬 害 量 日 間 肝 要 妙 体 宗 刷 敬 南 無 妙 法 蓮 華 経 是 也 。 ︵ 九 四 四 ﹀ 本併が末法に出現するをりは必十南無妙法蓮華経の名のもとに全額するといふのである。 共の第三文に於ては本傘停弘の人を明してゐる。 此 十 紳 力 以 妙 法 蓮 華 経 五 字 授 = 山 県 上 行 安 立 行 浮 行 無 謹 行 等 間 大 菩 薩 ↓ ︵ 九 四 六 ﹀ 以上の如く本傘紗には本伸本隼の体を明し、その頴現を論じ、その流停の時と人とを示されてゐるのである。 不 し 識 二 念 三 千 一 者 僻 起 二 大 慈 悲 − 妙 法 五 字 袋 内 裏 = 此 珠 ↓ 令 レ 懸 = 末 代 幼 推 ノ 頚 ↓ /¥.,. −五ー 上 の結文にはよくその消息を明してゐる。怖は慈悲をその体とし、その体を妙法に会出願し、その妙法によって救はれる 者は末代の人々であるからである。

題 、 創P 報恩紗建治二年七月聖書五十五才於身延山撰述 御毘蹟身延今巴焼失

(18)

報思砂は関本南砂よりも明かに本悌本隼を宣揚してゐる。 日本乃至一閤浮提一同に本門の敬主樟隼を本傘、とすぺし。所謂費塔の内の穆迦多賀外の諸伸並に上行等の問主口薩脇 士 と な る べ し 。 ︵ 一 五

O

九 ﹀ あまり御文が明白であるから、私註の必要がない。しかるに古来異論が絶えたいのは不思議である。営家の本隼が本 悌なる事は御堂同全体共通の御真意である。今報恩紗は卒直にかう仰せられてゐる。誰も疑をさしはさむ飴地がない。 とれを法本掌家が無理に法と曲解したり、また人本隼家が題目を別もの L 如く誤解したりするのは何れも忘肝の誹を 琵 れ ・ な い で あ ら う 。 本隼紗をみても本悌が南無妙法蓮華経と金現態をとる事は明である。それは貰に久遠の提なのである。今の報恩紗 は表象論でないから本門の教主禅隼と直に体をあげられたのである。︵三秘並明等の設はとらない﹀ +引に敬主制伴傘と所謂賓塔中の樺隼との同異論もあるやうであるが問題にしたい方がい L と思ふ。ずなをに何れも本 伸の謂であるとみたらどうか。休本用越の躍だ。否脇土だ。と争ふととはつ L し み た い 。 との報恩紗の御文を拝した人はすたをに本怖が本隼だ。あ L 有難い事だと感激すればそれでい L のである。その外 別の才魔無盆だと思ふ D 結 以上関本雨紗及び報紗思の三紗にわたって聖人の本隼論を昇越し己った。聖人の御書を拝すれば、本仲干の事を

大 憂茶羅、或は南無妙法蓮華経、或は害量品の伸、或は本門の本隼或は敬主糟隼等と仰せられてゐる。その言葉はをり にふれ時によって異ってゐる。けれどもその胸中秘奥には何時も無始質在の本怖を信仰して居られたゃうである。 関白妙本館紗報恩沙三妙に綴れたる本館の研究

参照

関連したドキュメント

モ大旨五言也︒二四︵1︶不同二六︵2︶対︒又七言連句尤稀也︒所謂上クテリケタリ

日本の生活習慣・伝統文化に触れ,日本語の理解を深める

 基本的人権ないし人権とは、それなくしては 人間らしさ (人間の尊厳) が保てないような人間 の基本的ニーズ

「系統情報の公開」に関する留意事項

注1) 本は再版にあたって新たに写本を参照してはいないが、

本報告書は、日本財団の 2016

本報告書は、日本財団の 2015

 本研究では,「IT 勉強会カレンダー」に登録さ れ,2008 年度から 2013 年度の 6 年間に開催され たイベント