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保險の本質とその商品性

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Academic year: 2021

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保険の本質

と そ

の商品性

西

→一トし

’  いわば経済の合成産物としての保険に於て、その経済の学問的考察が商晶に集中せられる限り、この分野に於てもまた 商計性が論議せられることは、きわめて自然の帰結である。ことに、保険を、問題なく商品として取扱う風習が、実際界 に於て支配的であり、それが学問の世界に取入れられる場合にも、米国では既に一般化しているのであるから、これを、 経済学たる保険学の課題として、改めて問題にするのは、まことに当然の順序である。  そういう点から、つとに私は、この問題に論及して、私見を述べるところがあった︵拙著、保険学新論、昭和十七年、立命 館出版部︶。それに於ては、 代表的と目される内外の諸学者の見解を紹介批判し、 そのいずれにも同意し得ないままに、 ﹁保険の非商品性﹂と題して、私自身の結論を導き出したのである。  しかしながら、 ﹁保険の非商品性﹂というだけでは、いわゆる保険商品説の否定というにとどまり、そこから結論せら るべぎ積極的な見解を開陳したことにはならぬであろう。そこで私は、つづいて、﹁保険の金融性﹂と題して、保険の本 質を考察したのである。つまり、保険の商晶性の否定は、そのまま、金融性の肯定に連るところの考え方であって、後者 なくしては、前者は理解せられがたい。私に於ては、そういう関連のもとに、はじめて問題とせられる課題な.のである。      保険の本質とその商晶性      二九

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     保険の本質とその商品性       三〇  その後今日まで、内外の保険学界にあって、多くの秀でた新しい研究が続出した。しかしながら、私の寡聞を以てして は、いわば古いこの本質的な問題については、すぐれた議論がなされたのを、その中から見出し得ないのである。もとよ り私は、決して、﹁非商晶性﹂の私見のみを、最も当を得た学説とうぬぼれてはいない。重大な欠点がひそんでいるであ ろうことを、知りもし怖れてもいる。しかるにかかわらず、遂に今日まで、批判らしきもの、反響らしきものを得なかっ たのは、やや心淋しい・次第であった。  ところが、最近に至って、わが国で、 マルクス的立揚と考えられる二つの見解が、踵を接して登場した。すなわち、 岡部寛之氏と庭田三秋氏の所説である。 ︵岡部寛之、保険と価値論、保険学雑誌、三八九号、昭和三十年三月。庭田範秋、保険商品 説の研究、三田学会雑誌、四八巻一〇号、昭和三十年十月︶。これらに於ては、いずれも、私見の﹁野並晶性﹂に多かれ少かれ触 れつつ、注目すべきいくつかの間題が取扱われている。  もっとも、マルクス的立場とはいうものの、両氏の考え方は必ずしも一様ではなく、むしろ相反した結論に導かれてい る。すなわち、岡部氏は商晶性を肯定し、庭田氏はこれを否定する。これは、まことに興味あることである。ただ前者は 右の私見に触れること少く、多く氏自らの見解を進められるに対して、後者は、私見に触れるところ比較的詳細であるに かかわらず、氏自らの見解を語るにややつつましやかである。いずれにしても、保険学の本質的なこの問題について、正 面から取組まれる秀でた業績、に対して、私自身再び考うべき点を見出すので、ここに改.めて、所見を開陳することとした い。  ただ、右のように、両氏の見解には相当の距離が認められ、また両氏の文献に臨む態度にもおのずから相違があるよう であり、それらを、それぞれ別の機会に論ずることが望ましいと考えられるので、いまは、まず岡部氏の見解を中心とし て、論議をすすめたいと思う。もともと本稿は、既に同氏の右論丈の発表の直後、いわば私自身の覚え書として記したの

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であり、私としては、誤解にもとつく徒らの論争を避けるため、まず親﹂しく同氏の高覧を仰いだところ、できればこれを 公表すべきことを、逆に同氏から強くすすめられたのであるが、未だ多少ためらう点もあり、時を得ぬままに、これを見 合せていた。然るところ、いま庭田氏の右の論功の発表を見たので、ここにようやく、その決意に出たのである。庭田氏 の見解については、私はいずれ別の機会に触れたいが、ζれと一連のつながりにあるものとして、とりあえず岡部氏の所 見を、その手がかりとした次第である。読者、とくに両氏に於かれて、その意を諒とせられたい。        二  さて保険の本質は、保険を、資本の再生産過程に於て捉えることによって、明かにせられる。私見によれば、保険は、 資本交流の特殊の機構として理解ぜられるのであるが、その機構は、ひろく国民経済機構のうちにあって、その特殊の部 門を形づくり、↓定のつながりに於て、これに結びつく。したがって、保険の機構を論ずるということは、その構造につ いて、ただそのものをとり上げるだけではなく、国民経済へのつながりとして、これを考察することを意昧する。かくし て問題の中心は、むしろ、そのつながりを明・かにすることのうちに存在している。資本の再生産過程に於て捉えるという のは、まさしくこの立場を指すのである︵拙稿、保険学の立場、保険堂・雑誌、第三九〇号︶。  ところで、資本の再生産過程に於て捉えるということは、言葉をかえれば、商品の生産流通のすがたを考察することで あるから、保険の本質についての論議は、当然にその商品性の論議に導かれる。すなわち、保険が如何なる商品であり、 また、それが、一般の商品の生産流通に対して、如何なる意味を持つか、という問題の形をとるのである。  いまそういう点から見て、保険学は、その経済学たることの主張にかかわらず、今日までのところ、ぼとんどこれに触 れるところがない。これはまことに不幸なことであり、また奇妙なことでもある。もっとも、二、三の学者によって、保      保険の本質とその商品性       ︸三

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、      保険の本質とその商品性      、      三二 険の商晶性が論じられたことがあり、また、これを正面からとり上げてはいないが、それを肯定していると判断するに足 るところの論述も、いくρか認められはするけれども、いずれの歌合でも、いわば断片的な、局部的考察にとどまってお り、一歩つき進んだ立場からの議論とは考えがたいのである。  ところで、この問題については、私は既に十数年前、 ﹁保険の本質に関する一考察﹂︵法と経済、一〇巻、五号︶に於て詳 細に論じ、引きつづき右の﹁保険学新論﹂に於ても、さらにその後の二、三の論稿に填ても、一連の諸問題を考察すると ころがあった。いまここで再び触れるつもりはない。  かかる際に、岡部寛之氏による、保険本質としての商品性を論ずるところの、右のすぐれた見解が明かにせられた。そ れに於ては、 ただ右の拙稿の一部に触れられているにすぎないけれども、 ともかく注目すべき考え方が展開せられてい る。すなわち、同氏が、経済学として本来の、経済そのものについての深い理解のもとに、つき進んだ分析を試みられて いることに対して、私は、ここに改めて敬意を表せざるを得ないのである。  しかしながら、いま私は、同氏の見解に対して、すべて賛意を表するというわけにはゆかない。若干の点については、 むしろ根本的に異った意見を持ち合せているのである。そういう意昧で、ここに好機を得て、そのような点について吟味 を進めつつ、保険の商品性に関する私見を補足して、叱正を得たいと思う。すなわち、右の拙稿に対して、 ﹁続・保険の 本質に関する︸考察﹂ともいうべき意味のものである。とにもかくにも、私は、同氏に対する理解と批判とに於て誤りを 犯し、非礼にわたることなきやを恐れるのであるが、幸いに寛容を仰ぎたい心髄である。 三 岡黒氏によれば、保険は、危険の担保を内容とする、いわゆる保険信用なる商晶として把握されるが、その場合の商品

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の意味は、多分に仮象的である。それが,仮象的であるというのは、﹁もともと保険は入と人との関係にすぎず、唯それが 保険資本として作用する限りに於て﹂、本来の商品たる、﹁物と人との自然的関係に接近する﹂からである。そこで、こ の見解は、次のような諸点から立論せられる。  第↓に、保険は、入聞労働の生産物そのものではなく、﹁資本の偶然的磨滅に対する貨幣的操作の代行﹂にすぎない。 しかも、このような労働であるという点に於て、 ﹁労働の中の特殊のものに対する部分的、抽象的、非有機的、さらには 抽象的労働力﹂であり、﹁それは労働カ一般に比するとより仮象的商品である﹂わけである。  第二に、保険が、商品として、如何なる使用価値を有するかの問題であるが、 ﹁その使用価値は単に観念的、抽象的な る有用性もしくは効用そのものにすぎないのであり﹂、しかもその揚合に、この保険労働力は、その価値にひとしい価値 を再生産するものではない。つまりそれは、﹁なにも使用価値を形成するものではなく、保険資本としての労働力は唯単 に既存の価値を控除、占有する使用価値としてのみあらわれる。﹂その限りに於て考えれば、﹁仮象的商品たる内容も多分 に欠いている﹂こととなる。  第三に、商品となるのは、交換を通じてのみ可能であるが、その点から見て、交換は仮象的である。もっとも、加入者 は、保険料の払込に対して、保険証券を取得するのであるから、あたかも交換が行われた如くであるが、およそ商晶に見 られるところの、of薯一。、の資本の道行きに於て、﹁保険資本家がWなる保険を販売してGなる貨幣を取得した揚合に 卑−聖の過程がそれで終了したのではなくして、保険資本家は資本の偶然的磨滅の発生する迄はWなる商品がその手許に 保留されているのである。﹂したがって、交換は、ただ形式的にすぎず、﹁本質的には保険資本家の、保険購買者︵保険 加入者︶に対する価値の保管、占有である。そこに於ては交換は余りも仮象的である﹂わけである。  第四に、保険企業の利潤実現の手段として見る限りに於て、それはまさしく商晶である。およそ資本主義社会に於ては      保険の本質とその商晶性       三三

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     保険の本質とその商品性      三四 商品は、つねに利潤目的に対する手段としてのみ現われるが、 ﹁この事が転倒して余剰価値を追求、実現し得る一切のも のが商品となるのである。まさにこの 点のみよりみるならば保険はより多分に資本制商品である﹂といい得る。つまり 保険は、仮象的商品とはいうものの、実は、﹁資本制商晶としてはまさに商品そのものである﹂ということになる。  保険を仮象的一算とする同氏の見解は、 大要右の如くである。 ところで、 ここに仮象というは、もともと見せかけ ︵玄室¢一口︶ということであり、進んでいえば、本来は必ずしもそうでなく、そう見えるのは、実は、たまたま一定の条件の 作用した結果にすぎぬ、という意味であろうと思われる。しかし、岡部氏の用語では、この点必ずも厳密ではなく、とき としては、一般の商品から見れば特殊なもの、またときとしては、擬制︵嘱蓉喜︶のようにも解せられている。そういう 意味で、たまたま第二の点については、保険の商品としての仮象性すらも、これを否定するが如くにも窺えるが、しかし 全般を通じての立論から見て、明かにこれが肯定せられているのであり、きわめて特殊な制限のもとに於て、保険の商晶 たる性格がとり上げられている、と見るべきである。かくして、ここに仮象性というのは、保険が商晶たる性格について の、その特殊の経済的関連を指したものと考えられる。  もっともそういう轟轟では、保険を特殊の商晶、もしくは商品類似のものとする見解は、従来なかったわけではない。 ︵たとえば国O︸肖ぴOOぎ堵こ∪霧目︾き窪①菖賦創霞ζ臼く遂β巴く2.。・零げ電導撃麟■PP㈹・.<−均﹂切魁・このら﹂︶。しかし、それらは、いずれも保 険料を価格とする陸揚から、しかく考えられるのであって、岡部氏が述べられるように、ただ﹁保険の価格形成を現象的 に説明せんとするものであって、 決してその本質的究明を試みんとするものではあり得ない。﹂つまり、従来の研究は、 ﹁保険の価格形成を需要供給の原則に結びつけて展開している﹂にすぎないので、そういう需要供給や価格形.成が、よっ て立つところの経済そのものの分析から、保険本来の性格がとり上げられたわけではない。仮象性の有無にかかわらず、 こういう仮省にもとづいて、この保険の商晶性を明かにしようとする同氏の所説は、注目すべきものといわねばならぬの

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である。 四  いったい勲爵が、労働の生産物たることを本体とし、物と人との自然的関係として成り立つのであるが、それが商品と して社会的に意識せられるのは、貨幣との交換の過程に於てであり、とくに企業にとっては、それは資本たる性格を帯び る。その意昧に看ては、労働の生産物というのは、単に自然的関係ではなく、実は社会的関係なのである。そこで、いわ ば入と人との関係そのことが、また商品としてとり上げられる。すなわち関係財である。  さて、私見によれば、保険に予ては、労働の生産物は考えられない。保険は、もともと、保険料と保険金についての貨 幣的操作であり、それを加入者たる企業から見て、岡部氏の述べられるように、﹁資本家的﹂労働の代行労働として理解 せられる。商晶の仮象性は、とに・もかくにも、そういう労働である点から考えられるのであるが、そのことは、実は、保 険が関係財に他ならぬことを示している。  ところで、関係財は、ひろく企業の資本的操作から見れば、生産という方法によらずして、獲得提供せられる財であ る。いま生産によらざる財の獲得提供ということは、企業に於て、まず一定の資本で、利潤を生む手筈がととのえられ、 それらの手殺が、企業の内部にあって、生産とは見がたい特別の方式で、新しい財として結合せしめられ、やがてそれが 売られるということである。この種の商品は、一般の流通社会では、もとよりこれを見るを得ない。ただ保険の機構に於 てのみ、まさしくこの財の獲得提供があり、その点で、保険は商晶たり得るのである︵高田保馬博士、経済学新講第一巻。同 氏、経済学原理︶。  さて、粟粥が労働の生産物であれ、または関係財であれ、したがって有形財であれ無形財であれ、それが商品として、      保険の本質とその商品性      三五

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     保険の本質とその・商品性 .       三六 とくに資本主義社会に於て意識せられるのは、企業にとって、利潤を目指すところの資本のある形として、貨幣との交換 過程に於てのことである。商品が単なる自然的関係ではなく、進んで社会的関係であるというのは、まさしくこのことを 意味している。そういう点から考えて、貨幣相互の聞に、社会的に交換の秩序がある限り、その貨幣そのものは、また当 然に商晶となり得るであろう。  いまこの点について、保険の貨幣的操作は、つねに、保険企業と加入者との閥に於て、保険料と保険金との授受、すな わち相互の支払関係として行われる。加入者は、保険企業に保険料を払込み、保険企業は、加入者に対して保.険金を支払 うのである。この操作の闇には、もとより特殊の技術的基礎としての、蓋然率の支配があるが、とにもかくにもこの事実 を捉えて、保険料と保険金とは相互に交換の関係にあると、一応考えられよう。保険料を価格とするところの多くの見解 は、そのことによって、間接ではあるが、保険の商晶性を是認しているのである。  われわれは、この場合に、価格は保険料に、そして商品は保険金に、それぞれ認められると断定することはできない。 逆に、価格を保険金に、そして商品を保険料に求めることも、また許されぬであろうか。けだし、いずれも貨幣そのもの の形をとるからである。  そこで、貨幣たる保険金に対してではなく、進んでこの保険金の請求権という形に対して、その商晶性を認めようとす る見解が生れる。いわば関係財としての商品を、具体的に債権の形に置きかえるのである。保険商旧説として最もすぐれ た学説は、この考え方に従っている︵たとえば、近藤丈二博士、保険学総論︶。  これについては、私は、﹁経済的考察と法律的考察とを混同したるもの﹂として、これを否定したのであるが、それに 対して、あるいは、﹁保険料は必ずしも現実の保険金に対して支払われるものではない。保険事件が万 発生したときに 一定の保険金が支払はれるという、経済的な関係におかれることに対して支払はれるのである。随ってかかる経済的関係

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の獲得を一種の権利として把握し、これに商品性を与へることは決して、経済的立場を見失ったわけではないしとし ︵近 藤、前掲︶あるいは、 ﹁資本の偶然的・暦滅に対し一定の保険金を支払うという信用が擬制的ではあるが販売一交換を通じ て行われる揚合には、それをもし経済的関係にあるといい得ないであろうか﹂として︵岡部、前掲︶反対を受けたのであ る。  もとより私とて、一般に債権が関係財として、交換の対象となること、そしてその限りでは商品性を有することを、否 定するものではない。ところが、問題は、保険に於ては、保険料と右の請求権との聞に、交換ありと見るべきかというこ となのである。私見によれば、これを交換とすることそのことが正しくないので、これをあえて交換と見るのは、交換と いう経済的観念のもとで、実は、個汝の保険契約そのことを考えているにすぎない。保険の貨幣的操作を、無条件に交換 と見るか否かに先立って、その操作が、資本の操作として、保険企業の内部でどのような道行きで行われ、さらに、それ が保険企業と加入者とを如何に結びつけるかを、明かにしなければならぬのである。いまは詳しくは触れない。 五  さて、保険の貨幣的操作に於て、保険の給付︵<。白壁宥§喩︸①蓉冒σ。・︶を交換に於て捉えるとしても、その交換は、もとも と本来のものではあり得ない。いま岡部氏の意見に従えば、なるほど契約の上では、加入者は、保険料の払込みによって 保険証券を得るのであるから、あたかも交険が行われたかの如くであるが、実は、.その際、保険企業に於て、﹁価値の保 管、占有﹂が行われたにすぎない。つまり、交換は仮象的なのである。  この考え方によれば、保険という商晶が、資本の偶然的な磨滅、すなわち授害の発生を見るまでの間、保険企業の手も とに保留せられ、その損害の発生によって、現実に、昏乱としての形をとる、ということになる。すなわち、一般の資本      保険の本質とその商品性      三七

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     保険の本質とその商品性       三八 循環に於けるΩr薯fQ、に於て、企業が商品Wを販売して、Gなる貨幣を入手した場合に、資本の道行きは、 一応それで 完了したことを意馬するのであるが、保険に覧てはそうではない。保険に覧ては、それが完了するについて、一定の条件 を必要とする。すなわち保険事件の発生である。いいかえれば、保険企業は、この保険事件の発生のときまで、加入考に 対して、価値の保管、占有に当るわけである。もっとも、ここでは、保険事件が損害としてのみ考えられている。けれど も、いまはとり上げない。  さて保険の給付が、保険事件の発生をまって実現するということは、裏を返せば、保険事件の発生なければ行われずと いうことである。その場合には、価値の保管、占有は無用に帰するであろう。したがって、ここに価値の保管、占有を考 えるとしても、それは、個汝の保険事件について、ただ蓋然的関係に於てのみ可能である。そして、その蓋然性そのこと に、実は、保険の技術的基礎が横わっているのであって、かかる計算のもとで、いわば価格たる保険料が、保険の給付に 対してあらかじめ払込まれる。  しかしながら、あらかじめ行われるこの保険料の払込は、保険企業にとっては、単に、現実の給付に先立って価格の前 払いを受けるという、支払関係の時聞的顛倒を意味するだけではない。保険資本の道行きからすれば、その前払せられた 価格が保険給付の申に融け入り、後者が前者の体化︵<霞蓉巷霞琶㈹︶として形づくられる、ということを意味する。すなわ ち、保険企業が、企業本来の資本によって、みずからの危険のもとに、保険給付の財を獲得し、それを加入者からの保険 料で償うのではなく、実は、その保険料は、加入者が、蓋然的に自己のものたる給付を形づくるものとして、払込むので ある。  いま別の言葉を以てすれば、加入者は、保険企業によるこの貨幣的操作に結びつくことによって、みずからのものをみ ずから受取るといい得る。そこには、如何なる意味に過ても交換を考えがたく、したがって商品性は認められない。保険

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企業による貨幣的操作、つまり、保険機構に於て価値が、とくに資本として、どのように形づくられるかという道行きを 考察する限り、そう断定せざるを得ないのである。  右に述べたように、価値の保管、占有ということは、保険料と保.険金との支払関係をめぐって、保険企業の加入考に対 する操作として、一応これを考えることができる。それは、保険の内なる機構に於て、しかも個汝の契約について、ただ 蓋然的関係として成り立つことがらである。ところが、いまそういう意味でではなく、その保険機構そのものが全体とし て、外なる国民経済とのつながりに於て、価値を占有するということが考えられるのである。  さて保険の給付を生産と見るべからざることについては、既に述べたところである。保険は、もともと流通に関するも のであって、それは、いわば価値の相互移転にすぎないのである。そこに撃ては、価値の再生産はない。保険の機構は、 全社会的に見て、既存の価値に対して、これを﹁控除、占有する﹂という作用を持つにとどまる。いいかえれば、保険機 構に見ては、春嵐的に生産性︵℃一。O創[隔鳴け一く帥汁ρ貯︶は考えがたく、ただ企業の立揚から牧利性︵国。b苗ぴ穿導け︶のみが見られる。 保険は、いわば生産性によらずして、牧脳性を実現する貨幣的操作そのものであり、その点から老えて、保険資本は、金 融資本もしくは商業資本の性格を持つといい得る。もとよりそれは厳密な意昧に於てではない。 志 ノ、 、  さて、右に述べ来ったところと一連のつながりを持つものとして、 岡部氏の見解には、 注目すべきいま一つの点があ る。すなわち、保険がとにもかくにも商品である限りは、需要供給の原則は、﹁抽象的には、そのまま適用されるわけで あるが、然しその適用の過程に於て保険は他の鼻面と事情を異にする。﹂そして、その相違の点に、商品としての仮象性 が認められるのである。      保険の本質とその商晶性      三九

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     保険の本質とその商品性      四〇  いま同氏によれば、保険に於ては、生産はそのまま販売であり、需要はそのまま供給である。﹁勿論ここで需要といい 供給と云うのは、それは単なる需要ではなく、また単なる供給でもなく﹂、 ﹁例えば一般商晶に起ては供給の増大は、と りもなほさず抽象的には商品の過剰としてあらわれるのであるが、保険に於ては〃保険”なる商品は需要された場合に初 めて供給される。﹂すなわち﹁需要と供要とは全くウラハラの関係にある﹂ということになる。  保険に於て、この需要と供給とが表裏の関係にあるという考え方は、同氏に於ては、﹁販売されたとき同時に生産され るのであるから、供給の増大はとりもなぼさず需要の増大を、需要の減少は供給の減少を内容とし﹂、﹁従って保険に於て は需給の関係によってその価格は変動することはない﹂ということによって導かれている。いいかえれば、この見解は、 保険に於ては、需要と供給との闇、したがって生産と販売との聞には、そのものとしての同一性もしくは同時性が存在す るが、実はそのことに保険商品の特長がある、とするものと考うべきである。  ところで、保険に於ける需要と供給  これを正当の意味で需要と供給と呼び得ないにしてもfについては、いわゆ る供給の弾力性の問題を考察しなければならない。この点に関して、佐波宣平博士は次のように興味ある見解をのべてい られる︵佐波、保険学講案︶。  ﹁一般に、生産者は商品の価格が高くなれば供給量を増し、反対に、商品の価格が低くなれば供給量を減らす。しかし この調整は生産によって必ずしも同一でない。 ︵中略︶一般に、固定資本比率の大なる産業ぼど供給の弾力性は小さい。価 格したがって需要の変動に生産設備︵供給量︶を適応調整させるに時間を多くとるからである。この点、保険や銀行の場 合は、固定資本比率が比較的小さいために、供給の弾力性は比較的大である。しかし、この揚合にも、保険と銀行との聞 には本質的相違がよこたわる。﹂  いま銀行の揚合には、﹁資金の需要者は銀行から貸付を需める者であり、資金の供給者は銀行に預金する者であって、

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両者は原則として相違する。したがって、重る限界をこえると、資金の需要量と供給量との闇にしばしば食いちがいを生 ずる。時として金融の逼迫がある 方、時としてまた、金融の緩漫があり、資金の需給が調整を見るにしても、大なり小 なり何程か時闇的経過を必要とする。L  これに対して、保険の場合にはどうであるか。博士はつづけて述べられる。﹁保険の息合には、需要が同時に供給を本 質的に構成するところがら、それに応じて、 供給つまり保険規模を大または小となし得る。 多々益々弁ずる保険では需 要に応じきれない供給は考えられない。また需要を超えて過剰になやむ供給も保険では考えられない。考えられるにして も、少なくとも一般論晶に於けるように顕著でない。 この意味から、 保険においては供給の弾力性は極めて大である。 ︵国醜﹀一︶すくなくとも純保険料に関するかぎり、こう言うことができる。﹂  このようにして、需要は同時に供給を本質的に形づくる、と解されるのであるが。その場合の供給は、博士に於ては、 ﹁可能的債権﹂つまり、保険事件の発生によって保険金を支払うであろう、という約束の提供である。いわば保険商品の 内容は、そういう関係財として理解せられている。しかもその商品は、その引渡しが供給であるけれども、その供給によ っては、売買行為が終ったことにはならない。すなわち、﹁保険においては可能的債権の提供または約束が供給である。 したがって、供給がなされたとて、それでO①蓉冨眸は終了しない。仕事は未来にのこされている。むしろ、そういった 未来性をもつところに保険供給の特徴がある。 ︵中略︶保険でも供給の弾力性は決して無限大ではない。 しかし、一般商 晶特に有形財商晶の供給と比較するならば、そこには自ら本質的相違が見出される﹂のである。  右に見て明かなように、需要と供給とが、もともと同時に構成せられるという保険の特長は、きわめて注意すべきこと がらである。岡部氏が、佐波塵土とと為に、この点を強調することによって、保険の商晶性についての理論を↓層深いも のとせられた。保険本質についてのこのような研究は、私は寡聞にして、その他に多くのものを知るを得ない。まことに      保険の本質とその商品性      四一

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     保険の本質とその商品性      四二 注目すべきことといわねばならない。しかし、両氏の着眼点は、多少異ったところに置かれいている。すなわち、佐波博 士は、とくに銀行預金の構造との対比を論じ、その点からの立論を進められ、従来の保険学に果ては、﹁叙上の点はぼと んど全く看過せられている﹂とせられる。  まさにその通りであって、金融論上の保険の問題についても、従来の所説では、単純に、金融機関としての保険企業の 業務が論ぜられるにとどまり、その場合の資金の性格や構造については、ぼとんど触れるところがなかった。私は、かっ て、この点に関して、金融機構全体の観察のもとでは、銀行資本は本源的のものであり、保険資金は派生的第二次的たる ことの筋道を、詳細明かにしたのであるが︵拙著、前掲︶、需要供給の同 性または同時性そのことについては、この場合 の問題としては、積極的にこれをとり上げなかった。そこで、改めてそのことを考察したいと思う。 七  いったい生産・供給・需要・売買・消費などの一連の概念が、どのようにして相互にむすびつき、またそれらの問に、 はたして本質的に同時性が存在するか。いま、これに関する考察を保険について進めるに先立ち、注意すべき事例として 交通労務をとり上げ、それを↓般商品の揚合と比較しよう。  一般の商品の場合には、いうまでもなく、生産は消費に時聞的に先行する。しかるに交通労務の場合には、生産と消費 とは、もともと同時的に行われる。すなわち、交通企業にとって交通労務の生産と考えられることがらは、相手方たる顧 客にとっては、この労務の消費を意味している。いいかえれば、供給はそのまま需要を指す。いまここにある容量を持つ 交通機関によって、たとえば百人の運送が行われたとせよ。それは、供給者にとっては記入分の交通労務の生産であり、 同時に需要者にとっては、百人分の交通労務の消費である。

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 重ねていえば、この場合に、ある容量を持つ交通機関の費用というだけでは、交通労務の生産とは考えがたい。つまり 上覧や船舶の運転は、ただそれだけのことであって、それに顧客が乗り込み、現実に場所的の移動が行われることによっ て、はじめて生産が成り立つ。もとより、交通機関の運用なくしては生産はないが、それは、いわば生産のための準備ま たは機会の提供にとどまる.。準備または機会の提供という点では、一般の商晶生産で、施設を買入れ労働を雇入れること と、異るところはないであろう。ただ一般の場合には、生産は、この施設と労働とを組合せる過程そのことを指すが、交 通労務の紫合には、その組合せすなわち交通機関の運用は、具体的に生産の成立するための前行過程であるにとどまり、 この過程が生産として実現されるということは、他方に消費の成立を意昧するのである。  このことは、そもそも交通労務なるものが、単に﹁場所的移動﹂という抽象的概念ではなく、実は、﹁交通機関の運用 によって﹂という旦ハ体的内容を持っているからに他ならない。かくして、具体的内容を持つところの場所的移動が行われ る時に、生産と消費とが同時に成立するのである。両者は全くウラハラの関係にあるといい得る。したがって、一定の企 業規模の範園内では、多汝益汝弁ずるわけであり、生産は、現実の販売量によって動かされることとなる。  右に於て、生産と消費、したがって当然に需要と供給との本質的同時性を、交通労務について考察した。このことは、 およそ施設の運用という方法によって得られる無形財、つまり労務について、一様に当てはまるであろう。有形財たる一 般商品の場合とは、その点で本質的に相違するのである。  ところで、いま保険の本体たる貨幣的操作を、何らかの意味で、施設の運用と見ることができるであろうか。いいかえ れば、さきに関係財としてとり上げた、企業内部での諸手段.の結合によるところの、生産にあらざる特別の方式が、保険 企業にとって、施設の運用と老え得られるであろうか。いまもしそれが許されるとせば、保険の労務すなわち保険給付を めぐって、その需要と供給とが同時に構成せられると、見ることができるはずである。      保険の本質とその商品性      四ミ

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     保険の本質とその商品性,       四四  しかしながら、そう見ることは、一応は可能であるというにとどまり、本質的にそうであるというわけではない。けだ し、ここに企業施設の運用としての貨幣的操作というも、加入者に即して見れば、実は、彼らのものを彼らに再分配する 過程であって、その.際に売買の価格と考えられる保険料は、・分配せらるべき資金そのものに他ならない。少くとも純保険 っについて考察する限り、そうである。  かりに売買が、保険事件の発生をまって具体的に成立し、その時まで需要のために、供給の側に於て保険給付の保管、 占有があるとしても、その保険給付は、まさしく、需要者が前払するところの価格によって、蓋然的に構成されるのであ・ る。いまその蓋然計算が与えられている限り、企業本来の危険負担は、この過程に於てはあり得ない。企業本来の危険負 担は、別に付加保険料によって行われるのである。  さらにまた、保険の資金が、 保険企業にとって外来資金たることについては、 銀行にとっての預金と異るところはな い。しかし、銀行預金の場合には、それの貨幣的操作、つまり預金から貸付への道行きは、この資金の提供者への再分配 ではない。したがって、ここに考えられる需要供給を、そのままの意昧で保険に移すことには、多分の無理を伴う。いわ ば比喩的にのみ可能なことがらなのである。 八  右に於て私は、岡部氏の注目すべき所説のうち、とくに保険の商客性に関する二、三の点について、卑見を補足した。 その行論に於て、私は、同氏に対して同語日心点を持ちつつ、しかも、それとは異った見解に導かれることを否定し得ないの である。  私見によれば、保険を商口㎜とする所説は、その考え方に於て一様ではないが、いずれも、別段に深い根拠があってのこ

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とではない。ただ、それは、今日の保険事業が、とくにすぐれて資本主義的企業として営まれているのであるが、およそ 資本主義経済機構が、商品の生産流通の機構として理解されるからである。しかしながら、およそ企業として営まれるか らとて、必ずしもそれを商品としてのみ規定する要はない。いやしくも交換の支配する秩序に射て、企業利潤の実現があ れば、われわれは、その交換の反面たる貨幣流通の機構を、そのものとしてとり上げるべきである。保険の機構は、まさ しくかかる機構の一つなのである。  貨幣交流の機構は、いうまでもなく金融の機構である。その意昧で、保険は本来金融として理解でぎる。いま金融事業 に於て、その資金の需給を連環取引と考え、利子をその価格と見ること、もどより可能である。しかし、この場合の売買 は、もともと別人格の間に行われ、その意味に於て、金融機関は資金の仲介機関となる。そのような関係が保険に存在し 得ないことは、既に明かにしたところである。保険に於ける資金の需要供給を、一般の金轍機関になぞらえて考えること は、経済学的考察の立場からは、近視眼的にすぎるというべきであろう。  かくして、保険料はこれを価格としがたく、保険としての商事性は、これを見出しがたい。保険料は、つねに保険金と の蓋然的対応のもとに捉えられ、後者の対価︵團旨09舞︶として前者が考えられるのではなく、 前者が後者に体化するとい う関連のもとに、保険が、資金交流の特殊の機構となり得るのである。  さて私は、この場合の資金の道行きを、とくに企業の資本循環として、二つの不可分の系統のもとに理解する。すなわ ち、純保険料に関するものと、付加保険料に関するものとである。     Ω:・:。・:・:切1一國、::::;:Ω﹁

  

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       ︵國十国︶   

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tいr ・円Q・1一巨命        .σ      保険の本質とその商品性      .      四五

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     保険の本質とその商品性      四六  右のうち第一の系統は、保険の本質を示すが、その本質は、つねに、それ自体本質でない第二の系統によって、現実に もたらされる。いわば第二の系統は、保険の労務なのである。それにあっては、右に述べたような商品としての諸性格は あるいはこれを認めることができよう。しかし、いずれにしても、保険本質論としての商品性を問題とする際には、それ は第一義的なものではない。私が保険の商晶性を否定しようとするのは、かかる観察のもとに於てである。これについて は、既に詳細論じたところであるから、ここにはくり返さない。 ︵拙著、前掲︶。 7  あ と が き  さきに覚え書としての本稿を草した後、これに関連した岡部氏の別の論文を手にすることができた︵同氏、保険学方法論、保険界、 八巻三号、昭和三十年三月︶。しかしながら、同氏の所説としては、いま別に加うべきものがないようであるから、ここには、これに触 れないで置く。同氏に於て、目下新著発刊め計画も進行しているようであるので、その理論体系が更に明かとなるのを待って、改めて 教えを乞いたいと思う。いまは、本稿の不備なるままに、寛恕を仰ぐ次第である。       1一九五五・一一・一五ー

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