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原始記帳法の成立過程 : 複式簿記發達史その一

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原始記帳法の成立過程 ド 四八 、

原始記帳法の成立過程

一1複式簿記嚢蓬史 その一

総 壬へ 百岡  複式簿記は印刷された文献としてはパチオロ︵℃四五。δ︶のズムマ..ω偉B8勾飢。諺ユ昏ヨ。畝。聾O①oヨ曾馴す℃﹃oづ。﹃口9− 鉱蹄餌、、︵算術幾何及比例総撹︶なる敷壊書の中に.、℃山昌す轟鉾冴Ooヨ。昌冨ω9首寮鼠ω.、︵計算及記録要論勺として三十 六ヶ章に亘る概論を行ったものをもってはじめとするが一般である。しかし著書自らが言える如く﹁ヴェニスに於て用い        ① られる方法を其上に解読﹂したものであって、この簿嗣法が彼の猫創によって面上的に成立したものでもなければ圃朝︸        ② 夕にして成れるものでもない事は明白である。ソウル︵6Qo巳︶、ブラウン︵じd門。≦ロ︶等多くの簿記史家が揚げる極めて幼 稚な方法をはじめとし、簡軍な古い實践が和當残って居て、純県下の必要に適癒しつ、漸次成立した長き褒展の結果であ る写が分る。  この醐に轟々に夫々の記録法、整理法が蓮絡をもつに到り、その結果パチオロの言う総ての取引を秩序整然たる方式の 下に排列して、之を一口瞭然たらしめる方法.即9夢。ユ。σ謬餌⇒二〇お象け∋Φ夢&が出來上ったのである。その前題と して十三世紀には既に外歩完成された簿記實践があった事は、ペンドルフ︵℃o野島。鳳︶ジーベキング︵ω帯く①臨βぬ︶ウルフ 、

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︵ぐ雫oo一h︶、ウイルマー︵≦嵩ヨΦ5等によって恕介されている。、=一一一年のフロレンスの銀行の取引先毎に設けられた 口座に於、ける振替記入、=一九七年のフロレンス、リニエロ、バルド、ブイニ商弁の元帳、レイモンド・ド・ローベル ︵幻ミヨ。盈血。男oo<巽︶の紹介せる一意ヒ七年のシエナーの商入の帳簿殊に資木金帳や一三四五年のペルツツチイ家の    ③       、 帳簿組織、十四世紀初頭のフランス、オリヴイエ商脅の物的勘定等の後をうけて一三四〇年にゼノア市の市會計役員の帳. 簿に爾欄形式帳簿が現れ、フロレンスの銀行家メ﹂チチ家の一三九五年遅帳簿はゼノア流に雨欄形式を用いているという が、争博の丁霊に於、ける複式簿謁法はジーベキングの獲見せるヴェニスのソランツヲ兄弟商禽の一四〇六年一一四三四年 の新簿、バルバリゴ商曾の一四三〇年一︼四八二年に亘る三つの帳簿が期聞銅損釜計算こそ行っていないが損益勘定、残       ④ 高勘定を有して貸借猫額による為、両的統一整理涙を行っているuという略々完威して居て、後世の簿認史家がヴェニス式記 帳法、ゼノア式記帳法、フローレンス式記帳法等と恒別しているところの夫々特徴をもつた簿記が既に存在しτいたこと が分る。  パチ併科のズムマ第十章は常時としては極めて充壊した完成せる内容をもつて居って居り、他.の諸科學が初期の混沌た       ⑤ る蒙昧歌態にあった中世の所産としては將に驚威に殖するものである。この一篇は後世多くの杢澤、抄澤、改作として各 國に紹介せられた。一四九四年以降親仁世紀の長きに.Mつてパチオロの原著の右に出する歯応はなかつ九といってよい。 そして維濟歌態の推移渡展に從って新しい諸々の方法が出現し現代ではヴェニス式そのま、の簿記實践は見られないけれ ども.基本的改攣は何ら加えられて括らす、當に決定版の感がある。のみならす、全く¥情の︸憂した近世に於ては既に 實質的意義を失った技法が、パチオロの書物に拐げられたが故に、ヘノ荷﹁袖のボタン﹂の如くに遺っている實践さえあ る。しかし乍らパチオロをもつて伊太利式簿記法の始胤と呼び、此の入一度出で、.近世企モ∼は其最も完秦なる爽蓬に樋 慮しπる記帳技術の方法を得たと断ずる事はあまりにも誇大であろう。のみならす詳組に検討する時には彼の簿記術は實    原始詑帳法の成立渦程       四九

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   原始記帳法の成立過程      五〇 際の螢業に適用する起はあまりにも概論的であって、當時の多くの學科がそうであったようなM般の具体的技術指導書で あるという性質は極めて少い。即、實践的技法からは遙に遠い距離が感じられるのである。さればこそド・ローベルは ﹁當時ヴエニス學派に傳っていた教案の手稿にすぎない⋮⋮⋮實際の實務を正確に描き出していない概論的著作である﹂      ⑥       . と.顯じている。事實、實務は理論よりも遙に廣範であり多岐であって、この小論に漏れなく呈示することは不可能であっ た。從って抽象的普遍的立論とならざるを得なかったわけであり、この書に出ている取引態様を當時の経濟事情に於ける 唯一の態様であるとすることは笑話であって、むしろ、企業實践は一贋進んだものであったに違いない。叉抽象的理論は 超維験的に實践に先んじて進むことかあるので常に黒雲の實践との喰い違いを考慮に入れなくてはならぬかも知れないの である。  とにかく、複式簿記か如伺にして生じて來たかという周題を解明することは從來佃度か企てられ常にある鮮度諒解し得 る解決をあ忙えたけれど6、未だ澱粋な結論に到蓋しているとはいい得ない。研究資料の不充勢な事、資料の整備が不充 分なことはこの問題解決の忙めには決定的な痛手であるに違いないが、存在する数多くの資料によって綿密な考誰を行い つ、樹立された讃詫ではあるが、何れもへ−日的意味に於ては容易に理解し得る假.詫であるというにすぎす、簿羽黒として 完全な全而的考澄と合理性の批判に耐えるものであるとは言い得ないのである。  バチオロのズムマを一蓮の獲蓬経過巾の一趣として蒔聞的にはその前後翻翫期間、場所的にはイタリーとこれに交渉の あった地中海沿岸諸地域を探ればよいのであるが、方法としては年代に忠頁に、且地域的交渉を考慮に入れて編年史を編 成し,この流れの中から複式簿記法を構成する諸原理の獲現の思懸を汲み取るという方針と、これとは逆に理論的構造を 軸心としてこれを組織する諸部分原理について論理的合理性を手がかりにして成疏経過を編成する方法とか考えられるの であるQ前者は廣汎にして隣阪なき資覇の渉猟と整埋の煩をいとうことか出來ない。しかも地域的交流關係は賀端的には

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棚當複雑であって一概に断じ得す、從って往々にして経過が前後錯綜することもあるので,後者の助けを借りて組み替え るならば極めて實讃的歴史編域が可能になるであろう。これに封して簿記實践そのものの普及性臼休について疑問をもつ とすればこの方沙は極めて、機械的、非合理的であろことになり、そこから出て干る結論は、事實を無想した箪なる簿記 實践の不規則な集頚となb終るのである。簿記實践は中世的就會にあっては、へ’R我々が見る如き流暢h15普及性を持って いなかった様である。我が國では一般に血縁というか、主家.分家關係というか、地縁二号とは程遠い關係を逓じて傳播し たようである。例えば三井家の複式簿認が伊勢商人の一般的帳簿整理法とはならすお家藝に終り、近江商人の家郷.と出先 たな 店とを結ぶ本支店集中魯計報告制疲が家世に.穀織である事は未だ墨型に慨世を加えていないので論擦としては激賛であろ うけれども簿記法.普及の一端を競えると思う。尤も、我が國の場合は思想的に極めて初期の商入意識にあったのでこの傾 向は一贋顯著であっ九と考えられるが、伊太利諸都市の場合にも同時代同地方の皮.料を輩純に結びつける事は除程の注意 が必妥である。リットルトンが﹁論罪不徹底には相違ないが、可能性の多い獲展出過を推測してそれ等を何らかの論理的 連鎮の中に配置するという試は、事實に脱すろより確實な知識に代っていくらか認承し得る代用物を作ることが出、來よ う。後述する推測か歴史的論誰によって支持し得ないと思われる場合に。は、3れらが周園の事活から判断した事に照し        ⑦ て、てんで非論理的であるとはいえない比定として示されたものである事を思い摂して頂き度い﹂という態度をとってい るのは後者の方法の例である。この方法による場合は数多い資料を.取捨返湿し欠如している部分は推測を加えて填めるの であり、前提となる筋群.口が充分に合理性の批判に耐えるものであれば資粁の史的偵.仙の杯重を秤量し損じることなく秩序 整然と.昔造の超過を編・暫し得るわけである。しかしてその筋書に嵌め込み符ない史料は夫々,阻作する焚蓬野里を示し、且 それが本來の維過に合理的に交渉を持つ如く理解されるならば極めて効果的である。問題は史料を編成する主題理論が、 その時代の意識とか思想に立脚したものでなくてはならないという事にある。從來の誤認師家の探れる方法の耕當激は、    .原始記帳法の成立過程       五一 ‘

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   原始記帳法の成立過羅       五二 これであったが、夫々今”的野計思想に立って論を進めているので結論には名分に恣意性を含むように考えるのである。 この方法による場合恣慧的国論に阻る危険を救う途は資料による確實な区営へ即ち前者による批判︶と命計意識に封ずる 絶えざる反省であることを忘れてはならない。  ・曾四聖識は経濟生活はもとより、些稚、政治、文化↓般の相ゲ作扁によって杢般的包括的に生する壁間硅魯生28の所産 として漸次・灰熟するものであってこれを制度的に考察する時には諸々の薩含制度の早計學的意味埋解として77び上って下 るであろう。ところで會註意識は纏複環境の受動的所産であると共に、反面又へ胃詐意識が能動的に成熟を促した早撃制度 があって、爾者の紹充關聯は極めて微妙射爆である。箭記史の編成に際しては封象を重く法律、政治、経済、丈化杢般に とらなくてはならない。意識というか思想というか、その雪煙化としての無認理論は具休的に表現する時にぱ段階的護展 を示すのであるが、漸次推移する意識の底流はその具説であるところの簿記技術の推移とは必ずしも同時並行的ではな い。しかも意載が狡術両に共現される方向と河時に、その逆の作用即、幽技術的彩式が意識の獲現に開興し、その成熟を規 定する傾向があることも見逃してはならない。

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李井恭太郎﹁ばちおり﹂解題、會計學論叢第四集九〇頁。 ン●︵ド一・婆﹁﹃ざ♪>oooヨ戸9茜鍔3ぎF一9︸↓﹁c一℃○ρ℃・NN・ 本田利夫、パチォリ以.前の簿記の特徴、會計第五+八二第二號二二四買、。 黒澤清﹁會計學﹂四頁。 ・〆・︸W・訂雰㌘、酔2ポ一藁︷二︶・一・殊に自然科學と比較し℃いる。しかし敬學との開係位置についてはふれていない。 本田利夫一ご一・r7一一〇・ ﹀.ρぴ埠酔ざ8♪一︸二︹皿二︶.NN

二数學と簿説論

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 パチオロのズムマはその書名の示す逼り故風二五を取扱つ江ものであるが印刷され江書としては最古のものであるとい う定評、及簿記の創始者の如く.詮債されている馳・については随分異論がある。丁度彼の生きた時代は赦學史上極めて顯⋮著 な特徴をもつた時代であった。中置の冷院篤学が一般の支援を失い、漸く勢力を獲得した商人工業者に直接甚.盤を置いた 商業算術が態用敏學、需用二世として惚めて多方印刷獲行せられて居り一派をなすと共に、實用とか世俗を姉う理論激學 が大學教投の手によって飛躍的獲展を轟け九時代であって、ズムマに出ている簿記論も、パチオロの古い、絆歴たるヴェニ スの商入の家庭教獅及び俗侶としての巡迩律活の紅験.から湧き出たものであるけれども、叉後牛弗の大學教授たる地位が        ① そのま、現れていて、ズムマは軍なる集大成であって、商入用としてはあまりにも科、學的な、不向なものであった。ド・ロ ーべ一もこの黙を大いに指古して決して當時の語群をそのま、我々に掃えてくれてはいないと詳しているけれどもその形 式論理化の故に今口術不滅の名轄を有しているものとや43えられる。後、述する如くに純粋激温感の努力による實跨活画の統 ︸的形式的体系化の功績、は簿記、而確立期の特掌すべき事項である。後世、シエヤーを始め米國の多くの簿認學者、伺えば スプレイグ、 ハツトブイールド、 リットルトン、 ペイトン等が凶事的勘定論を樹立したのとけ違った意瞭で、形式化に よる促進の事實を大いに認めなくてはならない所である。しかし乍ら簿記の理論的構造そのものにはパチ毎春によ’9’て受 けた系休づけ以上に出する敏埋は含んでいなかったのであって、後磁心蓬によって行われた諸勘定填融は購聞的損谷計算 の構.造について若干の附加あった以外はすべて、その形.式議運に封ずる實捧的意味附けの納題であったと解し得るのであ る。リットルトンによって紹介されている簿記論について筆をとった有名な数學者も糾.極簿記學者としては大した所産も       ② のこさす忘れられてしまっていろ。  偏重史.上に於けるこの時代の今一つの意義は、十三世紀頃より灘次成育しつ∼あった統計法が商業維誉に於ける慮用統 計法として完成された複.式鱒桜江の成立を見た瓢である。弓ツトルトンの場合、簿記とは富に及ぼす偵佃交換の結果を示    原始記帳法の成立過程       覧三

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   原始記帳法り成航過程       M      五四 ふ隊ことを目的として一定の組織的方法で財政難資料を記録し、分類する手懸であって、別言すれば、資本主の利釜に閑し       ③ て種々の財産が受ける哺蓮の焚化を記録計算する類似統計法であるとして居b∼彼の所論はその他のアメリカの一部魯計 學者とともに分類法として取扱っている傾.同が磁めて強いのである。尤もこの場合の統計法とは所謂集計の方法であっ て、合口的性護見の理論として介業の口的に奉仕する特殊分野となったものである。数學の分野では累計學は自然科學の 自然主義、現四宝義、實誰セ義の猜神に甚いて9﹃m影窪。ヨな事象に潜む、大数的統計法則に封ずる合法熱性獲見の學と して疲達している。個別避濟事象を四三現象中の一合法則事誤として考察し始める即、近代統計學の方法を企業悪計にと り入れる事をはじめたのは極めて最近の事に馬している。  叉統制維濟、計書維濟の要求は繹濟活動の集計即、合日的性判断の方法として簿記的方法.の横張的活用を必要とするに 到って和五に交渉し合って居るのである。從って簿記論威立以後三世紀雫が程は近桟統計學の士幌を受けす簿記論の孤立 聖駕達の時代であったと概評し得るのである。⋮勘定理論に敷墨的理.解の方法を演労し忙ものを除いては殆ど中世以前の交 渉を考察すれば足るものと考える。  記録法として受けた数學からの影響は實に測り知れないものがあるのであるが、これはむしろ複式簿認以前の簿記法と       ④ して別項に扱った方が訳せ得ているであろう。﹁始めに勘定ありき﹂という有名な語にもか、わらす、はるかに形式的で はあるが實はもっと基礎的意味を有するものとして、勘定の前にアラビヤ数字と商業算術ありきという黙に注意を換起し たい。實にアラビヤ浄書は計算性獲得の契機でありしかるが故に晦.商式勘定形式とその記入慣習を定立し江ものであり、 勘定形式に嵌め込む前に商業算.術的.取扱が,毘録計算要素の範疇を決定した事は見逃してはならない。維濟的法.律的な實質 的事件を激學的形式的に把握する中間山僑が︾9であって、日痘回生する種々博多な取引を類型化することによって、算 術の定型に納める男用技術としての商業算術がそのま、記録計算手績としての禁酒法に慮崩せられた事は容易に想像し得

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る所である。勘定即、勘定形式とその記入法朔が確立すれば輝いて計算欲求の横大につれて諸勘定の増大とその絹充關 蓮、從って冥界の成立が完成されるのであって、その意昧で勘定の丸心は既に復式簿記成立の開始を意味するのである が、勘定が何故にあのような形式で、かくの如き法則で定﹂腹されたかに複式簿記成立の罪囚が潜むが故である。  リットルトンの言う如く、記録という事は文明と同じく、古くから存在しバビロニヤの抵常澄書は土板に鋸形文字で 叉、エヂブトの徴税官吏はパピルスに象形文宇で苦いたし、ソウルの言う如く礫石、木片、介殻、縦結の如きがあっ忙け 隔れども簿記とは言い難く、ギリシャ入は幾何學には一大進歩をとげているけれども数字はアルファベットの文字を用いて 表して居り加法や減法でさえも非常に困難であって数理的取扱は極めて不得手であった。ギリシャ人は先ず数喚を、純理 数學と臨用敬學とに涙敵した。こ、に純蝿町会とは数論︵⇔﹃一ぼげコPOけ凶09︶と幾何學であり要用緻學とは計算術二〇ぴq露⋮o自。︶ 廣義の測地術、力學、光學、、置學、.大文學警であっ江。さて彼等の所謂計算衛は整数の加乗除及び分数の計算沙と慮用問 題を含み方法こそ異れ、その内容に於ては現代の初等算術の︸部分をなすものである。之に反して敷論はピタゴラス夙に 幾何學と關聯したもので、その澄明も幾入王的であった。しかしてプラトン等は純粋なる藪論のみを駐曝して、ソフィス トの群の實践的計算輌を蔑親した知識の勤めの知識、親署論の勝利の結果として實際生活にたずさわる奴葱の行う慮用技 術に關する進歩は殆ど見られないように思われろ。多くの計算は極めて幼稚.なろ算盤によって行われ江、筆算も行われた けれども極めて不便であって、それはエヂプトに於けると同様位取りの規則を持たぬ認数法によるものであり、或る意味       ノ に当てはバビロンのそれに劣っている。ゾロン時代に使用されたアチック︵薮形容詞の頭文質︶による徽字の表示から、 アルファベットによる敬字の表示に憂つた如きは異常なる退歩というべきである。奴隷の仕事なるが故に生産的按術に關 する實學を蔑覗し江ギリシャの数學者蓮は機械學、工業を兵學の中に押しやり算術の如き媒介物︵一般的計算法︶を避け た。其の方法は演繹的形式論理に限られた。かくの如くにして形式論理のアヵヂミツクな嚢展の反面に、筆硯されつ、も    原始記帳法の成立過程       五五

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   原始晶記帳法の成山ユ過程       五六 實生活につながる生活の必要は奴隷の地位をH増しに向上せしめて乱費。そこにやがてヘレニズム文化の時代が來る。マ ケドニや王、アレクサンドルのペルシャ征服は商業戦争、又は経聖戦孚と考えるべき六田はないけれども、彼の雄圖が東 西文化の合流を契機とする野心の達成にめったことは、後世に一大貢献をした。その翼翼こそ彼一代で滞り政治的にはギ リシャの民主政治は晋及しなかったけれども各地に建てられたアレクサンドリや市の文化的債値は極めて高く後人の云う ヘレニズムの花は殊にエヂブトに於てあでやかに嘆き誇った。そしてそこに商業を基礎とし工業技術が漸く進展し灯下は 農業中心の貴族直家ギリシャ諸都市とは打って愛つた實胎、的科學となった。数婁はヘノやプラトン的なる純粋性、抽象性の 代りに慮用性、且ハ体性を帯びつ、進展したのであった。アルキメデスがうち立てた﹁方法論﹂は實にオーグユスト・コン         ⑤ ト︵﹀葉物審Oo葺①︶の近代的科學の方法に一致する。 ヘレニズム文化最後の代敏學者ヂ2.フアントスは或はインドの 数學の影響を受けているかも知れぬが彼の﹁アリスメチカ]は疑もなく計算術に鵬する。  この所焦黙となっている中事ヨ:ロツパの敏學を語るためにはインド、アラビア、或は遠くは支那の数學についてさ え、考察を進めなくてはならない。火藥や印訳了や香料以上にインドの文化は”等時のヨーロッパ人の憧僚の的であった。 事実グプタ王朝からアラビア入の侵略に到るまで即、四世紀から十二世紀牛に到るまで極めて異彩ある存在であった。そ の間にギリシャ、支那から受けている影響はともかくとして、その特異性は實、に算術、代数の方面にあっ忙。インド人こ そ位取の規期と零の用法を護明し、現代の國際的計算法は實に彼等によって拓かれたのである。  簿記の獲生地と考えられるロ︼マはまだ今の所説鮎には入って弱ない様である。即、ここではシーザーに誓いられる自 山イタリや人蓬が既に商案的資本主義の芽生えと華かな文化をもつた東方諸國に覇をとなえる時が.來ていたが、この爾地 域の古淵的懸隔はローマ市の維下構途を一愛せしめ農のローマは元染に商化した。ラチフンデウムの再分配は何人かの猫 裁珍書を暗殺せしめる動慨となっている。しかし四世紀の後、都をコンスタンチノープルに定めて、こ、は東西文化政治

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「 ノ        ﹂ の中心となり、ローマは経に資木主義の出護をする。しかしこ、ではローマ帝國の畷.聚を物語っているいとまはない。そ れよりもモハメツドに率いられたアラビア人の、正に商業繋恋沸に基くインド及ギリシャ敬學、科學の輸入浩化の方が重 要である。こ、では君王の賢聖の下に、異常なる急連皮でもつて磯辛しつ∼ある商工業を背形としてヘレニズムの科學文 化がアラビア繹され、叉計算に便利なインドの算術か喜ばれて、この見者は或る程度迄融合同化されると共に大いに改造 せられ”一〇このような難事業を短時日の闇に途賢した所にアラゼア数學の使命があっ忙のであり、その中で全く新しい断 産は實に商業算術が多少の系統ある書物として書き上げられた事である。このよ5な新傾向はギリシャ、ロ⋮マでは到底 蓬成し得ない事であっただろう。農業畳畳を固守せるヨーロッパ中世の封建欣會が、寺院によって辛うじて教學其の他⋮ 般科學の命脈を保っていた時代に、アラビアは古代と近世の蓮銭をなす所の重.大なる役割を演じたのである。        ⑥  .爾後一千年の素描は簡輩にリットルトンの表現を引用して置こう。ローマ蓄帝國時代は政治理念も、熱情や貢任も、忙 ぜ雲上の皐帝に委ねてしまった警世しきった官僚制度と飽和しきった土から生活資料を鯵齪とかせこうとして身をすり減 らし、苛劒衷求によってしいたげられて汲々として生きている人々からなっていた。償国と勃化と腐魔−華燭から來た窟 強な野蕃人が奴慧や傭兵から忽にして軍隊のト宕となりやがて政府の官吏となった事は疑ろ.に足らない。第五世紀の第三 四牛期までに野蕃人の將軍がコンスタンチノープルえは一詮の挨拶もなしに帝位に昇った。かくて廣異な無秩序厭態がロ ーマ帝國杢舷を支配した。−一長い暗黒時代−1教育は事最上影を淡し、知的生活というものは、現世の生活自体が大し て魅力を持たないので死後の生活のための準備に病的に集中された。たゴ理智だけが人類に封ずる何らかの望みを保有 し、教士以外の何物も野蕃人を教化し、知的活動の光を留めるものはなかった。六世紀から八世紀に到る西ヨー・ツパを        ⑦ 通じての古代の遺跡はすべてベネディクト派の修導院の中に保存されていた⋮⋮⋮と、しかしこのような千年悶に多くの 眞實の登達が途げられていた。﹁0ヒ五年トルコ人のイェルサレム占領と十字軍の筆奪戦に明け暮れる二百年間は當初の    原始記帳法の成立過狸       五七

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   原始記帳法の成立過程      五八 口的からは、全く豫測されもしなかった結果を生んだ、即、し∼硯的には両欧の文化にヒウマニテイーの息吹きを吹き込ん だことであり、呉休的には商工藁薦達の促進、北イタリー諸商業都市庶家の繁榮である。そこでは既に身分厭會は崩壊 し、財産の個人的所有礎は廣く行き亘り且十分に保護された。全く安定的これらの醜愈でば貨幣の機能は十全の欣態で獲 揮され、富は急速に蓄積され學問や帝王の花が嘆いた。所謂文藝復興の時代である。この時代の商℃業の事情は簿記映に 極めて重要な影響をもつていろので別に考察し江い。こ、ではその時代には從來、訳者と僧侶の盗むべき猫落物であった 學問が今や修導院以外のどこよりもベニスの人入や銀行家の岡で、すっと一般的になったことに注意されたい。第十世紀 の、頃は欧洲の知識階級はモ酒煮ツドの科學を.、三猷さ押鋤塁、、と呼んで泥めたが第十二世紀に入るにル、んで、アラビア数學 麟澤の時.代が來た。即、新興商入階級の申から中世期を通じての最たの激學の天才ブイボナツチが川る。彼はピサに生 れ九。ゼノア、ヴェニスに並ぶイタリーの三大商業都市の一つピサの黄金時代に商入の息子として生れ、父が當時の北ア フリカの貿易の中心地ブージーの代理商であった關係から、比ハ他のモハメツド転校に學び、インド二黒を初めて其他の一 食料晶雑貨商に教わったとも傳えられる。因に驚喜史家じごp誕に從えばピサのレオナルド以後三十年程は、アラビア徴字        ⑧ はイタリー商入によってローマ式に用いられたと云う。彼は後生をピサに鮭り、こ、でインド、アラビアの風に倣える算       ⑨ 術苦︵一二〇二年︶を吉き上げた。この書はインド敷學の讃方、書方に始り、整数、分業の四則計算︵小敏.は未面明︶よ り、蓋置の憤格、物品交換、合資、其の他の商業上の乱用を示している。叉二割の利息を附する数個の問題があり、且つ ..03︶諄巴..なるモ.八葉さえ出ていて現代算術の典型を示した所の最初の著作であった。その他にサクロボスコ等の著者も あるけれども大學算術として行われたのみで、第十三世紀の始めイタリー商人の採用し忙敬學はまだ一般知職階級には受 け入れられはしなかったし、逆にその使馬が排撃された,一二九九年にフロレンスの金融業者は、簿記の中にインド数學         ⑩ を書く事を嚴禁され、銀行ギルドの規則は棚も礎らで元帳記録作成に、ローマ数字を書く事を規定しているのである。こ

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、       ● れはこのような数字が詐欺や改ざんを一息困難にすると信ぜられていたという法律的理由に基くものであるが、ギルドの        ⑪ 規定にはアラビア激字を非公式に使用することを禁ずる規定はないからやがてはその眞債が認められざるを得ないのであ 、       ⑫ るが、インド敬學と其の計算法の普及はこの段階では容易でなく、 一瞬高鹿の商業資、木・王箋の獲展を待つべきであった。  大宰派の算術と、計算學校派の算術は容易に融和しなかった。パチオロは大學派にあって慮用算術を採b入れようと試 みた一入である。 ︵一四九四年︶ゾムバルトの複式簿記に封ずる讃欝は有名であり、天才ゲーテは図心の事を入間算筆の 最上の興野の一つであるとしている。准疑うなき哲回者アーサー・ヶイリーはより熱心に﹁簿記は二つの完全な科學の中        ⑰ の︸である﹂とさえ云っているし又nらも簿講書を書いている。けれども暴君としてはそれ程の効果を示す書でもなかっ たらしい。決して簿記論完成の功績を一人して推う程の慮用性を持っては居らず、此の書の慣値が眞に認識せられたのは その後の學者の形式的還論附けが絡に彼の形式命理の完奈さを見出して後の事であるに相違ない。  職業教育としての讃み書き算盤は随分商法や心入問で亜賓がられた。た分時代は下るけれども、一ヒニ七年アメリカ、       ⑭ ユ・スチカットの鍛冶工契約書は親方と徒弟の契約吉の申の最略代表的なものとされているが、その申には次の約束が茜か れている。 ﹁徒弟にはよく記帳が出來る稚度に、鋤簿oh>鼻口ゴ糞ρ叶圃。犀を教える﹂と。このような制度化はヨーロッパで も同檬にあったものと思われる稚にこの方面の書物は盛に出版されている。しかし、この方.画の敏多くの仕事には理論的 進展は一斤だに認められないばかりか極めて低廉な授業料をとって事える市井の寺小屋に於ける教授科目になってしまう のである。そして簿記論はこ、から離れて全く別個の獲達経過を辿るのであるが、もはや敗學の部門からは何ものをも得 なければ叉何ものをも寄派しない孤立化時代に入る。尤も簿認の低俗化に妬してはリットルトンの熱心な適職がある如       ⑮ く、しばしば有名な数漁者や科學者政治家等によって簿記に署する著述が試られるのであるQ簿記はサンフランシスコの 構號をもつ大砲正によって紹介せられ、出塁鮎に継て数學代数學と協働する程の名号ある起源をもつている。そして第二    原始記帳法の成立過程       五九

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   原始記帳法の成立過程      ,      六〇 番目の簿記書は彼の有名なグラマチゥス︵○鐘ヨヨ鉾2の︶で彼の一五一八年嚢行の書物は代激學と簿認學の書である。丁 度ドイツに於ては商工都市の黄金時代でアウグスブルグ出身のフツガi家が適えた頃である。ぞタリーの學夙がドイツ大 帝へ移され、商工都市では中學校を設けたけれども、それ等はイタリーと違って商工階級の子弟には不適切で多くは失、敗       ⑯ に終った。グラマチウスの直後に出九ジエ・ーム・カルダンこ窪9づΦO震ユ鋤旨︶は星占者、署者、科學者、緻學著でリチ ャート・ガーネット︵勾凶。田平αO餌ヨ。雰︶も .口える如く敷藁史上一紀元を劃した人、三次方程式の原理が完全に詫明され た最初のもので﹁彼は完全に眞の科學者.精仲を把握して居り触悪者としては最も重要な進歩を招來せる人であった﹂そ、し て賭事に熱中して借財のためミランに追われ尤。こ∼の大濠教投時代に著した算術害︵一五三九年︶は数の分類、それ等 の敏の四則、比例、数論︵特に古代理論︶算術と陶聯せる代数の外に、合資、損盆、爾替、洲量、辱多敬の・憾用を含んで いるけれども、いかなる意味に於、ても實用書ではなく、理論的立腕立からの親察であって、商工業考の立場からの書では        ⑰ なかった。十六世紀に於、ける最も高踏的な辮護士の私生見、狂天才カルダンの算宿願に於て所講﹁科學のための科學﹂を 見るのである。三次方程式の研究者であってカルダンに封立するタルタリアi不幸貧困の裡に自らを築き上げたる猫學 の天才tは商工階級の偉大なる偏師として二五五六年ヴ甲=一スで算術習を書いて居り、内容はパチオロのそれと類似し ているが、計算の微細商業上の規則に深く立入り十六世紀の算術書中理論上より見るも、實用上からも、斯くも多くの事 を教えられる書はない。この一巻こそ計算學校汲の最経の厭︷谷であろう。しかしその他は純撚たる商業算術書として畠さ れ、一般的な島民の殆んどを占領した・フランスでは理論算術はパリから、商業算術は商工都市リオンから出版されるの を常とした。パリの大學教授ビエモントアの﹁實用計算諸表﹂が實川的なるか故にリオンで・竣行されねばならなかった 事、前迦のドイツ大學教授のグラマチゥスか受命と簿記の紐介された商業算術型の書物を書いた事は、商工業者の支配力 を設明するものであるが、大音教授の至心としては稀有の亭に遺するのであって、商業算術至剛時代の中に理ソ、蝸数輩の擦

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a 4 .頭を見る時費となったのであると石えたい。  有名な簿記史家ブラウンが一八○○年までの童言に開する著者を百五十だけ揚げているが、これらの人は代敏學の樺威 も居れば、航海露光學の灌威も居る、外國貿易封策委員も居れば一ヒ六三年の佛二酉沙典の起草者も居て天文學者も佛文 法智者も火薬の樺威も洗禮派碇泊の歴噺家も古る。大英百科欝典の活計學や簿記學の項を見ても無駄である。このリスト から三入の人ジモン・ステヴイン︵0りぢO二〇り恥く汐︶、チャールズ・ハツトン︵Oげ異電ω鵠β鉾。跡︶、 ロバ1ト・ハミルトン ︵幻OσΦ﹃曾 見醒PコP一一θ05︶を上げて見よう。ステフインは實に多才であったけれどもカンター︵O凶導。﹁︶は数易者だと書いて いる・乙の氏は一六〇二年にオレンジ公の殺意のため薄謁に附する廣範な論文を言い江。ハツトンは十八才で数學教師と なり地球密度の測定法は定融となっているか、彼も簿認の教科苦を書いている。ハミルトンは銀行家、商人、教演者であ るが、減債基金に關する一、犀、の09一凶。︽を批判した経署名者でもあった。 一八00年以後の二人オーガスタス・ド・モル ガン︵餅賃讐3窪g。O①寓。讃慾一μ︶とアーサー・ケイリー︵﹀菖び霞0蝉︸・δく︶を墾げれば充分であろう。モルガンは一八四六 年の数學書中に﹁簿記の叢礎理論について﹂で数學的立場から解噛している。ケーり一はケンブリッヂ夫學の敏學教授を 休職して簿誕を書いた。しかしこれ導の簿記書が決して勝れていたわけではない。グラマテユスは簿認を書いπ最初のド イツ入であったという事以外何の賞讃すべきものもない。彼n身は何を攻えてよいかについて極めて不確實で途方に暮れ          コ       り ていたという。︵]刃O﹂≧ 閃O洞O︶カルダンは科學では先鞭をとり、弄、才であったか簿記學者としては陳悔以上であ・ハ。 ハミ ルトンについては大英百科激.典にも彼の簿記書は条では忘れられていると云わしめている。  かくて再び言わう,敬學からの影響はアラビア蛍學の導入︵十四世紀から十六世紀︶と商業算術一感用量學の流行か ら得た形式的影響をパチオロ以前に認める。 ﹁敏・學はたゴに計算の方法たるに止まらない。逆に計算技術がその理論体系 の方向を制約する﹂からである。そしてパチ旧習以後は簿記技術に潜む形式数理の理解という整理的影響を認めることが    原始記帳法の成立過程      一圏      六げ

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原始記帳法の成立過程 、 六二 、 出來る。 S @@@@ CD O@ @ @ ffL£i.yitlltl (S) @@ ab @@ 小倉金之助、数學史碑究、第一輯七三頁、 ン.︵一.圏﹂婆寡三ご一︸二︹一■丁ω以下第一章︺宝ぞε乞三 貫A㌦︸ぞ一葬3︸三. ン.︵ .﹁㌧婆§三μ﹂︸︶;一︶・ぴ9 二、甲ξ三σ≒サ[ζζ・ズ斧弓ス・言窪一’凹三三苧頃︸三戸・r一二冒ρ葬^・︵H爵ご警ロN. 澤潟久敬、讐學概諭,第一部科學についデ﹂二九頁リ トr︵譜ζ笙¢砕三ポ一︸や二ニピ・δ. ︷ジニ剛一ヨ酔っ蔓^︶恥ノ一㌶琴ニゲaP!一u.一NQ. ン.ρ=・二Gい3。剛7.ご、● ン・含馴・家窄ぎざ剛冒・聾・末綱恕一籔學と数等史七八頁、=一世絶・り末ピサのレオナルドはギリシヤエヂプト、シリヤに族行しアラビ アの敷學︵宝としべ、計算法︶を學びそれを[、算盤の書﹂として公にした。一二〇二年亀從って異名同人ならすや。 小倉金Lフ﹂助、 敬墨史研究六八頁O 伺       二二頁。 ン・︵,・一﹂葬一㌫三﹃一︶.曽. 【WR’二μによれは歓洲て最も占いアラビア籔字の使用は一九四三年のウイーン商業帳簿である。文法律的には一五二〇年に至って もアラビア書字の効集を疑った、ドィッでは一四三六年目アラビア二字使用の慣習が生じているけれども一七世紀になっても hへ’刈三幅へ≒︵.ぞぞ.h㎏抽としτ蔑親された。 ﹀.︵ドζ雰ごr評三r︼r一一・ 小倉金之助、激學契研究九六頁。      . ン幽︵r﹃き二。虻︶♪六頁以下。        . ン.︵計一き弛襲§”瓢ワニニリ・ひ. 小倉金之助ぎ二.﹄冒・︸、m.     。 三 代理人簿記﹁主尺勘定﹂Q≦潜q。貯鶏、ω訪ooo響罫︶

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 前項に於て商業算術が相異高度の獲達を、途げた事、從って、その計算方法自体が商業計算に照する法律的樺利義務や輕 濟行蔵の性格、契約の内容等に﹁定の形式をあたえ、既に倉計上の概念を構成する段階にまで立華って据たと想像するに 無理のない欺態にあった事が結ノ、醐出盛ると思う。勘定記入法の起源について、極めて限られた曇天訳本の中から、動機を 抽出しようとする試みがなされているが、それらは多分一方的な解群を附するのみで完全な理解には甘し難いであろう・ 丙欄.式の勘定︵び一−一子け①﹃簿﹃ ︷O戦コP︶を用い始めた事はたしかに複式簿記を形戒するためには捷路であった。勘定の二而性 心は帳簿全休としての借方貸方の鎗.衡表示が複式簿記の木質的要件でない事は近代の簿記理論が例外なく認める所である        ① けれども.爾欄.式勘定を用いて行った振替記入法から出書する溶明は今の所説も有力なようである。しかしリットルトン        ② はこの説明に封ずる疑問から入って行く、入開が帳簿なり、記録を行い始めた事は實に古いのであり、しかもそれが備忘 録︵ブラウン︶として行われた事は想像に難くない、その多くのものは貸借關係の記録︵ジーベキング︶であったようだ し、叉自己の業績の︵或は代理人としてのか︶畳書であった場介もあるけれども個別的に記録され、債樺債務の場合等、 辮書して不要になった部分はジグザグ治却沙をもつて抹治されたようである。しかし、内入支藩の揚くいには内入額を記入        ③ して置く必要があるけれども、そのための鋒自を豫測することは困難であったから、借りの記入の反劉側に支佛を記入す ることにし、内入支出の場合は内入額を反七三に記入した後一旦抹殺のしるしをつけ、改めて改訂した幾襯の認入を別の 餌所にするというようにしたゴろう。このようにして爾面式勘定の使用が始まるという。しかし、これでは、三飯につい て左をプラス、右をマイナスとし、債務についてその逆とするという如き性格を輿えた根擦は出て來ない。  艶艶史家ボール︵じd凶鷺︶はその著=⋮巽。赤く9寓p﹂讐。ヨ勾嵐。ωで﹁中世の算術では減法に⋮乱して最も普及した語は被減激 の代りにユ①葺︵借︶という語であり、減数に枡當する語は℃二。団∋Φ簿︵支根︶であった、︵⇔・拳︶﹂と。ボールは簿記的用語        融 の普及していた事を言っているのか、商業算術でかく表現したというのか、或は数學︸般ω事を言っているのか判明しな    原始︸記品恢法の成山払過程       六一二

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   原始記帳法の戌㍍過払       六四 いが、吟くとも商業童話しの慣罰としてこのような用法があったと断定するのが無難のようだ。或は西欧入の計箪心理か        ・       ④ ら詮明せんとして釣鐘勘定をする奮戦が﹁望引礎﹂を求めすに亭衡㌦.、︵州斑欝μ8︶を求める慣行を引合に出すのである が,西欧では幾高はσ9﹃”oΦであってこの二つの計算は既に同一概念となってしまっている。勘定形式を離れて既に圃定 糊温した慣用叉は概念となっているもので、このような語法又は概へ,心から駄雨算計式を根振すけてび広物poo計算法が勘定形 式の成立の根檬であるとするのは些倒鈴の感がある。  勘定形式を用いて行う演算では正の敏については一方の側で加工を行い、負の数については別の側で加法を行い、これ        ⑤ を封比させてその塾を求めて幾高とするのであるから、その註算法は加法を基調にしている、そこで、ライトネルは加法 的減法︵﹀象三く①ω置数卸算闘書︶と呼ぶのである。この伽注的な所に着嘉して﹁資木白己糟殖の風骨の表われ﹂であると

  ⑥

解するのは如何なものか.簿記席書の動因を資本毛養精紳の形式化という思想で一貫することは大綱としては至.極尤もで あるけれども、加法的減法をもこの精艸で根張すけるのはあまりにも超越的ではなかろうか。成程申世の教点数學では ﹁ノアの箱舟の申にあった礪が八つ﹂であったので八項口分類を尊んだという奇例かあったけれども、早くから憩を追放 した商人の世界ではこのような規範は通用しなかったであろう。資本・E養を宗教化するのは時期狗早である。  ボールは﹁パチオロは加法を示すのにプラスという語の頭文字を用い、悪しい事を示すためにイクオールの頭文字を用 いた。叉代敏學に於ては負数を止数として取扱えるよう方柑式の⋮側に苦く事によってマイナスを現す符號を使う事を回 避した﹂ことを指摘しているが、等式に合せて思考するという方法が川里鮎となっていることには︻理がある。それは減 算の場合の思惟は自然生にあっては﹁減数を掴えて被減数に等しき和を興うる如き倣を求める算法﹂であって、負数即、 正のn畏敬の持つ性質の事黒黒反封を現すものでβ①鵬鉾ぞH否定と解し得ざるもの、あるのを嚢署したのは文藝復興以後 であった。カルダンは未だその眞意を解していない程である。西欧では荒戸肌の焚達は著しくなかったのであb、東洋殊に

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日参に於、ける計算形式を基準にしては黒しくない。從って表書的特徴をとらえ加法的減法と呼ぶことを慶して、計算形式 そのものがもつ實.質的意吹を麦現する﹁封置減法﹂なる語を用いる方がよいと考える。  この減法はたしかに思惟に合致した形式をとるけれども,必ずしもこれのみが用いられ江わけでなく、フローレンスで は一三八○年頃迄はライトネルの.㎡う階梯計算9D笛駿①ぜOoゴロ=β臓︵並置減法︶が行われていたようである。フローレンス はベニス、ゼノアと並んで特異の光達をとげ簿誰法も進歩し九ものがあるu振縛認入も行われていたけれども爾プラス、 マイナスを並置するこの方法が行われていたのであるから、全面的慣行叉は麗念と考える事は早計であろう。        ⑦  勘定形式の問題はともかくとしてリットルトンは型凶舞力を引用している。国糞。富はパチオロの二黒以前にある諮簿記 法を次々とたすねて、代理人簿記に蓮するのである。  リットルトンに從えばジーベキングやペンドルフ流に簾多な債噛襟債務の記録が勘︷疋形式で行われている間に、振替えが 生じて自然獲生的に複記入が浮び川て誤るというような無秩序の中に秩序を求める方法とは異b、同じく債灌債務より出 算するけれども、ローマの會計法の要求と、これに附随する諸制度を基礎にして、椴定ではあるけれども極めて秩序立つ       ⑥ て居り且複式簿記に結び付く特性を現わしている獲展維過を描き上げるのである。換言すれば既に考.品書みの複記入と爾 面勘定を檬貼として遡及法をとる。彼は語法、法制、等形式的なるものが定立されると、新しく成立する樺利警務關係が その定型の中に盛り込まれる。そして既に定立されている記帳法がそのま、愛用され得る限り態用される。かくする聞に 漸次新しい記帳法則が定立されて行くが、何れも最初の記帳法則を中心に派生するので統一ある隠勢が現出するという關 係に着目する。そしてこの基準となる記帳法には現金帳の記帳法則を持って盗るの’である。勿論これは種々の経験が次々 に累積せしめて來た結果であって、叉漸次完成して行く過程である。六って︼つの構想に從つτ、これを畢線的に跡付け ることは、極めて無理な試みである。しかし乍らリットルトンが辿つ江過程は確かに合理的であって、八,の所この仮定的    原始記帳法の成立過程       六五

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   原始記帳法の戎立過挫       六六 経過を否定する根擦はない。リットルトンの立論があまりにも軍線的である事は、彼が結論を急いでいるとの感を抱かし めない事はないけれども、ペンドルフやその他の喫家が嫁く忠責に具体的に蒐集した史料をもつて、中世以後の簿記威立 史を編成する努力に比して劣る所はない。この時代の衷料が乏しく黄、設を困難ならしめている事に原因するのであって、 この霜について批判を向けることは不當であろう。変料をはじめとして環境︸切を捌察する感性の結果が、論理的、推測 的に﹁構想﹂を形成する。構想はあくまでも理性の作用であって、そこではこの理性の作用、即、思惟の正當性が問題と なる。リットルトンの所溌はこの段階では正當である。しかしか、る面上はあくまで搏葱であって考誰の結果をまたなけ れば學詑とはなb難い。観察といい、賞讃といい感性の活動である。リットルトンの簿記皮は此の場に於ては不充分なる 資料を彼の理念にあてはめて簿記ゐ彼展純過を形成するのであるが、こ、ではたしかに前述の珊判が當っているようであ る。この方法では簿記の夫々の段階のもつニュアンスを見失い、猫断に陥る忌詞性なしとしない。そして彼は史料の不足 を補うためにさらに﹁繕想﹂をもって所詫を固めるのである。       ⑨  レイモンド・ローベルはリットルトンの所、記から重大な影響を受けているのであって、後に略、照する如く、分類を重、覗      ⑩ するのである。しかし彼の所詫はリットルトンの所読を﹁構想﹂段階で︸暦秩序づけると共に、考誼の貼でも一歩を進め ているので、併せ論じよう。  ド・ローベルは貸借干均の根本原埋が如何にして生じたかと云う間題に封して、分類こそ簿記の諸書である。中世に於 て三つの異った方向に於、ける進歩が一層よい分類法を成立せしめた。その第一は面々の勘定の表示に絶えず改善が行われ 絡に左右同形の形式を探冒した経過を詫明する。即、記入に瞭して同じ入⋮川に開綿のある事項︵同、類事項︶を﹁箇所に集 める傾向が牛じ、それが有効な呂が明口になって曇ると上下の二.下身をそのために屈して置くようになる。︵重ねられた 匝劃︶︵︸四三一年f三四年のメチチ家の文書甲︶しかし記入事項が多い時には蛋白が足らなくなb順序が逆になった

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bするので、帳簿の前と後の二箇.所に分けた︵フランチェスコ・、ダッチニイの元帳十四世紀後期︶ものもある。これは締 切計算の場合に不便であるので絡に左と右に向い合せて置くようになるという絶過を示しているのであって、リットルト ンの遡及法によって推測するのよbは正確である。第二に唯一冊の畳帳を各々の帳簿か夫々異った11的に役.立つ激冊の帳 簿組織に取換えたのであるがこれはリットルトンによれば、次の如くである。  保謙︵の唱。口ωδ︶は最初は酒の巾に黒酒を注ぎ込んで行うもので呪咀の性質を帯びた帝徳的宣誓であったが、やがて宗 教的意味を失って保詮の時の問答形の語法となる。..ωOQ巳①誓①モ、一i.,Qり℃o旨山Φo、.という工合にGり℃o#ωδの形式が法律 的効果をもち、ローマ法のω銘づ三三臨。︵問答ロ約︶の墓礎をなすに到る。このようにして種々のωけぢ三ρ銘首。の︵契約條項︶ が定つた問答語の中に伏せ込まれ九わけであるが、西ローマ帝國ではギリシャ法の影響を受けて﹁認録﹂するという事が 法律的効力の要件となる。即ち、約束か正規の問蟻形でなされた事を書式に表わすところの書式問答口約が威弔する。こ の記録はローマの家長が要求されていた會計記録、殊に現金帳︵Oo山Φ二尊8Φ隣酬卑。×℃oPωごになされた。現金帳は元來 は現費の現金の支軸であったか、やがて債罹債務の記録をも同様に導入するに至る。例えば貸主は、﹂買買か、貸付によっ て生じた契約が.取消されたかのように入金の記入を行い、同時にその空芝を借主に支佛つたかの如くに、支巡廻に説入す る。この二品入は書式問答口約をなすのでめるか、元架は扉固の取引によって出來たものが、こ、では貸付金の形で聾じ 野拙罐という効果を鶉つ事になる。このような記入か値樒考及債務君の双方に慨してなされただろうし、叉図入かに督し てなされ、同一入に上しても貸借いすれにもなったゴろう。やかて現金帳は現實の現金受梯と古志上の受擁との混合記入 となるので、ド・ローベルの軸.昌う﹁最も質の悪いまぜ煮﹂になるので極めて餐易な分類の手段として、これ等を別帳簿に 分けた方が良くなる。さらに⋮件毎に分けた万がよくなる。8 口答契約を書式にすろ用語法が成立し、⇔ 反封記入を する事によって前の記入を抹沿する方法の.成立、国 債務転替の方法にこの反勤記入法を擬張画図する方法の手立が見ら    原始記転吐仏の成立翅程       六・七

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   原仏期﹄記帳法の成⊥止岨想程       山ハ八 れるが、ド・ローベルの示しているように、中世では種々の前事的方法を使用し、且軍式簿記の休系では勘定の正確性を 照合する何等の術がないので、帳簿雷魚は可成り重複しているのであって、これを全体として統括する休系を必要とする のであるが、へ’迄の経過ではこれは出て來ない。そこでさらにこの補完体系を求めて論を進める。  キリスト教の禁止にもか、わらす商蔓利幅と金融の利谷ぱローマの貴族、霜朝の重大關心事であって、腫命的封而をつ くろいつ、事業に手を出すため、現金帳の外に黄昏、を記録する補助帳簿を作成すろ。これは充分訓練された一と一.Aうよ りも當時は奴稼の方が文化は進んでい忙﹁一奴隷︵oロ轟け・員。巴Φ民p。﹁一剛︶に委ねられ忙でもあろう。奴隷は會計報告のた めに.^玉器富﹃、ω霧8偉再..を作った。こ、で奴隷は前震の現金帳の庭埋に從って、しかも主入からの投資は第三者から の借入と同じに記入されたであろう。叉利息等を受けた時は現金.帳]≦9。。汁霞.。。霧。ε暮に記入されたであろう。現金帳 は既に万古形式であっ江から匠八勘定も、貸付金の勘定も同じくσマ一巽南鉱を用い、五に反応記入となるという法則に 從つたに相違ない。かくの如くにして、何ら前以て記入法に關する理論的解明もなかったけれども、慣習的に慮用し行く 事により完全にび7冨器鴨巴様式の帳簿の上に︹ぞ旦9嘗凶①ωを行う方法を編み出すのである。  十三世紀から十四世紀にかけて商業の喪漣とローマ帝國の廣、露な三際的賦課金制度が行われ、これらは現物納付もあっ たし、地金の取扱もあっだので、現道の危険を避けるために爾替︵並塩①旨感ユニω︶と商業を兼ねるものが多く現れび餌類。ず。﹃自 αΦの。ユ喜簿となる。キリスト教は利殖を禁じたが、 ユダヤ人は別だつたからユダヤ八が代理する事が多かったと云う。 彼弊はギルドを作って居り、その規定に基いて入念な謁帳を行っていたから、優秀な帳簿組織を持ち、ローマの方法はそ のまま傳えられていたけれども、進歩はなかったという。しかも妻戸な事に債樺、債務の記帳はあったが、現金帳は絶え

    @       ⑫

てなかった。リットルトンはこの葺口冨㌦の鎧。o︵首葺をヨ器器㌦の鴛8§けであると.画する。かの暗黒時代は確に永く且 文化的色彩の全く絡臆した時代であったけれども、リットルトンが心配する程中断的ではなかった。商業活動は囲飯盛で 、

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あったし、實務にたずさわる平時の卑しき階級が中世の文化を貴族から奪って身につけた時代であっ仁。從って商業に有 学なるあらゆる知識は極めて容易に普及せられ、鳳宿下科として遣されて來忙事は前頃商業算術の搬達でも想像のつく所 ,である。從って記帳接術は︸旦威点すればその按術が生きる緯濟的地盤が失われても次の世に引纏がれる可能性は充分に あるのであって、この葉替商人が心土の知識を纏在したと想像することは合理的である。このような事情は幾つか生じて 止る。商業を望むことも同様に代理人に委ねられる事が多かった。身分上の要求、課税上の要求、そして最も一般的だっ た事はoO葺ヨoPα国形式による組A5一事業である。この場合にはQ自口①算。讐豆寅嵩QD酔︵oOヨヨΦ昌山異O吋︶に書して自Ωo臨く①当山創①門 ︵け﹃餌Oけ2σけO同︶は報告をしなければならなかったQその場合にも出資者の勘定を上述の方法によって備えた。しかし乍ら夫 々の出資組合員は多分幾種類かの商晶を出資したであろうけれども.それ等に封ずる勘定を設けることをせす、出盗者 からの債務と取引結了後の緋濟の記入を確實にすることに努めたわけで記帳法の本質的性格は奴隷のつけた皇籍ω8㌦ω 諺600⊆纂と何ら藺違はない。  ド・ローベルの第三の経過とは人的勘定と物的勘定とを結び合わす力をもつ一つの体系に統合する過程である。尤も 寓麟ω審﹃、ω諺ooo=彗も℃節昌ロ①履、6。ヨく②ω雪p①葺諺060=9も調螢β犀①円げ跨09葺けも極めて部分的勘定であり、計算されない 、封照が多く淺されていた反面、叉記、帳は軍複が多かった。そして諸帳簿の聞では複記入の方法は確立されていたが,杢面 的複記入ではなかった﹂から、これをもって複式簿認体系の、辰立とは.云わない。貸借亭均の原理が部分的に作用し始めた ﹁崩芽歌主﹂でめる。そしてド・ローベルの云う統曾過程はリットルトンではあまり顯著でなく、彼の冒葉ではユ。ωoα の団露oBo︷四〇〇G二葺ωが漸次追熟して轟く専科であり第二過程の中に入るのであろう。たぜ分類は未だ的確ではないの で、それ等の要素の存否は映料の上で明白に.匿如上來ない態のものである。リットルトンはこ、でこの段階を一慮打切る のである。即、後に、來るべきものは℃﹃8ユ曾。議践ロ”℃︻o類質一四ρ創一δρ9Φ擁℃①Pωゆ等の勘定でめつて、これは組合冒瞼    原始”記帳法り成山乱心[程       六九

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   原始記帳法の成龍過硅      七〇 取引が実績的定住商業となり、組合員阿では[利釜算定、出資者の分前決定性のためのもっとよい方洩を要求し、此の狙 いは出資者の共有の資奉︵OO召30p2鉱帯。団筈¢Op詳ロ①諺︶が聾業の正常な魁血中に受け忙一切の礎動を㌔乳過署する事 によってはじめて建成畠來たこと﹂であり﹁これと殆んど房じ問題が建理商にも起つた﹂ので實現されるのである。ご① ヵoQく①﹁はそσま、第三の維過を鞭Pて行くげ私“もこ、で一言切断することには杢.岡的謎怠を表し得ないのであるが、 リットルトンぱこれまでを代理入簿記..鉄︷○員、団σ〇三︵ズ。ΦO寒月..と呼び﹁資奪﹂の禺現を待って近代的.﹄壽。℃二丁o﹃齢一ま℃        コ ぴoO犀訂魯貯ぬ..が現われるとするのであって、この瓢に瞼討を加えてこの項の結論とし九。  コリンズピプBOo譲pωは代理入簿謁の特色を次の如く揚げている。回 脊、本金勘定がなく・E人の人名勘定で債稲の確 定し忙現金とか、債灌、偵務を記入し、ω 損益勘定がなく、損続はL欠勘定に直接記入或は韓記される。倒 物財勘定 はなく、その控えがのるのみで責買が行われると、その牧支が∴ヒ人勘定に謁入された。圓 從って商品は敬量でもつて新 帳に轄記され貨幣表示はなかつ尤。拠饗すれば・王入との問の貸借男主について管理が出來ればよかったのであり、資本金 勘定とは奄く趣を異にし、旦帳簿組織勘定休系も、資孕を計算する休系ではない。その後幾.乃・の勘定がつけ伽えられるけ れども、瀞、本金勘定が現れるまでは、完結した統合的組織とはならないで資本勘定の獲現をもつて複式簿記の完成の期と 見るのであって、リットルトンはその九め中世商業の成立を促す諸因を帯副し充分基礎的人渦澄を固めた後、結局中世が資 本毛箋成立の時期でめったと断定し、これと資木金勧定を結びつけるのである。この所詫は近代的概念からすれば極めて 正しくゾムバルトを引用するまでもなく近代資本旧庵の、馬立は複式簿記と共にある。或は複式簿記の思考形式が資本概念 .の 阯ァにあづかって力があっ尤という万場も要論に嘗て騰れた如く承つσ㈹しなくてはならない重.要な縄過であって、簿記技 術のもつ實質的意吹の小鮮として興賑あるテーマを提供するものでめる。しかし乍らリットルトンの愼賦な論蓮にもか、 わらす﹁資木﹂の概念はあまり明瞭でない。抽象的機能的に規定する資奉は容易に理解し得るけれども具体的には極めて \ 、

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O 初朗の段階から株式脅瀧制度によって杢く名題ともに生産的に蜀遣した物的資本に到るまであって、その限定は不可能で ある。これは今の場合濫漫研究に際して時代を劃する場合に問題となるのであるが、同時に現代に限って李面的に見る時       ⑬ に資本の詰論的形態とそれに1/する複式簿記の遮鷹野についても問題となるのであって、資本−瞥利的企業という概念 がこ、では嚴密なメルクマールとはなり難いのである。そこで最も重要なる資本について倉計學上の資太概念を充當する ものとするならば、詑く所は至って簡畢である。即、累計錦上の諸本概念といっても一概には論定し得ないが、いすれに しても具体的個別的借方に蔵して抽象的線体的貸方を意味するものであって、 ︵實休概念ではなく︶計算形式上複式簿記 の体系を李均せしめ完結せしめる04賃三9,貯8色Φヨ①葺であるGしかしてこれは複.式簿記の依系から生キる概念であっ て、後獲的概念である。從って未結了の定言がこれを詳言すれば結了するに至るという極めて形式的論述にすぎない事に       ⑭ なる。このような資本はリットルトン自身も認めている様に代躁人簿誕のどの段階に於ても獲見する事の出來・る形式的早 落︵Φρ犀難σ凱Fμヨ︶要素になってしまう。 これ資本概念についてその具体的嚴密性を要求する所,以である。しかしてリッ トルトンが常に極めて形式的技術的獲展経過を取扱いその黙過が転載する實質的意義についての富嶽を欠きながら、こ、       ⑮ に一睾に資太意識の完成なる裏付けを.持ち來つたという黙に不徹底さを独じるのである。  とにかく.資本t義と共に複式簿記が成育した事は疑いのない事實であってリットルトンの着想に濡して異議を差しはさ むものではないが、上蓮の如き不徹底さが齋す具体的弱々として撮補計算制度の墾驚喜に口話計算制度に至.る道程の微妙        ⑭ ではあるが極めて有意養な憂化を見逃してしまった事を指摘したい。  先ず資料が存在して以來へ,口に至るまでの計算制度を包括的に槍討するときは撮谷計算M度の護達過露なる一貫した基 本的経過が浮び上って來る。しかして、この表面的現象の根祇には経量的債仙較量の思考−一採算−−なる意識が横わっ ているわけであって、この思考の攣化、成熟過程を中心・に禽計意識の転遷を求め、その形式化として簿記史を編議すると    原始記帳法の成立過程      七一

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   原始記帳法の成立過程       七二 、      ・      ⑰ いう構想が得られる。この構想は中世イタリーの複式簿記完成後にあっては極めて明瞭なる考讃が可能である。これ實に 損釜計算が會計塵隠の直接的動因であることによるものと断言してはばからない。從って軍なる貸借備忘録と解する限り では、そこに抽崩される簿記原理は極めて便宜的であり、統一的論理性と連走性を欠くに至るのであって、た甥技術の定 型化の跡付をなし得るにすぎない所以である。緯狂的思考は極めて直槻的原始歌態から、身魂的高度の厭態に至るまで種 々の段階があって、こ、に牧釜概念と費翔概念の高度化過秤としての會計焚蓬史が編成される事が理解されるGこれ實に 近代魯計學に記する大道であることを前提とする。をこで當面の課題は代理人簿記をこの見地から理解することである。 資本勘定未出現なることを以て経濟思考外の計算制度となす見解に讃威しない事は前線の逓りであるが、しからば果して 如何なる意味合に於て採算形態と見るか。  當時の仁者生活に棄する具心的理解從ってその根抵にある意識の把握は可及的に多くの事例を考察する事に,よって可能 となるわけであって、改めて論弔する必嬰があるけれども、こ、では類、型的に生業i部分短資木化、當座取引−部分 的交換維洲として理解しよう。この要件を且ハ位する場合にあっては採算は貨幣乱入と貨幣支川の比較、從って貨幣適期に        ⑲ よって測られ得る。生産と治費が既に猫立の維濟主体の中にあって完結しているか、何らかの方法により均衡可能である ので、これを採算に採り入れることはしない場合、取引の一口が一ロの貨幣資本にはじまり貨幣資本︵擬制化も含む︶に 謙るのでこの局面に限って採算を行う事に意義がある場合、この双方の場介はいすれも費用と牧釜の比較に代えて貨⋮幣支 川と貨幣牧入の比較をもつて満足するのである。かくの如き緯済思考は忌めて.源始的であって、その判断は嚴密には蔦し くないけれども、資本主義前といわれる経濟意識の實依であるQ代理人簿記を類型化してコリンスの形態を見るならば ﹁主人勘定﹂かまさにこの段階の探算を行っている事が理解出.罷る。その後物的勘定が次第に撰大されて行く事は採算の 範團の心付を.息味するのであり、資本投下としての貨幣か擬制化の範囲を擬、大する過程と見る。從ってこれにつれて、資

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本勘定の性格も範圃も振大されて費用概念牧往概念の成熟を見る。リットルトンが資本勘定完備の時とする場合の資本は まさに貨幣資木の擬制化が行きつくして、前主資本をもつて資本の内容となした時を指すものと理解する次第である。か くの如くにして﹁主人勘定﹂の成立は形式的には部分的誤記であり、表面的には貸借關係の記録であるけれども、實質的 には代理人、主人双方の部分的にして不完全なる探算の場、損谷計算の原始形態であったと解する事が出來る。  以上の見解は術具態的に論ずる必要がある。原資料を得る事は不可能であるので、先人の見解によって編威され江もの による外はなく考誰の便に極めて乏しい。旦猫断介入の危瞼の多い作業であって、パチオ・以前の跡づけと、パチオ・え の連絡の論理的正手性をもつて主張する必要があると考える。次回﹁聖別計算制度の成立過程﹂によって御叱正を仰ぎ度 い。

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兇。置多ζい ﹀・︵r訂甕。ざ︼ポ一︸︸二﹁︼︾・慧。 一︶¢[ぐ︶9霞の揚げるメヂチ家の文書類の41にある﹁重ねられた匿劃﹂及その鍵形がフランチェスコ、ダツチニの元帳に見られると、 そして、その紳過を一蓮のものと見るならば、こ∼に禍げたコースは信じてよ、いものようだ。 本田利夫、前掲論交蓼照。 黒澤清﹁簿記原埋﹂一〇頁。 一^」 諱B︹一﹁凶9︻㌧2ゴ霞”一二①ごG=︶2さ毘讐一物葺卿垂ニコ・3¢鴇琴三戸触葬§最ζ・・ON. 黒澤清一菖島●亨℃以下。 臼認 ≠藷。口葺師二〇鴨>o。︵︶ヨ斎二5ざ罫窩。一戸ど已♂一旨℃. ﹀・e.ζ銭$︶昌旨一匙二y魅以下。 本田利夫バチオリ以前の簿記の特微﹁會計﹂誌第五十入巻第二號に紹介。 馴・葺ど“三戸も重ねザ、説いている所であって勘定の二面性も明記人もむ貸借耶・均腺理さへも結局ほ適富に分類整容綜合するための手 段であるにすぎないという。そして歴史の探求もこのような同位分類体系の構成のための形式的技術⋮的側面の研究−跡すけであ 原始記帳法の成立過程      七三

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原始紹理法の成立過離      七四 るにすぎず、要はその實質的内容言意唾埋解が.問題であるという根本的態度を坂っているようでこの点丁田∋葺噛㎞工費〇三等々とは 大いに異る。 界︻瞭きポ﹀=一ψ8受鑑﹀。。Q=三一一躍触ド一三ン。9一毎デ7ゆ9 >.︵い・h舜二¢8昌一︸︶一餌で・ωひ. 企業i讐利曾計以外への適鷹性についτは論外としよう。形式的適態性よりは實質的効果を問題にするが故である。 ﹀●︵r︸﹂黍ざぎご一澤︵︷璽㍗卜﹂図及その欄⋮外註。 この点は︻き曝露9μが構想を展開した上にその﹁考証﹂の資料乏しき故さらに包括的﹁構想﹂をもって援護したものである。 小島男佐夫教授は﹁商品勘定﹂の護展に注口している。この点は向感である,尤も複式購造は﹁商晶勘定﹂の逃馬ではないと思考 するが;三〇 山下勝治﹁損釜計算論﹂にその好例を見る。 抽稿﹁農業會計研究上の若干問題﹂誉根論叢第二號﹁會計﹂誌第五十八雀第二號。

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