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<研究ノート>資本のもとへの労働の「包摂」(Subsumtion)概念について

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今 村 元 義

経済政策研究室

A Note on the concept of Subsumtion

Motoyoshi IMAMURA

Economic Policy 群馬大学社会情報学部研究論集 第16巻 177∼195頁 別刷 2009年3月31日 reprinted from

JOURNAL OF SOCIAL AND INFORMATION STUDIES No. 16 pp. 177―195

Faculty of Social and Information Studies Gunma University

Maebashi, Japan March 31, 2009

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資本のもとへの労働の「包摂」(Subsumtion)概念について

今 村 元 義

経済政策研究室

A Note on the concept of Subsumtion

Motoyoshi IMAMURA

Economic Policy

Abstract

This paper tries to embody the first definition of productive labor by examining the comcept of Subsumtion Formelle Subsumtion der Arbeit unter das Kapital, Reelle Subsum-tion der Arbeit unter das Kapital oder die spezifisch kapitalistische ProdukSubsum-tionsweise in Resultate des unmittelbaren Produktionsprozesses by Karl Marx.

目 次 はじめに Ⅰ 資本のもとへの労働の形態的包摂 Ⅱ 資本のもとへの労働の実質的包摂 むすびにかえて

はじめに

前稿(本学部研究論集 Vol.15、2008)では、私は、生産的労働の本源的規定について 渡辺雅男、 原昭両氏の所説を中心にして、検討した。それは物質的生産における労働過程の一般的・簡単なそ の意味では抽象的な規定であり、英語訳では生産的労働の the first definitionであった。当然、協業 を基本的労働様式とする資本主義のもとでは、労働過程としても具体化されるべき範疇である。しか

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し、現実には、その具体化は、資本による労働過程の「包摂」として、展開される。そこで、本稿で は、資本による「包摂」概念を、マルクスが初めて 用したとされる『直接的生産過程の諸結果』に 基づいて 資本のもとへの労働の「形態的包摂」、同「実質的包摂」 をフォローすることにした。 なお、テキストは、岡崎次郎訳『直接的生産過程の諸結果』(国民文庫・大月書店、1970)を 用する。 ドイツ語版は、Karl Marx, Resultate des unmittelbaren Produktionsprozesses, Archiv sozialisti-sher Literatur 17, Verlag Neue Kritik Frankfurt, 1970(ISBN 3 8015 0056X). を参照した。

資本のもとへの労働の形態的包摂

(p.p.79-103) 本書で、マルクスは「資本のもとへの労働の形態的包摂」「資本のもとへの労働の形態的包摂に関す る補遺」にわけて論じている。ここでマルクスは、資本による労働の「包摂」がなぜ形態的と呼ばれ るのか、を示している。注意点は、 形態的の意味と 資本が包摂の対象とする旧労働様式もしくは 生産様式が賃労働者に与える影響についての彼の指摘である。 以下、テキストの( )数字は、マルクス自身の段落付けである。○数字は私が段落内の小区 の ためにつけたものである。マルクスの傍点は省略し、私が重要と えた箇所をゴチック体とした。 ⑴ 労働過程は、価値増殖過程の、資本の自己増殖 剰余価値の生産 の過程の、手段になる。 労働過程は資本のもとに包摂されて(それは資本自身の過程である)、資本家は、指揮者、管理者と して、この過程にはいる。それは資本家にとっては同時に他人の労働の直接的搾取過程でもある。 私はこれを資本のもとへの労働の形態的包摂と呼ぶ。それはすべての資本主義的生産過程の一般的 な形態である。しかし、それは、同時に、発展した独自に資本主義的な生産様式と並ぶ一つの特殊 な形態でもある。なぜなら、この独自に資本主義的な生産様式はかの一般的な形態を含んでいるが、 後者は必ずしも前者を含んではいないからである。 ⑵ 生産過程は資本そのものの過程になっている。それは、資本家の貨幣が転化した労働過程の諸要 因をもって行なわれるところの、そして資本家の管理のもとに行なわれるところの、そしてまた貨 幣をより多くの貨幣にするという目的のために行なわれるところの、過程である。 ⑶ ①以前は独立して自 自身のために生産していた農民が、借地農業者のために労働する日雇い人 になるとき、②同職組合的生産様式において認められていた階層制的編成が、手工業者たちを自 のために労働させる資本家の対立に直面しただけで消え去るとき、③以前の奴隷保有者が、彼の以 前の奴隷を賃金労働者として 用するとき、このようなときには、別の社会的規定をもっていた諸 生産過程が資本の生産過程に転化させられているのである。それとともに前述のような諸変化が現 われてくる。①以前の独立農民は、生産過程の要因として、この過程を管理する資本家に従属する ようになり、彼の就業そのものは、商品所持者(労働力所持者)としての彼が貨幣所持者としての 資本家と前もって締結しておく契約に依存するようになる。②奴隷は、彼の充用者のものである生

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産用具ではなくなる。③親方と職人との関係はなくなってしまう。それまでは親方は職人にたいし て手工業の親方という関係にあった。今では彼はただ資本の所持者として職人に相対しているだけ であり、また職人もただ労働の売り手として彼に相対しているだけである。生産過程が始まる前に は、彼らはみな商品所持者として相対しており、彼らのあいだにはただ貨幣関係があるだけである。 生産過程のなかでは、彼らは、この過程の諸要因の人格化された機能者として、すなわち資本家は 「資本」として、直接的生産者は「労働」として相対するのであって、彼らの関係は、自 自身を 価値増殖する資本の単なる要因としての労働によって規定されている。 ⑷ さらに、資本家は、労働が標準的な程度の質と強度とをもつように配慮し、そして労働過程をで きるだけ長くする。なぜなら、それとともに、労働過程によって生産される剰余価値は増大するか らである。それまでは個々の顧客に依存していた生産者に代わって、もはや売るべき商品をもって いない生産者が資本家という恒常的な支払い主をもつようになれは、労働の連続性は増大する。 ⑸ 資本関係に内在する欺瞞も現われてくる。労働の価値維持力は資本の自己維持力として現われ、 労働の価値 造力は資本の自己増殖力として現われ、そして、全体として、概念からすれば、対象 化された労働が生きている労働の充用者として現われる。 ⑹ それにもかかわらず、このような変化とともに、労働過程すなわち現実の生産過程の現実の様式 における本質的な変化がはじめから現われたのではけっしてない。反対に、資本のもとへの労働過 程の包摂は、資本のもとへのこの包摂が行なわれる前から存立していたところの、そして以前の種々 の生産過程や別の生産条件を基礎として形成されていたところの、既存の労働過程を基礎として生 ずるのだから、資本が、与えられた既存の労働過程を、つまり、たとえば手工業的な労働や、小さ な独立な農民経営に対応する農業様式を、自 のもとに包摂するということは、当然である。資本 によってその支配下に置かれたこれらの伝来の労働渦程に変化が生ずるとすれば、この変化は、た だ、与えられた伝来の労働過程の資本のもとへの包摂からしだいに生じてくる結果でしかありえな い。労働の強度が高くなるとか労働過程の継続時間が 長されるとかいうことや、労働がより連続 的になったり打算的な資本家の監視のもとにより整然と行なわれるようになるというようなこと は、それ自体としては、現実の労働過程そのものの、現実の労働様式の、性格を変化させはしない。 だから、このことは、前に述べたように資本主義的生産の進むにつれて発展する独自に資本主義的 な生産様式(大規模な労働など)にたいして著しい対照をなしているのであって、この独自に資本 主義的な生産様式は、いろいろな生産当事者の諸関係を変革すると同時に、この労働の様式や全労 働過程の現実の様式を変革するのである。われわれは、この生産様式に対比させて、これまで 察 してきた労働過程の資本のもとへの包摂(資本関係が出現するより前にすでに発展していた労働様 式の資本のもとへの包摂)を、資本のもとへの労働の形態的包摂と呼ぶ。労働時間の 長によって 剰余労働を強要するための強制関係としての資本関係 人身的支配・隷属関係にもとづくのでは なくて単に経済的諸機能の相違だけから生ずる強制関係 は、どちらの様式にも共通であるが、 独自に剰余価値の生産としての資本主義的生産様式はもっと別な剰余価値強要方法をも知ってい

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る。これに反して、既存の労働様式を基礎とする、すなわち労働の生産力の与えられた発展とこの 生産力に対応する労働様式とを基礎とする場合には、剰余価値はただ労働時間の 長によってのみ、 したがって絶対的剰余価値の様式においてのみ、生みだされることができる。それゆえ、剰余価値 の生産の唯一の形態としてのこの形態には資本のもとへの労働の形態的包摂が対応するのである。 ⑺ 第二章で述べられる労働過程の一般的な諸契機、つまり、たとえは労働者自身の生きている活動 にたいしての対象的な労働条件の材料と手段とへの 離などは、生産過程のどの歴 的な独自に社 会的な性格にもかかわりのない、そして生産過程のすべての可能な発展形態に等しくあてはまる規 定であって、事実上人間労働の不変な自然条件なのである。それは次のことのうちにも直ちに的確 に示される。すなわち、これらの規定は、独立に労働する、つまり社会との 換においてではなく ただ自然との 換においてのみ生産する人間、たとえばロビンソンなどにもあてはまる、というこ とがそれである。だから、それは、人間労働が純粋に動物的な性格から脱け出てくれば、実際に人 間労働一般の絶対的な規定なのである。 ⑻ ただ形態的にのみ資本のもとに包摂された労働過程でさえもはじめから違っている点、そして古 い伝来の労働様式の基礎の上においてさえもますます違ってくる点は、労働過程が遂行される規模、 つまり、一方では前貸しされる生産手段の量、他方では同じ雇い主によって指揮される労働者の数 である。たとえば同職組合的生産様式の基礎の上では最大限として現われるもの(たとえば職人の 数に関して)が、資本関係にとってはやっと最小限をなすということもありうる。なぜなら、資本 家の生産する剰余価値が、彼の個人的消費のための収入として、さらにまた蓄積財源として、十 であり、したがって彼自身は直接的労働を免れて、ただ資本家として労働するだけで、過程の監督 者および管理者として、価値増殖過程にある資本のいわば意志と意識とを与えられた機能を行なう だけでよいという、少なくともそれだけの数の労働者を資本家が 用しないならば、実際に資本関 係はただまったく名目的に始まりうるだけだからである。このような、規模の拡大は、じっさい現 実の基礎をなすのであって、この基礎の上で、独自に資本主義的な生産様式が、たとえば一六世紀 の諸関係のような、他の点でも好都合な歴 的諸関係のもとでは、立ち上がるのである。といって も、それは、以前の諸社会形態のなかで、もちろん散在的に、まだ社会を支配してはいないものと して、個々の点に現われうるだけではあるが。 ⑼ 資本のもとへの労働の形態的包摂の特徴的な性格は、次のような状態との比較によって最も明瞭 になる。すなわち、その状態にあっては、資本は、すでに特定の従属的な諸機能においては存在し ているが、労働の直接的な買い手として、また生産過程の直接的な占取者として、その支配的な、 一般的社会形態を規定する機能においてはまだ存在していない、という状態がそれである。たとえ ば、①インドにおけるように、直接的生産者たちに原料や労働用具またはその両方を貨幣の形で前 貸しするかぎりでの高利資本。この高利資本が取り上げる巨額な利子、その大きさは別としてもそ れが一般にこのようにして直接的生産者から搾取する利子は、ただ剰余価値の別名でしかない。そ れは、直接的生産者から不払労働すなわち剰余労働を搾取することによって、事実上、自 の貨幣

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を資本に転化させるのである。しかし、それは生産過程そのものには介入しないのであって、生産 過程は相変わらずその伝来の様式をもって高利資本のかたわらで行なわれているのである。それは、 一方では、この伝来の生産様式の萎縮から成長するのであるが、他方では、この生産様式を萎縮さ せて最も不利な条件のもとで生き びさせておく手段でもある。ここではまだ資本のもとへの労働 の形態的包摂は行なわれていない。②もう一つの例は商人資本である。それは、一団の直接的生産 者に注文を与え、それから彼らの生産物を集めてそれを売るのであるが、そのさい原料などを前貸 ししたり貨幣を前貸ししたりすることもある。近代的資本関係は一部 はこの形態から発展したの であって、この形態はあちらこちらで今なお本来の資本関係への過渡点をなしている。この場合に もまだ資本のもとへの労働の形態的包摂は行なわれていない。直接的生産者は相変わらずまだ商品 の売り手であると同時に自 自身の労働の充用者でもある。しかし、この場合には高利貸し資本の 関係の場合に比べて、すでにより多く過渡形態が現われている。この両形態には後にも折りに触れ て立ち帰るであろうが、それらは資本主義的生産様式のなかでも副次形態および過渡形態として再 生産されるのである。 ここで一旦「資本のもとへ労働の実質的包摂または独自に資本主義的な生産様式」が p.p.86-88に挿 入され、88ページから「資本のもとへの労働の形態的包摂に関する補遺」、が再開する。そして、前節 の最後に、絶対的剰余価値(形態的包摂)と相対的剰余価値(実質的包摂)の違いについて、以下の 文章が続く。一応、両者の関連を示すものとして掲げて置く。すなわち、 「剰余価値のこの二つの形態……をそれぞれ独立に別々な存在として 察するならば そして絶対的剰余 価値はつねに相対的剰余価値に先行する 資本のもとへの労働の包摂の二つの別々な形態、または資本主 義的生産の二つの別々な形態が対応するのであって、そのうち第一の形態はつねに第二の形態の先行者と なっている。といっても、より発展した形態、第二の形態は、さらにまた、第一の形態を新たな生産部門で 採用するための基礎となることがありうるのであるが。」と。 ⑴ さらに進んで資本のもとへの労働の実質的包摂の 察に移る前に、なお次の補遺を私のノートか ら取ってこよう。 ⑵ 絶対的剰余価値にもとづく形態を私は資本のもとへの労働の形態的包摂と呼ぶ。というのは、こ の形態は、それが直接に発生する(導入される)基礎になるような、以前の諸生産様式からは、た だ形態的に区別されるだけだからである。これらの以前の生産様式にあっては、生産者が自家営業 者であることもあれば、直接的生産者が剰余労働を他人のために提供しなけれはならないこともあ る。行 される強制、すなわち剰余労働が強要される方法は、違った種類のものである。形態的包 摂の場合に本質的なものは次のような点である。 剰余労働を取得する者とそれを提供する者とのあいだの純粋な貨幣関係。隷属が生ずるかぎり

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では、それは売ることの特定の内容から生ずるのであって、この売ることに前提されている隷属 から生ずるのではない。あとのほうの隷属によっては生産者は、政治的関係などの結果として、 彼の労働の搾取者にたいして貨幣関係(商品所持者の商品所持者にたいする関係)とは別な関係 に置かれることになるであろう。この場合に買い手が売り手を経済的な従属関係に置くのは、た だ労働諸条件の所有者としてのことでしかない。それは政治的な、社会的に固定された支配・隷 属関係ではないのである。 これは第一の関係のなかに含まれていることであるが というのは、もしそうでなければ、 労働者は自 の労働能力を売らないでもよいであろうから 、彼の客体的な労働条件(生産手 段)も主体的な労働条件(生活手段)も、資本として、彼の労働能力の買い手によって独占され たものとして、彼に対立している。これらの労働条件が他人の所有物として彼に対立することが 完全になればなるほど、資本と賃労働との関係は形態的にますます完全になり、したがって資本 のもとへの労働の形態的包摂、すなわち実質的包摂の条件および前提はますます完全になる。 ⑶ 生産様式そのものにはこの場合にはまだ相違は生じていない。労働過程は、技術的に見れば、以 前とまったく同じに行なわれるが、ただ、今では資本に従属した労働過程として行なわれるだけで ある。とはいえ、前にも述べたように、生産過程そのもののなかでは、 経済的な支配・隷属関係 が発展する。というのは、労働能力の消費が資本家によって行なわれ、したがって彼によって監視 され管理されるからである。 労働の高い連続性と強度および労働条件の充用におけるいっそうの 節約が進展する。なぜなら、生産物がただ社会的に必要な(またはむしろもっと少ない)労働時間 だけを表わすように全力が尽くされるからである。そして、これは、生産物の生産に費やされる生 きている労働に関しても、充用される生産手段の価値として価値形成的に生産物のなかにはいって 行く対象化された労働に関しても、行なわれるのである。 ⑷ 資本のもとへの労働の形態的包摂の場合には、①剰余労働への したがってまた一方では諸欲 望とこれらの欲望の充足手段との形成への、そして労働者の伝統的な欲望の度合いを越える生産物 量の形成への 強制、そしてまた②物質的生産にはかかわらない発展のための自由な時間の 出 への強制は、ただ以前の諸生産様式の場合とは別な形態を受け取るだけである。とはいえ、この形 態は①労働の連続性と強度とを高くし、②生産を増加させ、③労働能力の変種の発達にしたがって また労働・生業様式の 化に、より好都合であり、④最後に、労働条件所有者と労働者自身との関 係を純粋な売買関係または貨幣関係に帰着させ、搾取関係をいっさいの家 長制的および政治的な、 あるいはまた宗教的な混和物から 離する。もちろん、生産関係そのものは新たな支配・隷属関係 を生みだす(これはまたそれ自身の政治的等々の諸表現を生みだす)。資本主義的生産が形態的関係 以上に出ていなければいないほど、かの関係もまたそれだけ発展していない。なぜなら、それは、 ただ、教養や仕事の様式において労働者そのものとほんのわずかしか違っていない小さな資本家た ちを前提するだけだからである。 ⑸ 生産様式そのものにはまだ触れることのない、支配・隷属関係の様式における相違が最もよく現

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われているのは、ただ家族の必要だけのために営まれていた農村的および家 的な副業が独立な資 本主義的労働部門に転化させられる場合である。 ⑹ 形態的に資本に包摂された労働とそれ以前の労働充用方式との相違は、個々の資本家の充用する 資本の大きさが増大し、したがって彼によって同時に働かされる労働者の数が増加するのと同じ度 合いで現われてくる。資本がある程度の最小限に達するとともに、はじめて資本家は自 自身が労 働者であることをやめて、ただ労働過程の管理と生産された商品の取引だけを、自 の手に残して おくようになる。また資本のもとへの労働の実質的包摂、すなわち本来の資本主義的生産様式がは じめて現われるのも、商人が産業資本家になるのであろうと、形態的包摂を基礎としてより大きな 産業資本家が形成されたのであろうと、とにかくある程度の大きさの諸資本が直接に生産を支配す るようになったときのことである。 このあと、マルクスの注として、奴隷制についての引用が続くが省略する。要するに、「自由な労 働者は一般に自 の雇い主を取り替える自由をもっている。……奴隷にはそれがない」など、賃労 働と奴隷労働との相違についてのものであるが、これについては後にマルクス自身が詳述している からである。例えば以下のとおりである。 第1に、隷属形態について、奴隷制、農奴制、家臣制、家 長制などと賃労働制とを比較すれば 形態は「自由」になることを指摘している。そして、この点では賃労働は進歩的な性格を有するこ とを述べている。すなわち、 ⑺ 支配・隷属関係が奴隷制や農奴制や家臣制や家 長制的などの隷属形態に代わって現われるとす れば、そこにはただこの関係の形態の変化が生ずるだけである。形態はより自由になる。というの は、形態はただ物的な性質のものであり、形式的には自発的であり、純粋に経済的であるからであ る。 しかし、第2に、資本による包摂対象が、「独立」生産者であったばあい、彼の独立性は消失する。 ⑻ あるいはまた、生産過程における支配・従属関係が、以前の生産過程における独立性に代わって 現われる。この独立性は、たとえばすべての自立農民や、国家なり地主なりに生産物地代を支払う だけでよかった借地農や、農村的家 的副業や、独立手工業の場合に存在したものである。だから、 この場合には、生産過程における以前の独立性の喪失があるのであって、支配・隷属関係は、それ 自体、資本主義的生産様式の導入の所産なのである。 第3に、同職組合の親方―職人・徒弟が対象だった場合はどうか。 ⑼ 最後に、資本家と賃金労働者との関係が、同職組合の親方や彼の職人や徒弟に代わって現われる ことがありうる。これは一部 は都市のマニュファクチュアがその発生期に通る過渡形態である。 中世の同職組合関係は、類似の形態ではアテナイやローマでも狭い範囲で発展していたし、またヨー

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ロッパでは一方では資本家の形成にとって、他方では自由な労働者層の形成にとってあのように決 定的に重要だったのであるが、それは、資本・賃労働関係の形態としては、局限された、まだ十 ではない形態である。ここには、一方では買い手と売り手との関係が存在する。賃金が支払われ、 親方も職人も徒弟も互いに自由な人として相対している。この関係の技術的な基礎は手工業的経営 であって、そこでは労働用具の多かれ少なかれ技術的な取扱いが生産の決定的な要因である。そし て、独立な個人的労働、したがってまた、長短の修業期間を必要とするこの労働の職業的な発達が、 ここでは労働の成果を規定する。たしかに、ここでは親方は生産条件すなわち手工道具や労働材料 をもっており(手工道具が職人のものであることもあるが)、生産物は彼のものである。そのかぎり では、彼は資本家である。しかし、資本家としては彼は親方ではない。彼はまず第一に自 自身手 工業者であって、彼の手工業において親方〔名人〕であると思われている。生産過程そのもののな かでは彼は彼の職人と同様に手工業者の役を演じ、そして彼はまず彼の徒弟たちに手工業の秘伝を 教えこむ。彼の徒弟たちにたいする関係は、教援の学生たちにたいする関係とまったく同じである。 それゆえ、職人や徒弟にたいする彼の関係は、資本家としての資本家の関係ではなくて、手工業に おける親方の関係であって、親方は、親方として、同職組合のなかで、したがってまた職人や徒弟 にたいしても、一つの階層制的な地位を占めるのであり、この地位は手工業における彼自身の親方 資格〔名人資格〕にもとづくものと思われているのである。それゆえ、彼の資本は、その素材的な 姿から見ても、その価値の大きさから見ても、けっしてまだ資本の自由な姿を与えられてはいない 束縛された資本である。それは、一定量の対象化された労働、価値一般が、剰余労働をわがものに するために、生きている労働のあれこれの形態と任意に 換されるのに応じて、労働条件のあれこ れの形態をとることができるというもの、また実際に任意にそれをとっているというものではない。 彼が徒弟や職人などの定められた段階を通って自ら親方試験作品を提出したのちに、はじめて彼は この特定の労働部門、すなわち彼自身の手工業において、貨幣を一部は手工業の客体的条件に換え、 一部はそれで職人を買い徒弟を抱えることができるのである。ただ彼自身の手工業においてのみ彼 は彼の貨幣を資本に転化させることができる。すなわち、その貨幣を、単に彼自身の労働の手段と してだけではなく他人の労働の搾取手段としても費やすことができる。彼の資本は 用価値の一定 の形態に縛りつけられており、したがってまた資本として彼の労働者に相対してはいない。彼が充 用する労働方法は、ただ経験的な方法であるだけではなく、同職組合的に定められた方法であって 必然的な方法と認められている。したがってまた、この面から見ても、労働の 換価値がでは なく、労働の 用価値が究極の自的として現われるのである。どんな質の労働を供給するかは、彼 の好みによって定まるのではなく、同職組合経営全体が、特定の質が供給されるように、組み立て られているのである。労働方法と同様に労働の価格も彼の好き勝手に任されてはいない。彼の資力 が資本として機能するのを妨げている局限された形態は、さらにまた、実際に彼の資本の価値の大 きさの最大限度が規定されている、ということにも現われている。彼はある人数よりも多くの職人 を抱えてはならない。というのは、同職組合はすべての親方に彼らの手工業の利得の割り前を保証

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してやるべきだからである。最後に、同じ同職組合の成員としての親方たちどうしの関係である。 このような同職組合成員として、彼は、ある種の共同的な生産条件(同職組合の囲い場など)や政 治的権利や都市行政への参与権などをもつ団体に所属していた。彼は注文を受けて 商人のため の仕事は別として 直接的 用価値のために仕事をしたのであり、したがって親方の数も規制さ れていた。彼は単なる商人として彼の労働者たちに相対するのではない。まして、商人が自 の貨 幣を生産資本に転化させるようなことは、なおさらできない。彼はただ商品の「代金を立て替える」 ことができるだけで、商品を自 で生産することはできない。身 相応な生活がここでは他人の労 働の搾取の目的および結果として現われるのであって、 換価値そのもの、致富そのものが、目的 や結果になるのではない。決定的なものはここでは用具である。原料はここでは多くの労働部門(た とえば裁縫業)で親方自身に彼の注文者によって供給される。現在の消費の全体を生産の限界とす ることが、ここでは法則である。だから、生産はけっして資本そのものの限界によって規制される のではない。資本主義的関係においては政治的・社会的束縛による限界はなくなるが、ここでは資 本はまだこの限界のなかで運動しており、したがってまだ資本として現われてはいないのである。 手工業的経営の資本主義的経営への単に形態的な転化、したがってその場合にはさしあたり技術 的な過程はまだ同じままであるが、このような転化は、すべてのこのような制限の解消によって成 立し この解消とともに支配・隷属関係もまた変化する。親方は今ではもはや親方として資本家 なのではなく、資本家として親方なのである。彼の生産の限界はもはや彼の資本の限界によって制 約されてはいない。資本(貨幣)は任意にどんな種類の労働とでも、したがってまたどんな種類の 労働条件とでも、 換されることができる。資本家は、自身が手工業者であることをやめることが できる。商業の、したがってまた商人層による商品需要の、突然の拡大とともに、同職組合的経営 はおのずからその限界を越えて形態的に資本主義的経営に変化せざるをえなかったのである。 以下、賃労働と他の労働者の労働との比較、その特徴が述べられる。 不特定な顧客のために労働する独立手工業者に比べれば、資本家のために労働する労働者の労働 の連続性はもちろん増大するのであって、彼の労働は個々の顧客の偶然的な欲望に限界を見いだす のではなく、ただ、彼を働かせる資本の搾取欲望に限界を見いだすだけである。奴隷(の労働)に 比べれば、この労働は、強度がより高くなるので、より生産的になる。というのは、奴隷はただ外 的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼自身のものではないとはいえとにかく保証されている彼の 存在のために労働するのではないが、これに反して、自由な労働者は自 の欲望に駆られて労働す るのだからである。自由な自律の、すなわち自由の、意識(またはむしろ観念)やそれと結びつい ている責任の感情(意識)は、自由な労働者を奴隷よりもはるかにすぐれた労働者にする。なぜな ら、彼はどの商品の売り手でもそうであるように、彼の提供する商品について責任を負っており、 また、同種の商品の他の売り手たちによって打ち負かされないようにするためには、ある一定の品 質の商品を提供しなければならないからである。奴隷と奴隷保有者との関係の連続性は、奴隷が直

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接的強制によって維持される関係である。これに反して、自由な労働者は自身でこの関係を維持し なければならない。なぜなら、彼の存在も彼の家族の存在も、彼が絶えず繰り返し自 の労働能力 を資本家に売ることにかかっているからである。 奴隷の場合には報酬の最低限は彼の労働には関係のない不変な大きさとして現われる。自由な労 働者の場合には、この彼の労働能力の価値も、それに相当する平 労賃も、このような、予め定め られている、彼自身の労働には関係のない、彼の単に肉体的な欲望によって規定されている限界の なかで現われるのではない。この場合にはこの階級についての平 は、すべての商品の価値がそう であるように、多かれ少なかれ不変である。しかし、この平 は個々の労働者にとってはこの直接 的な現実性において存在するのではなくて、彼の賃金はこの最低限より高いことも低いこともあり うる。労働の価格は、労働能力の価値よりも、あるときは低くなり、あるときは高くなる。さらに、 労働者の個性の働く余地が(狭い限界のなかでではあるが)あって、それによって、別々の労働部 門のあいだでも、同じ労働部門のなかでも、労働者の勤勉や技能や体力などに応じて賃金の相違が 生ずる。しかも、この相違は、一部 は彼自身の個人的な業績の程度にしたがって定められるもの である。だから、賃金の高さは、彼自身の労働の結果およびその労働の個別的な質の結果によって 変化するものとして現われる。このことは、出来高賃金が支払われる場合に、特に顕著になってく る。出来高賃金は、すでに示したように、資本と労働との一般的な関係を、また剰余労働と必要労 働とのそれを、少しも変化させないにもかかわらず、それによってこの関係は個々の労働者にとっ ては違った仕方で表わされ、しかも、彼の個人的な業績の程度に従って表わされる。奴隷の場合に は特殊な体力や技能が彼の身柄の売買価値を高くすることもありうるが、それは彼自身にはなんの 関係もない。自 の労働能力の所有者自身である自由な労働者の場合には、そうではないのである。 以下、賃労働の特徴の指摘と前述の隷属形態との比較、および、独立自営の生産者との比較をおこ ない、賃労働者の歴 的地位については、前者に対する「向上」に対し、後者の場合には「向上の逆」 と指摘している。すなわち「退歩」ということになろう。彼の賃労働論の目指す労働者の地位・その 特性について検討する際に 慮すべきマルクスの指摘である。 この労働能力のより高い価値は、彼自身に支払われなけれはならないのであって、より高い賃金 に表わされる。だから、ここでは、特殊な労働の必要とする労働能力が、より高度に発達したもの で、より大きい生産費を必要とするものであるかどうかに従って、大きな賃金差が広く存在するの である。したがってまた、一方では個人差が物を言う余地が開かれており、他方では特有な労働能 力の発達への刺激が与えられているのである。たとえ、大量の労働は多れ少なかれ技能的でない労 働から成っておらざるをえず、したがってまた大量の労賃も単純な労働能力の価値によって規定さ れておらざるをえない、ということは確かであっても、個々人にとっては、特別な精力や才能など によってより高い労働部面に飛躍するということは、やはり可能なのであって、それは、ちょうど、 あれこれの労働者が自ら資本家になり他人の労働の搾取者になるという抽象的な可能性は相変わら

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ず存在するのと同様である。奴隷は一定の主人のものになっている。労働者は、なるほど自 を資 本に売らざるをえないとはいえ、一定の資本家に売らなければならないのではないから、彼は一定 の部面のなかでは自 をだれに売るかの選択権をもっており、自 の雇い主を替えることができる。 すべてこれらの変化した関係は、自由な労働者の活動を、奴隷の活動に比べて、強度のより高いも のに、より連続的に、より可動的に、より技能的にするのであって、これらの関係が彼自身に一つ のまったく別な歴 的な行動への能力を与えるということは別としても、そうなのである。奴隷は 彼の生計に必要な活手段を、種類から見ても固定されている現物形態で 用価値として 受 け取る。自由な労働者はこの生活手段を、貨幣の、すなわち 換価値の、形態で、富の抽象的な社 会的な形態で、受け取る。賃金はここでは事実上必要生活手段の銀化または金化または鋼化または 紙化された形態にほかならないのであって、絶えずこれらの生活手段になってしまわなければなら ず 貨幣は、ここでは 換価値のただ一時的な形態として、単なる流通手段として、機能するの だとはいえ、それでもやはり観念のなかでは、彼にとって自 の労働の目的であり結果であるもの は、抽象的な富、 換価値であって、伝統的および局地的に制限された一定の 用価値ではないの である。労働者自身が、貨幣を任意の 用価値に換え、貨幣で任意の商品を買うのであって、彼は、 貨幣所持者としては、商品の買い手としては、商品の売り手にたいしてすべての他の買い手とまっ たく同じ関係にあるのである。もちろん、彼の存在の諸条件は 彼が手に入れる貨幣の価値の大 きさとまったく同様に 、彼が貨幣をかなり限られた範囲の生活手段に換える、ということを余 儀なくさせる。とはいえ、この点ではいくらかの変化が起きることも可能である。たとえば、新聞 がイギリスの都市労働者の必要生活手段のなかにはいるというように。彼はいくらかの貯蓄をして 貨幣蓄蔵者になることができる。彼はまた彼の賃金を火酒などに浪費することもできる。だが、こ うして彼は自由な行為者として行動するのであって、そのあと始末は自 でしなければならない。 彼は自 の賃金の い方については自ら責任を負っている。彼は、主人を必要とする奴隷とは反対 に、自 で自 を抑制することを知っている。もちろん、そういうことが言えるのは、ただ、農奴 や奴隷の自由な賃金労働者への転化を 察する場合だけのことである。資本主義的な関係はこの場 合には社会的段階における一つの向上として現われる。独立な農民や手工業者が賃金労働者に転化 させられる場合には、これとは逆である。シェークスピアが語っているイングランドの誇り高き自 営農民とイングランドの農業日雇い労働者とのあいだにはなんという大きな相違があることか 賃金労働者の目的は賃金であり貨幣であり一定量の 換価値であって、そこでは 用価値のあらゆ る特殊性は消し去られているのだから、彼は彼の労働の内容には、したがってまた彼の活動の特殊 な様式にも、まったく無 着なのであるが、他方、この活動は、同職組合制度や世襲身 制度のも とでは職務とみなされ、奴隷の場合には、役畜の場合のように、ただ、一定の、彼に押しつけられ 伝えられた、活動の仕方、すなわち彼の労働能力の実証の仕方でしかないのである。それだから、 業が労働能力をまったく一面的にしてしまわないかぎり、原則的には、自由な労働者は、彼の労 働能力および労働活動の変化がより高い賃金を約束する場合には、どんな変化をも受け入れること

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ができるし、またその用意をしているのである(じっさい、絶えず都市に移って行く農村過剰人口 の場合に、それが見られるように)。発達した労働者はこの変化に多かれ少なかれ適応できないとし ても、彼は新しい後進者には常にこの変化の可能性が開かれていると える。そして、新たな成長 しつつある労働者世代は、新たな労働部門や特別に繁栄している労働部門にとっては、常に配 が 可能であり自由な利用が可能なのである。北アメリカでは賃労働が古い同職組合制度などへの追憶 から最も自由に発展しているのであるが、そこでは、じっさいまた、このような可変性が、そして 労働の特定の内容や一部門から他部門への移動にたいする完全な無 着が、特に明瞭に現われてい るのである。それだからこそ、このような可変性と奴隷労働の単調な伝統的な性格との対比、とい うのは、奴隷労働は生産関係に従って変化するのではなくて、逆に、ひとたび導入されて伝統的に 継承された労働様式に生産が適合させられることを要求するからであるが、この対比は、合衆国の すべての著述家たちによっても、南部の奴隷労働にたいする北部の自由な賃労働の確かな特徴とし て強調されるのである。(ケアンズを見よ。)労働の新たな種類の不断の形成、この不断の変化 そ れは 用価値の多様性に対応しており、したがってまた 換価値の現実の発展でもある 、した がって社会全体における 業の進展、これは資本主義的生産様式とともにはじめて可能になる。そ して、それは、自由な手工業的・同職組合的経営とともに、すなわち、それがどんな特定の職業部 門そのものの骨化によっても制限されていないそのような経営とともに、始まる。 資本のもとへの労働の形態的包摂に関する追記は以上で終わったので、今度は次の問題に移るこ とにしよう。

資本のもとへの労働の実質的包摂

(104∼108ページ) 本節の冒頭、マルクスは以下のように述べる。すなわち、 「形態的包摂の一般的な特徴、すなわ ち、技術的にはどんな様式で営まれていようとも、資本のもとへの労働過程の直接的な従属は、変わ らない。しかし、この基礎のうえでは、労働過程の現実の性質をもその現実の諸条件をも変化させる 技術的にもその他の点でも独自な生産様式 資本主義的生産様式が立ち上がる。この生産様式が現 われるとき、はじめて資本のもとへの労働の実質的包摂が生ずるのである。」と。 こうして、マルクスはイギリスを事例として、農業部面、工業部面、 通部面での工業化の叙述を 展開する。 ⑴ 生計のための農業は……商業のための農業に変わった。……国土の改良が……この変化に釣り合 うように行なわれた。」(A・ヤング『政治算術』、ロンドン、一七七四年、四九ページ、注。) ⑵ 資本のもとへの労働の実質的包摂は、絶対的剰余価値とは違う相対的剰余価値を発展させるよう な諸形態のすべてにおいて発展させられる。 ⑶ 資本のもとへの労働の実質的包摂とともに、生産様式そのものにおける、労働の生産性における、

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そして資本家と労働者との関係における完全な(しかも不断に継続し繰り返す【注(a)『共産党宣 言』(一八四八年)】)革命が生ずる。 ⑷ 資本のもとへの労働の実質的包摂のもとでは、われわれが前に述べたような、労働過程そのもの におけるすべての変化が現われてくる。労働の社会的生産力が発展させられ、大規模な労働ととも に直接的生産への科学や機械の応用が行なわれる。一方では、今では独自な生産様式として形成さ れている資本主義的生産様式は、物質的生産の変化した姿をつくりだす。他方では、このような、 物質的な姿の変化は、資本関係の発展の基礎をなし、したがって、資本関係の十 に発展した姿は、 労働の生産力の一定の発展度に対応する。 ⑸ すでに見たように、個々の資本家の手に一定の、そして絶えず大きくなって行く、資本の最小限 があるということは、一方では、独自に資本主義的な生産様式の必然的な前提であり、他方では、 その不断の結果である。①資本家は、ある社会的な規模の生産手段、すなわち個人またはその家族 にとって可能な生産にはなんの関係もなくなった価値量をもつ生産手段の所有者または所持者でな けれはならない。一つの事業部門における資本の最小限は、その事業部門が資本主義的に経営され るようになればなるほど、そしてその事業部門における労働の社会的生産性の発展が高ければ高い ほど、ますます大きくなる。それと同じ度合いで資本は価値量を増して社会的な規模をとらざるを えず、したがっていっさいの個人的な性格を脱ぎ捨てなければならない。②この生産様式が発展さ せる労働の生産性、生産の大量、人口の大きさ、過剰人口の大きさこそは、まさに、遊離した資本 と労働とをもって絶えず新たな事業部門を呼び起こすのであるが、これらの部門では資本は再び小 さな規模で仕事をすることができ、再びさまざまな発展を経験することができるのであって、つい にはこれらの新たな事業部門もまた社会的な規模で経営されるようになるのである。この過程は不 断のものである。同時に、資本主義的生産は、まだそれによって占取されていなくてただ形態的包 摂が現われているだけのすべての産業部門を征服することに向かって進んで行く。資本主義的生産 が農業や鉱山業や主要衣料の製造などを押えたならば、それは、ただ形態的包摂が現われているだ けの、またはまだ独立手工業者の存在する他の諸部面を捉える。③すでに機械の 察にさいして述 べたように、ある部門における機械の採用は、他の諸部門におけるそれを、また同時に同じ部門の 他の諸種類におけるそれを、伴う。たとえば、機械紡績は機械織布を招き、綿業における機械紡績 は羊毛や麻や絹などにおける機械紡績を招く。炭鉱や綿工場などでの頻繁な機械の 用は、機械製 造そのものにおける大規模な生産様式の採用を必要にする。この大規模生産様式が必要とした 通 機関の発達を別とすれば、他方では、ただ機械製造そのものにおける機械 特に回転原動機 の 採用によってのみ汽 や鉄道の導入が可能にされ、全造 業が変革されたのである。大工業は、手 工業または形態的に資本主義的な小経営の大工業への転化に必要な人間群を、まだ大工業に従属し ていない諸部門に投げ入れるか、またはこれらの部門のなかでこのような相対的過剰人口をつくり だす。この点では次のようなトーリ党の泣き言がある。 ⑹ 古き良き時代、『生きよ生かせよ』が一般的な標語だった時代には、だれでも一つの職業で満足

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していた。綿業のなかには織る人や紡ぐ人や漂す人や染める人やその他いくつかの独立な部門が あって、みながそれぞれの職業からの利益で暮らしており、そしてみなが、想像されるように、満 足していて幸福だった。ところが、やがて仕事の不振がある程度まで進むと、まずある部門が資本 家に取りこまれそれからまた別の部門が取りこまれ、ついにはすべての人々が追い出されて、労働 市場に投げ出され、彼らにできたかぎりのやり方で生計の資を見いださなければならなくなった。 こうして、どんな特許状がこれらの人々に紡績業者や製造業者や染色業者である権利を保証してい るのでもないのに、事の成り行きが彼らにすべてのものの独占権を与えたのである。……彼らはな んでも屋になった。そして、職業に関するかぎりでは、恐るべきは、彼らがどの職業の熟達着でも ないということである。」(『集中された 共の経済』カーライル、一八三三年、五六ページ。) ⑺ 資本主義的生産の物質的な成果は、労働の社会的生産力の発展を別とすれば、生産量の増大であ り、生産部面およびその諸 枝の増加や多様化であって、それとともにはじめて諸生産物の 換価 値が 諸生産物が 換価値として作用し実現される部面が それに応じて発展するのである。 以下、形態的包摂と実質的包摂の比較、とくに後者の独自性が指摘される。 ⑻ 生産のための生産」 自己目的としての生産 は、できるだけ大きくてできるだけ多量な剰 余価値を生産することが一般に生産の直接目的となれば、そして一般に生産物の 換価値が決定的 な目的になれば、すでに資本のもとへの労働の形態的包摂とともに始まるということは確かである。 とはいえ、このような資本関係に内在する傾向が、はじめて十 に適合した仕方で実現されるのは そして技術的にも一つの必要条件にさえなるのは 独自に資本主義的な生産様式が、そして それとともに資本のもとへの労働の実質的包摂が、発展しているときのことである。 この生産様式の積極的な側面とともに対立的な側面(消極的な側面)及び価値法則の全面展開の 指摘がある。 ⑼ ……①この生産は需要の予定限界にも既定限界にも拘束されてはいない。(この生産の対立的な性 格は生産の限界を含んでおり、この限界を生産は絶えず越えようとする。そのために恐慌や過剰生 産などが起きる。)これは以前の生産様式とは違った一面であって、いわば積極的な面である。他方 には消極的な面、すなわち対立的な性格がある。すなわち、生産者に対立する、生産者に無関心な、 生産である。現実の生産者は単なる生産手段として現われ物質的な富が自己目的として現われる。 したがって、この物質的な富は、人間の個体に対立して、それを犠牲にして、発展する。労働の生 産性一般は、最小の労働をもって最大の生産物を得ることに、したがって商品をできるだけ安くす ることに、一致する。このことは、個々の資本家の意志にはかかわりのない、資本主義的生産様式 における法則となる。②そして、この法則は、ただ次のような別の法則を含んでいることによって のみ、実現される。すなわち、生産規模が与えられた欲望に従って定められるのではなくて、逆に、 生産物量が、生産様式そのものに規定されていて絶えず増大する生産規模によって、決められる、

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という法則がそれである。その目的は、個々の生産物ができるだけ多くの不払労働を含んでいると いうことであって、この目的はただ生産のための生産によってのみ達成されるのである。このこと は、一方では、過小な規模で生産する資本家は社会的必要労働量よりも多くを生産物に具体化する ことになるというかぎりでは、法則として現われる。つまり、それは価値法則の十 な貫徹として 現われるのであって、この価値法則は資本主義的生産様式の基礎の上ではじめて完全に発展するの である。しかし、それは、他方では、個々の資本家の衝動として現われるのであって、個々の資本 家は、この法則を破るためた、または彼自身の利益のためにこの法則を欺くために彼の商品の個別 価値をその社会的に規定された価値よりも低くしようとするのである。 すべてこれらの生産形態(相対的剰余価値の)には、生産に必要な資本の最小限が大きくなると いうことのほかに、次のような共通点がある。すなわち、多くの直接に協業する労働者の労働のた めの共同的な諸条件そのものが、小規模生産におけるこれらの条件の 散とは反対に、次のような 節約を可能にする、ということがそれである。というのは、これらの共同的な生産条件の効果は、 これらの条件の量や価値が比例的に同じ割合で増大することを条件とはしない、ということである。 これらの条件の共同的な同時的な 用は、たとえそれらの絶対的な価値量は増大しても、それらの 相対的な価値(生産物に関しての)を低下させるのである。

むすびにかえて

以上のように、マルクスは、資本による労働の包摂過程を2つの形態で特徴づけている。さらに、 『資本論』Ⅰ(995ページ)における以下の表現がその内容を簡潔に述べたことになろう。かの有名な 「資本主義的私有の最後を告げる鐘がなる」の資本蓄積の歴 的傾向の箇所であるが、私が注目する のは資本の包摂が形態的包摂から、実質的包摂へと進み、さらに資本による資本の「包摂」(Subsum-tion)が進み、「資本独占」の形成をも指摘している点である。すなわち、 「……ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利 用、共同的にしか えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての 用による すべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、したがってまた資本主義 体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減っ てゆくのにつれて、 困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨張し ながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増 大してゆく。①資本独占は、それとともに 開花しそれのもとで開花したこの生産様式の となる。生産 手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで 外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。 資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資木主義的私有も、自 の労働

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にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもっ て、それ自身の否定を生みだす。それは否定の杏定である。この否定は、私有を再 しはしないが、しかし、 資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、②協業と土地の共同占有と労働その ものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。 諸個人の自己労働にもとづく 散的な私有から資本主義的な私有への転化は、もちろん、事実上すでに社 会的生産経営にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べものにならないほ ど長くて困難な過程である。③前には少数の横領者による民衆の収奪が行なわれたのであるが、今度は民衆 による少数の横領者の収奪が行なわれるのである。」と(『資本論』 .大月書店、995頁)。 ここで確認されるべき第一は、その後の資本主義的生産の発展はここでのマルクスの予見のように、 19世紀末から20世紀初頭にかけて「独占資本主義」という経済の新秩序をもたらしたことである。そ して、資本の運動は、市民社会の他の構成員との矛盾を強めつつ独占資本主義化を進め、そのような 方向で国家をも「 括」(Zusammenfassung)して、国家独占資本主義国家、ファシズム国家を生み だし、「世界大戦」をひきおこし、その中で社会主義国家を生みだした。2つの世界大戦と大恐慌を経 たのち、第二次大戦後、曲がりなりにも、資本の運動は国際的協調機構を構築して高度経済成長と低 成長を経験してきた。この資本の「包摂」概念に着目して、資本による包摂過程が科学から行政、さ らに「市場」にまで及びつつあり(「計画性」)、今後、グローバル化の傾向まで進むのではないか、と 仮説を提起したのは、1967年の都留重人氏であった。(「「資本」による「市場」の包摂」『経済研究』 (一橋大学、1967年7月、Vol.18―3))。私見では、現代の包摂過程について、政治的生活過程にまで 及びつつあることを具体化する必要があると えるが、それはここでの課題ではない。 本稿で、確認されるべき第二の点は、再 される所有形態として「個人的所有」を作り出すとして いるところである。これと関連して『資本論』I・第1章商品の箇所で「共同の生産手段で労働し自 たちのたくさんの個人的労働力を自 で意識して1つの社会的労働力として支出する自由な人々の 連合体(association)を えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するので あるが、ただし、個人的にではなく社会的にである。」(105ページ)との指摘もある。すなわち、すで にみたように、資本による「形態的包摂過程」で包摂の対象になった、かのシェークスピアも賞賛し たという「独立性」豊かな「独立農民」や「手工業者」(『直接的生産過程の諸結果』102ページ)との 関連は如何、という周知の問題である。 これについては、「自立性」豊かな「個人的所有(労働と生活)」の高次復活と えることはできな いであろうか。そうだとすれば、マルクスによる資本の流通・ 過程を捨象した直接的生産過程の結 果としての③の予測は、現代のわれわれにとってはあまりに抽象的にすぎる、と言わざるを得ない。 (原稿提出日 平成20年9月16日)

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【補論】マルクスの草稿『直接的生産過程の諸結果』(推定執筆時1863年頃)は、そもそも、『資本論』 第Ⅰ巻の未定稿・「第Ⅰ部 資本の生産過程 第6章 直接的生産過程の諸結果」として執筆されたも のである。すなわち、マルクスは、これを、資本の「直接的生産過程」の 括の位置に置いたのであ る。にもかかわらず、マルクスは、かかる案(プラン)を破棄し、本草稿を『資本論』の各編(第Ⅰ ∼Ⅳ巻「『剰余価値学説 』)に 割・配置しなおした。その間の経緯については、文献学的には未だ 不明部 が多く、学説 的にも、周知のように、マルクスの「経済学プラン変 説」として議論の焦 点となってきたところである。論点は多様である。 『直接的生産過程の諸結果』の目次は以下のとおりである(右端の数字は頁数)。すなわち、―― 〔Ⅰ〕 剰余価値の生産としての資本主義的生産 10 ・資本のもとへの労働の形態的包摂 79 ・資本のもとへの労働の実質的包摂または独自に資本主義的な生産様式 86 ・資本のもとへの労働の形態的包摂に関する補遺 88 ・資本のもとへの労働の実質的包摂 103 ・生産的労働と不生産的労働 109 ・ 生産物と純生産物 126 ・資本の物神化その他 130 〔Ⅱ〕 資本主義的生産は独自に資本主義的な生産関係の生産および再生産である 141 ・直接的生産過程の結果 149 この章の⑴および⑵から⑶への移行。この⑶をわれわれはここでは⑴として取り扱っている。 150 〔Ⅲ〕 資本の生産物としての商品 152 〔個々の断片〕 194 本稿で私は、マルクスが、「生産的労働の本源的規定」をいかに具体化しようとしたのか、に焦点を あてて、『直接的生産過程の諸結果』における「資本による労働過程の包摂過程」に依拠して、主体で ある資本が、包摂対象である旧来の労働過程をいかに「包摂」し変容させていったか、をフォローし た。同時に資本の包摂対象である旧来の労働過程の性格に応じて、自由な賃労働者の性格も異なるこ とに注目した。見られるようにそこでは、マルクスは「自由」(変転性)という用語と「自立性=独立 性」という用語とを重要なキーワードとしていることが確認できよう。マルクスにとって、賃労働の 性格はその両者の 合として意味をもっていた、と思われる。これが確認されるべき第1点である。 私自身の今後の課題として、経済政策の観点から社会を把握しようとするならば、資本の立場から の「生産的労働」の意義を踏まえつつ、マルクスによる「市民社会の国家形態における 括(Zussamen-fassung)」の意味を える必要がある。安藤実(「補論二「ブルジョア社会の国家の形態における 括」 について」『日本財政の研究』青木書店、1996年、p.p.255-275参照)によれば、マルクスおよびエンゲ

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ルスの意図は、もともと国家が市民社会の 括者であるというのではなく、市民社会が国家の形態に まとまる( 括する)という意味だ、という。この見解によれば、国家の具体的な中身は、ブルジョ ア国家の土台である経済過程=市民社会の在り方によるのであって、資本(これは現在ではグローバ ル化した独占資本あるいはレーニンの言う意味での「金融資本」である)だけでなく賃労働(含む 務労働)、商品生産労働(農業・自営業・職人企業・中小企業)、さらには科学・教育労働や医療・介 護労働などの対人サービス労働など、 じて労働の経済学として包摂されるような労働領域を対象と して、土地所有を含む三大階級の立場・およびそれらの相互関係として 析される必要があることに なる。とりわけ、前二者(現代の支配的資本―賃労働)のそれ自体の 析と相互関係=物質的生活の 諸関係が、社会的生活過程、政治的生活過程、精神的生活過程の「 出」「包摂」過程として具体化さ れるプロセスの 析が、重要となろう。 かかる経済政策の観点からすると、『直接的生産過程の諸結果』における「生産的労働・不生産的労 働」および「純生産物・ 生産物」の検討がさしあたり必要になることが かる。前者は「『不生産的』 諸階級」( 務労働・官僚)と市民社会を構成する諸階級との関連を解明するうえで重要な概念である からである。これについてはさしあたり拙稿(「生産的労働と不生産的労働」『群馬大学教育学部紀要』 1994年)を参照して頂きたい。本稿・補論では直接的生産過程の結果に焦点を当てて、「純生産物・ 生産物」概念をマルクスがいかに 括していたか、『直接的生産過程の諸結果』から紹介するに止めよ う。 「資本主義的意味での生産的労働の増大」のためには何が必要だと古典派経済学者 マルクスの 事例では工業のリカードと農業のアーサー・ヤング は えていたか、マルクスによれば、それは 個々の資本家の立場だけでなく、一国の立場としても貫徹する観念である、という。したがって、市 民(ブルジョア)社会による国家形態への「 括」を通じて、資本の立場としての経済政策としては 何が重要だと えていたのか、とも関連する。それはとりもなおさず、現代における経済政策の潮流 の一つが、「新自由主義」とよばれる所以を明らかにするであろう。 ⑴ 工業に関するリカードの見解(『経済学および課税の原理』第26章)へのマルクスの論評につい て 「①資本主義的生産の(したがってまた生産的労働の)目的は、生産者たちの存在ではなくて剰余価値の 生産なのだから、剰余労働を生産しないすべての必要労働は、資本主義的生産にとっては余計であり無価 値である。②同じことは資本家たちの国についても言える。③ただ労働者を再生産するだけの、すなわち 純生産物(剰余生産物)を生産しない、すべての 生産物は、前記の労働者そのものと同様に、余計であ る。あるいはまた、生産のある発展段階では労働者たちが純生産物を生産するために必要だったとしても、 もはや彼らを必要としない進歩した生産段階では、彼らは余計になる。言い換えれば、⑤ただ資本に利潤 をもたらす人数だけが必要なのである。⑥同じことは資本家たちの国についても言える。」と。 リカードからのマルクスによる引用文の趣旨は、純収入(剰余価値)500万人 の生活手段を生産す るのに、500万人の労働者が必要な場合と700万人が必要な場合ではどちらが効率的であるか、という

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問いである。資本主義的な意味での生産的労働の立場に立てば、いかなる「博愛主義者」であっても、 当然前者を選択するであろう、さらに、このことは国家全体についても当てはまる、とマルクスは敷 衍する。700万人から500万人を控除した200万人は生産力の発展段階が向上すれば、「余計」な存在と なる、これが資本主義における生産的労働(剰余価値=生産的労働)の立場だというのである。 ⑵ 農業に関するアーサー・ヤングの見解(『政治算術』1774年、47ページ)の紹介 「現代の王国ではこのように 割されている(古代ローマの初期におけるように自営小農民たちのあいだ に)一地方全体は、たとえよく耕作されていようとも、人間を繁殖させるという単なる目的のほかになん の役に立つであろうか? これは、それだけとして見れば、最も無益な目的である。」 ⑶ マルクスの 括 「生産の究極の最高の目標としての純生産物に関する学説(リカードおよびヤング……引用者)は、ただ、 労働者を顧慮しない資本の価値増殖したがってまた剰余価値の 造が資本主義的生産の推進的な核心であ るということの、粗野ではあるが正しい表現でしかないのである。資本主義的生産の最高の理想は 純 生産物の相対的な増大に対応して 、賃金生活者のできるかぎりの減少、純生産物生活者(不生産的階 級……引用者)のできるかぎりの増加である。」(『直接的生産過程の諸結果』130ページ) 振り返って、「現代社会」の生産的労働とは、一体何であろうか。現代の、たとえばわが国における 代表的資本(「輸出型製造資本」)にとっての生産的労働とは何か、という視点に対して、賃労働にとっ ての生産的労働、さらに日本における「自営業」・中小企業(イタリアの職人企業のような)の労働、 農業の労働、教育・科学労働、医療・看護労働、エネルギー生産労働、 じて労働の経済学によって 括される「労働の立場」にとっての生産的労働とは何か、との問いかけが必要であろう。この対立 点を、鮮明にせざるを得ない経済政策の観点は、マルクスが指摘したような「 生産物」と「純生産 物」との対立として把握する立場 すなわち「資本の論理」の立場 では決してない、というこ とだけは確かである。 価値形成労働か否か、すなわち生産的国民所得を生産する労働は何か、のレベルにとどまらず、 配・消費過程における国民所得の在り方を通じて、 体としての、社会全体にとっての「生産的労働」 概念が把握されなければならないであろう。ちなみに、ドイツにおける「市民社会の国家形態での 括」のなかに「社会の統合機能」を担う世界初の「社会保険(疾病保険)」が包摂されるようになった のはマルクスの没年、1883年のことであった。「国民所得と再生産」について、「生産的労働・不生産 的労働」の観点からアプローチすることが、私にとっての次の課題である。

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例えば、EPA・DHA

Amount of Remuneration, etc. The Company does not pay to Directors who concurrently serve as Executive Officer the remuneration paid to Directors. Therefore, “Number of Persons”

の主として労働制的な分配の手段となった。それは資本における財産権を弱め,ほとん

本研究科は、本学の基本理念のもとに高度な言語コミュニケーション能力を備え、建学