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島のあらまし: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Title

島のあらまし

Author(s)

高宮, 広衛

Citation

沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 3(2): 3-8

Issue Date

1963-03-30

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10719

(2)

島 の

ら ま し

沖縄本島北端部の西方十数浬の海上、同地方とほぼ平行に南北に速な る島興群を伊平屋列島といい、行政上伊平屋、伊是名の二村に分たれる。これ らの島唄群は周聞の沖之永良部、与論、沖縄本島あるいは粟国島とは

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米以 上の海底によって分離された別箇の陸棚に位し、北から伊平屋、野甫、具志川 伊是名、屋ノ下、屋那覇等の六小島が指呼の聞に並んでいる。同列島北端の 二島、つまり伊平屋、野甫両烏が伊平屋村である。その主島たる伊平屋島は鹿 児島県最南端の与論島と同じく北緯

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0 に位し、本島北端の辺土岬より

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浬苅 北部最大の漁港である本部半島の渡久地港より

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浬、主都那覇より

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浬の洋上 にあって、略図(表紙裏)に見るように外劉芋の形をした島である。沖縄本島 との距離は常時視界内にあり、また晶の東北海岸に立てば北に沖之永良部、東 に与論を望むことができる。 本村長年の懸案であった分村問題がようやく実現したのは戦争直前の 昭和十四年のことである。それまでは伊平屋、伊是名の両村は伊平屋の総名で 呼ばれ、一つの行政単位をなしていた。古くはこの呼称、の下に両村は今帰仁按 司の管轄下にあったが、後に尚氏発祥の地(本村が第一、伊是名が第二尚氏) として特別の待遇をうけ首里王朝の直領となった。明治期に入り、廃藩置県に まつわる行政区画整理によって本村は新たに沖縄本島南端の旧島民郡(現南部 地区)の管下におかれた。この編入のあり方は地理上の位置からすれば奇異に ー感じられるが、これは那覇を中心とする交通の便宜によったものといわれる。 戦後、北部地区最大の漁港である渡久地港が飛躍的発展を遂げ、那覇港に取っ て代ってこれら島興への起点となるに及び、地脈との関係と相{突って、本村は 再び北部地方の行政区に編入され今日に至っている。 本村を構成する伊平屋、野帯両島は地質、地形の上でそれぞれ臭った 特色を示している。伊平屋島は島周約

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粁、古生局の山岳が南北に起伏する山 また山の島で、北から後岳、アサ岳、腰岳、賀陽岳、阿波岳が略一直線に並び 平地といえるほどの平地はないが、腰岳と賀陽岳及び賀陽岳と阿波岳の聞には 狭小な台地があって、それぞれ我喜屋、島尻両部落の耕地として使用されてい る。この台地を除けば島の主軸部は急峻な山やまの連続によって形成される。 前岳とアサ丘に固まれた平地は元来入江に発達した砂丘地であるが、現在はそ

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の大部分が田名部落の水田地になっている。これはまた本村最大の水田地帯で もある。この西北部には有名な回名池があり、溜概用の水源となっている。四 周山に閉まれたこの水岡地帯は恰も日本爾を見るように美しく、またそこに一 歩足を・踏み入れると山やまの雄大きに島にあって大陸の感さえ抱かせるのであ る。 これらの山岳は直線状で屈曲に乏しい西海岸に急傾斜をもって迫り、 東海岸では大小の入江を形成する。この入江に発達した砂丘が現在村民に生活 の場を提供しているが、遺蹟の分布によって窺うと、島の歴史もこれら砂丘地 とそれに隣接する山麓平垣部の上で展開してきたとみられる。風のためであろ うか、砂は西海岸においては平地を形成し得ず、山の中腹近くまで吹き上げら れ(図版nb.)炎天下まぶしく輝いていた。後岳東北端部に波璃質荏岩の見事 な岩肌が露出しているが、この岩石は先史時代にも島外に石材を提供したらじ く、ちょいちょい先史貝塚でこの砕片を採集することがある。 野甫島は伊平屋島南端米岬の西方海上に浮ぷ隆起珊瑚礁の平坦な島で ある。周囲の大部分は絶壁で、他の部分は砂丘におおわれている。従って港と なる場所がなく、本船への乗り降りは至って不便である。ここと伊是名の聞は 潮流が激しく七島離に次ぐ難所として俗に伊平屋浪で知られている。島の周囲 約

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粁、山もなく林もない。耕地を除けばアダン、ソテツ、カヤ等の雑木雑草 でおおわれている。基盤が隆起珊瑚礁であるため耕地も浅い。水源に乏ぼしく 湧水の全然ない島である。湧水はあるいは海中に流出

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ているのかもしれない 従って水田もない。島の西南方、現部落より約一粁ばかりの地点にマーガーと 呼ばれる共同井戸があって、ごく最近まで島唯一の水穂として使用されていた が、瓦茸の家が漸次増加するに及び天水利用の傾向が生じ、現在では渇水期以 外は使用されないという。この水は多少塩分を含んでおり飲料には不適である。 近年、米国民政府の弁務官資金によりグーサンナ森東斜面に集水設備(図版VI

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b

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ができ、充分というには程遠いが、水の問題も幾分緩和されたようであ る。 全般的にみて琉球は亜熱帯に属するが、伊平屋島はどちらかといえば 温帯に属し、植物学的にもかなり注目すべきものがあるといわれる。多和国真 淳氏によれば植物学上伊平屋島は九州系の南限をなすといわれ、その代表的な ものにキダチノコガク(トカラアヂサイ)やウパメガシがあり、これは沖縄本 島や南の伊是名島には及んでいないようである。また両氏によれば島の特徴的 植物としてイヘヤヒゲクサ、コウラポシ等があり、強烈な潮風のため植物がす べて媛小であることも特筆に値し、他方ハプの多いことも神縄随ーだといわれ

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る。琉球大学教授高良鉄夫著「ハプ」によれば主島の伊平屋島はハプ、ヒメハ プ、ハイを産し、野甫島は上記三種のうち前者を欠〈、いずれも有毒へピであ るが、ヒメハプは毒性が他の二種より弱いようである。これらのハプは山森、 平地、畑地だけでなく部落にもしばしば現れ、地元の人の諮では毎年被害者が 数人はでるという。 本村は五つの部落からなり、北から国名、前泊、我喜屋、島民、野甫 がー粁前後の間隔で並んでいる(第一図)。部落の大きさは

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年の国勢調査 によると、島民

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所帯)、前泊(1

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所帯)、我喜屋(1

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所帯)、田名(1

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所 帯)の順に大きく、野市

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所帯)が一番小さい。野甫島の部落は野市ー箇所で 主島との連絡には区有船(図版

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が往復する。部落はいずれも島の東側に あって、現あるいは旧海岸線と関係している。村民は大体地元の人であるが、 前泊部落は首皇、那覇からの寄留者が大部会を占め、野甫は伊是名がらの移住 者も多いという。厩史的には同名や我喜屋が古く、島民は我喜屋から転住した 人びとが主体をなしているようである。いずれも純農村的社会で農業の余暇を 利用して海に出る程度である。 村政の中心である村役所は前泊部落と我喜屋部落のほぼ中間にあり、 その酉隣りに伊平屋中学校と郵便局がある。小学校は我喜屋部落にあるが、通 学距離の関係で三年生以下.の児童のために田名、島尻両部落にはそれぞれ分校 が設置されている。明治の頃まで野甫島の生徒は小舟で主島の簡易小学校に通 学したようであるが、現在は小中校が併置され以前のような不便は解消されて いる。村役所の東には農業組合があり、その隣りにプロック造りの巡査派出所 があって駐在員が一人配置されている。我喜・屋には診療所があり、私達の調査 当時は本土からの派遣医師が勤務しておられた。 陸上交通路は地形との関係で犠めて単純である。章輔を通じうる村道 が一条島の東側を端から端まで走っている。しかし両末端部は砂丘地であるか ら車輔の運行には不向きである。他に同じ幅員をもっ支線が賀陽岳の西側を通 って我喜屋と島民を連結している。あとは車を通じ得ない馬道であるが、舗道 はなく、まだ一周道路もない。野甫島の交通路は更に小規模で数条の農道が部 落と耕地を結んでいるだけである。 パスがないから島内の交ー通は至って不便である。しかし村役所には米 軍にもらったジープが一台あって、ついでがあれば便乗させてもらえる。そう いう意味ではこのジープは幾分パスの性格も帯びている。私達も支障のない時 にはしばしば利用させて頂いた。農協にも米軍に譲捜してもらった小型トラッ クが一台あるにはあったが、寿命がきたのかほとんど車庫入の状態であった。

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その他の主な交通機関としては回名に昔を忍ばせる客馬車(図版 Xb)が一台 あるだけで、乗客もなく主として馬車やトラック同様荷運びに使用されていた ー生徒は大部分が徒歩で通学するが、小数の生徒は自転車で通っている。烏は筆 引以外には使用されず、畑地への往復に馬に乗っている人を見かけることもほ とんどない。従って部落聞の私用の連絡は自転車がなければ徒歩ということに なるが、ちよいちょい公用で通過するジープや客馬車に会えば大変助かる。し かしわざわざ出掛けることを必要としなければ、各部落の売居(字有)に設置 された電話で用を逮することもできる。 本村の産業は全般的に低調である。周囲漁場に恵まれてはいるが、こ れによって生計を立てる人はいない。明治の頃には海人草や貝類を輸出したこ ともあったが,専業者がいなかったために療れてしまった。また大正の頃には 一時鰹業が栄えたこともあったが、他地区の業者との競争に失敗するに及んで! 海の幸は今は全く省みられない状態である。山林も重要樹木に乏しいため収入 源としてはほとんど無価値に等しい。以前僅かに薪炭用薪木を移出していたが 都市地区における需要が減じたため今は山林による収入も絶えてしまった。 よって村民の生活を支える主な生業は農ということになる。ところが 山岳地帯であるため耕地面積も甚だ少い。主要農産物は米、甘熊、サツマイモ 大根等の他、最近は換金作物としてパインが山やまの斜面に栽培されている。 村には前泊と野甫にそれぞれ小型の製糖工場があるが、パイン工場はない。そ れでパインは生果のまま本島のパイン工場に移出されそこで処理される。野菜' の栽培は自家用程度である。他村と同じく農家の副業として重要な地位を占め るのが畜産である。本村においては家畜は農産物に次ぐ収入源で豚、牛、馬の j煩に多く、悶名では山羊が放牧されているが、就中、豚の飼育は盛んで、ほと んどが沖縄本島に移出される。しかし上記の諸産物は村の財源を豊かにしうる 程の力をもたない。そこに対の悩みがあるようである。栽培、漁業も考慮の余 地はあると思う、ここニ、三年、新たな財源として観光事業が真剣K 検討され ている。山やまの織成す景観、純白な砂浜、壁礁、漁場、山林、名所旧跡等観 光資源はそろっており、方法如何によっては有力な収入源になりうるのではな かろうか。 他の本島周辺の島艇に比べると本村は名所旧跡も比較的豊富である。 主島の伊平屋島では最北端の田名のクパ(ぴろう)山(第一図)、そのクパ山 に荷接する破璃質桂岩内にできた大洞窟(図版

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[

b

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、及び樹令

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年はあろうと いわれる念頭平松(図版

Wb)

が、それぞれ

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月琉球政府文化財保護委員 会によって天然記念物に指定された。徳川時代の学者藤貞幹が神武天皇の生誕

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地をこの伊平屋に想定したことは既に著明である。これは後に時の国学者本居 宜長を憤慨させたが、このような由緒との関係で村民は前記大洞窟をー天之岩 戸ミとも呼び、且つ島の古さの象徴としている。その他、西海岸の波打際に孤 立する無蔵水(図版llc)は妻の貞節を讃える回名の伝説に由来し、我喜屋部落 後方の上里には第一尚氏尚巴志の祖先H屋蔵大主Hの居住地といわれる遺跡が あって、今はその東方の地に片隈神社が建てられている。我喜屋の南方海岸に は屋蔵大主を祭った屋蔵慕がある。田名東方の地にはノロの職田が現存し、そ の近傍の隆起珊瑚礁岩蔭にはかつての共同墓地といわれる石下基(図版町a)が あり、その岩蔭の一つにはテンノロ神と、アサトノロ神を祭った墓もある。 野甫島には名所旧跡と称すべきところはないが、西海岸の隆起珊瑚礁 絶壁の中腹あたり比較的大きな洞穴があり、育孫不明の遺骨が相当数収骨され ているが、一説によれば共同墓地の痕跡といい、あるいはまた他の岩蔭の散在 したものを収骨したものだともいわれるが、田名の石下墓と同種のものではな かろうか。この洞穴墓を地元の人はアマンナーと呼ぴ旧正

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日には字全体で慰 撃のお祭りを行うようである。他に同じく岩蔭を利用した村墓(下のシンズー 〉がある。村重とは字の共同基地の意であるが、内部は上、中、下の三室に分 れ、納骨の区分は故人の属する社会階層によって決まったようである。現在は 納骨の対象にならないが、ごく最近まで墓地を所有しない人はこれを利用した といわれる。このような墓制は石下墓やアマンナーと同じく民族学的にも甚だ 興味があり将来精査の必要があろう。野甫には二、三年前までノロの西銘豊子 さんがおられ、勾玉(図版

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)

やその他祭記用品を見せて頂いたが、今は那 覇に転居されたようである。 都市地区への移住は近年の世界的傾向で、本村においてもその傾向は 著しい。それは戦後沖縄本島における諸産業の飛躍的発展に伴い、労働市場の 人口吸引力が相対的に大きくなったためで、ある離島の如きは既に廃村同様の ところもある。本村はそれ程ではないが、他村同様島を離れる者は多い。殊に 青年層の離農離村傾向は著しく、村内五部落で青年を見掛けることは稀である 従って、かつては盛んであった青年会の活動も今はただ痕跡をとどめているに 過ぎない。 現在、二隻の木造船が伊平屋航路に就航している。村有の伊平屋丸

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屯)と個人有の嘉手納丸

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屯)で、交互に就航し、朝伊平屋を出る船は まず本部町の控久地港に寄り、同日夕刻那覇の泊港に入港する。那覇で二泊の 後、再び渡久地経由で伊平屋へ帰る。普通泊港を午前六時頃出港する。それで 船に乗遅れるか、または船に弱い人は那覇発名護行きの七 八時のパスに乗れ

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ば,午前十時渡久地港で乗船することができる。那覇から渡久地港までは普通 四時間(パスで二時間半〉、渡久地ー伊平屋聞は三時間といわれているが、嘉 手納丸は幾分速いようである。渡久地を出る鉛は}旦野甫島に寄り、それから 伊平屋へ向う。上りはその逆である。しかし両船とも老朽船で故障が多く、運 搬にし、ろいろ支障を来たしているようである{現在鉄船の建造計画が進められ ているが、実現の暁には伊平屋一本島閣の距離は更に縮まるであろう。本村の 観光誘致計画と相倹って村民と共に、私達もこの鉄船の就航が一日も早からん ことを祈っている。

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参照

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