Title
沖縄社会におけるコミュニティの変貌とは―那覇市三原
地域のオーラル・ヒストリーを通して―
Author(s)
小笠原, 快
Citation
地域研究 = Regional Studies(13): 41-65
Issue Date
2014-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/12022
地域研究 №13 2014年3月 41-65頁
The Institute of Regional Studies, Okinawa University Regional Studies №13 March 2014 pp.41-65
沖縄社会におけるコミュニティの変貌とは
―那覇市三原地域のオーラル・ヒストリーを通して―
小笠原 快
*Changes to Community in Okinawan Society
―Oral History of the Mihara, Naha-shi Area―
OGASAWARA Kai 要 旨 沖縄県の中心部である那覇市は、「協働のまちづくり」を掲げており、地域社会で課題となって いる少子高齢化や、孤独死、虐待、災害等の社会問題に対して住民と行政が一体となり、課題解決 を目指す仕組みづくりに取り組んでいる。 本論では、住民同士が積み重ねてきたコミュニティの歴史に、まずは注視しながら検討していく ことが課題解決を探るうえで重要だと考え、長きに渡り那覇市内で生活を重ねてきた住民からコ ミュニティに関する聞き取りを行い、過去から現在までのコミュニティの変貌について明らかにし ていくこととした。 考察では、過去に豊かなコミュニティが複数存在していたことが分かる一方で、都市化や少子高 齢化といった社会変化の中でそれぞれのコミュニティが縮小や統合を重ね、衰退していることが見 えてくる。また、それぞれのコミュニティに接点がないことで、お互いに知らず、支え合うことも 出来ないことが見えてくる。だが、第3者がつなぎ役となり、それぞれのコミュニティが知り合うと、 お互いを支え合う関係が生まれてくることも見えてくる。さらに三原で、地域の大人から見守られ て育った子ども達は大人になると、自らが見守る側の大人になっていることも分かってくる。 キーワード:少子高齢化、閉じられた自治会、つなぎ役、地域の大人 Abstract
Residents and administration in Okinawa are united in their concern for social problems, such as low birthrate and increased longevity, solitary death, abuse, and the consequences of disasters. Naha, the capital of Okinawa Prefecture, is tackling the development of a structure that aims at a business solution.
When examining such a community, it is considered important to explore its history,
はじめに 沖縄社会には「ユイマール」や、「模合」等の住民同士の相互扶助が根付いていると言わ れている。だが、都市化や少子高齢化の波は沖縄にも届いており、地域の人間関係が希薄に なってきているとも言われている。それは、都市部の那覇市においても同様のことである。 現在、那覇市では住民と行政が協働したまちづくりを掲げ、様々な対応や仕組みづくりを 模索しているが、今後さらなる方策を検討、展開していくことが望まれるだろう。 1.研究目的 まちづくりにおいて、新たな方策を検討、展開するにあたり、地域で生活し、コミュニティ を積み重ねてきた住民が、コミュニティの変化について、どのように感じているのかを知る 事はまちづくりの第1歩として重要だろう。 これに関してまちづくり研究を行う後藤は、「(まちづくりとは過去の)コミュニティによっ て受け継がれた「地域遺伝子」の発見を通して、「役に立つ過去」を活かし、「懐かしい未来」 を描くことがその第1歩なのである1」と述べ、過去のコミュニティを見つめる事は現在の まちづくりにも活かすことのできる視点があると述べている。 こういった点からも住民たちが積み重ねてきたコミュニティについて、注視していくこと としたい。 そのため本論では、地域で長きに渡り生活を続けてきた住民が、以前のコミュニティと現 在のコミュニティとで、どのように変化していると感じているのかを明らかにしていくこと を目的とする。 コミュニティとは多義的な意味を用いるが、本論においてのコミュニティとは「一定地域 で生活を共にする人々の帰属組織」と定義づける。 2.研究方法 住民の思いを把握するために、本論においてはオーラル・ヒストリーという聞き取り手法
which residents have accumulated as the main subject of business solution development. Consequently, we conducted a process of listening comprehension with long-time residents of Naha, who were similar and came the life in piles in passage Naha,and clarified the changes that had occurred in the community.
Our research reveals that while several communities with a rich heritage existed, each community experiences reduction and integration, and decline because of societal changes, such as urbanization, and low birthrate and increased longevity. Moreover, because there is no point of contact between communities, they are unable to support each other. It is only a third party intervention that connects the communities into a mutually supportive relationship.
Furthermore, when the children growing under the watchful eyes of the adults of the area become adults themselves, they watch over the generation that follows.
を用いることとする。オーラル・ヒストリーとは「個人の視点をもとに歴史と社会について 考察する―人々にインタビューをしてその録音を資料としてそこから出てきた問題を検討し ていく」という手法であり、本論においての住民の想いに迫るには最適な方法であると考え、 用いる事としている。 また、オーラル・ヒストリーでは5名の住民から聞き取りを行っている。それは複数の住 民から聞き取ることで、コミュニティについて、多角的に検討することができると考えたた めである。 3.研究・調査対象 研究地は那覇市内にある三原地域(以下三原)としている。研究地として三原を選定した 理由は、現在の那覇市の特徴的な像と、三原地域の現状が重なると考えたからである。具体 的には、少子高齢化が進行している地域であることや、住民が集う場所が不足しており、中 心地がないということなどが挙げられる。 また、三原は筆者が当時、在住していた地域でもあり、コミュニティを内部から捉える参 与観察が本論においては最適であると考え、那覇市三原を研究地とすることとしている。 つまり、三原を研究することにより、那覇市内の複数地域のコミュニティ像を浮かび上が らせることができるのではないかと捉えたためである。 調査対象者は以下の5名の方々である。 Aさんは三原で生まれ育ち、現在、同地域で建築会社を営む傍ら、自治会長を担っている。 Bさんは沖縄県国頭村出身で、成人してから三原に住む同村の知り合いを頼って、転入し ている。現在は同地域で商店を営んでいる。 Cさんは幼少時代に三原に移り住み、現在も三原で暮らす傍ら、同地域にて空手教室を開 き、活動している。 Dさんは幼少時代、三原のとなり地域で育ち、結婚を機に三原にて生活を始める。また自 身の子育てをきっかけに同地域内の子ども会活動にも携わっている。 Eさんは定年退職後に三原に移り住んできた1人暮らしの転入者である。Eさんに関して は、三原で長く生活をしてきたわけではないが、三原で繋がりをもたないEさん(転入者) にとって、三原のコミュニティがどのように見えているのかを把握する事も、現在のコミュ ニティの姿を浮き彫りにする上で重要であると捉え、聞き取りを行っている。 4.調査期間 調査期間は2010年4月から、2011年12月までの期間で、聞き取り回数は少ない方で2回、 多い方では12回の聞き取りを行っている。
5.倫理的配慮 本論は、三原自治会の了解があると同時に、オーラル・ヒストリーを行った5名に関して も、研究趣旨を説明し、研究以外で利用しないことについて了解を得た方々である。 6.先行研究 先行研究として、八尾の「1960年代以降の沖縄における地域社会の変化~ひとりの女性の オーラル・ヒストリーを通して~2」がある。以下に先行研究の紹介、本研究との違いにつ いて触れていくこととする。 先行研究では、沖縄県都市部の住民生活の変化について考察することを研究目的として、 「沖縄社会が常に変化するなかで住民が自らの生活をどのように変化させていったのか」と いうことに焦点が置かれている。具体的には住民自身の「行動」に着目している。対象者は 1960年代に那覇市で生まれ、現在まで那覇市に在住している女性(以下Kさん)である。オー ラル・ヒストリーを研究方法に用いた理由は、「彼女の個人史を追うのではなく、彼女が社 会に対して感じている様々なギャップとそれに対してKさん自らがとった行動を中心に取り 上げる」ことを目的としたため、最適であると判断している。その一方で、オーラル・ヒス トリーの聞き取りに関して、Kさん一人のみに行なったことについては、「議論を普遍化す るには弱い部分がある」とも述べ、研究の課題点を上げている。 先行研究の優れていると思われる点は、過去と現在とを融合する視点である。Kさんは過 去の住民同士で支えあった地域社会に戻る事を望んでいるのではなく、過去に存在した(K さんはそう感じている)人と人との繋がりを、現在の制度の中で活用して人為的に生み出し、 過去と現在を融合させようと努力していることを、八尾が発見した事に共感を覚える。 だが、先行研究では聞き取り対象者が1人であるのに対して、本研究では複数の住民から オーラル・ヒストリーを行っている。また、先行研究ではKさん自身の「行動」に着目して いるが、本研究では「コミュニティ」に視点が置かれているという点においても、違いがあ ると考えている。 7.那覇市について 現在の那覇市の人口は320,020人で、138,383世帯3となる。面積は39.23㎢(沖縄県全体で は2274.59㎢)である。 琉球王府時代の那覇は、王都首里の港町として発達し、日本本土、中国、東南アジア等と 交易を行う中で栄えるが、1609年の薩摩侵攻後は、薩摩の管理下において中国のみの交易と なる。1879年には廃藩置県により政治の中心が首里より那覇に移行する。 その後、徐々に行政区域を広げることとなるが、第2次世界大戦が始まると1944年10月10 日の米軍空襲によって、那覇市の多くは壊滅状態となり、行政機能のほとんどは失われてし まう(1945年6月23日に沖縄戦は戦略上、終結したこととなっている)4。
戦後直後の那覇市、またその周辺地域(真和志村、首里市など)は米軍に占拠されたため、 住民らがそれぞれの地域に戻るまでに時間を要している(1945年11月10日の壺屋への一部住 民の帰郷が始まりだと言われている5)。また米軍が住居居住地区制限の元、バラバラに土 地を解放したことで、都市形成の計画性を欠いてしまう。この事を吉川は「多角的都市6」 と呼んでいる。 米軍統治下においても、那覇市は隣接する市村合併を検討し1954年に首里市、小禄村、 1957年に真和志市を編入し、(当時の那覇市の人口は18万7,256人、面積30㎢7)大都市とな るが軍用地が主要な部分を占めていたため、公有地である水面も埋め立てざるを得なかった。 しかし、ここでも米軍の許可を要したため、埋め立ても計画通りに進行することはなかっ た8。つまり戦後復興を軍政下の元で行わざるをえないということが、那覇市の都市形成に とって大きな阻害要因になったことは間違いないだろう。 8.自治会と郷友会の関係 ここでは、那覇市における特徴的なコミュニティの1つとして自治会と郷友会の関係が挙 げられると考え、取り上げることとする。 ⑴ 自治会について 那覇市の自治会は1960年の自治会制度が始まりで、それまでは区長制度(1908年に島嶼町 村制により成立した制度)が自治会の前身として役割を担ってきた(区長制度時代は町内会 や部落会という名称等で呼ばれていた)。 自治会の特徴の1つに、町や字などの地域単位に対して1自治会として組織されていない 場合がある。つまり1つの地域(町、字)に現地域(現住所)の自治会と、旧地域(旧住所) の自治会が複数存在している場合があるということである。 次に、自治会加入率が全国的に低いことが挙げられている9。2013年(4月30日現在)に 那覇市(まちづくり協働推進課)の調査で明らかとなったのは市内の自治会加入率が20.9% となっている(三原を管轄する真和志地区に至っては17.1%とさらに低い)10 。 要因の1つには自治会がそもそも存在しない地域が多い事について触れられている。2010 年の那覇市が実施した「那覇市民生活意識調査報告書」において、未加入者に対して自治会 に加入しない理由を聞くと「勧誘がない(296人)」、「自治会がない(200人)」、「時間的にゆ とりがない(180人)」が上位の3項目にあり、アンケートに回答した1,888人中(100%)自 治会がないと答えた回答者(200人)は、およそ「10.6%」に及ぶ。それに対して2007年、 内閣府から全国対象で行われた「町内会・自治会等の地域のつながりに関する調査」では、 町内会・自治会の有無に関して、「ない」と答えた回答者は全体の「6.4%(1,834人中)」となっ ており、全国平均に比べ、若干ではあるが自治会が組織されていない地域の多さが、那覇市 からは窺えるだろう。
もう1つの自治会加入率の低い要因としては、自治会への加入方法(加入への働きかけ) が挙げられる。加入方法は①全戸加入型②任意加入型③郷友会型の3タイプがあると言われ ている。全戸加入型とは、その地域に在住する住民は基本的に全て加入するもの、任意加入 型とは勧誘はするが(もしくは勧誘もしない)住民の判断に委ねているタイプのこと(積極 的に勧誘する自治会もあるが少ない)、郷友会型は(郷友会について詳しくは次項で触れる) 旧地域の頃からの住民や出身者、さらにはその親族らによって構成されているものと、同郷 出身者が他地域に移動し、そこで同郷出身者の集団を形成し、自治会を組織することでその 地域に住む同郷出身者やその親族らで構成される2つに大きくは分けられている。そのため、 郷友会型自治会のある地域に、何ら関係を持たない人間が転入しても自治会には加入できな いのが郷友会型自治会の特徴なのである。 那覇市では任意加入型自治会が最も多いのだが11 、なぜ任意加入型は転入者に対して消極 的な姿勢なのだろうかという疑問に対して高橋は、旧地域からの共有財産が関係していると 述べている。共有財産12とは元々その地域に住む住民ら(親族関係の場合もある)が共有で 保持する財産のことであり、土地、貸家、自治会館、公民館等がそれにあたる。その財産の 共有(利益分配)や、管理のために共有財産を持つ任意加入型自治会では新たな転入者への 積極的な勧誘をしないと言うのである。鈴木も「都市周辺部で「新住民」が増えるとき、土 着の旧住民が共有財産への伝統的権利をどう規定しなおすか―新旧住民の混在化の調停がこ れからの都市化の一問題となるだろう―本土諸都市の自治会・町内会のイメージは、那覇市 の自治会には全く妥当しない。いわゆる全員加入の「町内会」的なるものは存在しないので ある13 」と述べている。つまり、那覇市の多くの自治会は「閉じられた自治会」ということ が言えるかもしれない。 ⑵ 郷友会について 郷友会とは「郷土を同じくする者が、移住先で結成した組織14」と言われ、自治会が居住 地を単位に組織する一方、郷友会は郷里(地元)を単位にするという違いがある。会の目的 には親睦や相互扶助15 が主なものである。 那覇市においては、1955年頃から基地建設等で経済が活発化した事で、農村から都市への 大幅な人口流入が見られるが、多くの都市に流れ込んできた人々はそれまで他の地域住民と 接触する機会はほとんどなく、言葉や生活慣習等への苦慮も含め、単身で出てくる人間は同 郷や血縁関係者を頼って那覇に出てくるものが多く、さらには1960年代以降の行政機関の就 職斡旋機能の整備、充実等がなされるまでは郷友会を通じた知人の就職斡旋により働き口を 見つける人間も多かったのである16 。ちなみに1950~1970年代において郷友会の結成が全体 の70%以上17と言われ、郷友会の結成と都市における雇用との関連性は大きいと言えるだろ う。 那覇市における郷友会の数は200以上あると言われ、「小字単位でつくられているレベルの
もの、旧村であるシマを1つの単位としてつくられている100人から200人程度の、メンバー によって構成されているもの、市町村を1つの単位とした1万人以上の構成メンバーを擁す るような大規模なものなど18 」があると言われ、その構成や形態は一様ではないことが窺え るだろう。 ここまで郷友会について見てきたが、先に触れた自治会との機能において関連性が高いと いう事が言えるのではないだろうか。このことに関して高橋は、「形態的には異質であるに しても―その機能は基本的に等価できる19」とも述べており、郷友会とは自治会機能の代替 的役割も果たしていると見る事ができるだろうか。つまり郷友会の存在が自治会の必要性を 弱めてきたとも言えるかもしれない20 。 しかし、郷友会組織の高齢化は進んでおり、居住地を基盤にした自治会への関心が高まる (シフト)可能性があるとも考えられている21 。 9.三原について 三原は那覇市真和志支所管内に属しており、現在は1丁目から3丁目までがある。2011年 11月末現在で3203世帯(1丁目1,056世帯、2丁目1,357世帯、3丁目790世帯)、7,188人(1 丁目2,277人、2丁目3,034人、3丁目1,877人)22が生活している。 三原は戦前、大道地域に組み込まれており、当時は大道前の原(だいどうまえのはら)と いう名称だった23。当時の大道前の原は30世帯程で、田畑を耕し生計を立てる家がほとんど であったが、村で運営する製糖工場もあった。またこの頃、共心団(現在は共心会という名 称に改める)という、当時の住民達で結成した郷友会も生まれている(1927年頃)。共心団 では当時、講摸合、学事奨励会や懇親会、新年宴会、遠遊会等が盛んに行われ、住民同士が 支えあうと同時に親睦を深めていた。 しかし沖縄戦が始まると、自身の家々を離れ、疎開を余儀なくされている。その後、終戦 となり三原を包括する真和志村は米軍占領化となっており、立ち入り禁止地域に該当したた め、住民らは家へ帰ることができなかった。1946年4月には豊見城へ移動し、8月には小禄、 真和志への住民移動許可が出されたことで続々と村民が自らの地域に戻り、1947年6月には 全ての村民が移動を終えている24。 だが、大道前の原(三原)に戻っても、ほとんどは米軍の燃料、脂類の集積所となってお り、そこでは米兵の厳重な警備の中で怖々しく農作業を行うこととなる。その後、しばらく して軍用地が解放されるも、そこは農耕地の様相をなくした土地となっていたのである。 また、1947年には台風に襲われ、木造建ての多くの家々は吹き飛ばされてしまうが、壊れ た家々に対して住民は組を作り、復旧作業を共同で行っている。そんな頃、他地域から多く の住民が大道前の原に転入してくるのであった25。 1949年1月には大道が人口急増した影響により、新たな区として三原が設立されている26 (三原という名称は当時の大道前の原地域に在住する住民同士で話し合い、「大石原、伊是名
前原、佐久真原」の3つの原名を合わせて三原と命名している)。当時の人口は365人・63世 帯27 で、この時、「地域の生活環境の改善を図るとともに、居住者の親睦と連携を深めるこ と28 」を目的に、三原自治会も発足されている。 1953年には急速な人口増加や、都市化に伴い真和志村は、市に昇格している。その際、市 長となった翁長助静の挨拶は、「真和志市の特異性は、総人口の70%を他市町村からの転入 者が占めていることで、旧来の地元人口と転入人口の比率がこのような実情にあるのを鑑み て痛感することは、出身地の如何を問わず全市民が渾然一体となって、新真和志市の発展興 隆に大和一致の実を挙げて貰いたいことである29 」と述べている。 これは戦前の農村中心であった地域が、戦後、転入者が爆発的に増えたことも重なり、7 割を超す多数派である転入住民と、3割の少数派である地元住民に対して市長は連帯を促し ているのが分かる。 創立5年の1954年には、人口が年間1,000人以上増加し、総勢6,000人を超え20倍近くの人 口増という状況が生じている30。 しかし、1957年には真和志市は那覇市と合併し、4年という短い真和志市としての役割を 終えている。三原に関しても同年、戸籍法が成立し、臨時戸籍(戸籍整備法)が失効したこ とで、元の大道に戻ることとなるが31、1980年9月に三原は、新住居表示の町界町名整理に よって、大道と分離し、再び三原が誕生している32 。その時の人口は9,000名弱、世帯数は約 2,700であった。しかし、1982年の9,056名をピークに徐々に人口は減少し、1998年には、8,000 名を割り始める33。 一方、世帯数に関しては緩やかではあるが、上昇傾向にあり、図1の5年毎の国勢調査か らは人口減少が進む一方で、世帯数が増加している事が分かる。また図2を見ると、三原地 域の生産年齢人口(15~64歳)は徐々に減少傾向にある。また、2000年に老年人口が年少人 口を逆転して老年人口が上昇する一方で、年少人口は減少を続けていることも分かるだろう。 つまり三原地域は少子高齢化の進行が顕著な地域の1つとして挙げられるだろう。 現在、三原の郷友会「共心会」では講摸合、敬老会、遠遊会(ピクニック)等の活動が継 続的に行われている。会員数は73世帯(2006年1月現在)と、ピーク時の92世帯に比べて減 少傾向にある。その点について会長は、共心会80周年誌の中で、「今後、会員の増強に取り 組んでいく必要がある34」と述べている。一方、三原公民館の土地と建物は元々、共心会の ものであったが、現在は自治会に寄付したかたちとなっており、共有財産なるものは残って いない。 次に三原自治会について触れる。先の加入方法の中では、三原自治会は任意加入型自治会 に該当する。活動内容は敬老会、グランドゴルフ、大掃除といった活動から地域内の多くの 外灯維持(電気代)を行っている。そのため、年間3,000円の会費が徴収されている。現在、 自治会加入率は13.1%35 と真和志地区の17.1%よりも低いことが分かる。自治会役員(評議員) は会長含め10名程。定例会議は月1回程度で、下部組織なるものはない。
評議員の多くは仕事を持っており、自治会のパートスタッフ1名が主に会費徴収に回らな くてはならない状況にあり、自治会未加入世帯への勧誘は行えていない状況にある。 また、三原公民館では自治会や共心会活動の他に、空手教室や琉球舞踊、三線教室等の習 い事利用や、那覇市地域相談センターによる介護予防事業等の利用のため公民館ホールの貸 し出しを行っている。 10.事 例 5名の方のオーラル・ヒストリーをここでは見ていくこととする。 ⑴ Aさん(男性) 1940年生・70歳(2011年時点) Aさんは戦前、三原地域で農家を営む家庭の10人兄弟の末っ子として生まれる。三原で高 校生までを過ごし、23歳の時に建築会社に就職する。その後、独学で1級建築士の資格を取 得し、28歳の時に結婚。5名の子どもを授かる。41歳で建築会社を辞め、三原内にある兄の 設計事務所に活動の拠点を移す。その頃から共心会に顔を出し始め、地域住民との交流も始 まる。また、そのことで自治会とも関わりを持つようになる。郷友会、自治会では役員を経 験し、現在は自治会長として地域のために尽力している。 1)遊び(1950年代) (子ども時代は)かけっことか野球したなぁ。野球って言っても紙のボールと、米軍のテ ントで作ったグローブと、そこら辺に落ちてる折れた木がバット代わりだったな。当時はそ こらへんの道路で野球してたな。トラックとかも見たことなかったしな。馬車道だったんだよ。 2)手伝い(1950年代) 親父によく丸元って酒造所に酒を買いにいかされたな。親父は「かけ(売り)してこい。」っ て言うんだ。だから取ってくるだけ。そこは親父の土地を借りてやってたから、行ったら「は いはい、いつものね」って渡してくれた。親父は後から金を払ってたから全く問題はなかっ 1,531 1,408 1,525 1,531 1,322 994 5,111 4,991 4,785 1,175 1,408 1,525 0 1000 2000 3000 4000 5000 6000 1995年 2000年 2005年 15歳未満 (年少人口) 15~64歳未満 (生産年齢人口) 65歳以上 (老年人口) 296,601 309,381 309,722 302,368 303,877 314,577 87,224 97,450 102,585 106,486 116,484 128,834 8,999 8,529 8,543 8,067 7,721 7,383 8,999 8,529 8,543 8,067 7,721 7,383 2,766 2,743 2,884 2,859 2,984 3,070 1000 10000 100000 1981年1986年1991年1996年2001年2006年 那覇市人口 那覇市世帯 三原人口 三原世帯 図1 那覇市三原地域の人口・世帯数の変化 (国勢調査参照より筆者作成) 図2 三原地域における3階層別人口構成 (国勢調査参照より筆者作成)
たな。 3)地域の大人(1950年代) 家はいつも親父が宴会場にしておって、近所の大人達がいつも出入りしていたなぁ。親父 が貸してる土地に住んでた大人達がほとんどだったな。親父は子どもらから注意されても酒 を止めなくて、自分が高校生まで続いたなぁ結局。 そこでよく世話になってたのが、近所に住んでる親父の弟の叔父さんと、従兄弟の兄さん だった。酒を飲みすぎる親父に注意してくれたんだが、最後は一緒に飲んだくれてしまって たなぁ。しかし程良いところで帰ってったよ。 4)スーパー(1980年代) うちの土地にスーパーができるまでは、3つくらい近所に商店があったが、30年前くらい にスーパーができてからは、どんどん無くなっていったな。商店っていっても、大したもん はおいてなかったよ。だからスーパーができて便利になったがなぁ。 5)地域で気になること(2010年代) 子どもが少なくなって寂しい。子ども会の運営が行き届かなくなってきている。子どもが 減っているのも事実なんだが、少ないなりの活かし方がないのかと思うんだが、現在は5班 まで子ども会はあるが、1,2班と3,4,5班合同で行っている。それぞれで行っていけ れば良いと思うんだがなぁ。 6)土地について 三原は借地が多いから、近くにマンション買って他に出てったり、違うとこに一軒家買っ て出ていくさ。地主は土地を手放さない人が多いから。三原には分譲マンションほとんどな いさ。一軒家なんてもっとない。だからアパートばっかりさ。 7)三原区自治公民館の成り立ち 公民館の土地は元々、共心会のもんで、この建物も共心会が建てたもんなんだよ。今は自 治会に建物を提供したかたちになっているがな。 8)自治会活動 年に1度の敬老会とグランドゴルフ。それから大掃除くらいだな。今後は新年会も開きた いと考えている。評議員の皆さんには定期的に集まってもらい定例会を開いているよ。 だが私が自治会長になるまでは、(以前の自治)会長が1人で活動してたし、私が評議員 になった時も名前を貸す程度で集まりなどなかったな。だから当時は「こんなものなのか なぁ」と思った。その前も、自治会が活発な時など全くなかったよ。 ⑵ Bさん(男性) 1929年生・82歳(2011年時点) Bさんは国頭村奥にて3人兄妹の長男として生まれる。高校卒業後は普天間で基地関係の 仕事や、地元の共同売店の仕事等を転々とする。その後、知り合いを頼って那覇の琉球石油
に就職。1956年に母と弟も那覇に来る事となり、三原内に、国頭村出身者が多く住む地域に 家族3人で移り住む事となる。31歳の時、国頭から近所の親戚を頼りに移り住んできた女性 と結婚。 60歳になる頃に家の前で商店を営む妻の伯父が亡くなる。そこでBさんが商店を引き継ぐ こととなる。商店主として妻とも協力しながら充実した日々を送る。しかし、近隣の子ども たちが地域から巣立ったことや、高齢者らが亡くなったり施設入所することで近隣から住民 が減少していくことを身に沁みて感じるようになる。 1)子育て(1960年代) 子どもが小さかった頃は、ここら辺に住む家族らと一緒に車で、東南植物園とか大里公園 も行ったし海にも行ったな。けど子どもらが大きくなってからはそういったのはなくなって いったけどな。 2)道路の舗装(1960年代) 大雨が降ると道が歩けなくなんだよ、泥道だからな。そうすると川の水位も上がって、家 が何度も水浸しになったよ。何回近所の家の畳ひっくり返したか。だからこの辺に住んでる 市議会議員に言って、舗装用の道具を借りれるようにお願いしたんだよ。それで、ここら辺 の住民で協力して、行政の力も借りずにやったんだよ。 3)飲み会(1980年代) 店(商店主)やる前から近所付き合いあったよ。やんばる(国頭村出身者)の人達だけだっ たからやりやすかったよ。商店前のテーブルで毎晩飲み会だったな。となり近所帰ってきた ら飲んでたよ。23時くらいまでかな。5~6人はいたな。親睦摸合ってのもやってたんだよ。 けど、いつの間にか立ち消えてたな。摸合をしたのは1年くらいだったかな。 4)売れていた商店(1990年代) 野菜とか豆腐とかそうめん、米なんかも売れてたな。食料品は売れてたかな。米は年寄り の家に配達していたしな。今も2軒は届けてんだよ。後、前は魚商も来てて、店の台所で魚 をさばいたりもしてたよ。 当時は年寄りが多かったから牛乳とかは今の何倍も仕入れてたが、それでも売り切れるこ とがあったな。野菜や卵とかも多く仕入れて店先に出してたよ。 5)地域の変化(2000年代) 商店始めた時は近所に年寄りも多くて、歩いて来られることもあったから、利用者は多かっ たな。年寄りが店先に集まって、ゆんたく(会話)してたんだよ。 けど今じゃ、そこの年寄り達も亡くなったり施設に入ったりでな。そこの駐車場も昔は家 だったんだよ。けど、いなくなって全部駐車場になっちまった。あの駐車場に4.5世帯は入っ てたんじゃないか。人によっちゃ、大家が駐車場にするってんで、出ていかなきゃいけない のもいただろうし。俺だって(家の土地を借りてる身だから)出て行かなきゃいけなくなる 時がくるかもしれねぇんだよ。
子どもも昔と比べると、かなり減ったな。そこにマンションが出来たから、なんとか子ど ももいるが、マンションンが建たなければ子どもはほとんどいなかっただろうな。当時、小 学校は1学年6クラスくらいあったんだよ(現在は3クラス)。この商店前の通りも通学路 として、子どもがたくさんで賑やかだったんだけどな。今じゃあ数人だよ。見ての通り、人 が集まらん老人通りよ。人がおらんのだよ。人がいなくなったのは10年くらい前からかな。 年寄りもいなくなった。(当時を振り返り)夢物語よ。 6)自治会加入について 前の自治会長が(小学校の)交通安全の旗振りで知り合いだったんだよ。そんで自治会に 入ったんだよ。けど、1度敬老会行ったんだけど打ち解けられないわけよ。全部地元の人だっ たよ。地元の人同士だから昔の付き合いがあるよな。2人知ってる人いたけど、挨拶程度し かしない仲だったよ。それっきりその後は参加していないな。知り合いがいれば参加しても 良かったんだが。 結局、三原と言ってもとなり近所だけで三原全体っていうのはないわな。みんな自分の生 活だけだからな。それに、自治会って言ってもほとんど地元の人が中心さねぇ。けど寄留民 (転入者)の方が(三原地域には)多いんだけどな。 ⑶ Cさん(男性) 1947年生・64歳(2011年時点) Cさんは本島南部で生まれるが、父が那覇出身ということもあり4歳の時に三原のとなり 街に家族で越してくる。その2年後には三原地域に引っ越し、高校までは三原から通ってい る。学生時代は柔道、空手などの武道に打ち込み心身を鍛え上げる。 大学を東京で過ごした後、沖縄に戻る。いくつかの仕事を転々とした後、29歳の時に結婚 して3人の男の子を儲ける。その後、実家そばの三原のアパートで暮らし、両親が他地域に 移った後は、両親が住んでいた実家に移り住むこととなる。 仕事は最終的に基地関係に就き、そこでは米軍兵士らに空手を教えていたことも。その間、 自身が暮らす通り会の会長も担っている。退職した現在は、三原地域内に立ち上げた空手道 場の師範として、子どもから大人まで幅広く指導を行い、充実した日々を過ごす一方で、三 原自治会評議員としても活動している。 1) 風呂屋(1960年代) 当時、今の給油所の奥にお風呂屋さんがあって小学生の時は行ってましたねぇ。家にも五 右衛門風呂があったから、週1回行けば良かったんじゃないかなぁ。風呂屋が情報交換の場 になってましたねぇ。いつからか、なくなったんですよねぇ。 2)広場(1960年代) 昔は広場もたくさんあってですねぇ、畑とか小川もあって。草原みたいなとこもあった ねぇ。友達とよく遊びましたね。大人のコミュニケーションの機会にもなっていたと思うん
だよねぇ。川なんか今は埋め立てたりして無いからねぇ。 (現在は)土地問題とか色々難しい問題はあるからなんとも言えんが、空き地を子どもや 年寄りが集まれる広場にできたら良いなぁ。憩いの場ですねぇ。小川とか飲み物も飲める屋 根のある場所にねぇ。 3)雑貨店 雑貨店が現在も2軒残ってる店がありますねぇ。50年以上ありますねぇ。1軒のおばあちゃ んは90歳以上になるかなぁ。この人は暗算が凄いんですよ。誰かがケチつけたりすると、怒 鳴って帰すんですよ。こういう人が情報握ってるんですよね。誰々が赤ちゃん生まれたとか。 4)地域の大人との関わり(1960年代) どんな悪いことでもすると地域の全ての大人が注意してましたよ。悪い事をすると大人の 目が怖かったですねぇ。この人に見つかったらやばいなとか。こんな存在が良かったんだろ うなぁ。 家のとなりのおじさんで、この人は父親と同じくらいの年齢なんですが、とっても優しく て自分の親みたいに慕っていましたよ。私が大人になって一緒に飲みにいったこともありま す。私の親が気づかないところで私のことを配慮してくれていたと思いますねぇ。その方は、 もう亡くなったんですけど地域で生まれて地域で死ぬ、そういう人が地域にいるってのは幸 せなことだと思いますねぇ。 5)現在の大人の姿勢 原則として他人に干渉しなくなる。子どもが悪いことをしても他人の大人には言われたく ないと親も思っている。子どもが煙草を吸ってても、注意しない大人もいるし、学校の先生 でも他の学校の生徒は注意しないこともあるからねぇ。昔は地域のみんなで(子どもを)育 ててたけど都会化する難しさだなぁ。 6)通り会会長としての活動 通り会の街灯代(会費)集めるくらいかなぁ。後は、草刈りを集まってしたりしてました ねぇ。昔は那覇市から材料借りてきて、近所の若い連中集めてローラーで歩道整備をやりま したねぇ。 7)住民の温度差 通り会のお年寄りから、「食事会してほしい」 って言われたんですけど、地方からでてき た人からは、「田舎の閉鎖性とか右が決めたら右になるとかが嫌で那覇にでてきたのに、ど うして縛られなきゃいけないんだ」って言われたりもして。それから会費は出すが一切関わ りたくない、喋りたくもないという人もいたりして、困りましたねぇ。結局、それをまとめ るのは出来なかったですねぇ。後、親世代は入っていたけど、子ども世代は通り会に入りた くないってのもいて。困りましたねぇ。 8)自治会への統合 私が(通り会の) 会長になった時は、32世帯だったんですが、自治会に入る(統合)とき
には24世帯くらいになってましたね。今なんて10世帯くらいじゃないかな。家が老朽化して、 立て替えようとしても、消防法にひっかかって新築に出来ないんですよ。しかし、家を取り 壊して空き地になっても雑草ができるし、そしたら不法投棄されたりもしましたねぇ。 自治会に入るきっかけは、通り会で小学生のいる親から、「自治会には子ども会があるから、 通り会でも自治会に入りませんか」って言われたんです。通り会の規模も小さくなってたし、 自治会と一緒にしてもらうのが良いかと思ってそうしたんです。でも、この時にも通り会の 1部の方からは「会費は払うが(自治会と)、一切関わりたくない」って方もいましたよ。 ですが、私自身も自治会に入るまでは、自治会と関わったこともなければ、自治会の存在 も知りませんでしたね。自分の地域(通り会)だけでしたねぇ。 9)少子高齢化(2010年代) 子ども達がいないのは確か。毎日のように子どもの声が聞こえていたが、聞く事自体な い。前は子どもの声がうるさいくらいあったが、今はないなぁ。老人がカート引く音くらい ですねぇ。老人は昔から多かったと思いますがねぇ。子どもの声はうるさくても癒されます よねぇ。子どもの声が聞こえないと、老人にとっては孤独感感じるんだと思いますねぇ。 10)地域に対する意識 私の子ども、孫たちの世代から意識が違う気がする。「地域に関わりたくない」、「地域の ためになんとか」っていうのはなかなか難しいと思いますねぇ。理由は様々あるだろうけど、 夜働いている人は昼間寝ていてコミュニケーションが取りづらいし。都会化の影響なんだろ うなぁ。仕事のためにコミュニケーションが遮断されてしまうんだよな。 ⑷ Dさん(女性) 1957年生・54歳(2011年時点) Dさんは三原の隣地域で生まれ育つ。三原には父の会社があり、遊び場として父の会社の 駐車場でよく近所の子ども達と遊んでいた。そういったこともあり、三原には幼少時代から 親しみを感じていた。県内の高校を卒業後、東京の洋裁専門学校へ通う。卒業後は沖縄へ戻 り、那覇市内の宝石店で勤める。結婚後には父の経営する三原のマンションに移り住み、3 人の子どもを生み育てている。 Dさんは長男が小学生になったことをきっかけに、三原内にある子ども会と関わり始める。 子どもたちが大きくなった現在でも、子ども会のサポート、助言役として関わり続けている。 他にも高校PTA、三原自治会評議員等、様々な地域活動に現在も携わっている。 1)遊び場(1960年代) 父の会社が三原にあったので、よく三原では遊んでいました。今の住宅街になっている多 くの場所は、当時は川や原っぱでした。そこで花摘みをしたり走り回ったり、水遊びをして 過ごしていましたね。けど、よく遊んでいた遊び場は親の会社の駐車場とか自宅の庭で、近 所の子ども達と走り回って遊んでいた記憶がありますね。小さい子から、大きい子まで年齢
に関係なく皆で遊んでいましたよ。 2)母親同士(1960年代) 子どもの頃、友人たちと私の母親同士が仲良くて、母親同士が順番にといった感じで子 ども達をまとめて近所の映画館に連れていってくれたり、国際通り近辺のデパートに連れて いってくれましたねぇ。 3)友人 三原に住んでいた子どもの頃からの友人はほとんどいなくなりましたねぇ。結婚とかもあ るんだろうけど、元々住んでいた家がアパートとか借家で、ほとんど引っ越してったわ。他 の所で家を建てたり、マンションに引っ越してったんでしょうね。だから昔からの知り合い は、三原にはほとんどいないんです。 4)子ども会に関わる(1990年代) 6年生の親が子ども会の運営を行うっていう流れが三原にはあって、長男が6年生になっ た時に、子ども会と関わり始めたんです。それまでは子ども会主催のラジオ体操に長男と参 加するくらいだったんですけどね。当時は三原に15くらいの班(子ども会)があったんです。 それぞれに「~会」というような名前が付いていたんですよ(現在では1班、2班と呼ぶ)。 今は子どもが減ってしまったことで5班に合併して活動していますが。 5)子ども会と自治会のつながり(2000年代) 長男が通う小学校には当時、「子ども連絡協議会」というものがあって、それぞれの地域 の子ども会が一同を介して「もちつき大会」、「球技大会」など一緒に行っていました。1990 年頃には小学校に1学年8クラスで全校生徒1,000名くらいは、いたんですよ(現在は1学 年3クラス)。 けど、子どもが減ったり、協議会を中心で運営する人が引退してしまうと、連絡協議会は なくなってしまいました。そういったことが影響して、三原のこども会の活動も停滞してし まうんです。それを危惧した当時の小学校の校長長先生や先生方が、学校の中で子ども会を 復活させて、それを地域に返していこうっていう活動を始めたんです。それで、校長先生は 三原自治会の総会やパトロールにも積極的に関わりをもってくださったりして、私自身もそ こから三原自治会と関わりを持つようになったんです。 私は当時、子ども会には関わっていたんですが、自治会とは関わる機会がなくって。そも そも自治会の存在も知らなかったんです。ですけど、校長先生が地域に出ていってくれたこ とで、それまで小学校の親同士の繋がりのみだったのが、小学校の繋がり以外で、三原の方々 とも繋がれるようになったんです。 子ども会と自治会が繋がり始めてから、夏休みに小学校でやっているプールの監視役に、 自治会会長や評議員の方々も協力してくれるようになったんです。プールの保険代も今まで は各世帯に徴収していたんですけど、当時の自治会長が配慮してくださって、自治会に加入 しない世帯の子どもでも三原の子どもは、自治会が負担してプールの保険代を払ってくれる
ことにしてくださったんです。 他にも子ども会でやってるラジオ体操への協力だったり、子ども会として(沖縄市)こど もの国への遠足にも自治会の皆さんが引率してくれました。そういったことがきっかけで、 当時の自治会長から子ども会の代表ということで、自治会の評議員になることになったんで す。 6)親の変化 子ども会で言うと、何かにつけて参加しない親が増えてきているように思います。昔は「や らなきゃいけない」だったのが、今は「やらなくてもいいよね」という雰囲気があるような 気がするんです。 昔は忙しい中でも、合間を縫って子ども会の活動に参加していたけれど、様々なことを理 由にして、参加しなくなるような親が増えたように感じますね。現在子ども会で活動中の親 も、自分の子どもの代までで「後のことは知りません」と言うようなはっきりとした線引き をしている親の考えも感じます。 だから次の代への引き継ぎはあまり意識されていないように思います。どうしてそうなる のかはよく分かりません。難しいですよねぇ。 でも、私達自身も若い時は上の世代の親たちから同じように思われていたのかもしれない し、自分自身、周りが見えていなかった気もするんです。ずっとこういう流れはあるのかも しれないですね。そう考えると面白いなぁと思いますねぇ。それに前年度まで行っていた子 ども会の活動が全てではないし、それを現役の親が前年度までのものを意識し過ぎないよう、 昔から関わっている親が現在の子ども会に多すぎないことも大切だと思いますけどね。 7)自治会(2010年代) まだ、自治会が地域のものになっていない気がするんですよね。私自身、自治会を知った のは3番目の子どもの時ですからね。3人の子ども達は三原公民館の目の前の幼稚園に通っ ていたんですよ。公民館の存在は知っていましたけども、自治会の存在は知らなかったです ね。 ⑸ Eさん 女性 1932年生・79歳(2011年時点) Eさんは沖縄県内の離島にて5人姉妹の3番目として生まれ、終戦後の中学卒業まで離島 で家族と生活する。その後、看護師になるため、親元を離れ、沖縄本島に1人で渡り、看護 学校に入学する。看護学校卒業後は看護師として県内の病院数か所で働いた後、沖縄整肢療 護園にて定年退職まで働いている。1人身であったこともあり、妹の娘を養女として迎え入 れている(養女は現在、結婚して東京で暮らしている)。 居住地は職場の寮などを転々とした後、離島から越してきた両親が住む那覇市寄宮地域で、 両親と共におよそ30年間暮らすこととなる。その後、両親の他界や借地であったことにより
自宅が立ち退きとなり、10年程前に三原に引っ越してくる。 最近までは、趣味の英語を習いに教会に出向くなど行っていたが、病気や持病の腰痛悪化 も重なり、現在は週2回のリハビリ以外ではあまり外出ができていない。 1)地域に関心をもつ(2000年代) (地域に関心をもったのは)仕事を定年退職して、老人になってからですよ。三原に引っ 越して、老人の集まりないかなぁ、挨拶したいなと思いましたよ。よその地域きて友達欲し かったんです。 2)転入者の実感 近所の方と関わりがなくて寂しいです。おとなりも全くの他人だもの。寄宮に住んでる頃 は(近所同士)声掛け合ってたわよ。食事だって一緒に食べたこともあったし。何日か見か けないと「気分悪いのか」って声もかけてくれたわ。 三原に来たら、まるで外国に来たみたいよ。地域でもっと心と心を合わせる必要を感じる わ。寄宮にいる頃は仕事ばっかりしてるから自治会にも入ってなかったけど、こっち来た時 は自治会の活動とか楽しみにしてたのよ。 けどいくら経っても、入会の誘いに来ないし、だから自治会なんてないと思ってたのよ(筆 者を通じて自治会の存在を知る)。今じゃあ活動に参加する体力がないわ。 3)今の暮らしで良いと思うこと 近くにスーパーがあることくらい。足腰の状態が良い時は自分で歩いて買い物に行くわ。 後、介護制度が良いなぁって思う事くらいかしら。ヘルパーが週2回来てくれるのが助かる わ。でなきゃ生きられないですもの。 4)今の暮らしで不安なこと 突然死ぬこと。1人暮らしの突然死の不安よ。だから今、老人施設にも申し込んでるわ。 けど建設中で1年半は掛かるわ。自分の健康しか考えられないわ、人の迷惑がかからないよ うに。 5)理想の地域 おとなりとの密なつき合い。もうそれしかない。気遣ってくれるようなつき合いがしたい。 「あそこの家、今日出てくるの遅いけど大丈夫かなぁ」って気にかけてくれるようなおつき 合い。後、「今度、自治会で大掃除あるけど一緒に行かない」って声かけ合えるような近所 になってほしい。そんな人がいたら良いと思うわ。 11.考 察 5名の住民のオーラル・ヒストリーを通じて抽出された、住民が抱くコミュニティへの思 いやコミュニティの変化について考察していくこととする。
⑴ 過去のコミュニティ ここでは住民が、過去の暮らしにおいてコミュニティとどのように付き合ってきたのかと 同時にコミュニティとは住民にとってどのような存在であったのかを考察していくこととす る。 1)複数のコミュニティ Eさん以外の方々は長年、三原でそれぞれが関わるコミュニティの中で、支えあいながら 暮らしてきていることが分かる。 また、幼少時代から三原で生活してきたAさん、Cさん、Dさんに至っては血縁、地縁関 係の中で、親以外の大人も含めた多くの眼差しの中で育っていることも見えてくる。一方、 Bさんは、近隣で共に暮らす同郷出身者の中で、支えあいながら生活を営んできたことが分 かる。これらを踏まえ、三原には複数のコミュニティが活き活きと存在していたことが見え てくる。 また4名に共通しているのは、当時のコミュニティに対してポジティブなイメージをもっ ているということであった。 2)様々な交流空間 子ども時代は道路や空き地、川や原っぱ等、地域にある様々な空間が「遊び場」として展 開されていた事が分かる。 また大人になると、風呂屋や商店が交流空間となり、地域情報を交換する場になっていた ことも分かる。これらの空間は地域内に存在する住民の共有財産であったとも捉えることが できるかもしれない。 3)コミュニティからの贈与 オーラル・ヒストリーを通じ、三原地域に何十年と長きに渡って生活を営んできた住民は、 それぞれが関わるコミュニティを通じ、苦労や大変な経験もしている一方で、自身の支え(助 け)にもなっていることが分かり、住民が生きて行く上で必要不可欠な存在であったことを 感じさせる。 それは個人がコミュニティに対して、何かを寄与する以上に、コミュニティから得るもの が大きかったということが言えるのかもしれない。鳥越はこれらに関して「有用コミュニティ36」 と表現し、コミュニティとは個々人がコミュニティに対して何かを与える(奉仕)だけでは なく、コミュニティからも何かを個々人に与えてくれる存在であると述べている。 そういった意味では、聞き取りを行った人々は、コミュニティからあたたかい贈物をもらっ ており、それをコミュニティにお返しする姿が現在の活動等に反映されているようにも感じ とれるのである。言い換えれば、互酬性の関係が生まれているとも言えるかもしれない。 以上を踏まえると、過去のコミュニティは、住民同士が支えあいながら暮らしを営んでき ており、豊かなコミュニティがそこには存在したと考察するのである。
⑵ 住民視点からみるコミュニティの変化 コミュニティの変化を考察していくにあたり、まずは5名が感じるコミュニティの変化や 現状について、それぞれ整理していく。 1)Aさん Aさんは自治会長として、子どもの減少とそれに伴った子ども会の運営が行き届かなく なっていることに寂しさを感じている。 また、自治会活動については、自身が自治会長になる以前から今日まで活発な活動が行わ れていないことについても述べている。 一方、三原で設計事務所を営む建築士の視点から、三原には借地が多いことを指摘してい る。さらに地主が土地を手放さないことで、土地や家を購入したい住民は、必然的に三原外 に出て行かざるを得ないとも話している。 2)Bさん Bさんは、子育てや道路舗装の協力から、飲み会等、同郷者のつながりの中で支えあいな がら暮らしを営んできた。また、商店主としても近隣住民と交流を重ねてきた。 しかし近年、少子高齢化が進行を続ける中で、近隣から住民が減っていくことを目の当た りにすると同時に、商店前を通学路として利用していた子ども達が減ってきていることを実 感する。また住宅であった土地も人口減少と借地であること等が影響して、駐車場に変化し ていくことに寂しさを感じている。 そんな中、当時の自治会長に声をかけてもらうことで自治会に加入し、同郷者以外の地域 住民との交流を試みている。しかし、地元出身者の多い自治会で、すでに出来上がった関係 の中に入ることへの難しさを感じ、その後は足が遠のいてしまっている。 3)Cさん Cさんは子ども時代、地域の大人達から見守られて育ってきたことを振り返り、感謝して いる一方で現在、地域の多くの大人が子どもに対して無関心になっていると感じている。 また、通り会会長として活動をする中で、住民同士のつながりや交流を求める声がある一 方で、それを強く拒否する声もあり、その間で葛藤を抱えていたことも窺える。さらに、通 り会の規模が縮小していく中で、自治会に統合することとなるが、その際にも、抵抗を示す 住民がいたことも見えてくる。 しかし、Cさん自身も知り合いから自治会の存在を聞くまでは自治会の存在を知らず、自 身の地域(通り会)だけの関わりであったことも述べている。 4)Dさん Dさんは子ども会活動を通じて、三原内にあった複数の子ども会が、少子化により規模が 縮小、統合していることを実感する。そんな中で、近隣小学校校長の行動により、子ども会 の復活や自治会との連携が生まれ、子ども会が再び活気づいていることが分かる。しかし、 少子化のさらなる進行や、親自身の子ども会への関わる意識の低下などにより、再び子ども
会活動が衰退してきていることを感じている。 また、自治会の評議員も務めるDさんだが、自治会の存在が地域住民全体に浸透していな いのではないかと述べている。さらに、Dさんは自身が子ども時代からの三原の友人たちは 借家住まいをしている人が多く、大人になると、ほとんどの友人が出て行ったとも話してい る。 5)Eさん Eさんは三原に知人や親戚がいない中、1人で転入し、地域住民とのつながりを期待する も、自治会からの勧誘はなく、近所との接点も生まれず、孤独感を抱いて生活していること が分かる。 また、持病の悪化により、三原外での活動も制限せざるえない状況にあり、楽しみとなっ ているのは、近所のスーパーへの買い物と週2回、ヘルパーが来訪することのみになっている。 ⑶ コミュニティの変貌 5名の住民が感じたコミュニティの変化や現状を踏まえ、ここからはコミュニティの変貌 について考察していく。 1)少子高齢化 聞き取りを行った複数の住民達は、地域の中で子ども達が減少していくことを強く実感し ている。そして共通しているのは、少子化が進んでいる事で、地域に活気が失われ、「寂しい」 という思いを抱いているということである。これは単純に子どもが減少しているといった数 字上の問題だけでなく、住民の思いも伴った問題であることがオーラル・ヒストリーからは 感じとれる。 2)交流空間の減少 当時、原っぱや空き地だった場所が都市化により宅地となり、住民同士が交流する機会が 減少している。また、風呂屋や商店も住民ニーズが変化した事や、スーパー等の代替機能が 生まれたことで必要性が低下し、減少していることが分かる。 さらに、宅地となった場所でさえ、借家の多さが関係して地主の考え方や地主自身の高齢 化等で管理できずに、駐車場になるといった事態が生じており、そのことで家を退去せざる 得ない転入住民がいることも分かってくる。 これには住民同士が交流できる空間が減少していることに留まらず、持ち家でないことに より住民自身、三原で生活を続けられないといった切実な問題も見えてくる。 3)意識変化 長きに渡り、三原で暮らしを営んできた人々は現在、多くの住民のコミュニティに対する 考え方が変化していることを強く感じている。 総務省では地域社会の現状として、「価値観の多様化、プライバシー意識の高まり、地域 への愛着・帰属意識の低下等により、隣近所とのつきあいを好まない人が増加している37 」
と述べ、これらを、「近所付き合いの忌避」と表現しており、オーラル・ヒストリーを行っ た住民の実感とも結びついていると言えるだろう。 4) コミュニティの衰退 住民の意識変化、交流空間の減少等による都市化の進行や少子高齢化の影響によって、地 域内に複数存在していたコミュニティは縮小、もしくは統合、さらには消滅するなどしてい る状況がオーラル・ヒストリーからは見えてくる。 これらを踏まえ三原地域のコミュニティの変貌、さらに言えば沖縄都市社会(主には那覇 地区)におけるコミュニティの変貌とは、「コミュニティの衰退」を意味すると考える。 ⑷ コミュニティの課題 ここではコミュニティの変貌を踏まえつつ、現在のコミュニティの課題について考えてい く。 1)自治会の存在が地域全体に浸透していない 本論を通じ、三原に存在する、もしくは過去に存在したコミュニティは複数あり、豊かな コミュニティであったことが明らかとなる一方で、それぞれのコミュニティに接点のないこ とが分かってくる。具体的には自治会と子ども会、自治会と通り会といったものである。 現在では、子ども会も通り会も自治会に繋がっているが、長い間、三原に在住している(転 入)住民でさえ、自治会の存在を知らなかったという共通の声が挙げられている。これは那 覇市の任意加入型自治会の特徴と類似している(しかし、三原には共有財産はない)。 一方、自治会運営においてパート職員が1人で会費を徴収しているといった人手不足の現 状や、役員同士の集まりや話し合いがほとんどなされていなかったことも明らかになる。こ れらは自治会が組織化されていないということが言えるだろうし、自治会の存在が多くの住 民に知られていないことや、自治会加入率が低いこととも何らか関係しているように思う。 そして、共有財産のない地域であっても自治会運営の組織化、体系化がなされていない場合 があるということも見えてくるのである。 過去に、それぞれのコミュニティが豊かな時代は個々に支えあうことで良かっただろう。 しかし、衰退してきている昨今、コミュニティ同士に接点のないことは、地域の中で大きな 問題として表出してきているように思う。 今後は自治会を起点にして、地域内に存在する他のコミュニティと繋がっていくことが望 まれると考える。 一方で、地域の中で自治会に代わるようなコミュニティ構築のあり方や新しいつながりを 模索していくことも重要になってくるであろう。 2)自治会規模が大きい 自治会の存在が地域全体に浸透していないといった課題が改めて見えてきた一方で、3,000 世帯7,000人以上の住民が生活する地域を、1つの自治会が下部組織もなく取りまとめるの
は非常に困難なように思う。 「町内会・自治会など近隣住民組織に関する全国調査結果38 」では、全国における1自治会 の全世帯数は、100世帯以下が46.0%と最も高い。1,001世帯以上の場合、4.4%と100世帯以 下と大きな開きがある。370万人が暮らす大都市横浜においても、1自治会における平均全 世帯数(18区中)は、約430世帯39 と3,000世帯以上の三原とは大きな違いである。 また、三原自治会には下部組織なるものが存在していないが、全国的には下部組織のない 自治会は全体の0.8%40と低い状況にある(最も高いのは下部組織「10以下」で26.3%)。 これら自治会の規模が大きく、さらに自治会に下部組織がない等、組織化されていない状 況では、オーラル・ヒストリーから聞き取りを行った住民達が望む自治会の存在を多くの住 民に周知することや、住民同士の顔が見える関係を構築することは難しいように思う。 それには、自治会規模をどのように捉えなおすのかということ、また現在の自治会規模の ままであるならば、下部組織を丁寧に構築、マネジメントしていくことは必要不可欠なこと のように思う。 例えば、1自治会の中でもエリアを細分化して、複数の班をつくり顔の見えるような近所 同士の関係の中で、連携していくことが考えられる。また、班を取りまとめるリーダーが役 員を担うなどして組織化し、全ての住民に対しての勧誘活動、さらには自治会活動への参加 の促し等、住民誰もに「開かれた自治会」となることが望まれるのではないだろうか。 一方、他の自治会と連携、支えあうことも重要になってくるであろう。横浜市では、地区 連合町内会といって各単位の自治会町内会長を中心に組織し、自治会同士の繋がりを模索し ている。横浜市町内会連合会のホームページには、「今日の地域活動では、あらゆる分野に おいて、区域を越えた広域的な取り組みが必要となることが少なくありません。連合組織で の協力が必要です。41」と、他の自治会との連携の必要性について触れている。これらもまた、 コミュニティを維持、機能させていく一助になると言えるだろう。 ⑸ コミュニティの可能性 ここでは、本論を通じて見えてきたコミュニティの可能性について考察していくこととす る。 1)つなぎ役 Dさんは子ども会活動が衰退していく中、自治会と繋がったことで、自治会からのサポー トが生まれ、活動を維持していく事が可能になっている。これには、第3者である小学校校 長らが、接点のない子ども会と自治会の間を取り持ち、接点を作ったことが大きいだろう。 この時は小学校校長が「つなぎ役」として、大きな役割を果たしたと言えるが、学校等の公 的機関や福祉機関に留まらず、住民同士においても「つなぎ役」は十分、担う事ができると 考える。 しかし、本論で見てきたように少子高齢化の進行や自治会の人手・人材不足、自治会組織
の未発達等を踏まえると、地域内の住民同士の力だけでは難しい現状にあると考える。そこ で、地域外から地域内に働きかけることの出来る存在(行政や社会福祉協議会、NPOなど) が「つなぎ役」になることが必要になるように思う。その際には、地域内の住民が地域外の 存在を受け入れる姿勢や、共に協働する意識づくりも求められるだろう。 2)地域の大人 オーラル・ヒストリーで聞き取り行い、現在、地域活動を担っている人々の共通点は、子 ども時代に家族や友人関係だけでなく、「地域の大人」との関わりがあったということだろう。 それは豊かな地縁の中で育まれてきたとも言える。また、自らが大人になると、三原で生活 を続ける一方、自身も「地域の大人」となり、子ども達を見守る側になっている。 そういった意味で子ども時代に、家族以外の地域の大人と関わる機会があることは、コミュ ニティを維持、発展させていく上で重要だと言えるだろう。 おわりに 本論を通じ、強く感じたことは、長きに渡り三原で生活をする住民は、過去のコミュニティ に対して、ポジティブな印象をもっていると言うことである。逆に、現在のコミュニティに 対しては、ネガティブな印象をもっていたり、少子高齢化を寂しいと感じていることも見え てきた。 しかし、過去のコミュニティも決して万能だったわけではないだろう。強いつながりがか えって、住民自身を苦しめていたこともあるだろう。また、少子高齢化が今後さらに進行し、 コミュニティが変化し続ける昨今において、過去のコミュニティをそのまま汎用させること はできないだろう。そのため、現在の地域状況を踏まえながら、これからのコミュニティの 可能性を模索していく必要があることを強く実感するのである。 今回、オーラル・ヒストリーを通じて過去から現在までのコミュニティの変貌を明らかに してきたが、まちづくりを検討していく上で、多くの住民から現在のコミュニティに対する 思いや、未来への展望を把握していくことも同時に必要であることを痛感した。それは、住 民1人1人の思いが反映されるようなまちづくりでないと、「真のまちづくり」にはならな いからである。それらは次回の宿題としたい。 おわりに、聞き取り調査に協力いただいた住民の方々と三原自治会に感謝と敬意を表しま す。 注 1 後藤春彦・佐久間康富・田口太郎「まちづくりオーラル・ヒストリー」(2005)水曜社 6頁 2 八尾祥平「1960年代以降の沖縄における地域社会の変化~ひとりの女性のオーラル・ヒストリー を通して~」琉球・沖縄研究1号(2007)112-133頁 3 那覇市HP「統計情報」 2011年10月末現在