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文学部比較文化学科 金子菜津美 音楽から見るアフロ アメリカンの歴史と文化 目次 はじめに第一章アフロ アメリカンの人種差別の歴史第一節奴隷制度の始まり第二節アメリカの独立とアフロ アメリカンたちの抵抗第三節南北戦争から奴隷制度の廃止 第二章アメリカにおける差別に抵抗した音楽第一節

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文学部 比較文化学科 21314030 金子菜津美

音楽から見るアフロ・アメリカンの歴史と文化

目次

はじめに 第一章 アフロ・アメリカンの人種差別の歴史 第一節 奴隷制度の始まり 第二節 アメリカの独立とアフロ・アメリカンたちの抵抗 第三節 南北戦争から奴隷制度の廃止 第二章 アメリカにおける差別に抵抗した音楽 第一節 スピリチュアル、ゴスペル 第二節 ブルース 第三節 ラグタイムとジャズ 第三章 19 世紀以降のアメリカ社会と音楽 第一節 終わらない差別と奇妙な果実 第二節 公民権運動と社会現象 第三節 アフロ・アメリカンの平等への道 おわりに 脚注 参考文献

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はじめに

現在私たちの生活の中に日常的に組み込まれている音楽は、趣味や娯楽、時には仕事な ど人それぞれの関わり方で欠かせない存在となっている。筆者も音楽経験があったことと 日常的に様々なジャンルの音楽を聴くことが多く、音楽はとても身近なものである。 たくさんの音楽ジャンルがある中で、ヒップホップやロック・ミュージック、またジャ ズ・ミュージックなどの日本でも馴染み深いものはアメリカから発信され、これらは「ア メリカン・ミュージック」や「ブラック・ミュージック(黒人音楽)」と呼ばれる。1私た ちが日常的に娯楽として親しんでいる音楽の原点は、アメリカ音楽史上で見ると、17 世 紀にアフリカからアメリカにやってきたアフロ・アメリカンたちによって作り出され発展 し続けてきたことが明らかになる。アメリカにおいて、なぜアフリカ人が作り出した音楽 が存在したのか。それは当時のアメリカでは産業の労働力として、アフリカ人が運ばれ奴 隷としてアメリカに身を置いていたからであった。奴隷制時代から近代まで、アフロ・ア メリカンたちは人種の違いによって白人から優劣をつけられ、残酷な差別を受けてきた。 それは約300 年前という現在から遠くはない時代に起こっていた事実である。 そこで当時アフロ・アメリカンたちが白人から労働を強いられていた、毎日の辛い生活 の様子や日頃の感情を音楽に乗せて歌っていた「スピリチュアル」や「ゴスペル」が生ま れ、様々な要素が組み込まれた結果、現代の音楽ジャンルにまで発展していったことがわ かった。2 また、筆者が日頃関心を持っている音楽と、アメリカにおけるアフロ・アメリカンの歴 史は一見無関係に取れるが、時代を追っていくとその同時期に広まっていった音楽の意味 合いと、歴史的な出来事が深く結びついていることが明らかになった。大島商船高等専門 学校の石田依子氏著の『「抵抗」と「解放」の音楽-ジャズの中の黒人抵抗史−』では、 「黒人音楽はコミュニティーの集団意識を報知する術であり、彼らの日々の生活に浸透し ていた。音楽は黒人の社会進出において中心的な役割を担ってきたのである。」3と述べら れている。つまり、アフロ・アメリカンたちにとって音楽とは、彼らが行きていく上で現 在の私たち以上に欠かせない存在となっていたと考えられるし、今のアメリカ社会や、世 界中にまで大きな影響を与えたと言える。 この音楽とアメリカ社会の関連性について考えるためには、それぞれの歴史を周知して おかなければならない。そこで本論文の第一章ではアメリカ社会の主な人種にまつわる歴

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史に触れていく。アフロ・アメリカンの歴史は 1619 年、アフリカから奴隷船によって運 ばれてやってきた 20 人のアフリカ人から始まった。アメリカ北部と南部はそれぞれイギ リスの植民地となり、特に南部では綿花などを栽培するための労働者が必要だったため、 労働力を獲得するために黒人奴隷制度が開始した。その後、奴隷制に対する反乱が各地で 起こり、やがて 1861 年にはアメリカにおいて過去最大の死者数を出したとされる南北戦 争が起こる。4これがきっかけとなり、当時の第16 代アメリカ大統領エイブラハム・リン カーン(Abraham Lincoln、1809〜1965)によって奴隷制度は廃止された。しかし解放され 自由人となった彼らに待っていたのは仕事も家もない状態の、貧困に苦しむ生活であっ た。また南北戦争が終結したあと、白人からの人種差別は過激化しアフロ・アメリカンへ の残酷なリンチが多発する。奴隷制度が廃止されたにもかかわらず、彼らへの差別は消滅 することなく現代まで続いた。 全国民の自由と平等をうたう憲法がありながら、なぜアフロ・アメリカンたちは長い年 月の間、白人からの差別で苦しまなくてはならなかったのか。これを明確にし、奴隷制度 から南北戦争を経て奴隷制度が廃止され、その後にアフロ・アメリカンたちがおかれた状 況を明らかにする。 第二章では、次々と新しいジャンルが展開されてきた音楽について触れる。上記で述べ た通り、数ある音楽ジャンルの中で多くのものがアメリカ発祥であり、最も初期に生まれ たのは1865 年頃までに浸透したとされる「スピルチュアル」である。アフリカからやっ てきた彼らが楽器などのモノを必要とせずに自らの体だけで体現することができる音楽と いう文化を保ち続けたことから始まる。これに白人からのキリスト教の影響を受け、その 要素が加わった「ゴスペル」へと発展し、神の存在を信じながら天国を夢見て日常を過ご そう、というような曲が多く歌われた。5 次に奴隷解放後に広まったとされる「ブルース」は、正確な年代は不明とされるもの の、どん底の時代と言われた南北戦争後に多く歌われた。彼らが自由人となった際、その 反動として南部では白人によるリンチが激増、さらには州ごとにアフロ・アメリカンを隔 てる州法が次々と成立した時代に誕生する。第一章で取り上げるように、当時アフロ・ア メリカンたちは奴隷から自由の身となるものの、生活の術もなく家族や家全てを失い、ま たしても辛い生活を強いられる。このような彼らの生活環境で生まれた感情や叫びや悲し みなどが顕著に歌詞となって表現されている。 1920 年頃に派生した「ジャズ」は、年代によって様々なジャンルへと展開していき、

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20 世紀初め頃にはジャズ発祥地であるアメリカ南部のニューオリンズからシカゴ、ニュ ーヨークへと広い範囲で拡大した。そのため生み出された時代や地域によって少しずつ音 楽の特色が異なるのもジャズの特徴である。また、これまではアフロ・アメリカンの音楽 は主に彼らのコミュニティーでのみ行われていたが、ジャズに関しては白人が彼らの音楽 を取り入れて真似をしながら、白人独自のジャズを多数確立したこともあった。歴史的に も1920 年代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれるほど、ジャズは当時のアメリカ全土を風靡 し、アメリカ史において重要な影響を与えたと言える。 このように時代の流れと共に様々なジャンルに展開していったアメリカの音楽は、それ ぞれに異なる意味合いが込められていることがわかる。音楽の曲調や歌詞の特徴を捉えて いくと、その時々のアメリカ社会に対してアフロ・アメリカンたちが置かれていた環境や 彼らの心の叫びが表現され、そしていつしか彼らの音楽文化が白人にまで影響を与えてい た。 これまでの第一章と第二章の内容から、アメリカにおける黒人の人種差別の歴史と音楽 は間違いなく密接に関係していることが明らかになる。そこで第三章では、第一章に続く 近代の歴史を遡りながら、音楽と人種問題が深く関連付いた例を挙げていく。まず第一節 は、どん底の時代と言われた南北戦争後を乗り越えた時代の生活について触れる。1880 年代にJim Crow という白人と有色人種の分離を目的とした政策が行われていた。鉄道や 学校、レストランなどの公共の施設でアフロ・アメリカンを隔離する法律が相次いで制定 された。この政策は 1960 年代の公民権運動が成功を収めるまで続く。 これに加え、当時白人によるアフロ・アメリカンへの頻繁なリンチが起こっていた。こ の出来事を主題とした『奇妙な果実』を取り上げる。この楽曲はリンチされたアフロ・ア メリカンたちの遺体が各地で木に吊り下げられ揺れる姿が奇妙な果実に例えられた、 1939 年にビリー・ホリデイが歌ったブルースである。とても残酷な当時の様子が明確に 表されている楽曲である。 最後に、アフロ・アメリカンたちが差別撤廃を訴えた公民権運動について述べる。20 世紀後半には 1954 年のブラウン判決、1955 年に南部で起きたバス・ボイコット事件、 そして1963 年に 20 万人以上の人々が全国から集結したワシントン行進など、アフロ・ アメリカンによる大きな動きが起こる。当時の最重要人物であるM・L・キング牧師は 「これらの運動はアメリカの自由と平等という根本的原理のためのものだ」6と宣言し、 白人にも支持を呼びかけ、最終的には白人までを巻き込み、平等を訴えた公民権法を成立

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させるまでに至った。ここでは1963 年に行われたワシントン大行進で歌われたジョン・ バエス作曲の「We shall overcome」についても触れる。

これらの論文構成を踏まえて、現在までにアフロ・アメリカン たちが遭遇してきた壮絶 な歴史や、彼らが作り出してきた音楽から、生活の中で抱いた感情や思いを考えながら現 代のアメリカ社会を迎えるまでの歴史を音楽がアメリカや全世界に与えた影響を明確する。 アメリカで発祥した音楽とアフロ・アメリカンの音楽の関連性を明らかにすると共に、彼 らにとっての音楽とは私たちとは違う意味でどのような存在であったのかを考えていく。

第一章 アフロ・アメリカンの人種差別の歴史

第一節 奴隷制度の始まり

アメリカは様々な人種が入り混じる「人種のるつぼ」と言われるが、実際は自ら望んで アメリカへやってきた者たちからなる国家なのだろうか。中でもアメリカには、 かつて自 らの意思ではなく強制的に母国のアフリカから異国であるアメリカでの生活を強いられ変 化していったアフロ・アメリカンが存在する。彼らはアフリカからやってきて、純粋なア フリカらしさを保持し続けた人々のことであり、後にはアメリカの文化と融合され、複雑 性を受け継ぎながらも文化を作り出した。 16 世紀からおよそ 300 年間という長い期間行われた奴隷制度はアメリカの歴史を知る上 で欠かすことはできない。この奴隷制度はアフリカ人がヨーロッパや彼らの故郷であるア フリカの奴隷商人によって、世界各地に運び出されたものである。アフリカとの奴隷貿易 を最初に始めたのはポルトガルであった。1456 年にポルトガルは西アフリカと交渉を開始 し、西アフリカにとって重要な交易活動の場 となっていたため当初の奴隷は主に周辺のヨ ーロッパへと輸出されていた。7その状況下でイギリスが建設した現在のアメリカ東部のヴ ァージニア植民地に、1619 年ポルトガル商人が運んでいた奴隷を海上で奪ったオランダ船 がヴァージニア州・ジェイムズタウンに入港し、多くの物資と引き換えに 20 人のアフリカ 人を提供したことから初めて奴隷が陸揚げされた。しかし当時のアメリカでは植民地にお いて奴隷制度は存在していなかったので、彼らは奴隷ではなく年季奉公人として従事し、 やがて解放されていた。8

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この頃のヴァージニア州では、すでに白人の約 1000 人が年季奉公人として主にタバコ・ プランテーションで働かされていたという。9彼らに対する労働や生活の制限、また体罰は 厳しく行われ、彼らの意思は関係なく年季が延長されることも多くあった。 しかし、見た 目は他の指導者である白人たちとの区別がつかなかったために逃亡することが安易であっ たことに加え、白人は伝染病に非常に弱く多くの奉公人が死亡したこと、そして年季奉公 人である以上、いずれは解放しなければならず、奉公人の存在だけでは労働力需要に応え られなくなった。そこで 1670 年代を境にアフロ・アメリカンの奴隷制度が確立することと なる。10 イギリス領北米植民地の中でも最も早く植民活動が開始されたのが南部で、ここでは年 季奉公人やアフロ・アメリカンの奴隷を利用しタバコや米、藍などが栽培されていた。そ の後入植が開始したニューイングランドや中部でも植民地が建設されていった 。大きく分 けてこの3つの植民地の中では南部の割合が多く、総人口の約半数が南部に住んでいた。 11 アフリカ人たちは、ヨーロッパ人や彼らに雇われたアフリカ現地の奴隷商人たちの手で 捕らえられ、奴隷船で運ばれた。奴隷を導入してから約 300 年間続いたが、およそ 1250 万 人がアメリカまで運ばれ、捕獲されてから到着するまでに死亡した数を含めるとアフリカ 大陸から奪われた総人口は 2000 万人以上であると推測されている。12 奴隷たちが運ばれた奴隷船は悲惨な環境であった。デッキの下に身動きできないほどに 詰め込まれ、船内は排泄物の悪臭に満ち、人々はうめき苦しんだ。船員は 道具を使って無 理やり彼らの口に食べ物を押し込んだが、一切食べ物を口にせず餓死を選ぶ者までいた。 また大西洋を渡るには4週間〜8週間かかるため、およそ 7 人に一人は途中で死に、無事 に到着した者も疲弊しきっていた。13 アメリカおいて白人は奴隷制をどのようにして正当化していったのか。 白人にとってア フロ・アメリカンは野蛮な異教徒であると考えられていたため、奴隷として囲い、時には キリスト教に改宗させる必要があった。この キリスト教の聖書の内容は白人の都合の良い ように書かれ、それを彼らに教えることで白人の優越感をたたきこませた。14また白人の良 心を消し去るためにも利用され、奴隷制度と宗教の結びつきは強かったと言える。 奴隷が導入されてしばらくは、彼らを支配する白人の奴隷主と奴隷は「所有物の一部と の関係」のようなものであり、人間らしいコミュニケーションは 存在しなかった。アフリ カからやってきた奴隷たちは主人である白人と外見が明らかに異 なっていただけでなく、

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英語ではないアフリカ人が話す独特な言語や文化の違いなどを感じ、白人にとってアフロ・ アメリカンの存在自体が異質なものであった。例えばかつてギリシャでは、ギリシャ人の 子供にギリシャ語の文法を教えたり、その他の勉学を教える奴隷が存在し、ローマでは劇 場や剣闘場に奴隷を雇ったり学識のある者であれば外国人奴隷を教師として雇用していた 一方でアメリカでは、奴隷制初期既に白人から異質な存在でよそ者扱いされていたどころ か人間であると見なされず、根本的に人権 を奪われていたため奴隷と奴隷主である白人と の間に人間関係はなかった。15これらの事実から、アメリカの奴隷制度によって起こったア フリカ人とヨーロッパ人の奴隷制との最初の接触がどんなに不思議で不自然なものだった かが理解できる。 奴隷制プランテーションでは奴隷たちの衣食住の費用は最小限に抑えられたが、奴隷を 最大限に働かせるために日常的に激しい暴力が振るわれ、時には肉体の一部の切断や、殺 害する懲罰まで下されることもあった。しかし奴隷は労働力として貴重な財産でもあった ため、奴隷の価値が高騰した 19 世紀頃には、彼らの健康維持や奴隷を増やすための出産に はより一層の配慮が払われるようになり、1830 年代以降は奴隷居住区の環境改善や、彼ら の栄養や医療の改善、余暇時間の延長が成された。このような様々な改善を経て、小規模 な農場では、特に奴隷主と奴隷との接触が密に行われ、奴隷主による奴隷に対する温情的 関係が存在することもあった。また大規模な農場では、家屋の建築・修理、家畜の飼育、 生産物の梱包・輸送、家事や育児など、様々な作業がそれぞれ男女奴隷に割り当てられ、 奴隷の間に階級秩序が形成され、農場によって特色が異なっていた。 アフロ・アメリカンたちの故郷であるアフリカの労働は男女の分業が明確に存在した。 一般的に、女性は軽作業を行い、男性は重労働あるいは専門的な技術や知識が必要とされ る労働を行った。また農業に関しては男性が畑を耕し女性は穀物を育成して収穫する傾向 が強かった。しかしアメリカにおける労働は男女の分業はなく、同じ畑で働いていた。16 この奴隷制度は、性的搾取の制度でもあった。奴隷を増殖させるために白人男性による アフロ・アメリカン女性のレイプや、望まない奴隷の男女を無理やり掛け合わせ、子供を 産ませることもあった。1790 年から 1860 年の間に奴隷の人口は約70万人から約 400 万 人に増え、奴隷主は労働力を維持していた。また 1808 年に奴隷貿易が禁止された後の 1810 年から 1860 年の間には約 80 万人の奴隷が売却され、上南部の奴隷の約半数が家族の分断 を経験した。17

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第二節 アメリカの独立と奴隷たちの抵抗

北米植民地は、先住民との対決や西欧の列強との覇権闘争によって拡大が進んでいた。 英仏の雌雄を決めた 1756 年から 1763 年に起きた七年戦争では、先住民族諸部族らと共に 植民地人も多く参加し、彼らは自ら領土を守ったイギリス臣民として の自信を強く持ち始 めた。18この頃、ボストン駐屯イギリス兵と民衆の小さな争いがイギリス兵の発砲により植 民地 5 人死亡する事件へと発展し、ボストンの民衆は「ボストン虐殺事件」とした。また、 事実上イギリスの植民地として開拓を続けていたアメリカに、財政難のイギリスは砂糖法、 続いて印紙法、茶法と課税を強化していった。この茶条例はイギリスが東インド会社に北 米植民地への茶の独占販売権を与え、密輸される茶よりも安い値段で放出されることを決 定したものであった。対してボストン市民が東インド会社に乗り込み、茶箱を海に投げ捨 て抵抗の意思を表明した「ボストン・ティーパーティー事件」が起こる。これが原因とな り、イギリスからの多くの課税などに対抗するべく13の州は大陸会議を開催したが打開 出来ず、1975 年に独立戦争へと発展した。このボストン近郊レキシントンでの武力衝突を 経て 1781 年にアメリカが正式に「独立宣言」を出すことになる。19 この独立宣言はヴァージニア州の奴隷主であったトマス・ジェファーソンによるもので、 イギリスの思想家ジョン・ロックの自然権思想社会契約論を根拠に 「人間はみな神によっ て平等に創られ、誰にも譲り渡すことのできない幾つかの権利を与えられている。それに は、生命を保持する権利、自由を享受する権利、幸福を追求する権利が含まれる 」20とし、 アメリカが独立することに対し正当性を宣言した。しかしジェファーソンはアフロ・アメ リカンの生来的劣等生を科学的に論証し、それを元に万人の平等から彼ら を排除すると述 べ、アフロ・アメリカンはアメリカの人間として含めないという考えを提唱した。 「独立宣言」が出されたことによってイギリスの支配下から現在のようなアメリカ合衆 国として独立し、建国によって大きく分けて北部の奴隷制を廃止する意図とした自由州と 南部の奴隷制を維持する奴隷州が共存することになった。当時、奴隷制を維持するか禁止 するかは各州議会の判断によるものとされていた。この頃既に奴隷禁止を決めていたのは マサチューセッツ州のみであったが、北部諸州は次々と奴隷制禁止に踏みきり、南部のサ

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ウスカロライナ州とジョージア州は奴隷制を維持していた。 独立戦争の時期は黒人にとって、奴隷身分 から脱出する好機となった。イギリスの占領 下にあった現在のサウスカロライナ州やジョージア州にあたる深南部の奴隷の4分の一以 上が脱走し、イギリス側の植民地の軍隊に逃げ込んだ。 サウスカロライナ州とジョージア 州だけはアフロ・アメリカンを兵士として一切受け入れなかったが、南部の他の州では開 戦後からしばらく経過した 1777 年になって軍に受け入れられ、各地でアフロ・アメリカン の兵籍編入が認められた。多くの奴隷主の元からその奴隷を解放することが約束され、軍 隊に自分の身代わりに奴隷を差し出した。白人たちにとっては戦争から逃れる理由になっ たし、アフロ・アメリカンたちにとっては奴隷主からの厳しい労働から逃れる理由となっ ていた。こうして逃亡や従軍によって戦時中には全体のアフロ・アメリカンのおよそ 20 パ ーセントにあたる 10 万人の奴隷が主人の元から離れた自由人となっていた。21 1787 年に開催された連合会議では、アメリカにおいて奴隷制と自由労働制を共存させる 北西部領地条例を合衆国憲法の中に定めた。この条例は、西部の政府組織法で、オハイオ 州以北の領地では、今後州として連邦に編入される場合には、奴隷制は認めないことを決 定し、連邦憲法と合わせてアメリカの基本法となった。22 この憲法制定会議では、奴隷制を憲法体制の中に組み込むために「奴隷」という言葉は 使用せずに「自由人以外の人」という言葉に変えて書き込んだ。憲法第 1 条第 9 節では「現 在の諸州のいずれかの州で入国を適当と認める人々の往来および輸入に関しては、議会は 1808 年以前においてこれを禁止することはできない」23と規定し、奴隷の輸入を 1808 年ま で認めるとした。当時は綿花のプランテーションが西へ発展し始め、労働力が求められた ため、条文が「奴隷貿易規制の禁止」を表していたことからこの時期に奴隷を手に入れて おこうと大量の奴隷が導入されていた。24しかし上南部のノースカロライナ州、ヴァージニ ア州、メリーランド州などの奴隷が過剰となり、奴隷の価値が下がっていく危機感を感じ た地域の政治家たちは奴隷貿易に対して圧力を強め、その上 1807 年にはイギリスが奴隷貿 易を禁止したため、結果的にアメリカも翌年に奴隷貿易を禁止することとなった。25 この頃の奴隷たちは、白人たちから強いられる生活に対して様々な形で抵抗した。奴隷 主たちが最も気づかない抵抗は「ふり」をすることだった。26まるで知力が足りないような 様子や、主人を喜ばせるような幸せな表情を装ったりするなどして奴隷主を欺いた。奴隷 主が労働のノルマを引き上げや他の農場と比較して厳しい条件を出した時には、奴隷たち

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は主人の食料を日常的に盗み、家畜の虐待や農具の破壊、倉庫の放火などを行った。また 望まない妊娠と出産を強いられた女性は、避妊薬草を使用し意図的な流産などで抵抗した。 27農繁期に特に効果的だったのは短期的逃亡であった。奴隷主による家族の売却を思いと どまらせるため、引き裂かれた家族と再会するため、また待遇の引き下げに抗議するなど の意図を持って懲罰を覚悟しながらも一時的に姿を隠した。 この頃には大勢を巻き込む奴隷反乱が起こった。北アメリカでの奴隷反乱はカリブ海の 海賊などと比べると比較的少なかったと言われているが、数少ない反乱の実例に基づくと、 それらが国際関係や先住民との関係が不安定な時期に多く起こっていたこと、独立革命や フランス革命の理念と結びつけて行動を起こしていること、知識や経験が豊富な指導者が 統括していたことなどがわかる。28反乱の中でも 1831 年の「ナット・ターナーの反乱」は 世界各地に知られた奴隷反乱であった。指導者であるナット・ターナーは文字の読み書き が可能で、聖書を読み、奴隷たちからは「預言者」と呼ばれた。彼はある時、全能の神が 自分に使命を与えたと確信し、蜂起を企て、約 70 人のアフロ・アメリカンによる部隊で約 60 人の白人を殺害した。武装蜂起は2日以内に鎮圧され、45 人の奴隷が裁判にかけられ、 18 人が死刑となった。この反乱は全南部の奴隷社会をふるい動かせ、奴隷に対するも時の 読み書き教育の禁止の徹底など、奴隷制再強化のための対策が次々となされた。 19 世紀に入った頃から奴隷制廃止運動が本格的に展開されるようになった。早くから奴 隷制廃止を訴えたのはクエーカー教徒で、1775 年には彼らによって世界最初の反奴隷制協 会が設立された。しかし当時の奴隷制反対論者たちは私有財産権を否定できず、有償奴隷 解放と奴隷主による個人的奴隷解放を説いた。奴隷制廃止運動は、1820 年代以降、第二次 大覚醒運動の中で飛躍を遂げた。市場革命がもたらした競争社会の道徳的荒廃や社会問題 に対処しようとするこのキリスト教福音主義運動は、飲酒や売春、ギャンブル、決 闘の禁 止、女性の地位向上と並び、奴隷制廃止を取り上げた。彼らは「神は自分以外の者を絶対 者として崇めてはならないと申された」というモーゼの教えを根拠に、奴隷主と奴隷の関 係のように「人間が人間を所有すること」は、神の教えに反する行為であると主張した。 このようにして奴隷制廃止運動の担い手たちは私有財産としての奴隷所有権の論理から解 放されることとなった。29 1832 年、イギリスの反奴隷制協会で即時奴隷制廃止が決議され、これに続いて翌年には、 奴隷制即時無償廃止を掲げるアメリカ奴隷制反対協会が設立された。この運動の指導者は 白人のウィリアム・ロイド・ギャリソンであった。各地のアメリカ奴隷制反対協会は、パ

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ンフレットを作成したり、各地で講演会を開催したりするなど、世間に呼びかけ活動家を 養成した。自由州に逃亡した奴隷は自らの経験談を語り、新聞への掲載や本として出版さ れた。語り部から廃止運動の指導者となった元奴隷のフレデリック・ダグラスは 1845 年に 彼の初自伝『数奇なる奴隷の半生』を出版した。30 しかし奴隷制廃止運動の中には、女性がこの運動で男性と平等に政策決定に参加するこ とに反対する者と、認めるべきだとする者の深刻な対立があった。31当時のアメリカ社会に は女性が集会で演説したり、運動団体の役員に就くことを受け入れない男性が多かった。 その例として 1840 年にアメリカ奴隷制反対協会の役員に女性アビー・ケリーが選出された 時、会長だったアーサー・タッパンはこれに抗議して協会を脱退し、別の組織を作った。 このように同じ団体の中に男女の格差も存在していた。 一方で奴隷制廃止運動の展開に直面した奴隷制擁護論者は様々な論処を挙げて、この制 度を正当化しようとした。彼らは北部の労働者の悲惨な状態を述べ、自由労働は不可避的 に階闘争を引き起こし、社会的分裂や利己的個人主義を生み出す と主張した。また聖書の 内容を用いて、「神に選ばれた民、古代ヘブライ人は奴隷を所有し、イエスは奴隷制を非難 しなかった」と奴隷制を擁護する者や、全ての奴隷と奴隷主の関係を一般的な家族内の温 情的関係と同等であると論じる者もいた。32

第三節 南北戦争から奴隷制度の廃止

第二節で述べたように、1808 年までに奴隷の売買は違法とされていたが国内での売買は 行われていた。しかし当時の議論では新たに奴隷を輸入するかどうかではなく、連邦に新 しい州が加盟する際に、奴隷制を認めない自由州となるか、それとも奴隷州となるかとい う点が重要視された。33アメリカ合衆国は建国時から北部の自由州と南部の奴隷州が共存 しながら独自で発展していたものの、当初は互いに依存的関係にあった。34南部の綿花栽培 は多額の外資をもたらし、東部の銀行業を活性化させ西部の開拓の資金となった。そして 西部の農業はミシシッピ川を利用した農産物の輸送で南部に食料を供給していた。35しか し時代と共に北西部では輸送手段の発展や工業化が進む一方で、南部では綿花栽培が拡大 し、さらには 1820 年にはこれまで定められていた北西部領地条約で範囲外となっていたミ ズーリ州を奴隷州に受け入れたことから徐々に対立が目立った。 1854 年、スティーブン・A・ダグラスによって「奴隷制か自由か」を議会が決めるのでは

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なく、住民が決める「住民自治」の原則を導入するというカンザス・ネブラスカ法が提案 された。これは奴隷制を禁止した北部にも奴隷制を導入する可能性が高い というものであ り、北部の民主党議員の約半数が反対した。そして同年には当時の二大政党である民主党 とウイッグ党を分裂させ、これ以上の奴隷制拡大を防ぐために国内開発と保護関税を求め た共和党が結成された。その後大統領選挙では見事に共和党が北部で3分の二の選挙人を 獲得し、二大政党を追い越す。36 深南部の奴隷主たちは 1850 年代後半の奴隷価格が上がったことで、次世代への奴隷の相 続ができない上に、白人小農民たちが奴隷所有者になることができなくなる。 このまま連 邦にとどまっていれば奴隷制反対の共和党が南部に支持を求めて南部の奴隷制は維持でき なくなると考え、南部が合衆国離脱のために南部連合政府を樹立した。37この北部と南部の 奴隷制に対する考えと、時代の変化がもたらした様々な違いが両者に溝を作った。 1860 年の大統領選挙で共和党のエイブラハム・リンカーンが当選すると南部は次々と連 邦を脱退した。38そして南部連合軍に包囲され陥落寸前の連邦軍サムター要塞に救援物資 を送ると宣言し、南部連合軍はこれを合図に 1861 年砲撃したことから4年にもわたる「南 北戦争」が開始した。39この戦争は南部の人々にとっては市民戦争ではなく南部の独立をか けた戦いであった。 南 北 戦 争は 軍 事 的な潜 在 力 で は北 部 の 方が南 部 よ り もは る か に勝っ て お り 、北 軍 に は 200 万人、南軍には 90 万人が従軍し、連邦の人口は北部が 2200 万人で南部連合は 900 万 人であった。40一方で南部にも利点があった。それは職業軍人の多くが南部出身で早く準備 を始めていたことと、イギリス経済が南部の綿花栽培に頼っていたことからイギリスの支 援を期待できたことである。しかし、南部は海外の生活物資や武器の調達などの援助なし には勝ちぬくことが厳しかった上に、人口の約 40%を奴隷が占めていた。また北部の内部 には戦争に批判的な民主党を抱えていたことや連邦維持のためには南部 全体を制圧しなけ ればならず、両者共に困難を抱えた状態であった。41やがて連邦軍は、南部にとって必要不 可欠であった外国からの支援を阻むため、 国際港を封鎖して占領し始め、リンカーンは北 軍と南軍の境界州を敵に回さずにイギリスの介入を避けながら連邦の統一を守ることをこ の戦争の基本目標とした。また彼は戦争下であった 1863 年に「奴隷解放宣言」をし、その 後 1865 年に南北戦争は北軍の勝利に終わると同時にアメリカ合衆国は一つの国となった。 ここでリンカーンが発表した「奴隷解放宣言」について考える。この内容は「合衆国の 権威とその政府に対する今次叛乱を鎮圧するための止むを得ざる適正な手段として所有さ

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れている者すべてを解放し、以後永久的に自由とすることをここに宣言する。(中略)さら に、自由を宣言された人々のうち、条件を備えた者には、合衆国の軍務に従事することを 承認する」42というものだった。これによってアメリカでは「奴隷解放の父」「偉大なる解 放者」と讃えられることとなる。しかし、『アメリカの黒人と公民権運動』の著者、大谷康 夫氏は本書の中で「この解放宣言が南部連合支配下の州で呻吟する奴隷のみを対象とする ものであり、連邦に溜まっている奴隷州の奴隷には適用されておらず、法的効力を発揮し ないものであることが明らかであった」43と述べている。またリンカーンの奴隷解放には他 の意図があったことがわかる。1862 年にリンカーンがニューヨーク・トリビューン紙編集 長宛てに出した書簡によると「この戦争における私の至上目的は、連邦を救うことであっ て、奴隷制度を存続させることでも、破壊することでもない。もし、一人の奴隷も解放せ ずに連邦を救えるなら、そうするであろう。仮に、奴隷をすべて解放することで 連邦を救 えるなら、そうするであろう。(中略)私が奴隷制度や黒人に関して何かをするとしたら、 それは連邦を救うのに役立つと信ずるからである。もし 、それらについて何かをしないと したら、それは連邦を救うのに役立つとは考えないからである」という内容が書かれてい た。44よってリンカーンにとって奴隷解放とは、奴隷たちのために出されたというよりも彼 にとって至上目標であった連邦統一のためになされた一つの手段であった。また 奴隷解放 を宣言したことで南部に支援をしていたイギリスもやがて手を引くだろうという、北軍の 勝利へと導く戦略でもあった。45 南北戦争が終結したことで奴隷は解放され、事実上アフロ・アメリカンは自由の身とな ったが、決して楽観できる状態ではなかった。奴隷主のもとで生活していた彼らには、自 分の土地や家、仕事などの自立していくための経済的援助が必要であった。しかし北軍の 連邦政府は彼らの経済状況を改革する政策をとらなかったため、 奴隷主から解放されたに もかかわらずさらに長い期間、不自由な生活を送ることとなる。46

第二章 アメリカにおける音楽の歴史

第一節 スピリチュアル、ゴスペル

アフロ・アメリカンとは、「純粋なアフリカらしさを保持し続けた人々のこと」をさすと 本論文のはじめに述べた。アフリカ人たちは強制的に異郷であるアメリカに連れてこられ、

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それまで慣れ親しんだ人間的な生活や文化が存在しない環境で細々と生存しなければいけ なかった。しかし時代と共にアメリカの文化と融合され、複雑性を受け継ぎながら後に新 しい文化を作り出すことになる。 初代は、奴隷としてアフリカから彼らの意思に関係なくアメリカにやってきた人々であ り、アフリカ人として考えることができる。しかしアメリカで生まれ奴隷として育った者 たちは状況が異なり、アフリカ人である親から子が引き離されることが一般的であったこ とからアフリカを知らぬまま白人奴隷主の社会的慣行のなかで育ち 、彼らにとってアフリ カは故郷ではなく外国として捉えられるようになる。47つまりアフリカ人は徐々にアメリ カ人へとなっていった。 しかしその変化を経ているにもかかわらず、アメリカ人としての生活の中にはアフリカ の文化的要素が受け継がれていく。アフリカから運ばれた彼らは、その体内に持つ自分た ちの文化、身体だけで表現することができる「音楽」という文化を保ち続けた。奴隷船の 白 人 船 員 たち は 船 底から 奴 隷 た ちが 部 族 同士の 共 感 の 輪を 生 み 出す役 割 を 果 たし た コ ー ル・アンド・レスポンス(掛け合い)様式の歌が聞こえていた、と証言した。48楽器を必要 とせずに歌で語り継ぐ空間は、奴隷労働から解放される日没時から夜が明けるまでの深夜 の習慣となり、歌をうたうことは、当時読み書きを禁止されていた彼らにとって「伝承」 の手段でもあった。49論文『アメリカ黒人音楽の源流をたどる』の著者・岩本裕子氏は「彼 らのこの歌は、故郷のアフリカを想い、歌われる音楽だった」と述べている。50 この奴隷制時代末期に歌われた彼らの「魂の歌」が原点となり、奴隷たちはアフリカ伝 来の宗教を維持しつつ、白人の影響でキリスト教を「神のもとでのすべての人間の平等」 という教えとして受け止め、教会と結びつくこととなった。こうして生まれた歌がスピリ チュアルである。51彼らは居住区の内部の教会に集い、信仰確約や誓いの言葉を歌い、そこ にコーラスによる反復の部分を付け加えた。スピリチュアルでは 「天国へ行けば幸せにな れる」「この世はつらいが天国がある」という発想が多く込められており、後の20 世紀前 半にも見られた。52 スピリチュアルは、やがてゴスペルヘと発展する。スピリチュアルのほとんどは野趣と 即興性を失わないまま地域にとどまったが、それが19 世紀中期以降から都会に流れ込み、 教会の礼拝に用いられるようになって始まる。白人教会を模倣しながらも独自の黒人教会 と呼ばれるものを作り、労働をすませた後に白人の目から解放された場所で自律性を増し ていった。53ここはアフロ・アメリカンたちが奴隷ではなく人間的に活動できる唯一の場

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所であった。筆者も実際にニューヨーク、ハーレム地区のケイナーン・バプティスト教会 を訪れたが、教会の中はほとんどがアフロ・アメリカンで溢れており、力強い声が教会全 体に響いていた。この教会の牧師ワイアット・ウォーカー氏は「黒人教会は音楽がなけれ ば黒人を結集することはできない」と明言していたという。 ゴスペル正規のキリスト教賛美歌と異なる点は、大衆の間で生まれた福音唱歌であるこ とである。これはアフロ・アメリカンのリズム感や、叫ぶような唄い方である「シャウト」 を特徴とし、激しく体を揺さぶりながら歌われる彼らの歌は、各地に移動を強いられたた めに家族と切り離された悲しみや、辛い労働や暴力などの日常生活の絶望と希望を表現し ていた。岩本裕子氏の論文で取り上げられている、映画『天使にラブソングを』で有名な “Oh, Happy Day”もゴスペルの楽曲であり、彼らの暮らしが決して幸せで楽しいものでは なかったため、天国での暮らしを夢見て「何と、幸せな日」という意味合いを含めて歌わ れていた。54教会にはアフロ・アメリカンが集まり、このような音楽を通して互いの日常や 神への思いを共有していた。 また一方でゴスペルには娯楽的な側面も見られた。奴隷であるアフロ・アメリカンがわ ずかな余暇の時間をさいて興じた音楽や、労働の激しさを和らげるために歌った音が聞く 人に興味深く響いていたという記録がある。55この光景をみていた白人には滑稽に映った というが、少なくとも興味を引くものであったと言える。

第二節 ブルース

ブルースとは、ギターと共に歌われた哀歌を中心としたジャンルである。以前は楽器を 用いながら歌うことはなかった中で、南北戦争後しばらくしてから初めてギターが使用さ れ、広く用いられるようになった。56その頃からアフロ・アメリカンたちにとって身近な存 在となったギターは、伴奏楽器として適していたことで、彼らの音楽は楽器の影響を 強く 受けた。 また以前は奴隷制時代のスピリチュアルのように奴隷たちが大勢で集って歌い、共同意 識を確認するための音楽であったのに対し、ブルースは孤独かつ内向的な音楽であった。 同じアフロ・アメリカンが作りだした音楽であるにもかかわらず、当時の社会や彼らが置 かれた状態の違いが音楽の特徴にもしっかりと表れている。これは利き手を意識したもの

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ではなく、自らを相手に歌われる魂の叫びであったと言える。57 ブルースは正統派ジャズ全ての親に当たると言われるほど、後のアメリカ音楽史に大き な影響を与えることとなるが、ブルースがいつ生まれたかを正確に言うことはできないと されている。しかしリロイ・ジョーンズ氏は「ブルースは黒人がアメリカにやってきて作 り出された音楽であり、アフリカの囚われ人がアメリカの囚われ人にならなかったらブル ースは存在しなかったであろう」58と述べている。 岩本裕子氏は、19 世紀を代表とするアフロ・アメリカンの指導者フレデリック・ダグ ラスの自伝で語られている「奴隷は一番哀しいときに最もよく歌う」という言葉を引用し ながら、「ブルースも本質的には同じことで、ブルースとは虐げられた状況の中で強く生 きていく意志を得るために黒人が生み出した歌である」59と規定する。これには、故郷であ るアフリカとそこで生活を共にした家族から離れて異国の地で奴隷として生き、そして自 由人となった状況でも社会から疎外されていた事実があり、そこでアフロ・アメリカンた ちが強く感じたのが孤独であったと考えられる。その状況下で、どうにもならない不安や 疎外感などをギターと共に呟きのような声で音にし、やるせなさを短いフレーズにのせて 曲が作り出された。ここから野の叫び(フィールド・ハラー)と呼ばれる孤独に根ざした 原初的な表現の音楽が生まれる。60 先ほど述べたように、元は自分だけを聞き手とした心の呟きであったブルースであった が、それは徐々に共通の意識の場へと変わり、疎外感から再び彼らの感情が人々と共有さ れることとなる。そして強く生きていく意思を持つために、抗議と反骨精神や、様々な欲 望、皮肉的な表現を含めた歌詞が歌われ、 アフロ・アメリカンが抱える社会への腹立たし さを癒すものとして、ブルースの意味合いが少しずつ変化していった。これには社会から の逃避を意味するものは含まれず、彼らが社会に立ち向かおうとする思いが込められた。 61 各地で広がっていたブルースは、やがて都会に移り、ギターと共に孤独を呟くようなも のから聞き手を意識した音楽になる。ブルース歌手の歌いぶりは、都会を演奏の場として いた器楽奏者たちに真似られ、即興を中心とするジャズへと音楽要素が傾いた。一方ブル ースの歌い手たちには器楽奏者たちが持つ独特の抑揚を自分たちの歌に取り込んだ。62

第三節 ラグタイムとジャズ

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1890 年代にはブルースから一転して、「ラグタイム」という音楽ジャンルが生み出され た。19 世紀末から 20 世紀初頭に掛けて流行し、ダンスの伴奏音楽や、安酒場でアフロ・ アメリカンが演奏したピアノ音楽が起源であった。白人客に受けのいい西洋音楽に、彼ら が持ち合わせる音楽要素が加わり、独特のリズムを強調した初の軽音楽であった。演奏は 主にピアノで、それに加えて管楽器やマンドリン、バンジョーなどを用いて小編成のバン ドで演奏された。ブルースと正反対に、陽気に演奏されたラグタイムはこれまでのアフロ・ アメリカンの憂さを晴らした。機械的に反復されるリズムを、自由に揺らす感覚のスウィ ングと呼ばれるリズムの取り方が新しく取り入れられた。 そして 20 世紀初頭、ラグタイムを追い越すようにして人気となったのが 様々な楽器を使 用して演奏されたジャズである。63「ジャズはアメリカ南部、ニューオリンズにおいて黒人 とヨーロッパ音楽の出会いから生まれた音楽である」と、ジャズ評論家の油井正一氏は明 言した。64ニューオリンズはアメリカ国内でも非常に特殊な文化をもった地域である。周辺 の南部諸州ではプロテスタント的な禁欲主義や原理主義が浸透していたのだが、ニューオ リンズはかつてフランスやスペインなどのカトリック国の支配下にあったことから、クレ オール文化という旧教文化とアフリカ文化が混ざった独特の文化が作り出された。そのた め、現在でもニューオリンズ市内はヨーロッパ風の建築物などが各地に見られ、独特な雰 囲気が漂う。歓楽街であるストーリーヴィルでは顧客の目を引くためにブラスバンドが置 かれ、北軍と南軍が提供した楽器を安価で手 にいれたアフロ・アメリカンたちがヨーロッ パ音楽の影響でイタリアやフランスのオペラを抜粋した楽曲を演奏した。ここで金管楽器 やリード楽器など、西洋の楽器を取り入れたことで、やがてアフロ・アメリカンの音楽で あるブルースとラグタイムの陽気にスウィングする要素に軍隊音楽隊音楽の影響を受けて 一気にジャズへと発展した。65 ブルースとラグタイムの違いは明らかであったが、ラグタイム独特のリズム感であるス ウィングと呼ばれるシンコペーションがジャズにも生かされた。一方でラグタイムは楽譜 として残された音楽で世の中に広まっていったのだが、ジャズは即興演奏を主体として発 展していった音楽であった。音程は民族音楽特有の哀感が、音色では笑いやうめき、呟き や啜り泣きなどブルース的な音楽感覚を楽器で表現することが取り入れられた。またラグ タイムのようなリズムの上に即興的に展開するメロディには独特のリズムをつけた。この ような複雑な特性により楽譜にすることが難しかったため、あえて楽譜という形やこだわ

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りにとらわれずに自由に演奏することが重要視され、これまでの音楽の枠を超えた新しい ジャンルとなった。66 またアフロ・アメリカンたちの生活様式では結婚式や葬式などのパレード、祝日、収穫 祭など人々が集まる際は必ずバンドの演奏があり、音楽と踊りは不可欠なものであった 。 67 ここで、ジャズの楽曲の中でも有名な『聖者の行進』について触れる。ブラスバンド で演奏されることが多いこの曲は、明るく陽気な行進曲として親しまれているし、実際に 筆者が訪れた、ニューオリンズのジャズバンドが初めて演奏されたというプリザベーショ ン・ホールでも観光客のリクエスト曲として演奏されていた。しかし実際には、葬式に使 用するための曲で、死者を弔いながら遺体を運ぶ行列の行進曲でもあった。歌詞の「聖者 が街にやってくる」とは死者を迎えにやってくる、という意味なの である。葬儀とはアフ ロ・アメリカンたちにとって、天国へ行くことを祝う儀式であり、生きている限りこの世 で苦しい日々を強いられた彼らにとって、死ぬことは天国へ行くことで、幸せになること だと考えられた。68 ジャズは時代によって少しずつ異なったスタイルへと展開する。 また発祥地であるニュ ーオリンズから北上し、シカゴからニューヨークまで拠点を移しな がら世界中に拡大して いくのであった。69元はアフロ・アメリカンたちが白人のマーチングバンドで用いていた楽 器に興味を持ち、楽器の技法がわからない中でも彼らの感覚を頼りに、これまでアフロ・ アメリカンたちが作り出したブルースやラグタイムを融合させたのがニューオリンズジャ ズである。そして奴隷制時代にフランスやスペインの主人とアフロ・アメリカンの女性と の間の合法とは言い難い関係性から生まれたクレオールによって作り出されたのがクレオ ール・ジャズである。クレオール・ジャズ・バンドの演奏では「集合的即興演奏」が目立 つようになる。これはコルネットやクラリネット、トロンボーンなどの管楽器が同時に演 奏するものの、互いに強調関係を保ちながら即興演奏をするヨーロッパ的な演奏形式は自 己主張と協力の精神を両立させたとして、さらに注目を浴びる。70そしてシカゴやニューヨ ークへ進出するきっかけとなった一つの要因であるディキシーランド・ジャズは、ニュー オリンズで結成された全白人バンドが、アフロ・アメリカンが作り出したジャズに異なっ た演奏方法を取り入れたものである。1920 年代にレコード産業の発展やラジオ放送が開始 したこと、そして第一次世界大戦終了後の虚脱感と楽天性にあふれたアメリカ社会の風 潮 にあった音楽として、レコードやラジオなどの新しいメディアを通して全土に広がった。 71またアフロ・アメリカンの家庭にもラジオや蓄音機が普及し始め、アフロ・アメリカンの

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歌手が多数登場し、レコードも売れるようになった。72多くのアフロ・アメリカンたちは彼 らだけを集める安酒屋でジャズを楽しんだが、この音楽を通して、アフロ・アメリカンと 白人が共に酒場でジャズバンドのもとで踊ることもあったようだ。 このようにして社会か ら虐げられ続けてきたアフロ・アメリカンたちの音楽が白人に影響を与えた。 この 1920 年代は音楽面でジャズがアメリカ全土を風靡したことから音楽史上、ジャズ・ エイジと呼ばれた。また文学や美術でもアフロ・アメリカンたちが活躍した時代となり、 当時のニューヨーク市マンハッタンの一角であるアフロ・アメリカンたちが多く住むハー レム地区からハーレム・ルネッサンスの時代を迎える。この現象がアフロ・アメリカンの 知性や才能が認められ、後の公民権運動の成功につながっていくこととなる。

第三章

19 世紀以降のアメリカ社会と音楽

第一節 終わらない差別と奇妙な果実

南北戦争以後アメリカの工業生産は急成長し 1880 年には世界第 1 位となり、1913 年に は全世界の三分の一を占めるほどまでに膨張した。またアメリカの穀物農業の急激な生産 拡大は国際市場価格を押し下げ、アメリカの農民たちを苦しめ、農地を失い、都市 に流れ こむ国民が急増した。 戦争後、南部再建のため北部の連邦議会は奴隷制を廃止する 合衆国憲法修正第 13 条、す べての市民に市民権を与えることを保障する憲法修正第 14 条、そして参政権を保障する憲 法修正第 15 条をそれぞれ提案し、これらの憲法修正は批准され事実上奴隷たちは解放され た。再建のためのこの革命的な出来事はアフロ・アメリカンたちに大きな影響を与えた。 彼らは市民としての権利を与えられたことで、同時に家族が法的に認められ、家族を基礎 として黒人教会や黒人学校を運営できるようになり、自立的コミュニティーが確立された。 さらにしばらくの間、彼らは参政権を手に入れ、元奴隷主たちが支持する民主党に対抗し て共和党の候補に投票した。こうして共和党は南部各州政府を握り、公教育制度や病院・ 保健所の建設、刑務所での体罰の禁止などの改革を進めた。この時代にアフロ・アメリカ ンたちは多数の議員や公職者として選出され、様々な法律を制定した。また約 400 万人の 奴隷財産が廃棄されたが、一方で元奴隷たちが自立して生きていくのに必要な土地と役畜 は元奴隷主の元に残った。73

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こうして当時の南部では、経済的な頼りがなかったアフロ・アメリカンたちが生活して くために綿作地帯とタバコ栽培地帯ではシェアクロッピング小作制度が定着していた。こ れはアフロ・アメリカンたちが地主の監督下で雇われるのではなく、耕作家族と土地の所 有者が収穫物を一定の額で折半する契約を結ぶものであった。しかし耕作家族は、土地の 他に仕事をする上で必要な家屋や役畜、農具などの必需品の前貸しが伴う。総収入から小 作料、前貸し価格には多額の利子が差し引かれ、赤字となって生涯借金を返済し続ける者 が多くいた。こうして彼らは、今度は白人の経済的な奴隷となり苦しい生活を送ることに なった。74 南部戦争以後には人種隔離が広がり、まもなく法律によって生活のあらゆる分野が強制 されるようになった。1875 年の公民権法では、教会や墓地、学校を除く人種隔離が禁止さ れたが、1883 年最高裁判所は「憲法修正第 14 条は、州政府による差別を禁止したもので あり、私人による行為を連邦政府が禁止する権限はない」75と断言した。さらに 1896 年の プレッシー対ファーガソン裁判」の判決は「分離すれども平等」という、「憲法修正第 14 条は、肌の色に基づく差異をなくしたり(中略)二つの人種を無理やり混合させたりする ことを意図したものではなかった」のだから、「平等なサービスが提供されれば、州政府 が分断された施設を提供しても差別ではない」76とし、州政府による人種隔離法も、憲法修 正第 14 条に違反していないと結論づけた。これらの判決を元に、学校や教会、刑務所、レ ストラン、水飲み場、公園、公共プール、裁判所の宣誓の際に使用する聖書など、ありと あらゆる生活の場で人種隔離強制法が定められた。この人種隔離は Jim Crow と呼ばれ 1960 年代の公民権運動の成功を収めるまで続いていく。またこの生活の場だけでは収まら ず、やがて憲法修正第 15 条は「人種や肌の色あるいは過去における隷従の状態に基づい て」参政権を拒絶してはならない、と規定しているだけで、それ以外の根拠を用いれば黒 人の参政権を剥奪することは容易にできたため、1906 年までに全南部で事実上の黒人参政 権の剥奪が合法化された。77 こうしてさらに権力を握った白人支配層は罰せられる不安もなく、反抗的なアフロ・ア メリカンたちに暴力を振るうことができるようになった。当時アフロ・アメリカンにとっ て最も重要だったのは、このような白人たちから自分の身の安全を保障することであった。 フロリダの黒人指導者エマニュエル・フォーチューンは連邦議会で「白人たちは、黒人が 保安官、治安判事、陪審員、学校監督官になることを『黒人支配』だと呼 んでひどく憤慨

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し、私は殺されるだろうと言われている」78と証言した。特に南部では、経済や情報、軍事 的にも元奴隷主が圧倒的に勝っており、広大な地域に少人数が配されていただけであり、 アフロ・アメリカンを守ることはできなかった。戦後の経済破綻の影響で共和党州政府に は十分な財源がなく、独自軍事力もなかったため白人の元奴隷主勢力はそれぞれ税の不払 い同盟や白人秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)などの武装組織を結成して共和党 州政府を攻撃した。 この白人の武装集団たちは、アフロ・アメリカンを率いる指導者を抹殺すればアフロ・ アメリカンの情報網を断ち切り、白人の暴力的監視脅迫体制のもとに置けることができる と考え、標的を指導者や政治家に定め、1868 年から 1876 年の間に約2万人を殺害した。79 白人秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)は夜になると、白い幽霊のようなガウン に身を包んで現れ、小高い丘の上に大きな十字架を立てる。そしてそこに火をつけ、アフ ロ・アメリカンたちの家を襲い、場合によ っては殺害した。白人たちにとってこの犠牲者 は、法律が見逃して罰せられなかった犯罪者と考えられた。80 当時のアメリカ南部では、白人からそのような暴行を受け、首をくくられ、木に吊るさ れる姿が多く見られた。風に嬲られる遺体がまるで果実のようだと例えられた楽曲がある。 アフロ・アメリカンのブルース歌手を代表とするビリー・ホリデ イ(Billie Holiday, 1915 年-1959 年)が 1939 年に歌った『奇妙な果実』である。この曲はユダヤ人教師エイビル・ ミーアポールによって作曲され、無惨な遺体を奇妙な果実という比喩的な表現で表した。 この曲はたちまちアメリカでヒットし、白人を含む多くの国民に知れ渡ることとなった。 彼女自身も人種差別を経験し、後に麻薬やアルコール依存症と戦いながら壮絶な人生を送 った。このような背景があったからこそ彼女 が歌う情感豊かな歌は全国のアフロ・アメリ カンだけでなく白人たちにまで広がり、高い評価を得た。 白人によるリンチは 1880 年代に急増し、1890 年代にピークを迎える。このような現象 の要因として、これまではアフロ・アメリカンたちは所有物であったが、奴隷解放された 時点で奴隷主の所有物であるという概念が削除されたためである。また当時の白人男性は、 黒人男性と白人女性の性的接触とその可能性を恐れていたため、アフロ・アメリカンたち に暴行を与えることで自分たちの力を示そうとして多発していた。 また世界大戦中にはアメリカ各地でリンチと同時に人種暴動が多く起こった。1943 年に はアメリカ全土 47 都市の中で 125 件の人種暴動が発生した。811943 年 6 月に起こったデト

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ロイト暴動は特に深刻なものであった。黒人地区のベル島に 10 万人の人々が集まっていた が、そこで白人とアフロ・アメリカンの喧嘩が引き金となって全市を巻き込む人種暴動へ と発展した。この暴動が発生してから3日後に連邦軍が出動したものの、市全体の4分の 3が被害にあっており、アフロ・アメリカン 25 人、白人9人が死亡し 1000 人近くの負傷 者出た。また軍需産業雇用のために都市に人口が集結したが、公共住宅の建設に間に合わ ない上にその9割は白人用であったなど、数々の原因から人種暴動が全国的に同時発生し た。82

第二節 公民権運動と社会現象

1940 年代後半から 1960 年代中旬に起こった公民権運動は、アメリカの全ての人にあら ゆる分野における法的平等を保障する公民権法の成立を目指した抗議運動である。アメリ カ南部のアフロ・アメリカンの間で人種差別に反対する動きが活発になったことから始ま った。 1938 年人種隔離撤廃に向けた裁判闘争が起きた 1896 年には「分離すれども平等」とい の原則にとどまり、アフロ・アメリカンに確実な平等が保障されていない事実を取りあげ ることから始めた。1938 年最高裁アフロ・アメリカンのための平等なロースクールを設 置することは義務であると宣言した。オクラホマ州黒人のために別の座席や図書館の場所 を指定する形でアフロ・アメリカンを州立大学に受け入れると、1950 年、最高裁は「平 等には心理的、社会的要素が含まれる」として改善を求めた。最高裁判所はすでにアメリ カ全国各地のいくつかの地域で起こっていた、初等教育の人種隔離をめぐる裁判をまとめ て「ブラウン対教育委員会」裁判として審理を開始した。5つの訴訟を一括して行った裁 判の原告代表となったアフロ・アメリカンであるオリヴァー・ブラウンは、カンザス州の 牧師の補佐だった。彼は小学3 年生の娘が近隣の白人学校に通えず、遠くの黒人学校と呼 ばれるバスで通わなければいけない事実に抗議して、訴訟に加わった。この裁判は長引 き、9人の判事の意見は割れたままであったが 1954 年に全員一致で「隔離は本来的に不 平等」であると「ブラウン判決」が下された。83この判決では「子供たちを人種のゆえに 分離して教育することは、黒人の子供に社会における自分たちの地位について劣等意識を 抱かせ、その劣等意識は彼らの情操と頭脳とに癒すことのできない悪影響を与えかねな い。(中略)われわれは、人種分離の教育施設は本来的に不平等であると結論する」84

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された。 アフロ・アメリカンたちはこのブラウン判決を新しい時代の始まりだと感じ取ってい た。1955 年、アラバマ州モントゴメリーのバスで、15 歳のアフロ・アメリカンの少女が 市条例に定められている事柄による運転手の命令に逆らい、白人にバスの席を譲らずに 「私がここに座るのは憲法に保障された権利だ」と訴え、逮捕された。この出来事が発端 となり、この街での人種隔離立法への挑戦が始まった。 また同年にはアフロ・アメリカンの女性、ローザ・パークスもバスの中で、座席から移 動することを拒否したことで、人種分離法違反で逮捕、投獄され、その後にモンゴメリー 市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告されるという事件が起きた。この街では中産階級 のアフロ・アメリカン女性を中心とした女性政治会議組織されており、ローザ・パークス の公判に合わせて次の月曜日1日だけのバス・ボイコットを呼びかけるビラがアフロ・ア メリカンたちのコミュニティーに配布された。この運動は地元の人々が自発的に始めた運 動で、バス・ボイコットが予定されていた当日には、アフロ・アメリカンの居住区におい てバスに乗車するものはほとんどいなかった。この日の午後にアフロ・アメリカンのコミ ュニティーで指導者を務める人々が集合してモントゴメリー改善協会を作り、ボイコット を継続することを決め、およそ1年間続くこととなる。そして当時まだ 26 歳であったマ ーティン・ルーサー・キング牧師を運動全体の指導者として迎えることになった。このバ ス・ボイコットは、継続的な集会活動に支えられ、白人たちの激しい攻撃や策略をはね返 した。そして 1956 年に最高裁判所「人種隔離バスは憲法違反」との判決を下し、強制執 行命令がモントゴメリーに送られ、それまでアフロ・アメリカンたちが座ることを禁止さ れていた バスの前方に合法的に座ることができるようになった。85

第三節 アフロ・アメリカンの平等への道

この公民権運動で主に活躍したのはマーティン・ルーサー・キング牧師(Martin Luther King, Jr. 1929年-1968年)であり、黒人公民権運動の超越的指導者になった。 彼は並外れた思想的に高みに立つ勇気ある宗教指導者であり、大衆運動家としての柔軟で 鋭い感性を備えていた。彼はボイコット運動継続を決めた集会参加者に最高裁判所への意 義や自分たちに与えられていない権利について強く呼びかけた。またキングの提唱した運

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動の特徴は非暴力主義である。非暴力主義は、無抵抗で弱腰の姿勢とされていたが、キン グは非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足し ている」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中に明らかにする、とした。 アメリカ各地で公民権運動が起こる中で、キングたちは首都ワシントンで、リンカーン の奴隷解放宣言100年を記念する大集会を開いた。この1963年のワシントン行進は、公民 権運動を確実に成立させるよう政府に圧力をかけるために行われた。国民世論の支持を勝 ち取ることを目的としたこのワシントンでの集会は、決して暴力的混乱を起こさず、逮捕 者を1人も出さないことが目指された。そのため会場周辺の準備は周到に行われ、当日は どんな服装で集まり、どんなスローガンを掲げるか、そしてどのような演説や演奏を行う かなどが細かく決められた。86 3200人が5日間80キロを超えるモントゴメリーへの投票 権法要求行進に出発した。ここに白人フォークシンガー、ジョーン・バエズの曲、「We Shall Over Come」が響いた。当日の参加者は20万人を超える大規模なものでそのうち5 万人は白磁Nが含まれていた。モントゴメリーに到着後、この集会の最後にキングは壇上 にあがり、「私には夢がある」と題された演説を行い、このアフロ・アメリカンの公民権 運動がキリスト教的理想で自由と平等というアメリカの根本的原理のための運動であるこ とを宣言し、人種差別の撤廃と各人種の協和という理想を強く訴えた。このワシントン行 進は秩序正しく遂行され、アメリカ人が人種差別問題に真剣にとりくんでいる証拠とし て、世界中に宣伝された。そしてその後1964年に公民権法が成立した。87 この公民権運動はアメリカにおけるアフロ・アメリカンや弱い立場にあった人々 にとって 最も重要な歴史的体験であると言える。 1950 年代後半から 1960 年初頭における勝利を通じてアフロ・アメリカンは誇りを取り 戻した。その結果社会に対するアフロ・アメリカンの期待は現実社会を上回ることとなる。 この傾向は北部で多く起こっていた。一方で北部が問題としている都市のスラム居住者の 問題は、南部の人種分離や市民権剥奪の問題よりも手強いことだとされるようになった。 特に若いアフロ・アメリカンの中では社会の現状に対して幻滅感が蔓延していた。このよ うな状況で、下層階級に小規模な黒人分離主義的宗教集団であった「ネイション・オブ・ イスラーム(NOI)」の教養が注目を集め始めた。NOI の最も著名な代弁者であったマルコ ムX(Malcolm X、1925 年-1965 年)の演説はアフロ・アメリカンの中でも過激派に当た る人々を惹きつけた。過激派は、社会的統合や文化的な同化に対する疑問を持ち、疎外状

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