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横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について

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国立歴史民俗博物館研究報告 第118集 2004年2月 Changes ill the Environment of the Hirasakugawa River Lowlands in      Yokosuka City and Development in the Middle Ages

中三川昇

       はじめに 0平作川低地周辺地域の中世以前の遺跡と自然環境     ②平作川低地の中世遺跡と自然環境  ③蓼原東遺跡を取り巻く環境変化と地震災害        まとめ

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 中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺 物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について 考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し, 現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代まで は古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀∼8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現する が比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や 蓼原東遺跡なとが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島 中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考え られるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多 様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘なとの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣 地に水田や畑の存在が想定されるなと生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の 相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉 市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海 進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガン亜属主体の林相が出現し,中世には ニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材なととし て周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後, 短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域 の樹木伐採なとに起因する環境変化の影響が想定された。

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国立歴史民俗博物館研究報告 第118集2004年2月

はじめに

 中世都市鎌倉については,鎌倉旧市街地内での発掘調査の進展により多くの知見が得られるに至っ てきたが,その後背地となり鎌倉に対する海産物や薪炭などの日常的な物資の供給地として,密接な 関連があったかと予想される隣接地域の実態については,発掘調査事例も少なく,未だ判然としない 点が多い。  本稿では中世都市鎌倉に隣接する三浦半島地域の過半部を占める神奈川県横須賀市にあって,縄文 時代以来の環境変遷が一定程度把握され,かつ中世期の環境を具体的に考察し得る資料のある平作川 低地の遺跡,中でも12世紀代から15世紀代までの遺構・遺物や15世紀代の貝塚などが発掘された     く   蓼原東遺跡を主な対象として,都市鎌倉隣接地域おける中世の地域開発の様相の一端と背景について 考えてみた。 図1 関連遺跡位置図 0・・

平作川低地周辺地域の中世以前の遺跡と自然環境

1 中世以前の遺跡

       (2)      (3)  平作川低地周辺地域に遺跡が形成されるのは概ね縄文時代早期以降で,茅山貝塚や吉井貝塚,江戸   くの 坂貝塚などの早期∼後期の貝塚が,平作川低地に面した岬状の丘陵部に営まれるが,縄文時代晩期に       べうタ は久里浜湾南側の丘陵裾部付近で僅かに若干の土器片が出土するのみとなる。弥生時代中期後半に再        くい       しアノ び茅山貝塚や吉井貝塚などに集落が出現し,古墳時代中期頃までは三足谷遺跡,上吉井南遺跡,神明

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[横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について]・・…中三川昇

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       1」 図2 平作川低地と周辺地域の主要遺跡分布図    のラ 谷戸遺跡などの遺跡が丘陵地域内に営まれる。       く        ほの  古墳時代中期から後期に至ると平作川河口近くの砂堆上に八幡神社遺跡群や蓼原遺跡などに古墳が 築かれ,7世紀∼8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が蓼原遺跡に出現するが短期間で廃絶し,以       ロロ 後砂堆上では遺構・遺物が希薄となり,大餅遺跡を初め同時期の集落の大半は丘陵地帯に立地する。  以上のような変遷は,基本的には後述する縄文海進期に形成された古平作湾と,その後退過程に対 応した在り方であったと考えられるが,9∼10世紀代の砂堆上での遺構・遺物の希薄さは,局地的な       ほ ラ 環境変化に起因する現象とも考えられている。

2 中世以前の自然環境

 古地理の変遷        ぐユヨラ  本稿で対象とする平作川低地は,三浦半島最大の河川である平作川の下流域に当る地域である。平 作川の沖積低地は,現況では河口部から上流約2.5km付近までの幅が約1km程で,表面高度は河 口から上流3.5km付近までが標高3m以下と低平な沖積面となっている。また,河口近くには幅が 最大400m程の久里浜付近の砂堆1と,幅約200 m程で現海岸線付近に位置する砂堆IIの2列の 砂堆が現海岸線に平行する形で発達している。  平作川低地の最終氷期から現在までの古地理変遷については,試錐資料や路頭調査資料などに基づ        りの く幾つかの研究成果が発表されている。これらの成果によると,最終氷期の平作川は現河口部で標高

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国立歴史民俗博物館研究報告 第118集2004年2月     u ca6,500 ∼5500yrs BP ’{“,       己%∼ち

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      9〔ヨコ /( ご 1.旧海岸線 2.砂堆 3.波食台 4.海成砂 5.海成シルト 6.海成粘土 7.泥炭 8、丘陵 9、縄文時代の貝塚・遺跡 10.干潟群集 11.内湾砂底群集 12.内湾泥底群集 13,岩礁群集 14.現海岸線 図3 平作川低地における完新世の古地理の変遷 一50mに及ぶ深い谷となっていたが,約9000年前頃に始まった縄文海進により古’P作湾が形成さ れ,縄文海進最盛期の約6500年前頃には海水面が現河口より約6km上流付近まで達していたと推 定されている。同時期には湾奥部の浅海域が干潟となりマガキ他の干潟群集が形成され,湾中央部の 砂質底環境の水域にはアサリ他の内湾砂質群集が形成され,波食台の形成された地域にはツボミ他の 岩礁群集が形成され,マダイ・クロダイなどの内湾性の魚類が回遊する環境であったと推定されてい る。以後は海退に転じ約4000∼5000年前より砂堆1が形成され始め湾の閉塞が始まる。約2000年 前頃には砂堆1がさらに発達し古平作湾を二分する形となり,砂堆1背後の内湾は広い干潟域となり, 現海岸線付近でも砂堆IIが形成され始める。以後河口付近の砂堆はさらに発達するが,湾口を閉塞 することはなく,現流路とほぼ同じ位置に細長い「潟域が残存し,万治3年(1660)に始まる新田 開発により河口近くの一部を除くほぼ全域が陸地化したと想定されている。  なお,久里浜湾南岸の丘陵裾部付近には衣笠断層系の活断層が存在し,活断層の南側は継続的に隆       しユぶ起しており,海水面の変移とともに当地域の環境変化の要素の一つとなっている。  植生の変遷  縄文時代以降の高木類を主とした植生の変遷を概観するが,平作川低地で縄文時代以来の植生変遷 を窺える事例が少ないため,まずは三浦半島内で唯一縄文時代から占代までの植生変遷が考察された          ぴ 逗子市池子遺跡群での様相をみてみることとする。  池子遺跡群での花粉分析結果によれば,14C年代(以下略,暦年代補iE無し)で7,700 yrsBP∼ 7,400yrsBPの縄文海進初期頃にはナラ類他の落葉広葉樹に常緑広葉樹のカシ類他が少量見られる暖 温帯性の落葉広葉樹林が存在し,5,000yrsBP頃からアカガシ亜属を主とする照葉樹林が発達し始め, 縄文晩期頃にはナラ類が減少し常緑性のカシ類・シイ類が増加し,陸地化した谷底低地に集落や水田

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[横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について]・一・中三川昇 などが営まれる弥生時代中期も前代とほぼ同様な森林が存在したが,カシ類を中心に用材や薪炭材と        (17) しての伐採が行われ,集落近辺の森林は二次林化が進行したと考えられている。大型植物化石の分析 結果では縄文時代晩期から平安時代までは基本的にコナラ属アカガシ亜属が優先する常緑広葉樹と落       (18) 葉広葉樹・常緑針葉樹の混合林であったと想定されている。木製品及び自然木樹種の分析結果では, 弥生時代中期にはアカガシ亜属が多く利用され,古墳時代から平安時代にはアカガシ亜属の利用は減 少しスギ・ヒノキ他の針葉樹類が活発に利用され,近世には新たにマツ属が箱・膳・下駄などの製品 に使用され始め,この間に生じた植生変化により,近世には近隣の用材としては二次林性のマツ属し       (19) か選択できなくなった可能性が指摘されている。ちなみに,鎌倉市永福寺での花粉化石の分析では 12世紀末∼13世紀末までは近隣にスギ林及び照葉樹林が存在したが,以後森林破壊が進行しマツ属       (20) が圧倒的に優先する環境に変化したと指摘されている。  横須賀市内の事例では,東京湾に面した横須賀市役所地下の8,000∼7,500yrsBPの堆積物の花粉       (21) 分析が行われ,シイ属の花粉化石が高率で出現することが確認され,久里浜湾南岸の丘陵裾部の谷戸 内に位置する「入り自然貝層」では,3,000∼50,000yrsBPとされる自然貝層中の花粉分析が行われ,       (22) 木本類ではシイ属が約60%と優先し,近隣にシイータブ林が存在したと想定されている。また,三 浦半島北部に位置する錠切遺跡では4世紀頃の堆積層の花粉分析が行われ,アカガシ亜属とシイ属        (23) の花粉が優先し,近隣地にシイ・カシ類の照葉樹林が存在したと想定されている。さらに,半島中部 に位置する小荷谷戸遺跡では9世紀後半の井戸覆土の花粉分析・植物珪酸体分析が行われ,木本類 ではスギ・アカガシ亜属が優先し,草本類ではイネ科・ヨモギ属などが優先しており,周辺地域は林       (24) 分が少なく開けた草地主体の環境であったと想定されている。これらの分析結果を池子遺跡群での分 析結果と比較すると,シイ属が優先する時期が早い点で相違するが,以後の植生は基本的にはほぼ同 様であったと考えられる。 ②・

・平作川低地の中世遺跡と自然環境

1 中世遺跡の立地と概要

 概 観  中世の平作川低地は,既述のとおり古平作湾内に2列の砂堆が形成され,奥部に干潟状の内湾が 広がる環境が想定されている。図4に網点で示した部分は17世紀に新田開発で陸地化した地域で, 中世には内湾または干潟域であったと想定される地域である。当地域は治承4年(1180)の源頼朝 挙兵に伴う「衣笠城」の合戦で敗退した三浦義澄以下三百余騎が安房に逃れた「栗濱の御崎」であり, 古平作湾南岸の砂堆1には養老4年(720)創建とされる八幡神社が所在し,八幡神社遺跡群や蓼原 東遺跡,蓼原遺跡などが12世紀後半∼末頃に出現し,湾口部には寿永元年(1182)に源頼朝が神馬 を奉献した住吉社が所在する。この他,古平作湾奥部の北岸には三浦氏の城郭とされる「怒田城」跡 があり,隣接地には字「舟倉」の地名が残る。このように,当地域は中世前期の三浦氏との密接な関 連が窺われ,かつ港湾的性格をもった地域であったと推察される。

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国立歴史民俗博物館研究報告 第]18集2004年2月  八幡神社遺跡群  八幡神社遺跡群は古平作湾を二分する標高3m 前後の砂堆1に立地する主に古墳群と中世の遺構 群からなる遺跡で,古墳時代では中・後期の円墳 3基なとが発掘され,埴輪を伴う古墳の存在も予 想されている。  中世の遺構としては12世紀後半∼15世紀代ま での掘立柱建物趾,竪穴状遺構,土坑柱穴群なと が発掘され,手つくねかわらけを含む同時期のか わらけや,常滑編年の1b期に該当するランタム        ぐ うラ 押印の施された甕を含む常滑・渥美・古瀬 なと の陶器類や龍泉窯系青磁碗なとが出⊥している。  八幡神社遺跡群出土の遺物を後述する蓼原東遺 跡の出1二遺物と比較すると,蓼原東遺跡で多量に 出十した漁具類や調理具である鉢類の出土量は極 めて少なく,出土遺物に占めるかわらけの比率が 高いなと,生産や日常生活に関わる遺物が僅少な 点が特徴的であり,同遺跡群は八幡神村の境内や, それに隣接した屋敷地なとであったかと推察され イ ラ る。

翻内川新田

0 lk● ●中世土器・陶磁器類出土遺跡O寺社・城館跡(伝承地・推定地を含む)△墓石 1,蓼原東遺跡2,佳吉神社3,八幡神社4,推定「薬巌寺跡」 5,椎定「高山館跡」 6八幡社遺跡群7,蓼原遺跡8,蕃原東遺跡隣接地9,薬厳寺銘墓石      図4 平作川低地の中世遺跡分布図  蓼原東遺跡  蓼原東遺跡は砂堆1東南部の低湿地帯に面した標高2mほとの砂堆に立地する遺跡で,453 m2と 狭い調査面積ながら,12世紀末頃から15世紀代までの掘立柱建物祉・ヒ坑・柱穴なとと,15世紀 に形成された貝塚なとが発掘された。  本遺跡の貝塚は陸地化した砂堆と低湿地帯との境界部分に形成されたもので,下部貝層群と上部貝 層群とに分離され,貝塚に接する低湿地帯にはト部貝層群に連なる水中拡散貝層が認められた。  この貝塚が形成された時期には,貝塚の南側に2棟の掘立柱建物埴が相次いで築かれ,この近辺 からは管状土錘や鉄製釣針他の鉄製品なとが集中して出土し,貝塚と建物趾との中間地域からは碗形 津を含む鉄浮が出土し,貝層中から輪の羽口も出土するなと,15世紀代にはSBO1・02なとの掘立 柱建物祉を中心に鉄製漁具の生産を行いながら,漁労・採貝活動なと活発に行われたものと推察され る。  主な出1,遺物は12世紀末頃から15世紀代までの貿易陶磁を含む陶磁器類,かわらけ他の土器類, 鉄製釣針・ヤス先や組合式釣針柄,管状1錘なとの漁労具,ブイコ羽口,鉄津,開元通宝∼政和通宝 までの中国銭なとで,貝塚からはイボキサゴ・アサリ・ハマグリなとの内湾砂泥底種の貝類やサザエ なとの軟体動物遺存体が多量に出土したが,ハマクリやサザエ蓋なとの大きさには自家消費的な廃棄 の結果とするには不自然な偏在性が認められ,また出土した漁労具に対応する魚骨の出土量も極めて

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[横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について]……中三川昇

1

埴輪片出土範囲          !

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⑥〆つ,〃\.、 一・一てoo 図5 八幡神社遺跡群の調査地点と主な出土遺物 。久里浜中学校  A地点 2号墳(SDOD

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\ス   、^“・’ ・ 水軸撒貝層

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0      5m 図6 蓼原東遺跡の遺構分布図

(8)

国立歴史民俗博物館研究報告 第118集2004年2月       く の 少なく,獲得された魚貝類が遺跡外に搬出された可能性が指摘されている。しかし,出土した土器・ 陶磁器類には底部内外面無調整のロクロ成形のかわらけや手つくねかわらけ,伊勢型鍋,渥美焼の甕 類など,神奈川県内では鎌倉以外には出土例の少ない中世前期の遺物も多く,貿易陶磁やかわらけの 出土量も多い点などから,単なる漁業村落の一部分とのみ評価することは出来ない遺跡でもある。か つてこれらの土器・陶磁器類のうち中世前期の遺物に関し旧鎌倉市街地での出土様相との比較を試み たが,その結果,本遺跡出土遺物は土器陶磁器類の構成比率では鎌倉海岸部の遺跡と近似し,かわら けを除く土器・陶磁器の構成比率では鎌倉武家屋敷地区の遺跡に近似する結果となったが,調査面積 1m2当りの遺物出土量では旧鎌倉市街地の遺跡の平均約59.3点に対し本遺跡は2.61点と,量的に は隔絶した差異が存在することが明らかとなった。しかし鎌倉に隣接する中世の都市近郊村落と考え られる逗子市池子遺跡群では1m2当りの出土点数は僅か0.01点に過ぎず,本遺跡が鎌倉周辺地域に       く ラ あってはやや特異な性格を有する遺跡であったことが窺われた。このような傾向は漁労具や貝塚の存 在から予想される漁労遺跡としての印象とは必ずしも整合せず,本来は中世都市鎌倉近郊の拠点的遺跡     白磁     ’

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       銅銭(開元通賓∼政和通宝まで31枚出土)        図7 蓼原東遺跡の主な出土遺物 ○

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(9)

[横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について]・・…中三川昇        く  ラ の一部分で,15世紀代を中心に活発な漁労・採貝活動をあわせて行った遺跡であったと推察される。 ③・・ ・

蓼原東遺跡を取り巻く環境変化と地震災害

1環境変化

 蓼原東遺跡では遺跡周辺の古環境復元を目的として,貝層及び隣接するシルト質堆積層を対象に花        (30) 粉分析・植物珪酸体分析・珪藻分析などが行われている。  花粉分析や植物珪酸体の分析結果では,下部貝層群12層と上位のシルト質堆積物群第VI層では ニョウマツ類主体のマツ属が優先し,イネ科やカヤツリクサ科の草本花粉が高率を占あ,遺跡近辺は 開けた場所で,近隣にニヨウマツ類主体の植生が存在し,サジオモダカ属・オモダカ属・ミズアオイ 属などの水田雑草類と,サンショウモ・アカウキクサ属などの水生植物も検出され,近隣地にこれら の水生植物が生息した水湿地帯が存在したと推定されている。また,少量ではあるがソバ属も検出さ れている。  次に珪藻分析の結果では,全般的に淡水性の珪藻化石が80%以上を占あるが,貝層中と下位のシ ルト質層群では貝層の影響のためか塩分濃度の高い水域に生息する珪藻化石が多く,シルト質層は塩 類の集積し易い富栄養化淡水域で河川等の流水の影響を受けた水成堆積層であったと推定されている。 また,上部貝層下のII∼V層は比較的海水生種が多く,下部貝層を破壊した地震に起因する津波の影 響かと推察されている。さらに上部貝層群上のII層は流水性の珪藻が多く,流水の影響を受け堆積 した層と考えられ,貝塚廃絶時の前後で遺跡を取り巻く環境が大きく変化したことが窺われる。  なお,貝層出土の軟体動物遺存体は内湾砂泥底種であるイボキサゴ・アサリ・ハマグリなどが約 90%を占めるが,少量ながらも淡水性種のマルタニシも出土しており,水田雑草の花粉の存在から も近隣地に水田が存在したと考えられる。  以上のような点から,15世紀以前の蓼原東遺跡周辺地域は,遺跡の立地する砂堆上は草本類が卓 越した開けた土地で,近隣の丘陵部などにニョウマツ類主体の植生が存在し,近隣に小規模ながらも 水田や畑が存在し,遺跡の北側には砂泥底質の内湾や干潟が広がる環境であったと推察される。 標高(m) 加一上部貝層群 15一    ノ2下部貝層群

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x層:   繰黒色砂    12層1ハマグリ・キサゴなどを含む混貝砂燈、15層:ハマグリなどの貝殼破片を含む砂層 ①∼⑬:試料番号     ■:試料採取位置        8:砂層または砂     [:iZZiこ] :貝層  ⇔:貝の傾斜方向        図8 蓼原東遺跡珪藻・花粉分析資料採取位置図

(10)

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(11)

表1 蓼原東遺跡の花粉分析結果 種 類(Taxa) 試料番号  ② ⑤ ⑩

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114 196 330 920  1  3 194 230 6391349 璽■〔 目口竺 e◎㊤     随 匝箭仏 鰹 井賦ムミへ 図10 蓼原東遺跡における花粉化石の層位分布 11,98% 3.98% 上部貝層群の軟体動物組成 ‘7,30%      38.8396 下部貝層群の軟体動物組成 .49% ㌘イポ村ゴ  ハマグリ 壕マガキ ロ その他 1川17サ1ノ ■スガイ ≡ シオフキガイ 図11蓼原東遺跡貝塚の軟体動物組成グラフ

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国立歴史民俗博物館研究報告 第118集2004年2月

2地震災害痕

 蓼原東遺跡では中世の貝塚形成中と遺跡廃絶後に地震災害を受けている。前者は出土遺物から明応 7年8月25日(西暦1498年9月20日)に発生した「明応東海地震」またはそれ以前の地震による   (31) もので,15世紀に形成された貝塚中に地割れを生じさせるとともに,砂堆上に幾つかの小規模な噴 砂痕を残している。後者は遺跡廃絶後の堆積層を貫く砂脈を多数発生させた地震であり,ここでは 15世紀代に生じた地震災害のみ取り上げる。  明応7年以前と考えられる地震は,貝塚の下部貝層群中に地割れを生じさせているが,この地割 れは同時進行的に堆積した砂層(V層)とシルト質層群(VI層)とが指交構造を呈して交わる弱線 で発生したもので,最大幅53cm,深さ59 cm以上,長さ約20 m以上の規模を持つ。貝塚部分では Vc層とVI層・水中拡散貝層群との境で発生し,下部貝層の一部が陥没している。この地割れ層の

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図12蓼原東遺跡の地割れ・砂脈等の分布と断面

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[横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について]・・…中三川昇 直上には混貝砂シルト層や泥岩小礫の礫層などの薄層が下位層とは不整合に堆積しており,地震に伴 う津波の痕跡かと推察されている。以後,小規模な上部貝層群が形成されるものの,短期間のうちに 遺跡は廃絶し,低湿地部に砂礫層が堆積した後,流水などに伴い堆積したと考えられる厚さ60cm 前後のシルト質土層・砂礫層・砂層等の互層(II∼V層)に厚く覆われ人為的な活動の痕跡は認めら れなくなり,この間に周辺地域を含め大きな環境変化があったことを示唆している。

まとめ

 平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や古地理,古環境の変化などから当地域における中世の 開発や災害の一端について考えてみた。平作川低地は縄文海進期に形成された古平作湾の後退と砂堆・ 沖積低地などの形成過程に応じて,古墳時代以降に砂堆主体の低地に遺跡が丘陵上から進出してくる が,日常生活の場として本格的に利用され始めるのは12世紀後半頃からで,古平作湾南岸の砂堆上 に八幡神社遺跡群や蓼原遺跡,蓼原東遺跡などの遺跡が形成され,概ね15世紀代まで土地利用がな されている。  これらの砂堆上に立地する中世遺跡の性格については判然としない点も多いが,八幡神社遺跡群は 日常的な生活要素がやや希薄で神社境内と隣接する屋敷地の一部かと想定され,蓼原東遺跡について は15世紀代には水田や畑作なども含めた活発な生産活動が行われた遺跡であったと考えられた。こ のように,両遺跡は一見対照的な様相を呈しているが,基本的には東京湾内の交通・物流など拒する 港湾的性格を持った三浦半島東京湾岸地域での拠点的な場の一部として出現した遺跡であると考えら れ,その出現の背景には初期の鎌倉幕府内で有力な勢力であった三浦氏の存在があったと推察され, 両遺跡間に認められる出土遺物の様相の相違は,同一砂堆上に立地する遺跡群の中での場としての機 能分化を示すもので,本来は相互補完的な性格を有する一体の遺跡群であったと推察されよう。  15世紀代の蓼原遺跡では釣漁・刺突漁・網漁などの漁労や貝類の採集活動,水田や畑の存在も想 定されるなど,平作川低地の砂堆上に中世遺跡が出現して以来,船手衆として海上交通の拠点を担っ たと想定される人々の日常的な生業の様相が示されている。また,同遺跡で獲得された魚介類の一部 は選択的に遺跡外に搬出されたと推察され,時期的には中世都市鎌倉の盛期とは重ならないものの, 鎌倉市内の中世遺跡から多量に出土する海産物供給地の具体的様相の一端が窺われた。  平作川低地周辺地域の林相は縄文海進期のシイータブ林等の照葉樹林を主体とした林相から,平安 時代にはスギ・アカガシ亜属が優先する林層に変化すると推察されたが,中世の蓼原東遺跡周辺地域 は低地部が草本類の優先する開けた場所で,近接する丘陵部は二次林性のニヨウマツ類主体の林相を 呈していたと推察された。鎌倉市永福寺跡や逗子市池子遺跡群で示された植生変遷同様,平作川低地 周辺地域でも中世期に丘陵部の山林伐採が盛んに行われたことを示唆する現象と考えられ,伐採され た樹木の一部は海産物同様に中世都市鎌倉を支える各種用材あるいは薪炭材などとして流通したと考 えられよう。蓼原東遺跡は廃絶後,洪水ほかの流水に伴い形成された厚い砂礫層やシルト質層などの 互層によって短期間のうちに埋没している。この事象は山林伐採などの影響も背景にあると考えられ るが,基本的には環境変化による当地域の港湾的機能低下を示唆している。このような環境変化と後 北条氏による地域支配再編などにより16世紀代以降三浦半島東岸中部の拠点的港湾機能はより北方

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国立歴史民俗博物館研究報告 第118集2004年2月 の浦賀地域に移動したと考えられる。  以上,平作川低地の中世遺跡を主な対象として,同地域における中世の開発と環境変化の一端につ いて考えてみたが,当時三浦半島では中心的地域であったと考えられる平作川の中・上流域や支流域        (32) などについては発掘調査事例が皆無に近く触れることができなかった。この地域は鎌倉に近接する逗 子市池子遺跡群と本稿で対象とした平作川下流域との中間地でもあり,今後これらの地域での発掘調 査事例や自然科学的な分析事例が増加すれば,中世都市鎌倉に隣接する三浦半島地域の開発と環境変 化の実態はより鮮明になるものと思われる。なお本稿は平成12年7月2日に逗子市で行われた研究 会での発表内容をまとめたもので,研究会の方々からは多くのご教示を得た。また本稿を記すにあたっ ては斎木秀雄,中野晴久,野内秀明,渡辺直哉氏らの各氏からご教示・ご協力を得た。末尾ながら記 して感謝の意を表したい。 註 (1)一横須賀市教育委員会 1995「蓼原東遺跡』横須 賀市埋蔵文化財調査報告書 第5集  詳細は後述。 (2)一縄文時代早期茅山式土器の標識遺跡。縄文時代 早期の斜面貝塚と前期の住居趾内貝塚が調査され,弥生 時代中期∼古墳時代中期の竪穴住居趾などが調査されて いる。 (3)一縄文時代早期∼後期の斜面貝塚が2カ所と,縄 文時代前期と弥生時代後期の竪穴住居祉,中世の空堀跡 などが調査されている。中世の怒田城跡伝承地。 (4)一縄文時代早期∼後期の斜面貝塚の一部が調査さ れ,丘陵上には弥生時代後期∼古代の土器片なども散布 する。 (5)一後述する神明谷戸遺跡や蓼原遺跡で縄文時代晩 期の土器片が若干出土している。 (6)一横須賀市教育委員会 1987「蓼原』横須賀市文 化財調査報告書第13集(第1分冊)  蓼原遺跡は平作川低地の海抜2mほどの砂堆上に立地 し,6世紀中頃の埴輪を伴う帆立貝形前方後円墳1基 (蓼原古墳)と古墳時代後期∼奈良時代にかけての竪穴住 居趾や周溝内の貝塚などが調査された。少量ながら縄文 晩期の土器片や中世のかわらけなども出土した。 (7)  横須賀市吉井・池田地区埋蔵文化財発掘調査団 1997『吉井・池田地区遺跡群1・H』  三足谷遺跡は谷戸に面した丘陵斜面部に立地し,弥生 時代後期の集落跡と方形周溝墓が調査された。 (8)一横須賀市吉井・池田地区埋蔵文化財発掘調査団 1997「吉井・池田地区遺跡群1・H』  上吉井南遺跡は丘陵内の谷戸状の緩斜面地に立地し, 弥生時代後期∼古墳時代前期と古墳時代後期∼平安時代 の集落跡,中世の土坑墓などが調査された。本遺跡の北 方には奈良時代を中心とした集落跡が調査された上吉井 北遺跡が所在した。 (9)一横須賀市教育委員会 1987『神明谷戸』横須賀 市文化財調査報告書 第13集(第2分冊),横須賀市教 育委員会 1991『神明谷戸遺跡U」横須賀市文化財調査 報告書 第22集  神明谷戸遺跡は平作川低地に面した谷戸内と斜面部に 立地し,古墳時代前期集落と方形周溝墓,古墳時代後期 ∼平安時代の集落跡などが調査され,若干ながら縄文時 代晩期の土器片も出土した。 (10)  横須賀市教育委員会 1991『八幡神社遺跡群』 横須賀市文化財調査報告書 第21集,横須賀市教育委員 会 1997『八幡神社遺跡 皿』横須賀市文化財調査報告 書 第31集,横須賀市教育委員会 1999「5.八幡神社 遺跡(248)」「埋蔵文化財発掘調査概報集V皿』横須賀市 文化財調査報告書 第33集  詳細は後述。 (11)一横須賀市吉井・池田地区埋蔵文化財発掘調査団 1997『吉井・池田地区遺跡群1・H』  大餅遺跡は平作川低地北岸の丘陵斜面部に立地し,古 墳時代後期∼平安時代にかけての集落跡が調査された。 同遺跡の立地する丘陵上では縄文時代早期の集落跡が調 査された大塚台遺跡と古墳時代後期の前方後円墳・円墳 各3基からなる大塚古墳群が調査されている。 (12)  横須賀市教育委員会 1987「蓼原』横須賀市文 化財調査報告書 第13集(第1分冊)  蓼原古墳は標高2m前後の砂堆上に立地する古墳であ るが,奈良時代の集落廃絶後に海水の冠水を受け,波蝕 などのため墳丘部を喪失したと考えられており,奈良時

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代以後に局地的な沈降現象が発生したものと思われるが, 同様な現象が古平作湾に形成された砂堆一帯に生じた可 能性も考えられる。 (13)一横須賀市東部を流れ,東京外湾に注ぐ流域面積 26.8km2,本流延長約8kmの平作川は,三浦半島内で は最も広い沖積低地を発達させた河川である。 (14)  太田陽子・澤真澄・蟹江康光 1988「第四章 地形」 『横須賀市史』(上巻)横須賀市,澤真澄・澤祥・ 松島義章 1988「三浦半島平作川の古地理」「神奈川の自 然と文化』板倉退蔵先生退官記念論文集,澤真澄・澤祥・ 松島義章 1994「三浦半島平作川低地の完新世の古地理 変遷」『第四紀研究』Vo1.33 No.2日本第四紀学会など (15) 横須賀市2000「横須賀の活断層』 (16)一財団法人かながわ考古学財団 1999『池子遺跡 群X 第4分冊 別編・自然科学分析編』 (17)  清水丈太 1999「第n章 第4節 花粉化石群 からみた池子遺跡群とその周辺域の植生史」『池子遺跡群 X 第4分冊 別編・自然科学分析編』財団法人かなが わ考古学財団 (18)一百原新・久保田礼・那須浩郎 1999「第n章 第5節 池子遺跡群の大型植物化石群」『池子遺跡群X 第4分冊 別編・自然科学分析編』財団法人かながわ考 古学財団 (19)一鈴木三男・能城修一 1999「第H章第7節 池子遺跡群出土の木製品および自然木の樹種」『池子遺跡 群X 第4分冊 別編・自然科学分析編』財団法人かな がわ考古学財団 (20)一鈴木茂・吉川昌伸 1994「鎌倉市永福寺跡にお ける鎌倉時代の植生変遷」『植生史研究2』 (21)一蟹江康光・松島義章・鹿島薫・大森雄治・小島 久美子 1985「横須賀市役所地下における完新統の古生 物と年代」 『横須賀市博物館研究報告(自然科学)』33 (22)  パリノ・サーヴェイ株式会社 1988「入自然貝 層の花粉分析」『伝福寺裏遺跡』横須賀市文化財調査報告 書 第16集 (23)一パリノ・サーヴェイ株式会社 1986「付偏(1) なたぎり遺跡資料 花粉分析および材・種子同定報告」 『鈍切遺跡』横須賀市文化財調査報告書 第12集 (24) パリノ・サーヴェイ株式会社 1994「付編 小 荷谷遺跡における自然科学分析調査」『小荷谷遺跡』横須 賀市埋蔵文化財調査報告書 第3集 (25)一赤羽一郎・中野晴久 1995「中世常滑焼の生産 地編年」 『常滑焼と中世社会』小学館  同編年1b期(1130∼1150年)の甕の出土事例は神奈 川県内では八幡神社遺跡群のみであり,初期の常滑・渥 [横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について]……中三川昇 美焼製品の流通経路を考える上で貴重な資料である。な お,同資料については常滑市民俗資料館の中野晴久氏に 実見していただき,常滑・渥美のいずれかは判断しがた いが,赤羽・中野編年1b期の製品であることを確認し ていただいた。 (26)一八幡神社遺跡群での調査地点での報告書に図示 された,かわらけとその他の土器・陶磁器類の点数は以 下のとおりである。社務所地点:かわらけ25点・その他 0点,町内会館地点:かわらけ16点・その他0点,八幡 神社前地点:かわらけ37点・その他9点(ランダム押印 甕を含む),久里浜中学校地点:かわらけ28点・その他 10点(他に時期不明管状土錘4点)。総破片点による比 較ではないため,概略の様相が窺えるに過ぎないが,遺 跡群北側にある八幡神社近辺の調査区では中世の遺物と してはほぼかわらけのみが出土し,同神社より離れた調 査地点ではかわらけ以外の器種も出土するが漁具類は少 なく,清浄な場としての神社境内と隣接する屋敷地といっ た土地利用がなされていた可能性が考えられる。 (27)一野内秀明 1995「第W章第2節 漁具につい て」・「第W章第3節 貝塚について」『蓼原東遺跡』横 須賀市埋蔵文化財調査報告書 第5集  出土した漁具類から組合式釣針=擬似針でカツオ,有 あぐの大型釣針でサメ・マグロ,小∼中型の無あぐの釣 針を用いた延縄漁でアジ・サバなどが漁獲され,多様な 管状土錘による網漁やヤスによる漁労が行われていたと 想定され,貝塚からはドチザメ・メジロザメの一種,ガ ンギエイ目の一種,カツオ,サバ,クジラ,ニホンアシ カなどが出土したが,量的には極めて僅かであった。ま た,貝塚から出土したハマグリ・サザエなどの大きささ が,商品として流通し中世都市鎌倉で消費されたものと 比べ相対的に小型のもので占められていることなどから, 獲得された魚貝類の多くが選択的に遺跡外に供給されて いた可能性が指摘されている。 (28)一中三川昇 1999「三浦半島における中世前期の 貿易陶磁について」『貿易陶磁研究集会 鎌倉大会資料集 一相模国・鎌倉市街地における中世前期の貿易陶磁の出 土様相一』貿易陶磁研究会・鎌倉市教育委員会・鎌倉考 古学研究所 (29)一中三川昇1995「第W章第5節まとめ」 『蓼原東遺跡』横須賀市埋蔵文化財調査報告書 第5集 (30) パリノ・サーヴェイ株式会社 1995「付編 蓼 原東遺跡の貝塚の古環境復元」「蓼原東遺跡」横須賀市埋 蔵文化財調査報告書 第5集 (31)一中三川昇 1995「第H章第2節 地震痕」『蓼 原東遺跡』横須賀市埋蔵文化財調査報告書 第5集

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国立歴史民俗博物館研究報告 第118集2004年2月  貝層を破壊した地割れ中出土のかわらけや,他の出土 遺物の様相及び,地震発生後に津波被害を受けた可能性 が高いことなどから,近隣の鎌倉での津波災害が記録さ れている明応東海地震を想定したが,現在では出土遺物 に瀬戸・美濃系の大窯製品が皆無である点などから,さ らに遡る時期の地震であった可能性があると考えている が,特定困難なため本稿では報告書記載のままとする。 (32)一平作川上流域の横須賀市公郷地域には7世紀末 頃に創建されたと考えられる宋元寺(現曹源寺)が所在 し,近隣地に古代律令制化の御浦郡衙が所在した可能性 が高いと目されており,平作川支流の大矢部川流域は平 安時代末期から鎌倉時代初期にかけての三浦氏の本貫地 であったと考えられている。 挿図・表出典一覧 図1・図2:今回作成 図3:澤真澄・澤祥・松島義章 1994「三浦半島平作川低地の完新世の古地理変遷」『第四紀研究』Vo1.33 No.2より   一部改変して掲載 図4・6∼12,第1表:横須賀市教育委員会 1995『蓼原東遺跡』横須賀市埋蔵文化財調査報告書 第5集より一部改    変して掲載または作成 図5:横須賀市教育委員会 1991『八幡神社遺跡群』横須賀市文化財調査報告書 第21集,横須賀市教育委員会    1999「5.八幡神社遺跡(248)」『埋蔵文化財発掘調査概報集W』横須賀市文化財調査報告書 第33集より作成 (横須賀市教育委員会,国立歴史民俗博物館共同研究研究協力者)          (2002年6月3日受理,2003年7月18日審査終了)

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CIlanges in tlle Environment of tlle Hirasakugawa River Lowlands in Yokosuka City and Development in the Middle Ages NAKAMIKAwA Noboru An investigation of aspects of development and background factors has been made of archaeological sites dating from the Middle Ages situated in the lowlands of the Hirasakugawa River in Yokosuka City, Kanagawa, Japan that neighbors the medieval city of Kamakura, using excavated relics, environmental changes and traces of natural disasters. While there are remains dating from around the丘fth century on the sandbanks fbrmed as a result of the recession of the fbmler Hirasaku Bay that was㊤med in the Hirasakugawa lowlands as a result of the Jomon transgression, sandbanks were not used on any sizeable scale as a space in which to conduct everyday life until after the second half of the twelfth century. Remains such as the Hachiman Jinja Shrine sites and the Tadehara−higashi archaeological site have been discovered on the sandbanks, and in general continue up to the丘fteenth century. Both sites are considered to have been part of central locations in the central part of the Miura Peninsula which had port−1ike aspects and are thought to be the remains of a series of places that had a mutually complementary relationship. However, whereas very few remains excavated from the Hachiman Jinja Shhne site have elements related to daily life, many kinds of earthenware and ceramic ware as well as fishing implements such as hooks and anchors have been excavated from the Tadehara−higashi site. With the creation of a shell midden in the fifteenth century and the assumption of the existence of wet rice paddies and fields in neighboring areas, there are striking traces of productive activity, all of which suggest differences in the way in which places on the same sandbanks were used. It is assumed that some of the various kinds of fishing implements obtained from the Tadehara−higashi site were selectively transported outside the area, suggesting that it may have been one area that supplied manne products whose remains have been excavated from medieval sites within Kamakura City. The fOrest in the region adjacent to the Tadehara−higashi site changed from being mainly a laurel fbrest during the period of the Jomon transgression to becoming a fOrest of cedar and sub genus Japanese evergreen oak during the Heian Period, later changing into a forest consisting mainly of diploxylon−type pines during the Middle Ages. Thus, as with marine products, we may conjecture that trees in the regions near the Hirasakugawa River lowlands were felled in large quantities to supply wood, fire− wood and charcoal to support the medieval city of Kamakura. The Tadehara−higashi site became extinct in ashort period of time fbllowing earthquake damage in the fifteenth century and remains and relics from the Hachiman Jinja Shrine site dating after this period are also very rare. We may conclude that one reason fbr this was the effect of environmental changes caused by the felling of trees in the surrounding area.

参照

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