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史料紹介 : 鈴木正男家文書と黒船来航

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Academic year: 2021

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史 料 紹 介

鈴木正男家文書と黒船来航

今回は、鈴木正男家文書を取り上げることにしましょう。 江戸時代の鈴木家は彦根藩士の家でし たが、同家の文書群中には武藤家という別の家の文書が多く含まれており、その中心は6代目当主の 武藤信一郎(のちに信左衛門)本時の時期の文書です。武藤家も彦根藩士の家で、鈴木家とは姻戚関 係にあったので、鈴木家に伝来したものと思われます。 ところで、彦根藩は弘化4年(1847)以来、異国船の来航に備えて、幕府に命じられて江戸湾の入 口である三浦半島沿岸の警衛にあたっていたのですが、この警衛には武藤信左衛門も駆り出されまし た。そのため武藤は嘉永6年(1853)、アメリカから浦賀へやって来たペリーの艦隊を目撃することに なります。 彼はこの体験に基づいて、黒船来航についての上申書を藩に提出するのですが、そこでは次のよう な意見が述べられています。 「このたび黒船に対して穏当に取り扱われ、打ち払いを命じられなかったのは妥当なことでした。軍艦 が30町(約3270m)ばかり沖合に停泊している場合は、こちらから大砲を撃っても仕方がありません。 一方、アメリカの軍船は「海城」と称して、周囲が鉄で覆われています。乗組員は船底にこもって、異変 のある時に発砲してくるようです。我々は海に突き出た台場(砲台の設置場所)で警衛にあたっている ので、アメリカの軍船が海上を自由に走り回って大砲を撃ち掛けてきたならば、一時の砲火によって倒 されてしまいます。これでは、我々の十分な勝利は望めないでしょう。」 このほかにも武藤は、相手を上陸させて攻撃することも主張しているのですが、結局そうした事態に はなりませんでした。ご存じの通り、安政元年(1854)にペリーが再来日して日米和親条約が締結さ れ、さらに安政五年には大老・井伊直弼が日米修好通商条約に調印するというのが、この後の歴史の 推移です。 現在彦根市で行われている「井伊直弼と開国150年祭」は、日米修好通商条約の調印を記念するも のですが、異国船の来航から「開国」へと至る歴史には、実際には武藤のような彦根藩士も含め、多く の人々がそれぞれの立場から関わっていたのです。 武藤の上申書は、今年度の附属史料館の春 季展示でも出陳します。どうぞご覧ください。 (附属史料館 青柳周一)

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