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役員関係の情実融資と"朦朧会社" : 岩手金融恐慌の破綻銀行を中心に

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滋賀大学経済学部研究年報Vol.7 2000 一1 7一

役員関係の情実融資と“朦朧会社”

   一岩手金融恐慌の破綻銀行を中心に一

二 三

1 はじめに

 昭和6年末の岩手県の金融恐慌の一因の一つに 県下の有力銀行が不当貸付や情実融資を行った ためとされ,司法当局による強制捜査が行われ, 後の公判でもこうした点が問題とされた。銀行が 不当貸付や情実融資を行う場合,真の債務者を秘 して身近な行員名義1)で貸付等を行うことが一 般的だがさらに会社を活用した段階に進む。とこ ろでいわゆる「保全会社」と称される個入持株会 社は大正中期から盛んに設立されている。例えば 宮古銀行の経営者で,後に旧岩手銀行(旧訳銀) 副頭取となる熊谷二二一族の保全会社として大

正10年9月2日宮古町に設立された熊谷証券の

目的は「一,有価証券ノ所得並所有,二,有価証 券ノ運用及売買,三,資金ノ調達運用利殖及其仲 介」(T10.9.20二二商業登記公告)であった。 1)盛銀では「群臣株の時価下落を防ぐため百数十 回に渡って,同行の計算から株式消却等正当の方 法によらないで,不正に合資会社桜井株式店その 他数十名から行員名義で盛銀旧株二千六百七十 三,新株一万四を代金二十九万七千六百七十九円 二十二銭で買受けて行員名義の手形貸付と仮装」 (事件p74)したとされる。この仮装行為の手助け をした桜井株式店(資本金5,000円)は盛岡市大 清水小路の金融仲介業者(『岩手県商工人名録』昭 和4年11月,p27)で,代表者の桜井菊三郎は「昭 和三年以来盛岡市に於て合資会社桜井株式店なる 会社名義を以て公債株式の売買に従事し相当盛大 に営業し来りたる処,株式米穀等の相場に失敗し, 之が損失の為資金に窮したるにより,悪心を起し 偽造株券」(SIO.5,1日報)事件を起こした悪質業 者とされ,大清水小路の合資会社桜井商店は昭和9 年10月15日解散した。(解散公告S9.10,20日報)  同社は当時「所得税法改正後…雨後の筍の如く 現れ税務当局を手古摺らせて居る」「富豪階級に 盛んに行はれてるる例の保全会社」(T11.11.22 岩毎)の一種と思われる。保全会社の目的は「一 つの財産を二つ或は二つ以上に分けて累進税率 に依る所得税の軽減を計」(Tll.11,22島民)る, 「合法的脱税」と称されていた。仙台税務監督局 の調査では,こうした保全会社類似の会社は福島 県190,秋田県136,山形県117,宮城県!10,

岩手県92,山形県67と東北6県計で712

(T11.11.22岩毎)もあるとされ,資本金の最大 は宮城県の200万円,最小は3000円であった。  保全会社には「所得を二分する事に依って行は れる所得額の軽減の外に悪辣な方法も取らぬや うな比較的なもの」だけでなく,「之に加へて種々 の虚構貸借関係を作りたり,帳簿を胡魔化したり して所得の隠匿をする」(T1!.1!.22岩毎)悪辣 な会社も少なくなく,「多くの富豪は苦心研究色

んな方法で盛んに脱税して腹を肥やし」

(T11.11.22岩毎)たと称された。  したがって東北では少ない方とはいえ,大正 11年当時すでに92社の保全会社が存在した岩手 県内の富豪階級においても虚構貸借関係,帳簿改 窟等を伴う所得隠匿の風潮が蔓延していたこと を窺わせる。  公式の盛岡銀行(盛銀)清算資料である「盛岡 銀行調」2)では「大口貸出先調」の項目で盛銀の 2)昭和11年/2月28日日本銀行福島支店「盛岡銀 行業態調」(以下業態と略)昭和11年7月末現在 (日本銀行編『日本金融史資料昭和続編』付録第1 巻,p510以下所収)

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一18一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.7  2000 重役関係分貸出は「大半無担保信用貸ニシテ名義 貸又ハ仮装貸ニヨル貸出ヲ多額二含ミオルモノ ナリ」(業態p510)と,「名義貸試図仮装貸」と いう表現を使用している。「朦朧会社」という表 現は盛岡財界に精通し,昭和9年当時盛岡信託の 整理に直接携わった一ノ倉則文3)が私家版の『盛 岡信託株式会社沿革史』(昭和9年)の中で,「其 目的事業等不明」な会社の呼称として使用してい る。一ノ倉が「九ケ年間の出来事に県内の主なる 経済上の事件」を収集した材料としては,まず当 時の新聞が考えられるが,例えば東京日日は7年 12月10日の紙面に「醜事実を隠す為につくった 朦朧会社」(S7.12.10東日)と題する記事を載せ,        ママ 盛岡不動産,二三社,淡交会,光三社,金田一同 族の5社を「大正八,九年の好景気にあふられて 事業欲の命ずるままに無茶な投資を行った…醜 事実を重役は隠蔽するためにでっち上げたもう ろう会社」と決め付け,「検事局の取調べが進む につれ,傍系会社の朦朧性が次々と暴露されて行 く模様」(S7.12.10東日)としている。当時の記 者の問の噂として,地元紙を出し抜いて盛銀の貸 付金額を詳細に記載した東京日日の取材源は検 事局自体の情報であると伝えられた4)。  本稿では岩手県の金融恐慌の検討の一環とし て銀行のかかわった「朦朧会社」問題を取り上げ たい。前稿5)と同様に種々ご教示を賜った山田三 三をはじめ,県文書の閲覧でお世話になった岩手 県総務学事課和田主事殿,盛岡市立中央公民館郷 土資料展示室の小西氏,岩手県立図書館等,岩手 3)一ノ倉則文は大正11年12月死亡した岩手県農 工銀行頭取一ノ倉貫一の孫で,嗣子,盛岡信託,岩 手無尽各監査役,岩平林業,盛岡瓦斯各取締役 4)「東京のN新聞の若い記者は検事局の紙くずか ごの中から,それまで調べあげた内容を書いた謄写 版の原紙を発見し,黒インクのついたまま合着のポ ケットというポケットにみな突込んで支局に帰り, これを刷り直して記事を書いた。一日置いての県門 はほとんど全面をつぶして『今までに判明した分』 として出たので,さすがの石塚,寺田く両検事〉も アッと驚いた」(覚書上p192)と言われる。 県下の関係機関各位に厚く御礼申し上げたい。な お本稿の一部は金融学会秋季大会での自由論題 「金融恐慌と銀行重役陣の私財提供」で報告した ものであり,座長の齋藤壽彦氏,討論者の佐藤政 則氏など学会報告の際に種々ご指摘,ご教示賜っ た各位に謝意を表したい。なお本稿では紙面の関 係上,頻出する基本史料6),新聞雑誌等7)は個々 に脚注を施さず,略号を使用して本文内に示し, 頻出する関係企業名も略称8)を使用した。本稿に 登場する旧岩手銀行(旧岩銀と略)は現存の同名 銀行とは全く別の存在である。

II[「朦朧会社」の特質

 辞書で「朦朧」の意味を引くと「かすんで,物 の形がはっきり見えないようす」「意識が薄れてぼ んやりしているようす」などとあるが,一ノ倉や東 日のいう「朦朧会社」のメルクマールとして考えら れる要素は,以下のようなものであり,今日の言葉 で置き換えると純粋持株会社,特別目的会社,自己 競落会社,継承会社(受皿会社),ダミー9)会社, ペーパーカンパニーなどと様々に呼称される特殊 な目的のために設立された会社群IG)を含むがそ の目的が甚だ不明朗とするものである。 (1)「其目的事業等不明」  東日による盛銀系「朦朧会社」の見方は「恐慌 の嵐に…十有余の姉妹会社は総倒れの形となり …その整理のために朦朧会社が生れ,それに貸付 けたのが約三百五十万円」(S7.12.14東日)と整 理目的と解するものである。これに対して朝日は 全く別の味方をする。 5)拙稿①「機関銀行と機関新聞一近江商人進出地・ 盛岡の金融破綻一」『彦根論叢』第326号,平成12 年8月,同②「首位行による共同出資行の機関化 と下位行封じ込め一大正期貯蓄銀行合同設立を巡 る岩手県銀行界の紛糾一」『彦根論叢』第327号, 平成12年ユ1月,同③「一県一行主義による当局 主導の強圧的銀行統合の弊害一旧岩手銀行と三陸 銀行の合併を巡る紛糾を中心に一」『彦根論叢』第 328号,平成12年12月(予)

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役員関係の情実融資と“朦朧会社” (小川 功) 一19一  脛に傷を持つ金田一も昭和2年春の金融恐慌に 際して当初は「当地方ニアリテハ…コレが対応ト シテ緊急協議会ヲ開キ」(S2/6強盛銀63期営), 「金融恐慌に備へるため,盛銀では証券課を新設 してあらゆる証券を質草に持出して東京で金を 借り,日本銀行から二百万円,徴兵千代田三井信 託等から百数十万円,合計三百七八十万円の現金 を盛岡に持込んだ」(S7.12.!1東朝)上に「当行 ニテハニ十五日ノ〈全国一斉一時休業〉休日開 ケヲ特二早朝ヨリ営業ヲ開始セシ」(盛銀63期 営)とかなりの覚悟をして,万全の体制で臨ん だ。しかし「口上シテ東北地方ハ殆ント其影響ナ ク」(盛銀63期営)盛銀窓口も「取つけに来た者 は意外に少数で」(S7.12.11東朝)「極メテ平穏 裡二経過」(盛銀63期営)したためいささか拍子 抜けに終った。  このあと二巴は3年9月の新聞広告の中で「か の昨年のわが国として未曾有の金融大恐慌に際 しても,動揺することなく,厳然として,波乱を 乗り切り得たのであった。中央地方を通じて三十 余の銀行が将棋倒しになったほどの,大波乱に揺 げなかったことは,要するに,その経営振りが平 6)県…岩手県永年保存文書,論告…昭和9年IO月/8 日寺田検事論告(S9.ユO. 19日報),嘆願…昭和6年5 月25B日銀宛岩銀「嘆願書」(日本銀行編『日本金 融史資料昭和編』24巻,p547所収),業態…昭和1ユ 年12月28日日本銀行福島支店「盛岡銀行業態調」昭 和11年7月末現在(日本銀行編『日本金融史資料昭 和続編』付録第1巻,p510以下所収),梗概…旧三陸 重役「合併の梗概を述べて敢て中村君に質す」昭和4 年12月27日日報(広告),殖産…『岩手殖産銀行二 十五年半』昭和59年,岩手銀行,信託…一ノ倉則文 「盛岡信託株式会社年表」『盛岡信託株式会社沿革史』 昭和9年,覚書…新岩手日報編『昭和県政覚書:』昭 和24年,事件…新聞之新聞社編『八百万円の費消事 件』昭和10年5月!5EL精華書房,当面…『岩手 県盛岡市当面之人物』昭和5年,岩手郡友新聞社,帝 …f帝国銀行会社要録』帝国興信所,銀…『銀行会 社要録』東京興信所,大…「大日本商工録』大正ll 年,主…経済二日本社調査『全国株主年鑑』大正15 年,諸…『日本全国諸会社役員録』,人…『岩手県商 工人名録』昭和4年,工…『大日本商工録』昭和5年, 素から堅実であり,基礎強固であったから」と豪 語する。単に対外的な強がりであれば問題ないの だが,どうもその後の金田一の言動から察する に,金融恐慌も乗り切れたとの妙な自信を植え付 けた節も否定できない。かくして朝日は「合計三 百七八十万円の現金を盛岡に持込んだが,取つけ に来た者は意外に少数で…三百七八十万円とい ふ巨額が金庫にそっくり残った。この時早速三三 へ返済してしまへばなんでもないものを,金田一 頭取以下首脳者の一流の放漫さから,関係会社ヘ バうまいたり,ほうまつ会社を濫設したりして,

湯水のやうに無茶貸しをしてしまった」

(S7.12.11東朝)と,「朦朧会社」(朝日は「ほう まつ会社」)を余資のプールと解釈しているll)。  また旧岩銀も岩手金融商事を設立した際に,株 主に対して公式に「今回岩手金融商事会社ヲ創立 セシメ,専ラ整理ト利殖ヲ計り,是が機能ニョ リ,其ノ有終ノ効果ヲ収ムルニ努力セントス」(旧 岩銀48期報告S6/6)と報告したが,実態は旧岩 銀が吸収した旧三陸銀行の不良資産の受皿(覚書 p111)であったが、報告の仕方はまさに「朦朧」 としていた。 (2)設立背景に「醜事実」が存在  例えば岩毎は汗管重役の行金流用が存在したと の立場から,当該企業が「銀行重役のポケットマ ネーの出所とされてみる」(S7.12.21岩毎)とする。 (3)「醜事実」の隠蔽目的

 7年6月15日両行は町村長会からの実態開示

要求12)に渋々回答したが,そのうち両行重役 の銀行との債権債務金額に関しては旧岩銀は債 7)岩毎…岩手毎日新聞,日報…岩手日報,河北… 河北新報,東朝…東京朝日新聞,東日…東京日日 新聞,時事…時事新報,(雑誌等)月報…『日本銀 行調査月報』(『日本金融史資料明治大正編』21巻 所収),総覧…大蔵省編『銀行総覧』,営…営業報 告書,業務報告書 8)盛銀…盛i岡銀行,溶岩銀…旧岩手銀行,九十… 第九十銀行,三陸…三陸銀行,盛貯…盛岡貯蓄銀 行,農銀…岩手県農工銀行,殖銀…岩手殖産銀行, 勧銀…日本勧業銀行

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一20一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.7  2000

権約5万円,債務約20万円,皆目は債権約5万

円,債務約25万円と答えている。(S7.6.16時 事)「両銀行とも債権額の余りに僅少なのに町村 長側でも驚いて居る」(S7.6.16時事)通り,支 払停止直前に重役は自己の預金を引き下ろした ばかりか,債務面でも実質的な重役債務はずっと 巨額であるが,「朦朧会社」や親族・行員名義へ の分散により,まずは開示しにくい事実を「隠 蔽」できたのである。僻事は当該企業が「同行の 不動産担保の処分所…とされてみる」(S7.12.21 岩心)とする。旧岩銀の場合も「岩銀と関係会社 とのカラクリ」(覚書上p203)が存在した。 9)ダミーとしては岩銀では選挙資金,岩毎資金など で,真実の資金供与先(例えば政治家)が種々の理 由から明記できないため,銀行にとって都合がよく 適当な「立派な人」(例えば盛岡の名家・池野藤兵 衛)の名前を本人の承諾なしに勝手に「名義だけ借 り」ることを多用しており,銀行でも事務方では事 情を知らず名義人(例えば上野市議)に催促するこ ともあった。しかし岩銀幹部である藤田元常務は名 義借用の岩蟹への貸付について「名義人個入の借り とは思ひません…この様な貸付けはく岩銀の〉伝 統になって居りました」(S10.8,21日報)とダミー 多用が岩銀では日常化していた事実も認めた。例え ば名義を貸した池野藤兵衛は予審調書で「私は中村 に頼まれ名前だけ貸した」(S10.8. 21日報)と証言 したが,中村前頭取は公判で「あの人〈池野〉は立 派な人でソンなことを頼める人でない頼んだ覚え はない」(S!0,8.21日報)と否定し,「曰く昭和4年 の市議選挙の際に貸付を仮装した政治献金〉は上 野正一郎名義で出ているが,実は小笠原徳兵衛に やったもので…小笠原が〈市議に〉立ちたい希望 があり,私はいくらか選挙費を出してやる積りで居 りました」(S10.8.21日報)と陳述している。小笠 原徳兵衛(岩銀行員,市議)も予審調書で「中村頭 取に勧められてく市議に〉立候補したが,〈岩銀か らの〉五千円のうち四百円は自分の選挙費とし,四 千六百円は将来岩銀の為めに働きそうな反金田一 派の議員を物色して二三百円,五六百円つつ陣中見 舞してやりました」(S10.8.21日報)と証言してい る。名義を使われた上野正一郎も予審調書で「私は 二百円つつ二回陣中見舞を貰ったが,その後三千円 の催促が来るので中村頭取に話すと名義だけ借り たのだから払はんでその侭内証にしておいてくれ とありました」(S10.8.21日報)と証言している。 (4)「でっち上げ」とされる架空性,虚構性  東日は「光御社,淡水社,丁霊二等の上貫へ入 れた証書等には責任者の氏名,印鑑さへないよう な無責任振りである」(S7.11.26東日)とする。 また岩毎も「名義上の会社」(S7.12.10岩毎)と して,実体が存在しないとする。 (5)企業実体に比し取引金額の巨額性  二二も「楓園社は…二二社,淡水社と共に三十 五万コ口三二から借入れてみる」(S7.12.10二二) とする。三二銀は6年12月31日岩手金融商事に 10万円を貸出し(覚書上p1U),さらに旧岩銀に

営業停止命令が出される僅か2日前の7年5月

16日旧記銀は駆込的に8万円を追加融資し,後 に検事局の訴追を受けた。(覚書上pll!) (6)取引の必然性や正当性に疑義  検事局から「インチキの濃厚と…にらまれ」 (S7.!2.10東日)たように,銀行との取引も無担 保融資,架空担保,無価値担保などが多く,岩毎 も「三園社,淡水社,光二二といふやうな名義上 の会社も多く殆ど無価値同然な有価証券を担保 にしてみる」(S7.12.10二二)とする。 (7)閉鎖性,匿名性,名義借用などプライベー   ト・カンパニー的色彩  本店の多くは個人の自宅内に置かれ,役員には 一流資本家などの名が少なく,銀行員や家族,世 間的には無名の人物が多く登場する。岩毎は「楓 園社は太田頭取並にその一族のために設けられ たものであると伝へられ」(S7.12.10岩毎)ると する。たとえば大正10年9月2日宮古町に設立さ れた熊谷証券の取締役熊谷平助,熊谷平次,熊谷 善四郎,監査役熊谷秀哉で,熊谷証券の本店所在 10)「朦朧会社」と類似の概念として休業銀行が設立 する姉妹会社(第百七銀行による昭和土地商事の 設立など)があるが,これは「休業銀行ハ店ヲ閉 口ルトスグ姉妹会社ヲ作ル…ソシテ全部ノ資産ヲ 引継グ,之レハ,ブローカーが預金ヲ安ク画集メ, スグニ差押ヲ行フカラ,夫レヲ免レル為メ資産ノ 譲渡ヲヤル」(昭和4年5月日銀福島支店長口答報 告,日本銀行編『日本金融史資料昭和編』24巻, p552所収)「福島県特有」の現象であった。

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役員関係の情実融資と“朦月龍会社” (小川 功) 一21一 地と同一住所の3取締役は親子兄弟等,同居する 近親者と思われる。(T10.9.20岩毎商業登記公告) (8)不当性,不法性

 以上の結果「重役が私財を肥やしてみた」

(S7.12.10東日)など,不当性,不法性を伴いが ちで,背任横領の疑義すら否定しがたい。 (9)持株会社性  当該企業の多くは掛銀,旧岩銀,九十などの関 係銀行の株主名簿に登場することが少なくない。 例えば旧岩銀の大株主には一応合資,熊谷証券, 昭和商事などの法人株主が登場するが,これらの 多くは自行株式の株価下落を恐れて,当該企業の 名義を借用して銀行側が買い支えた結果,破綻直 前にこれら法人名義が急増したと考えられる。  以下,東日の列挙した並倉傍系5社を中心に, 同類の旧岩銀傍系会社,単行役員の保全会社・個 人持株会社等をも加えて,その朦朧性を個別に検 討していきたい。 11)ただし朝日も同記事で盛銀幹部の「昨年十一月 の恐慌時にもしこの三百数十万円の金があった ら,優に難局を切抜け得たらうし。今日のやうに 資金化し得る動産が皆無といった惨状を見なくて 済んだ」(S7.12.11東朝)と悔しがる談話を載せて いるので,結果としては朦朧会社が余資のプール として機能しなかった事実経過に言及している。 金田一は控訴審で裁判長から巨額の遊興費を叱責 され,「昭和二年の財界恐慌以来の招待費を東京で 代議士一人を招待すれば三十円はかかったので, 十人二十人と転べば忽ち五六百円はかかる」 (Sll.1.17日報),「私は今日まで個人で遊興した ことは一回もありません。東北六県,仙台並びに 東京に於て一ケ月に何十回となく遊興しました が,これは皆銀行その他関係会社の発展のためで あった。私は過去二十何年間多数銀行会社の社長 として二千人近くの行員,社員の上に立ち,酒色 にふける事を厳に戒め身を以て範を垂れて来たつ もりです」(SILI.17日報)と,「一ケ月に何十回 となく遊興」すれども「個人で遊興したことは一 回」もないとの独特の「遊興理論」で大見得を切っ たと報道された。

皿盛岡銀行の「朦朧会社」

1.金田一同族(金田一国士関係)  金田一家の関係する個人会社としては,大正期 には金銭貸付業の金田一合名会社(本店盛岡市上 衆小路の金田一邸内,電話52番,営業税510円) 12)が存在したが,岩手無尽合資,坂井信託合資 などと前後して大正9年頃に解散した。(T10.4.19 岩毎)  金田一同族会社は資本金!0万円(うち払込5

万円,一株50円)で昭和3年12月27日設立さ

れ,金田一自身が社長に就任した。(公判での金 田一の答弁S9.9.4ロ報)本店を盛岡市上衆小路 の金田一国士の自宅内に置き,目的は「有価証券 ノ所有売買開墾植林」(人p28)であった。10年 時点の役員は社長金田一国士,常務金田一光,取 締役金田一丈夫(国士長男),監査役矢幅三次郎 (三戸町,醸造業),矢幅正三郎(国士の実弟)で あった。(諸S10下p261)判明した金田一同族の 所有株式は盛電15,800株,新2, 700株(S5/12盛 電第53回営),第九十銀行1,851,新2,197計 4,048株(S6/6九十銀行第68期営),三二銀10 株(旧岩銀第46期営)などである。  検事の論告では「同会社には有価証券以外に僅 少の不動産を所有するのみにして資産なく,有価 証券は全部借入金の担保として差入れあり,且つ 元来同会社は借金整理及納税免脱の目的にて創 立したるものにて,事実上何等営業を為さず, 従って所有有価証券に対する配当金の外収益な く…担保有価証券の処分以外に之を弁済する資 力なく…」(論告)と回収困難な不当貸付と見倣 している。一審の平松弁護人も「金田一同族会社 関係については論理的道徳心から会社を設立し …自己も又負債の弁済をなさんためであった」 (S9.11.3日報)と弁論した。この借金整理とは 当時金田一家の「有名なお家騒動」13)と称された 相続を巡る内部の確執があり,その結果,金田一 ユ2)『岩手県商工人名録』大正2年,p18

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一22一 滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.ア  2000 は「勝定長男直太郎及び勝定婿養子金田一光と財 産分配を為した」(論告)が,昭和3年「当時既 に盛岡銀行其他より金百八十万円の負債あり… 之が担保有価証券と共に右負債を引受け,之が整 理を為す」(論告)必要があったとされる。「金田 一国士氏が同直太郎氏との間に財産分配をなし た際,有力株を交付すべき約束」(S9.9.4日報) があったとされるが,長男の「直太郎氏は盛岡で はある意味で有名な,その直太郎氏」(S7.12.14 東日)と含みのある表現で語られることが多く,

昭和7年7月ll日私財提供を叫ぶ大衆党員多数

に自宅へ坐り込まれた際にも「直太郎氏が三二飛 び出したまま未だ帰宅せぬ」(S7.7.14日報)と いった言動等から見て,あるいは金田一財閥の後 継者たる資質面に懸念もあったかと推定される。 直太郎本人が財産分配に当り,第一銀行,勧業銀 行など流動性の高い一流銘柄を意味する「有力 株」を要求した点から考え,①流動性を選好し, 近い将来の売却,他の投資等への乗換えを意識し ていた,②金田一家の持株比率が低く,発言力は 皆無に近くてもよしとするレントナー的態度が 窺える。  とりわけ同じ地元銀行株でありながら,相当の 支配力を伴い,実父が育成した愛着ある盛銀株の 分配でなく,金田一家と相対立する立場の旧記銀 株14)を敢えて選好した深層心理としては,③金 田一国士との共同経営を好まず,無関係な立場に 立とうとする回避的行動,④「お家騒動」などと 伝えられる国士との抜き難い不仲,⑤さらに国士 の経営する盛銀の内実への不信感の存在,⑥旧岩 ユ3)「お家騒動」とは「勝定の長男直太郎及び婿養子 光と財産分配」(事件p72)を巡って生じた金田一 家内部の確執で,直太郎が国士に「財産分配を迫っ たが,言はれるままに財産を分け与へ,国士氏が 第一忠孝を重んずること,第二先祖の墓参をなし, 投機事業をなさぬ事を記した」(S9.10.21日報)と 国士の弁護人たる柏木は弁論している。 14)この財産分与の結果,昭和5年6月末の岩銀株 主名簿では国士側の岩銀株主は盛貯160株,金田 一同族10株にとどまる。(岩銀46期営) 銀の方が盛銀より堅実と観測していたなどが推 測されよう。なぜなら直太郎は経営の実権を握っ てはいなかったとはいえ,三二(大正10年∼), 盛岡電灯(∼昭和6年末),花巻温泉など同系企 業の取締役会に列席して,盛銀の内情に十分接す る立場にあった。  金田一の公判で金田一同族会社の取調べが行 われ,裁判長から同社設立の目的を聞かれた金 田一も「所得税の関係で四万円の税金を賦課さ れたこともありましたので,借入金を明示し借 入金もあるので収支を明示し税務署長の諒解を 得て建てたのです。それで税金一万五六千円で 済ます様になりました」(S9.9.4日報)と節税目 的を認めている。  盛銀による金田一同族会社への貸付は「昭和四 年三月六万円貸出以来,昭和七年二月まで十二口 二十万九百六十円」(S9.9.4日報)に達したが, 金田一が頭取の盛銀から,同じく自分が社長の金 田一同族が借金をして,金田一自身が借金の個人 保証している「巧妙なる構城」(S9.9.4日報)を 指して裁判長は「法律的には兎も角自分の借金を

自分が保証して居るとは妙な組織なものだ」

(S9.9.4日報)と皮肉った。このほか同系の盛岡 信託も昭和4年現在金田一同族に対して信託勘定 で9.2万円,固有勘定で1.1万円を融資(信託 p34)し,8年現在では信託勘定で7.3万円を融 資(信託p86)していた。

 金田一の申し立てによれば3年12月当時,金

田一家の負債は180万円だが,見合った有価証券 があり「昭和七年民政消極内閣が出現するまでは 左程悪くなかった」(S9.9.4日報)とする。一審 で柏木弁護人も「金田一同族会社関係は当時金田 一氏に財産があったから意にかいしなかった迄 で問題にならない,又同族会社の設立は税務署長 と協議の上組織したが,何れも背任にならないJ (S9.!0.21日報)と主張した。  金田一は単に差入有価証券の値下りと片付け るが,実は意図的とも解される優良担保の抜き取 りも発生していた。金田一は金田一同族会社の借

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役員関係の情実融資と“朦朧会社” (小川 功) 一23一 入は「無抵当ではなく有価証券が抵当に入ってゐ ます。ただその抵当に入ってみる有価証券はその 後の値下りで現在は低下してみることは否めま せん」(S7.7.9東朝)と語った。この記事が金田 一同族への二二貸付の存在が世間に表面化した 最初ではないかと思われる。金田一同族は三二に 対して有価証券を差し入れていたが,金田一家内 部の相続を巡る確執があり,一審の柏木弁誰i人の 弁論によれば「実子直太郎氏が国士氏へ財産分配 を迫ったが,言はれるままに財産を分け与へ」 (S9.10.2!日報)たと言われる。その際に国士は 直太郎に対して「投機事業に手を出さざること, と覚書を与へて戒めた」(S9.10.21日報)と言わ れ,こうした経緯から「金田一国士氏が同直太郎 氏との間に財産分配をなした際,有力株を交付す べき約束」(S9.9.4日報)があったため,昭和6 年2月この担保有価証券中から第一銀行旧株200 株,勧業銀行400株,三二銀新株2197株を「引 出して〈直太郎に〉交付」(S9.9.4日報)した。 裁判長が「同族会社が担保に入れてみる有価証券 を取出した後の始末は如何したか」(S9.9.4日報) と追及すると,金田一は「私が同族会社に於て個 人保証して居ります。然も当時長屋を建設致しま したので,何時でも返済出来るので,増担保を出 しません」(S9.9、4日報)と債務者側の都合のみ を答えた。裁判長が「担保力を減殺した,その後 始末の事実を聞くのだ」(S9.9.4日報)と大喝す ると,金田一は「何時でも差入れるつもりでし た」(S9.9.4日報)とあやふやになり,さらに 「唯単に口約に過ぎないのか」と突かれて,「頭取 として不動産を移転することは対外的に信用を 失墜するので増担保を出しません」(S9.9.4日報) と釈明した。控訴審でも金田一は「私は当時多く の銀行会社に関係を持ち一ケ年間の収入賞与は 三万五千円に達してみたので,私が保証人となっ

てみる限り断じて盛銀に迷惑をかけません」

(S11.11.!9日報)と述べた。この同族会社への 無担保貸付の件を同時に裁判長から聞かれた実 弟の矢幅は金田一との共謀を否定した上,「金田 一氏が斯かる迷惑をかけるものとは思はなかっ た」(S9.9.4日報)と,盛銀にとって担保力減殺 が迷惑な事態だったことを認めた。  一審の裁判長は田村盛銀割引課長に対しても 「回収不能なることを予知して貸出したではない か」(S9.9.4日報)と追及したが,田村は「同族 会社関係の貸出しは回収不能になるとは思へま

せんでした…命令されるままにやりました」

(S9.9.4日報)と答えている。さらに裁判長は 「そこ迄服従すべきものでもないぢやないか」「職 責上職を賭してまで争へなどと不人情な議論は しないが,何とか考ふべきであった。それまで三 従の必要がないではないか」(S9.9.4日報)と重 ねて追及したが,田村は「私は絶対服従してゐま した」「命令されましたので」(S9.9.4日報)を 繰り返すのみであった。  翌日の5日この件で訊問された盛銀元常務の太 田孝太郎も「有価証券が担保にはいって居て之を 処分すれば返せると思ひました」「中央は有価証 券の値下りがありましたが,地方としてはソンナ 事がなく,盛旧株の如きは相当に高かったので す」(S9.9.6日報)と回収可能を強調した。裁判 長の追及に「金田一氏と盛銀が密接な関係があり ましたので…」(S9.9.6日報)と釈明したが,さ らに裁判長は「密接な関係があったといふけれど も情実に流れ,金融家の建前を考へずにやること は悪いではないか」(S9.9.6日報)と数回にわ たって追い詰めたが,老猜な太田は「どこ迄も 『不況が崇りまして…』と逃げを張り,金田一氏 に対しては同族会社関係の支出については相当 注意した」(S9. 9.6日報)と言い張り通した。 2.合資会社二二社(金田一光関係)  合資会社光三社は金融業,代理及仲介業を目的

に昭和4年10月1日出資金4.5万円で設立され

た。(S7.12.!0東日)本店は大清水小路337にあ る金田一光の自宅内に置かれ,光が4万円出資の 無限責任社員,「光氏の息で小学校へ通ってみる」 (S7. 12. 14東日)勝巳(有限責任)が4千円,「金 田一光氏の実家の実兄」(S7.12.14東日)で弁護

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一24一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.7  2000 士の鈴木絢路(有限責任)が1千円を出資した。 社名も兄弟の名をとった光学社は,鈴木下下次男 で大正6年10月18日金田一勝定五女愛子と婿養 子縁組した金田一光系統の財産保全会社と見ら れる。光f国社は例えば盛旧株(S5/12旧2,269株, 新1,332株,一新76株,S7/12旧10,596株,新 !,953株),岩手軽鉄株(S6/9100株),九十銀行 の新株280株(S6/6)の名義人となっているが,

設立時期の昭和4年10月1日は金田一同族会社

の設立(3年12月27日)に続くもので,直太郎 の場合と同様に「婿養子光と財産分配のことで有 名なお家騒動を起した」(事件p72)ことが,直 接の契機となったものと推定される。岩手軽鉄株 式の場合,設立直前のS4/9までは光個人名義だっ た!00株が直後のS5/3には合資会社光御社名義 に書換えられている。(岩手軽鉄37回営〉「楓園 社は…ポロ株担保を肩替りして,帳簿面を糊塗す       ママるために出来たもので,同様の性質を持つ淡水 社,光御社等にも可成り貸出されてみる模様」 (S7.11.27時事)と報じられたが,盛銀と光絢社 との直接の関係は未詳である。光絢社の主要借入 先の勧銀,富国徴兵等のうち富国は丁銀が基金証 券250口出資している親密生保で,例えば岩手軽 鉄も「昭和六年九月三十日鉄道財団二第二順位ノ 抵当権ヲ設定シ…金三十万円ヲ借入,第一順位抵 当権者日本興業銀行へ金三十万円ヲ償還」(岩手 軽鉄40回営)した大口借入先でもあった。  しかし丁銀との間接的な関係としては光三社 有限責任社員の勝巳は3口の手形29,600円を振 出し(S7.12.20東日),「年に似合ない巨額の手 形を書いてみる」(S7.12.!4東日)とされ,同鈴 木拘路も2.3万円の手形を振出したほか(S7. !2.14東日),8年時点で盛岡信託(信託勘定)か らも45,000円を借りている(信託p86)など,当 然ながら深い関係にあった。なお10年12月末の 盛岡電灯10,567株の第4位大株主の合資会社正 光社も前期までの金田一光の個人名義株式が振 替わったもので,金田一光系統の個人持株会社と 思われる。15) 3.株式会社楓園社(太田孝太郎関係)  楓園社は昭和4年7月「有価証券不動産ノ所有 売買買付」(人p24)を目的として資本金3万円 で盛岡市内加賀野に設立され(S7.12.10東日), 社長は太田孝太郎丁銀常務(金田一の後任頭取) であり,本社所在地も太田の自宅(内加賀野小路 9番地)に一致すると見られることから,「個人       ママ関係としての楓園社は純然たる太田一家の保善 会社」(S7.12.10河北)「同氏の一族をもって組       ママ 織してみる一思会社」(S7.12,13河北)と考えら れる。太田は明治39年早大政経卒,横浜正金銀 行入行,本店,中国等の海外支店勤務後,父・太 田小二郎が役員の丁銀に入行した。(S9.10.23日 報)中国の金石に造詣深く,「銀行業務の傍ら地 方文献の蒐集に意を用ゐ」(S9.10.23日報)る 「人格高潔の士」(S9.10.23日報)との評価16)が 定着している。問題は「独断専行の人」金田一の 「命唯之随ひ何等力を加へる余地がなかった」(秋 山弁護i人の弁論S9.10.23日報)ため,「人格高潔 の士」太田ですら例外たりえなかった,以下のよ うな疑惑を抱かせた銀行重役のモラールの低下 であった。例えば次の『河北新報』の記事は設立 の時期が明らかに誤っており,悪意に満ちた誤報 の可能性があるが,「三園社は同行支払停止の六 年十一月ころ,そのドサクサ紛れに乗じて作ら れ,その黒幕は目下東京方面に開業してみる同族 の某弁護士が画策したものと言はれ,その目的は

太田家の財産保全のために設立せられた」

(S7.12。13河北)とも報じられた。二三社の持株 としては盛電2,710株(S5/12),三陸水産冷蔵 529株(S6),九十銀行の38株(S6/6)などが判 明する。  楓園社に対しては半可から6年「十二月三十一 日以後,現金合計三万八千五百円,更に本年二月 九日の一千五百円を加へ総計四万円が無担保で 15)『電気事業年報』昭和11年版,p472 16)一審の伊藤弁護人も「太田孝太郎氏の学者的人 となりに関する上申書」を同編著『支那金石志』他 数冊とともに提出している。(S9.!0.23日報)

(9)

役員関係の情実融資と“檬朧会社” (小川 功) 一25一 融通されてみる」(S7.12.10河北)と見られ,「太 田氏の主宰する株式会社楓園社には十万余の貸 金中四万余円横領の疑ひが濃厚」(S7。12.10東日) とされた根拠は,貸出時期と低金利・長々期とい う破格の貸付条件にあった。すなわち貸出時期は 「支払停止以後の十二月三十一日に三万五千円, 及び三千五百円のニロで合計三万八千五百円,並 に本年二月一千五百円の総計四万円の現金が無 担保で銀行から引出されてみる」(S7. 12.13河北) とされ,「その利子は支払停止前は四分五厘停止 以後は三分(預金利子は六分五厘)といふ驚くべ き低利」(S7.12.10東日)であった。さらに太田 頭取は「自己が代表の楓園心計にも金田一前頭 取,矢幅支配人,藤原,藤島両副支配人,田村割 引課長等と共謀して貸付を行ひ,また書替へをな し,書替への際にはこれまで有力な担保品をとっ てみたものを将来銀行破綻を見越し何れも返却」 (S7.12。20東日)させており,その結果およそ商 業ベースとはかけ離れた「無担保無利子十五年賦 といふ貸付」(S7.12。20東日)が「太田家の財産 保全のため」(S7.12,13河北〉に敢行され,「盛 銀を倒産の危ふきに陥れた」(S7.12.10東日)と して横領の嫌疑がかかったものと考えられる。黒

幕とされた「同族の某弁護士が画策した」

(S7. 12.13河北)のは,支払停止で大口預金の引 出しが出来ずに困った盛銀常務たる「太田家の… ため」,悪徳「弁護士」の悪知恵で不可能な預金 引出しに代わる合法的手段として保全会社の名 義で当初だけ「有力な担保品」を差入れた形にし てすぐに「返却」し,実質「無担保無利子」の架 空貸付を「支配人…課長等と共謀して」「単に社

名のみを以て責任者を明記せざる証書」

(S7. 11.26河北)を急遽デッチ上げ,預金引出し と全く同様に「総計四万円の現金が…銀行から引 出され」(S7.12。/3河北)たものではなかったか と推測される。  一説には「楓園社は…盛岡不動産会社と同様, ポロ株担保を肩替りして,帳簿面を糊塗するため に出来たもの」(S7.!1.27時事)として,粉飾決 算目的のペーパーカンパニーと見る向きもある が,筆者は銀行の粉飾といった少なくとも銀行の 存続目的の違法行為ではなく,楓園社という一見 雅やかで風流な名とは程遠い,質の悪い私利的な 脱法行為ではなかったかと想像している。すなわ ち支払停止直後の6年11月29日中村盛岡市長, 佐々木,亀島県会正副議長主催の銀行預金者大会 の席上,いかにも謹厳ぶった香取久吉検事正は早 く預金を引き出そうと焦る預金者連中をあたか も国賊呼ばわりした舌の根も乾かぬうちに,三千 円もの「自らの預金は雨天に話をつけて金を引き 出しサッサと〈高知県へ〉転任していった」(覚 書上p142)といわれ,「休業以来営業免許取消ま でのあいだに,要領のよい人,あるいは押しの一 手で銀行にねじこんだ人々がすでに預金の支払 いを受けていた」(殖産p354)とされる。旧岩銀 でも常務の平井範助は「〈旧岩銀〉支払制限に先 だって行金を巧みに持出して親戚の許に隠匿し ていた」(事件plO1)との非難を受けたが,自ら 破綻責任を負うべき銀行トップ,不正を糾す立場 の検事正などという,本来は一般庶民よりも格段 に高い道義心を要求されるべき立場の人々こそ が,庶民の中の「要領のよい人,あるいは押しの 一手で銀行にねじこんだ人々」を押し退け,真っ 先に要領よく預金を引出し,率先して自己の財産 保全を図ったのではなかろうか。もし預金引出し を国賊というならば,彼らこそが真っ先に国賊と 非難されて然るべきであろう。金田一の取調べの 際に楓園雨乞への貸付に関して次のようなやり とりがあった。「寺田検事『かうした貸付は銀行 の基礎を危ふくするとは思はなかったか』金田一 氏『私は銀行の不利となるような行為をした覚え はありませぬ』寺田検事『例へば太田頭取直接関 係会社に対する貸付の如く,無担保無利子十五年 賦といふ貸付をして銀行が立って行くと思ふか』 金田一氏「同会社の場合はさうしなければ元金が とれないからやむを得ずああしたのでしたから, 決して銀行の不利を計ったのではありませぬ』と 強硬に不正貸付を否定した」(S7.12.20東日)前

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一26一 滋賀大学経済学部研究年報Vo}.7  2000 述の通り,裁判長から金田一同族会社への貸付に ついて激しく追及されたにも拘らず太田は「どこ 迄も『不況が崇りまして…』と逃げを張り」,金 田一の「同族会社関係の支出については相当注意 した」(S9.9.6日報)と言い張ったことと考えあ わせれば,太田は金田一同族への大口融資に目を つぶり,恩義を感じた金田一は逆に楓園社に特別 扱いをするという,上司と部下の問の”美しい” 友情・互恵関係が存在したとも言えよう。秋山高 三郎弁護人は太田の控訴審の弁論で「金田一と太 田との性格を分析して見れば,金田一の積極に対 し太田は消極的な性質として金田一の積極政策 は賛成出来ない様であった。即ち太田は是を拒絶 する理由はなかった,阻止するだけの力は出な かった」(SIO. 3. 11日報)と太田を弁護するが, 盛銀経営陣内部には,まさに典型的な情実融資に 基づく相互扶助が公然と行われていたと考えら れる。

4.盛岡不動産

 盛岡不動産は昭和5年2月3日「不動産,動

産,其ノ他ノ権利及有価証券ノ所有売買貸借管理 二二不動産担保ノ貸付,金銭債務ノ保証,担保物 ノ貸与,其ノ他之二関連スルー切ノ業務」(商業 登記公告S5.3.2日報)を目的として盛岡市の内

丸63番地に資本金30万円(1株50円)で設立

された。当初の役員は取締役吉田万太郎17),太 田孝太郎(二二常務),藤原多治郎(盛銀副支配 人),監査役金田一国士(二二頭取)であったが, 昭和5年3月6日盛銀監査役の吉田万太郎の死亡 (二二69期営)により矢幅正三郎が社長,藤原多 治郎が副社長となり,すべて三二幹部行員で固め た。しかし三二事件で矢幅,藤原と金田一,太田 の各重役が収容され欠員となったため,8年2月 7日,三二の更生重役が新役員に就任登記した。 (S8.2,10日報)10年時点では払込高7.5万円, 社長松田忠太郎18),取締役菊池第三(丁銀更生 17)吉田万太郎は川原町の海産物商,盛銀監査役,盛 岡電灯,花巻温泉,盛岡海産物委託各取締役 重役,餌差小路),吉田庄四郎ユ9)濫査役箱崎圭 助20),支配人・盛銀行員の久慈伴蔵21)であった。 (諸S10下p266)盛岡倉庫,盛岡土地建物など, 旧劇系の同類企業との兼務役員の多いことが特 色である。盛岡不動産は盛電(S5/121,!2!株), 岩手軽鉄(S6/9320株)九十銀行(S6/621株) などを所有する持株会社的機能を果していたと 見られるが,盛銀などとともに盛岡土地建物の大 株主にもなっているので,盛岡土地建物との兼務 役員が多いのも当然であろう。  さて,非公然組織たるべき「朦朧会社」設立を 岩手日報が報じることは稀であるが,なぜか盛岡 不動産に関しては岩手日報に簡単な記事が掲載 された。A「盛岡不動産株式会社昨日創立総会社 長は吉二三 盛岡不動産株式会社が今度設立さ れることになり,二十四日午後一時から盛銀楼上 に於て創立総会を挙げた。資本金は三十万円,株 数六千株,一口五十円,一回払ひ込十二円五十銭 で杜長には名望高い吉田万太郎氏が任じ,土地の 売買をなすものである」(S5.2.25日報)

 盛岡不動産の創立総会の開かれた24日午後2

時からは盛銀重役会も開かれ「金田一頭取から

種々報告等あり,銀行業務の合理化を協議」

(S5.2.25日報)した。翌日の日報にもなぜかほ ぼ同趣旨の記事がのった。B「盛岡不動産株式会 社の事業 二十四日午後一時から盛銀に於て創 立総会を挙げた盛岡不動産株式会社の顔触は社 長吉田万太郎,取締役太田孝太郎,藤原多治郎両 氏に監査役金田一国士氏に決定,二十五日会社の 18)松田忠太郎は払出更生重役,花巻,盛岡倉庫取 締役,盛岡土地建物監査役 19>吉田庄四郎は日銀更生重役,黒沢尻,闇黒沢尻 銀行重役,金銭貸付業の吉庄株式会社代表取締役, 盛岡倉庫取,岩手無尽杜長,金融会社役員(『帝国 信用録』Sllp6) 20)箱崎圭助は盛銀更生重役,花巻,味噌醤油醸造 元の箱崎庄吉商店専務,盛岡倉庫取,岩手種苗代 表者 21)久慈伴蔵(田中)は盛銀青森支店長(工p32), 盛岡土地建物取締役

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役員関係の情実融資と“朦朧会社” (小川 功) 一27一 新設の登記手続きをなした。同会社は普通の不動 産売買とは違ひ,社会公共のために家屋の賃貸借 を手始めに安価に土地売却に応じ,年賦の貸し家 等をも行ふ意向で,本県稀に見る営業方針を持っ て居るものである」(S5.2.26 H報)

 AB両記事の差異はAの「土地の売買をなす

もの」との目的をBでは「普通の不動産売買とは 違ひ」として長々と「本県稀に見る営業方針」を 解説する点である。おそらくA記事の掲載を知っ た盛銀トップがこれでは盛岡不動産の設立動機が 外部から曲解されては困るとして,再度日報に「社 会公共のため」という同社の設立趣旨を書かせた のではないかと推測される。盛銀傘下の日報には 「中の橋検事局』(盛運のこと。中の橋は同行所在 地)の言論統制があり,編集長は「電話で盛岡銀 行頭取金田一国士をよび出して…いかが致しま しょうかと伺いを立て」(覚書下p182)る役回り を演じていたと言われる。しかし当件は恒例の下 野関係の宣伝記事の一つと編集長も見過ごした可 能性があり,日報記者の取材源が下位の盛銀行員 だったとすれば,盛岡不動産の真の正体を知らさ れておらず,軽く考えた可能性もあろう。  なぜなら盛岡不動産は後に「盛銀のインチキを 擁回する」(事件 p83)とか「盛銀の伏魔殿」 (S7.12.11東日)と称されたほどの問題会社で あって,「普通の不動産売買とは違ひ」「稀に見る 営業方針」を持っていたと思われる。盛岡不動産 の創立総会直後の盛銀重役会で協議された「銀行 業務の合理化」なる議題もおそらく盛岡不動産を 活用した不良債権の隠蔽工作の密議ではなかっ たかと疑われる。そのような後ろめたい盛銀トッ プの本心では盛岡不動産設立はむしろ淡交会,光 拘社,楓園社等の場合と同様にこっそり伏せて置 きたかったものと考えられる。一つの論拠とし て,同系会社の動向を誇らしげに毎回営業報告書 「営業の景況」欄に掲げることを常とする盛銀が

S5/6第69期営業報告書では5月21日の盛岡瓦

斯創立等を記載するにも拘らず盛岡不動産設立 には一切言及していないからである。(淡交会, 光殉社,冷評三等も当然に不掲載)そうしたトッ プの真意(当然に事務方には伝えられない)とは 別に何らかの手違いで日報に設立記事が出てし まった結果,世間体を繕うため,昭和5年2月設 立(S7.12.10東日)という大恐慌の最中に時期 的に極めて不自然な「本県稀に見る営業方針」の 不動産会社設立の意義を無理にでも強調せざる を得なかったのではないだろうか?  「盛岡不動産会杜は現盛銀監査役矢幅正三郎氏 (元支配人)を社長に,副支配人藤原多治郎氏を 副社長に戴き」(S7.12.10岩毎),盛銀支配人,副 支配人のコンビが盛岡不動産でも社長,副社長に 就任するなど,智覚の実務に直結した内容であっ たことが窺える。盛岡不動産が所有する岩手軽便 鉄道,九十銀行の株主名簿では名義人は矢幅社長 でなく,「盛岡不動産株式会社取締役藤原多治郎」 となっており,財産の得喪など実質的な差配を藤 原が担っていたことを推測させる。「盛銀のイン チキを擁蔽する盛岡不動産会社の副社長」(事件 p83)となった藤原多治郎は盛銀重役の宮田重治 の親戚で宮重商店監査役(諸SlO下p256),盛銀 が812株8.12%保有した盛岡合同運送(昭和2年 1月設立,資本金50万円)の監査役等を兼ね, 「経験による会計学と法律上の実際知識は異常な もので,金田一も藤原の直言だけは入れた」(事 件p84)と言われる実務型の筆触副支配人であっ た。おそらく実務に明るい藤原らのアイディアで 生まれた盛岡不動産は盛銀の実質的な「無担保貸

付金整理の使命を帯びて生れた姉妹会社」

(S7.12.3東日)と考えられる。「盛銀の担保処分 に際し不利なものは他に転売し,利益あると見込 みをつけたものは不動産会社で処理して重役が 私腹を肥やしてみた」(S7.12.!0東日)とされる から,盛銀の日々の不良債権の処理の過程で当然 に必要となる担保処分を円滑に推進するための, いわば「自己競落会社」であると見倣され,巷問 「盛銀の伏魔殿」(S7.12.11東日)と評される所 以でもあろう。沢田勝郎氏も「昭和五年…農業県 たる本県の打撃また深刻を極め,不動産価格の激

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一28一 滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.7  2000 落激しく,盛岡不動産株式会社を創立して対策を 講じた」22)として,担保価格下落対策とされる。 盛銀本体に代ってそのダミーとして,盛銀の債権 額が確保できるように,時価相当よりも高く競り 落とす機能を果す自己競落会社としたなら,当然 に担保物件の競落資金が開業当初から必要なは ずであり,まず「行員の積立金,身元保証金十四 万円を…盛岡不動産会社に貸付け」(S7.12.3東一. 日)たのを手始めに,「盛岡不動産会社に対して は盛銀より同社が昭和二年設立以来百九十七万 五千円といふ巨額の貸付」(S7.12.10東日)が存 在したことも説明できる。  昭和2年目町村会調査では丁銀の関係会社への 貸付は約350万円となっており,「多額の筆頭は 不動産の二百三十万円」(町村会調査,2.9.25東 朝)と2/3を占めていた。その後の追加分を含 め四口に分れた「盛岡不動産会社に対する丁銀貸 付総額は二百六十万円に達し,確実な担保のある のは約二十五万円に過ぎずそれに対する利子十 余万円が昨年十一月二十六日支払制限を行った 当時未払となってみた」(S7.12.11束日)と報じ られた。こうした盛岡不動産と盛銀との濃密な関 係は「専ら盛銀の不良貸整理に任じてみるもので あるが,同会社への盛銀の貸付額は二百万円に達

してこの間の関係は殊の外こみ入ってみる」

(S7.12.10一二)ため,「そこに多分に銀行側の インチキ性が潜在してみる…元々不動産会社創 立が二巴財閥の醜事実の隠蔽所となってみたも ので,ここからも意外の事実が摘発」(S7.12.3東 日)された。盛岡不動産は盛銀の整理で重要な役 割を果したことを見落としてはいけない。盛銀の 最終整理案において「無担保債務中昭和七年六月 二十日現在に於ける金五十円以下の預金者に対 しては旧重役の委託により盛岡不動産株式会社 に於いて支払可致に付,本整理より除外する事」 (事件p125)と,盛岡不動産は盛銀の小口預金者 22)沢田勝郎「金田一国士一岩手の代表的実業家一」 『岩手史研究』20号,昭和30年9月,岩手史学会, p62 一一 8 への払戻窓口機能を果したのである。  この前提として史料23)が示すように,昭和8 年5月盛岡不動産は盛銀(取締役吉田庄四郎)か ら花巻温泉などの債権を信託譲渡された。日付と 固有名詞以外は印刷済みの特定用紙に記入され ていることから,債権の信託譲渡は広範囲に行わ れたものと思われる。吉田庄四郎は金田一,太田 らが退任を余儀なくされたあと,盛銀取締役とし て乗り込んできた人物である。信託業務なら盛岡 信託が利用されそうなものだが,盛岡信託は実質

休眠状態で,一連の信託譲渡の直後の8年6月8

日には業務停止命令を受けている。(信託)また

盛銀本体もほぼ同時期の8年6月2日銀行免許取

消24)処分を受け解散・清算に移行,6月ユ0日清 算人に工藤吉次,石川金次郎,上野正一郎任命が 任命され(信託),吉田ら取締役の機能は停止さ

せられた。信託譲渡されたほぼ同じ頃(5月16

日)吉田庄四郎は盛銀顧問代議士駒井重次ともど も大蔵省に出頭し,「官選二名ノ重役ヲ指名サレ, 同行ノ整理ヲ援助セラレタシ」(信託)と申出た が「誠意認められず」として容れられずに引上げ ている。免許取消を覚悟した丁銀最後の実務担当 重役たる吉田が駒井代議士と共謀して,何らかの 秘められた意図のもとに,免許取消直前駆け込み 的に行った訳ありの隠匿行為がこの債権信託譲 渡であったと考えられる。この際,譲受人に選ば れたのが当時新聞各紙から「盛銀の伏魔殿」「盛 23)「債権信託譲渡通知書  拝啓陳者当銀行力貴 殿二対シテ有スル左記債権ヲ今般後記ノ譲受人二 信託譲渡致候獣毛承知相成度此段及御通知候也       二 一昭和四年一月三十日付借用金証書二基ク貸付元 金一万六千円ノ残元金九千九十七円九十九銭也ノ 債権元利金 一譲受人盛岡市仁王第一地割字臭墨 六十三番地盛岡不動産株式会社昭和八年五月十日 盛岡市紺屋町百二十二番地株式会社盛岡銀行右取 締役吉田庄四郎 稗貫郡湯本村株式会社花巻温泉 常務取締役一戸三矢粗く確定日付盛岡8.5,ユ5后4 −8」(花巻温泉電気鉄道「参考書綴」花巻温泉所蔵) 24)蔵銀第一九九〇号(写),県。日銀資料は2日, 信託は3日付。

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役員関係の情実融資と“朦朧会社” (小川 功) 一29一 銀財閥の醜事実の隠蔽所」などと酷評されていた 盛岡不動産であったことも興味深い。もちろん吉 田自身も盛岡不動産取締役を兼務していたから, 書類作成上,万事好都合であったのであろう。し かし一審の弁論で伊藤弁護人は藤原は「〈盛岡〉 不動産会社の嫌疑で引っぱられ,ソレがなんでも ないので,蛸配,防戦買で仕方なしに起訴され た」(S9.10.27日報)と述べており,盛岡不動産 問題は不問となった。なお「盛岡銀行業態調」25) では「花巻温泉株(一五,八四七株)盛岡倉庫株 (五,一五六株)盛岡不動産(四,六五〇株)等 地方雑株相当アルモ何レモ其価値乏シキモノノ ミナリ」と片付けている。

5.株式会社淡交会

 淡交会は「有価証券ノ所有買入貸付並二之二付 帯スルー切ノ業務ヲ営ム」(商業登記公告S4.2.24

日報)ことを目的として昭和4年2月15日資本

金16,500円で盛岡市加賀野鴨久保田67番地に設 立された。代表取締役は萬昌一郎(盛岡信託常 務,盛貯取締役),取締役小野崎篤造(盛貯頭取), 梅津東四郎(盛岡信託煎常務より農期常務),及 川久次郎26),監査役高橋彦助27),佐藤勝身28)で あった。  「盛岡信託沿革史』では「淡交会は株式会社に して萬昌一郎,小野崎篤造,梅津東四郎等が設立 した会社也,其目的事業等不明也」(信託p37)と しており,盛岡財界に精通し,盛信監査役として 直接整理に携わった一ノ倉則文でさえも9年時点 で調査の匙を投げたほどの「朦朧会社」(信託 p37)であった。8年の盛信の大蔵省検:査では淡 25)昭和11年!2月28日福島支店「盛岡銀行業態調」 昭和11年7月末現在,B銀,付p517 26)及川久次郎は十二鏑村の多額納税680円,M23.8 生れT5.3慶大理財二三, T14. io盛貯入行, S4.1支 配入,S6.1山男常務,花巻温泉発起人・相 談役(S6.1.8日報ほか) 27)高橋彦助は宮野目村,盛岡税務署直税課長,遠 野税務署長を経てTIO日銀入行,副支配人(TIO. 10.8 日幸艮) 28)佐藤勝身は浅岸村,盛i貯書記長よりS6支配人 交会は「萬昌一郎氏関係」に分類されているが, 淡交会の主要持株である盛電(S5/12新株10,900 株,一新株100株)では代表取締役たる萬個人は 新株503株,一新株520株しか保有せず,役職も 監査役にとどまっており,必ずしも萬個人の利益 のみを代表する保全会社ではないようだ。むしろ 盛電など,同系会社増資時の受け皿として利用さ れたと見られる。他に淡交会は花巻温泉の2,200 株等を保有した。  淡交会の中心人物の萬は盛信常務で盛貯取締 役を兼ねていたが,金田一は「盛岡信託会社には …金田一一一の意のままに動く万昌一郎を社長にし, 自分は…その重役を兼ねて支配権を一手に握っ て,それらの銀行,会社から入る…信託金を盛銀 の穴埋めに使ってはやりくりしていた」(覚書上 p103)とされる。一審で秋山弁護人は「太田,矢 幅は積極の人金田一の女房役である…処が外に も女房がある,それは萬,小野崎だが,この二号 三号は何等のお答めを蒙らず本妻であるが為に 罰せらるのは悲惨である…選挙関係で赤沢が起 訴され小野崎,萬は起訴されてるない。然も小野 崎,萬等は東京に於ける金の使ひ方も両人は待合 などで一人遊びしてみる,それが引っぱられぬと すれば赤沢が政友,小野崎,萬が民政だからでは ないか」(S9.10.23日報)と,免訴となった小野 崎,萬に八つ当たりしている。横山弁護人も小野 崎,萬の「二人とも共犯であるが,御勘弁を頂い た」(S9.10.29日報)と弁論するや「傍聴人クス クス」(S9.10.29日報)と大きな反響が起り,そ うした見方が傍聴人(多くは金田一関係者か)に も少なくなかったことを示すものだろう。免訴に なったとはいえ盛岡信託の不当融資の構造は盛 銀となんら本質的な差異はないと思われる。  淡交会役員の関係行も盛信,盛貯,農銀等に跨 がるが,梅津と萬は大正13年9月盛信設立を主 唱したコンビで,二人目常務を勤めていたから, ともに平銀の傘下にあって姉妹関係にあった盛 信,盛貯の共通の分身と見られる。監査役の高橋 彦助は税務署OBで「主として本支店の行務検査

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一30一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.7 20QO を受け持ち土地の貸付に関する調査をも為す」 (T10.10.8日報)専門家であった。  盛銀からの借入金は計3万円(S7.12.17時事) とさほど多くはないものの,盛信も4年7時点で 淡交会に対し信託勘定で2.8万円,固有勘定で 15.2万円(信託p37),8年時点では急増して信 託勘定で195,505円を融資している。(信託p83)  一方盛信は盛貯常務・淡交会取締役の及川久次 郎にも58,940円融資しているが(信託p88),及 川は萬と同郷(十二鏑村)・同窓(慶応理財科) の緊密な関係にあり,金田一も「慶大理財科を優 秀の成績を以て卒業した」(S6.1.8日半)及川を 四聖常務に推薦するなど信頼していたものと思 われる。同じく盛貯支配人で淡交会監査役の佐藤 勝身にも8年時点で盛信は信託勘定で68,852円 を融資していた。(信託p84)。  しかし盛銀からの借入金10.5万円(S7.12.!7 東日)の存在を記者に突かれた佐藤勝身は「銀行 同志の取引ならいざ知らず,私個人の名義でそん な巨額な金を取引きした事は全然ない。名義を貸 すとか何んとかの場合でも話位はあるだらうが, その事に関しては全然相談も無い。実に不思議な 事だ」(S7.12.!7東日)と盛銀借入の存在を全面 否定した。行員への貸出は「本人のしらないの や,本人がすでに死亡してみるのに貸付けてある のなどがあって」(S7. 12.10岩国),佐藤の言の 通りと仮定すると,丁銀,盛信等は本人に「全然 相談も無い」ままに,盛貯等,傘下行社の常務や 支配人クラスの幹部行員の名義を勝手に使用し ていたことになるQ  支配人クラスの幹部行員の名義借用の例とし ては中層が資金繰に窮し,あるいは売却益捻出目 的で盛んに売りに出した盛電等の手持ち同系株 の受け皿となり,一躍「一流の資本家」の仲間入 りした田村割引課長の例が顕著である。田村は公 判でも裁判長から資産を聞かれ「資産はありませ ん」(S9.9.5日報)と答えているのに,「一銀行 員の田村墨銀割引課長が盛岡市で現在三十番目 の戸数割納付者であることが分って,盛岡検事局 の有力な証拠の一つとなった。それは昨年十一月 の邦銀の支払制限後において,盛銀,盛電を始め 同族会社の株式を盛銀から山程取得し,盛銀株だ けでも現在三千株,盛電株は三百数十株に達し, 断然一流の資本家にうなぎ上りに上ったためで, 市役所はその所有株額によって戸数割を賦課し たに過ぎない。支払制限後にかうした取得が行は れた内面の理由は早るが,その株額に相当する多 額の手形貸が銀行の帳簿に田村氏名義で記入さ れてあり,田村氏は大資本家であると共に銀行の 大債務者である奇観を呈し,銀行旧幹部のかうし た苦肉策を演ずる当時の苦悩狼狽振りをうかが ふに足るとされてみる」(S7.11.25東朝)とある。  なお盛運の所有株式数のS5/6とS6/12との減 少した銘柄としては,盛岡電燈旧8,000株,新 2,500株,一新1,500株,花巻温泉12,000株,盛 岡貯蓄銀行200株,横浜正金銀行630株,盛岡合 同運送68株,日本勧業銀行40株などであった。  家族名義の借入に関しては早くから「金田一氏 一党の人々の戸主の名義による借金は実際にお いて大体頭取の使用せるもの,子供や弟の名義に よるものはその戸主の使用せる借金」(S7.9.25       ママママ      ママ 東朝)と観察されており,「交詞社,淡水会,堅 甲社,金田一同族会社等に対する貸付の中には単 に社名のみを以て責任者を明記せざる証書が相 当数に上ってみる有様」(SZ 11.26河北)との報 道と併せて考えると,「朦朧会社」との取引だけ でなく「朦朧会社」役員個人との取引も実態を伴 わず,ひょっとすると彼らの「朦朧会社」役員就 任自体も佐藤のいう通り「全然相談も無い」まま 登記された可能性もあろう。 6.松屋合名会社、合資会社緑会(瀬川弥右   衛門関係)  合資会社緑会は貴族院議員で県下有数の大地 主・大資産家の瀬川弥右衛門(盛銀,盛信,花巻 温泉,東北起業各取締役,武蔵中央電気鉄道監査 役)が代表社員となっている花巻町所在の合資会 社で,松屋合名,北東商事株式会社(代表者瀬川 弥右衛門,盛岡電灯の15株主)などとともに瀬

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役員関係の情実融資と“朦朧会社一一(小川 功) 一51一 川弥右衛門の個人会社で,持株としては盛電(S5/ 123,717株,新1,4!5株),岩手軽鉄(S6/9!,290 株),盛信(S5/121,250株)などが判明する。瀬 川の「広大なる土地の思惑買」などの個人的投機 行為にも関係したダミー会社であろうと考えら れる。金田一は公判で瀬川との関係を聞かれ,「瀬 川は同人の父以来の関係ですが,瀬川と特に懇意 になったのは大正十囚年瀬川が上院議員になっ てから」(S9.9.3日報)と答えている。瀬川自身 も後年「花巻地方の経済の死活の鍵は…岩手軽鉄 問題であった。自分は地方の為に何も尽すことが 出来ないが軽鉄の問題は中央に持出して解決す る外に方法がない。私は柄にもなくこの重荷を背 負って立ったわけだったのだ」29)と語り,それが 「金田一国士氏との黙約」3Q>と認めたという。瀬 川の上院立候補は当時「県下第一の富豪のお坊っ ちゃんが名誉欲にかられてかつがれた」31)との 見方が多かった。(選挙を応援した金田一の金権 選挙ぶりを激しく攻撃した政敵の新聞報道に関 しては注5)拙稿①参照)  盛銀は瀬川に対して,岩毎による両者の癒着報 道を裏付けるように「議員出馬の時,六万円手形 で貸付けたのを初め」(S9.9.3日報),数十回に わたり,合計約44万円を貸付けたが,その中の 大口として合資会社緑会向に「有価証券を担保と して携途貸付金二十二万円あり」(論告),さらに 盛信も固有勘定で緑会に94,000円を融資してい たが,昭和8年頃盛岡信託への大蔵省検査で緑会 向融資は「内欠損見込額六八,五〇〇円」(信託 p86)と貸倒同然と見なされていた。瀬川は地元 の好意的な見方では「政治活動二期十余年の中に さすがの大身代にも拭ふべからざる大穴があき, 軽鉄と身代とを交換した形」32>と政治活動の結 果と見倣されているが,実のところはどうやら 29)伊藤専一編『釜石鉄道沿線繁昌記」昭和25年, p142 一一 3 30)       同上 31)       同上 32)       同上 「お坊っちゃん」33)の上に「人に欺される男」(長 岡隆一郎の弁論S9.10.28日頃)だったため,大 正14年貴族院議員当選以来,藤山雷太らと武蔵 中央電気鉄道34)に関係したり,貸金不動産・有 価証券売買の「東京商事其他のポロ会社に引っ掛 り遺産を投尽」(同上)した上に,さらに「東京 方面に於て広大なる土地の思惑買を為して莫大 なる借金を生じ,同人の経済的信用全く失墜し, 遂に該借金整理に付…金田一に助力を求めた」 (論告)とされる。すなわち高利貸に追われて困 窮した「瀬川と宮沢恒治35)が盛銀頭取室に来て 瀬川の東京方面の借金が大部あり,之を整理せね ば非常な困難に陥るから,其借金整理に必要な資 金を貸して貰ひ度と云ふて東京方面の瀬川の借 金を書上げた表を出した」(論告)が,±地の思 惑買に起因する資金の内訳は東京の三菱信託,安 田銀行その他高利貸から総額「四十万円の負債を 生じ」(S9.9.3日報)たものであった。そこで 「東京方面の債務支払のため,昭和五年三月から 八月まで,数回に亘り十八万七千円を不当に貸付 た」(S9.9.3B報)が,その際の債務者名義が問 題の合資会社軍部であった。瀬川への貸付が表に 出せない理由は①選挙当時から瀬川と金田一と の癒着自体が華華に批判を受けていた,②瀬川の 借金の原因が土地の思惑買で,③かつ買受土地が 下落したため思惑に失敗し,④高利貸からも借り ていたため,⑤支払に困り「破産申請を瞬くる状 態」(S9.9.3日報〉にあって,⑥瀬川の信用も地 に墜ち,全く返済能力がなく,⑦盛銀側にとって 背任の恐れが極めて高い,典型的な情実融資であ り,⑧債務者側でも現職の貴族院議員としてかか る不体裁な救済借入れは他聞を憧るべきもので 33)伊藤専一編『釜石鉄道沿線繁昌記』昭和25年, p142 一一 3 34)武蔵中央電気鉄道は藤山財閥系の八王子電気鉄 道の免許を同じ藤山らで継承し,昭和4年11月に 開通(『京王三十年史』p37)させたものの,業績 不振で!3年京王電気軌道へ譲渡解散した。 35)宮沢恒治は花巻銀行の合併で盛銀取締役花巻支 店長に転じた瀬川の腹心,S6/9岩手軽鉄8株主

参照

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