環境問題とマルクス経済学
梅 沢 直 樹
1 序 環境問題は,社会環境や文化環境をめぐる問題をも含むし,景観問題に象徴 されるように,近年ではそれらへの関心も高まっている。とはいえ,環境問題 の中心はやはり人間と自然との関係であろう。但し,人間と自然との関係とい っても,抽象的に人聞一般と自然との関係が問題なのではない。問題の根源は, 人間の経済活動が自然環境に対して及ぼす影響にあり,そしてこの経済活動は 必ず特定の社会関係のもとで営まれる。しかも,社会関係のあり方は,経済活 動のあり方,したがってその自然環境への影響のあり方を大きく左右する。こ の意味では,環境問題の中心としての自然環境問題も,社会関係に媒介され, 1) それに強く刻印された人間と自然との関係の問題ということになる。 もう少し詳言すれば,人間が自然を汚したり傷つけたりしても自然の浄化能 力や再生能力の範囲内に留まっていた時代には,環境問題は少なくとも人間に とっては存在していなかったし,社会科学は自然の浄化能力などを自然からの 贈り物,自然に委ねきっておけばよい問題とみなしておくことができた。だが, 生産力の水準が相対的に上がり,経済活動の自然への影響がもはや自然の浄化 能力などの範囲内に留まりえなくなってくると,社会科学も人間と自然との関 係を見直し,自然環境問題を課題として取り込まざるをえないこととなる。し たがって,この問題に関しては,たとえば河川や海の汚染に対する自然の浄化 作用それじたいのメカニズムなど,杜会関係を超越した事柄が固有の意味をも 1)「環境」の相対性など,「環境」,「環境問題」,「環境学」の一般認識としては,たとえ ば,高橋正立他編『環境学を学ぶ人のために』世界思想社,1993年,序章を参照。つ。換言すれば,自然環境問題は,社会関係に媒介され,それに強く刻印され たものであるとはいっても,決して社会関係に解消されきる問題ではない。む しろ,上述のような自然的関係が問題のいわば抽象的素材を構成している。だ が,同時に,それはあくまで問題の抽象的素材であって,それが各社会,各時 代にどのような具体的内容を帯びることになるかは,こうした素材的関係に対 して人間の経済的活動がどのような影響を及ぼすかに依存する。そして,この 人間の経済活動の影響のあり方は,各社会,各時代の社会関係によって基本的 に規定されている。この意味で,自然環境問題は,社会関係に媒介され,それ に強く刻印された人間と自然との関係ということになるのである。 ところで,自然環境問題の以上のような捉え方からすれば,環境問題の考察 にとって,マルクス経済学は独自の強みをもっていることとなる。というのは, マルクス経済学の本質的特徴のひとつは,資本制商品経済を人間の経済の営み 方の歴史的なあり方として相対化し,そうした歴史的制度としての特殊性に密 着するところにあるからである。すなわち,誰しも,自らがその中に暮らして いる制度や仕組みに対しては,日常的に慣れ親しんでいるがゆえに,それらが 他の制度や仕組みとは異なって固有にもっている性質についてつい鈍感になり がちである。だが,マルクス経済学は,自覚的に資本制商品経済を相対化する ことによって,そうした弊を免れ,資本制的商品経済関係に固有の問題を鋭く 扶り出そうとする。つまり,自然環境問題を媒介し,それに強い刻印を押すと ころの社会関係,とくにその中心としての経済関係の資本制的個性に鋭く迫ろ うとしているわけで,このことは,資本制社会における自然環境問題を考察す るにあたって大きな強みとなると考えられるのである。 じっさい,日本の環境問題の主導的研究者の一人として活躍してきた宮本氏 は,マルクス経済学を基盤とし,その蓄積論を応用することで環境問題に迫る というかたちで研究を出発させていた。また,いちはやくエントロピー論やコ モンズ経済論に着目し,生命系の経済論という構想をもって日本における環境 経済論のユニークな潮流を育んできた玉野井氏も,やはりマルクス経済学から 出発している。つまり,マルクス経済学は,日本における環境問題研究におい
てたしかに一定の有効性を発揮してきたと言える。だが,他面で,宮本氏も玉 野井氏も,第III節で見るように,その到達点においてはマルクス経済学と一定 の距離を置くようになっていることも事実である。このことは,旧来のマルク ス経済学が軽んじえない問題を孕んでもいたことを示唆していよう。 すなわち,先述の自然環境問題の捉え方に即せば,一方で,自然環境問題の かの「素材的関係」を取り扱うには,マルクス経済学の基軸をなす価値論その ものが,価格論との関係においても価値実体論に関しても硬直的に過ぎた。さ らに,この価値論の硬直性とも関連して,資本制商品経済という「社会関係」 の理念像が柔軟性を欠いていた。その結果,マルクス経済学は,環境問題に迫 る指針を十分に的確には与ええなかったし,また環境問題の具体的分析から得 られる知識を理論の側へ有効にフィードバックもさせえなかったのである。 とはいえ,上述のところは,マルクス経済学が環境問題を取り扱うには本質 的な限界をもっているということではない。むしろ,マルクスの価値論じたい にもその硬直性を打破しうる発想の芽は潜んでいる。そこで,以下では,まず そうした方向での価値論の構図を提示したうえで,玉野井説や宮本説が開拓し てきた領域とマルクス経済学との有機的連関の回復について検討してみたい。 さらに,カップの社会的費用論をどう評価すべきかを手掛りとしながら,上記 の価値論の構図が内包する価値実体論についても若干の考察を試みてみよう。 II 価値論の構図の再構築 周知のように,マルクスの価値論は,抽象的人間労働を実体とする価値こそ が価格の規制者であると認めるとともに,この認識に基づいて,価格を媒介に 形成されている資本制商品経済のもとでの社会関係,及び価格を指標として営 まれている資本制商品経済の運動を解明しようとしたものである。このさい, 資本制商品については個々の商品の価値と価格が直接に一致するものでないこ とは認識されていた。のみならず,マルクスは,この価値と価格との不一致を, リカードゥのように価値そのものの修正につながるものとは解さなかった。む しろ,価値と価格とは次元を異にする範疇であると捉えた。そのうえで,個々
の商品に関する価値と価格との不一致は社会的総剰余価値の利潤としての分配 に関連して生じる事象にほかならず,社会的総額としては価格は価値に一致し 利潤は剰余価値に一致するということ,さらに価値による価格の規制はこうし 2) た仕組み全体を通して理解されるべきことを説いたのである。 だが,生産価格論,すなわち資本制商品の価格が価値により規制されている ことに関するマルクスの説明は,費用価格部分については価値どおりの数値を 想定したままであって,未だ完全なものではない。商品の販売価格が生産価格 へと転化するのであれば,それが生産手段として購買されるさいにも生産価格 で行われるしかなく,生産価格を導出する方程式における費用価格部分はその ように修正されなければならないのである。しかも,この修正を施せば,社会 的総価値と社会的総:生産価格との一致及び社会的総:剰余価値と社会的総利潤と の一致というふたつの総計一致命題は両立しえなくなる。また,これらふたつ の総計一致命題は,価値及び剰余価値が属する次元と生産価格及び利潤が属す る次元との質的関係という同じ事柄の双生児的表現でもあるのであるから,そ れら二者のうち一三だけを救うということは不可能であって,共に維持できな いのであれば共に放棄するよりない。かくして,マルクスが示したようなかた ちでの価値論の構図は,根底的な再検討を迫られることとなる。 そこで,マルクスの価値論をあらためて検証してみると,次のようなことが 明らかとなる。すなわち,まず,商品の価格と直結させながら抽象的人間労働 という価値の実体を析出している『資本論』冒頭のいわゆる蒸留法は,形式論 理的には恣意性を孕んでいる。換言すれば,あの蒸留法における抽象的人間労 働の析出は,単なる形式論理に基づいてではなく,「労働」という範疇に認めら れる固有の意義を前提に行われていると解される。そして,その労働に認めら れる固有の意義とは,同じ冒頭岸頭4節の商品の物神性論に見られるように, 社会存立の基盤は労働であるという認識であろう。だが,だとすれば,マルク ロ スの価値論には短絡が存在していたことになる。 2)本節で展開するマルクスの価値論の理解やその再編の試みについて,詳しくは拙著『価 値論のポテンシャル』昭和堂,1991年,第1篇を参照されたい。
たしかに,人間は労働を通じて生活資料を獲得しなければならず,そのため に適宜に自らの労働を配分しなければならない。この点は,社会にとっても同 様である。また,この労働配分は商品経済においては価格を指標に行われる。 したがって,価格と労働との間には少なくとも機能的連関を認めることができ る。だが,この連関を根拠に価格と労働とを直結するのは短絡である。なぜな ら,適宜に労働配分が行われなければ社会は存立しえないという原則は,抽象 的で弾力的な原則であり,この原則に照らした基準たるところの各財やサーヴ ィスが担う社会的労働量に即して労働配分が行われないと社会の存立がただち に危ぶまれるといったことは含意していないからである。換言すれば,労働量 から乖離した指標によるものではあっても,かの原則から見て最適ではないに の せよ,ともかくもの労働配分の達成ではありうる。つまり,労働配分の指標は, ともあれ労働配分を達成できなければならないという枠内においてではあるが, 一定の自由度をもっていると解されるのである。それゆえ,資本制商品の価格 についても,それをただちに労働量と結びつけるのではなく,むしろ資本制商 品というその特質に即して価格を支配する論理を探り,それが大枠としての労 働配分問題とどのような関係に立つことになるのかを解明すること・が必要とな る。しかも,この作業を遂行してみると,資本制商品の価格は労働量に触れる ところなく規定されるものであるということが明らかとなる。 とはいえ,このことはもはや価値論が不要であることを意味しはしない。ま ず,労働という範疇は,もし経済学のうちに存在しうるとすればもっぱら価格 の説明要因としてであるといった性格のものではない。むしろ,社会存立の基 盤に関わってそれ独自の根拠をもっている。しかも,先にも確認したように, 価格は商品経済のもとで社会存立の基盤としての労働配分が遂行されるさいの 指標であるにはちがいない。したがって,この機能に関わらせて,価格を労働 配分問題自体に即した指標としての労働量と関連させて捉えることができる。 具体的に言えば,資本制商品経済がその固有の費用観に基づいて形成した価格 体系を,社会存立の基盤に即した費用観に照らして捉え直し,前者の後者から の乖離の仕方やその結果としての労働配分の歪みを検討することができる。ま
た,前者のもとで展開されている社会関係が後者の視角からはどのように見え てくるか,たとえば前者は後者の費用観からすれば社会成員問のどのような負 担関係を内蔵しているのかといったことを考察することもできるのである。 「労働」の論理に 即応した鏡
町噸
剰余生産物 生産価格 価値 \\、 生産物 資本の論理を 体現した鏡 利潤 資本制社会の成員 要するに,マルクスが,リカードゥと異なり,価値概念を価格とは異質の次 元で独自の存立根拠をもった概念として捉えていたことを活かして,価値論の 再構築を図っていくと,次のような価値論の構図が浮かび上がってくることと なる。すなわち,価値論とは,交換という特殊な交通様式の発展の極北として の資本が自らの論理に基づいてそれなりに自律的に展開している世界に,社会 存立の基盤の世界の論理を対置するものである,と。さらにそれを通じて,資 本の世界=交換の論理が支配する世界がそれなりに自律的であるがゆえにもっ ぱらその世界に閉じ込められがちな日常意識に対して,社会存立の基盤の世界 コ つ ロ の論理に即した視角からの資本の世界の読み解きを提供するものである,と。 と同時に,このような構図で資本の世界=交換の論理と社会存立の基盤の論 理との関係を把握することは,当然,次のような問いを投げかけ,またそれへ の解答を用意していくことでもある。すなわち,機能としてはともかくも後者 を実現するものでもある前者の世界がなぜ,いかにして後者からそれなりに自 律するのかという問い及びそれへの解答である。さらに,この問いへの解答は, 資本制商品経済というものが,より広い展望のもとでは決して資本の世界=交 換の論理のみでは自律していないこと,またそれゆえに決して硬直的には捉え えないことを明らかにする。そしてこのことは,大枠としての社会存立の基盤 の論理が,資本制商品経済において現実的にはどのようなかたちで機能することになるのかについても一定の示唆を与えてくれる。 というのは,上述の問いに対する解答のカギは,資本の世界が,自己にとっ ては疎遠な社会存立の基盤としての生産過程をも,労働力の商品化を通じ交換 の世界固有の費用観で包摂することにあるのだが,この労働力という商品は意 識をもつという特殊な商品でもある。そして,この商品のこの特質は,労働疎 外という問題にせよ労働者が背負っている文化の問題にせよ,交換の世界の費 用観のみで割り切れるものではない。こうして,資本は,自らの論理をはみ出 すものの統御という課題に直面することになるが,そのさい資本は,はみ出す ものをできるかぎり整理しようとする一方で,それとの妥協も強いられるし, またそのはみ出すものを利用しつつ自らの論理を貫徹しようともする。ここに は,資本制商品経済のある種の懐の深さとともに,その多様な展開の可能性を 見出すことができよう。とともに,資本制商品経済の運動過程での意識の介在 という問題は,宮本説に関連して次節であらためて取り上げるが,大枠として の社会存立の基盤の論理が資本制商品経済において現実的にどのように機能す るかについても示唆深いところをもっと考えられるのである。 このように見てくると,うえに展開したような価値論の構図が環境問題の考 察にとっても有意味であることは明らかであろう。うえの構図の核心は,交換 という特殊な交通様式が自らの論理でもって織り上げる世界に対して,社会存 立の基盤の論理を対置し,本来的には疎遠な両者がどのように接合し,またそ の接合の局面にどのような緊張関係が見出されるかを問おうとするところにあ るからである。したがって,環境問題が社会存立の基盤の問題でもあるという 認識に立ったとき,上述の構図は環境問題をも含むものへと拡張されうる。換 言すれば,環境問題は,人間という自然が資本=交換の世界という特殊な,自 らにとり疎遠な論理にいかに包摂され,そこにいかなる緊張関係が生じている のかという労働価値説に即して追求されてきた問題とまさに一対の関係におい て,固有の自然が資本=交換の世界という特殊で疎遠な論理にいかに包摂され, そこに人間も黙視しえないいかなる緊張関係が生じているのかという問題とし て,資本制商品経済の考察のうちに体系的に把握されることとなるのである。
III 玉野井説,宮本説をめぐって 玉野井氏の生命系の経済論は,マルクス経済学,とくに宇野派的なそれから, 近代経済学,さらにポラソニーやイリイチのそれぞれに個性的な切り口からの 市場経済批判,そしてエントロピー論へと視野を拡げていきつつ,最後に到達 された氏の経済学研究の結論と言えようが,その特徴は次の点に認められる。 すなわち,市場と工業が代表する論理に対して農業が代表する生命系の論理を 対置する点である。だが,この対置は一見不整合にも見える。というのは,農 業に対し一括して対置されている市場と工業とは決して同次元のものではない からである。つまり,社会主義経済のもとでも工業は営まれてきたことに端的 に現れているように,市場は制度ないし体制の問題であるのに対して工業は制 度を超越したところをもつ問題なのである。にもかかわらず,玉野井説におい ては,この両者はたしかに一括されうるものとなる。そしてその一括のカギを 握るのが物質代謝という視角である。と同時に,この視角が上述の両次元で等 しくうまく機能しているかというと疑問も生じる。少し立ち入ってみよう。 すなわち,市場と生命系の論理との対置について言えば,まず,氏は,交換 =市場関係は共同体と共同体との問に生まれたものであって,共同体の内部で 3) その生活を支える社会的実体とは疎遠なものであることを指摘する。さらに, 氏は,資本制商品経済は労働力を商品化することによって,労働者の消費生活 をも労働力の生産過程に転化し,商品による商品の生産という循環的で閉鎖的 4) なシステムを作り上げていることを強調する。つまり,氏による市場と生命系 の論理との対置には宇野賢聖マルクス経済学の影が色濃く反映されている。と はいえ,上述の議論は決してそれに解消されるものではない。というのは,上 述のところで資本制商品経済の閉鎖性が強調されているのは,生命系とは外部 環境から低エントロピーを取り入れ,外部環境へ高エントロピーを排出する物 質代謝を営む開放系であるという認識に立って,資本制商品経済システムが反 3)たとえば『玉野井芳郎著作集』第2巻,学陽書房,1990年,12,93ページなど。 4)同上書,16∼17,80∼81ページ。
5) 生命系的であることを論定しようという趣旨のものだからである。 こうして,玉野井説における市場と生命系の論理との対置に関しては,物質 代謝という視角が大きな意味をもっていたことが確認される。だが,同時に, この市場と生命系との対置論はいささか緻密さを欠いている感も免れがたい。 なぜなら,市場関係がもともと社会的実体とは疎遠なものであることは指摘さ れていても,市場関係が共同体の内部へと浸透し,ついに社会的実体を包摂す コ ロ コ ロ コ ロ ロ コ コ るにいたった資本制商品経済において,市場関係と社会的実体とがいかなる接 合態様を展開することになるかについては触れられていない。したがって,資 本制商品経済が循環的で閉鎖的なシステムであるとはいっても,そのことが, この経済の存立をも根底では支えているはずの社会的実体の生命系としての開 コ ロ コ む 放性と,どの点でどのように背反することになっているのかが明らかとなって こない。さらに,そもそも,労働力の商品化が資本制商品経済の循環性,閉鎖 性を作り出すという認識そのものに関しても,後述のように,疑問が残る。 6) これに対し,工業と農業との対置に関する玉野井説は次のようである。すな わち,玉野井氏は,E.ダヴィッドに依拠しつつ,農業においては,人間は「生 きた有機体」としての自然との協働者ないし生きた自然の自律的作用の補助者 であって,自然の生命系の律動を根底に置いて活動するしかないこと,換言す れば人間は自然と人間との物質代謝をトータルに把握する目をもたざるをえな いことを強調する。他方で,工業では,自然は人間の手でかぎりなく置き換え られてゆく自然,「死んだ素材」として取り扱われると氏は解する。かくして, ここでは,農業と工業とは根本的に異質な営みであり,工業は自然の生命系と しての論理を捨象する営みだとする氏の主張は明快である。また,それに照応 して,市場及び工業と農業との対置も,氏においては,結局,「農業から分断さ れた工業を基礎として,いいかえると,非生命系の基礎上に,自律的な市場経 7) 済という無時間の世界」が作られていると総括されることとなっている。 5)同上書,16∼18,40,90∼95ページ。 6)同上書,40∼46ページ。 7)同上書,112ページ。
さらに,こうした玉野井説からするとマルクスは次のように評価されること となる。すなわち,商品経済の特殊性,歴史性ないし商品経済と社会的実体と の疎遠な関係を洞察している点,マルクスは高く評価される。また,マルクス が労働過程論において人間と自然との物質代謝に目を向けていることも積極的 に評価される。そのうえで,マルクスの物質代謝論は基本的に工業の論理に基 づくものであり,商品経済の特殊性,歴史性も自然の生命系の律動との関連に 8) まで掘り下げたものではないことが批判される。つまり,マルクス説に一定の 意味を認めたうえで,それを乗り超えるべきことが主張されるのである。 こうした玉野井説には啓発される点も多い。だが,次のような問題も認めら 9) れよう。すなわち,玉野井説は,生命系の経済論の文脈では市場の論理の具体 的態様についての切り込みが弱い。だからまた,農業と工業といういわば素材 的次元での対置的把握を基礎としたものとなっているのだが,じつは氏の農業 と工業との対置論にも制度的ないし体制的視角からの考察の弱さが顔をのぞか 10) せているように思われる。というのは,若きマルクスが論じているように,意 識をもった存在としての人間は,工業においても,本能的,一面的にではなく, 対象のもつ性質を活かしながら多様なかたちで対象に働きかけることができな くはない。換言すれば,対象の性質やその論理を捨象するという工業のあり方 は,必ずしも工業の本性というよりも,商品経済のもとでは各人の個性の発現 として人間が意識をもった存在であることの証しとなるはずの具体的労働が貨 幣を手にいれるための抽象的労働へと疎外されることと対をなすところの,商 8)同上書,9,36∼38,42∼43,71,74∼75,88∼89,252,254,256ページなど参照。 9)玉野井氏には,第II節で提示した価値論の構図につながるような生産価格論の先駆的研 究も存在してはいる。同氏編著『マルクス価格理論の再検:討』青木書店,1962年,参照。 10)K.マルクス,城塚登他訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫,93ページ以下,とくに96∼97 ページ。中期マルクスには「人間と自然との非和解性」という論点もあり,マルクスの自 然観もそれほど単純ではないが,玉野井説には,消費のみを生活と等値したり,労働力商 品の廃絶の意義と労働疎外論との関連には目を向けようとしなかったり,初期マルクスの 人間観への関心の希薄さをうかがわせる点があることは,注目されてよいだろう。前掲書, 46,79∼80ページ参照。なお,初期マルクスの物質代謝論は後期マルクスにも生きているこ とを示しながら,マルクスの物質代謝論は工業的だとする玉野井説を批判したものに椎名 説がある。椎名重明『農学の思想』東大出版会,1976年,211ページ以下参照。
品経済のもとで疎外された工業のあり方という側面を有していると解される。 さらに,生産力の上昇とともに,工業が地球の水循環のような自然力の消費に も基づいていることが明白になってくるとすれば,それは工業においても「生 きた自然」が人間と協働していることの認識を人間に迫るものにほかならない。 しかも,農業においてはまさにこの認識が生命系の律動との共生をもたらすの であるとすれば,このさいにも工業はそれを包摂する体制と関わりなく自然力 の協働を捨象する本性をもっていると決めつける根拠はないであろう。他方で, 11) 農業も,たとえばA.ゴルツが指摘しているように,決して単純な自然との共生 行為ではなく,人間の都合に従った自然の改変であるにはちがいない。また, 石油漬けの日本の農業が示すように,資本制商品経済のもとでの農業はやはり 自然を支配の対象として扱う傾向をもっている。こうしてみると,たしかに農 業ではより端的に自然の協働に負うということの意味を軽視はできないが,そ れをもって農業と工業との本質的差異とまで解する必要はないと言えよう。 そしてこの立場からは,玉野井説を前節で見た価値論の構図と融合させる展 望も開かれてくる。すなわち,農業においても工業においても認められる「生 きた自然との協働」という社会存立の実体的基盤についての認識と対置しつつ, それが資本制商品経済の論理に従えばいかに処理されることになっているかを 解明するという方向である。これは,同時に,玉野井説では曖昧であった,資 本の論理が展開する価格体系の具体的態様を明確化する作業にほかならない。 ちなみに,そのさいには,労働力の商品化は,「社会的実体に対する価格体系の 自律化」として市場関係を閉鎖系化することも解明しうる。この点,玉野井説 は,労働力商品化に伴う市場関係の閉鎖系化の真の意味を明らかにしていない ばかりでなく,それと連動して次のような欠陥に陥ってもいる。 すなわち,かの価値論の構図において市場の論理が展開する価格体系がそれ なりに自律化するということは,商品の交換力は売り手の論理に依存するとい うことであって,労働力商品の交換力のばあいにも労働力の再生産費という規 定にこだわる必要はないことを含意している。むしろ,二重の意味で自由な労 11)A.ゴルツ,高橋武智訳『エコロジスト宣言』新装版,緑風出版,31ページ。
働者という売り手の置かれた立場に即しつつ,意識をもつ商品の統御,体制の 安定化という要因をも顧慮すれば,その社会の「市民」的生活費という規定こ そふさわしい。したがって,それは,彼ないし彼女が労働者として職場で発揮 する能力を超越した分野や水準での消費活動に充てられる費用を当然含む。つ まり,労働者の消費は,労働力として生産過程に再び投入されて循環を描くも のをはみ出す部分を含んでいる。のみならず,労働過程が資本によって締め上 げられ,疎外されたり密度が濃くなったりすればするほど,「消費生活」におけ る欲求はやはり疎外された方向で膨れ上がるし,また大量生産された商品に需 12) 要を創出するためにも欲求は刺激される。要するに,玉野井説の意味で,労働 力の商品化を通して資本制商品経済が循環化,閉鎖系化するとみることは,現 代大衆消費社会における浪費の構造=現代の環境問題の核心をかえって理論化 しえなくすると解される。現代資本制商品経済は,労働力の商品化を通して玉 野井説的に閉鎖系化するからではなく,むしろ閉じないからこそ,社会的実体 が開放系として保障してきた許容範囲と衝突しようとしているのである。 ついで,宮本説について考察してみよう。周知のように,宮本氏は,環境問 題が公害問題として多くの人の関心を集めるようになった高度成長末期よりは るかに以前から,この問題の学際性を意識し,かつ学際的協力を実践しながら, 日本の公害研究を切り開いてきた先駆者の一人である。そうした氏の研究のな かで,本稿としては次の点に注目したい。すなわち,氏は,公害現象を「資本 制蓄積の一般的傾向としての貧困化の一現象」と捉える立場から出発しながら, 資本制蓄積という体制的視角のみからの接近法に限界を認め,都留氏の素材と 13) 体制という複眼思考を継承,発展させて,素材と体制を媒介するものとしての 14) 「中間システム」に着目した環境経済学を構築するにいたっている。そして, そうした軌跡のなかで,「マルクス経済学の場合も既成の体系あるいはタームで まず公害・環境問題を位置づけることからはじまって,そのために失敗もした」 12)前掲拙著,110ページ以下及び226ページ以下参照。 13)都留重人『公害の政治経済学』岩波書店,1972年,第2章参照。 14)宮本憲一「環境経済学』岩波書店,1989年,39∼49ページ参照。
と反省し,「環境経済学には既存の理論体系はない。環境問題という現実の素材 から出発して理論をつくらねばならない。既存の理論を発展あるいは応用する」 という学問ではありえないとも主張するようになった。最後の文言は,政策科 学でもある環境経済学に携わる者は,誤認を生みやすい,文字で書かれた資料 だけに頼るのではなく,必ず現場を訪ねるべきであるという文脈でのものでは あるが,氏がマルクス経済学をも含む経済理論からの上向の効果の評価には消 一 . . . . . . 1.5) 極的となっていることをもうかがっことができよっ。 こうした宮本説は,社会主義社会の公害に氏が受けた衝撃に加え,氏が多く の公害問題に具体的に関わってきた経験に裏打ちされてのものでもあり,素材 と体制を媒介するものとして後述するような中間システムに強い照明をあてた ことは,高く評価される。だが同時に,氏の中間システム論は,上述のような 経済理論離れ傾向のゆえに,いささか平板である感も否めない。資本制商品経 済の理念像との有機的連関において,氏の言う中間システムが注目されるべき 所以やある中間システムが特定の姿容にあることの意義が明確にされるなら, 中間システム論はいっそう精彩を帯びるし,諸中間システム問の構造化も進む であろう。また,そうでないと,体制を重視しつつ素材との総合を図るという 16) 氏の全体構想のなかでの中間システム論としては不十分なはずである。 この点,氏のばあい,その依拠した,蓄積に伴う貧困化という資本制商品経 17) 済の理念像が硬直的すぎたことも災いしていよう。既に玉野井説に関連して論 及したところだが,価値論の構図を組み替えたとき,資本制商品経済という体 制は,意識をもつ商品の統御という課題に直面して,妥協もすれば,労働者の 15)同上書,39,45∼46ページ。さらに,50ページをも参照。 16)植田和弘他『環境経済学』有斐閣,1991年,25∼26ページをも参照。 17)たしかに,公害の被害は経済的弱者にしわよせされがちという性向をもつ。だが,現代 の先進国においては,大衆が多くの耐久消費財に囲まれ,多かれ少なかれ浪費的生活を享 受しているのであり,そこには多量のゴミを排出しているというだけでなく,社会的費用 の節約の一部を反映した相対的低価格で供給されるからこそ大衆にもぞうした商品に手が 届いているというかたちで,大衆が環境破壊の直接,間接の加害者にもなっているという 面がある。また,そこには依存効果ばかりではなく,「豊かさ」じたいの魅力も働いてい る。こうした点を正視しないと,環境経済学も説得的たりえないであろう。
意識を利用もして多様に展開していくという懐の深さをもった体制であるとい うことが,注目されることとなる。また,それが状況によっては有効需要の創 出のため大衆に一定の購買力を認めた方が有利という面をももつ体制であるこ 18) とも見えてくる。こうした点に関わらせれば,氏が挙げている中間システム, たとえば産業構造や生活様式,さらに交通体系といったもの,またとくに労働 者管理に関連して,人権意識や民主々義の成熟度といったものも,十分に資本 制商品経済の理念と有機的連関をもたせて論じることができるであろう。 さらに,かの価値論の構図に内包される交換の世界の論理の追求は,交換が 必ずしも共通の第三者を前提としないことを明らかにする。ということは,資 本制商品の価格は,商品経済的にすら無条件に等価性をもって正当化されるも のではないということである。むしろ,相手の交換当事者の費用観を当然のも 19) のとして受け入れる意識,物神性こそが正当化のカギとなっている。それゆえ, こうした点からも,人権意識や民主々義の成熟度などが資本制商品経済の理念 に直接に関わってくることとなる。この点,かの価値論の構図に戻って,図の 左部分が資本制商品経済において現実にどのように機能することになるかに関 わらせれば,それは物理的に労働配分が不能になるといったかたちでではなく, たとえば社会存立の基盤に即した費用観にのっとった長時間労働への批判の昂 まりといったように,日常イデオロギーを支配する交換の世界=資本の費用観 とのヘゲモニー争いが中心となるし,そのさい前者が後者を揺さぶれるか否か は,人権意識などのあり方とまさに不可分だということになるのである。 IV カップの社会的費用論の評価をめぐって K.W.カップの社会的費用論は,市場経済の次のような性質を明らかにし,か つそれへの政策的対処を推進するために提唱されたものである。すなわち,市 場を統御する価格機構の見えざる手は,「私的企業者が生産の全費用の一部を他 の人々あるいは社会全体に転嫁することができる」がゆえに,決して経済の最 18)宮本氏,前掲書,47∼48ページ。 19)前掲拙著,97ページ以下。
適状態をも希少資源の最適配分をももたらすものではないということ,そして このことは,経済学において「例外的」事象としてではなく,むしろ「原則的」 20) 事象としてしかるべき位置を与えられなければならないということである。カ ップ自身は制度派経済学の流れに与しているが,市場経済の私的性格に着目し, 市場経済がそうした制度的要因ゆえに生み出している問題に鋭く迫ろうとして いるという点では,マルクス経済学と共通するところをもっと言えよう。 こうしたカップの社会的費用論に対し,マルクス経済学の素養をもつ人々の 21) なかからも,たとえば宮本氏,吉田氏,寺西氏,さらに市原氏などが考察を加 えている。なかでも,寺西説は,社会的費用論にいたるカップの研究関心の推 移を踏まえ,カップ説に深く内在したうえでマルクス経済学の立場からの止揚 を試みたものであり,かなり雑駁なところのあるカップ説の一定の整理も果し ている。だが,同時に,氏の試みには硬直的な価値論の限界も否みがたい。 すなわち,寺西氏は,カップの社会的費用論に含まれているいくつかの混乱 を「(社会的損失問題の)発生,負担と転嫁事前的あるいは事後的処理等々を 22) めぐる諸関係」を積極的に理論化しうる方向へと整理していくなかで,結局, 次のような案を提示している。まず,社会的損失は「使用価値的カテゴリーに 属する問題」と把握する。そして,それが価値的カテゴリーと関連するのは, 使用価値的レベルでの損傷・破壊を被る対象が「商品経済関係に包摂されてい るその範囲内において」であると解する。さらに,各種の社会的損失が貨幣的 タームで評価されたものを「社会的損失の貨幣評価額ないし社会的損失評価額」 と呼び,社会的損失とは別個の概念とする。他方で,社会的損失に対処するた めに必要とされる諸費用は,社会的損失じたいとはカテゴリー的次元を異にす 20)KW.カップ,篠原泰三訳『私的企業と社会的費用』岩波書店,第1章,第2章,第16 章,第17章など参照。なお,引用文は10ペーージより。 21)宮本憲一『社会資本論』改定版,有斐閣,1976年,183ページ以下。吉田文和「社会的費 用論の批判的検討」『経済学研究』(北大)29−4,1979年。寺西俊一「カップの社会的費用 論に関する覚書」,「公害・環境問題研究への一視角」,「“社会的損失”問題と社会的費用 論」,『一橋論叢』86−5,90−4,91−5,1981,1983,1986年。市原あかね「カップ社会的費用 論の問題領域」『金沢大学経済論集』28,1991年。 22)寺西氏,「公害・環境問題研究への一視角」,前掲,88ページ。
23) るものと位置づけて,「社会的出費」という概念をこれにあてている。 社会的損失に関するこうした整理の仕方は,マルクスの価値論の構図や価値 実体の定義を前提にすれば,合理的に見える。だが,第II節で確認したように, マルクスの価値論の構図そのものが成り立ちがたいものであった。のみならず, 価値と価格との直結は,価値による交換の世界の支配と引き換えに,うえの引 用にも見られるように,価値概念を交換の世界を超え出ぬものに綾小化する。 その結果,公害による現役労働者の健康破壊は価値と関連するが,老人や子供 24) のそれは価値論の問題ではないといったことになる。だが,これでは,カップ が肉迫しようとした問題そのものを十全に取り扱ったことにならない。だから また,寺西氏も,社会的損失評価額というカテゴリーを別個に立て,それに「一 25) 定の実践的・政策論的意義」を認めざるをえなくなっている。さらに,総括部 分でも,カップの社会的費用概念は「“社会的損失”,“社会的損失評価額”,“社 26) 会的出費”のいずれかの概念によって」代置されなければならないと集約され, うえに整理された4つのカテゴリーのうち価値だけがカヤの外におかれて,社 会的費用論にとってのその意義の薄さが暗黙に語られることになっている。 これに対し,II節で提示した価値論の構図のばあい,価値実体としての労働 は,社会存立の基盤に即した「人間にとっての費用」の代表という意味を担っ ていたのであって,価値実体が労働に限定されるという含意はない。換言すれ ば,直接,間接に生産に寄与するか否かを問わず,社会的再生産が遂行されて いくうえで支払われる人間にとっての費用は,価値実体になりうるのである。 したがって,寺西氏の言う「社会的損失評価額」は,価値概念と別個の,ただ 実践的取組みからの促迫に対応して措定されるカテゴリーとしてではなく,む しろ価値概念と関連をもつものとして位置づけられることとなる。と同時に, このことは,価値実体としての労働に関わる次のような問題に,さらにまたカ 23)寺西氏,「“社会的損失”問題と社会的費用論」,前掲,27,32∼37ページ。 24)寺西氏,同上論文,32∼33ページ。 25)寺西氏,同上論文,34ページ。 26)寺西氏,同上論文,39ページ。
ップ説に関して市原氏が着目していた論点へと,目を向けさせてくれる。 すなわち,まず問題の前提的認識に関わらせて労働価値説について言えば, 人間にとっての費用として労働を見るばあい,希少な生産要素,煩労,生活時 27) 間の費消という3点が注目されることとなる。このさい,すべての労働が均質 であれば,この3点の費用としての重みがどうあろうとも,1時間の労働は1 時間の労働と評価しておけばよい。だが,資本制社会では被支配階級は分断さ れるべきであり,そのためにも労働は細分化,差異化される,つまり不均質性 が生み出されるのが通常である。したがって,たとえば不均質な煩労としての 費用性をどう重みづけるか,さらにその費用性を他の2点との関係ではどう重 みづけるべきかといったことが問われざるをえなくなる。しかも,二重の意味 で自由な労働者が分断化された労働市場に直面するばあい,いわゆる3K労働 がかえって低賃金職種となるように,市場の論理に基づく貨幣評価は必ずしも 人間にとっての費用観と照応しない。したがって,価値論は,こうした文脈で も後者の立場から前者の内実や歪みを読み解くための装置となるのである。 こうした問題が社会的損失評価額に関わっても成立すること明白であろう。 28) さらに,そこからは,カップ説に関し市原氏が着目した問題,すなわち,社会 的費用をめぐる社会的合意の形成メカニズムやプロセスといった問題が,注目 されることとなる。換言すれば,既述の宮本氏の中間システム論とも関わるこ とであるが,何を費用とみるか,どれほどの重みの費用とみるかといったこと について各社会で合意が形成されていくうえで,いかなる制度が用意され,ま たいかなるメカニズムが働いているかを検証したり,さらに,その制度やメカ ニズム及びそれらが生み出す社会的合意の合理性をおおまかにでも評価してい くための基準を模索するといった作業が,まさに価値論に関わって措定される のである。 27)詳しくは,前掲拙著,第9章参照。 28)市原氏,前掲論文,71∼72,77,79∼81ページなど参照。また,カップ説じたいについて は,その論旨に揺れも認められることを含め,K. W.カップ,柴田徳衛他訳『環境破壊と社 会的費用』岩波書店,94ページ以下,とくに105,109∼10,115∼19,120ページ,さらに 138,152∼55,157∼58ページなど参照。
V 総括と展望 マルクス経済学は,本来的には,環境問題の考察に適合性をもちながら,価 値論や資本制商品経済の理念像が硬直的だったがゆえに,その適合性を十分に は発揮してこなかった。そこで,本稿では,価値論の構図を再構築したときど のような展望が開けてくるのかを,玉野井説,宮本説あるいはカップの社会的 費用論の評価の仕方を手掛りに検討してみた。見てきたように,到達点では一 定のマルクス経済学離れを起こしてはいるが,元来はマルクス経済学から出発 していた注目すべき環境問題論である,玉野井説,宮本説を再包摂しうること, あるいは,マルクス経済学のユニークさである価値論を環境問題で広汎な射程 を見据えつつ復権させうることなど,ある程度の展望は確認しえたと思われる。 とはいえ,本稿は,具体的に資本の論理による自然力の包摂とそこに生じる緊 張関係を追求したわけではまだない。マルクス経済学に即せば,さしあたり地 代論がその場となるであろうが,マルクスの地代論じたいは基本的に資本の側 29) の論理に終始したものなので,自然力の包摂に伴う緊張関係の追求には新たな 30) 努力が必要とされよう。さらに,そこでは,労働価値説のもつある種の人間本 位主義が自然環境問題の考察にとって制約となるのか否かを検討するための端 緒的な手掛りも得られるはずである。 29)この点をマルクスの地代論の形成史に即して追求したものとして,田中菊次氏の一連の 労作,たとえば『経済学の生成と地代の論理』未来社,1972年,がある。 30)たとえば,小幡道昭「土地所有の原理的把握」『経済評論』1981年9月が,こうした方向 からも興味深い問題提起を行なっている。