高倉範茂
年譜
川上健太
はじめに
長村祥知氏曰く、 「承久の乱が日本史上きわめて重要な事件であることは言を俟たないが、 その重要性に比して研 究は意外なほど進んでいない。 」( 『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館 二〇一五年) 。承久の乱は、後鳥羽上皇が 北条義時討伐を目指して挙兵した兵乱である。結果、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は配流され、仲恭天皇が廃 位されて後堀河天皇が即位する。そして、六波羅探題が設置され、西国へ東国御家人が地頭として派遣されるなど、 朝廷に対して武家が優位に立つ事となる。それは、後の両統迭立などに顕著である。日本史上の重大事件なのに研究 が進んでいないのは、 史料の少なさが大きな要因である。 『国史大辞典 四』 の 「記録」 の項目を見ると、 承久三年 (一二二一) 五月から七月という承久の乱頃の現存史料は少ない。 鎌 倉時代を代表する古記録の 『明月記』 や 関白記』 も、 この年の記事は存在しない。 『玉葉』 も 、 記 主九条兼実が承元元年 (一二〇七) に 亡くなって既に完結している。 承 久の乱を知る史料としては、 『吾妻鏡』 『承久記』 『六代勝事記』 等があるが、 何れも使用するに慎重を 要する物ばかりである。このような実情から、承久の乱研究はあまり進んでいない。 上横手雅敬氏や長村氏などの研究により、承久の乱研究は進みつつある。だが、その主は武士にあるといえる。逆 に公家はというと、一切ないわけではないが少ない。白根靖大氏曰く「公家社会にとってきわめて衝撃的な事件だっ た割には、朝廷側からの専論はさほど豊富ではないように見受けられる。 (中略)しかし、 「合戦張本公卿等」と記さ れるように、この「合戦」の一方の「張本」とされたのは「公卿等」である。したがって、承久の乱の歴史的意義を 語るには、 「公卿等」に光を当てるのもまた必要なはずである。 」( 『中世の王朝社会と院政』吉川弘文館) 。 後鳥羽上皇に関しては、歌人としても活躍しており、その一生をたどる書籍や論文は多い。しかし、上皇側につい て処刑された葉室光親・一条信能・源有雅・高倉範茂・中御門宗行といった「張本公卿」の研究は少ない。彼ら五人 は、後鳥羽院や順徳院の近臣であり、乱においても出陣するなどの活躍をしている。乱後、藤原秀康・秀澄や尊長法 印らとともに「謀臣」として召し捕られ、それぞれ関東へ送られる途中処刑された。 彼ら五人はいわば「戦争責任者」として死んでいった。しかし、明治時代に「至尊主義」の高まりから、承久の乱 は 「王政復古の先驅」 「承久の討幕の聖擧」 とみられるようになる。 龍粛氏曰く 「公家政治再興の期待は、 武家の威 力を以てしても、全く削除することは出来なかつた(中略)遂に正中の變となり、また元弘の變となつて、武家政府 の 覆が現實するに至つたのである。この意味に於ては、承久の變の公家の失敗は必ずしも失敗ではなかつたのであ る。 」( 「承久の亂」 『鎌倉時代史論』勿來社出版 一九三一年) 、「天皇の御遺畫は後昆の聖主によつて繼承せられ、再 び發して 建 武の中興となり、三 度 び發して明治の 維新 となり、皇威六合に 遍 き 今日 の聖代を見ることとなつた。 」「天 皇の 叡旨 たる王政復古は 建 武中興を 經 、明治 維新 に至つて 始 めて 完成 せられた。實に承久の聖擧以後 尚 この 間 六 百
星霜を閲して成果を収めたのである。 」( 『鎌倉時代の研究』春秋社 一九四四年) 。つまり、建武の新政から明治維新 までの、 王政復古の始発点とみなされたのである ( ただし、 龍氏は 「 承久の亂」 において、 上皇軍に利害関係や私怨、 野心によって参加した者もおり、 「上皇の御爲に、 皇威の發揚の爲に、 一身を捧げて盡忠報効の誠を致した者の如き は、實に寥々乎として曉天の星辰にも似た有樣であつた。 」「後の元弘の變の時の如く勤王を標榜して起るものは出な かつた。 (中略)官軍に属した者が、必ずしも悉く眞實の勤王の士とは云へなかつた。 」とも述べている。 )。それに伴 い彼らは、 「忠臣」 「忠勇義烈の公卿将士」 「承久建武の勤王」の志士として扱われるようになる。すなわち、 「元弘建 武の諸忠臣に比するも、決して劣れりと謂ふべからず」と、日野資朝や日野俊基、楠木正成や新田義貞らと同じ忠臣 と見なされた。昭和三年(一九二八)五月二十二日には、皇典講究所・國學院大學・全国神職会・東京府神職会主催 で承久殉難五忠臣大祭典が行われ、 『國學院雑誌』 第三十四巻の第六号・第七号で特集が組まれている。 式典には、 東京府知事平塚広義や九条道実公爵・平沼騏一郎男爵・光親の末裔葉室長通伯爵・元陸軍大臣大島健一陸軍中将・枢 密顧問官河合操陸軍中将・長崎省吾元宮中顧問官・鎌田栄吉元文部大臣ら政府要 人 や 華 族 ・軍 人 ・ 教 育 者の 他 の 墓 所がある 自 治 体 から、 町村 長や 小学校 長らが参 列 している。 式典は、 「承久殉難五忠臣の神 靈 」が 迎え られ、 詞 や祭文が 読 まれるな ど 、五 人 は神として 迎え入 れられている。 また、 「承久殉難五忠臣 遺蹟顕彰 」事 業 の一 て、 江 木 千之 皇典講究所長や國學院大學の 山本信哉 教 授 ・ 植 木 直 一郎 教 授 によって、五 人 の 墓 所な ど の 調査 が行われ ている。 昭和三年十一月には、 戦 国武将の 柴 田 勝家 や 蜂須賀 正 勝 ・長 宗我 部元親、 農 村 復 興 に 尽 力 した 伊豫 田 与 八郎や大 幽 学 ・ 佐藤藤蔵 ・河 原善右衛門 、 仁 政を行った 榊原 忠 次 や 伊達 吉 村 ・ 溝口 直 養 の 他 、後 醍醐 天皇に 味方 して 死ん た平成 輔 ・二条 為冬 ・ 石川 義 純 ・ 瓜生 義 鑑 ・河野通治・ 名 和義 高 ・ 錦織 俊政・ 清尊 ・ 藤原 行 房 ・ 菊池 武 安 、明治維新
で活躍した横井小楠・井樋政之允・飯田節・井上高格・森寛斎・藤井良蔵・村岡箏・谷村昌武・山本縫殿・島男也・ 相楽総三、日清戦争で殉職した石川伍一・鐘崎三郎・藤崎秀・山崎羔三郎・高見武夫らと共に位が贈られている(承 久の乱関係でいうと、水無瀬信成の家人で越後願文山で佐々木信実と戦い戦死した、酒勾八郎こと藤原家賢もこの年 贈位されている) 。彼ら五人は、 「謀臣」 「合戦張本公卿」として死んでいき、明治維新成って「忠臣」 「忠勇義烈」の 志士として復活し、 「神靈」としてあがめられる事となったのである。 彼ら「張本公卿」に関する研究は、植木氏が事跡や遺跡を調査したのに始まり、関幸彦氏・河野房雄氏・白根氏へ と続いている。この五人のうち、本稿では高倉範茂の生涯についてみていきたい。
範茂と高倉家
範茂の高倉家は、藤原南家貞嗣流に属し範茂の父範季を祖とした。家格は羽林家で、有職故実を家職とした。元々 は学者の家であったが、範季が後白河院別当を勤め、後鳥羽上皇を養育して即位を推進したことで、従二位侍読にま で至り、死後正一位左大臣が贈られている。範兼の息子範光は、九条兼実が失脚した建久七年の政変以後、後鳥羽院 判官代として上皇に仕え、従二位春宮権大夫にまで至っている。また、東宮守成親王の家司に就任し、自身の押小路 烏丸第を東宮御所にしている。絶大な権力を手にし、それは「範朝位在兼定朝臣下、而被加上、範光卿内擧也、 可 目 々々々」 (『 三 長記』 元久三年 (一二 〇六 ) 四月 三日条) 「公卿以上 昇 進 偏依 範光卿一 言歟 、 可 悲 々々」 (『 三 長記』 元久三年 四月四 日条)という 言 葉 に 表 れている。範季の 兄 範兼の 娘 治 部 卿三位範子は 土 御 門通 親と 再婚 して、その 承明 門 院在子は後鳥羽上皇に 嫁 いで 土 御 門天 皇を生んでいる。範季の 娘修 明 門 院 重 子も後鳥羽上皇に 嫁 いで 順徳天を生んでいる。範子の妹卿二位兼子は、後鳥羽上皇に仕えて、坊門信清の娘坊門局を猶子としている。坊門局は後に 後鳥羽上皇に嫁いで、道助法親王や冷泉宮頼仁親王・嘉陽門院礼子内親王を生み、冷泉宮は兼子により養育されるこ ととなる。院別当葉室宗頼との結婚を機に政治的地位が上昇し、宗頼の死後東宮傅大炊御門頼実と再婚して絶大な権 力を手にするようになった。すなわち、延暦寺堂衆と学生との対立を上皇・兼子・頼実のみで協議したり、源実朝と 坊門信清の娘の結婚を斡旋したり、実朝の後継将軍について北条政子と交渉するなど、朝廷の政治を左右するように なったのである。 それは、 「於今権門女房偏以申行、 殿下御力不及歟」 (『明月記』 建仁三年一月十三日条) という藤 原定家の言葉や、 「京ニハ卿二位ヒシト世ヲトリタリ。 女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ」 管抄』 ) という慈円の言葉にも伺える。 また、 高倉家は受領を歴任した事による莫大な経済力もあったとされ、 が寬喜元年(一二二九)に亡くなったときは、膨大な量の荘園や財産が修明門院に譲られた。高倉家は、他の公家と 婚姻などによってつながって基礎を固め、後鳥羽上皇との関係を強めることで、家格が上昇していったのである。 範季以降は、範茂・範継・範藤・範春・範資・範蔭・範秀・範綱と続くが、文明二年(一四七〇)の範音以降絶家 となったとされる。だが、四辻季経の四男範久が永正六年(一五〇九)に高倉家を継ぎ、参議から正三位伊予権守に まで 至 っている。 柳 原 淳光 の 次 男範国が 跡 を継 ぐ が、 天 正十二年(一五 八 四)に範国が 賊 に 襲 われ死亡すると、再 断 絶することとなる。 そ の後は、 四辻公 遠 の 次 男範 遠 、続 い て 八 男の 嗣良 が継ぎ正二位 神 宮 伝奏 ・権大 納 言にまで ている。 寛 永十四年 ( 一六三七) 、参 議 就 任に 伴 い 藪 と 改姓 している。 これは、 当 時 藤原 長 良 の子 孫 高倉家が ていた事や、四辻家の 庶流 藪 内家に 由来 しているとされる。その後は 嗣 孝 ・ 嗣 章 ・ 嗣 義 ・ 保 季・公 師 ・実 嗣 ・季 実 方 と続き、実 休 の 時 明治 維新 を 迎 えている。その 跡 を継いだ 篤麿 は 華族制度制 定により子 爵 となっている。 一年(一九三六)に高倉に 復 姓 し、東京大学 名誉 教授 の高倉永 朋氏へ と続いている。
範茂の先行研究としては、まず先述のように植木氏が「承久殉難五忠臣遺蹟顕彰」事業で範茂の事跡をまとめ、順 徳天皇の佐渡遷幸に付き従って越後寺泊で亡くなった息子の範経と共に、 「父子共に義勇奉公の志の最も篤かつた」 と述べている。また、神奈川県足柄上郡福澤村字怒田上原(現南足柄市)にある範茂の墓所の調査を行い、当時の状 況を写真付きで報告している。河野氏は「張本公卿」五人の家系について述べているが、父が源範頼を養育し、兄範 資が範頼と親しくなって従者となっている事から、 「源氏と親密な関係にあ」 ったと指摘している。 白根氏は、 彼ら 五人のほとんどが、自家の家格上昇を担っており、それ故後鳥羽上皇と運命を共にしたと述べている。また、範茂の 高倉家と、 元木泰雄氏が指摘する (『院政期政治史研究』 思文閣出版 一九九六年) 藤原信西の昇進コースに共通す るものがあると指摘している。すなわち、範兼以降家格が上昇し「弁官コース」 「受領系コース」 「近衛次将コース」 の道が開かれ、 「中世的公家社会の形成過程の象徴的家門という意義を」 高倉家に見いだしている。 範茂はそのうち 「近衛次将コース」 を獲得し、 以降範茂の子孫は 「羽林コース」 を確実なものにしたとしている。 関氏は、 母や妻が 平家の人間ゆえ「鎌倉側への敵愾心」を持ち、また姉の修明門院重子が後鳥羽上皇に嫁いで順徳天皇や雅成親王を生 んでいること、 後鳥羽上皇の乳母である卿二位兼子や刑部卿三位範子が叔母にいたことが、 「範茂を討幕へと向かわ せた」としている。 浅 見 和 彦 氏は、範茂の墓所や足柄 路 について述べており、また『 今物語 』 第 二 十 五 話 は、範茂を 素材 にして 作 られたとしている。高倉家関 連 では、 赤 羽 洋輔 氏は承久の 乱 で 処 罰さ れた公卿のほとんどが高倉家の 者であることを指摘して、 「承久の 乱 は後鳥羽院政期の後 宮 をその 勢力 の 基盤 とし、 当時 隠然 たる 勢力 を 保 持してい た高倉とその 血 縁 集団 によって 画策 さ れ、実行 さ れたと 考 えられる。 」と述べている。 範茂は承久の 乱 の「 戦 争責任 者」 として 死 んでいった。 そして、 「承久殉難五忠臣」 の一人としてあがめられるこ ととなった。その 死 に 様 や、
遥ナル千尋ノ底ヘ入時ハアカデ別シツマゾコヒシキ という妻への辞世は、 『海道記』 の作者をはじめ、多くの人々を感動させたであろう。 しかし、範茂は 「承久殉難五 忠臣」 と いう枠を除いても、見るべきところが多い人物である。 たとえば蹴鞠について。 後 鳥羽上皇が蹴鞠をよくやっ ていたのは、渡辺融氏・桑山浩然氏・秋山喜代子氏らに詳しいが、範茂は上皇主催の蹴鞠御会によく参加している。 しかも、上皇の側近で歌人でもあった飛鳥井雅経の弟子となり、蹴鞠について学んでいたのである。そのため、雅経 の日記を多く引用している『革 要略集』にも多く登場している。河陽の蹴鞠で徳大寺公継を笠で覆い(承元二年二 月二十三日) 、人々から 「褒美之気」 をもらったり、百日鞠を勤めたりなど、雅経の指導もあってかかなり蹴鞠に精 通していたと言って良い。 だが一転して、御神楽の付歌では酷評されている。 たとえば、 「抑中將範茂 歌テ起座退。 是不覺哥故也。 きよしに出幔外。只今詣賀茂。鐘や打つらんと云。尤々不可 也。去建 大甞會頃粗習之。參内侍所御神樂。又候淸 暑堂御神樂。付歌其後絶不學ハ忘也。只下召人ハ可然。何所願有トモ忽打捨。御神樂參賀茂事。其謂不可然。無下心 ハおさなき事つけ也。贈左大臣息中。大略一人遺。普通は可用之。而於事如此第一耻他人之口也。 」(建保四年十二月 十六日)と、甥である順徳 天 皇から 容 赦 なく酷評されている。今 村みゑ 子氏によると、順徳 天 皇にとって内侍所は 皇 権 威 を 象徴す るものであり、 「内侍所の御神楽が作 法 どおり、 麗 しく 行わ れること、一 条 天 皇の時代にも 還 の 姿 になることを 強 く 期待 した」 結果 、参加者に「 烈 しく 憤 り、 批判 し、 再 三 末 代のせいであると 嘆 」くなど、 く 当 たったとしている。 身 内であろうとも 決 して 妥協 しない順徳 天 皇の 性 格 が見えてくるようだが、範茂は 懐成親王
の御魚味で朗詠を勤めるなど、一応朗詠の心得はあったようである。 このように、範茂は「承久殉難五忠臣」の一人として語られる事が多かったが、一人の公家としてみていっても、 注目に値する人物といえるだろう。範茂たちの事跡を見ていく事で、承久の乱研究の新たなる一歩が踏めるのではな いかと考える次第である。 贈正一位左大臣高倉範季の次男(三男〔冷泉家本公卿補任〕 。四男〔尊卑分脈〕 )。従二位中納言平教盛女能子の息子。 従二位権中納言平知盛女を妻とする。別名甲斐宰相。 文治元年 誕生〔公家事典〕 。 (一一八五) 建久九年 (一一九〇) 一月十一日 蔭 子 と して蔵人となる (十四歳) 〔公卿補任〕 。 内殿上人となる [範季三位子] 〔明月記〕 閑院の受禅で、藤原重輔に呼ばれ藤原為定・藤原範基・忠長(二条定高)とともに六位 蔵人として昇殿する〔三長記〕 。 建久九年一月十三日 成定・京極家俊・坊門伊輔・五辻家経・四条隆衡・日野資実・持明院保家・山科教成・ 唐橋雅親・公信・滋野井実宣・坊門経通・藤原範光・海住山長房・葉室光親・宗方・坊 門隆清・北小路道経・土御門通光・松殿基忠・室町兼基・鷹司頼平・西園寺公経・土御 門通宗・入江兼定・霊山清長・八条長兼・重輔・為定・忠成とともに、内殿上人として 昇殿する〔明月記〕 。
建久九年一月二十四日 叙爵〔公卿補任〕 。 正治三年一月二十九日 肥前守〔公卿補任〕 。 (一二〇一) 建仁元年一月十九日 肥前守〔冷泉家本公卿補任〕 。 (一二〇一) 建仁元年閏十月二十七日 右衛門佐〔冷泉家本公卿補任〕 。 建仁二年 (一二〇二) 一月六日 後 鳥 羽 上皇の七条院三条殿御所御幸始で、 行光・俊光とともに衣冠で参加する 〔明月記〕 建仁二年七月二十九日 範 光 の 任参議拝賀で、 源有雅・藤原範宗・藤原範時・岡崎範朝とともに前駆を勤める 〔明月記〕 。 建仁二年閏十月二十四日 左衛門佐〔公卿補任〕 。 建仁三年 (一二〇三) 三月十日 上皇が熊野参詣に向かうと、唐橋通資・山科実教・二条定輔・範光・大福寺親経・高階 経仲・水無瀬仲経・丹波信雅・風早公清・大宮親実・難波宗長・飛鳥井雅経・経時・堀 川師季とともに見送る〔明月記〕 。 建仁三年十月二十四日 従五位上〔公卿補任〕 。 建仁三年十一月二十五日 上皇の三社御幸試楽で、 実宣・経通・正親町三条公氏・坊門忠信・雅経・三条親定・師季・ 康綱・清邦とともに舞人を勤める。藤原定家曰く「経通・雅経以外は、全員紺地の平緒 だったが、 どうなのだろうか。 試楽では、 必ず紫染めの平緒ではなかろうか。 」〔明月記〕
建仁三年十二月十四日 上皇の梶井御幸で、 坊門信清・定輔・公経・保家・公清・薄雲顕兼・長房・忠信・有雅・ 親実・親定・源具親・師季とともに共をする〔明月記〕 。 元久元年一月二日 長房・忠信・有雅・冷泉隆仲・親定とともに、衣冠で院にて役送をする〔明月記〕 。 (一二〇四) 元久元年一月五日 上皇の八条院御幸始で、坊門高通・定家・経通・有雅・平松資家・時通・平親長ととも に、細大刀に紅梅袴の随身を随えて参加する〔明月記〕 。 元久二年一月五日 春宮守成親王により正五位下〔公卿補任〕 。 (一二〇五) 元久二年一月六日 藤原隆範・藤原成信・源信定・中山忠定・知足院三条公俊・花山院忠頼・源実朝ととも に正五位下となる〔明月記〕 。 元久二年一月二十九日 左兵衛佐〔公卿補任〕 。右兵衛佐〔冷泉家本公卿補任〕 。 元久二年一月三十日 右兵衛佐〔明月記〕 。 元久二年四月二十一日 上皇が水無瀬より京へ帰ると、忠信・有雅・隆仲・光親・範茂・上北面以外の人々に、 御所の留守をするよう指示がある。 (忠信らとともに共をしたか) 〔明月記〕 。 元久二年五月十日 父没〔公卿補任〕 。 元久二年八月十七日 復職〔公卿補任〕 。 建永元年八月五日 上皇が七条殿に御幸すると、顕兼・定家・坊門伊時・堀川有通・隆仲・忠清・兼定・四 (一二〇六) 条親房・清親・八条実俊・一条信能・中御門宗行・光親とともに殿上人として随う〔明
月記〕 。 建永元年八月二十四日 名謁の後、定家とともに弘御所より帰る。自宅門前にて、侍が任子御所の焼失を報告す る〔明月記〕 。 建永元年八月二十五日 定家が、自宅門前にて九条殿の焼失を聞く〔明月記〕 。 建永元年十月一日 義成が九月二十七日にや島次郎を切り捨て紀次郎を逮捕すると、部下の侍が謀反人を討 ち取る。 その後、 御所にて座って飲食したため、 乙穢が発生する。 範茂邸に在宅する 〔明月記〕 。 建永元年十月十七日 上皇の仁和寺御幸で、忠信・忠清・隆仲・六条知家とともに平緒を着して随身を随え参 加する〔明月記〕 。 建永元年十一月五日 道助法 親王出家後初高陽院・三条殿御参で、 殿上人として治信 (清信か) ・隆仲・忠清 とともに、細劔・平緒を著して随身を随え供奉する〔顕俊卿記〕 。 承元元年 (一二〇七) 一月二十九日 明日の笠懸に、 忠信・有雅・頼平・忠清・清親・信能・輔平・土御門通光・保家・仲隆・ 源仲俊とともに参加する〔明月記〕 。 承元元年一月三十日 笠懸で、忠信・有雅・頼平・忠清・信能・清親・仲隆とともに右方の射手を勤める〔明 月記〕 。 承元元年六月五日 最勝四天王院の名所絵の図案を定家が持参すると、これを上皇に進上し、返却した後定 家を御前に呼ぶ〔明月記〕 。 承元元年六月二十二日 修明門院が七条院三条烏丸殿に御幸始すると、六条有家・実宣・公氏・有雅・通方・六
条家衡・光親・鷹司頼平・二条親定・清長・岡崎範朝・入江兼定・守通・隆仲・忠清・ 花山院忠頼・中山忠定・実時・経時・平親輔・岩蔵顕俊・宗行・高倉範時・成長・定高・ 日野家宣・水無瀬親忠・輔平・源経季・藤原康光とともに殿上人として供奉する〔仲資 王記〕 。 承元元年十月二十九日 左(右か)近衛少将〔公卿補任〕 。 承元元年十一月一日 (右か)少将〔明月記〕 。 承元元年十一月二十八日 向かいの定家邸にやってきて、明日の最勝四天王院御堂供養について定家に聞く〔明月 記〕 。 承元元年十二月九日 越後守兼務〔公卿補任〕 。 承元二年 (一二〇八) 二月二十三日 河陽の蹴鞠で、 大 雨が降ると笠を取って徳大寺公継を覆う。 人々が 「(右か) 方の次将 だから故実を知っているのだろうか。 」といって賞賛する〔道家公鞠日記〕 。 承元二年四月八日 中御門南・京極西で火事があると、定家が消火させているところへ思いがけず中御門殿 に駆け込み、部下を昇らせて消火に当たらせる〔明月記〕 。 承元二年四月十日 三日の大柳御会のついでに百日鞠を始める。相公(忠信・雅経か)の指示で、錦革に紫 結緒の御鞠一つを、柳の枝に付けていただく。百日鞠のため、仁俊と共に御会に不参加 する。ついでの祝いのため、鞠を百回上げて態と落とす。百日鞠結願の後、百回以上上 げようという考えという〔革 要略集〕 。 承元二年四月十九日 大柳の勝負鞠で、宗綱・仲隆・仲康・長誓・信広・行景・祐暹と共に左方を勤める。八
百八十回上げて負ける〔革 要略集〕 。 承元二年四月十三日 郁芳里第臨幸の蹴鞠で、伊時・清親・隆重・源重幸・道誓・全舜・医王丸とともに中足 となる。南の卯酉妻の三間屋に、中足・下足とともに居る。雅経が、金銀蒔絵の鞍を着 けた馬をいただくと、弟子であるためこれを受け取る[正五位下行右近衛権少将兼越後 守藤原朝臣範茂] 〔承元御鞠記〕 解散後、 雅経が狩衣から帷 (本帷か) ・夏の奴袴に着 替えると、弟子なので同じようにする〔革 要略集〕 。 承元二年閏四月十二日 大柳旬御鞠で、狩袴を着して股立を閉じて参加する〔革 要略集〕 。 承元二年閏四月二十九日 土御門天皇が京極殿に方違行幸すると、右近衛中将公氏・右近衛中将唐橋守通・右近衛 少将資家・右近衛少将堀川頼房・右近衛少将六角敦通・右近衛少将具親とともに大炊御 門門内にて立ち替わる〔明月記〕 。 承元二年五月九日 新日吉小五月会の流鏑馬で、源三翔を出場させる〔明月記〕 。 承元二年五月二十九日 九日の小五月会の流鏑馬で、源三翔を出場させる〔吾妻鏡〕 。 承元二年七月二十日 修明門院の三条殿への御幸始で、九条良輔・三条公房・通光・九条良平・保家・土御門 定通・姉小路公宣・滋野井実宣・藤原成家・有雅・範朝・頼平・平経高・宗行・家衡・ 閑院公雅・親定・伊時・坊門国通・藤原頼房・親忠・実俊・源時賢・楊梅盛兼・兼平と ともに供奉する〔二相記〕 (布衣を著したか〔明月記〕 )。 承元二年八月二十三日 水無瀬殿にて百日鞠を結願し、燻鞠を松の枝に付ける。雅経(か)曰く「枝は何でもか まわないのだろうか。 」〔革 要略集〕 。
承元二年八月二十四日 早朝に雅経(か)と共に左陣方を見回る〔革 要略集〕 。 承元二年八月二十六日 上皇の 御鞠会に、 上皇・宗長・雅経・忠晴 (忠清か) ・伊時・清親・紀行景・禰伊王・ 医王・山柄・長誓・武蔵・千熊とともに参加する〔道家公鞠日記〕 。 承元二年十一月二十三日 皇 后 昇 子の淵酔を楽しまなかったとして、 忠清・信能とともに謹慎処分となる 〔明月記〕 承元二年十二月一日 寛成親王が延暦寺円融坊に入室すると、国通・伊時・有通・公雅・資家・忠清・隆仲・ 高階経時・藤原仲房・堀川資頼・経高・八条長季・清親・家季・親定とともに前駆を勤 める(布衣を著したか) 〔入道親王御入室記〕 。 承元三年一月五日 修明門院により従四位下〔公卿補任〕 。 (一二〇九) 承元三年一月二十三日 内 裏 の 御 鞠 会 に 、 有 雅 ・ 頼 平 ・ 伊 時 ・ 宗 長 ・ 忠 清 ・ 雅 経 ・ 時 賢 ・ 行 景 と と も に 参 加 す 高陽院殿より御鞠が柳枝に付けられ進められると、直衣に下袴を著して御使をつとめ、 早朝に雅経に渡す。女房御覧の後、呼ばれて女房よりいただき内裏へ持参する。六位蔵 人を下侍に呼んだ後、事の由を申し上げて入る。内侍所の前で行ったため、神殿鞠事の 用意をするよう雅経に教えられる。家綱曰く「弟子だからだ。 」〔道家公鞠日記〕 。 承元三年三月二十一日 二日の大柳殿の御鞠に、上皇・宗長・寧王・醫王・山柄・行景・源性とともに参加する 〔吾妻鏡〕 。 承元四年五月七日 高陽院蹴鞠会に、坊門忠信・頼平・宗長・雅経・時賢・重幸・行景・家綱とともに参加 (一二一〇) する。坊門院警固のため、雅経とともに直衣を著し纓を巻く〔道家公鞠日記〕 。
建暦元年一月二十一日 従四位上〔公卿補任〕 。 (一二一一) 建暦元年一月二十三日 従四位上〔冷泉家本公卿補任〕 。 建暦元年三月十八日 石清水臨時祭で、雅清・家嗣・実時・壬生雅具・藤原為家・家季・盛兼・藤原清房・源 維長 (雅長 〔 業資王記〕 ) と ともに舞人をつとめ、 内 裏庭座に座る。 舞い終わった後入 御があると、東陣の前を渡り天覧をする。その後騎馬で移動する〔猪熊関白記〕 。 建暦元年十月七日 順徳天皇が九条道家邸に行幸すると、御輿が寄せられた後剣璽を勤める〔明月記〕 建暦元年十月二十二日 後鳥羽上皇の七条院御桟敷御幸で、右近衛中将坊門清信・右近衛中将通方・右近衛中将 閑院公雅・右近衛中将花山院忠頼・右近衛中将大炊御門家嗣・右近衛中将唐橋雅清・右 (左か) 近衛少将室町家信・右近衛中将源時賢・右近衛少将藤原実時・右近衛少将敦通・ 右近衛少将三条基定・侍従五辻宣経・右近衛少将師季・右近衛少将藤原親平らとともに 供奉する。御禊幄に入御があると、左近衛・右近衛とともに立ち替わらず、浅沓を着し て陣を引く。尻を引いた後、御禊の後尻を懸ける。御輿に随って退入し、御膳幄に入御 があると南にいる〔明月記〕 。 建暦元年十一月二日 藤原成家の任兵部卿拝賀で、定家に馬を貸す〔明月記〕 。 建暦元年十一月二十四日 天皇の三条殿行幸で、 三条公房・大炊御門師経・姉小路公宣・忠信・実宣・範朝・有雅・ 公氏・衣笠家良・源雅行・公俊・唐橋通時・定親・藤原為家・六角親通・通方・源清実・ 雅清・日野家宣・家嗣・清親・実時・具親・敦親・実経・親平とともに供奉する〔明月
記〕 。 建暦元年十一月二十七日 御幸に、細太刀に随身を随えて供奉する〔明月記〕 。 建暦元年十二月十三日 万機旬に、良輔・公継・公房・中山兼宗・道家・師経・土御門通具・松殿忠房・公宣・ 有雅・範朝・公氏・顕俊・国通・家兼・雅行・宗経・家信とともに出席する。出御の後 左近衛少将家兼・左近衛少将為家が内侍に付く。 為家曰く、 「上官として左近衛中将雅 行・左近衛中将藤原宗経・右近衛中将家信・範茂らがいたのだが。 」〔明月記〕 。 建暦元年十二月十六日 内 侍 所 御神楽で、 岡崎資雅とともに拍子 (歌 〔順徳院御記〕 )を 勤 め る 。定 家 曰 く「 門の連中が後の手柄をほしいがために、実力がないのに参加した。このときの恥を知ら ないからだろうか。話にならない。 」〔明月記〕 。 建暦二年 (一二一二) 一月三日 上皇が七条院に御幸すると、信清・公経・道家・師経・通具・定通・雅親・公宣(ナシ 〔業資王記〕 ) ・教成・実宣・水無瀬親兼・頼平・西園寺実氏・顕俊・通方・坊門国通・ 伊時・清信・時賢・家信・実時・実信・雅清・通時・信能・清親・家兼・山科公長・公 雅・家嗣・輔平・保季・隆仲・平親長・資経・霊山成長・敦通・基定・資家(資宗王か 〔業資王記〕 ) ・為家・春日家季・師季 (・忠信・範朝・持明院家行・実経・実俊・隆経・ 盛兼〔業資王記〕 )とともに供奉する〔明月記〕 。 建暦二年一月七日 加叙の後陣が引かれると、右近衛中将雅清・右近衛中将家信・右近衛中将時賢・右近衛 少将敦通・右近衛少将基定・右近衛少将実時とともに後から加わる〔明月記〕 。 建暦二年一月九日 法勝寺修正御幸で、 信清・公房・道家・師経・九条良平・通具・定通・教成・四条隆衡・
実宣・光親・親兼・頼平・実氏・山科公頼・兼定・清長・顕俊・忠信・公経・保季・山 科公長・隆仲・国通・伊時・公雅・隆宗・雅清・頼房・雅経・家信・水無瀬親忠・清親・ 資経・兼隆・成長・敦通・基定・藤原経範・実経・為家・資宗・親通・保教・範資・親 長とともに供奉する。高陽院殿に還御があると殿上人座一間に多くの人々が座り後一間 に誰もいなかったので、立つように兼隆が指示を伝えるが、了承しなかったため藤原清 範・橘以康により、 公 雅・四条隆宗・雅清・清親・保教・実経とともに追い立てられる。 定家曰く「前代未聞である。このことは誰が指示したのだろうか。さらに不審である。 後白河法皇の時は全員ここに座った。鳥羽法皇の時も満員だったという。法勝寺での儀 式は大凡この先例を根拠としていよう。大変仕方のないことだ。しかし、高官や清華家 の人々はここにいて、無職の老人たちは二間に座った。これは先例だ。全員が座らない のは聞いたことがない。 」。清範曰く「御所に常にいる人々を先に立たせた。 」〔明月記〕 建暦二年一月十三日 右(左か)近衛中将〔公卿補任〕 。 建暦二年一月十四日 実時・公俊とともに任中将〔明月記〕 。 建暦二年三月二日 上皇の最勝寺御幸に、実氏・忠信・輔平・家嗣・清親・下北面七八人とともに共をする 〔道家公鞠日記〕 。 建暦二年四月十九日 資家・知長とともに十八日の御禊に出席するが、仕事はなかった〔明月記〕 。 建暦二年四月二十二日 天皇の七条殿行幸で、内裏にて右近衛中将雅清・右近衛中将家信・右近衛中将家嗣・右 近衛中将実時・右近衛少将敦通・右近衛中将基定・右近衛少将実経・右近衛少将師季と
ともに列立する〔明月記〕 。 建暦二年六月六日 成長が「検非違使庁で不可思議な事件があった。範茂中将が世話をしていた右衛門尉の 妻に不倫相手がいた。夫は訴状を提出して、不倫相手の実教様の下僕左近大夫を逮捕す るようしきりに言っていた。範茂中将もこのことを言った。範光様は院に進上したが、 特にお取り上げなさらなかった。 」 と 定家に語る。 定家曰く 「このことは大変世の理に 背くことだ。話にもならなかろう。夫婦間を取りなすことができないのであれば、訴訟 に至ることはなかったろうか。 」〔明月記〕 。 建暦二年七月二十七日 八月六日の日吉御幸に、大炊御門頼実・通光・定輔・教成・忠信・光親・有雅・実氏・ 親定・清親・家嗣・輔平・宗行・時賢・親平・藤原朝俊・信能とともに出席することに なる〔明月記〕 。 建暦二年八月十一日 夜 に 、「母の懺法結願が明日行われます。 いつも出席しておられますが、 今回はもしや 出席されるのでしょうか。 」と為家に伝えると、 「普段あまり出席できていないが、早く 行くべきでしょう。 」と返答される(藤原成経の母か) 〔明月記〕 。 建暦二年八月十二日 母 の 懺 法 結 願 で 、 光 親 ・ 有 雅 ・ 範 朝 ・ 高 通 ・ 経 時 ・ 範 時 ・ 家 俊 ・ 為 家 と と も に 出 席 す 仏像が遅かったため、夜に終わる〔明月記〕 。 建暦二年八月十八日 天皇の七条殿行幸で、松殿忠房・公宣・忠信・公氏・資家・公俊・公棟・定親・家宣・ 為家・清信・家嗣・時賢・敦通・親平とともに供奉する。名謁の後次将とともに地面に 座る〔明月記〕 。
建暦二年十月六日 天皇の岳崎皇居行幸で、 師経・光親・範朝・家衡・定家・公氏・坊城顕平・公俊・通時・ 定親・家兼・為家・家信・家嗣・敦通・実経・師季とともに供奉する〔明月記〕 。 建暦二年十月二十八日 大嘗会御禊行幸で、右近衛中将九条教家・右近衛中将公氏・右近衛中将通方・右近衛中 将公雅・右近衛中将雅清・右近衛中将家信・右近衛中将藤原家範・右近衛中将実時・右 近衛中将時賢・右近衛少将敦通・右近衛少将実経・右近衛少将師季・右近衛少将親平・ 右近衛少将宗平・左近衛少将持明院基保・範実 (左京権亮安倍範実か) ・ 経親とともに 供奉する〔明月記〕 。 建暦二年十一月六日 五日の清暑堂御神楽で、隆仲・資雅とともに付歌を勤める〔明月記〕 。 建暦二年十一月十二日 修明門院御使として五節所へ向かう。道家がやってくると、兼隆により呼ばれ道家の前 に薫物筥(梳の筥で、薄様二十帖を入れて、その上に瑠璃壺二口に『源氏物語』になぞ らえた薫物を入れている)を置く。時賢が濃袴を加えた大褂一領を持ってくると、これ を受け取り庭中へ降り一拝してから退出する。一献を勤める〔玉蘂〕 。 建暦二年十二月六日 道助法親王の伝法灌頂に上皇が臨幸すると、公経・定通・忠信・光親・有雅・頼平・経 通・保季・公雅・宗嗣・通時・時賢・清親・八条長清・親忠・資経・成長・資宗・資隆・ 兼成とともに供奉する。御所に入御があった後、上皇供奉人・国通・雅清・中山宗行・ 元宗・隆範・定親・平親長・敦通・実茂・宗時・丹波経行・知親とともに道助法親王に 共をし、北院へ行き庭前に列立する〔仁和寺文書〕 〔伏見宮御記録〕 。 建暦二年十二月十一日 順徳天皇の高陽院行幸で、右近衛中将雅清・右近衛中将家信・右近衛中将家嗣・右近衛
中将時賢・右近衛少将敦通・右近衛少将実経・右近衛少将師季・右近衛少将親平・右近 衛少将宗平ともに供奉する。御輿が中門に奉安され、右近衛大将三条公房が御輿の艮に 立つと、次将とともに南にいて、公卿とともに地面に跪く〔明月記〕 。 建暦二年十二月二十五日 内侍所御神楽で、時賢とともに歌をつとめる〔順徳院御記〕 。 建保元年 (一二一三) 一月四日 上 皇 の 御 幸 始 で 、 装 束 に つ い て 定家に使者を派遣して聞くと、 「元日三日を過ぎて、 馬の節会以前は、通常は人それぞれによるが、次将については紅梅の袴を着る。だが近 年では、 左大臣三条実房の説として、 大将の随身のように染袴に改める人々が出てきた。 このことがいいか悪いかは知らないが、そのときの有識者の説である。私については、 ただ紅梅であると知っているだけです。適当な人に聞くと、また御幸の慣例に随うべき だろうか。敢えて推量しては言えない、といわれた。 」と答えられる。定家曰く、 「無益 (無答か) なことなのでこのように返答しておいた。 なので、 今回萌木の袴を着したと いう。 」束帯を着し、萌木袴の随身を随えて供奉する〔明月記〕 。 建保元年四月十一日 天皇・後鳥羽上皇・家実・頼実・有雅・雅経・親平とともに蹴鞠をする〔明月記〕 。 建保元年四月十四日 賀茂祭使出立で、家兼・成長とともに酒部所にいる〔明月記〕 。 建保元年四月十八日 昨日、通光の娘が雅成親王に嫁ぐと、修明門院御衣御使をつとめ、通光より禄として女 装束をいただく〔明月記〕 。 建保元年四月二十六日 法勝寺九重塔供養行幸で、右近衛中将公氏・右近衛中将通方・右近衛中将清信・右近衛 中将雅清・右近衛中将家信・右近衛中将実時・右近衛中将時賢・右近衛少将敦通・右近
衛少将師季・右近衛少将宗平らとともに供奉する。公卿が著座した後、次将らとともに 陣を引く。修明門院の導師御布施を勤める〔明月記〕 。 建保元年五月二十四日 天皇が高陽院より還御すると、 家実・九条道家・公房・通光・師経・土御門定通・忠信・ 光親・有雅・頼平・公氏・親定・通方・坊門国通・中山忠定・資平・公俊・持明院家行・ 通時・公棟・家兼・為家・公雅・家嗣・家信・宗平・基保・師季・保教・家季とともに 供奉する〔明月記〕 。 建保元年五月二十七日 最勝講第三日で、清信・忠定・雅清・家信・公俊・敦通とともに朝座に出席し、出居に 座る〔明月記〕 。 建保元年七月十八日 天皇の三条坊門殿行幸で、右近衛中将中山兼季・右近衛中将公雅・右近衛中将雅清・右 近衛中将家信・右近衛中将時賢・右近衛少将敦通・家平らとともに供奉する〔明月記〕 建保元年八月二十五日 高陽院殿行幸で、左将らが昇ったとき時賢とともに日花門外にいたため遅刻する〔明月 記〕 。 建保元年八月二十七日 藤原兼子修善所に、国通・伊時・家嗣・雅経・経時・範時・隆頼・資経・基保・資隆・ 親通とともに行く〔明月記〕 。 建保元年九月一日 藤原兼子の懺法に、有雅・清長・宗行・国通・公雅・範時・実信・経高とともに束帯で 出席する〔明月記〕 。 建保元年十一月十二日 五節に、経通・宗行・国通・伊時・隆仲・雅清・雅経・一条信能・実信・藤原範宗・時 賢・家兼・知長・光親・隆衡・兼隆・基保・頼親・資通・親平・家季・資宗王 ( 資家か)
・京極資俊・資隆・顕平・藤原経長・日野家光・大炊御門光俊とともに殿上人として出 席する。隆仲・雅清・雅経・範宗・基保・頼資・親通・資家・資俊・資隆・顕平ととも に直衣を着す〔明月記〕 。 建保元年十一月十三日 五節所御覧で、光親・有雅・為家とともに共をすることになる〔明月記〕 。 建保元年十一月十四日 昨日の神祇官行幸で、腰輿が寄せられると、右近衛中将雅清・右近衛中将家嗣・右近衛 少将師季とともに、小忌を著して列立する。近将とともに、南庭に左将と対するように 陣を引く。 天皇出御の後西に列立し、 行列では左にいる。 天 皇が豊明節会に出御すると、 近将とともに陣を引く〔明月記〕 。 建保元年十一月二十七日 宇佐使発遣で、粗末な駮(駄か)の馬を贈る〔明月記〕 。 建保二年 (一二一四) 一月七日 叙位で、右近衛中将雅清・右近衛中将家嗣・右近衛中将時賢・右近衛少将堀河頼房とと もに、右の叙列にいて陣を引かなかった〔明月記〕 。 建保二年二月十四日 修明門院により正四位下〔公卿補任〕 。 建保二年十二月七日 内侍所御神楽で、平松資家とともに歌を勤める〔順徳院御記〕 。 建保三年 (一二一五) 六月七日 後 鳥 羽 上 皇 の 逆 修 で 、 甲 斐 国 よ り 単 衣 八 領 ・ 銀 の を付け、 錦一段でまとめた錦横被八・ 蒔絵白伏輪の鞍、素鞦、熊皮の泥障、紫皮の小縁を置いた馬八疋・預料として陸奥張鞍 を置いた馬三疋を進上する〔鎌倉遺文〕 。 建保三年十一月二十三日 五節の帳台 試に、 両頭・伊時・信能・雅清・職事三人頼懐 (?) ・範頼 (?) と ともに、 殿上人として出席する〔健保三年記(明月記) 〕。
建保四年 (一二一六) 十二月十六日 内侍所御神楽で、 隆範とともに拍子を勤める。暫く歌った後退出する。順徳天皇曰く 「歌を覚えていないためだろうか。 「おさなきよしに幔 (門) 外 へ出で、 只今賀茂に詣で、 鐘や打つらん」と付歌をしていた。大変に大変に喜ばしいことではない。さる建暦の大 嘗会の頃に大体を習い、内侍所御神楽に参加し、または清暑堂御神楽に出席した。付歌 をその後やらずに勉強しなかったので忘れたのである。ただし、 「召人を下す」 である。どういう思いがあろうとも、 御神楽を無断欠席して賀茂へ参詣するというのは、 その言動は適当ではない。何も思うところ無くやったのであれば、 「おさなき」 (稚拙な) 口実であろう。贈左大臣範季の息子のうちで、大凡この人一人残った。普通はこの人を 使役するのだが、事に臨むとこのような感じだ。最大の恥であると人々は言っている。 〔順徳院御記〕 。 建保五年 (一二一七) 十二月二十七日 内侍所御神楽で、時賢とともに歌を勤める。順徳天皇曰く「近日の所作人は話にならな い。範茂・時賢が出席したが、このことを習ったとは言ってもほんの少しだ。このごろ 忘れてしまったのだろうか。庭燎ぐらいをやって拍子を了解するような人がいなかった ので、父上皇より特別の指示があってやってきたが、取物はただ榊をする程度で、次の 韓神はおざなりにしてかやらなかった。見聞きするによくないことで、世の末のように 不安である。神様のご意志を畏れるべきだろうか。 」〔順徳院御記〕 。 建保六年四月二十一日 左近衛中将〔公卿補任〕 。 (一二一八)
建保六年十二月二十日 上皇の賀茂御幸で、九条知家・経時・時賢・忠綱・経高・徳大寺実基・資経・成長・経 兼・四辻頼資・顕平・日野家光・光資・宗氏・宗広・仲雅・宗仲とともに殿上人として 供奉する。御沓を勤める〔頼資卿記〕 。 建保七年一月二十二日 蔵人頭〔公卿補任〕 。 (一二一九) 建保七年三月二十二日 蔵人頭〔職事補任〕 。 承久元年 (一二一九) 十二月六日 日吉御八講第五日に、親忠・実基・通信・師季・大宮成実・有信・四条隆親・資経・頼 資・支度有教・葉室光俊・入江定平・定氏・頼基・源光邦とともに殿上人として出席す る。 座主の勧賞についての上皇の指示を近衛家通に伝える。 通方・大福寺信盛とともに、 卿二品よりの被物の綿五十両に包まれた亀甲文綾の練単十一重を取る。時刻が押してい たためあらかじめ指示があり、最勝講に準じて西中門の従僧に渡す〔日吉御八講記〕 承久二年一月二十二日 参議・左近衛中将兼任。蔵人頭辞任〔公卿補任〕 。 (一二二〇) 承久二年四月六日 従 三 位 左 近 衛 中 将 〔 公 卿 補 任 〕。 東 宮懐成親王の御魚味について、 葉室資頼が朗詠の人 について「このときやる人については、検非違使別当経通様は未だ拝賀をしておらず、 国通卿は重服しています。元職の人がやるのは憚りがあるでしょうか。先例はどうなっ ているでしょうか。 」と時光を介して道家に聞くと、 「元職の人については先例はよくわ かりません。 高倉宰相中将範茂卿を出仕させてはいかがでしょうか。 」 と返答される
〔玉蘂〕 。 承久二年四月七日 室町家信とともに従三位〔玉蘂〕 。 承久二年四月十二日 御 魚 味 に つ いて資頼が、 「朗詠の人について、 範茂卿が了解いたしましたが、 一人とい うのは配慮が足りないでしょうか。 」と道家に聞くと、 「一人で何の不都合があろうか。 長治元年の例では、 右大弁中御門宗忠が一人朗詠した。 外の例を探すものではない。 と言われる[宰相中将範成卿] 〔玉蘂〕 。 承久二年四月十六日 東宮御魚味に、 家実・公房・道家・公経・九条良平・九条教家・実氏・三条実親・公氏・ 二条定高・公頼とともに出席する。 家 実・公房・公経とともに蒔絵剣を著して出席する。 道家曰く「今日は樋螺鈿剣(鈿螺剣)を帯剣するのが都合がよい。出席すると、蒔絵剣 を帯剣すべきとのことだったが、 螺鈿剣を帯剣した人 (道家・実氏・実親・良平・教家) も少々いた。 さ したる難はない。 」 居 菓子の後道家の指示で朗詠をする。 嘉辰令月の句 三反・徳是一反を朗詠する〔玉蘂〕 。 承久二年五月二十二日 上皇の最勝講初日に、道家・近衛家通・師経・通具・雅親・教家・実親・家嗣・通方・ 定高・家良・山科公頼・経通・信成・信能・徳大寺実基とともに公卿として出席する 〔玉蘂〕 。 承久二年五月二十六日 院の最勝講結願に、家実・道家・家通・師経・良平・通具・松殿忠房・雅親・忠信・松 殿基嗣・実親・家嗣・通方・経通・信成・家良とともに出席する。公卿とともに劔を解 いて机の下に進み居る。行香が行われると、上臈より(信成の次か)起座し、衆僧が退
下すると退下する〔玉蘂〕 。 承久二年五月二十九日 内裏の舞御覧で、定輔・師経・通具とともに簀子にいる〔玉蘂〕 。 承久二年十一月五日 懐成親王の著袴に、家実・道家・家通・通光・二条定輔・西園寺公経・師経・良平・教 家・有雅・実氏・三条実親・家嗣・土御門通方・公氏・新中納言 (定高か) ・公頼・経 通・忠行・近衛基良・家衡・五条三位 (五条基行か) ・大宮新三位 (九条知家・坊門伊 時・閑院公雅か) ・土御門三位中将 (久我通平か) ・新三位中将 (徳大寺実基か) ・信 能とともに、 上達部として出席する。 東 宮献上物儀で、 家通・通光・公経・師経・良平・ 教家・公宣・実氏・実親・家嗣・公氏・通方・定高・公頼・経通・家衡・基良・山科公 長・実基・信能・雅清とともに列立する。上皇御膳で、公頼・経通・基良・家衡・五条 三位・新三位中将・雅清・経高とともに役送を勤める〔玉蘂〕 。 承久二年十一月十六日 中宮渕酔に、公経・実氏とともに急に欠席する〔玉蘂〕 。 承久二年十二月二十三日 賀茂臨時祭に、 家実・道家・良平・教家・基嗣・実親・家嗣・経通・信能・家良・隆範・ 範経・光家・実仲・為家・家光・雅清・範守・信定・重長・宗平らとともに出席する 〔玉蘂〕 。 承久三年 (一二二一) 一月一日 元日節会で、道家に呼ばれ宣命をいただき、これを取って座に戻る。宣命使をつとめ、 道家らが列立すると版につき、群臣拝舞の後昇殿する〔玉蘂〕 。 承久三年一月七日 白 馬 節会に、 道家・公経・良平・通具・教家・忠信・基宗 ( 月輪基家か) ・公宣・基嗣・ 頼平・実氏・公氏・通方・定高・親定・国通・雅経・信成・信能らとともに出席する。
禄所使をつとめ、叙人拝舞の後道家の指示で 案を撤する〔玉蘂〕 。 承久三年一月十一日 除目初日に、 家 実・道家・家通・通光・師経・良平・基家・公定 (公宣か) ・基嗣・通 方・実親・家嗣・国通・信能らとともに出席する〔玉蘂〕 。 承久三年一月十三日 丹波権守〔公卿補任〕 。 承久三年四月二十八日以前 忠信・光親・有雅・宗行・信能とともに、上皇からの軍備命令を受ける〔承久記慈光寺 本〕 〔増鏡〕 。 承久三年五月十四日頃 北 条 義 時 討 伐の僉議に、 近衛基通・九条道家・徳大寺公継 (ナシ 〔承久兵乱記〕 信・光親・有雅・宗行・信能・長厳・尊長 (・池光盛 〔承久兵乱記〕 ) とともに出席す る〔承久記慈光寺本〕 [のりもり] 〔承久兵乱記〕 )。 承久三年五月二十一日 順徳上皇と同車して高陽院に御幸する〔吾妻鏡〕 。 承久三年五月三十日 忠信・宗行とともに宇治・田原・勢田へ向かう〔武家年代記〕 。 承久三年六月一日頃 藤原朝俊・蒲入道・奈良の無頼衆とともに宇治に布陣する〔承久記慈光寺本〕 。 承久三年六月八日 摩免戸にて上皇軍が敗北すると、忠信・定通・有雅とともに宇治・勢多・田原方面に出 撃する〔吾妻鏡〕 。 承久三年六月九日 杭瀬川で上皇軍が敗北すると、有雅・朝俊・佐々木広綱・佐々木太郎右衛門尉・筑後六 郎左衛門尉・田部法印快実・十万法橋・万却禅師・土護覚心・円音とともに一万騎余を 指揮して宇治橋へ出撃する [甲斐宰相中将範義] ([甲斐宰相中将のりよし] 〔承久記絵 巻〕 )〔承久記古活字本〕 。
承久三年六月十二日 有 雅 ・ 朝 俊 ・伊勢前司清定・広綱・小松法印快実 (・大内修理大夫 〔 承久兵乱記〕 )と ともに二万騎余を指揮して宇治へ出撃する〔吾妻鏡〕 。 承久三年六月十四日 幕 府 軍 が 渡 河 に 成 功 す る と 、 有 雅 ・ 安 達 親 長 と と も に 逃 亡 す る 〔 吾 妻 鏡 〕。戦 傷 す 〔故正三位藤原宗行外百六十四名贈位ノ件〕 〔故正二位藤原光親外一名贈位ノ件〕 〔昭和 大礼の贈位事蹟書〕 。 承久三年六月十六日 宇治で共に戦った清水寺敬月が逮捕される〔吾妻鏡〕 。 承久三年六月十八日 松田政基が、部下の刑部丞を討ち取ったと幕府に申請する。曽我宗家が、部下一人を討 ち取ったと幕府に申請する。権守三郎が、中間一人を討ち取ったと幕府に申請する〔吾 妻鏡〕 。 承久三年六月二十四日 幕 府 の 申 請 に よ り 、 北 条 朝 時 に 預 け ら れ る ([甲斐宰相中将範義] 〔承久記古活字本〕 〔吾妻鏡〕 。宇治へ向かう〔公卿補任〕 。 承久三年六月頃 息子の範継が、北条泰時により助命される〔承久記慈光寺本〕 。 承久三年七月 関東へ護送される〔公卿補任〕 。 承久三年七月十八日 足 柄 山 麓の早河 (怒田村の洞川 (清川) か 〔新編相模国風土記稿〕 。 狩川・貝沢川か) にて、五体不具は後生の障害になるということで、入水を本人が希望したため、川に沈 められ処刑される 〔吾妻鏡〕 。 行年三十七歳 〔公家事典〕 〔公卿補任〕 (二十七歳 〔系図 纂要〕 〔故正三位藤原宗行外百六十四名贈位ノ件〕 〔故正二位藤原光親外一名贈位ノ件〕 〔昭和大礼の贈位事蹟書〕 。三十六歳〔敗者の日本史6承久の乱と後鳥羽院〕 )。出家〔公
卿補任〕 。朝時を呼んで、 「刀剣によって死んだ者は修羅道に落ちるという。ならば私範 茂をフシ漬にしていただきたい。 」といい、大籠を組み沈められる。妻に、 遥ナル千尋ノ底ヘ入時ハアカデ別シツマゾコヒシキ と歌を贈る 〔承久記慈光寺本〕 。 関本宿の晴河にて執行場所を探したが、 浅瀬しかなかっ たので、石でもって堰を作り、流れを止めて淵を造る。出家のため丹後坊・式部坊が呼 ばれ、丹後坊が髪を剃り、式部坊が受戒を行う。籠を組んで石を畳み、その上に座らせ た後、左右の膝を結って沈めようとしたとき、念仏をやめて泣きながら 思ヒキヤ苔ノ下水セキ留テ月ナラヌ身ノ宿ルベシトハ と詠み沈められる。 夕べ過ぎになっても念仏を唱えていたが、 「ウン」 といって堤を壊 し、足を結んでいた縄も切れる。大息をついて「死なないぞ」といったところ、堤を築 き直し、縄二筋で足を結った後、念仏を唱えたところを七、八人で頭を押さえつけ処刑 する〔承久記古活字本〕 。『六代勝事記』の作者(日野資実・松殿隆忠・葉室家ゆかりの 人か)曰く「忠信・光親・宗行・有雅・範茂・信能の不本意なる旅の空。遅かれ早かれ 行き着く東路の先に、止めどない涙をかけて、どういう運命になろうかとの悲哀のうち
(中略) 。範茂卿は本来、京に生き残るべき人ではなかった。ただ宇治川に花と散るべき だったのを、はかなく生き残り、早河の水底の水くずとなったことこそ、道理のないこ とであった。 (中略)世の人々が言うには、 (中略)なぜに我が国には名を大事にして恩 に報いる忠臣が少ないのか。 (中略) 範茂卿の威勢は楊貴妃のはとこ楊国忠をしのぐも ので、その名は宰相中将であった。 」〔六代勝事記〕 。『承久兵乱記』作者曰く「六人の公 卿の嘆かわしさは、言うにしても言い尽くせない。 」〔承久兵乱記〕 。 承久三年十二月十日 自宅が放火により焼失する〔承久三年四年日次記〕 。 貞応二年 (一二二三) 四月十七日 『海道記』の作者(源光行か)が急川を訪れる。作者曰く「しみじみと昔を思えば、不 憫なことである。天皇陛下のお母上修明門院様の燦然たる輝きの末尾に身を輝かし、神 聖なる天皇陛下の恩恵によって、高倉の家を栄えさせた。近衛武官の花を開花させ、こ の世の春に遭いたる匂いは、国中に漂った。上皇陛下の風は温かく送られ、時勢の響き は遠くまでふるわせた。しかし予期したろうか、花盛りの木を嵐がたたきつけ、その花 は塵となり、流れ行く水は急流となって、その身が泡と消えようとは。兄弟の契りの片 枝が折れ、屋敷は道だけがむなしく残った。仲のよい夫婦はもう共にいることもなく、 異国の水に沈み帰ることはない。一生をここに終えた。この川は三途の川の入り口か。 言ってはいけない、水に心がないと。波の音は嗚咽して哀傷を誘っているのだ。 」。 流れ行きて帰らぬ水のあはれとも消えにし人の跡とみゆらん
の歌を詠む〔海道記〕 。 嘉禄元年 (一二二五) 十月二十五日 定家が人相学を学ぶ。定家曰く「先年、光親・宗行・範茂の人相を見ると、よくない相 ではあったが、 兵刃の相はなかった。 有雅はその相があったと、 人相学の師匠は語った。 〔明月記〕 。 嘉禄二年 (一二二六) 九月十七日 息子(範継・範房・範任か)が隆親に呼ばれ、四条隆衡・四条隆宗・隆仲・四条隆成・ 隆宣・四条隆綱・隆承・北白川院治部卿・中納言局とともに天王寺御房へ行く[侍従範―] 〔民経記〕 。 安貞元年 (一二二七) 八月二十二日 妻 の 関東三条局が粟田口の自宅にて、 腫 病により口より水を出して没す。 夜に埋葬する。 定家曰く「嘘という。その娘の宰相典侍が亡くなった。母はまだ関東にいるという。こ の娘は、雅経卿の娘で、範茂の妻である。源通時が解職された原因である。 」〔明月記〕 安貞元年十二月十三日 息子の範継が、春日行幸で舞人を勤める〔明月記〕 。 寛喜二年 (一二三〇) 四月二十五日 定家曰く「そもそも、賀茂祭使出立所の庇の端の御簾の有無については、管見の範囲で は年々同じではない。古い記録を忘れたので調べていない。後日調べるべきだ。 (中略) 上代では花山院を第一出立所としている。 建 久元年の中山兼宗卿が近衛使をつとめた時、 承元二年の忠明が近衛使をつとめた時、承元四年の雅経が近衛使をつとめたときは、庇 の簾を撤収している。建久七年の樋口大宮の大納言徳大寺実宗邸での、平松親能卿が近 衛使であった時は、 これを撤収した。 建保六年の楊梅盛兼が近衛使の時も懸けなかった。
以上が、 その人がしきりに尋ねていることか。 建保二年の家兼の時はこれを懸けていた。 この事例に限らず、色々事例があって根拠に欠ける事柄である。建保三年の範茂が近衛 使だった時もこれを撤収したが、建物が二棟あったため寝殿を使っており、依拠する事 例ではない。文治五年の六条堀河亭での、五条成家卿が近衛使をつとめたときは、御簾 を懸けて上げていた。左大臣公継様がこれを見て行ってからは、家の説は多くこれを懸 けるとしているのだろうか。このほかの事例も見たが註はしない。または忘れた。 」〔明 月記〕 。 寛喜二年十二月九日 夜 に 、 徳 大 寺 実 定 ・ 範 茂 に仕えていた右衛門尉景保が、 仕官を求め定家邸にやってくる。 定家曰く「こんな不完全なる人間の家にくるとは、偏屈な人だろうか。 」〔明月記〕 。 寛元二年 (一二四四) 四月二十五日 息子の範有が一日に没す。行年四十二歳。平経高曰く「疫病が流行って病気になり、そ の十日後であった。 」〔平戸記〕 。 年月日不詳 息子の範継が、尾張内侍より琵琶の相伝を受ける〔文机談〕 〔琵琶相承之系圖〕 。兄従五 位上甲斐守範資の息子範仲の息子範経を養子とする 〔 尊卑分脈〕 。 正 三位民部卿海住山 長房の娘を妻とする〔尊卑分脈〕 。秀才〔尊卑分脈〕 。娘が忠成王に嫁ぐ〔本朝皇胤紹運 録〕 。 雅 経 ( か) 曰く 「先院 (後鳥羽上皇か) の時、 勝 負御鞠を行い、 自分と範茂が負 けた。御鞠を進上するときに、故宰相(雅経か)は枝に付けられた。そのとき、範茂の 分は通常通りに付けて、私の分には最下の枝が使われないようになされた。陛下が御覧 になっていて、相公(雅経か)にお聞きになったとき、その子細を説明なされた。こと
のほかお褒めがあり、我が飛鳥井家を取り立てられたのである。この話は、飛鳥井家の 秘話の一つである。 」〔革 要略集〕 。 後鳥羽上皇の御使として、 順徳天皇に鞠を贈る事 になると、 「道路では中間に持たせて走らせ、 陣からは装束の童に持たせて、 大床にて これを取り、 御前へ持参するのである。 」と、 雅経に教えられる 〔革 要略集〕 。 涼闇で、 朱漆の沓の上から塗りかえしてこれを着す〔内外三時抄〕 。 明治十九 (一八八六) 年 福 住九蔵らにより、 小中村清規撰文、 小松宮彰仁親王題額による追弔碑が建てられる 〔承久殉難の五忠臣〕 。 昭和三年 (一九二八) 十一月五日 信能・蜂須賀斉裕・松平頼恭・長宗我部元親・横井小楠とともに贈正三位〔故正三位藤 原宗行外百六十四名贈位ノ件〕 〔昭和大礼の贈位事蹟書〕 。 昭和四年 (一九二九) 三月二十五日 光親・有雅・宗行・範茂・信能を祀る別格官弊社創建の意見書が、貴族院に提出される 〔藤原光親卿外四卿ヲ奉祀スル別格官弊社創建ノ件〕 。 参考文献 『國學院雑誌』第三四巻第六号・第七号 一九二八年 植木直一郎『承久殉難の五忠臣』皇典講究所 一九二九年 龍粛「承久の亂」 『鎌倉時代史論』勿來社出版 一九三一年
龍粛『鎌倉時代の研究』春秋社 一九四四年 赤羽洋輔「後鳥羽院政研究の一視覚―高倉家を中心に―」 『政治経済史学』 八五 一九七三年 田尻佐編輯『贈位諸賢伝 増補版 上下』近藤出版社 一九七五年 河野房雄『平安末期政治史研究』東京堂出版 一九七九年 赤羽洋輔「土御門通親と高倉家―後鳥羽院政成立に関する覚書―」 『政治経済史学』 二〇〇 一九八三年 橋本義彦執筆「きろく 記録」 『国史大辞典 四』吉川弘文館 一九八四年 上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』吉川弘文館 一九九一年 杉橋隆夫執筆「ふじわらのけんし 藤原兼子」 『国史大辞典 十二』吉川弘文館 一九九一年 『新日本古典文学大系 四三 保元物語・平治物語・承久記』岩波書店 一九九二年 『新編日本古典文学全集 四八 中世日記紀行集』小学館 一九九四年 渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究 公家鞠の成立』東京大学出版会 一九九四年 『冷泉家時雨亭叢書 第四十七巻』朝日新聞社 一九九五年 霞会館『平成新修旧華族家系大成 下』吉川弘文館 一九九八年 浅見和彦「足柄路の文学―藤原範茂の墓のことども―」 『成蹊国文』三一 一九九八年 弓削繁校注『六代勝事記・五代帝王物語』三弥井書店 二〇〇〇年 増補「史料大成」刊行会編『増補史料大成第三十一巻』臨川書店 二〇〇〇年 秋山喜代子「後鳥羽院と蹴鞠」 『芸能の中世』吉川弘文館 二〇〇〇年 白根靖大『中世の王朝社会と院政』吉川弘文館 二〇〇〇年
今村みゑ子「順徳天皇と音楽」 『明月記研究 記録と文学』七号 二〇〇二年 秋山喜代子「順徳天皇と蹴鞠」 『明月記研究 記録と文学』七号 二〇〇二年 稲村栄一『訓読明月記一~五・八』松江今井書店 二〇〇三年 稲垣弘明『中世蹴鞠史の研究―鞠会を中心に―』思文閣出版 二〇〇八年 長村祥知「後鳥羽院と公家衆」 『後鳥羽院のすべて』新人物往来社 二〇〇九年 野口華世「後鳥羽院をとりまく女性たち」 『後鳥羽院のすべて』新人物往来社 二〇〇九年 五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡 七 頼家と実朝』吉川弘文館 二〇〇九年 五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡 八 承久の乱』吉川弘文館 二〇一〇年 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館 二〇一〇年 永原慶二監修・貴志正造訳注『新版 全譯 吾妻鏡 第三巻』新人物往来社 二〇一一年 丸山二郎校註『愚管抄』岩波書店 二〇一一年 関幸彦『敗者の日本史六 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館 二〇一二年 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館 二〇一五年 アジア歴史資料センターホームページ ht tp s:/ /www. ja ca r.g o.j p/ 東京大学史料編纂所ホームページ ht tp :/ /www. hi. u-to ky o.a c.j p/ in de x-j.h tml