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滋賀大学環境
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序文│環境に学ぶー
これからの社会が維持できるかどうかについて、最も重要な課題は、平和、特に核戦争を防止で きるかどうか、そして、地球環境が保全できるかどうかではないでしょうか。特に環境の保全は、 若い諸君達にとっては、身近な課題と言ってよいでしょう。 滋賀大学は、環境問題の研究と教育を最も重要な目標にしています。それは、このことに地球の 運命が懸かっているという一般的な研究課題であるだけでなく、琵琶湖という自然環境を維持し、 これと県民生活を共存してきた滋賀県の特性と、それを活かすために大学がこれまで取り組んでき た業績を継承し、発展させたいと考えているからです。 琵琶湖は閉鎖水面であり、汚染されてしまうと、これを再生するのは困難です。しかし、戦 後の急激な経済成長の過程で、議賀県は日本一のスピードで工業化と都市化を進めました。ま た、琵琶湖の周辺は干拓や埋め立てが進み、生態系が破壊されました。この結果、汚染物が蓄積 し、一九七七年には赤潮が発生しました。琵琶湖は近畿一四OO
万人の市民の水源ですが、水質の 悪化によって、水道水に影響が出て来ました。幸いに賢明な市民は琵琶湖を守るために運動を起こ しました。滋賀県はそれに応えて、合成洗剤の使用を規制し、富栄養化防止条例を作りました。市 民は天ぷら油などの廃油を回収して石鹸を作り、汚染物を流さないように活動しました。この地域 の強い運動によって、政府は湖沼法を作り、また、下流の京都府・市や大阪府・市などは分担金を 出して、下水道建設費など滋賀県の環境浄化に協力しました。また、この運動をきっかけに、世界湖沼会議が発足し、世界的に水を守る世論と運動が発展しました。 滋賀大学は、こういう市民と自治体の環境保全に学び、そして協力をしてきました。琵琶湖を守 ることは容易ではありません。先進的な試みをいろいろしていても、これだけ大量生産・消費の経 済を続けておれば、琵琶湖の水質はなかなか良くなりません。恐らく今後は、干拓地を内湖に戻し、 埋め立ててコンクリート湖岸にした地域を改造して、自然に戻さねばならないでしょう。 琵琶湖の保全だけでなく、今、日本は公害の克服から景観保全、そして、温暖化防止のような地 球環境保全まで、環境問題の解決は山のようにあります。しかし、世界的に見て、環境の科学は戦 後になって始まったと言ってよく、この問題の研究そして教育は、これからと言ってもよいでしょう。 滋賀大学は、﹁環境の世紀﹂と言われる今世紀を担う学生諸君全員に、環境の基礎知識を学んで もらいたいと考えています。この本はそのためのテキストです。テキストの題は﹁滋賀大学で環境 を学ぶ﹂となっていますが、あえて、この序文を﹁環境に学ぶ﹂としたのは、今述べたように、環 境の科学は新しく、発展途上にあるので、諸君達にはこのテキストで学ぶだけでは不十分であり、 現場に行ってよく観察し、環境に学び、また、これを保全するための市民の活動に学んでもらいた いという願いを込めたものです。是非、この大学で環境の科学を学び、そして、現実の環境に学ん で 下 さ い 。 滋賀大学長 r.!= 品 本 憲
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三年は滋賀大学および私たち滋賀大学環境フォーラムにとって記念すべき年となるこ とでしょう。その理由の第一は、本書﹃滋賀大学で環境を学ぶ﹄の公刊です。第二は、本年四月 より発足する﹁環境総合研究センター﹂の設立です。第三は、本年十一月の滋賀大学とタイのチ エンマイ大学との共同による国際シンポジウム︿N
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ロ ﹀ の 開 催 で す 。 こうした活動は環境フォーラムのこれまでの蓄積が大いに関係しています。では環境フォーラム とは一体何者でしょうか。 滋賀大学環境フォーラムは一九九九年一二月に教育学部と経済学部の教官有志によって自主的に 結成・設立された任意団体です。その目的は﹁環境や環境問題に関心のある者が集まり、具体的 な課題について全学的な協力の下にその解決に向けて教育・研究を推進する﹂となっています。つ まり、これまで各学部で行われてきた環境に関する研究・教育を統合し、互いに協力して滋賀大 学を環境面で特色ある大学とするために研究・教育を活発化しよう、そしてそのことを通じて地 域に貢献できる大学になろう、と言うことです。その契機となったのが一九九七年十一月に開催 された溢賀大学国際シンポジウムの成功でした。その詳細については︿豆司自己巴開五日皇玄関三戸 ロ ∞ ︿ O H O H ) 富 。 ロ デ ] [ 口 同 O 円 自 ω け巴 O D W ∞ ロ 門 戸 開 門 同 ロ ロ ω 昨 日 OD 日 ロ H20 ﹀ 回 同 凶 ロ ! 日 ) 印 。 円 問 。 問 。 m T Uロ ﹀ という本にまとめられています。はしがき
冨 ﹀ Z ﹀ の ︻ 山 富 向 山 沼 、 ﹃ 一 ﹁ 0 4江町℃ロ σ -H 印 7 0 門 田 ) ( ︼ 市 山 市 山 市その後、日本の環境問題研究のパイオニアである宮本憲一先生を学長にお迎えすることとなり、 滋賀大学の目指すべき方向性が一層明確なものとなり、環境フォーラムの活動もますます重要な社 会的使命を帯びたものとなってきました。 さて本書のねらいについて述べておきましょう。さまざまな環境および環境問題の入門テキスト が乱立する中で、本書を公刊する理由はどこにあるのでしょうか。 第一に、環境に関する体系的知識を獲得するためには大学として責任を持たねばならない、と 考えます。すなわち、個々の講義や専攻の中だけで﹁環境﹂に触れたり、﹁環境﹂を扱うのではな く、二十一世紀に生きる現代人の必須教養の一っとして﹁環境﹂を考えるならば、入門基礎専 門の各段階に応じた大学としての教育メニューが提示されるべきでしょう。本書は特に教養教育を 念頭において、そのテキストとして執筆されたものです。 第二に、環境問題を知識としてではなく、その解決に向けて主体的に考え、関わってゆくために は地域の現実から出発しなければならない、と考えました。地域こそ環境学習の最良のフィールド です。私たちは遠いところの話ではなく、琵琶湖および集水域をフィールドとした身近なところか ら環境への学習を始めるべきだと考えました。 第三一は、地域との関わりです。滋賀県は﹁せっけん運動﹂など、環境問題の解決のためにさまざ まな先進的な取り組みをされている﹁環境こだわり県﹂ですが、その活動を支えるのは地域にすむ 市民一人一人の理解と協力ではないでしょうか。地域の環境に関心を持つ市民を育成することも大 学の重要な社会的使命の一つです。
そして最後に、滋賀大学は今まで以上に環境研究・教育において特色のある大学になるべきでは ないか、という想いです。私たちは環境問題の解決、サステイナブルな社会の構築に大いに貢献で きる大学を目指します。 私たち環境フォーラムのねらいが成功するかどうかは滋賀大学を卒業する学生諸君が証明してく れると信じています。滋賀大学に学ぶ学生の皆さんと共に、ゆっくりと、しかし着実に、未来を見 据えて歩んでゆきたいと念願しています。 滋賀大学環境フォーラム 二
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コ 一 年 二 月目
第 第 二 章 第三一章 第 四 章 第 五 章 第 六 章次
章 環境問題の学び方日本の公害克服の経験から 1 : : : : :=
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フ ム <1 -農 業 問 題。
地球・地域環境問題と環境教育│酸性雨と湖沼(琵琶湖)σ
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汚 濁 地 球 温 暖 化 と 琵 琶 湖 琵琶湖総合開発とダム政策の転換: コ ラ ム AY 地域生活と水 i 集落を流れる水路と﹁カワト﹂ A V -: : : : : 琵 琶 湖 の 食 文 化 琵 琶 湖 と レ 、/ ヤ 1 24 25 49 62 79 81 94第 七 章 第 八 章 第 九 章 第 十 章 第十一章 第 十 一 五 早 環 境 保 ノ¥ 1二 と 法 の 役 割 環境問題の社会経済学への誘い・ 環 境 と 技 術 コ ラ ム AY 環境会計・環境監査 A V -生活様式の変化と住宅の寿命観 j i -: 水質保全政策を﹁費用﹂と﹁公共性﹂ か ら 考 え る コ ラ ム AY ア ジ ア の 環 境 教 育 タ イ と 中 国 l o -: : : 発 展 途 上 国 の 環 境 問 題 ラ オ ス の ケ ー ス ・
第十三章 英国﹁湖水地方﹂と自然保護思想│ナショナル・トラスト発祥の地・ 執筆者紹介(執筆順) キ ワ ド 検 索 218 239 242
第一章
表 1 環境問題の領域 居 住 地 域 (L) 国土問)環境問題の学び方
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日本の公害克服の経験から
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地球規模 (G) Gp Gq 国際 (I) I Q N P Nq L P q y L 公害(P) ア メ ニ テ ィ ( 環 境 の 質 ) の悪化(q) 自然生態系の破壊(e) G e 一環境問題をどうとらえるか 人類の生存にとって、最も重要な課題は、核戦争を防止して平和を維持し、 環境と資源を保全して地球を維持していくことでありましょう。戦争は環境を 破壊するので、平和は環境保全の絶対条件といってよいでしょう。環境学は平 和を前提にして成り立つのです。ここでは、そのことは前提として、主として 経済や文明の発展にともなって生じた環境の変化、そこから生ずる環境問題、 そしてその問題を解決するための環境政策をあっかうことにします。環境学は、 環境、環境問題、環境政策の三局面を総合的にあっかうものですが、本章では、 環境問題を中心にあっかいます。 現代の環境問題は、表ーのように発生の形態と空間領域の両面で多元化して います。さらに、ひとくちに公害と言っても、大気・水・土壌汚染、騒音、振 動、悪臭、地盤沈下、放射能汚染などに分かれます。地球規模の環境問題にな ると発生形態はより複雑になるといってよいでしょう。環境政策はこの複雑化 し、多元化する傾向によって、それぞれ対策の目的、手段と主体が異なります。 しかし、公害と地球規模の環境問題とは全く違うものではありません。 図ーのように、これらは連続してとらえなければなりません。環境がかわっ I e N, L,てアメニティが無くなり、それを制御できな くなると、公害が発生するのです。環境問題 は他の経済問題と異なって、経済活動の自由 に任せていては自動的に防ぐことは出来ませ ん。それは、自然環境が市場の評価では、タ ダであったり、経済的な評価が低かったりす るからです。たとえば、海岸は、美しい重要 な自然なのですが、戦後日本の都市では、埋 め立てが進みました。埋め立てることによっ て、白砂青松の海岸はなくなったのですが、 これは、これまでの経済では、損失ではない のです。むしろ反対に、この埋立地は、工場・ 観光・住宅用地となれば、大きな価値をもっ 財産と評価されます。したがって、市場原理 だけではどうしても自然は破壊されてしまいます。環境問題を解決しようと思えば、今の市場制度 の下での自由な経済発展に任せず、何らかの公的な規制あるいは公的な経済手段を使って、この社 会的損失を防がなければなりません。 環境問題の社会的性格は、 公害問題 アメニティ環境の質の ⋮悪化(アメニティ問題) 自然環境の破壊 地球生態系の変化 環境問題の全体像 図1 そのもっとも深刻な公害問題に明確にあらわれます。 公害の被害は
まず、第一に、生物的弱者にあらわれます。大気汚染や水俣病の患者の多数は、六
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歳以上の高齢 者、一五歳以下の年少者、病弱者や障害者です。植物や人間以外の動物の場合も、環境の変化に弱 いものから衰退していきます。 公害の第二の特徴は、社会的弱者に被害が集中することです。大気・水汚染や騒音などが発生し た場合、金持は居住地の選択が自由であり、仮に汚染地に住んでも堅牢な住宅に住み、空気清浄機 をつけ、栄養の良い安全な食品をとれば、ある程度公害を予防できますが、随屋に住み、貧しい食 事をとる貧乏人は被害を防ぐことは困難です。日本の大気汚染被害者は、住工混合地域の低所得者 の居住地に集中しています。 この第一と第二の特徴から、公害対策は、被害者個人の自力解決にまかせていては解決できませ ん。どうしても、社会的解決、公共政策による救済が必要になります。 公害問題の第三の特徴は、絶対的損失が含まれると言うことです。経済的行為による損害の中に は、後から賠償すれば解決できる相対的損失があります。しかし、公害や環境破壊には、次のよう に、後から賠償してももとに戻らない絶対的損失(現状復帰不可能)が含まれています。 川 人 間 の 健 康 障 害 ・ 死 亡 間人聞社会の維持に必要な自然・景観の復元不可能な破壊 間貴重な古文化財などの文化財の損傷 このように絶対的損失が発生する可能性がある場合には、かりに経済的に成果がある行為であっ ても事業の方法を改めるか、代替の技術や工法がみつからぬ場合は中止(法律では、﹁差し止め﹂)しなければなりません。そして、より重要なのは、計画にあたって、事前に環境影響評価(アセス メント)をして、予防をする必要があることです。アセスメントは環境政策の必須要件です。 このような公害問題の特徴は、環境問題全体に共通する社会的性格といってよいでしょう。たと えば、地球温暖化が進むと一番先に被害を受けるのは、発展途上国の島々や海岸部に居住する低所 得者でしょう。このように環境問題を考える場合には、まず、被害から入って、対策を考えること が重要であり、公害のようにもっとも典型的に被害の深刻な例に学んで、原因や対策を考えること が、環境問題の入門になると思います。 日本は、戦後経済の高度成長の過程で、水俣病、イタイイタイ病、四日市大気汚染をはじめとし て、全国的にあらゆる深刻な公害を経験しました。おそらく、一九六
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年代初頭の状況が継続すれ ば、日本の大都市圏は地獄の様相を呈したと思います。幸いなことに、当時の日本人はバランス感 覚があり、公害防止のための市民運動を全国的に起こして、一九七0
年代半ばには、深刻な公害の 多くを防止することに成功しました。その解決の方法は日本独特のもので二つの道をたどりました。 ひとつは、公害反対の世論が住民の多数を占めるところでは自治体の首長を環境保全派の人物に かえ、当時、汚染企業を擁護して、ルーズな対策をとっていた政府よりも厳しい対策をとって、問 題の解決を図りました。その典型例ですが、一九六九年東京都美濃部亮吉知事が、困の公害対策基 本法よりも厳しい東京都公害防止条例をつくりました。国はこれを違法として争いましたが、全国 的に公害問題が深刻化して国の対策が間違っていることを理解した世論が都の政策を支持し、その 結果、国は都に屈服し、一九七O
年末に﹁公害国会﹂を聞いて、一四の環境法をつくらねばならな地 方 公 共 団 体 の 公 害 対 策 の 変 化 1961 1974 1986 1995 都 道 府 県 市 町 村 都 道 府 県 市 町 村 都 道 府 県 市 町 村 都 道 府 県 市 町 村 環境担当組織 14 16 47 765 47 562 47 845 のある団体 担当職員数 300 5,852 6,465 5,865 4,816 6,384 4,534 予算(億円) 140 3,501 6,036 8,910 20,800 14,458 46,738 下水道予算を 2 3,838 8,785 17,319 除く 公害防止条例 6 1 47 346 47 496 47 608 設置団体 表 2 かったのです。 他方、公害反対の世論が弱く、深刻な公害が起こっていても行 政が対応せず、被害者が孤立していたところでは、最後の救済を求 めて裁判がおこりました。この裁判を世論が支持したこともあっ て、一九七二年以降、イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市公害、 そして熊本水俣病の四大公害裁判は、いずれも原告勝訴におわりま した。とりわけ、高度経済成長の旗手であった四日市コンビナート の公害が裁かれたことによって、政府は大気汚染の改善をしただけ でなく、企業中心の地域開発のあり方を基本的に改めなければなら なくなりました。 この時期の市民の公害防止の世論と運動がどれほど強い圧力を 企業や政府に与えたかを示す証拠を二つあげておきましょう。ひ とつは企業の公害防止投資です。一九七五年に企業の公害防止投資 は、約一兆円、全設備投資の約一七%に達していました。これは世 界一の投資です。これによって深刻な大気・水汚染の除去がすすみ ま し た 。 また、自治体の公害防止対策も画期的にすすみました。表
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の 一九六一年には下水道予算を除くとわずか二億円の公害対策 、 つ に 、予 算 と 一 二
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人の職員しか働いていなかったものが、一九七四年には約二000
倍の三八三八億円 の予算、約四O
倍の一万二千人の職員によって、公害対策がすすめられることになったのです。歴 史上、これほどの行政改革がされた例はありません。 もちろん、これで公害がおわったわけではありません。現在もなお、自動車公害は深刻であり、 地下水・土壌汚染、そして廃棄物対策などはこれからです。しかし、やればできるという経験をし たことの意義は大きいのです。いま、地球環境問題について、大変困難な状況がありますが、あの 深刻な一九五0
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年代の公害を解決していった経験に学べば、悲観することはないと思います。 さて、ここではこのような戦後の公害問題を生み出した背景として、戦前の公害史についてふれ たいと思います。実は、戦後の深刻な公害事件が発生した背景には、戦前の公害事件の教訓を継承 しなかったことにあると私は考えているからです。環境学の研究が遅れているものですから、公害 史の研究も十分に進んでいません。﹁公害﹂と言う言葉の語源すら、まだ完全に解っていません。 しかし、既に解っている範囲でも重大な教訓を得ることができます。戦前の公害は有名な足尾鉱毒 事件をはじめ、沢山の社会問題をおこしています。そして、激しい公害反対運動があり、その成果 として、汚染企業の対策も進まざるをえず、当時としては世界最高の技術開発が行われています。 また、自治体も﹁煙の都﹂といわれた大阪市では世界で最初の大気汚染の常時観測が行われ、ばい 煙の削減が進んでいました。おそらく、今日の公害対策の原理は、大正末期から、昭和のはじめに かけて、ほほ確立していたといってよいでしょう。問題は、この折角確立した公害対策の原理や技 術が、第二次世界大戦のために中断され、戦後何ら継続されずに、高度経済成長の中で、ふたたび深刻な公害を発生させたと一言うことです。歴史の教訓に学、はなければ、何度でも失敗すると言う見 本を戦後の企業と政府は示したと言ってよいでしょう。 そこで、ここでは、ごく簡単に典型的な戦前の公害史の断面を示すことによって、歴史の重さと いうものを知ってもらいたいと思います。自らの歴史を知らない会社や個人が、いかに、失敗する かと言うことを知ってもらいたいのです。 ニ﹃ある町の高い煙突﹄ ﹁ある町の高い煙突﹄という小説は、非常に長い間、高等学校の夏休み指定図書になっていました。 著者は新田次郎さんという、気象台におられ、直木賞をとられて作家になられた方です。作家の中 では気象がわかるということで、時代小説にしても、その日が五月雨であったとか、どういう天候 であったということから書くような、非常にユニークな人だと思います。新田次郎さんの﹃ある町 の高い煙突﹄は、目立鉱山の公害問題を舞台にして、そこで公害問題を解決した鏑木徳一一という技 術者、研究者と言った方がいいと思いますが、その人の業績を中心にしています。それから目立鉱 山の周辺の村で、自分の出世を諦めて、公害問題を解決するために一生を捧げた関天州のことを書 いてみたいと思ってつくった小説であります。 鏑木は恐らく日本で最初に公害問題で博士号を取った人ではないかと思います。石川県の生まれ で旧制第四高等学校を出まして、東京帝国大学農学部林学科に入りました。家が大変貧乏だったも のですからアルバイトをしなければならない。しかも弟たちも後に東大教授になるように大変優秀
だったので、彼は自分の学費だけではなく、弟たちの学費も稼がなければならない境遇だったので す。彼は研究でもって稼げないかと考えました。当時、研究者のための雑誌、たとえば山林学会雑 誌などの原稿料は非常に高かったのです。学生時代からそういう雑誌に投稿しまして、原稿料を稼 ぐというようなことをやっていたようです。 大学生時代に、研究発表を多くして、非常に令名が高くなっていました。したがって東京大学農 学部は、鏑木を助手に残したいと考えたのです。しかし、当時、久原房之助という日立製作所の前 身の目立鉱山の社長で、戦後は日ソ国交回復などに活躍した政治家にもなった人物が、目立鉱山の 亜硫酸ガスに悩まされて、何か対策を立てたいと考えていたときに、東大の学生に、非常にすぐれ た研究をやっている鏑木徳二という男がいるというので、彼を高給でもって、自分の会社に引き抜 いたわけであります。大学に残らずに目立鉱山に移るのですが、彼は研究がしたい。それで久原房 之助は、日立鉱山で公害対策に取り組んでくれるならば、ここで研究した成果で博士号を取っても よろしいという条件をつけて引き抜きました。 彼は赴任して、目立鉱山の亜硫酸ガスの問題について調査を始めるわけですが、当時、大気汚染 事件は、日本各地で深刻な様相を呈していました。私は大気汚染問題に取り組んで驚いたのですが、 亜硫酸ガスの問題は、多くの研究者は戦後の問題だと考えていたんですが、そうではないのでして、 戦前も明治の終わりから大正の初めにかけて、各地で深刻な亜硫酸ガスによる被害が出ていたので す。そのために政府は鉱毒調査会というのをつくって、当時の斯界の権威を集め、亜硫酸ガスの問 題や工場排水の汚染問題について調査をさせていたのであります。そして対策を立てさせていま
し た 。 この鉱毒調査会は、目立鉱山の亜硫酸ガスを防ぐためにはどういう方法をとればいいかという ので、低い煙突をつくって煙道を長く尾根に沿ってはわせ、空気を送って煙突の中で亜硫酸ガス を薄くして出せば解決するのではないかと考え、目立鉱山に対して低煙突の勧告をしたのでありま す。一九二二年(大正二年)六月のことですが、目立鉱山は政府鉱毒調査会の勧告で、内径十八メ ートルの大口径煙突を煙害対策のためにつくった。つまり非常に大きい口径の煙突で、そこに空気 をたくさん入れて希釈をして出せば害を防げると考えたのが鉱毒調査会の提案なのですが、これは 惨たんたる被害を出しました。低い煙突ですから煙は全く拡散しない。しかも山の中につくったも のですから、鉱山で働いている従業員初め、家族のところに煙が立ち込め、亜硫酸ガスのために深 刻な被害が出るという状況になり、地元ではこの煙突を﹁阿呆煙突﹂と呼んでいます。つまり政府 はあほうだということになるのです。そのころに鏑木徳二が赴任するわけで、鏑木は、煙害は気象 条件と関係すると考えました。そこで付近の気象条件を精細に調べて対策を考えてみようというの で、十二の観測点を目立鉱山の周辺の山の上に配置し、神峯山にセンターを置いて、毎日きちんと 気象観測をやり、どういう条件のときに被害が発生するのかという気象と煙害の因果関係をずっと 調査していくのです。 これは大気汚染対策にとって非常に大切なことです。大気汚染は気象条件と関係します。例えば 逆転層といって、普通、気温は一
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・六℃下がるのですが、気温が下が らない気象条件のときがあるわけです。ですから冬、例えば皆さん方が起きて伊吹山の方を見ますと、山頂だけが見えて、下が震や霧のような形で曇っている状況が見られると思います。あの高さ のところが逆転層なんです。つまりここで気温が逆転し、天井ができてしまい上に煙が上がらず、 スモッグが発生するのです。ですから逆転層の位置がどこにあるかを確かめるのが大気汚染を防ぐ 第一歩なんです。これは冬場、特に逆転層が発生しやすい。そしてどんどん濃度が濃くなって、ス モッグや被害が発生するわけです。有名なロンドン・スモッグ事件は、そういう逆転層が何日にも わたって崩れなかったために、約四
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人の死者が出るという大被害を一九五0
年代にも起こし ているわけです。 したがってどういう気象条件かを知るのは公害対策の第一歩なのですが、彼は、丁寧な気象観測 をやるのです。新田次郎さんがどうして﹁ある町の高い煙突﹄を書いたかといいますと、そういう 気象条件を鏑木はよく調べて、しかも日本で最初の気球を飛ばし、高層気象観測をやった。そのこ との意義は非常に大きいので、取り上げたのです。 鏑木はその結果、気象条件が大気汚染と極めて密接であることに気づき、政府の﹁阿呆煙突﹂と は発想を逆転させた方がいいと考えます。つまり低い煙突のために失敗したのであって、高い煙突 にすればいいと考えるわけです。しかし、日本は何しろ暴風、地震が必ずある。したがって高い煙 突を建てた場合倒れないか、あるいは建設途中で崩れたら大事故になるわけであります。すべて国 産の技術でやらなければならない。そこで相当な苦労をするわけですが二九一四年(大正三年)に、 政府の﹁阿呆煙突﹂とは全く逆の発想で世界最高の一五六メートルの煙突を、三一一五メートルの山 の上に建てた。有効煙突高四七八メートルです。彼が調べたところにより、日立の山の上では海に向かって吹く風が主方向なので、有害な汚染物は内陸部に来ないで海へ出ていく確率が大きいと考 えたのです。これが日本で最初の高煙突拡散の始まりであります。 後に住友金属鉱山の技師が、亜硫酸ガスの解決をどうしたらいいかと迷っていて、目立鉱山にも 行って調べているのです。その報告書を見ますと、この高煙突によって地上の汚染問題は八割方解 決したのではないかといっています。なにしろ世界最高の煙突で、風向が非常によかったので、周 辺の農村に有害物が落ちる確率が少なくなり、それで八割方問題が解決し、成功したのであります。 新田さんの小説にも出てくるのですが、鏑木さんという人は非常にすぐれた研究者だったのです が、大変なヒューマニストでありました。周辺の農民とよく話をして、被害の実態はどういうもの か、どういう木を植えたら被害が少なくなるかを農民と語らって、対策を農民と一緒に考えたと言 われています。関天州の﹃目立煙害問題昔話﹄という農民の指導者が書いた本がありますが、その 中でも鏑木先生という名前で非常な尊敬を払っていまして、これは鏑木の科学者としての生き方を 示しているのであります。 失敗は繰り返す ところで、これは日立の煙突が一本だったから成功したのです。戦後、高煙突拡散が失敗してい くのは、例えば大阪では数えられる高い煙突だけで一万本以上あるんです。そうなると煙突だけで は問題は解決しないわけです。それはともかく、その後、大変驚くべきことが起こるわけです。こ の高煙突が成功した次の年に、政府の鉱毒調査会は、目立よりももっとひどい被害を愛媛県の農村
に与えていた住友金属鉱山の四阪島に対して低煙突の勧告をしているのです。我々のような情報社 会に生きている者からいうと信じられないことですね。恐らく今だったら﹁日立の阿呆煙突﹂と言 って、テレビで国じゅうに低煙突の失敗と、政府がいかにあほうかという宣伝が伝わって、二度と そんなことはどの企業もやらないはずなのですが、当時は情報を知りたいと思っても、現地に調べ に行かないと情報が伝わらなかったのです。せっかく鏑木の高煙突が成功したはずなのに、次の年 に住友金属鉱山は、政府の鉱毒調査会の勧告を受けて、わざわざ今まであった煙突を壊して口径の 大きな低煙突を六本建てました。 これは大変なことになるわけです。四阪島の上がすっぽりと亜硫酸ガスで覆われるわけで、住友 金属鉱山の﹃別子開坑二百五十年史話﹄は、次のごとく書いているわけです。﹁いざこうして操業 してみた結果は、意外とも何とも形容のできぬことになってしまった。濃度の高い亜硫酸ガスの煙 は、仕事場はもちろん社宅へも襲、ってきて、間断なく人を悩ますのである。幾ら障子や戸を厳重に 締め切っても防ぎ切れない。寝ていても異臭に刺激されて目を覚ます。喉が痛む、咳く、胸を悪く する。夜となく昼となくそれが続くので、病気をしない所員は一人もいなかったくらいで、産児に も少なからぬ影響があらわれた﹂と書いています。杜員がみんな亜硫酸ガスでやられてしまう。つ まり労働災害です。当時、愛媛県で公害に反対する激しい農民運動が起こっておりまして、住友は そのために協定を結ばなければならないところへ追い込まれていたのです。その対策が、今度は公 害対策どころか労働災害を起こすという深刻なことになってしまったわけです。 そういうことがありまして、この時期、亜硫酸ガスの問題は社会問題として、どういう対策をと
るかが問題になっていました。 少し遡りますが、明治の終わりに日本最大の化学工場大阪アルカリという会社が、今の大阪市朝 潮橋の近くにありました。ここが銅を製錬する過程で亜硫酸ガスを発生させました。 そのころは今のユニバーサルスタジオのようなものはないわけで、周りは田んぼで、そのために 亜硫酸ガスで稲に深刻な被害が出たのです。滋賀県の地主の外村与坐右衛門は、大阪にも小作地を 持っていたのですが、明治の終わりに彼が小作人とともに、大阪アルカリを裁判で訴えるわけです。 日本で公害裁判が本格的に行われたのはこの大阪アルカリ事件です。この事件が大阪の控訴院(現 在の大阪高裁)で、公害裁判としては、日本で最初の原告勝訴の判決を下すのです。つまり大阪ア ルカリの方が悪い、大阪アルカリは有害物を出したことに責任がある。したがって大阪アルカリは 農民に対して賠償しなければいけないという画期的な判決を下すわけです。 ところがこれは政府を慌てさせたのであります。化学工場の責任を問うような裁判が行われてい くと、化学工業の発展を食いとめると考えたようであります。明らかに裁判所に圧力をかけたと思 われるのです。そこで大審院(現在の最高裁)に上訴されましたが、大審院は、この控訴院判決を 採用せず、大阪控訴院に差し戻します。この大審院の判決が、四日市公害裁判の判決が出るまでの 日本の公害事件の裁判の判断基準になるもので、化学工場とはそもそも有害物を出す性格を持って いるので﹁それ相当の設備﹂を持っているならば罪ではないとしました。これが日本の公害裁判の 基準になって、工場である以上は公害を出しても、﹁それ相当の設備﹂があればやむを得ないと言 う の で す 。
ところがここから先が、非常におもしろいのです。大審院から差し戻されたわけですが、大阪控 訴院は非常に勉強していたのです。あるいは弁護士が優秀だったのか、資料が無くわからないので すが、再審理の結果、名判決を出します。残念なことに、﹁それ相当の一設備﹂という判決を否定す ることはできないのですが、解釈を変えたのです。大審院は、それ相当とは常識的に考えて平均的 にやっていればよろしいということだったと思うのです。 ところが大阪控訴院は鏑木の業績を調べてきたのです。目立には一五六メートルの煙突があるじ ゃないか、公害を防止できた世界最高の煙突があると。そしてドイツにもそれに近い煙突があるで はないかと。ところが大阪アルカリは三三メートルの低い煙突で操業している。だから被害が出る のだ。大阪アルカリは﹁それ相当の設備﹂をしていないという判断を下したのです。つまり世界最 高の設備を﹁それ相当の設備﹂とよみかえたのです。化学工場で有害物を出す場合には、当時技術 的に考えられる世界最高の設備が﹁それ相当の設備﹂なのだと解釈を変えて、日本公害史上初めて 原告が全面的に勝つ判決を下すわけです。これは画期的なことです。ところがどうしたことか、そ の名判決の資料がどこかへ消えてしまい、大審院の﹁それ相当の設備﹂という言葉、だけが残りまし た。そしてそれ以降、日本の産業政策、あるいは戦後の高度成長政策では、﹁それ相当の設備﹂と は被害を起こさない世界最高の設備とは解釈しないで、平均的設備であればよろしいという形で問 題を処理していくのです。これは非常に不幸なことだったのです。 一九六九年、私は四日市の裁判で、最初の科学者証人として出廷しました。それまでこういう事 件で科学者が出る場合、鑑定人といいまして、中立の立場で原告と被告のニ一一口っていることのどちら
が正しいかを鑑定するために出るものでした。しかし私は初めて原告側の証人になって出たわけで す。裁判所はちょっと困りまして、裁判長が、先生、鑑定人でなくていいんですかといわれました。 つまり原告の立場に立つということは、ある意味でいうと企業と対立するわけで、いろいろな批判 が当然出てくるわけです。当時はまだ高度成長の初期でありますから企業側は居丈高で、これだけ 生産力を上げ、みんなの生活を豊かにしているのだから、公害なんか出したって構わないという態 度でした。ですからそういう企業に対して原告側の、つまり被害者側の証人になるというのは問題 が出てくることは間違いないので裁判所も心配されて、鑑定人でなくてもいいのですかと言われた のです。私は、いいということで、原告側証人で出たのです。以後、科学者が原告側の証人で出る のは当たり前になったのですが、私は、随分反対尋問で企業側から厳しくやられました。学会です と反対があってもまあまあという妥協もあるのですが、学会と違いまして、裁判における論争は胃 が痛くなるぐらいむちゃくちゃなことを相手に言われ、僕は泥棒かうそつきにされたような感じに なったこともあるのですが、すごい反対尋問をうけました。 このときに資料として大気汚染の年表を出したのです。な、ぜこういうのをつくったかといいます と、責任の問題です。たとえ公害対策や防止技術を知らなくても被害が起これば責任があるのです が、過去に対策があることを知っていたら責任がもっと重いわけです。論駁の余地なく責任が重く なるわけです。これまで日本で亜硫酸ガスの被害が発生し、それに対して、企業でいろいろな対策 がとられていたにもかかわらず、戦後の四日市コンビナートという、日本最高の技術を持っている はずの東洋最大のコンビナートで、亜硫酸ガスの公害を起こすのは論理的に許されないのです。私
は歴史的な事実をはっきりと示して、亜硫酸ガスの被害で、日本は戦前随分たくさんの事件を起こ し、しかも、裁判でも企業が負けている、と主張したのです。 世界最初の排煙脱硫 住友金属鉱山は、半世紀にわたる農民運動に直面して、とうとう世界で最初の排煙脱硫に成功す るのです。他の国の人が書いている亜硫酸ガスなどの大気汚染の歴史には間違っているところがあ りまして、戦後になって排煙脱硫の技術が発明されたように言われているのです。しかし、そうで はなく、日本では既に住友金属鉱山が、一九二九年(昭和四年)の段階で排煙脱硫、つまり煙の中 から亜硫酸ガスを抜く画期的な技術開発に成功したのです。そして煙突から出る亜硫酸ガス濃度が、 その時点で一九
OOppm
にまで落とすことに成功したのです。これで農民側もほとんど亜硫酸ガ スの被害がなくなったということで、一九三九年(昭和一四年)明治中期から始まった大闘争を終 結させて、住友金属鉱山は公害史上最大と言ってもいい、今のお金に直すと一O
O
億円ぐらいの賠 償金を払って公害紛争を終結させるのです。 愛媛県の農民の志が非常に高かった証拠に、もらった賠償金を個人に配分せず、それで女学校を つくり、中学校をつくり、農学校をつくり、農業試験場をつくります。公害で病気になったり、所 得が少なくなったりしてひどい目に遭ったのですが、賠償金を私のものにしないというのはすごい 志だったと思います。半世紀もつづけた闘争の成果を全部公共施設の建設に捧げていますし、大正 一五年には﹃東予煙害史﹄という大変立派な記録も残しています。 四住友金属鉱山は、煙突から出る亜硫酸ガス濃度を一九
OOppm
まで落とすことに成功したので す。当時は大体二万ppm
、あるいは五万ppm
で出ているところが多かったわけですから、これ は画期的な成功と言っていいと思います。これにはエピソードがもう一つありまして、これだけ亜 硫酸ガスを落としますと、当然でありますが硫黄がどんどん回収されるので、その処分に困るわけ です。亜硫酸ガスを回収していくわけですから、廃棄物がどんどんたまっていくわけです。それで どうしたかというと、住友金属鉱山はそれを処理するために住友化学をつくるわけです。住友化学 は公害関連産業なんです。今では住友化学の方が住友金属鉱山よりずっと大きくなるのですが、住 友化学はこれを利用して硫安をつくり、一挙に大企業に成長していくわけです。硫安をつくり、さ らに当時は軍事産業が起こってまいりますから、そういう形で住友化学は成長するわけです。です から住友の杜史を読みますと、﹁災い転じて福となした﹂と書いてあります。転んでもただでは起 きないわけで、結局公害問題でリサイクリングした物質をうまく使って住友化学は成長していくわ けです。つまり、足尾銅山のように権力で農民運動を弾圧するのでなく、新しい技術を開発した結 果が、かえって企業の発展に結びつく。戦後の自動車産業が排ガス規制で成功したのと同じような 成果が住友化学の誕生になったのです。 それはともかくとして、この一九OOppm
が大変重要なのは、これが既に一九一一九年(昭和四 年)のレベルで日本では達成しているということです。ところがそれからコ一三年後一九六二年にば い煙規制法ができました。四日市コンビナートで非常にひどい被害が起こるのですから、日本最初 の大気汚染防止法である﹁ばい煙規正法﹂を一九六二年につくるのですが、このときの規制値が何と二二
OOppm
です。僕は非常に憤慨したのですが、何とナンセンスな法律をつくるのだと。戦 前でさえできたことをそれから何十年もたつて、深刻になっている大気汚染を防止するのだといっ て戦前よりもルーズな基準をつくれば、企業としてはそんなに苦しまないでも対策をとり得るわけ です。しかも戦前の段階に比べればずっと工場が集積しているのですから、こういうルーズな規制 値を出してしまうと被害はものすごく深刻になるのです。 法律をつくって困るのは、法律の基準が弱いと、そこまで汚してもいいということになる。法律 ができたためにかえって公害が広がるという経験を、日本は何回も重ねているのです。そのいい例 がばい煙規制法です。いかに日本の官僚が過去の歴史を知らないか。過去に日本の農民と企業がど れだけ苦労して、またそれでどれだけ被害者が泣いて、その結果として開発した技術を継承できな いか、あるいは対策を継承できなかったかを示しているのです。 私は裁判で、亜硫酸ガスの被害は既知のことであったと、しかも日本は戦前に世界最高の対策を とっていた。例えば世界最高の煙突をつくったり、どこの国もできなかった排煙脱硫という装置を つくったりした。そういう意味でいうと、戦後高度成長の時期にそういうものを継承しておれば、 こんなに深刻な被害は起こらないはずだと。それをわからせるために、証言をしました。これは効 果がありました。結局どう抗弁しようとも、戦後の企業はいかにサボっていたか、いかに無責任だ ったかを、戦前の公害対策の歴史が示しているのです。 四日市の裁判は重大なものです。だから、私は、ちょっとでも証言を間違えたら大変だと思い、 住友の社史は持っているのですが、それよりも詳しい資料が住友に残っていないかと考え、もしあったらぜひ欲しいと住友金属鉱業の社長に手紙を出したんです。ところが社長から返ってきた手紙 によれば、先生がおっしゃるように、確かに住友金属鉱業は戦前非常にいい技術開発をやって、今 から思えば公害対策を一生懸命にやった優良企業だと見られる点もあるが、半世紀にわたって農民 を苦しめたと。その事実も隠せないというので、戦争が終わったときに、どうしようかと思ったと。 結局、占領軍に見せないために焼いたというのです。戦前の公害に関する資料は、全部焼いてしま いましたので、裁判で先生がお使いになる資料は公刊されている﹃別子開坑二百五十年史話﹂で結 構でございますと言ってきたんです。安心して証言はそれでやったわけですが、それだけではやは り研究者として納得がいかなかったので、裁判が終わってからですが四阪島に行きました。 四阪島は四国本土から離れた無人島だったところで、水も何もないところです。毎日水船を送っ ているような不便な無人島を公害対策のために工場にしたところですが、そこに迎賓館がありまし た。迎賓館で何気なく中の本棚をのぞいたら、住友の技術者がつくった原資料を発見したのです。 大変立派な資料でありました。本社としては全部焼いたと認めていましたし、現場の人もこれがど れほど貴重な資料かを認識しなかったのでしょう。こんなところにほこりにまみれて残っていたの かと大変驚きました。ちょうど僕は四阪島から新潟水俣病の裁判に出なければならなかったので、 この資料を持っていくとなくなるんじゃないか、なくなったら日本の公害史研究に禍根を残すと思 って、用事があって旅行しなきゃならないから、せっかく見つけたけれど今日は持って帰らない。 そのかわりに僕のところへ送ってください。しばらく使わせてもらってから返しますからというこ とで、その日は持って帰らなかったのです。
そこで後日、住友の技師が僕の研究室に持ってくるという約束だったのですが、いつまでたって もその資料を持ってこないんです。僕はいらいらしてきで、これは何とかコピーをとって残したい と思っていたものですから、また社長あてに、実はこういう経過で四阪島で見つけたけれど、あの 資料を貸してほしいといいました。しばらくたってから総務課長が研究室に来ました。これを見て くださいと。杜としての﹁お願い﹂というのが今も残っているのですが、それを見ますと、この資 料は住友にとっては非常に名誉なことをやったという資料でもあるが、よく読むと、住友にとって 不名誉なことも書いてあると。だからこれを公開はしたくないと。ですからこの資料は泉屋文庫と いう住友家の資料館があるので、そこへ保管してしまいます。公開するわけにいきませんというの で す 。 ただし、そういうことを重役会議で決めたら、地元の技師長を初めとして技術者から猛烈な抗議 が来たと。宮本という研究者がわざわざ四阪島まで来て見つけたものではないか。我々がこれを宮 本に見せると約束した。それは科学者同志の約束なので、重役会がそういうことを勝手に決めて見 せないなどということにするのは困ると。それで重役達は困ってしまい、じゃあ二四時間だけ貸そ うという妥協案をつくって持ってきたのです。それで二四時間お貸しいたしますというのです。当 時はコピ l 機械が今と違い、能率が悪く、コピーするのが大変なんです。大阪市大の図書館職員が 苦闘してくれたのですが、やっとコピーをとりまして、二四時間後に返したのです。 さて、何を言いたかったかというと、公害とはそのぐらい企業にとっては責任が重いのです。だ から戦前の済んだ話なのに、それでさえ原資料を公開したくないのです。ですから公害の研究はお
くれていました。なぜかというと、足尾鉱毒事件にしても、深刻な社会問題になった事件について いえば、企業側はどうしても資料を秘密にしたがるのです。重要な資料をなかなか見せない。です からどうしても企業側にとって都合のいい資料しか公開されないので、公害の研究が本当の意味で 進まなかったのです。これは今日もなおそうだといってもいいと思、つんです。例えば滋賀県でも地 下水汚染があちこちで起こっているのですが、本当にその原因を追求し、そのための資料を見せて もらおうと思いますと、まだなかなか大変だと思います。 さて、最後におちをつけ加えて終わりたいのですが、私が対象とした四日市コンビナートの中に、 石原産業というのがありました。これは大気汚染だけではなく、深刻な水汚染も発生させました。 田尻宗昭さんの﹁四日市・死の海と闘う﹄という感動的な岩波新書に詳しく書いてありますからご らんいただきたいと思いますが、濃硫酸を四日市港に流していました。四日市港の中に魚を入れま すと、、ほっとすぐに死んで骨だけになるぐらい有害な排水を流し、大気汚染も発生させていました。 それで四日市公害裁判のときの被告になったわけです。そのときの僕の証言に、厳しく激しく食い ついてきた石原産業側の大塚弁護士、後に最高裁判事になった人ですが、その弁護士が僕に対する 反論で、さっきいった大審院の判決を出しました。﹁先生、石原産業はそれ相当の設備をしています。 ですから罪ではないんです。これは日本の大審院が決めた一種の基準のようなもので、石原産業は それ相当の設備をしており、今日、先生に追求されるような責任の問題点はありません﹂と言われ たのです。僕は戦前の公害年表の資料を出していましたから、その後、大阪アルカリは負けたんだ というようなことを言ったのですが、全然通じないわけです。そのとき、非常に残念なことに論争
はそこまでで終わったのです。 僕の証言と反対尋問が終わって半年ぐらいだったと思いますが、突然
NHK
大阪放送局から電話 がかかってきました。大阪放送局のプロデューサーが、﹁大阪アルカリ事件を取り上げてみたいと 思うのですが、大阪中を探してみたけれども大阪アルカリという会社がない。先生、大阪アルカリ はどこへ行ったのでしょう﹂と言うのです。僕もそのときは、ああ、自分は研究者だけどいいかげ んなものだと思ったのです。大阪アルカリ事件を裁判では引用したのですから、当然、大阪アルカ リ会社が今どうなっているかを知らなきゃいけないはずなのですが、知らなかったのです。ええで そうか困ったなといっていたら、彼が、﹁そういうのはどうして調べたらいいんでしょう﹂という から、﹁法務局へ行ったらどうか﹂と言ったのです。 法務局で調べて、驚いたことに、大阪アルカリは石原産業なのです。大阪アルカリと石原産業海 運が合併して、石原産業になっているんです。僕は法務局の登記簿でそれを見たときに、しまった と思いました。反対尋問のときに、大阪アルカリはどこへ行ったか知っているかと大塚弁護士に聞 いたら、向こうは知らないに決まっていますね。あなたの弁護している会社ですよと言ったら、き っと彼は卒倒するほど衝撃を、つけたんじゃないかと思います。日本の歴史上、公害裁判で二回も負 けるのは屈辱ですね。私は、それ以来、ゼミの学生の卒業の際に言うのですが、会社に入ったらま ず社史を調べろと。自分の会社が過去にどんなことをしたかをわかっていないと、石原産業のよう に屈辱的な失敗に二度遭うと。 石原産業は大阪アルカリの事件があった会社を受け継いだものですから、戦前には高い煙突を建てていたのです。それが地震か台風どちらかで壊れたものですから、二一三メートルの低い煙突にし たのです。すっかり戦前の歴史を忘れてしまって、裁判に負けてから、慌ててまた高い煙突を建て るのです。しかし、高い煙突だけでは問題を処理しきれなくて、四日市公害事件はその後も起こる のです。私はそういう意味では歴史を軽く見てはいけないと思うのです。日本の資本主義の発達の 中で生まれた幾つかの教訓はちゃんと受け継いでいかなければならないのです。 先の鏑木は、その後、宇都宮高等農林学校(今の宇都宮大学農学部)の教授になります。久原房 之助の約束どおり、目立鉱山にいたときにドクターになります。﹁末は博士か大臣か﹂と言われた ぐらい、博士号を取るのは戦前は大変なことでしたから、勉強家であったと思うんです。その頃、 大阪の近代化を進めた関一(せきはじめ)市長は、鏑木を引き抜き、大阪の公害対策に当たらせた いと考えます。戦前の大阪市は立派な行政をやっていまして、日本最初の常時気象観測をやったよ うなところですから、関も公害対策に熱心で、どうしても鏑木が欲しい。しかし、鏑木は、実務に 携わるよりも研究したいので、宇都宮高等農林学校に行きたいと関の勧誘を断るのですが、関はそ れでも勧誘をやめないで、別に大阪市に勤めなくていもいいから、留学の成果を大阪市の行政に生 かしてほしいというのです。彼は留学して帰ってきましてエコロジーという留学の業績を発表し、 これが大阪市衛生試験場の教科書になります。その教科書を使って、私の共著者で、日本における 大気汚染の先駆者であった元京大教授庄司光が生まれたと言って良いと思います。すぐれた科学者 の業績は継承されていくことがここにも証明されています。 ( 宮 本 憲 二
⋮
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Y農業問題。
環境を考える時に農業は二つの相反する側面から論じられています。一つは環境に対する負荷として、もう一 ⋮つは環境の保全者としての側面です。負荷としての側面である農薬問題はある意味では言い尽くされ、代替技術⋮ ⋮の開発等も盛んです。一方、保全者としての多面的機能についてはまだまだ認識が少ないように感じられます。⋮ 日それは農薬多量使用を前提とした多面的機能など意味を持ち得ないから、多面的機能自体が負荷の問題を解決し日 ⋮た上での議論にならざるを得ないからだと思います。さらに、農業の工業化からの脱却か、更なる工業化が議論⋮ 日になっています。またスロ l ・ フ l ド の 考 え 方 も 貴 重 な 一 石 を 投 じ て い ま す 。 ⋮ ただ一番大切なことは、植物を相手に何をすることが最善なのかということではないでしょうか。植物を見る⋮ 日場合には、物としてみる場合と生き物としてみる場合がありますが、子供たちは何の疑いもなく、植物を生き物日 日として見ています。大人になるにしたがってその見方を忘れて、植物を物のように捉えてしまう傾向が出てきま日 ⋮す。また栽培植物として野菜は柔らかいほど食べやすくて良い物だと、人聞を中心に理解しようとします。しかし、⋮ ⋮植物は本来人間の為に存在するのではなく植物そのもののために存在するのであり、野菜といえども生き延びる⋮ 日ために人間の想像を絶するような努力をしています。葉の硬さも、害虫や病原菌から身を守るためには必要なこ日 ⋮となのです。自然の中で培われてきた植物の知恵を人聞が十分に理解することが求められています。植物に限ら⋮ ⋮ず生き物を育てることは、生き物の立場で物を考えることです。生き物の立場とは、自然の立場です。自然の立⋮ 日場で考える。これが農業問題における環境教育の始まりです。 ( 木 島 温 夫 ) 日第二章
地球・地域環境問題と環境教育
l
酸性雨と湖沼(琵琶湖)
の汚濁
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一環境教育はなぜ必要か 環境教育の目指すところは何か、といった類の質問を受けることがよくありますが、このとき、 ベオグラ l ド憲章(一九七五)にうたわれている、川環境に関する行動の最終目標一人間と自然の 関係、人間と人間の関係を含めて、すべての生態学的関係を改善すること、川環境教育の目標一環 境とそれに関わる問題に気づき、関心をもっとともに、当面する問題の解決や新しい問題の発生を 未然に防止するために、個人および集団として働くための知識、技能、態度、意欲、遂行力などを 身につけた世界の人々を育てること、が最も基本で大切であると答えています。 環境問題が世界のあちこちで顕在化し始め、一九七二年にストックホルムで聞かれた﹁国連人間 環境会議﹂以来、二O
O
三年の﹁持続可能な開発に関する世界首脳会議﹂(ヨハネスブルグ・サミ ット)に至るまで、環境問題の解決について多くの議論がされてきました。環境教育の重要性もま た、一九七五年にベオグラ l ドで聞かれた﹁国際環境教育ワークショップ﹂以来、一九七七年の﹁環 境教育政府開会議﹂(トピリシ会議)、一九九七年の﹁環境と社会一持続可能性に向けた教育とパブ リック・アウエアネス﹂(テサロニキ会議)などの多くの国際会議で強調されてきました。わが国 においても、一九九一年の﹁環境教育指導資料﹂(一九九一年中学校・高等学校編、一九九二年小 学校編)、一九九九年の中央環境審議会答申﹁これからの環境教育・環境学習 l 持続可能な社会を めざして﹂などにおいて環境教育の一層の充実が求められています。このように、約三O
年にわたって、環境科学・環境教育の理念やその重要性は国内外の会議等を通して世界中で繰り返し議論さ れてきました。しかし、環境問題はますます深刻化し、地球上の生命の生存基盤が脅かされている といっても過言ではありません。結果として大量生産・大量消費・大量廃棄に代表される現代の技 術文明を支える教育が行われてきたといえば言い過ぎでしょうか。その過ちを率直に認め、若い世 代や環境問題にあまり関心を持っていない、環境教育に接する機会の乏しかった人々に対する環境 教育の重要性を認識し、環境教育のカリキュラム・教材を開発し、そしてそれらを学校教育、生涯 学習に活かしていくことが重要な課題です。環境問題の解決は、全ての人が環境・環境問題に関心 を持つことが第一歩です。環境教育の基礎理論・歴史等について、最近分かりゃすくまとめられま したので参照してください H O 二 地 球 環 境 問 題 地球環境問題は、明確に定義されているわけではありませんが、﹃環境白書﹂(二
OO
一 一 ) に は 、 オゾン層の破壊、地球の温暖化、酸性雨、森林減少、土壌劣化・砂漠化、海洋汚染、といった問題 が扱われ、生態系破壊、健康被害、ひいては人類存続危機につながります。それらは、問題による 被害、影響が発生原因国のみならず国境を越えて、地球規模にまで広がる環境問題という面と、問 題の解決のために国際的な取り組みが必要とされる開発途上国における環境問題という面を持って い ま す 。 これらの環境問題は、例えば化石燃料の燃焼は地球温暖化の主役である二酸化炭素の発生源であると同時に、酸性雨の主たる原因物資である二酸化硫黄や窒素酸化物の発生源であり、これらが、 森林破壊、さらには野生生物の減少といった問題も引き起こしているように、個々に独立した別個 の問題ではなく、相互に複雑に関連しており、問題群として捉えるべきでしょう。先進国と開発途 上国との利害関係、すなわち南北聞の対立もこれら地球環境問題と大きく関係します。 こういった環境問題が顕著になってきた背景として、科学技術を主体とした今日の文明のあり方 が問われているといっても過言ではありません。すなわち、科学・技術の進展は、特に工業先進国 と呼ばれる国々の高度経済成長を促進し、人々に生活の便利さや豊かな物質をもたらした反面、大 量生産・大量消費・大量廃棄型社会が構築され、環境への物質の過剰負荷が地球/地域環境問題を 急激に進行させてきました。これら原因物質の発生源という視点からみますと、それぞれの国や地 域の社会構造や個人の意識・行動が重要に関係します。すなわち、これらの変革なしには環境問題 の解決はできないでしょう。ともすると、科学や技術が勝手に進歩し、人聞が追従しているような 錯覚に陥ります(現在の世界はそのようにみえます)が、あくまで科学や技術も人聞が生みだした 産物です。このことは、人間は本質的には現代文明を見直し、科学技術を制御することができるこ とを意味しており、ここに環境問題を解決できるかどうかの鍵があると思います。 一方、開発途上国では、急激な人口増加や貧困の問題と依然戦い続けていかなければならない状 況にあり、飢え、文盲、医療や児童保護の貧しさ、生態系の継続的破壊などの根源を断つためには 生活水準の高揚が緊急課題です。国連開発計画(一九九二)は、地球規模での所得と経済の不均衡 について、世界の富の約八三%を、人口にして二O%の工業先進国の最富裕層が独占し、残り一七
%を八O%の人口が分け合っていると報告しています。﹁環境と開発に関する国連会議﹂(地球サミ ット、リオ・デジャネイロ)のアジェンダ一一一にうたわれているように、人類の基本的欲求を満た し、全人類の生活水準を向上させ、生態系を保護、管理することは緊急課題ですロ o この目標を実 現するためには、開発途上国における資源・エネルギー消費の増加、それに伴う廃棄物の増大はあ る程度必要でしょう。しかし、地球における環境容量、資源は有限であることを考えますと、先進 国においては資源・エネルギーの消費を削減することが不可欠であり、このことはまさに大量生産・ 大量消費・大量廃棄型社会の見直しを意味しています。 環境科学と環境倫理 環境問題を解決し、地球環境の保全をめざすことは、現在世代に与えられた大きな課題であり、 それを全うするためには、真の意味での環境科学の発展が必要であると考えています。環境問題を 扱った研究が近年多く行われるようになってきましたが、環境問題の個々の要素について、その因 果関係を単に追求するという立場に立っている場合が多くあります。しかし、環境問題は常に非人 為的(自然的)要素と人為的要素(社会的・人文的)が絡み合って発生することから、その解決に は自然科学と社会・人文科学を総合した学際的取り組みによってのみ可能性がある、というよりも むしろこれらの学問を統合した新しい形の研究方法の確立が必要になります。それによって、環境 現象を把握するとともに、環境問題の解決に最も適した方法論を研究・開発していくという環境科 学の使命が全うできると思っています。
環境倫理観も環境教育を進める上で重要な 示唆を与えます。加藤は環境倫理学の主張と して、付自然の生存権の問題一人間だけでな く、生物の種、生態系、景観などにも生存の 権利があるので、勝手にそれを否定してはな らない、日世代間倫理の問題一現在世代は、 未来世代の生存可能性に対して責任がある、 日地球全体主義一地球の生態系は開いた宇宙 ではなく閉じた世界である、とまとめていま す向。いずれも環境問題の解決、自然環境の 保全、環境教育の進展のベ1スとして示唆に 富んだ指摘です。しかし、こういったごく当 たり前とも思える倫理観を、改めて主張しな ければならないのが現代です。そういった意 味で、大人も子どもも含めた全ての人が環境・ 環境問題に関心を持ち、学習を通して理解し、 さらに環境問題の解決、環境保全に向けた行 動につながっていくことが求められます。そ 沈滞 鎗送・変換
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-放出 H+,S042.,N03 受容量ー (土自由/植生、種水、器物・建造物.人体7Jど) 図2.1酸性雨の大気化学プロセス 50,:=1量化砥貰.H,50.:寵..50.':fi電磁イオンH"'水蕪イ才ン 問司:蜜膏酸化物.HNO,翻櫨.NO,硝酸イオン 出 一 放 一 の 一 貫 一 物 一 圏 一+ll
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して、それらを支援する環境教育の方法論に関する研究の進展が不可欠です。 四 酸 性 雨 問 題 酸性雨は近年耳慣れた環境問題ですが、どのような問題でしょうか。この間題を理解し、解決し ていくために、まず、原によって描かれた図