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ドキュメント内 滋賀大学で環境を学ぶ (ページ 87-102)

問総務庁行政監察局編︑一九九O年︑﹃水資源の開発・利用の現状と問題点﹄︑大蔵省印刷局︒

同琵琶湖環境権訴訟団・琵琶湖淀川汚染に反対する大阪府民連絡会議編︑一九七七年︑﹃水は誰のもの

か﹂

︑一

二一

書房

︻読

書案

内︼

琵琶湖の︑特にその生態学的側面については鈴木紀雄﹃琵琶湖のほとりから地球の未来を考える﹄(新

草出 版) を︑

アメリカにおけるダム政策の転換については︑公共事業チェック機構を実現する議員の会編

﹁アメリカはなぜダム開発をやめたのか﹄(築地書館)を︑またシミュレーションによる地球の未来図につ

陽一監訳)﹃限界を超えて﹄(ダイヤモンド杜)を推薦します︒いてはドネラ・メドウズ他(茅

⁝ コ ラ ム 人

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地域生活と水│集落を流れる水路と﹁力ワト﹂

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滋賀県の農村部を歩いていると︑写真のような光景をよくみかけます︒家々の軒先を小さな水路が流れ︑通り日

⁝抜けていく││ごくありふれた光景です︒この当たり前の景色の中に︑実は地域の環境問題にかかわる重大な視日

⁝角が隠されていることにお気づきでしょうか︒

写真の中央に︑水路に面した石段が写っています︒家今から水路に降りるこの石段︑滋賀県では﹁カワト﹂﹁ミ⁝

日 ズ パ

﹂ な ど と 呼 ば れ て い ま す

︒ こ れ は 一 体 何 の た め に 設 け ら れ た も の だ っ た の で し ょ う か

地元の方に聞けば︑今は農具の泥を洗い流すのに使う程度とのこと︒しかし︑近くにいた七O代のおばあさん日

⁝は︑﹁昔は毎朝︑みんなここで顔を洗っていたのに:・﹂といいます︒今見れば︑﹁ドブ﹂と呼ばれそうな汚れきっ⁝

⁝ た 溝 で す

地域で聞き取り調査をしますと︑﹁カワト﹂で洗濯や米とぎ︑風呂の水汲みをしたという声が続々出てきました︒日

⁝それは思ったほど遠い昔のことではなく︑昭和三0年代まで普通にみられた光景だったといいます︒井戸がある⁝

⁝家でも︑この﹁カワト﹂で水を汲む方が楽だったというお話でした︒下流の家々のためにも︑﹁水路には決して汚⁝

日れた水を流してはならない﹂という強い決まりがあり︑おばあさんがお嫁に来たとき︑お姑さんから最初に教わっ日

⁝たのもこの決まりだったそうです︒

このようにして地域全体で守られ︑利用されてきた水路が︑今みるような姿になってしまった原因は何だった⁝

⁝のでしょうか︒この点については︑上流の水田から化学肥料・農薬が流れ込むようになったことに加えて︑特に⁝

日昭和三

0

年代の﹁上水道の普及﹂をあげる声が多くありました︒蛇口をひねるだけで水が出る水道は大変便利な日

⁝ものです︒しかし同時に︑水道がもたらしたものは︑生活排水の急激な増加でした︒これまでの生活排水の処理は︑⁝

⁝穴にためて肥料として田畑に還元するものでしたが︑やがてそのような処理では追いつかなくなります︒この当時︑⁝

⁝上水道はできても︑下水道はまだ整備されていませんでした︒そこで︑人々があふれんばかりの排水を捨てる場所⁝

⁝にしたのは︑かつては﹁絶対汚してはいけない﹂とされていたこの水路だったのです︒ここで︑水路をめぐる価値⁝

⁝観 が一 八

O度

変 わ っ て い る こ と が わ か り ま す

水道が設置された時期や︑村をとりまく事情は各地で異なっていたでしょうか︑同様の水質悪化のプロセスは︑日

⁝日本の多くの地域で経験された現象であったと考えられます︒このように︑普段何気なく目にしている景色の中に⁝

⁝ も

︑ 地 域 の 環 境 に か か わ る 重 要 な 主 題 を 見 出 す こ と が で き ま す

(佐 野静 代)

第五章

琵 琶 湖 の 食 文 化 一 水 が 育 ん だ 食 文 化 稲はアジアで生まれ︑アジアに最も適した農作物です︒稲は水がないと育たない︒水の豊富なア ジアモンスーン地帯だからこそ水耕稲作が発展してきました︒水のあるところには︑魚も棲んでい ます︒川や水田︑池や湖で魚は育つ︒米と魚の組合せは︑東アジアから東南アジアにかけてみられ る食文化です︒水の豊富なアジアで生まれ︑育ってきた﹁米と魚のセット﹂は栄養的にも優れた組

合せです︒このことは︑一万年近くも人々の命と暮らしを支えてきた実績から証明されています︒

日本は照葉樹林文化圏の一部で︑食生活は東アジアと共通した特徴を持っており︑典型的な米と 魚の国です︒日本は夏場︑亜熱帯並みの高温・多雨になり︑稲の生育に適しています︒水稲は集約 農法が可能で︑反当り収量が多いので︑狭い島国の日本にとって︑きわめて貴重な作物となりまし た︒中でも琵琶湖周辺は︑米と淡水魚の組合せが無理なく出来あがり︑典型的な米・湖魚食文化圏 が形成されています︒大津の粟津湖底遺跡からは︑種実類や鹿︑猪の骨とともに︑湖魚の骨やセタ シジミの貝殻が大量に見つかり︑琵琶湖の魚や貝類が︑古くから人々の食卓にのぼっていたことが 確認されています︒また琵琶湖の周りには︑弥生初期の稲作跡が守山︑野洲︑長浜などで発見され

ており︑古くから米を中心とする農業が営まれてきたこともわかっています︒

滋賀県は千メートル級の山々で固まれており︑その真中に琵琶湖があります︒気候の特徴は︑湖 北は豪雪地帯を抱える日本海型気候︑湖南は瀬戸内式気候と変化に富んでいます︒夏場は多くの雨

が降り︑冬には大量の雪が降って︑水に恵まれた地域です︒山林︑平野に降った雨や雪が大小さま

ざまの川となって︑琵琶湖に流れこみ︑魚介類を育んできました︒野洲川︑日野川︑愛知川︑姉川︑

安曇川など大きな川の流域には︑肥沃な扇状地が生まれ︑それらは水田稲作の最適地となり︑穀倉 地帯となっていきました︒また滋賀に注がれた豊かな水は︑滋賀の発酵文化を育て︑ナレズシや酒 を生み出してきました︒滋賀では︑正月やおこない行事︑春祭り︑秋祭りに︑お米と湖魚が融合し

たナレズシが必ず登場することは︑﹁米と魚の食文化﹂であることを象徴的に表しています︒

琵琶湖周辺は稲の適作地であり︑おいしい米がとれたので︑滋賀は古くから近畿の米倉として高 く評価されてきました︒滋賀の集落は︑ほとんどが稲作を基盤にした農村集落から形成されていま す︒水の引ける所はことごとく水田になり︑耕作面積のほとんどが水田となっています︒山間地で もまとまった平地は水田となり︑傾斜地も棚田にして︑米作りをしてきました︒滋賀の農業は︑米 作りを中心に推移してきましたので︑畑は他府県に比べると少ない特徴があります︒しかし暮らし

に必要な野菜や豆︑芋は自給してきました︒

二 滋 賀 の 食 生 活

滋賀の食材に関して特徴をまとめてみると︑第一に照葉樹林文化圏に特徴的な稲作が基本にあり︑

米の飯・餅・因子文化が築かれています︒第二の特徴は︑琵琶湖の淡水魚貝類に恵まれ︑独特の湖 魚食文化が築かれています︒とりわけ淡水魚のナレズシ︑淡水魚の煮物に関しては︑その種類の豊 富さからいって︑世界的な淡水魚食文化圏といえます︒琵琶湖という閉鎖系の中で魚員類が進化し

続け︑独特の固有種が生まれ︑それらは琵琶湖の周りの人々に愛され︑伝統食の中心となってきま

した︒第三点として滋賀は豆類︑野菜・芋類も豊富にとれます︒これらは自給型栽培が中心であり

ました︒大根︑かぶ類は在来種が多く︑伊吹大根︑山田大根︑近江かぶ︑入江かぶ︑万木かぶ︑日

野菜などは滋賀独特の品種です︒これらは米原︑彦根︑草津︑大津の湖岸の砂地で多く栽培されて

きました︒第四点として︑滋賀は豊かな発酵食品を育てあげてきました︒とりわけ米と湖魚が結び

ついた﹁ナレズシ文化﹂は琵琶湖周辺に広くひろがっています︒

正月や祭︑結婚式などハレ日の食は︑日常の食とは違って︑祝い︑祈り︑助け合い︑交友︑交流

を目的とする文化的な食です︒滋賀県には︑五穀豊鏡を願う﹁おこない﹂などの伝統が豊かに残っ

ており︑何世代にも渡って継承されてきました︒これらの行事にともなう伝統食が滋賀には豊かに

残っています︒農村の神杜の行事は農耕儀礼であり︑稲作の営みと連動しています︒それらの行事

は村人の精神的支えになり︑共同体の紳を深める力となってきました︒水神信仰︑龍神信仰︑野神

信仰︑山神信仰を育て︑同時に敬慶な仏教信仰を育てあげてきたといえます︒

三琵琶湖の固有種に支えられた独特の食文化

琵琶湖は南北六

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キロ︑最深部は百メートルもあり温度域が広い淡水湖です︒この生命を育む豊

かな湖の中で多様な魚員類が誕生してきました(表

l )

︒琵琶湖の魚は本来︑アジア大陸由来ですが︑

琵琶湖という閉ざされた系の中で魚貝類が独自の進化をとげ︑固有種が生まれてきました︒ニゴロ

ブナ︑ゲンゴロウブナ︑セタシジミ︑ホンモロコ︑ピワマス︑イサザ︑イワトコナマズなどは琵琶

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