資
料
女
史
(10)〔講、響,δ二黒欝〕
K. C. Hurd−Mead,M. D.認識
第10章 第18世紀の鼻血
第1節 第18世紀の文化
博 人i澤
ヒロ ト 第18世紀は概して言へば,讐墨弓術の:方面には大いなる進歩を見ないと云ふ難に於て,歴史家 の皆一致する虞である。山伝や電氣に於て大いなる獲見があり,又紡績機械,綿繰り機械,一宿機 閣の如き機械上g大襲明はあったが,讐學に於ては次の世紀に飛び込むべき位置に,漸やく達し得 たに過ぎなかった。第18世紀は著明なる文頭者を島島に出現せしめ,大面肇者をドイツと佛國に 出した。 三 自由思想の飯高が各所に起って・政治の向上に資した。世界の堆圖はつぎつぎと色を攣へ・領圭 は將棋の駒の如くに動かされた。スペ■ンと■タリーはその瞬き所有物をフランス,t一ストリ トァ,オランダに奪はれ,ポーランドは初めぼ三部に分割され,次ぎ1は全く地圖上から抹殺された。 英國は印度とアフリカの大部分を獲得したが,そのアメリカの領土を・うしなった。.そしてフランス はカナダをうし准ひ,本國は職争の巷と化した。ロシヤは大國民となり,スイスは共和國となり,オ ランダは猫立した。しかしギリシャは’トルコのために殆んど窒息された。ベニスは自主灌を失ひプ ロシャは地位を確立して,ドイツ全土に雄飛し初めた。英國の海軍はその商業を保護する爲めに海 上の権を握り,この世紀の絡砂には,欧洲諸國の國境は世界大職前の欣態に大門納まってしまった。 英國の文豪は大抵男子であった。『Defoe, Pope, Addison, Swift, Gibbon, Burke、 Goldsmith, Dr. Johnson, Robert Burns, Fielding, Sterne, Smollettである。女子の丈三者はSarah Fielding, Fanny Burney, D’Arblay, Aanna Moore, Mary Wollstonecraft Godwin等であるQ 旅行記を書いた女史蓬の内に,Mary Godwin, Lady Montagu, Mariana Starkeが居る。 v・ つれも其の著作中に,道路の悪V・こと,盗賊の跳梁せること,宿屋の不潔なること,設備の不完全なこと,食料の不足なこと等を墨げて居る。同行者の申には,食器を携へ或は食物寝具までも,携 帯して族行ずる者が多かった。ロンドンからb一マに2二間を要し,ロンドンからミラノに到るに
は9日間を要した。
されど衛生思想は入智の二三と歩調をあはせて,年・々に改善されて行った。三三も前世紀ほどに 猛烈ではなく,流行病もそれ程に威を逞しうしなかった。只天然痘が各地に蔓延し,■ンフルェン ザ,腸チフス,マラリアが一般に流行した。 Lady Montaguは諸入に魁けして衛生學を研究し,學校病院等の監理改善を企圖し,謄病院及・ び刑務所の監理に改良を加へようと苦心した。この種の改良論者に,二二にてはElizabeth Fry (1780一一1859)あり,フランスにはRoland夫人(1793年死)とNecker夫入(1740−1794)が居 った。その人々の貧民と縞入の朕態を改善しよういふ努力は散在性であったが,彼等は後の女子参 政権運動及女子高等教育運動の先騙者であった。よい道路,急速な運輸,郵便制度,薪聞が,他の 必要な問題であった。 Madame de Sta61(1766−1817)の如き作家達が,女子の地位向上のためにその才能を活用し たならば,他の:方面の偉大な改善が同様に行はれただらう。女史曰く「一般女子の1映窯は.自ら義 侠の精耐を抹殺して居ることである。要するに女子の天職は,男子を助けて善良なる者たらしむる にある」。ボルテールもルツソーもこれには賛成の意を表した。併し.Condorcetと其の夫人は,,男 女性の相異が男子の進歩と同様に女子の進歩に蓮命的の屯のであって,致し方ないと言って居る。 Micheletは言ふ,「或る時代の眞の二皮は,その時代の個人の歴史ではなくして,その時代の團 磯の活動史である。たとへば十字軍の如き唱,晶晶心理の結果に外ならなかったのである」と。そ れと同じく女子を奴隷の境涯から解放させるには,18世紀の政治的革命を要したのである。女子 の自由獲得と共に,やがて高校や病院の改良,出居や衛生の改善が生れ出でたのである。若し女子 が忍從して居ったらば,何一?も改善の道は開かれなかったであらう。 自叙傳,H記,書翰文が多く招けにされたので,當時代の有識婦人の家庭生活を窺ひ知ることが
出法る。疹orothea Herbertはアイルランド北部の田含牧師の家庭生活を描爲した。 Alice Morse Earleはアメリカの=ユー’。ングランド州の生活歌態を詳心した。大魚生は皆卒業後は,牧師とな るか,教師となるかを目的として居た。女子は私塾に通乱して,譲み書き裁縫刺輝を學ぶに過ぎな かった。 英彿猫の諸大學では,女子の入學は許可されなかったので,志ある女子は■タリーへ遊學した。 それさへ頗る少数であって,ボn=ア大學を卒業した者が僅かに1人,フローレンス大墨を卒業し た者が1,2人のみであった。不思議なことには,ドイツのHalle大學から1入の女山が卒業、して 居る。1738年にライプチッヒ大山の2入の青年が,その旧位論文として,De Feminis ex Arie
Medica Clarisと稔する女二二を書いて,「現今開業して居る著名な二二が,かなり多く存在 す」と書いて居る。 第2節 第18世紀に於ける麿婆及び磐畢 .1750年にボルテールは「三者は自分がろく”t知りもしなV・藥剤を,省一一旧知砂もしなV・三三に 注ぎ込んで三二で居る。」と公言した。籔警者が繁昌して種々勝手な治療法を持ち出す時代であった が,正規の讐學校はこれに持抗して,何等の策をもほどこさなかった。馨三校の課程なるものが, 一90一
既に儒用の置けないものであった。漫然として四五年聞,師匠『)許で修業するのだが,その多くの 時間は,師匠の馬の世話をしたり,師匠の訪問に御供をしたり,丸藥を製したり,丁幾を蒸溜した りなどしつエ,浪費してしまひ,實際に稽古をなし病床に臨むことは殆んどまれなのであった。叉 外科の師匠の下では,學生は手術の助手をし,時々解剖下弓の材料を得るため,墓を獲きにやられ たものであった。 こんな課程を践んで,愈々卒業すると,有禧な者ならば一二年は言行をして,有名な病院や大家 を歴訪する。併しその頃にはまだ臨床講義なるものはなかった。これが初まったのは1745年から のことである。フランスの三三三三は非常に金がヵ践つた。墨費に試験料と卒業式の費用とを加算 すると,全部で一ケ年に約6000フランは必要であった。女子にこんな多額の費用を支出するのは や馬鹿げて居ると考へたのは無理もなV・。英國では,もっと高くfO> Xつたさうである。 それゆえ讐學に興昧をもつて居る婦人は書物から學び,三際の知識を親戚或は友入から得ねばな らなかった。産婆學だと飴り學費も嵩ますに,琵許讐に就いて修業することが出來た。英國なら Smellie,フランスならBoivinとLachapelle,ド■ツならSiegmundinと言ったやうな,著名 な産科學者が居たのである。 1768年に産婆は,弐リー大學の女子死髄解剖の講義を蠕講ずる許可を得た。その當時,病院の産 科室は一床に四人の割り干て馬農具はきたなく産褥熱の病原菌は居ると言ふので,・産嬬の1割は 死亡したさうである。梅毒が蔓延したと言ふのもふしぎでなく,看護婦騒動の二二したと言ふのも 無理はない。 1793年には病舎の換氣法もおこなはれ,食事も改良され,患者も一入r床と域り,藁布團も度々 取り換へられるやうになった。1782年に英國では,産婆は練習のために,三ケ月間はPンドン病院 へ派遣されるやうになった。謄病患者の取り扱ひに至っては,此の世紀の末までは,不完全なもの .であった。 アメリカ植民地の欣態は,隊洲のそれと大差はなかった。1783年にJames Thacherは革命職 {箏に働 《た後,MassachusettsのPlymothに定住して,毎年六七入の弟子を取った。 Thacher が72歳の時に書V・た備忘録中に,1753年度の計算で,アメリ:力全土に僅か335人の讐者が居っ たと記して居る。當時ニユーヨtrク市は人口約10,000であったから,多分三者の鐵は40入を越し ては居なかったと思はれる。加ふるに此の讐者は皆無冤許で,只藥種屋で店員をつとめたと言ふ連 申のみであった。Dr・Nathan Smith Davisの調査に依れば,1776年に於けるアメリカの総人口
は約1,500,000から3,000,000で,英國の総人口}ま約4,000,000であった。その中で産婆の大役を 勤める者が,皆無三無訓練の者のみであったのだから恐ろしい。1753年にJames Lloydが欧州 から二野するや,男助産者の制度を植民地に紹介した。それ以來,その風碧がどんどん成長した。 1775年までにニュー・ヨークのKings Collegeとペンシルベ=ア大學と二つの讐学校がアメリカ に設けられた。二三ケ月の就學でB.Mの學位を憺つた51名の新卒業生を出したが,その名に 値するやうな病院を持たす,三生は僅の患者しかみられなかった。他の州でも讐師會を組織したが
一91一
発謡歌問題は!9世紀に入るまでは起らなかった。
英國では警學藪:育の進歩が幾分か認められて來た。Wil!iam Smellie,∫arnes Douglas, Cullen.
Munrg等はその讐學及び産科學に・世界各誌から學生をひきつけて居た。同時に女子も・私立學 校に入直することを認められた。Smel.lie〈1697−1763)は家の入口に看板を掛けて,産婆學の授 業料1入金五こ口揚示した○彼はパリーのH6tel Dieuで産婆學を修業したのである。彼はCha− mberlenの鉗子に鋼鐵の錠を添えて之を改良した。 當時金持の婦人の間には分娩の際に男子を雇ふ流行が起りつ瓦あったが,そのために産科の畑が 目立たすにしかも着々と男子によって侵されて行ったが, William Hunter(1718−1783),Thomas
Denman(1733−1815), Charles Whiteのような男は,産婆用に産科の圖を作り,1773年後は
の
容易に買ひ得る鉗子と骨盤計の使用法を學ぶことをす、めた。
扇流祠:會の女子の中には,止むを得ぬ場合の外は,産室に男子の出入することを:はっかしく感ず る風が淺って居たから,男子の助産者の長妬きしなかったことは翻然の事柄であった。
さきに述べた薪産科圖の外に,新たに産婆の爲めに著はされた書物があった。そのうちにや玉古い 種類の普及したものは,Aristotl’es C onpleat and Experienced Midwifeと言ふ二:雀物があった。
これは古V・書から醗課し抜嘱したもので,1710年に謙刻された。この世紀の今一つの著名な讐墨
者は1724年目John Marbury, M・D・fls’ The Female・P勿s卿碗と言ふ書を著はした。これは
前書とは異って,奮來の書を醗課したものではなく,自己の経験を基礎として作られたものである 事を著者は誇って居る。 Evelynの傳ふる所に依れば,17世紀に於ては産血19人目内1入は死産であった。18世紀に 於ては30入の内1八の割となり,19世紀の中頃に於ては,エ08人の内1人め笥合となったと言 ふ。 18世紀の産科を行ったものとして,英國で鼎立した三人の大家と言へば,William Smellie
(1697T!763)とWMiam Hunter(1718−1763)とSir Fielding Ould(1710−1789)であった◎
Smellieはパリーで有名な産婆の下で女子と共に修業したのである。彼がChamberlenの鉗子に 改良を加へたことは前にも蓮べた。1752年に産婆のために立派な書を著はした。この書には39枚 の品書を含めて,奮來の産婆書よりはいちじるしく改善された所が多い。 William Hunterはスコットランドの生れでSmellieの弟子であった。彼はすぐれた解剖覇者 であり,且つ諸種の標本の蒐集者であった。その外に叉産婆教育の改善のために大いに霊力した。 彼は妊娠子宮の大魚解を獲表した。この圖はその時代の入から,「天下無比の圖解」と銘を打たれ た。彼はMidd且esex病院で,男助産者として任命された初めての讐者であった。彼が探虚した標 本陳列所が今でも,グラスゴー市に存在して居る。彼の弟Johnの集めた標本陳列所は, nンドン の王立大面に現存してある。
Sir Fielding Ouldはア6ルランドの生れで,大肇の學位は持たないが,偉:い産科學者であり, 且つ斯道の有名な教育者であった。.英國の王室に常任の男助産者としては初めての讐者であった。
彼はダブリンの出師會から産婆學の免許状を受けた上に,パリ ・一のMadame De La Motteの下 で,相當の訓練を受けたのである。彼は王室助産者であり,叉ダブリンの’Rotund病院の院長を して居たので,世間の評判も非常に高く,フランスやドiツ邊からも,留滅して彼の教へを乞ふ者 が百を以て撒へる程の勢ひであった。彼はウェリントン公の出産及び其の他の貴族の出産にたつさ はり,、彼の競孚相手,殊に男子助産を賛成しなV・人kによつ℃Lord OuldとV・つて彼を歌った多 くの下手な詩を自慢にして居た。Ouldが貴族になった後,最もあのふれた言ひならはしの一つと して,彼を信頼して居る婦人患者の一般の所が,「Ould卿よ,産ませて下さいQ」といふのであっ た。 第3節 天然痘と他の流行病 この頃になって,傳染病の直なる蔓延の性質が,だんだんに埜化して行ったことは,既に言及し たところである。天然痘は18世紀の大なる滲漏の一つであった,梅毒,腸チフス,麻疹ヂフテ リア,インフルエンザは第2位になったけれども。從って天然痘の死亡率は別で,.1年閥に60,00伽 入死亡した。この病氣は,ニュー■ングランド,■ギリス,ヨーロッパ大陸,到るところに存在し た。イギリスの女王Maryは1694年に,フランスのLouise 15世は1774年に,いつれも天然 痘で犀亡した。宮廷の美人中にも,これが流行し,あたら美貌をあばたでだv・なしにしてしまったG
甕家Sir Peter Lilyがあばた美人の依囑を受けて,之を書意の上に硬き出すに當って・この天
「然痘の痕跡をかくすために,非常に墨田な色の書布を使用した。思入が天然痘を恐れたのは,それ
が傅染性であると言ふ事よbも,寧ろ一度罹ると頻面に孔が残るのをきらったからである。一度牛
痘を病んだことのある子供は,天然痘にかからなV・とを田舎の婆さんでも承知して居るが,都會の 人等にはそんな事は皆目わからなかった。
コンスタンチノープル駐在の英國公使の夫入Mary Wortley Montaguは,1722年に婦圧する
や,トルコでは種痘と言ふ事を特別の女によつて行なって,:重症を勲章し,しかも敷面甚だ大であ ると報告した。 Lqdy Montaguは讐者ではなかったが,讐者にもまして入間の幸輻に多大の貢獄をしたと宿す べきである。!717年に彼女はすでに郷里の友入に手紙で告げて居る。「あのやうに致命的であり, 且つ一般的である天然痘が,當地にては全く無害なものでナ。當地では種痘と言ふことをおこなふ のです。毎秋九月になると,孝婆の團艦が幾組も各地を巡廻して種痘をkこなひまず。(中略)。胡 桃の實に痘苗を容れて・どの血管へ種痘しませうカ「と人に尋ねでから種痘をほどこすのです。この 女は小量の痘毒を傷口に入れ,傷の上に殼をしばりつけます。種痘後コN程は熱が出ますが,それ・ だけで痘瘡のうれひは全然有りません。膿は接種後13日目の子供からとって,注射者の胸のきれい なガラス壕に保存して,つぎつぎにもってゆくのです。普通の母も子供の皮膚に膿を置き,それを 針の先で刺して,簡箪に接種することもあります(下略)Q」 Lady Montaguは自分の子供に種痘をほどこして敷果が良かったので,これに徹ふやうに貴婦
人漣を勧誘したのであった。國王は侍讐Sir Hans Sloaneと. Dr. Meadに命じて,種痘法輩宣
200 止せしめた。Wales公妃は、自分の子供に種痘する前va ]試験的に慈善院の子供五人目種痘させて .見た。その結果が良かったので,王子Edward,や王女Augustaも1750年に接種した。 この世紀中に死亡率の多かった今一つの赤鼻は産褥熱であった。産科病院が増’記せらるるに從っ て,貧民の入院者が頓に壇出した。そのために病院内は混雑と不潔を極めたものであった。この薪 ’設の病院では,三品の椅子に鴛っての産ではなく・床の上での産であった。寝具なども不潔であの 産婆も不潔の器具や手が,如何に危瞼であるかを知らなかった。颪や南京轟が各所に後生して居る ので,産褥熱の病原菌は容易に傳減した。 一つ愉快な事は,小見病の研究が蓬頭して來たことである。Sydenhamの弟子Walter Haris が小二品に議する書を著はして,世闇から好評を受けた。1769年にGeorge Armstrongが小兇 食餌に關する書を著はし,叉小児治療法及び診断のために二二を開設した。小免の四割までが五歳 前に死亡し,人口の素数までが成年前に死亡した。
疹Alice Freeman Pa正merが婦入の知識向上のため,盛んに講演を績けて居た時,その夫が「あ んな馬鹿な女共に口を酸くして講演したとて,なんの数果があるものではない。そんな事より書物 を書いて,名を不朽に留めた方が,どんなにましだか知れない。」と非難した時に,女史はこれに答 へて,「書物で天下に訴へても,なんの敷果もなv、。入と入と密接に近づき得るのは,演読をおv・て 外にはない。」と言った。このやうに女子畳醒運動のために乗り出した人は二三存在して居たが,何 に致せ一般女子その者の氣風が沈滞して,この蓮動に慮すべき勇氣が融けて居たことは,實に遺憾 干萬であった。 第4節 第18世紀に於ける英國女話 18世紀のイギリスの女気のうちには,その著述或は伎備によって,12入ほどの名があげられるQ EIizabeth Blackweli・(1712−1770)はThe Curious Herbelを著はした。 James Douglasは
.女史を稔して「世界略名婦」の一人として讃へた。Douglasも産科讐として叉外科馨として令名が
あった。彼がElizabeth Blackwellと親しくなったのは,スコットランド在住の頃からである。 出品の夫Alexander Blackwellも内科讐であって, Aberdeen大忌の卒業生である。女史は夫及 びDr. Douglasと共に植物學及び解剖墨を修業し,なほ花卉輩と銅版彫刻に堪能であった。夫が ユ737年に負債のため入牢した時などは,女史は自分で働らいた牧入に依って罰金をしはらった6 夫がスエーデン王に面する陰謀の嫌疑で,第2同目に入牢した時には,女史は自立の潅め,Smellie と共に産科を修めて開業しぢきに流行讐となった。夫が愈々叛逆罪を以て斬首されてからは,58歳 みで死亡するまで一般山師と同時に産科を開業して居た。第19世紀の二二Elizabeth Blackw611 Ct 自分の先輩として彼女を尊崇し,「あらゆる讃僻にふさはしき警師産科讐」と構回した。
18世紀のイギリスのA一・一一・人の有名な女讐は,Martha Mears言入であった。 Mearsは1797年
に婦入科及び産科に漏する小冊子を著した。この書はDr. Henschelによってドイツ語に課され
:た。卜者は「ここ50年間におV・て,何温語であれ,かかる種類の書でこの書ほど良書はない」と
.稻讃して居る。
薦めv・た
Elizabeth Blackwell, 1737
(大英博物館の版置から)
Charlotte Heiland von Si.ebold
Dr Obst,1817年死亡 (Giessen大學許可Lauream doctoris in Arte Obstetrica.ドイツCannstatt のDr. Mathilde Salgmannの好意に よる) Madame de Stael.一Holstein, 1768−1817 Harlessはいって居る,「女史.は父ゆ づりの政治経濟の才能に赴會輻利事 業と馨學の母の才能を合せ持って屠 た)
Lady Mary Wortley Montagu
種痘による天然痘に封ずる接種の最 初の活動酌宣傳者
202 同書は11章にわかれ,第1章は常態丸瓦に關し,第2章は産婦の養生等に關し,第.3章は精紳 修養に關し,第4章以下記章は,.衛生に關して詮V・て居る。第9章第10章は産婆看護婦の心得に關 し,最後の第11章25頁を,産兇の取り扱ひに當てて居る。. Mrs. K:ennonは1738年にGeorge三世の敢り上げをなし,貴族祉會に入氣が良かった。女史 の西入は多額であったので,500ポンドの大金をDr. Frank Nichollsに点して,男助産’者に封ずる 古謡丈を書かせた。その:交:章は1751年にThe Petition of Unborn Babes to the Censors of the Royal Co11ege of Physicians of Londonと言ふ長い表題の調刺文であった。1752年にはその答
として男筈助産の可否問題には・意見の相異が存するξいみ二丈が肇表された。ちなみに・Dr・F−
rank NichollsとはOxford大詰解剖豊の敏授であって,頗る文才のある入であった。
George四世を取り上げた産婆はDraper夫入であった。女史は産褥熱を滅多に起さなかった.人
である・卿ど・ノ’づ一によって設けられた甜と潔の規則鳳つ血忌取出すのに特維
璋1する以外は,その理宙を茸はなかったが,部下Q看護婦でも・産褥熱の患者に接してすぐに他の
産婦に接することを嚴禁して居た位であった。〈George四海の生れる時に, William Hunterが御
所に待機して居たのに,絡に手を出さないで仕舞つたことは,面白い事實である。叉1819年に未 i來の女王たるvictoriaが生れた時にも,男助産者が伺候しなかった事も,甚だ面白い事柄であっ
た。
18世紀のイギリスの産婆のうちで,最も興味あるもののr人は,Flizabeth NibelXであった。
彼女はプロテスタント.であったけれども,『勅許によってローマカトリツ.クの先生の下でパリーの H:6tel Dieuで産婆學を勉記した。二i’ !r年修業して魚島するやHaymarketに夫と共同で開業した
その後William Smellieが全く入艦摸型によって産科を教へて居るこ乏を知った。そして女史は 鉗子を使用せす病院で900「同もとりあげた維瞼があるので,1760年にはげしい痛罵を鉗子に封し てのみならすSmellieに封して獲表した。 Smellieは不注意にも女はただ金のために助産をする とV・つたが,Nihell女史は彼はその人爵模型にのみ慈善のために助産をするのだといった。この模 型は銅の腹をもつた木でできて居た。ビールが一杯入って居る袋は子宮として用ひた。その「うちに 蝋人形を浮かし,術者によっていろV・うに働かした。この模型をもつて,彼は900の産婆にその 術を教へた。女史はそこで皮肉と毒舌をもつて,彼に,すべての器械,すなはち鉗子,子宮鏡 鉤,小刀,包帯,扁雫支持器に反記した。女史曰く「女子は彼のやうな男に比沖すると慈悲の天女 である。すなはち彼は大きな腕で,無骨な様子で,鳳暴な方法℃,鹿角籾阿片丁幾を用ひるのであ る。よV・産婆は器械をもつた最も上手な男より小さな手で上手に行ふことができる」と主張したQこ んなに篤い言葉を:使ふにがかはらす,女子の二品はきれいな縁飾りのついた帽子の下に雫鄙な租母 さんのような慈愛深い顔をして居る。その肩をこえて・豊かな胸の上に白い頸雀がかかって回る。 1800年に至るまでに,産科に關する若干の書が婦人によって書かれた。そのうちの一つは,Jane
Sharpが1671年に著したThe Complete Midwife’s Companionで, Sarah Store l宜1737 年にComplete Practice of Midwiferyを著はした。 Margaret St母phenは1795年にThe
Domestic Midwifeを著はした。 Catherine BowlesはLondr;の外科警でヘルニアと膀胱結石と陰嚢水腫の手術に有名であっ た。E地abeth Singerは詩人であったが,その夫が肺を病んだので,讐學を研究し,夫の看護に努 めた。夫の死後は其の一生を病者貧民のために捧げたこと,丁度昔の奪者のやうであった。 Hutton夫人はヂキタリスが心臓病に二三あることを獲見した入である。女史は1785年まで此 の藥:草の秘訣を秘して居たが,Dr William Witheringがこれを聞き出して,談判の素絹その塵方 を買ひ取った。1785年にロンドン新藥局方tgヂギタリスが加へられて, Witheringの名がこれと 聯想される事になったが,.その元を言へば,.Hutton女史の名を忘れてはならない。 アイルランドにMadame・Steevensと言ふ女山力§,病院を建てて自から之を経螢した。他の病 院は皆不潔であったのに,この病院だけは頗る清潔であったので評判であった。Mary Donaly或 はDumnallyと言ふこれもア.イルラン.hの産婆で,1738年或は1739年に普通の勇刀一本によつ て自宅で帝王切開をおこなった,珍らしい女が居た。 第5色面 大道{蟄者と山師{繋者 男子の大道轡者や山師轡者が存在したと同様に,女子の大道三者も山師讐者も居たと言ふことを 見逃がしてはならない。その中で一番著名港渚はMrs・MaPPと言ふ女であった。 彼女はWallinと言ふWiltshireの接骨讐の娘で,父の仕込みで接骨術を修得した。男性的な 風貌の女で大酒を恵み,人込みの場所へ入っては,流露共を相手に仕事をしたものである。1776年 七月鼻面のZ)aily Adverliser紙上には「されど此の女は接骨術にかけては,感心する程に腕が達 F 者である」と記された。名高くなるに連れて貴族祉會からも招聰され,捻挫骨接の手術を行ふに至
った。Sir Hans Sloameの如き侍警までがMappに頼んで,その姪の9年越しの脊柱挫骨を治療
して貰った。 Mrs・MapPの仲間に2人の山師話者が居った。一人はWardと言って,丸藥費りを專門ξし, なほ樟脳と胡椒を混じた塗り藥を図り附けたので有名であった。今一入はTailorと言って眼尋者 である。當時の王侯貴入で此の男の診断治療を受けた者は頗る多かった。この西入とも利口な男で 一生を裕輻に暮したが,MaPPは大酒の留め/784年に一一文なしで死亡した。 ∫ane Stevensは晶晶型の山師二者であった。二時膀胱結石で病む人が多撒あったが,從來の手術 は仲々手荒いので,その苦痛を悪び難く閉口して居ったのである。それを見込んでJane Stevens は結石の溶解する二二を調製することを思ひついた。彼女は蝸牛の黒焼きと玉子の殻とを ,・石鹸水 で練ったものを調製し,これを山鼠すると,盛に上れたものである◎莫大の金を儲けてしまふ迄は この秘訣をかくして置V・て,やがて「民衆救助のため」と言ふ名目で之を五干ポンドで政府へ費り つけた。欧米の二者は皆,この丸藥を推構して居た。ベンジヤ.ミン,フランクリンは丁度,議會で 此の丸藥賞牧の可否を論議して居た最中に在英して居たのであった。彼も初めは此の丸藥の弘遠を 信じて居た一人であったが,その調製法を聞くや,こんな藥が利いてたまるものかと痛嘆した。し かし世間は廣V・もので,當時の大回墨者の一人たるStephen Halesは,小冊子を印刷して,この 一97一
204
丸藥の敷力を激賞した。
この外にSt. John Longと言ふ男の皮膚藥や, Eliza Perkinの吸出し藥, John Coakley Lett−
someの萬病藥等は,著名なものであった。 Lettso血eは島牧12,000ポンドもあった。彼は慈善 事業に多大の寄附金をしたり,・ンドン七二會を組織したりした。ジエンナ・・’やフランクリンも彼 の友人であって,この男の人格手腕を信じ切って居たのも妙である。 第6節 初期のアメリカ女讐 第18世紀のアメリカ植民地に於ける警學が一欽洲のそれに匹敵し得べき.5のではなかった事は 記田の事であった。Cotton Matherのいはゆる欝學と宗教と合同であって,櫓侶が同時に讐者の 仕事に記事したので妹あるが,それでも二二の熟練せる二者と,多数の我流の非讐者と二二なる産 婆とが存在した。まだアメリカ山雲の見識を持つた讐者の出やうはすはなく,皆「二三の二者の三二 をして居るに過ぎなかった。1762年迄には蟹學葎もなければ誰讐學雑誌もなく,叉馨業を取り締 る法律もなかったのである。 移佳民を殺した主なる病氣は,獲疹チフス,悪性喉頭炎,氣管支炎,結核,猫獄した天然痘,■ ンフエンザ等であった。小兇は何縷言の治療のため,足から訳詞され或は冷水に浸され,或は冷鰹 水に漬けられたりした。歯の生えるのを容易にするためと言って,小見の頸に鎭痛の首飾りが掛け られたりした。その首飾りは乾いた實と狼の牙とをつらねたものである。ラムとサフランは活塞に 用ひられ一)櫻のシロップとベニス糖蜜は暖に使はれた。初期のアメリカの牧師のあるものは,投藥 におV・て二二的の實験をした。Berkeley信正は1728年にタール水の緩和な溶液が四病を治する もQを含んで居るといふ結論に記した。その二方は1クオートのタールを1ガロンめ水に.48二藍 浸し,1樽の雨水に之を溶解したのである。Dr. Atkinsonは墓をkS IOて粉末にしたものを妙藥と した。 Dr. Morseには逸話がある。或る夜例の通り讐者の冠る髭を着けて,患者の宅へ往診に行った。 下男が其の日,髭に髪粉・を振り掛ける時に,闇違って火二二を振りかけたとは思ひも寄らなかった 先生が床の上の患者を診察するとて,頭を下げる途端に,床の傍の蝋燭の火が,ばっと髭に移って ひどい爆音を嚢した。すると患者はkどう“て床から飛び出した。それで患者め病氣は全快してし まった○これこそ實に,すばらしV・頓服であった。’ 植民地の女のうちでも良い階級は,精神的に豪く才に富んで居た。彼女らは家のうちの仕事のみ なうす,園藝と外でかなり荒V・仕事をした。ニュニィングランドでは,『その入々が財産をもつi℃組 合教會に属して居たならば,女もまた政治に關回した。草を工め藥品を作ることは,また女の仕事 であった。分娩を助ける翫婚の女達は,あきらかに熱心で信用ができた。多くの馨療には關係はな いがインテリの女達は,食物や衣服と同じく藥を費る「維貨店(general stores)」を経回するか, それを助けて居た6ベンジャミンフランクリンが公の郵便局制度を組織した後は,これらの店は町 の一般の集會所となった。 猫立職孚以前は,男女に拘はらす,良V・加減な藥晶を調製したり.,又之を販回することが,法律 一98一
に依って何等禁制の途が講ぜられて居なかった。
New England三州では, John Duphy(1745年死)や§hippen(1736−1808)やMorgan
(1735−1789)の如き男助産者が渡來するまでは,アメリカの産婆は,何等競孚者も無く,平穏に 仕事をして居たのであった。Dupuyが死亡するやD幕Attwoodがその代りとして渡來して,全 くGrany Brownと言ふ評判の産婆を堅倒してしまった。三者が弟子を取って讐學を教授するに しても,皆女子を輕蔑して,弟子には:取らなかった。 1763年頃フィラデルフ■アで新たに警三校をShippenとMorganと共同で設立した。これ が後のペンシルベニア大回の前身であった。この學校開設の時に,「女子が其の無智なことを;自認 して,三校に入學を懇望するならば,下刷の詮議を以て,せめては産婆學の課程だけに入學を許訂 すべし」と養表したが,一人の恋幕者もあらはれなかった。ベンジャミンフランクリンは1775年 頃既に,諸科を網羅した大學の設置の必要を論じたが,輿論は更に之をかへりみなかった。 1776年たは全植民地を合せて,335名の讐者が居た。その内1割が欧洲で三位を取った人であウ 51名がブイラデルフ矛ア大學及びニエーヨークのKings Coilegeの卒業生であった。 Queens College(今日のRutger大駿)にも,一時讐肇校が附属されて居た。1782年にハーバード讐學校 が,Dr. John Warrenに依って開校された。18世紀には公立病院なるものが殆どなかった。1720 年に初めてNew Orleansに1院が設けられた。1756年にブイラデルフ■アに,1791年Ua =ユ・・一 旨一クに1院が開かれた。初期の馨肇校に於ける卒業資格は,ニケ年三著名な旧師の指導を受ける ノこと,學校に2肇期三三すること,それに論文を呈出することであった。 警學校開設に依って,はっきり讐學と宗教との旺別を立て,女子と理髪師とを學位から除外し たごかくして特別の三冠を受けぬ女讐は諸種の使宜を有する男警と競争することもできなくなって しまった。 さきに第1.7世紀のアメリカの旧史を蓮べた三二,Sewall判事の日記の一部に依って,三時の 女讐生活の一端を報じたが,この18世紀の女讐に關しては,主として産婆に回してである。これ も古い墓石や,役場の記録や古V・新聞紙に依って,その名や時代を知り得るに過ぎないのである。 これ等を一括して學げれば, (人 名) 1. 01d Widow Wiat’ 2. Elizabeth Phillips 3. Mary Bass ’ .4. Mary Barnard 5. Mrs. Whitmore (年號) 1705年死 1761年死 1772年頃 1749年頃 1763年頃 (地 方) (事 蹟) Dorchester 1,100人取りあげる Charlestown 3,000入以上取りあげる Salem 頻繁に新聞廣告す Nantucket 女讐として令名あり
Vermont 2sOOO人以上取りあげる
1646FsiのMaine州の記録に依れば, Francis Raynsと言ふ男が,無免許で産婆の仕事を行っ たと言ふかどで塵罰された。これは三州の人民は,筈者産婆の仕事に關しては;徳義上非常にやか
ましV・からであった。萬事が法律詰めであった一例を基げれば,1645年の同州の命令に,「女子は 一一一一 99 一
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Schoals島に住居す可からす。波荒くして危瞼なるが故なり。」とか,叉は「怠惰は容赦せす。怠け 者には二十鞭を加へて之を罰すべし。」病氣の時にも讐藥よりも,まつ所蒋を行ふ風習であった。
Elizabeth Oldsと言ふ婦入が病入看護に頗る親切であったと言ふ記録が淺って居る。彼女は1782 年に92歳で死亡し,286人の子や孫を有したと傳へられて居る。
コネテnカット州には堪能な産婆が多く居た。Mrs・、 Allyn, Sarah Alcock, Sarah Sands, Mrs. Jacob Johnson, Mrs. Huldah Beach, Mary Hazard等は,同州で女讐叉は産婆として 令名のあった人である◎ 二子一ヨーク、州では1760年後は,馨師魯の試験を受けて,産婆の免許状を取ることが出來るや うになった。Sarah Ridgelyを初めとして,多くの冤許欣の有る産婆が居った。この免許歌は次 の如き誓約を履行する産婆に,下附されたのである。「貧者に封して親切たるべき事。.私生兇を隙蔽 せざる事。堕1胎を行なはざる事」。 女子で藥剤を調製した者も多かった。次記の如き女子は,各々その特種藥を以て有名であった。
Hannah Champiop, Mary Bannistir, Ann Tatnall, Sarah Murray, Catherine ’Denner,
Hannah Person, Nurse Tucker, Widow Mankin, Lydia Darrah等。
ボルチモアではWilliam Lloyd Garrisonの母で,産婆を開業して多忙の子供を養育した上に
奴隷解放や,女灌卜書運動に壷覚した人もあった。 ケンタッキ州にはFrances Coomsと言ふ,非常にi教養ある草隷が開業して居た。 ニユーオルリーンス州はその頃はフランス領で,フラン.スから主として産婆,看護婦,藥剤師が 渡寓して毒舌に從事した。1720年には病院がケベックの病院と同じやうにウルスラ愈(病入の看 護と少女の敏育などを目的どして1537年に創設されたヵ}・ iJツク修道女の三三)の修道女の監督 の下にあった。 一一?100 ・一一