祖父 井上円了について…
著者
井上 民雄
雑誌名
井上円了研究
巻
1
ページ
113-121
発行年
1981-03-19
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006751/
祖父井上円了について
井 上 民 雄
私は祖父のことを余り研究しておりませんので詳しいお話しをすることは潜越に思いますが、一応祖母等から聞い たこととか、残っている書から判断しまして、色々祖父の人となり等をお話ししたいと思います。 祖父は家庭内でも円満で殆んど家族の者を叱ることはなかったようです。又祖母から聞いた話しですけれども祖父 は、ある面では非常に几張面だったのですけれど、色々書いた書や原稿などをそこらにひっちらかしてあって、それ をかたづけようとすると、随分怒られたというような事を言ってました。又祖母が結婚する前に、自分が結婚して生 活に困るようなことはないかと聞いたら、それは絶対心配ない、とにかく何とかしても食べさす事はできるというよ うなことを言っていたそうです。︵確か目賀田さんの紹介で知り合って、目賀田御夫妻が仲人で結婚︶それともう一つ、祖母 は、祖父が東大を出る時に、時の森有礼︵文相︶がぜひ文部省へ就職してくれと頭を下げて頼みに来られたそうで、現 職の大臣自身が一介の書生のところへ入省をす、めに来られたことは今迄かつてない事だと、非常に自慢してよく話 しておりました。 それで私なども思うのですけれど、祖父は旅行等で、家にいる機会が少なく、家庭をよく守った点で祖母の功績が 非常に大きかったのではないかと思うのです。そのことは石黒さんもよく言っておられたそうです。円了の今日ある 113のは、祖母︵井上 敬︶の内助の功が大きいと思われますので祖母の事も調べていただきたいと思います。祖母はよ く自慢しておりましたけれども、十三か十四の時、女子高等師範に入って、自分がもっとも年Fで、皆よりも五、六 才は若かったと言ってました。それで卒業してから東洋英和で英語を教え、それで東洋英和をやめて結婚したという 事です。 当時のミッションスクールでは、女生徒等がキリスト教に非常にかぶれて﹁もし日本が西洋諸国と戦った場合には、 私たちは潔く屈伏する。イエスさまには反抗できない﹂というようなことを云っており、祖母はそのことを非常にが いたんしておりましたから、祖父のいわゆる護国愛理とか仏教護国の思想に非常に共鳴したのではないかと思います。 祖母のことはそれとして、実はたいした資料がなかったのですけれど、あまり出てないものもあるので、一応それ をお持ちしました。 これは明治二一年四月に書いた﹃実地見聞集 第三篇﹄であちこち旅行した時、その集会なんかを書いたものな のです。その中にまず自分の年歴が入っています。 ﹁明治一〇年七月 西京二上ル﹂、 これは京都の本願寺に留学し たことだろうと思うのです。それから﹁明治二年四月東京二着ス、明治一↓年九月大学予備門二入ル、明治一八年 七月大学卒業、]八年一二月病気入院、一九年一二月二七日結婚、哲学書院設立、二〇年九月一五日哲学館設立、二 一年六月九日洋行、二二年六月二八日帰着﹂二二年一二月迄﹁余、著述﹂として冒頭に出てますのは﹃哲学一夕話﹄ 第一篇、第二篇、第三篇、その次に﹃哲学要領﹄前篇後篇、 ﹃哲学道中記﹄それから﹃倫理通論﹄二冊、 ﹃心理学講 議﹄ 一ヒ冊、 ﹃妖怪玄談﹄﹃仏教活論序論﹄﹃破邪新論﹄﹃真理金針﹄これが明治二二年ぐらい迄の書として日記風に書 いてありました。それで明治二三年中の日記の摘要では、 ﹁一月六日修善寺より帰京、二月二四日 星界想遊記発 行、哲学道中記訂正再板、三月二三日帰京、七月一五日哲学館卒業証書授与式、 一六日熱海行、九月一日帰京﹂大体
以上のようなことを書いてあります。そしてその間のことはこれに載っています。又統計的にものをとらえるのが好 きだったらしくて、古代哲学者の年譜、誰が何才から何才まで生きてという著名の哲学者の歳が出ています。平均寿 命です。それと日本の学者が大体いくつぐらい迄生きたかというようなことか、各所の迷信とか、どこにどういう店 があったか、そういう事を書いています。 また、なぜ東洋大学を早く身を引いてあちこち巡行に歩いたかという事は、この本にも書いてあるのですけれど も、初めの頃は、東洋大学の資金をつくるため講演をして歩いているというようなことをいっております。それで、 東洋大学が一応ある程度軌道に乗ってからは、いわゆる国民道徳の普及、修身とか教育勅語の具体的な説明で、日本 全国全部を歩く計画をしてましたが、まだ行かない所があって、あと五年生きていれば全部回れるという予定だった。 ところが予定半ばにして大正八年の六月に亡くなったのは非常に心残りだったと思われます。又各地へ旅行する時に この旅行必携記を持ってまして、これによって色々と講演の内容を考えたらしいと思われます。具体的に申しますと、 ﹁霊魂不滅、心理的妖怪とか、迷信論、心理篇、心理療法、あるいは世界周遊談、日本人の特性、戦後の経営、実業 振興策、女子の心得﹂この他仏教やなんかのもあるのですけれど、これは第二巻になっているので、第一巻の方にそ ういうのが載っているのではないかと思います。その他迷信などの事についても大分書いてありまして、講演した後、 その辺で聞いたりした事を、これに書きとどめてあるのではないかと思います。そういう方面でわりに興味のあるの もあると思いますし、それから日露戦争の費用が二十億円かかった。それを一円紙弊で配列すれば七万三千三百里に なろう、日本の長さが二千里だから、この三六倍半の長さになると、これを高く積めば富士山の八〇倍になると、そ ういうことも書いています。ですから、計算やなんかにも相当細い方だったのではないかと思います。また欧州大戦 のドイツがどのくらいの費用を使い、あるいは連合国がどれくらいの費用を使ったというようなことも、これに具体 115
的に書いてあります。 それと、祖父が一介の学者として甘んじなかったということは、自分はあくまでも実践教育、社会教育というもの を根本においていたからで、将来は哲学堂を青少年の道場として、そこで色々社会教育を施したいということが理想 であったようですけれど、それも途中で亡くなったので実らなかったのではないかと思います。その祖父の考えが色 々出てますのが、晩年の作ですけれど﹃奮闘哲学﹄で、その中に非常に識刺的な事が随分書かれてあります。例えば、 ﹁学校が太れば田畑が痩せる。サーベル光ればくわかまさびる。これで国家が成るものか。﹂学校だけが大きくなっ てしまって結局田畑がなくなれば、食糧やなんかの生産ができなくなるとか、軍備に金を取られれば、国民の生活が 楽にならないと、そういうふうな事を調刺して書いてますし、それからまた、学者が未来は太陽が冷くなって地球が 亡くなってしまうというようなことを非常に心配しているけれども、自分たちが生きている間にはそんな事はない、 学者は無用な事を考えているというようなことを、山陰方面を旅行した時に話して、書いています。とにかく、﹃奮 闘哲学﹄で見ますと、あくまでも自分が陣頭に立って教育の実践をする、生きた教育でなければ駄目だという事︵実 践教育︶を念頭においておったようです。これは口で言ってもなかなかできないのですけども、祖父はあくまでもそ れをしたいというつもりで動いたようです。ですから、いわゆる死教育と活教育というようなことを、自分の教育観 の中に入れていたようです。大体この方面の事は、皆さんの方がよく研究しておられるのでよくご存知で、私が言う までもないと思います。 祖父の亡くなった時に色々書かれた祖父の思い出の中で面白いのは、宇井先生が人から聞いた話として大学の角帽 を考えたのは祖父であるということでしょう。これは、祖父が帝国大学に在学中に、何か違った帽子を作ろうと相談し て、角帽をかぶったのが初めで、これが後世各大学の正帽として使われるようになったということです。他にもそう
いう事を書いておられたのを見たことがあります。それから、五十嵐さんという元大学の講師の方が書いていること で、祖父が新潟の方へ巡行した時に、新潟市のキリスト教の学校で、西洋人より仏教の講演を依頼されたという事が 書いてあります。それは﹁明治二五年五月新潟市北越学院より米国人の宣教師某より先生が御巡回の際、新潟市にお いて講演のおりに学院において仏教の講話を願いたしと申し込まれました。仏教は僧侶以外の思ひを為したりしか、 先生が快諾して、北越学院に到り、しかも堂々として、仏教の他力本願の講演を一時間半程なされた。この時外国人 七名と他は学院の生徒十数名なりしが、喜んだのは外国人である。彼らが謝礼のため来ていうのに、これまで日本に 来て仏教の話しを聞きたいと思うても何人も相手にしてくれませんでした。しかし今回先生の雅量の大なることまた 熱心なる篤信のある話をされたのは感謝のいたりであると大喜びを得られた。これに反し新潟の仏教者はあまり喜び ませんでした。﹂ かつ、これにつけ加えてあるのは、 ﹁先生が大谷派のある者たちより反感を懐れたのは新潟巡回の この時であった。それは三条別院で大谷派の前途につき、憂憤の余り、警告的演説をなしたのが原因で輸番はじめ一 堂の者よりほとんど追いたて同様の虐待を受けたので、このくらい苦しめらたるはかつてない程でありました。その かわり三条裁判所の判検事より、この警告演説のため大歓迎を受け三条一の料理屋に行って山海の珍味とも言うべき 懇徳なる馳走の宴を開かれたのはせめてもの事なり。﹂という様な事が書いてありまして、これで見ますとやはり異 教徒のキリスト教徒に対して、仏教の長所を懇々と説明したのではないかと思える点が見えてまいります。 それから日常生活なんかでも非常に簡素を旨として、又非常に独創的な考えを持っていたようです。これは大正六 年に父や母が結婚した時に、通り一辺の結婚式やなんかに呼んでもしょうがない。それは簡素にやるかわりに一応記 念になるものを書いてほしいと、各知人に色紙を送りまして、それに色々署名なり揮毫なりを頼んだのですけれど、そ れを当時の祖父の弟子だった﹃婦女界﹄の都河龍さんが珍しい事だからといって、この結婚式を新生活の運動の一つ 117
の例として紹介されたものがこの﹃婦女界﹄に載せてあります。これをみますと、通知を出した先が全部克明に載っ ているのです。その頃の相当の知名人の所へ随分手紙を出している事がわかります。 それから各講演に行く際には、 々こういう書を持って、あらかじめ学友やその他に送って色々頼んでいる。手紙 があります。これは大正八年三月一〇日に書いたものです。それから、これは大正八年三月一六日に講演した謝礼と して一五円もらったという領収書ですが、これが何かの関係で残っているのですが、相手が何か護国団なんとか支部 になっております。 それから随筆で書いている、これは格言的な随筆なのですけれども、元々官吏になりたくなかったので、こういう 事を言っているのだろうと思うのですけれども、 ﹁民頭となるとも官尾となるなかれ﹂というようなことをさかんに 言っております。それから﹁大臣になる見込みなければ官途に就くなかれ。大将となる見込みなければ軍人になるな かれ﹂というような格言も言っています。 また、 ﹁南無絶対無限尊﹂を唱えるうたをこの最後に書いてありますけれども、それを読みますと 世の哲学をながむるに議論の花は開けども、未だ↓つの応用の実を結ばぬは遺憾なり 高嶺の月を知らずして麓の道に迷いつつ 有無の詮議に日を送るは哲学の時弊なり 人の心の渡るべき道を示さぬ哲学は 向上ありて向下なき不具の学と名つくべし 向下門の哲学は向上門の究理を 実践躬行する道を教ふることに外ならず 斯る真理を世の人に示して実行せしむるは 多くの道のある中に唱念法こそ至要なれ 唱念法は口に只南無絶対無限尊 唱ふる外に何事も勤め行ふ用はなし 賢愚利鈍の隔てなく唱ふるのみで安心の 岸に達する道なれば 捷経中の易行なり
南無絶対を唱ふれば迷いの雲は晴れわたり 暗き心も忽ちに光のみつる心地する 南無絶対を唱ふればようつの波は鎮りて 心の水に絶対の月影浮び来るべし 南無絶対を唱ふれば春の日和の如くにて 病苦の霜も煩悶の氷もとけてのどかなり 南無絶対を唱ふれば地獄と見えし人生が 忽ち変じ極楽の世界となりて現はる\ 南無絶対を唱ふれば唱ふるうちに厭世の 心機転じてからだまで喜び勇むやうになる 南無絶対を唱ふれば唱ふるうちに我れ彼れの 差別も消えて絶対の光りの中に撮められる 南無絶対を唱ふれば唱ふるうちに絶対の 徳も力も心底に泉の如く湧き上る 南無絶対を唱ふれば心に満つる悪念が 自然にうせて万善の徳を積みたる人となる 口に唱ふる七文字に斯る功績の大なるは 不思議の中の大不思議 真実妙と名くべし 声を発して絶対と唱へずとても[心に 黙念すれば自ら同じ功徳を受けらる、 ロハ一心に絶対を念ずるうちに心中の 小我の声は静まりて大我に帰して一となる ロハ一心に絶対を念ずるうちに真善美 三ツの光りが現はれて隈なく心を照すなり 唱えて念ずる其中に絶対無限の勢力が 心の内より刺戟して大活動を起すべし 是より後は人生の道を遮ぎる百難を 排して進むいと易く大奮闘も出来るなり 其虜に所謂犠牲的大精神も湧き起り 命を捨て、何事も成し遂げらるるやうになる 仁義の道も忠孝の教えもここに至らねば うはべ計りのものとなり真の実行出来難し 斯くして国に尽くす人ありたいものと思ふなら つねに絶対無限尊唱へて念ずるやうにせよ 斯る理屈を離れたる唱念法の立てかたは 教外別伝西哲の唱道せざる教えなり﹂と言っております。 119
最後に祖父が東洋大学を創ったといいますが、やはり祖父 人の力でなく、皆さん方の協力があってできた事だと 思うのです。一番祖父とくっついて相談役としておられた方が内田周平さんで、親戚などから聞くと、色々な事を相 談していたということです。財産の事なんかでも、祖父はわりと悟淡としていたけれど、ある程度は土地や何かも自 分の名前にしなければいけないと内田周平さんから言われて、それをしたという事を親戚が言ってました。又、東洋 大学を創るにあたっては、加藤弘之博士の精神的な援助が大きかったようです。また、駒込の真浄寺の福壽師、今お られる住職のおじいさんにあたる方ですが、その方が初め学校を開く時の場所や何かの斡旋もしたようです。金銭的 や何かの面で色々な人つまり明治時代の著名な人を紹介した点では、勝海舟さんが一番援助したようです。後、石黒 さんも大分面倒みたということを聞いています。とにかく、あの時代、大学出たての一介の書生がよくこれだけの大 学を創れた、今から考えると奇跡みたいに思えるのですけれど、やはりそれにあずかって力があったのが﹁仏教活論﹂ の出版であり、かつまた、 ﹁仏教活論﹂を書かなければいけないということは、京都の本願寺へ行って、あの頃僧侶 の頽廃しているのを嘆いて、何とかしなければいけないからということでした。それが東京へ出て、大学を出た時 に、本山へ戻らずに結局著述をし、かつ大学を興こすようになった動機ではないかと思われるのです。それには相談 役として加藤弘之博士が非常に力があったというような気がいたします。 私はもっと資料を集めたかったのですが、色々忙しくてなかなか見る事ができないでおります。ただ祖母の事を知 っている人でまだ生きておられる方が相当いるので、祖母の事を聞いていただければと思います。祖母は、面倒見が いいと言うのですか、また格式を重んじたりしないものですから、いろいろな人たちが皆気楽に出入りできたと言い ます。そのかわり特別に御馳走などはしなかったのですけれども、高嶋米峯さんなどは非常に崇拝していたようです し、それに人をおくのが好きで、有名になった人を随分おいていたと聞いております。元の弊原総理のお兄さんの
の台北大学の学長までやった弊原担博士など、やはり学生時代におうけした事があり、それから上海事変のテロで足 を切断した村井総領事もおられた事がありますし、又もっと古いところでは東洋大学の卒業だった税所篤秀子爵です か、税所さんはお父さんが祖父の話しを聞いて感心して、ぜひ息子を預けるから東洋大学を出してくれと言うので、 書生みたいにして、ずっと家にいたという事は、祖母が言っておりました。ああいう名家ですから学習院あたり入れ る家が、あえて東洋大学に入れてくれと言われたというような事を聞いています。 どうもまとまらないことをお話ししましたが、あまり色々な事を調べていないので、不行届きな点があると思うの ですが、大体こんなところで⋮⋮。また、後何か資料が出ましたら、それはいずれ今度お見せいたします。 参考文献 ﹁井上円了﹂ ﹁奮闘哲学﹂ 大正八年九月四日発行、発行所 東洋大学校友会 大正六年五月発行、発行所 東京東亜堂 121