南船北馬集 : 第八編
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
13
ページ
443-561
発行年
1997-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002953/
南船北馬集 第
1.冊数
1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ) 188×127m皿 3.ページ 総数:125 目次: 1 本文:124−導嫉竃除︽籔墓瀦竃ぷ猫轟蘂鷲杖多渚竃
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南船北馬集 第八編 大正二年三月十四日 晴れ。未明、随行後藤︹菊丸︺氏とともに播州北条町を発し、正午十二時、備後福山に降 車し、これより沼隈郡視学毛利川象六氏の案内にて、車行一里半、津之郷村︿現在広島県福山市﹀小学校に至りて開 会す。郡長小林正敏氏も来会せらる。本郡の開会は総じて七カ所にして、そのうち一ヵ所を除くの外は、すべて 郡青年会の主催にかかり、郡内を六区に分かちたる各区の総会を開催せるものなり。県下の青年会は本郡最も盛 んなりという。当夕、有志家青景忠衛氏の宅に宿す。その軒前に鯨背山を望む。ここに郡勢一覧を紹介するに、 本郡は二町二十八力村にして、戸数一万六千六百余、人口九万二千余あり。学校三十六校にして、寺院百二十三 力寺、その約半数は真宗に属す。物産はいわゆる備後表の本場にして、畳表だけの産額一力年五十万円以上なり とす。 十五日 好晴。春風習々。芦田川に沿いて下行し、草戸村明王院の門下を過ぐ。山内に国宝あり。銭取橋、水 呑村を経由す。二者ともに奇名なり。車行四里、靹町︿現在広島県福山市﹀に達す。この間、鉄道敷設中にして、本 年中に軽便を開通すべしという。靹町の名物は保命酒と鍛冶屋なり。町内三分︹の︺一は鍛冶職に属す。会場は小 学校、宿所は対山館なり。校長秋山国太郎氏、諸事を幹す。対山館は仙酔島と相対し、湾内の風景を一握するに 足る。浴後杯をふくめば、自ら仙酔と化し去らんとす。 探勝春初入備東、散懐一夕靹津風、対山館上衝杯坐、疑是身遊書幅中、︵景勝の春を求めて初めて備後の東の地に入る。いろいろな感懐のこの夕べ、靹町のみなとの風に散り失せ た。対山館の上に杯を口にして座せば、疑うらくはこの身が画中に遊ぶかと思われたことであった。︶ 当港は神功皇后三韓征伐のとき、靹を治め給いし古伝によりてその名を得たるが、ひとり歴史上の古跡なるの みならず、風景においても天下名勝の一なり。厳島は人工の加わりしために日本三景の一に算せらるるも、単に 天然の風景のみをもって比較すれば、靹は厳島を凌駕するの価値あるがごとし。 靹湾風月絶塵埃、明媚自凌厳島来、天欲使人養仙寿、備山尽処築蓬莱、 ︵靹湾の風月は俗世のちりあくたとへだたり、すっきりした美しさはおのずと厳島をしのぐ。天は人に仙人 のごときよわいを得させようとして、備後の山の尽きるところに神仙の住むような地をつくり上げたのであ ろう。︶ 三月十六日︵日曜︶ 晴れ。朝気︹華氏︺五十度、すこぶる温暖なり。靹を発して能登原嶺を上下す。その嶺の海 中に突出せる所に阿伏兎岬あり。その風光の殊絶なるをもって世に知らる。嶺をこえて能登原村に入れば、老松 の風骨、人目を引くものあり。能登守教経の弓掛松と唱えきたる。午後、千年村く現在広島県沼隈郡沼隈町∨寺院南 泉坊において開演す。主催は村内有志にして、村長高田斉氏、郡会議員岡崎武一氏、校長篠原直衛氏等、もっぱ ら尽力せらる。宿所は村上旅亭なり。村内、藺田多し。 十七日 夜来春雨粛々、暁に至って晴れ。渓行一里、山南村︿現在広島県沼隈郡沼隈町﹀に入る。会場兼宿坊は備 後屈指の名刹たる光照寺にして、宝物すこぶる多く、堂宇また広し。主任者は村長桑田基三郎氏、校長同八郎氏、 および近村の村長、校長なり。
南船北馬集 第八編 鯨背山南鎖碧煙、近看藺草満春田、農家終歳無間隙、夏務耕転冬織莚、 ︵鯨背山の南はみどりのもやにとざされ、近くにはいぐさが見え、春の畑に満ちみちている。農家は一年中 ひまなく、夏は耕したり草を除いたりし、冬はむしろを織るのである。︶ 本村中の一部落に横倉と名付くる所あり、平家の遺族と称す。今日に至るも一切白色を用いず、白衣を着せず、 古来、綿を作るを禁ず。揮も赤色のみを着用すという。ただし紙と塩だけは用うる由。その村内に平家の社あり。 田中の蛭は人の血を吸収せずという。 十八日 雨。車行して千年村に至り、更に舟行一里にして、田島︿現在広島県沼隈郡内海町﹀に渡る。周囲四里、 戸数八百余の一島なり。県下は最も島嘆に富む。周囲七里の島七個、五里の島五個あり。これを七里七島、五里 五島と称するも、田島はその中に入らず。会場は小学校、宿所は真言宗寺院奥之坊なり。門前に老朽せる古松、 その形臥竜のごとく、天然の門をなせる一樹あり。題して高倉院御手植え、八幡宮影向松という。 春雨粛々一樟風、朝姻未散望冥濠、欲留孤錫何辺好、影向松陰古梵城、 ︵春雨がのどかにふり、さっと風が吹き抜ける。朝もやがまだ残り、一望するもなおうすぐらい。孤独な旅 の錫杖をとどめようとすれば、一体どこがよいであろうか、ここは影向松の陰に建つ古い寺院である。︶ 本島に隣接せるものに横島五百戸、百島四百戸あり。主任者は田島村長大原亮一氏、校長伊藤順次郎氏、およ びほか二島の村長、校長なり。 十九日 晴れ。風なく波なく海上平滑油のごとし。舟行一里半にして浦崎に着し、これより車行一里、藤江村 ︿現在広島県福山市﹀に至り、精華高等校にて開会す。宿所は桑木丈夫氏の宅なり。屋後に塩田あり。村内は製塩と
織莚をもって産業とす。主任者は金江村長桑木由巳氏、柳津村長柳田光蔵氏、藤江村長神原房次郎氏、浦崎村長 積上強平氏、精華校長石井荘吉氏、その他各校長なり。小林郡長またここに来会せらる。 二十日 晴れ。朝気︹華氏︺五十度、春天朦朧。藤江より一里にして松永町︿現在広島県福山市﹀に至る。郡役所所 在地なり。会場尋常校は塩田の間にあり、宿所松鶴楼は停車場の正面なり。その屋後に田を隔てて八幡社の松陵 あり。町長西川国臣氏、もっぱら斡旋せらる。町内の産業は製塩三十二万円、下駄製造四十万円と称す。当町の 下駄におけるは、埼玉県忍町の足袋におけるがごとし。郡内の開会につきては小林郡長および毛利川郡視学の尽 力多きにおる。晩景に及びて暖はなはだしく、寒喧儀︹華氏︺六十度以上に上る。はじめて蚊声をきく。 二十一日 雨。松永を去りて深安郡福山町︿現在広島県福山市﹀に移る。その距離三里あり。まず城楼を望みて一 吟す。 鉄路一貫三備平、車窓先認福山城、汽焔横処楼台聾、疑是春天唇気生、 ︵鉄路は貫くこと一本、備前、備中、備後の平坦地を行き、車窓からはまず福山城がみられる。汽車の煙が よこざまにたなびくところに楼台がそびえて、春の日に蟹気楼が生じたのかとあやしく思ったのであった。︶ 郡内は四カ所の開会にして、郡斯民会の主催なり。福山にては東尋常校にて開演す。校舎設備完成、大講堂あ り。郡長吉田弘蔵氏の所談によるに、本郡は生産力県下第一にして、その額一千八十五万円に達す。これを人口 に平均するに、一人の生産力百二十五円に当たるという。物産は米麦を第一とし、これに次ぐものは織物なり。 当夕、松村旅館に宿す。福山町長は市来圭一氏なり。 二十二日 晴れ。北風寒し。車行二里、岩成小学校︹下岩成村︿現在広島県福山市﹀︺に至りて開会す。郡視学高橋
南船北馬集 第八編 伊吉氏に代わり、郡書記畠山作太郎氏同行して案内せらる。当夕は収入役坂本林次郎氏の宅に宿す。たまたま月 食皆既に会す。一天雲なく、午後八時、球面全く黒し。少時ののち明月に復し、清輝天地に満つ。ときに狂歌一 首を浮かぶ。 酌むうちに月は皆既になりたれど、酒は皆既にならぬ間に酔ふ、 当地に片山病と名付くる一種の風土病あり。農民が足を田中に入れし後、その脚あたかも漆にかぶれたるがご とき状態を呈し、漸々徐々衰弱に傾くという。その原因は田水に生育せる細虫が皮膚より身中に入る由なり。最 初は字片山の地内に限りしが、近年はその隣区に伝播するに至るという。 三月二十三日︵日曜︶ 晴れ。朝気︹華氏︺三十八度にくだり霜気あり。車行三里、下竹田村︿現在広島県深安郡神辺 町﹀に至る。会場は東安小学校なり。本村は組合村にして、小林寛一氏その村長たり。宅は八尋村にあり。当夕、 ここに宿す。本村に特有の菌︹キノコ︺マキナバと名付くるものあり。春時に限りて産する由。これを試食するに、 その味佳なり。竹田村は米作最もよろしく、一反につき四石の収穫を有する地あり。売買の価一千円、小作料二 石二斗なる由。また、本村は造酒をもって名あり。 二十四日 曇り。川南村および福山町を迂回し、鉄路によりて大津野村︿現在広島県福山市﹀に至る。その直距離 二里半ぐらいなるも、里道に腕車の通ぜざる所あるによる。途中、毎戸機織の音を聞く。川南村の字に丁と書し てヨウロウとよみ、丙と記してエトと呼ぶ所あり、あに珍称ならずや。会場小学校は大門停車場前の丘上にあり。 眺望佳なるべきも、雨を催しきたり、雲煙に遮られて遠望するを得ず。 備海春姻昼未晴、仰看丘上学堂横、寒村堪喜人文遍、汽笛声和読講声、
︵備後の海は春のかすみがかかり、昼なお晴れず、丘の上を見あげれば校舎が横ざまに建つ。寒々としたさ 48 びしい村にも喜ばしいことに文明があまねくゆきわたり、汽笛の音と本を読む声とが一緒になって聞こえて 4 くる。︶ 当夜は真言宗寺院上之坊に泊す。村内の副産業は麦桿サナダ織にして、その一力年の産額二万円なりという。 備後に入りてまず外来の耳目に触るるものを挙ぐれば、その第一は休亭なり。村々落々に一仏堂ありて、その 内に地蔵尊または観音を安置す。四方に壁なく戸なく、あけはなしにして、ただ床を張りたるのみ。俗に四ツ堂 という。乞食の宿所によろし。また、路畔往々、地神と刻せる石碑あり。農作の神にて、春秋二回これを祭ると いう。方言中にて耳に触るるものは、ハイをフエーまたはシエーという一事なり。語尾にケを付くること、なに という、かにというを、ナニイウ、カニイウと、すべてトを除くこと、たくさんをエツトと呼ぶの類なり。薩摩 薯を琉球いもというも他と異なれり。 二十五日 晴れ。大門駅より乗車して帰東す。二十六日午前、東京着。三十日、東洋大学卒業式に出席し、三 十一日、京北中学校卒業式に出席し、午後三時発の下関急行に乗り込んで、再び備後に向かう。藤沢より大磯に 至るの間、桃花まさに盛んなり。 四月一日 晴れ。午時、福山着。芦品郡視学徳満巳之吉氏、府中町助役稲垣正毅氏とともに車を連ねて車行五 里、府中町︿現在広島県府中市﹀に至る。この辺り犬の先引き大いに行わる。随行はやはり後藤菊丸氏なり。途上吟 一首あり。 麦陸漂波四月風、一条流水自西東、野梅花尽春光寂、只望青山入府中、
南船北馬集 第八編 ︵麦のうねが波にただようごとく四月の風にゆれ、 条の流水は西から東に向かう。野にある梅の花はおわ り、春の光もわびしく、ただ青い山を眺めながら府中町に入ったのであった。︶ 当夕、劇場朝日座において開演す。聴衆、場に満つ。すこぶる盛会なり。旅館平柳に宿せしに、当日その家の 幼児の死亡せるに会す。この日暖気にわかに加わり、︹華氏︺七十度に上る。 二日 雨。また冷気となり、︹華氏︺五十五度に下る。福山より府中の間には軽便鉄道敷設中なり。午後、劇場 にて再演す。郡長黒川林之助氏および発起者の招きに応じ、小錦楼にて晩餐をともにす。楼は三層館なり。開会 主催は町村有志にして、町長藤田庄兵衛氏、中江、小倉、仁科、田坂、別所、堤、稲垣、井上、田中、浜田の諸 氏、および最寄りの町村長等の発起なり。その中に宗教家あり、教育家あり、みな大いに尽力せらる。しかして 貝原茂次郎氏、もっぱら奔走の労をとらる。両日間滞在中、昼夜ともに揮毫に従事す。本郡の特産は織物にして、 一年の産額百万段、その価額百二十万円と称す。深安郡は木綿縞をもって鳴り、本郡は耕をもって鳴る。 三日︵神武天皇祭︶ 晴れ。車行二里半、坂路を経て有磨村︿現在広島県福山市﹀に至り、小学校にて開演す。主催 は村内有志にして、発起は村長原兵三郎氏、校長吉川峯三郎氏、篤志家猪原幸太郎氏、助役村上直平氏なり。村 内の産業は耕織にして、その元祖この村より出でたりという。当夕は会場をへだつる約一里、猪原氏の宅に宿す。 氏は長く村長に奉職し、村内の公益事業に尽痒せられ、その功績大いに見るべきものあり。現今退職して造酒の 改良に熱中せらる。その名酒を﹁薇陽蓬莱﹂と名付くるを聞き、余は一詩を賦呈す。 尋到薇陽塵外縦、仙家深在白雲峯、重杯一夕酌春醸、吾愛蓬莱酒味濃、 ︵薇陽の俗世をはなれた地をたずねれば、仙人の住むような家が奥深い白雲のただよう峰にあった。杯を重
ねてこの夕べに春づくりの酒をくむ。私は蓬莱にあこがれており、酒の味も濃いものであった。︶ 氏は名酒大瓶を恵与せらる。 四日 快晴。昼食を終わりて車行一里半、宜山︿現在広島県福山市﹀小学校に至りて開演す。村教育会の主催にか かる。村長は幸田兵之助氏、校長は高橋泰一氏なり。校内に方言の掲示あり。 ぼつこう︵タイソウ︶ じやりやんす︵デゴザリマス︶ いッつに︵ハヤク︶ あんなけ、こんなけ︵アソコ、ココ︶ さばる︵ヒッパル︶ いたーい︵ムツカシイ︶ 以下これを略す。宿所は宮吉郎氏の宅なり。 五日 晴れ。車行二里、服部村︿現在広島県福山市﹀小学校に至りて開演す。村内に灌概用の大貯水あり、これを 服部の大池という。車上にて一望するに、田野に菜花なく、蓮花草もなく、ただ青々たる麦色を見るのみ。本年 は稀有の寒気なりとて、柑橘類みな枯るる。また、郡内には御影石を産するをもって、土橋も板橋もなく、すべ て石橋なり。本村は養蚕業盛んに行われ、また薄荷を産出す。三備薄荷の元祖はこの村に出でたりという。主催 は村長水船峯四郎氏、助役広本三右衛門氏、校長今井重太郎氏等の有志なり。当夕は有志家浜田貫一郎氏の宅に 泊す。 四月六日︵日曜︶ 晴れ。車行一里半、戸手村︿現在広島県芦品郡新市町﹀に移る。哲学館出身下江源三郎氏の旧里 なり。氏は長崎県五島中学校において教鞭をとる。会場小学校の設備は壮大にしてかつ歴史的なり。郡内におけ る先開学校の称あり。主催は役場および斯民会にして、村長倉田市之助氏、助役豊田虎雄氏等の発起にかかる。 宿所栗原元四郎氏は醸酒家なり。この日、盈進商業実務学校長藤井曹太郎氏来訪あり。
南船北馬集 第八編 七日 晴れ。朝︹華氏︺六十度、昼︹華氏︺七十度の寒暖なり。暖気急に加わる。車行わずかに半里にして新市町 ︿現在広島県芦ロ叩郡新市町﹀に入る。郡内耕織の中心にして、名のごとく新開の市場なり。ときに途上吟一首あり。 芦田江畔麦田平、碁布村家勤織耕、駅路尋春鞭犬去、不聞鶯語只機声、 ︵芦田川のあたりは麦の田が平らかにひろがり、碁石のごとくある家々は耕織につとめている。村をつなぐ 道に春を求めて人力車の先引き犬をはげまして行けば、鶯の声はきかれず、ただ機織の音がするのみである。︶ 会場は役場楼上、主催は青年会、発起は町長福原甚太郎氏、織物組合副長奥田和一郎氏、青年会長佐藤隣三郎 氏等なり。宿所福田屋別荘は旅館として本郡第一の評あり。館壮に室広し。当夕、蚊声の耳に入ること三、四回、 はじめて蛙声を聴く。 八日 曇りのち雨。新市より車行一里半、途中、網引村県社吉備津神社を過ぎ、桜山神社を望みて常金丸村︿現 在広島県芦ロ叩郡新市町﹀に入る。会場は小学校にして、宿所は西福寺なり。その寺の門内に老松の傲然として仔立せ るあり、巨螺松と名付く。よって一詠す。 路向金丸渓上通、駆車尋到梵王宮、老松護仏恰相似、巨媒排雲立半空、 ︵道は常金丸にむかって谷のほとりを行き、車を走らせて寺院をたずねいたった。老いた松が仏をまもるが ごとくたちふさがり、あたかも巨大なまき貝が雲をおしのけるように空のなかばに立っているのである。︶ 主催は真宗寺院にして、光秀寺武田海岳氏、同竜岳氏、長泉寺内田智敬氏、光明寺千葉本嶺氏、西円寺山名昭 梁氏、西福寺山名哲昭氏の発起なり。ときに山村の春色まさにたけなわにして、桃桜栄を競う。当夜、深更まで 筆をふるう。
九日 晴れ。府中を経由して大正村︿現在広島県府中市、神石郡三和町﹀に至る。車路五里あり。村名は大正の年号 によりて定めたる新名なり。山ようやく迫り、谷ようやく狭く、人家は懸崖の上下に点在し、麦田は山頂にかか る。ときに桃桜全く開き、李花半ば白く、柳眼すでにのぶ。主催は斯民会にして、宿所は小川旅店なり。村内に は製紙をなすものあり。郡内巡回は郡書記田頭玉治氏ほか二氏、こもごも案内せらる。 十日 晴れ。朝気寒くして冬のごとし。車行兼歩行二里にして、神石郡高蓋村︿現在広島県神石郡三和町﹀に至る。 この郡に入れば田に二毛作なし。山には雪を見ざるも梅花いまだ散ぜず、桜花開くこと二、三分なり。毎戸各室 なお炬燵を設く。即時、破格をうそぶく。 巨燵して桜を見るや山の春、 郡内の物産は薪炭、牧牛、タバコ等とす。その牛は食牛にあらずして労牛なり。農家はすでに苗代に取り掛か る。会場は小学校、主催は五力村役場、発起は助役伊達肇氏、校長高橋吾一氏等、宿所は高橋旅店なり。 十一日 晴れ。車行四里余、地高低あり、路角石多し。途中、天狗橋あり。その由来を聞くに、昔時はここ地 険に路せまくして、行人数回崖下に落下せしことあり、これを天狗につき落とされたりと伝えりとそ。福永村︿現 在広島県神石郡神石町﹀に至りて開会す。朝気︹華氏︺四十五度なりしが、午後︹華氏︺六十三度に上る。村内にタバコ 専売所あり。郡内の三都と称して油木を東京に比し、福永を大阪に比し、小畑を京都に比するも、三都ともに村 にして、一の町名を有するものなし。会場は小学校、主催は四力村連合、発起は校長藤本浜衛氏、助役福万徳三 郎氏、同妹尾宇宙氏等なり。当夕、清水旅館に宿す。 十二日 晴れ。朝霧あり。山行四里、渓流に沿い群山の間を縫い、更に入谷坂三十丁を上りて、嶺頭に達すれ
南船北馬集 第八編 ば市街あり。これ油木村︿現在広島県神石郡油木町﹀にして、郡衙所在地なり。途上所見、左のごとし。 雪障松轡到処堆、出渓去又入渓来、山村春色堪吟賞、青麦田間挟白梅、 ︵雪の峰、松の山といたるところうずたかく、谷を出でてはまた谷に入って行く。山村の春景色は吟詠し鑑 賞するに足り、青々とした麦田の間には白梅がはさまって見られたのであった。︶ 郡内、山多けれども高嶺雄岳あるにあらず、むしろ低山群立すというべし。しかして渓谷狭陰なるは但馬地方 よりもはなはだし。その間、稲田麦圃あり。山上には松樹雑木多く、良材に乏し。入谷坂上はるかに雪嶺を望む は備雲二州の国界なり。油木の開会はタバコ専売所にして室内広闊なるも、午後一時すでに聴衆群集、立錐の地 なし。三里先より山坂をこえてきたれりという。開会は全く西洋時間なり。演説中、雨にわかに至る。主催は村 長池田勲介氏にして、校長原熊太郎氏、徳田利作氏等これを助く。当夕は郡長小泉金八氏等と会食す。郡視学吉 田房一氏、法泉寺川上順故氏は郡内各所に案内の労をとらる。油木は地位高きために冬期寒気強く、積雪二尺余 に及ぶという。昨今、桜花いまだ開かず。 四月十三日︵日曜︶ 晴れ。夜来の春雨はれて開晴となりたるも、風位北に転じて気候とみに寒し。車行三里、 豊松村︿現在広島県神石郡豊松村﹀に至るの間、風邪におかさる。途中、本郡第一の牧場たる仙養山下を通過す。豊 松は県下の東極にして岡山県備中に隣接す。更に途上吟一首あり。 備北原頭路不夷、群轡起伏曲渓随、仙源自有春光異、梅未落時桜已披、 ︵備後の北の野原は道も平らかならず、山々は起伏し、曲がりくねる谷がそれに沿ってある。仙人の住むよ 娚 うなところは、おのずから春の光にも他と異なるものがあり、梅花の散らぬうちに桜の花がすでにひらいて
いるのだ。︶ 54 会場は小学校、主催は両村連合、発起は村長小坂正夫氏、郵便局長井上弥作氏、校長井上源槌氏等なり。当日、 4 井上局長の宅に休泊す。夜中、余興の催しあり。神石郡は地僻、人朴にして篤実の風あり。路上相会する人みな 帽を脱して過ぐ。しかして交通不便なるために勇進活動の気に乏しという。 十四日 曇り。油木を経て新坂︹村︺︿現在広島県神石郡油木町、比婆郡東城町﹀に至る。行程四里、山高く渓深く、往々 巌石の路上にかかるありて、渓山おのずから飛騨式の形勢を有す。渓流に自動船あるは一奇観なり。渡船に船頭 なく、ただ船の両端に縄を付け、これを両岸に繋ぎおく。もし人ありて渡らんと欲するには、その船の対岸にあ るときは、縄を引きて船を引き寄せ、更に他方の縄を引けば自ら対岸に達すべし。これ飛騨の籠渡しと好一対な り。この辺りの民家は年中地炉の中にて薪を焼くも、煙出しの設備よろしからず。ために室は煤煙に染められ、 柱壁ことごとく黒色を呈す。眼にも大いに傷害を与うるならん。新坂村は県下の模範村だけあって、村民淳朴、 時間正確なり。会場は森崎嘉一郎氏宅、主催は本村長岡和藤二氏、小野村長谷本栄真氏等にして、岡村長は地方 の名望家なる由。宿所は手入館なり。当地は油木よりも気候温暖にして、桜花すでに満開なり。郡内は各戸各室 に炬燵を設くるのみならず、炬燵の上に厚き角板を載せ、その上にて食事をなす。これ越後式なり。この日、午 後より雨天となる。 十五日 晴れ。午前、東城川をさかのぼりて比婆郡東城町︵現在広島県比婆郡東城町﹀に至る。行程二里、駅道平 坦なるも、岸上断巌屹立、あるいは危岩の頭上にかかるあり、あるいは燧をうがちて道を通ずるあり。行く行く 対岸を仰げば、奇形の巨巌群列、おのおの石骨を半空に露出し、その間に春草の葉を吐きて自然に毛髪をなすあ
南船北馬集 第八編 り。里人これを備後の耶馬渓と呼ぶ。実に山陽中の奇勝なり。ただ、備山深所にありて都人に知られざるを遺憾 とす。途上吟一首あり。 四月備山風未和、春花不笑鳥空歌、渓頭一路探仙跡、暁破寒煙入比婆、 ︵四月、備後の山に吹く風はまだなごまず、春の花も咲かずに鳥のみがむなしくさえずる。谷のほとりの一 本の道に仙人のすまいのあとをたずね、暁にものさびしいばかりのもやを破るようにして比婆郡に入ったの であった。︶ この渓間山花に乏しく、桜桃の艶々たるを認めず、しかして鵠花いまだ開かず。また、行人を見ることもまれ なれば、春山寂蓼たるを免れず。しかれどもその天然の風光に至っては、ほとんど耶馬を凌駕せんとする趣あり。 ことに東城町をへだつる二里半なる帝釈のごときは、その天工の妙なること観客をして驚嘆に堪えざらしむとい う。いわゆる雄橋、雌橋はその魁たるものなり。余はここに杖をひくの余暇なく、ただ写影を対照して一絶を賦 す。 奇巌爽水幾層々、看到鬼橋身戦競、想昔女蝸補天日、築斯帝釈梵王陵、 ︵めずらしい形の岩が流水をはさんで幾重にも層をなし、鬼のかけたかと思われる橋をみて、身のおそれつ つしむ感じがした。思うにむかし女蝸氏が天を補いおさめ、この帝釈に仏教の守護神たる梵天王の陵を築い たのであろう。︶ その山内の仏堂は真言宗に属し、運を開き福を迎えんとするもの遠近よりきたりて祈願をなすという。夏時蚊 砧 声を聞かず、最も避暑によろし。東城町は郡内第一の市場にして、備中阿哲郡に隣接し、両郡交商の中心となる。
会場は僧楽座、主催は町内有志、宿所は松浦旅館、発起かつ尽力者は町長山田恭坪氏、有志家砂田新太郎氏、梶 山宰二氏、大村貞次氏なり。郡役所より書記松園譲氏、ここにきたりて迎えらる。 十六日 晴れ。山行四里、渓にそいてようやく上る。この日や天朗らかに気清く、柳葉眼を開き鶯声唇を鼓し、 菜黄麦緑の間、交うるに桃桜をもってし、春光胎蕩、実に年中の好時節なり。行程四里、小奴可村︿現在広島県比婆 郡東城町﹀に至る。山間の小駅なるも四面に平田あり、かつ備中および伯書と境を接す。民家の生産は耕作と牧畜 なり。日中の寒温︹華氏︺六十七度にのぼる。会場は小学校、主催は斯民会および教育会、発起は村長渡辺嚢一氏、 校長加藤誉一氏、および他村長なり。この山間には冬時、丈余の積雪を見るという。 十七日 晴れ。天気清朗昨日のごとし。山行三里半、途中、砂鉄を採出せる跡あり。本郡の山地はすべて砂鉄 を含有せるをもって、数十年前までは採鉄事業盛んなりしが、近年洋鉄に圧せられて、ほとんどみな廃業するに 至れりという。のぼること約一里、くだること約三里にして西城町︿現在広島県比婆郡西城町﹀に達す。町はまさし く雲伯二州へ出ずる駅道に当たる。道路すこぶるよし。この間の山脈は東城、西城両川の分水嶺にして、東方の 水は流れて備中に入り南海に注ぎ、西方の水は流れて石州に入り北海に注ぐ。はるかに北天を望めば峰頂なお雪 をいただくものあり。これ備伯二州の分界嶺なり。西城町の会場は劇場、主催は郡斯民会および教育会、発起か つ尽力者は町長渋谷与三郎氏、局長秋山九郎氏、校長磯田真氏、銀行員小田寛一氏、医師渡辺登二氏、有志者山 城利作氏、および近郷村長なり。宿所洗心館は渓流に枕し、水声夢に入りきたる。 夜もすがら水の響にゆられつ﹀、夢地を渡る山里の宿、 当地は多く紙の原料たる三叉を産出す。郡内は昨今苗代の最中なり。この日、郡長荒木喬氏来会せらる。当地
南船北馬集 第八編 にては揮毫所望者すこぶる多し。 十八日 晴れ。西城町より四里、渓流にそい曲折蛇のごとく平坦といしのごとき道を一走して、郡衙所在地た る庄原町︿現在広島県庄原市﹀に着す。ときに春色渓頭に満ち、桃花歴乱李花香の趣あり。これに加うるに螂燭花の 点々媚を呈するありて、その間に鶯語噂々たり。 一路傍渓窮又通、坦如砥面曲如弓、満山春色看難尽、螂閲花交桃李中、 ︵ひとすじの道は谷にそって行き止まりかと思えばまた通じ、道の平らなるときは砥石のごとく、曲がると きは弓のようである。山はすべて春の景色に満ちてとうてい見つくすことはできぬ。ときにつつじが桃やす もものなかにまじって咲いているのである。︶ 会場は東雲座、主催は前日のごとし。その・王なる発起者は郡役所員をはじめとし、町長板倉純之氏、助役森信 静氏、校長幸巴氏、ほか隣村校長なり。旅館右近屋は奥行最も深く、入来の客は勝手場台所を検閲しつつ奥座敷 に入るは、他所に多く見ざる設備なり。ただし備後にはこの風の旅館多し。当夜は荒木郡長の好意にて特に晩餐 を設けらる。名物鯉の糸作りは最も賞味するところなり。この料理法は島根県において盛んに行わる。 十九日 晴れ。午前、実業学校に至りて講演をなす。校長は野田環氏なり。生徒三百人中、約三分︹の︺二は女 生徒なるは一特色とすべし。当日は市日にして、近在の農夫街上に集まり店頭に群がる。毎月三回、九ノ日を市 日とすという。午後、山内東村を過ぎて、二里余離れたる山内西村︿現在広島県庄原市﹀に至る。東村には頼杏坪翁 の遺跡あり。翁の徳望は郡内に高く、その牧民の治績は二宮尊徳翁に譲らずとの評なり。西村の会場は妙延寺に 57 4 して、主催は連日のごとし。しかして発起者は村長河面忠次郎氏等なり。その地は庄原と三次との中間にあり。
当夕、車をめぐらして庄原に帰宿す。この辺りは郡内第一の平原部なりとす。 四月二十日︵日曜︶ 雨。今日より郡視学中村正氏が松岡書記に代わりて案内せらるることとなる。大雨を冒し て磐野嶺を昇降す。登路一里余あり。婦人、腕車の先引きをなす。この日、行程五里、車行四時間にして比和村 ︿現在広島県比婆郡比和町﹀に達す。長さ八里、幅六里の大村なるも、戸数千に満たず。ただし学校は五カ所にあり。 会場は円光寺、発起者は村長荒木広将氏、校長平山純一氏、および宗教家等にして、宿所は毛利旅館なり。戸々 室々みな炬燵を設く。よって一吟す。 千渓万曲路何迂、遥到孤村俗自殊、寒去暑来難脱慣、山家無室不囲炉、 ︵千を数える谷に万を数えるほどの曲折、道はいったいどれほど曲がりくねるのか。はるかにぽつんとある ような村に着いたが、風俗はおのずと他と異なっている。寒さが去り、夏が来ても生活様式は季節によって かえることなく、山中の家では部屋ごとにこたつがもうけられているのである。︶ 二十一日 晴れ。この日また嶺をこえて上高野山村︿現在広島県比婆郡高野町﹀字新市に至る。車行三里半なり。 その嶺上に王居峠神社あり、小社なり。これ後醍醐天皇行在所の遺跡なりと伝えり。新市は海抜一千八百尺の高 地にあり。出雲の国境を離るることわずかに一里半なり。山上より遠望すれば、宍道湖および北海を眼界に浮か ぶるを得という。家屋は北国式の板葉ぶき多し。冬時積雪の多きためなり。農家すでに田打ちにかかり、農繁期 に入る。田植えはすこぶる早くして、五月中旬より始むという。田の植え方は一坪二百株より三百株を常とす。 かく密接に植え付くるは、夏時温度の低くして稲苗の繁殖力の微弱なるためなり。毎戸五、六月ごろまで炬燵を 用い、蚊帳と炬燵と交代をなすという。﹁山里や蚊帳と炬燵と入替る﹂といいて笑えり。会場は小学校、発起者は
南船北馬集 第八編 村長白尾信次郎氏、僧侶西本大恵氏等なり。宿所田村旅館にて当村名物の蕎麦を喫す。 二十二日 雨。新市を発して金尾峠を登る。絶頂まで二里あり。雪ようやく消尽して泥いまだ乾かず。これに 加うるに風雨やまず。石高く泥深く、山路すこぶる険悪なり。二人びきにて車を進むるも、顛覆せんとすること 数次に及ぶ。ロ北村︿現在広島県比婆郡口和町﹀まで行程四里の間を四時間を費やして達せり。山上には全く樹木な く、ただ雑草あるのみ。その一部には牧場ありという。村に入れば李花満開、いたるところ白し。この辺りの農 民はすべて吉野袴を用う。これを雪袴と名付く。会場は小学校にして、今より二十六年前に建築せし旧式校舎な り。発起は村長原正衛氏とす。しかして郡内各所の主催名義は主として郡斯民会なり。当夕、造酒家松島浅之助 氏の客室に宿す。深夜雷鳴ありて雨はなはだしく至る。気候温暖に過ぎたるによる。 二十三日 晴れ。渓に沿いて下行すること三里、双三郡君田村︵現在広島県双三郡君田村﹀に移りて開会す。この 日、南風強く暖気にわかに加わる。郡書記有田農吉氏ここにきたりて迎えらる。村は渓間に深く入り込み、長さ 八里にまたがる。多く薪炭を運出す。本郡は真宗ことに盛んにして、本村は全く真宗なる由。紀念橋を渡り、善 照寺にて御詔勅を敷街せるに、演説の前後一人の拍手するものなく、ときどき念仏の声を聞くのみ。 駆車峡路入双三、聴衆満堂僧俗参、起上講壇無拍手、称名声裏結清談、 ︵車を駆って峡谷の道を行き双三郡に入る。講演では聴衆が本堂いっぱいに集まり、僧と一般の人とがまじ ってきいている。ただし、演壇にのぼっても拍手はなく、ときどき念仏を唱える声のするなかで講演は終わ ったのであった。︶ 硯 主催は村内有志にして、村長渋川隆氏等なり。旅店谷本方に泊す。
二十四日 晴れ。君田より二里半を下り、県下山間部第一の都会たる三次町︿現在広島県三次市﹀に至りて開演 す。会場照林坊は備後唯一の大坊にして、本堂、書院ともに広く、堂々たる一本山の構えあり。その檀家、従前 は一千五百戸ありと称せり。比婆山中にては桜いまだ全く開かざる所ありしに、本郡に入れば桃李すでに落尽し て、八重桜および梨花まさに盛んなり。また、麦のすでに穂を吐きたるあり。もって気候の相違を見るべし。こ の日、暑気午後︹華氏︺七十度にのぼる。聴衆満堂、千二百人と目算す。郡長水上七郎氏︵法学士︶も出席せらる。 主催は斯民会にして、その発起は郡書記今井利一氏、郡視学福城鹿夫氏、町長桑原精之進氏、助役山田藤太郎氏 等なりとす。当町は三川三方より流下して相合し、郷川となりて石州に注ぐ。その合流の点は巴形をなせるより、 巴城または巴津と名付く。水利最もよく、一樟し石州郷津に達すべし。 三次街頭瓦屋連、巴津堤上客楼懸、長流数帯悠然去、合作山陰第一川、 ︵三次町の街には瓦屋根が連なり、巴津の堤の上に旅館がたつ。長い川は数本をあつめてゆったりと流れ、 山陰第一の川となるのである。︶ 右は旅館香川別亭楼上の即吟なり。もし当所の名物を挙ぐれば、香魚、霧海、積雪なりとす。 夏は香魚、秋は霧海、冬は雪、これぞ三次のみよしなりける、 霧海とは四面白霧地を埋め、荘々海のごとくなるをいう。いわゆる﹁蒼波路遠雲千里、白霧山深鳥一声﹂︵青々 としげる道は遠く、雲は千里のかなたまでひろがり、白霧にうずもれる山の奥深いところに鳥のひと声がした。︶ の郷を現す。この三名物に加うるに鎌の一名物あり。風景もまた大いによし。近年中に広島より鉄道を敷設する 計画ありと聞く。夏時の漫遊者は一遊して可なり。
南船北馬集 第八編 二十五日 晴れ。暁天一面に白く、霧海の名物を実験す。その霧ようやく薄くして山影を浮かべたるところは、 海上の孤島を望むがごとき趣あり。行程三里、渓流にそいてさかのぼる。島根県に通ずる県道なれば平滑なり。 これに加うるに満山の新緑鵠花と相映じ、山紫水明の間をわたりて布野村︿現在広島県双三郡布野村﹀に入る。会場 は福泉坊、主催は助役大野平八郎氏、局長長岡塊三氏等村内有志、宿所は池神旅館なり。ここより雲州飯石郡国 境まで約三里、赤名町まで五里と称す。この日ことに暑く、寒温儀︹華氏︺七十六度に上り、演説中発汗をなす。 二十六日 雨。軽行一里、その間小嶺を上下し、更に車行一里にして作木村︿現在広島県双三郡作木村﹀に入る。 本村は県下第一の大村にして、長さ八里、幅四里にわたれる地積を有し、戸数約千二百戸あり。もと十四力村を 合併せるものなりという。会場は東光坊、主催は僧侶坂原三好氏、村吏金広長作氏等なり。当夕、郵便局長菅司 吉氏の楼上に宿するに、顔前に峻峰と対し、脚下に長江を帯ぶ。その峰は石州の山、その江は郷川なり。しかし てまた、左方に当たりて芸州の山と相接す。座して三州の山を対観するは旅中の一興なり。 四月二十七日︵日曜︶ 雨。郷川に沿いて車行一里半、対岸の人家は石州邑智郡と芸州高田郡とに属す。更に軽 をうがちて渓に入り、坂をのぼること約一里にして作木村字大山に着す。山上の高原にある小村落なり。会場お よび宿所たる浄円寺の堂前には巨松あり。昼夜両度開演す。村長岩崎静雄氏、僧侶足利顕俊氏等の発起にかかる。 二十八日 開晴。大山を発して行くこと三里、道路小石ありて平滑ならず。三次町を経由し、巴橋を一過して 原村︿現在広島県三次市﹀に至る。民家集まりて市街をなす。三次町を隔つるわずかに一橋あるのみ。会場兼宿坊は 覚善寺にして、山門の新築すでに成り、書院また新たなり。この日、行路吟一首あり。 三次川頭駅路横、満山新緑雨余清、渓風猶冷杜鵠黙、螂躍花辺只聴鶯、
︵三次の川のほとりに道がよこざまに、山に満ちる新緑は雨の後ですがすがしい。谷を吹く風はなお冷たく、 ほととぎすも鳴かず、つつじの花のあたりにただ鶯の声がするのみである。︶ この郡内に入りて往々二毛作あるを見るも、麦の生育佳ならず。また、麦田の外に麻圃ありて相交わる。午後 開会す。水上郡長も出席せらる。主催は宿寺住職常光得然氏にして、有志家岡田芳吉氏等とともに尽力あり。 二十九日 晴れ。午前、原村を去りて行くこと十余町、八次村く現在広島県三次市∨なる三次中学校に立ち寄りて 一席の講話をなす。校長は泉英七氏なり。これより更に行くこと約二里、田幸村︿現在広島県三次市﹀立泉寺に至り て開演す。途中、蝉声を聞く。また、蓮花草の田頭を飾るを見る。 三十日 雨。田幸より二里、坂をこえ渓をさかのぼり、川西村︿現在広島県三次市、双三郡三和町﹀善立寺に至りて 昼夜ともに開会す。主催は同寺住職藤永長丸氏、および有志市場謙一氏なり。庭園の林池に対して一詠す。 春光満山寺、紅緑染閑庭、深院無人語、池蛙和諏経、 ︵春の光は山中の寺に満ち、紅の花と緑がのどかな庭をいうどる。おく深い僧院には人の話し声もなく、池 の蛙の声が読経にあわせている。︶ 五月一日 雨。早朝、大雨をおかして車行三里、三良坂村く現在広島県双三郡三良坂町v出雲教会場にて開会す。聴 衆、新築社殿にあふる。村長渡辺熊太郎氏、校長世良茂氏の主催なり。これより更に車行二里、吉舎村︿現在広島 県双三郡吉舎町﹀に移る。雨ようやくはれて風に変ず。会場および宿所は明覚寺なり。主催は村斯民会および仏教 崇徳会にして、住職不二川哲応氏、村長福永鉄之助氏、助役井上弥市氏、銀行取締石田九郎二氏等の発起にかか る。当村には年々五月の大市あり、今日より開市す。物産は造酒を第一とす。名義は村なれども町形を有し、商
南船北馬集 第八編 業地なり。 二日 晴れ。吉舎村に滞在して開演す。ただし午前は私立中学校日彰館において講話をなす。校長は宮沢順定 氏なり。四山の新緑、煙を染めて一望蒼然たり。よって一吟す。 泥靴今日脱何辺、吉舎村頭馬洗川、宿雨晴来山色改、春青日彰館前姻、 ︵この泥にまみれた靴を、今日はいったいどこに脱いで泊まろうか、ここは吉舎村を流れる馬洗川のほとり である。前日からふりつづく雨があがって、山の色も新鮮なものとなり、若々しい日彰館の前にもやがたち こめた。︶ 街路を横断して流るる水を馬洗川と名付く。また、村外に小富士あり。その形富士山に似たるをもって備後富 士ともいう。後鳥羽上皇隠岐御遷幸の当時、ここに駐鐸し給いしとの所伝あり。郡内各所はことごとく有馬郡書 記案内の労をとられたり。 三日 晴れ。吉舎を発し鍋割峠を上下して甲奴郡に移る。行程三里、車上鴎花および藤花を吟賞しつつ甲奴村 ︿現在広島県甲奴郡甲奴町﹀に入り、小学校にて開会す。校舎は古式の建築にしてすこぶる異風なり。しかれども二十 四年前には県下の模範校舎なりしという。村長兼県会議員渡辺就三氏の発起なり。新築旅館府中屋に宿す。郡役 所より視学松葉宇三郎氏出張せらる。 五月四日︵日曜︶ 晴れ。朝気︹華氏︺四十八度にして寒冷を覚ゆ。霧ありて渓山一面に白し。九時に至りてよう やくはるる。 63 4 豚々備山縦又横、甲奴客裏夏将生、暁窓驚見渓皆白、霧散依然復紫明、
︵脈々と続く備後の山は縦横に連なり、甲奴村を旅ゆく人にいまや夏になろうとしている。暁の窓べに谷が すべて白くなっているのに驚く。白霧が散ってみれば、いぜんとして山紫水明の地なのである。︶ 本郡は県下の最小郡なるのみならず、全国中最小郡の第三位におるという。地勢は神石郡と同じく山また山、 渓また渓、群轡列立するも、比較的渓間広くして耕田多し。故に物産は主として米麦なり。甲奴村より渓流に沿 い、下行迂回して田総村く現在広島県甲奴郡総領町vに至る。その里程四里ありとす。村家の庭内、牡丹および桐花 の満開を見る。会場竜興寺の門前に一奇堂あり。一脚の柱のみにて建てたる小堂なり。村長山名政登氏の発起に て開会す。宿所は宇野旅館なり。郡書記高田林太郎氏ここにありて迎えらる。 五日 晴れ。県道五里、渓山を上下して上下町︿現在広島県甲奴郡上下町﹀に至る。その町小なるも財産家多きを もって県下に聞こゆ。物産は薪炭、木材、戸障子なり。会場は専教寺、宿所は影山旅館なり。しかして郡内各所 の主催は郡斯民会なり。会長は郡長後藤居三郎氏にして、今日出席せらる。この日、途上作一絶あり。 路多凹凸犬扶車、曳到翁山姫水涯、春過田家農事急、麦皆吐穂稲抽芽、 ︵道はでこぼこで犬が人力車を引いてたすけ、ひかれて翁山と姐水のみぎわに至る。春すぎて農家の仕事は いよいよ忙しく、麦はみな穂を出し、稲はその芽をのばしている。︶ 街路尽くる所に孤峰の蔚然たるあり、その名を翁山という。山容すこぶる佳なり。また、街後に一川あり、上 下川という。余はこの川を翁山に対して仮に姐水と名付く。 六日 晴れ。世羅郡より郡書記荒木新造氏の出でて迎えらるるあれば、氏とともに車行して同郡東村︿現在広島 県世羅郡甲山町﹀に至る。行程四里、途中、広定村字小童を通過す。これをヒチと訓ず。郡長古玉寿太郎氏ここにき
南船北馬集 第八編 たりて歓迎せらる。会場は小学校、休憩所は村長井上幸七郎の宅なり。郡内の主催はすべて郡斯民会にして、本 村の発起は井上村長および助役大原信太郎氏等なりとす。演説後ただちに腕車を飛ばし、下行二里、本郡の首府 たる甲山町田村旅館に入りて泊す。日まさに暮るる。 七日 快晴。甲山町の戸数は上下町に譲られざるも、市街中点々茅屋あり。街後に屹立せる崇山を甲山と名付 く。山の方はカブトヤマといい、町の方はコウザンと呼ぶ。地勢は神石、甲奴に比するに、やや広闊にして稲田 多し。物産は米麦を主とす。山上はみな松林なり。旅館の後庭に緑葉紅花相映ずるを見て一詠す。 備北何辺散客懐、甲山脚下甲山街、満庭夏色濃於雨、新緑残紅滴石階、 ︵備後の北、いったいどこに旅人のおもいを発散できようか。甲山のふもとに甲山町がひろがる。旅館の庭 いっぱいの夏の景色は雨に濃さを増し、新緑と散り残りのあかい花が石のきざはしにしたたりおちている。︶ 午時、甲山より車行二里、西太田村︿現在広島県世羅郡世羅町﹀に至り、午後、照光寺にて開演す。助役児玉舜生 氏等の・王催なり。本村に二五と名付くる姓あるは珍し。当夕、田淵客舎に宿す。郡内の旅宿料は一等一円、二等 八十銭ないし八等二十五銭との掲示あり。もって物価の一斑を知るべし。 八日 晴れ。車行二里、青松轡と緑麦田との間をわたりて神田村︿現在広島県賀茂郡大和町﹀に至る。麦穂に交ゆ るに蓮花草の地に敷くあるは、目をたのしましむるに足る。会場は小学校、発起は村長末盛直人氏、助役曾利周 作氏、校長伊藤勘太郎氏なり。当夕、有田政一氏の宅に泊す。古玉郡長も同宿せらる。 九日 晴れ。山路を横ぎり松林をうがち、車行三里、吉川村く現在広島県世羅郡世羅西町、賀茂郡豊栄町、双三郡三和 鰯 町vに至る。行路石多くして滑らかならず。ただし蝉吟蛙語の客情を慰むるあり。会場は善仁寺、宿所は小国村藪
花旅店、発起は村長長寿彦氏なり。黄昏より雨降り、麦色蛙声一段の趣を添う。 66 十日 晴れ。この日、北風強く寒にわかに加わり、朝気︹華氏︺五十度に下る。車行二里、上山村︿現在広島県双三 4 郡三和町、賀茂郡豊栄町、世羅郡世羅西町﹀に移る。会場、宿所ともに光永寺なり。本村長寺野直一郎氏、津名村長佐々 木寿太郎氏の発起にかかる。門前にて一望するに、地形はすり鉢形の一郷なり。渓水は北流してその末は郷川に 合す。昨日来の客中作一首あり。 一路無人渓色濃、満田緑麦満山松、林間有響近相見、汲水僧都転々春、 ︵ひとすじの道には人影もなく、谷の色は深く濃い。田には緑の麦が満ち、山は松がおおっている。林の間 に響く音があり、近づいてみれば、そこには水をくみ上げる水車がまわる臼つく姿があった。︶ 備後にては雲州のごとく独木水車を僧都と呼ぶ。 五月十一日︵日曜︶ 晴れ。夜来風やみて霧を醸し、暁望濠々、四面海のごとし。行程三里半、平坦なり。津久 志村︿現在広島県世羅郡世羅町・世羅西町﹀法泉坊に至って、開演かつ宿泊す。村長平野桃次郎氏の発起にかかる。 十二日 晴れ。津久志より直通せる車道なきをもって、迂回して車行三里、大見村︿現在広島県世羅郡世羅町、双三 郡吉舎町﹀に着し、茶店に少憩ののち小学校に至りて開演す。演説のまさに終わらんとするや、雨ようやくきたる。 古玉郡長、荒木郡書記と県道三里の間、車を連ねて競走し、一時間にして甲山町︿現在広島県世羅郡甲山町﹀に着す。 ほとんど自転車の速力なり。田村旅館に入るとき日すでに暗く、雨粛々たり。この日また一吟す。 林禽無語世羅山、車過蝉声松影間、蛙鼓起時天欲雨、耕田人荷笠蓑還、 ︵林に鳥の声もなく世羅の山をゆく。車は蝉の声ふりかかる松の樹の間をぬけて走る。蛙の声がにわかに起
南船北馬集 第八編 こるときは天も雨を降らさんとするときであり、田を耕す人は笠やみのを身につけてかえるのであった。︶ 十三日 雨のち晴れ。午前、斯民会表彰授与式に参席す。偶然、県庁より出張せられたる永井貫一氏︵元哲学 館出身︶と相会す。甲山町の寺院に、県下に最も名高き孝子姫女の墓ありと聞く。午後、郡立実科女学校に至り て修身談をなす。校長は羽田良氏なり。校舎改築すでに成る。つぎに、小学校に移りて斯民会の講演をなす。講 堂広きも聴衆、堂内にあふれて堂外に及ぼす。会長は古玉郡長なり。荒木書記は郡内各所へ同行して斡旋せられ たり。郡視学小林慶一郎氏、町長梶谷史郎氏、校長本庄貫一氏等も、みな甲山開会に助力あり。 十四日 快晴。甲山町は徴兵検査の準備中なり。犬の先引きにて御調郡に入り、市村より嶺に登るときは馬の 先引きを用う。正午十二時、尾道市︿現在広島県尾道市﹀古谷旅館に着す。気候とみに夏に入りたる心地をなす。行 程八里にして坂路あるも、駅道平滑なり。四月一日以来潮風に沐したることなきに、今日海気に接してことに爽 快を覚え、かつ新鮮の生魚を得て大いに晩酌と親しむ。 六旬穿破備山雲、今日初看海色分、楼上把杯先一賞、鮮魚満膳放清芽、 ︵六十日、備後の山の雲をふみやぶるように行き、今日、はじめて海の色のあざやかさを見た。旅館階上に 杯を手にまず賞味すれば、鮮魚は膳の上いっぱいにならび、いいかおりをはなっているのである。︶ 夜に入り、天寧寺にて開演す。寺は曹洞宗の大刹なり。市教育会および各宗協会の主催にして、市長西村益三 氏、助役小林徳太郎氏、市書記野本直一郎氏、教育会長渋谷栄吉氏、協会理事長高橋月仙氏︵会場住職︶等の発 起にかかる。尾道市は前日まで物産共進会ありしために、なんとなくにぎわいおれり。当地富豪かつ名望家橋本 67 吉兵衛氏は哲学館館賓にして、今回も開会に関して助力せられたり。 4
前すでに備後におけるわが耳目に触るるものを掲げしも、更にその特色たる点を挙ぐれば、備後一般に荷車の 柄の構造異なれり。両猿木の先端に横木なくして、ただその柄を両わきにはさみて引くなり。神石郡などにては、 道に知らざる旅人に遇っても挨拶して過ぐ。また、各郡にて人の家を去るときに﹁御用心ナサイ﹂といい、相会 するときに﹁御難儀デゴザリマショウ﹂という。つぎに、迷信に関して最も名高きものは外道なり。これあたか も雲州の人狐のごとく、外道の住する家柄ありて、その家七十五匹の外道住し、これと結婚するときはその外道 が移住をなすとて、結婚を避くるなり。しかして外道なるものは一種の妖怪的獣類と信ず。また、トウビョウと 名付くるものあり。因州にてはトウビョウを狐の一種となせども、備後にては蛇の一種となす。これまた人に葱 付して悩ますものと信ず。備後の山間部にては迷信すこぶる強く、今より数十年前までは出雲大社教管長の回村 せらるるときは、その宿所の浴水をもらい受けて帰るもの多く、この水にて眼を洗えば眼病にかかることなしと 信ぜしものありと聞く。また、児童の学齢に達して入学を促されたるときは、まず陰陽師にはかり、もし今年は 不吉なりと判断せらるれば、入学を翌年に延ばせしものありと聞く。人情朴直だけありて迷信も比較的深き方な り。道路は山地なるにもかかわらず、よく開けて車を通ずるに便なり。小学校の校舎は建築の完美せるものいた ってすくなし。ある郡のごときは、学校よりも寺院の方に重きを置くがごとく見受けたり。各郷みな渓山の間に ありて天然の境遇編小なるために、人気淳良なると同時に保守に過ぐる点なきにあらざるも、幸いに政争の弊、 民心を撹乱せるを聞かず。将来これを善導するに至らば、必ず良国民となるべし。 五月十五日 晴れ。午前、尾道発車。午後二時、播磨国揖保郡龍野駅に着し、哲学館出身金森従憲氏の先導に て、車行二里、龍野町︿現在兵庫県龍野市﹀円光寺に至りて開演す。余のこの寺にて講演を開きしは三回目なり。夜
南船北馬集 第八編 に入りてまた開会す。主催は修徳会にして、今回はその発会式なりという。郡長安達儀一郎氏は郡視学山本貞蔵 氏を従えて出席せらる。しかして・王動者は多田厳清氏、松山托瑞氏、窪田謙譲氏、および金森氏なり。松山氏も 哲学館出身たり。当夕は梅玉旅館に宿す。四隣清閑なり。 十六日 晴れ。午前、郡立実科女学校にて講話をなす。校長は近藤安太郎氏なり。姫路より陸軍歩兵中佐下江 孝氏来訪あり。これより電鉄にて網干駅に至り、山陽線に転乗して神戸に向かう。龍野の方言につきて県下に伝 うるところを聞くに、﹁龍野ナマリハ猫サヘナマル、ニャヲくくニャヲくく﹂というはおもしろし。また、 龍野近在の寺院の姓に睾采とかきてハナツとよませ、尺一とかきてサカクニとよませるは奇なり。睾采は稗の字 を分解せるはいうを待たず、尺一は寺の字が十一寸とかくより起これる由。かくして午後四時半、神戸く現在兵庫 県神戸市v三之宮駅に着し、岡田、潮田両氏の案内にて、高等商業学生集会所に至り、ここに宿泊す。湾内の風光、 望中に入る。図らずもスペイン語兼修の学生の接待を受く。 十七日 晴れ。午後零時半、高等商業に至りて講話をなす。翌日競漕大会あるにもかかわらず、多数の学生出 席あり。更に三時より、神戸高等小学校に至り、市教育会の依頼に応じて開演す。高等商業校長水島鉄也氏その 会長たり。これより割烹店に移りて哲学館関西同窓会に出席す。市教育会幹部の人も来会せらる。 ︵教育会︶水島鉄也、増戸鶴吉、芥川梅次郎、阿江宏、新井博次 ︵同窓会︶伊賀駒吉郎、高安博道、岡田桂岳、後藤菊丸、岡田英定、松本雪城、松井亀蔵、寺崎慈弁、湯崎弘 雄、釈泰詮、間人一郎、島田竜造、潮田玄丞 余を合して十九名なり。当夕十時半の急行にて帰東の途に就く。京都停車中、新町徳兵衛、原田秀泰、田中了
恵三氏、車中にきたりて訪問せらる。翌十八日午後二時、帰宅す。 市郡 尾道市 沼隈郡 同 同 同 同 同 同 深安郡 同 同 同 芦品郡 備後国開会一覧 町村 松永町 靹町 津之郷村 山南村 田島村 藤江村 千年村 福山町 下岩成村 下竹田村 大津野村 府中町 会場 寺院 小学校 劇場 小学校 寺院 小学校 小学校 寺院 小学校 小学校 小学校 小学校 劇場
二二二二二二二二二二二二二席
席席席席席席席席席席席席席数
聴衆 七百五十人 三百五十人 六百人 六百五十人 九百人 七百五十人 八百五十人 四百五十人 四百五十人 四百五十人 三百人 四百人 一千二百人 主催 市教育会および各宗協会 郡青年会 同前 同前 同前 同前 同前 村内有志 郡斯民会 同前 同前 同前 町村有志南船北馬集 第八編
同同同同比同同同同神同同同同同同同
婆 石
郡 郡
新市町 有磨村 宜山村 服部村 戸手村 常金丸村 大正村 油木村 高蓋村 福永村 豊松村 新坂村 庄原町 同 東城町 西城町 小奴可村 ’ 町役場 小学校 小学校 小学校 小学校 寺 院 村役場 タバコ専売所 小学校 小学校 小学校 民家 劇場 実業学校 劇場 劇場 小学校席席席席席席席席席席席席席席席席席
百五十人 三百五十人 三百五十人 四百人 二百五十人 四百人 百人 一千百人 六百人 四百五十人 三百五十人 四百五十人 一千人 三百人 五百人 八百人 三百五十人 町青年会 村内有志 村教育会 村内有志 役場および斯民会 真宗寺院 斯民会 村長 五力村役場 四力村連合 ニカ村連合 ニカ村連合 郡斯民会および教育会 校友会 町内有志 郡斯民会および教育会 同前甲同同同同同同同同同同同双同同同同
奴 三
郡 郡
山内西村 比和村 上高野山村 口北村 三次町 八次村 原村 君田村 布野村 作木村 同字大山 田幸村 川西村 三良坂村 吉舎村 同 上下町寺日寺教寺寺寺寺寺寺寺中寺小小寺寺
院彰院会院院院院院院院学院学学院院
館 校
校校
ニー四一三二三二二二ニー二二二二二
席席席席席席席席席席席席席席席席席
五百人 三百人 五百人 四百五十人 一千二百人 三百五十人 八百人 四百五十人 四百五十人 七百人 五百人 六百五十人 六百五十人 七百人 九百人 三百人 六百五十人 同前 同前 同前 郡斯民会 郡斯民会 校友会 寺院 村内有志 村内有志 村内有志 斯民会 住職および村長 住職 村長および校長 斯民会および崇徳会 同館 郡斯民会南船北馬集 第八編
甲奴村
同田総村
同甲山町
世羅郡 同 同東村
同西大田村
同神田村
同吉川村
同上山村
同津久志村
同大見村
同 以上合計 一市、 人、 小学校 寺院 小学校 実科女学校 小学校 寺院 小学校 寺院 寺院 寺院 小学校席席席席席席席席席席席
五百人 二百人 一千百五十人 百人 五百人 二百五十人 六百人 四百五十人 七百人 四百五十人 五百人 八郡、五十三町村︵十一町、四十二村︶、五十八カ所、 日数五十六日間︵東京往復および滞京の日を除く︶ 演題類別 一、詔勅および修身に関するもの 二、妖怪︹および︺迷信に関するもの 三、哲学および宗教に関するもの 四十五席 三十席 十五席 同前 同前 郡斯民会 校長 郡斯民会 同前 同前 同前 同前 同前 同前 百十五席、 聴衆三万一千四百五十四、教育に関するもの 十二席 五、実業に関するもの 五席 六、雑題︵旅行談等︶に属するもの 八席 ︵備後中御調郡だけは、つぎの広島県巡講日誌の中に入る。︶ その他、帰行途上の分は 播州揖保郡 同 神戸市 同 合計 一市、 龍野町 同 一町、 詔勅修身談 妖怪迷信談 教育談 雑題 寺院 二席 実科女学校 一席 高等商業学校 一席 小学校 二席 四カ所、六席、一千九百人 三席 一席 一席 一席 七百人 三百人 四百人 五百人 修養会 同校 校友会 市教育会
加能越漫遊紀行
南船北馬集 第八編 大正二年五月二十日、瓢然として加、能、越、漫遊の途に就く。一は春来数日にわたりて身心ともに疲労せし につき、これが休養をなさんためなり、一は妻の旧里が加州金沢にして祖先の墳墓も同所にあれば、その墓参を なさんためなり。駅路駿州に入れば麦田過半黄色を帯ぶ。当夜、遠州浜松花屋旅館に一泊す。浜松の名物は冬は 風、夏は蚊なりとて、五月一日より毎夜蚊帳を用うという。 二十一日 晴れ。浜松を発し米原に一休す。旅館としては停車場前に井筒屋本店あり。更に乗車し、午後四時 半、越前敦賀に着す。駅より車行八丁にして旅館具足屋に投宿す。先年福井県各郡を周遊巡講せしより十一年を 経たれば、土地の情況も多少の変動ありしを見る。晩食前、緩歩して官幣中社金崎神社に登詣し、社背の崖頭に 立ちて晩望を放つに、一湾の風光眼下に落ちきたる。よって一吟す。 絶壁崖頭社宇尖、一湾碧水映珠簾、望中汽笛俄然起、巨舶留煙向浦塩、 ︵絶壁のきり立ったがけのあたりに神社のひさしがするどくかかり、湾すべての深みどりの海は珠のれんの ごとくきらきらと輝いている。一望のうちに汽笛の音がにわかに吹きおこり、巨大な船舶が煙を残して浦塩 ︹ウラジオストク︺に向かうのであった。︶ 市外に松原公園あれども、日すでに暮るるをもって行くことを果たさず。 二十二日 開晴。敦賀より鉄路に駕し、緑葉森々紅花点々の間を一走して、越前のいわゆる嶺南より嶺北に入る。米田すでに挿秩に着手せり。秩の長さわずかに二、三寸なり。 76 緑葉紅花雲半扁、出山一望潤如漠、堪驚南越挿秩早、麦未黄時田已青、 4 ︵緑葉がしげり、あかい花の咲く地は雲が半ばをとざし、鉄路の山中より出て一望すれば、からりとひらけ て大海のようである。そこでまことに驚いたのは越前での田植えは早く、麦の穂がまだ黄色みをおびない時 期に、田はすでに青々としていることなのである。︶ 加州大聖寺駅に降車す。当駅より吉崎御坊まで一里半、山代温泉まで一里二十丁、山中温泉まで二里二十五丁 あり。山中へは本年三月以来電鉄開通せるにつき、電車に駕して吉野屋第一別館に入宿す。当地は旅館にいわゆ る内湯を置かず、浴客はみな共同浴場に至らざるを得ず。これに上、中、下、三等あり。上等を白鷺湯という。 入浴料一回金十銭を要す。中等を葦の湯と名付く。一回五銭とす。しかして三等は一銭なり。 二十三日 晴れ。午前、歩を散じて黒谷および蛭蜂橋に至る。一帯の渓流の懸崖断巌の間を走るあり、樹色橋 影の碧潭に映ずるありて、実に幽遼閑雅の勝地たり。一浴するもの必ず、まず歩をここに進めざるはなし。当地 の物産は陶器と漆器にして、町内にこれを製造する家多し。客中の作二首あり。 電路飛車入翠微、霊泉湧処客楼囲、山家今日勤工事、浴詠人携陶漆婦、 ︵電車の路を飛ぶような速さで山の緑濃いもやのなかに入る。霊妙な温泉の湧くところには旅館がとり囲ん で建つ。山中の家々ではこんにち物産製造の仕事にいそしみ、温泉を浴びる吟遊の人は陶器と漆器をさげて 帰ったのであった。︶ 黒谷両崖山作屏、浴余歩到尽頭停、楼懸螺蜂橋頭路、影落碧潭人亦青、
南船北馬集 第八編 ︵黒谷の両側の崖は塀のごとくたちふさぎ、温泉を浴びたのちの散歩は断崖に至ってはじめてとどまる。旅 館は蠕蜂橋のほとりにかかって建てられ、ひかりが深いみどりのふちにさし込んで、みる人もまた青みをお びるのである。︶ 黒谷より登ること三丁、新開の公園あり。午後、更に散策して白山社に登詣す。石階百八十六段あり。市街を 脚下にみる。 二十四日 晴れ。午前、温泉を辞し、大聖寺、小松等を経て金沢に着す。車中、南米チリ国にて相識れる千田 平助氏に相会せしは奇遇なり。金沢の旅舎は殿町山本屋に定む。この日、車中にて白山の夏なお雪をいただける を望み、一首を賦す。 鉄路遥々幾駅亭、看過加水越山青、回頭残雪懸天際、白岳魏然鎮北漠、 ︵鉄路を利してはるばるといくつかの駅舎を経てきた。その間に加賀の水の青さや越前の山の青さを見てき た。頭をふりむければ残雪が天の果てに浮いて見える。そこには白山が高大な姿でこの北海の地をしずめて いるのである。︶ 北国に入りて以来、田頭を飾れる蓮花草はその色濃紅にして、大いに人目を引く。また、加州にては耕地整理 数里にわたり、田畦の井然たるを見るも一興なり。いたるところ挿秩を始む。午後、日本の三大園の一たる兼六 公園を遊覧して、二首を浮かぶ。 再入北都探旧荘、依然兼六好風光、緑陰一鋸惜春尽、嘲臥声中送夕陽、 初 ︵再び金沢に入ってふるい家並みを訪ねた。当然のことながら兼六園の風光はまことによい。緑の陰を求め
て腰をかけ、しばらく春のゆくを惜しむうちに、夕刻を告げる嘲臥︹ラッパ︺の響くなかで夕日を見送ったの であった。︶ 封建時過夢一痕、城頭誰不動吟魂、当年百万石何在、今日纏留兼六園、 ︵封建時代もすぎたいまから見れば夢のなかの一事のごとくであり、したがって金沢城のほとりに立てば、 なんびとも詩魂を動かされずにはおられぬ。そのむかし加賀百万石と称された繁栄はどこにあるであろうか、 今日はわずかに兼六園としてその姿をとどめるばかりである。︶ これより鷹匠町棟岳寺を訪うて墓参をなす。妻の実家の曾祖父に当たれる吉田長叔およびその家族の墳墓あ り。帰路、尾山神社を参拝して宿舎に帰る。 五月二十五日︵日曜︶ 晴れ。金沢を去りて能州に向かう。砂丘あり、桃林あり、沼湖あり、これを経過して七 尾町に入る。農家みな挿秩に着手せり。 沙原一過水田長、五月能州已挿秩、鉄路尽辺聞汽笛、煙舟載客向和倉、 ︵砂原をひとたびすぎれば水田がはるかに続き、五月の能登はすでに田植えもおわっている。線路の尽きる あたりから汽笛が聞こえてきた。煙を吐き出しつつ船は客をのせて和倉に向かうのである。︶ 七尾より和倉までは二里、汽船の便あれども車行してここに至る。宿所は和歌崎旅館なり。当地にては第一と 称す。これに次ぐものに小泉、宇田、旭屋等あり。みな内湯を有す。内湯の客舎十六戸ありという。毎戸内湯を 備うると風光の明媚なるとは、中山温泉の和倉に及ばざるところなり。旅館の設備もまたよし。けだし北国第一 と称して可ならん。しかしてその泉質は温度沸騰点以上にして、多量の塩分を含むは豆州熱海の温泉以上なり。